天皇の歴史

2017年1月16日 (月)

百人一首と後鳥羽・順徳父子/天皇の歴史(15)

かつては「百人一首」のかるた取りが正月の風物詩であった。
核家族化やデジタルゲームの普及により、すっかり廃れたかと思っていたが、小学校でやっているという。
短歌や俳句などの短詩系文芸は、音韻が決めてなので、大いに結構なことだと思う。

1951(昭和26)年、「百人一首」と酷似している「百人秀歌」が存在することが確認された。
「百人秀歌」と「百人一首」を比較すると、以下のような小異がある。
①配列がかなり異なる
②「百人秀歌」は、「百人一首」における99・後鳥羽院、100・順徳院の歌がない。
⇒2008年7月26日 (土):「百人一首」の成立事情

「百人一首」と「百人秀歌」の異同の謎を追及したのが草野隆『百人一首の謎を解く 』新潮新書(2016年1月)である。
著者は「百人一首の謎」として、次の12を挙げている。

1 いつ出来たのか
2 誰が作ったのか
3 何のために作られたのか
4 神様や神話時代の歌、また仏様、高僧の歌がないのはなぜか
5 賀の歌、釈教の歌がないのはなぜか
6 不幸な歌人が多いのはなぜか・幸福な歌人の歌が少ないのはなぜか
7 和歌史に残るような実績のない歌人の姿が見えるのはなぜか
8 「よみ人しらず」の歌がないのはなぜか
9 その歌人の代表作が選ばれていないのはなぜか
10 後鳥羽院、順徳院の歌は、なぜ入っているのか
11 『百人秀歌』と『百人一首』の関係はどのようなものなのか
12 近代の研究者は、なぜ『百人秀歌』・『百人一首』の理解を誤ったのか

この他にも、織田正吉『百人一首の謎』講談社現代新書(1989年11月)等の著書が先行して存在しているが、草野氏の著書では触れられていない。
「謎」の認識は、人それぞれであろうが、フェアでないという見方はある。

三嶋大社で行われている古典講座は2015年度から「百人一首」が題材であり、百人一首の中から菊池義裕東洋大学教授がテーマに即して選歌し、解説をする。
2016年5月は『人生への感慨-世を見つめて』ということで、次の3首が選ばれた。

93:世の中は常にもがもな渚漕ぐあまの小舟の綱手かなしも(鎌倉右大臣)
99:人もをし人もうらめしあじきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は(後鳥羽院)
100:ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり(順徳院)

カルタで遊んでいた頃には、歴史的背景とか作者の身上とかは殆ど関心の埒外であったが、上記の歌の作者はいずれも悲劇的な生涯であった。
鎌倉右大臣とは実朝であり、3代将軍でありながら鶴岡八幡宮で公暁に暗殺された。
後鳥羽院は、北条義時と対立して承久の乱を起こしたが、敗れて隠岐島に配流され、19年間を過ごし崩御した。
順徳院は後鳥羽院の子であり、承久の乱では父に従ったが、佐渡島に配流され、在島21年の後に崩御した。

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「承久の乱」は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権である北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱である。

後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、幕府に鎮圧された事件。後鳥羽・土御門(つちみかど)・順徳の三上皇が配流され、朝廷方の公卿・武士の所領は没収された。乱ののち、朝廷監視のため六波羅探題を置くなど、幕府の絶対的優位が確立した。
デジタル大辞泉

武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになった。
山本七平氏は、貴族社会から武家社会への転換という意味で、「日本史上最大の事件」と見る。
後鳥羽天皇は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇である。
寿永2年(1183年)、太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚した。

壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだまま遂に回収されることが無かった。
伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた。その「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があって、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方がある(Wikipedia)。

順徳天皇は、鎌倉時代の第84代天皇である。
後鳥羽天皇と、寵妃藤原重子(修明門院)の皇子として生まれた。
父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた。
父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わり、7月、上皇は都を離れて佐渡へ配流となった。

「百人一首」は、冒頭に天智天皇、持統天皇を置き、最後を後鳥羽院と順徳院で締めた。
最初と最後に親子の作が並べられているわけである。
天智天皇は、中大兄皇子として大化改新を決行し、蘇我氏から権力を奪還して天皇家の権力を確立した。
後鳥羽・順徳の両院は、朝廷への権力の奪還を試みたが、逆に朝廷の権力を失う結果となった。
天智・持統の親子は、実質的な律令制の確立者であり後鳥羽・順徳の親子は、結果的に律令制を崩壊させることになったのである。
⇒2009年12月22日 (火):百人一首の構成

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2017年1月11日 (水)

九州と近畿の地名の類似性/やまとの謎(118)

記紀神話がまったくのフィクションではないとして、どの程度史実を反映したものだろうか?
シュリーマンは、幼少期に聞かされたギリシア神話に登場する伝説の都市トロイアが実在すると考え、実際にそれを発掘によって実在していたものと証明した。
同じことが記紀神話でも起こり得るだろうか?

