文学碑を訪ねる

2018年3月21日 (水)

日本の「闇」の核心(6)/日本の針路(399)

森友学園への国有地売却問題に関する参院予算委員会の集中審議は、茶番を通り越して無惨と言うべきか?
安倍首相は繰り返し、自身及び昭恵氏の関与を否定した。
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東京新聞3月20日

決裁文書書き換えは、自身と妻がこの問題に関与していれば首相も国会議員も辞めるとの首相発言がきっかけでは、との質問に「私の発言がきっかけとの仮設が事実なら、全ての削除された箇所に妻の記述がなければならない」と述べた。
まったく意味不明の答弁と言わざるを得ない。
やっぱりこの人は、「三段論法」という論理のイロハすら分からないような頭脳の持ち主なのだ。

もちろん、必要条件も十分条件も理解していないから、規制委が適合と判断した原発は再稼働すべきだ、ということになる。
⇒2015年2月13日 (金):高浜原発の再稼働を許すな/技術論と文明論(20)
2015年8月14日 (金) 原発再稼働とメディアの姿勢/原発事故の真相(133)

私はバカな独裁者に関するジョークを思い出したが、多くの人が同じ印象を持ったらしい。
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バカな独裁者とは言い換えれば裸の王様である。
安倍首相に「王様は裸だ!」と教える自民党員はいないのだろうか?
2017年4月 8日 (土) 森友疑惑(42)「裸の王様」の末路/アベノポリシーの危うさ(179)
⇒2013年10月17日 (木):安倍首相は裸の王様か?/アベノミクスの危うさ(16)
⇒2014年11月27日 (木):続・安倍首相は裸の王様か?/日本の針路(76)
⇒2015年12月12日 (土):続続・安倍首相は裸の王様か?/アベノミクスの危うさ(64)

自民党の質問者が青山繁晴、和田政宗の2人というのも笑える。
他に安倍首相をサポートする人材はいないのだろうか?
和田政宗氏は、以下のように、ある意味の当事者というべき人物である。
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2018年3月 5日 (月) 安倍VS朝日の最終戦争/日本の針路(386)

しかも和田氏はわざわざ全官僚を敵に回すような質問をして墓穴を深くした。
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2017年1月10日 (火)

川田順歌碑・裾野市/文学碑を訪ねる(5)

川田順は、戦前に住友財閥総本社の常務理事を務めたビジネスマンであった。
1907年東京帝国大学法学部政治学科卒業。
住友の新卒の第1期定期採用がスタートした際に入社した。

1930年(昭和5年)に理事就任後、同年一足飛びで常務理事に就任、
1936年(昭和11年)、鈴木馬左也の後任として住友の総帥の座である総理事就任がほぼ確定していたが、自らの器に非ずとして自己都合で退職した。
佐佐木信綱門下の歌人として「新古今集」の研究家としても活躍した。
京都大学経済学部教授・中川与之助夫人で歌人の鈴鹿俊子との恋に苦しみ、自殺未遂を起こし、いわゆる“老いらくの恋”と騒がれた末に結婚した。

歌碑が、裾野市の富士山を仰ぐ「忠ちゃん牧場」の入口にある。
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ビジネスマンとして『住友回想記』図書出版社(1990年2月)を遺した。

忠ちゃん牧場は、標高約800mの富士山麓にあ約60000㎡の牧場で、牛や羊が放牧され、牧歌的な風景が広がる。
併設されるジンギスカンハウスでは、名物のジンギスカンや人気のソフトクリ-ムが食べられる。
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忠ちゃん牧場 ジンギスカンハウス

すぐ近くに「富士サファリパーク」がある。







1942年4月に歌集『鷲』『国初聖蹟歌』で第1回帝国芸術院賞受賞[2]。1944年に朝日文化賞受賞。戦後は皇太子の作歌指導や歌会始選者をつとめた。

1948年1963年日本芸術院会員。従曾孫佐良直美がいる。

、川田ら東大法科出身者は7名、京大法科出身者が5名の計12名が入社した。東京帝国大学では当初文科文学部)に所属し小泉八雲の薫陶を受けた。小泉八雲の退任を受け「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」と法科(法学部)に転科したという。

元来、

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2016年12月 1日 (木)

水原秋櫻子句碑@十里木高原/文学碑を訪ねる(4)

水原秋櫻子は、近代俳句の代表者の1人と言って良い。
東京帝国大学医学部を卒業し、昭和医専の教授になり、家業を継ぐと共に、宮内庁の典医になって多くの皇族の子供を取り上げるというエスタブリッシュメントであったが、東大在学中から俳句に取り組み、大正末期の1924年から「ホトトギス」に参加した。
昭和初期には、山口誓子、阿波野青畝、高野素十と共に、頭文字をとって「4S」と呼ばれ、高浜虚子からも大いに嘱望されていた。

「ホトトギス」でエース級の活躍をしていた秋櫻子は、客観写生と唱える虚子やそれを支持する素十と作句観を巡って対立し、1931(昭和6)年に「ホトトギス」を脱退して独立した。
1934(昭和9)年には、主宰誌の「馬酔木」を創刊し、「ホトトギス」に対抗する新興勢力の拠点となったが、秋櫻子が「ホトトギス」を脱退した理由は、以下のようだった。