天孫降臨は高天原から高千穂の降臨した。
高千穂については宮崎県の2カ所が有力であるが、高天原はどう考えられるか?

昔、安本美典氏の『高天原の謎―日本神話と邪馬台国 』講談社現代新書(1974年7月)を読んだことがある。
安本氏は古代史分野、特に邪馬台国問題に数理的方法論を取り入れたひとである。
⇒2008年11月16日 (日):安本美典氏の『数理歴史学』

邪馬台国と統計的推定という一種の「異質の組み合わせ」が魅力的だった。
高天原の謎―日本神話と邪馬台国 』は既に処分整理して手許にないが、『天照大御神は卑弥呼である -真説・卑弥呼と邪馬台国 』心交社(2009年12月)に同様の内容が収録されている。

私が興味深く思ったのは、北九州と奈良県の地名の類似性である。
先行業績として、鏡味完二氏の『日本の地名』角川新書(1964年)があるが、安本氏は、福岡県朝倉郡の旧夜須町のまわりと大和のまわりの地名の驚くほどの類似性を指摘した。
多伎元達也『日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け 』 たっちゃんの古代史とか出版(2014年2月)に以下のように図示されている。
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多伎元氏も、九州と近畿の地名の相似性について最初に知ったのが、安本美典氏の著書だったという。
安本氏は、次のような例を挙げて、位置関係と音の類似性は、とても偶然とは思えないとしている。
・北方の笠置山。三笠山、御笠山。住吉(墨江)神社。
・西南方の三潴、水間。
・南方から東南方の鷹取山(高取山)。天瀬(天ヶ瀬)。玖珠(国ス(木偏に巣)。

また『記紀』では、高天原に天の安川という川が流れていたとされる。
安はもちろん夜須に通じる。
安本氏は、高天原は、甘木や高木などの地名に姿をとどめているのではないか、として、旧甘木市(現朝倉市)こそ、アマの地であると推測している。

そして、このような地名の類似性は、九州から近畿への集団的移住を示すものであり、邪馬台国が東遷したと考えるのがリーズナブルであるとした。
そして、神武東征神話は、まさに邪馬台国東遷のことではないかとした。

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2017年1月 7日 (土)

舒明天皇の「国見の歌」の謎(2)/天皇の歴史(14)

舒明天皇の『万葉集』2番の「国見」の歌は謎の歌でもある。
⇒2016年9月29日 (木):象徴の行為としての「国見」/天皇の歴史(8)
⇒2016年11月24日 (木):舒明天皇の「国見の歌」の謎/天皇の歴史(11)

原文
高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇]
天皇登香具山望國之時御製歌
山常庭 村山有等  取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者
(A 扁左[忙]旁[可] は外字)
古田武彦 講演会

かな書きすれば、以下のようである。

やまとには,むらやまあれど,とりよろふ,あまのかぐやま,のぼりたち,くにみをすれば,くにはら は,けぶりたちたつ,うなはらは,かまめたちたつ,うましくにぞ,あきづしま,やまとのくには

古田武彦氏は、次のように問題を提起する。

 講演会では何回も「なぜ大和盆地で海が見えるのですか。」と質問を良く受けてまいりました。今までは「良く考えておきます。」とその度保留してきた。今回はこれを正面から取り組んでみて、確かにおかしい。万葉学者が「おかしくない。」と言ってみても、常識ある人間からはおかしい。池のことを海原と言い換えても、他にそのような例があるかと確認すれば全然無い。
 典型的なのは「山常庭 村山有等 取與呂布 やまとには むらやまあれど とりよろふ」の中の「とりよろふ」の解釈に疑問を持った。なぜかというと万葉学者の解釈にはいろいろ有るけれでも、どんな解釈をしても、大和盆地にいろいろある岳(やま)の中で天の香具山が一番目立っているという意味には違いない。しかしこれは知らぬが仏で、奈良県の飛鳥に行ったことのない人は騙されますが、実際に行ってみたら一番目立たない山である。澤潟久孝氏の『万葉集注釈』という本の写真を使わせていただきますが、畝傍山、耳成山は立派ですね。香久山は目立たない平凡な山ですね。これは写真に撮れば良く分かる。上の二つは良く撮れる。香久山は写真に撮れば逆にどこかと探すぐらい分からない。よほど現地の人に確認しないと分からない。この写真には立派に写っているが、素人が撮ればそんなにうまく写らない。
 しかも高さは百六十三メートルしかなく、奈良盆地自身が海抜百メートルぐらいありますので、山の麓(ふもと)に立っている高さは、五十メートル位であるので、私が歩いても頂上までさっと十分ぐらいで上がって行けた。
 非常に低い丘である。それが山の中でも目立つ山とは言えない。これは明らかにおかしいと、おそまきながら気が付いてきた。

そして、冒頭と末尾の2つの「やまと」に着目する。

山常庭 村山有等
蜻嶋 八間跡能國者

最後の「八間跡」と表記する大和は他に全くない。
その前の「蜻嶋」については次のように言う。

これについて私の『盗まれた神話』で分析したことがありまして、これは『古事記』などに「豊秋津島」と言う形で出てまいります。この「豊秋津」に対して私は、これは「豊」は豊国のことであろう。豊前・豊後の豊国。「秋」と言うのは、例の国東半島の所に安岐町、安岐川がある。大分空港のあるところである。そこの港が安岐港である。しかしこの「秋津」は安岐川の小さな川口の港ではなくて、関門海峡からやってくると、安岐町のところが別府湾の入口になる。そうすると「秋津」は別府湾のことではないか。別府湾を原点にして、九州島全体を指すのが「豊秋津島」ではないか。そう考えた研究の歴史がある。そうするとこの歌の「秋津島」とは九州島のことではなかろうか。そう思い始めた。これを考えたときはおっかなびっくりだったのですが、さらに進んで別府湾なら「海原」があって「鴎(かもめ)立ちたつ」も問題なし。のみならず「国原に煙立つ立つ」も問題がなくなった。私の青年時代、学校の教師をやったのが松本深志高校。そこに通うとき浅間温泉の下宿させていただいた。坂を下り学校に通うとき、冬など温泉のお湯がずっと溝に流し出され、それが冷たい外気に触れて湯気が立ち上がっていて、本当に「煙立ちたつ」の感じだった。そこをぬうようにして降り、なかなかいい光景だった。浅間温泉のような小さな温泉でそうだから、別府となりますと日本きっての温泉の一大団地。そうすると、まさに「煙立ちたつ」ではないか。学校の授業の時は「民のかまどの煙が立ちこめ」と注釈にもそう書いてあったので「家の煙」だと解説していた。しかし良く読んでみると、「海原は鴎立ちたつ」は自然現象。鴎が自然発生しているのと同じように、それと同じく「国原煙立ちたつ」も自然現象。煙が自然発生しているのと同じ書き方である。同じ自然現象です。

確かに温泉地では湯煙が見える。
私も霧島の鹿児島大学病院に入院していた時に、周辺が湯煙だらけだったのを思い出す。
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そして、別府に「天香具山」はあるのか、と問う。