ホトトギスには「客観写生」といふ標語があった。
……
まづ客観写生を修練させるといふ教育法はよいのであるが、ホトトギスに於てはいつまで経つても客観写生の標語だけが掲げられていて、そのさきの教育はなかつた。つまりどこまでも大衆教育であり、凡才教育であつて、その中から傑れた作者を出さうといふ教育ではなかつた。

つまり、秋櫻子は、高浜虚子が、みな一様に大衆教育、凡才教育の対象とみることに対し、大衆とは異なる存在として自覚している自身が満足しなかったということだろう。
さらに、虚子自身は、必ずしも客観写生の領域に留まっているわけではないのに、「ホトトギス」同人たちは、異を唱えることなく従っていることにも不満だったはずだ。
「ホトトギス≒俳壇」に対する反逆であり、新興俳句の烽火であった。
⇒2007年12月26日 (水):当麻寺…③秋櫻子

裾野市の十里木という別荘地に、秋櫻子の句碑が建っている。
十里木で開かれた句会で詠まれた句だという。
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十里木高原は、源頼朝が巻狩(大勢での動物の狩り)をした舞台であり、頼朝の井戸と称する遺跡がある。
秋櫻子の句碑は、頼朝の井戸の敷地内にある。
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2015年10月24日 (土)

川田順@忠ちゃん牧場・裾野市/文学碑を訪ねる(3)

川田順(1882年(明治15年)1月15日 - 1966年(昭和41年)1月22日)は、住友総本社常務理事という実業家にして歌人。
浅草に生まれ、府立四中、一高を経て、1907年東京帝国大学法学部政治学科卒業した。
東京帝国大学では当初文科(文学部)に所属し小泉八雲の薫陶を受けたが、八雲の退任を受け「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」と法科(法学部)に転科したという。
住友の第1期定期採用12名の1人だった。

1930年(昭和5年)に理事就任後、同年一足飛びで常務理事に就任、1936年(昭和11年)、鈴木馬左也の後任として住友の総帥の座である総理事就任がほぼ確定していたが、自らの器に非ずとして自己都合で退職し。
その間佐佐木信綱門下の歌人として「新古今集」の研究家としても活躍。
1942年4月に歌集『鷲』『国初聖蹟歌』で第1回帝国芸術院賞受賞、1944年に朝日文化賞受賞。

1948年京都大学経済学部教授・中川与之助夫人で歌人の鈴鹿俊子との恋に苦しみ、自殺未遂を起こした。
68歳の川田順が敏子と恋愛、家出し、「墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何ものもなし」と詠んだことから「老いらくの恋」という語が生まれた。後に結婚。
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歌碑は、裾野市の忠ちゃん牧場の入口に立つ。
同牧場は雄大な富士山をバックに大きく広がる牧場だ。
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2015年10月11日 (日)

明石海人@千本松原/文学碑を訪ねる(2)

明石海人の名は、どの程度知られているのだろうか?
私は知人に研究者がいるので比較的詳しく知っているが、一般には余り知られていないのではなかろうか。

明石海人(本名:野田勝太郎)は沼津市に生まれ、沼商から師範学校をへて、教職に付き、結婚し、長女が生まれ、これからという26歳の時にハンセン病を発病します。
名を捨て、家族もすて(素性を隠し)明石楽生病院から長島愛生園での療養生活をしいられます。32歳で長島の地に来た海人はかなりの病状悪化にもかかわらず、短歌を勉強し、34歳ごろから短歌を発表しその才能が開花しますが、歌集「白描」を世に出した年、昭和14年、37歳の短い生涯を閉じました。
慟哭の歌人とは・・・

沼津の千本松原の中に歌碑がある。
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さくら花かつ散る今日の夕ぐれを幾世の底より鐘のなりくる
ゆくりなく映画にみればふるさとの海に十年のうつろいはなし
シルレア紀の地層は沓きそのかみを海の蠍の我もすみけむ

3首が建っている。
出身の沼津商業高校の同窓会には、「明石海人の会(瀬川裕市郎代表)があって、活発に活動している。
同校の校庭にも歌碑があるが、9月28日、説明板が設置された。
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沼津朝日新聞10月1日

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2015年9月29日 (火)

若山牧水@千本松原/文学碑を訪ねる(1)

文学碑というカテゴリーを新しく設定した。
第1回は、沼津市千本松原の中に立つ若山牧水歌碑である。
牧水は、1885年(明治18年)8月24日に、宮崎県の医師・若山立蔵の長男として生まれた。
旧制中学(宮崎県立延岡)時代から、短歌と俳句を始めた。

1920年(大正9年)沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住した。
1926年(大正15年)詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊すると共に、静岡県が計画した千本松原伐採に対し、新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち、計画を断念させた。

1928年夏頃より病臥し、自宅で死去した。享年43歳。
沼津の千本山乗運寺に埋葬された。戒名は古松院仙誉牧水居士。
18歳のとき、号を牧水としたが、由来は「当時最も愛していたものの名二つをつなぎ合わせたものである。牧はまき、即ち母の名である。水はこの(生家の周りにある)渓や雨やから来たものであった」という。
⇒2012年9月24日 (月):秋の夜は「牧水」がいい

沼津を始め伊豆や箱根の風光を愛した。
村山道宣編『若山牧水―伊豆・箱根紀行』木蓮社(2003年12月)がある。

千本松原にある歌碑は、代表歌として広く愛されている次の歌である。

幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく

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もちろん私の好きな歌でもある。
⇒2013年9月17日 (火):若山牧水/私撰アンソロジー(28)

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