まず「天 あま」はあった。別府湾に「天 あま」はあるのかと調べると、まずここは『倭名抄』では、ここら一帯は「安万 あま」と呼ばる地帯だった。この間行ってきた別府市の中にも天間(あまま)区(旧天間村)など、「あま」という地名は残っている。天間(あまま)の最後の「ま」は志摩や耶麻の「ま」であり、語幹は「あま」である。奈良県飛鳥は「天 あま」と呼ばれる地帯ではない。
 現在でも大分県は北海士郡・南海士郡というのが有り、南海士郡は大分県の宮崎県よりの海岸から奥地までの広い領域を占め、北海士郡は佐賀関という大分の海岸寄りの一番端だけになっている。点に近い所だけだが大分市や別府市が独立して喰いちぎられていったことは間違いない。これはもう本来は北海士郡は別府湾を包んでいたに違いない。それで海部族が支配していて「天 安万 あま」と呼ばれる地帯だったことは間違いがない。
 それでは香具山はどうか。別府の鶴見岳の存在です。
……
 ですからもう一言言いますと、「土蜘蛛 津神奇藻(つちぐも)」というばあいも、「くも」というのは「ぐ、く」は不思議な、神聖なという意味、「も」は(海の)藻のように集まっているという意味で、「くも」は不思議な集落という意味で、「津神奇藻(つちぐも) 土雲」は「港に神様をお祭りしている不可思議な集落」という誉め言葉なのです。それをへんな動物の字を当てて卑しめていて野蛮族扱いにイメージをさせようとしているのが『古事記』・『日本書紀』です。それを見て我々は騙されている。本来はこれは良い意味です。岡山県には津雲遺跡などがあります。そういう知識がありましたので、「ほ」は火山のことになる。
それで平安時代に、この鶴見岳の火山爆発があり『三代実録』にめづらしく詳しい状況が書いてあります。頂上から爆発し、三日三晩かけて吹っ飛び、大きい磐がふっ飛んできて、小さい岩でも水を入れる瓶ぐらいの大きさの岩が飛んできた。又硫黄が飛び散って川に流れて何万という魚が全部死んだという非常にリアルな描写があります。現在はそれで一三五〇メートルで、今は隣の由布岳より少し低い。その鶴見岳は吹っ飛ぶ前は高さが二千メートル近くあったのではないかという話があり、もしそうであれば鶴見岳の方が高かった。
 それで元に戻り、鶴見岳には火軻具土(ほのかぐつち)命を祭っている。「か」はやはり神様の「か」で神聖なという意味で、「ぐ く」は先ほどの不可思議なという意味であり、「神聖な不可思議な山」が「香具山(かぐやま)」である。火山爆発で神聖視されていた山である。もう一つ後ろに神楽女(かぐらめ)湖という湖がある。非常に神秘的な湖ですが、その神楽女湖も、「め」は女神、「ら」は村、空などの日本語で最も多い接尾語で、これもやはり語幹は「かぐ」である。だから並んで山も「かぐ」、湖も「かぐ」である。ですからやはり本来のこの山の名前は「かぐやま」であろう。「香具山(かぐやま)」とは本来ここで有ろう。それで安万(あま)の中にありますから「天香具山(あまのかぐやま)」である。

ちなみに「国見町」をWikipediaで検索すると、以下の3例が出てくる。

  • ・国見町(くにみまち) - 福島県伊達郡にある町。
  • ・国見町 (長崎県)(くにみちょう) - かつて長崎県南高来郡にあった町。現在の雲仙市の一部。
  • ・国見町 (大分県)(くにみちょう) - かつて大分県東国東郡にあった町。現在の国東市の一部。
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    2016年12月23日 (金)

    象徴天皇制の行方/天皇の歴史(13)

    天皇誕生日だ。
    今年は、天皇という制度をめぐって、画期となった年だと思う。
    天皇自らが、退位についての問題提起をして、その可能性について論議が重ねられている。
    ⇒2016年8月 9日 (火):天皇陛下のお気持ちと護憲/日本の針路(285)

    言うまでもなく、天皇のあり方は、日本国憲法をどう考えるかという問題と密接に関連している。
    憲法の第1章は次のようである。
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    Wikipedia

    天皇自身は、「このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ」と述べられ、、「象徴天皇」のあり方を自問自答した。

    「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」「天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じ」、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて」と自身の考えを述べられた。

    天皇退位をめぐる政府の有識者会議が設けられ、専門家16人からの聞き取りを終え、年明けの論点整理を待つ段階になっている。
    ヒアリングでは退位に賛成9人(1人条件付き)、反対7人であった。
    ⇒2016年12月 5日 (月):退位に関する有識者会議に対する疑問/天皇の歴史(12)

    賛否は天皇観の違いに由来している。
    私は、八木秀次氏のような「神武天皇のY染色体の継承」というような論理には反対である。
    遺伝子の優劣を問題にするのは、優生思想に繋がると考えるからである。
    新聞読者欄への投稿に問題の本質を衝いていると思われるものがあった。
    161216
    東京新聞12月16日

    明治憲法の「国家元首」「大元帥」「統治権の総攬者」から、日本国憲法の「日本国の象徴」「国民統合の象徴」に変わった。
    天皇について『満州国演義』第4巻『炎の回廊』新潮文庫(2016年1月)の中に、次のような箇所がある。
    新聞連合の香月信彦が、敷島四兄弟の長兄の太郎に言う。

    「天皇は日本人が産み出した最高の虚構なんだよ!」
    解説を書いている高山文彦氏は次のように書いている。

    私は本巻で船戸さんが最も登場人物に言わせたかったのは、これではないかと思っている。日本人を日本民族に、ゆるやかな自治連合国家であった日本列島を大日本帝国にまとめあげていくための「最高の虚構」が、どれだけの人びとの生命を奪い、苦しみを与えてきたか。いや、このような「最高の虚構」をなぜわれわれは信じ、虚構を真実として、天皇を現人神などとしてあがめまつってしまったのか。現代の視点から見れば大日本帝国は明らかに超カルト国家であり、どこまでも生身の人間であったヒトラーを信奉したドイツ国民にくらべても極めて異常な国民、国家であった。
    香月信彦はこのようにつづける。
    「現人神・天皇という虚構は立憲君主国家を目指す伊藤博文と兵営国家を作り上げようとした山形有朋の妥協の産物として生まれた。(略)明治維新からたった六十八年間で日本がこれだけの強国となったのはこの虚構のお陰だ」
    香月信彦はしかし「現人神・天皇」を否定しているのではない。国体明徴運動が天皇機関説を排撃すればするほど、天皇とはなにかという問題につきあたり、論理的説明が必要になってくる。するとどうなるか。「最高の虚構」が暴露されてしまう。
    「馬鹿げているとは思わないか? 虚構は虚構としてそっとしておかなきゃならない。最高の虚構はなおさらだ」

    吉本隆明の「共同幻想論」を想起するが、「日本国の象徴」「国民統合の象徴」を、自然人としてどう具現化して行き続けるか?
    するか?
    一部の専門家が言うように、「宮中でお祈りするだけ」でいい、ということではないだろう。

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    2016年12月 5日 (月)

    退位に関する有識者会議に対する疑問/天皇の歴史(12)

    天皇陛下の退位に関する安倍晋三首相の私的諮問機関「天皇の公務負担軽減等に関する有識者会議」(座長・今井敬経団連名誉会長)が、計3回、16人におよぶヒアリングを終了した。
    有識者会議のメンバーは以下の通りである。
    Ws000001
    官邸サイト

    何を基準に選んだのであろうか?
    それぞれ社会的地位はあるのだろうが、天皇制に関して造詣が深いわけではなさそうである。
    一般社会を代表しているとも言えない。
    この有識者会議で見解を披歴したメンバーおよびそれぞれの意見は以下のようである。
    Photo
    退位、専門家の賛否拮抗…計16人の聴取終了

    全員を知っているわけではないが、×印の意見を表明した平川祐弘、大原康男、渡部昇一、桜井よしこ、八木秀次氏らは、産経新聞御用達として知られる。
    日本会議と親和性の高い人たちと言っても良い。
    有識者会議の人選も分からないが、「専門家」の基準も分からない。
    八木秀次氏の『「女性天皇容認論」を排す』清流出版(2004年12月)の一部である。
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    八木氏は、「神武天皇のY染色体が継承されていることが天皇たるゆえん」と、いかにも生物学的な根拠のあるように語る。
    Y染色体などというといかにも科学的な認識に基礎を置いたような議論であるが、「皇祖」が神武天皇ではなく天照大神とされてきたことはどう説明するのであろうか?
    神武の実在性、継体天皇の出自、壬申の乱の実態等をどう説明するのか?

    確かにY染色体は、男系を通じて継承される。
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    DNAでわかった 日本人のルーツ (別冊宝島 2403)』宝島社(2016年11月)

    しかし、遺伝的要素の影響は、7代経れば1%以下である。
    遺伝以外のファクターが圧倒的に大きいのである、Y染色体の継承を声高に論ずる人の認識を疑う。
    ⇒2007年12月23日 (日):血脈…③万世一系

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    2016年11月24日 (木)

    舒明天皇の「国見の歌」の謎/天皇の歴史(11)

    舒明天皇の『万葉集』2番の「国見」の歌は有名であるが、謎の歌でもある。
    ⇒2016年9月29日 (木):象徴の行為としての「国見」/天皇の歴史(8)

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    万葉の旅 大和三山

    大和には 群山あれど 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

    率直に言って、大和に「海原は 鴎立ち立つ」とは理解しがたい。
    一般には次のように解説されている。

    江戸初期の学者契沖も、「和州には海なきを、かくよませ給ふは、彼山より難波の方などの見ゆるにや」と訝しがっています。標高150メートル前後の香具山から、大阪湾が見えるなんてことがあるのでしょうか。
     契沖の疑問に対し、少し後の時代の国学者たちは、香具山の麓にある埴安(はにやす)の池を海といったのだ、と解答しました。この説は広く受け入れられ、以来、この「海」は埴安の池ということにほぼ落ち着いているようです。
     最も新しい個人万葉全注釈である伊藤博氏の『萬葉集釋注』でも、この句について次のように注記しています。

    香具山の周辺には、埴安、磐余など、多くの池があった。「海原」はそれを海とみなしたものであろう。「かまめ」は「かもめ」の古形で、その池のあたりを飛ぶ白い水鳥をかもめと見なしたのか。

     そして、舒明天皇の国見歌は、「海と陸によって成る"日本国"全体の映像を」大和にになわせたもの、と見ています。奈良盆地の小風景に日本国全体を幻視している、というわけです。
    天の香具山と「海原」

    苦しい解釈である。
    別解としては、吉本隆明が『ハイ・イメージ論』で紹介した樋口清之の説がある。

    樋口氏は、地下の地質調査から判明した事実として「ほぼ長方形をしている現在の大和平野は、今から約一万年余り前、即ち洪積期の最終末の頃、山城平野に口を開いている海湾であった」ことを指摘しています。同書に載っていたランドサット映像からの想像図をたよりに、約1万年前の畿内地方の概念図を作ってみました。
    Photo_4

     上の図の水色の部分が、当時海湾であったと推定される領域です。樋口氏の説をさらに聞きましょう。

    海の塩水は大阪湾を満し、山城平野を満し、現在の奈良市の北にある奈良山の丘陵はなくて、それを越えて大和湾に北から南へ湾入していた。後に紀伊半島の地盤隆起に従って、大和平野の地盤は次第に海面から離れて行くことになった。(中略)つまり、大和盆地はもと湖であったが、地盤の隆起につれて排水が進行すると湖面が次第に低下し、最後には干上がって浅い摺鉢状の盆地になったと理解されます。(樋口清之「日本古典の信憑性」『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)

     簡単にまとめると、洪積世末期から沖積世にかけて、大和(奈良)盆地は、

     海湾→海水湖→淡水湖→盆地

    と移り変わったことになります。
     奈良盆地の標高45メートル線以下には、奈良時代以前の住居跡や遺物は発見されておらず、それ以下の低地は大和盆地湖の名残りで、湖水や湿潤地であった、と樋口氏はいいます。そして舒明天皇の国見歌に言及し、何十回も香具山に登ってみたが、埴安の池は見えなかった、とのべ、「むしろここから見える海原は、国原に対して海原と表現したもので、かつての盆地湖の名残りとして、丁度今の郡山の東の方が奈良朝まで湿潤の地であり、香具山からはこれが見え、また鴎の立つ姿も見えたと思う」と論じます。
    天の香具山と「海原」

    舒明天皇は、Wikipedia によれば推古天皇元年(593年) - 舒明天皇13年(641年)とされる。
    この頃には大和には鴎が群れ飛んでいたのだろうか?

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    2016年10月26日 (水)

    舒明天皇と皇統/天皇の歴史(10)

    舒明天皇は『万葉集』2番歌、いわゆる国見の歌の作者として知られる。
    ⇒2016年9月29日 (木):象徴の行為としての「国見」/天皇の歴史(8)
    舒明天皇は推古天皇を継ぐ第34代天皇で、系譜は以下のようである。
    先代が推古天皇、次代が皇極天皇で、女性天皇に挟まれる形である。
    Photo
    『日本の女帝の物語 ――あまりにも現代的な古代の六人の女帝達』 橋本治 

    推古天皇は、在位36年余だったが、628年4月15日に崩御した時、継嗣を定めていなかった。
    蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。
    すなわち舒明天皇である。

    蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとしたという説と他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がある。
    また近年では、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)と、庶子である用明天皇の直系(山背大兄皇子)による皇位継承争いとする見方もある。
    いずれにせよ、政治の実権は蘇我蝦夷にあったと言える。

    しかし、舒明天皇の皇后が次の皇極天皇であり、大化の改新を実行した孝徳天皇を挟んで斉明天皇として重祚している。
    百済救援のための航海中に亡くなるという対外的にも波乱の時代であった。
    斉明天皇下の百済救援政策が、白村江での大敗という存亡の危機をもたらした。
    そして「壬申の乱」という内政上の大転換に至るのである。

    『日本書紀』の系図上、天智、天武の両天皇の父であるから、古代史におけるキーパソンということになる。
    『万葉集』の巻頭に、雄略天皇の次に舒明天皇が置かれている。
    編者の意図はどうことだったのだろうか?
    Wikipediaでは、編者について、次のように解説している。

    『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。
    『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、内部徴証から、おおむね以下の順に増補されたと推定されている。

    1. 巻1の前半部分(1 -53番)…
      原・万葉集…各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇や柿本人麻呂が関与したことが推測されている。
    2. 巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集
      持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。元明天皇や太安万侶が関与したことが推測されている。
    3. 巻3 - 巻15+巻16の一部増補…15巻本万葉集
      契沖が万葉集は巻1 - 16で一度完成し、その後巻17 - 20が増補されたという万葉集二度撰説を唱えて以来、この問題に関しては数多くの議論がなされてきたが、巻15までしか目録が存在しない古写本(「元暦校本」「尼崎本」等)の存在や先行資料の引用の仕方、部立による分類の有無など、万葉集が巻16を境に分かれるという考え方を裏付ける史料も多い。元正天皇、市原王、大伴家持、大伴坂上郎女らが関与したことが推測されている。
    4. 残巻増補…20巻本万葉集
      延暦2年(783年)頃に大伴家持の手により完成したとされている。

    ただし、この『万葉集』は延暦2年以降に、すぐに公に認知されるものとはならなかった。延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり家持も連座したためである。その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806年)以降にようやく完成したのではないか、と推測されている。
    「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しない。この理由については「延暦4年の事件で家持の家財が没収された。そのなかに家持の歌集があり、それを契機に本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから『万葉集』が史料にみえるようになった」とする説 などがある。

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    2016年10月 5日 (水)

    天皇制の始まりを告げる儀式の跡か?/天皇の歴史(9)

    奈良県橿原市にある飛鳥時代の都の跡、藤原宮跡で大型の旗を立てたと見られる穴が見つかった。
    調査した奈良文化財研究所は古代の歴史書に記された重要な儀式で使われた可能性が高いと見ている。

    Ws000000律令国家の成立を告げた701年(大宝元年)の元日朝賀で使われたとみられ、専門家は「国の形が完成したことを内外に宣言した儀式の様子が、具体的にわかる発見」と評価する。
    同年には日本最初の法典・大宝律令が完成し、中央集権体制が整ったとされる。この年の元日朝賀について、古代の歴史書「続日本紀」は、文武天皇が朝鮮半島の使節らを招き、7本の幢幡を立てたと伝える。
    律令国家成立祝う旗、藤原宮跡で柱穴7個確認

    『続日本紀』の大宝元(701)年の元旦に朝賀の儀式の様子は、宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206)に次のように記述されている。

    春正月一日、天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀式の様子は、大極殿の正門に烏形の幢(先端に烏の像の飾りをつけた旗)を立て、左には日像(日の形を象どる)・青竜(東を守る竜をえがく)・朱雀(南を守る朱雀をえがく)を飾った幡、右側に月像・玄武(北を守る鬼神の獣頭をえがく)・白虎(西を守る虎をえがく)の幡を立て、蕃夷(ここでは新羅・南嶋など)の国の使者が左右に分れて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。
    ⇒2008年9月 9日 (火):被葬状態の謎と大宝元年正月の朝賀

    朝賀の様子は以下のように推測されている。

    Ws000001
     発掘してきた奈良文化財研究所の松村恵司所長は「今回の発掘で律令国家完成のシンボルがようやく見つかった」と言う。南門前では2008年以降、一列に並ぶ16個の旗竿跡が見つかったが、続日本紀に記された本数と異なっていた。松村所長は「遺構と文献が合致する点で、今回の発見は非常に重要だ」と強調する。
    Ws000002 奈良時代中期以降の平城宮跡などの遺構や、平安時代の即位式を描いたとされる絵図は、旗竿がいずれも一列に並んでいた。藤原宮跡では中央に柱穴1個、左右に三角を形作るように3個ずつ柱穴があった。大阪府立弥生文化博物館の黒崎直館長(考古学)は「常識に一石を投じた」と評する。
     さらに興味深いのは、当時の権力層に与えていた古代中国由来の「陰陽五行思想」の影響だ。続日本紀は701年の儀式について、東側に日像(にちぞう)(太陽)▽四方を守る「四神(しじん)」のうちの青龍と朱雀(すざく)の3本の旗竿を、西側に月像▽四神のうちの玄武と白虎(びゃっこ)の3本を立てたと記す。
    律令国家儀式、鮮やかに 続日本紀、記述裏付け 藤原宮、旗竿跡発見

    先日復元公開されたキトラ両古墳でも、東に日像と青龍、西に月像と白虎を描くなど共通
    した思考が窺える。
    ⇒2016年9月22日 (木):キトラ古墳の極彩色壁画/やまとの謎(114)
    実質的な天皇制の始まりを告げる儀式だったのかも知れない。

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    2016年9月29日 (木)

    象徴の行為としての「国見」/天皇の歴史(8)

    天皇、皇后両陛下が、岩手国体総合開会式などに出席するため、岩手県を訪問し、東日本大震災の被災地で復興状況を視察された。
    震災後、初めて訪れた大槌町の「三陸花ホテルはまぎく(旧浪板観光ホテル)」では、出迎えた千代川茂社長に、天皇陛下が「頑張りましたね」とねぎらいの言葉を掛けられた。
    このニュースに接し、天皇陛下の生前退位(譲位)へのお気持ちの表明の中の次の一節を思った。

    私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

    「象徴」という言葉はWikipediaでは次のように説明されている。

    象徴(しょうちょう)とは、抽象的な概念を、より具体的な事物や形によって、表現すること、また、その表現に用いられたもの。一般に、英語 symbol(フランス語 symbole)の訳語であるが、翻訳語に共通する混乱がみられ、使用者によって、表象とも解釈されることもある。

    • ハトは平和の象徴である - 鳩という具体的な動物が、平和という観念を表現する。
    • 象徴天皇制 - 日本国憲法第1条では「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」と規定される。

    例示されたように、天皇陛下が日本国憲法第1条を踏まえて発言されていることに意味があるのではなかろうか。

    「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」とは、端的に言えば日本という国のアイデンティティということであろう。
    それを皇国史観では「国体」と呼んだ。
    そして、小堀桂一郎日本会議副会長は「生前退位は国体の破壊に繋がる」としたのである。
    ⇒2016年9月 5日 (月):「国体」とはどういうものか/天皇の歴史(4)

    今上天皇は、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅」を「象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」と言っておられるのだ。
    これは古代において、「国見」と呼ばれた行為を連想させる。
    デジタル大辞泉は「国見」を次のように解説している。

    天皇や地方の長(おさ)が高い所に登って、国の地勢、景色や人民の生活状態を望み見ること。もと春の農耕儀礼で、1年の農事を始めるにあたって農耕に適した地を探し、秋の豊穣を予祝したもの。
    「天の香具山登り立ち―をすれば」〈万・二〉

    用例の歌は、『万葉集』冒頭の第二首の舒明天皇作と伝えられている歌である。

    大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原はかまめ立ち立つうまし国そあきづ島大和の国は

    小学館「日本古典文学全集萬葉集」は次のように訳している。

    大和にはたくさんの山々があるが、特に頼もしい天の香具山に登り立って国見をすると、広い平野にはかまどの煙があちこちから立ち上がっている、広い水面にはかもめが盛んに飛び立っている。本当によい国だね(あきづ島)この大和の国は

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    Photo_2
    藤原京を歩く~藤原宮跡・香久山

    香具山から見れば、いわゆる大和が一望できると思われる。
    ただし藤原京は天武朝に計画され、持統朝に実現したと考えられている。
    ⇒2008年1月 2日 (水):藤原京の造営
    したがって、舒明天皇が藤原京を眺めたということではない。

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    2016年9月19日 (月)

    『日本書紀』と「壬申の乱」/天皇の歴史(7)

    大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子(天智天皇の長子)が争った「壬申の乱」は、古代史最大の争乱と言われる。
    『日本書紀』の天武天皇紀は例外的に二巻で構成されている。
    上巻が「壬申の乱」、下巻がそれ以降である。
    つまり「壬申の乱」は、『日本書紀』でも特別な扱いである。
    瀧音能之『封印された古代史の謎大全』青春出版社(2015年12月)で、その概略を見てみよう。

    ことの発端は、病が篤くなった天智天皇が大海人皇子に位を譲ると言ったことである。
    大海人皇子は固辞して、仏道修行のため吉野に入る。
    天智天皇は大津宮で亡くなると、大海人皇子は村国連男依らを美濃国へ派遣し、東国の兵の確保と不破道の閉鎖を命じ、自身も鸕野讃良皇女(後の持統天皇)らと東国へ出発する。
    その後、高市皇子(大海人皇子の長男)が加わり、体制が次第に整って行った。

    大海人皇子が不破に入ると、尾張国守の小子部連鉏鉤が帰順し、大伴吹負が大海人皇子側について挙兵した。
    体制を整えた大海人皇子側は、大和と大津に向かって進撃する。
    そして大友皇子軍と瀬田橋で激闘の末、大海人皇子側が勝利し、大友皇子は山崎で自殺する。

    「壬申の乱」の概要は、下図に要領よくまとめられている。
    2

    また、争った大海人皇子と大友皇子の関係は下図のようである。
    Photo

    『日本書紀』の記述は精細であるが、「壬申の乱」についての不明点は多い。
    ⇒2008年1月21日 (月):壬申の乱…(ⅰ)研究史

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