法隆寺・聖徳太子

2014年11月 6日 (木)

聖徳太子と弁証法/法隆寺・聖徳太子(2)

聖徳太子の逸話には眉に唾をつけたいようなものが多いがその真偽はとりあえず置いておく。
⇒2013年4月10日 (水):教科書の聖徳太子像/やまとの謎(85)
人口に膾炙している業績の筆頭が、「十七条憲法」の制定であろう。
Wikipedia の解説を引用する。

『日本書紀』、『先代旧事本紀』には、推古天皇12年4月3日(ユリウス暦604年5月6日)の条に「十二年…夏四月丙寅朔 戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」と記述されており、『日本書紀』には全17条が記述されている。この「皇太子」は、「廄豐聰爾皇子」すなわち聖徳太子を指している。
内容は、官僚や貴族に対する道徳的な規範が示されている。政府と国民の関係を規律する近代憲法とは異なり、行政法・行政組織法としての性格が強い。儒教・仏教の思想が習合されており、法家・道教の影響も見られる。

有名な第1条は、『日本書紀』の原文は以下の通りである。

一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。

書き下し文は以下のようである。

一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

「聖徳太子謎紀行」というサイトでは、次のように要約している。

人と争わずに和を大切にしなさい

一般には、「仲良きことは美しき哉」という武者小路実篤の色紙のように解されている。
しかし、聖徳太子「和を以て貴しとなす」の真意というサイトは次のように説明している。

第1条全体の主旨は、この言葉を知っている多くの日本人が抱いているイメージとはやや違っている。
人はえてして派閥や党派などを作りやすい。そうなると偏った、かたくなな見方にこだわって、他と対立を深める結果になる。そのことを戒めているのだ。 それを避けて、人々が互いに和らぎ睦まじく話し合いができれば、そこで得た合意は、おのづから道理にかない、何でも成しとげられる-というのだ。
ただ「仲良く」ということではなく、道理を正しく見出すために党派、派閥的なこだわりを捨てよ、と教えているのだ。
■これは、じつは最後の条文、第17条と対応している。第17条の内容は次の通り。
「重大なことがらはひとりで決定してはならない。必ず多くの人々とともに議論すべきである。…(重大なことがらは)多くの人々と共に論じ、是非を検討してゆくならば、その結論は道理にかなうものになろう」
このように重大事の決定に独断を避け、人々と議論するにしても、各人が党派や派閥的な見方にこだわっていては、対立が深まるばかりで道理は到達できない。
したがって重大事の決定にあたり、公正な議論で道理にかなった結論を導く前提として第1条があるのだ。

第1条も第17条も、討論や議論の効用を高く評価している。
世の中のことは、たいてい、あちら立てれば、こちら立たずというトレードオフになっている。
ヘーゲルは、2つの正反対で相いれない意見の折り合いをつけ、違いを克服して優れた結論を見つけ出す方法として、弁証法を確立した。
⇒2012年5月 9日 (水):リハビリの弁証法/闘病記・中間報告(49)
⇒2011年1月11日 (火):起承転結の論理/知的生産の方法(6)
⇒2008年11月22日 (土):帰無仮説-「否定の否定」の論理

十七条憲法の第1条と17条を、立場の違う人間が議論した上で独断を避けて結論を出せ、と解するならばほとんど弁証法的な考え方ということができる。
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白取春彦『思考のチカラをつくる本』三笠書房(2014年10月)

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2014年7月28日 (月)

白鳳文化の代表としての夢違観音/法隆寺・聖徳太子(1)

静岡市美術館で、6月14日~7月27日の会期で「法隆寺展」が行われていた。
7月15日に一部展示の入れ替えがあるということで、前期と後期に行ってみたが大きな入れ換えはなかった。
出展の目玉は、白鳳美術の典型とされる「夢違観音」像と、聖徳太子信仰関連である。
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三嶋大社で開講されている「古典講座」の今年度と通年テーマは「万葉の挽歌」であるが。7月27日の第4回は『行路死を悼む聖徳太子の歌』だった。
前日に後期展示を見てきたばかりだったので、偶然とはいえ驚き、菊地義裕東洋大学文学部教授の名調子の講義もいつもに増して頭に入った。

ところで、夢違観音(ゆめちがい、もしくはゆめたがい)は、悪い夢を良い夢に変えてくれる、あるいは悪夢から逃れさせてくれるということからのネーミングである。

高さ86.9cmの銅造で、やや鋭角的な唇に優しほほえみをうかべている。
上半身裸形で身体は豊かな厚みがあり、天衣はゆるやかな曲線で、左手には小さな水瓶を持っている。
現在は法隆寺の大宝蔵院にあるが、江戸時代の宝永7年(1710年)以降は東院絵殿の本尊として祀られていたという。

この像について、以下のような解説がある。

白鳳時代も後期になると、仏像の人間臭さが目立ってきて、豊満な肉体を感じさせるものが多く現れる。その代表的なものは、法隆寺宝蔵にある夢違観音だ。ふっくらとした顔、肉付きのよい体つきが、いかにも人間的な地上性を感じさせる。
白鳳時代の仏像3:夢違観音

この解説にあるように、夢違観音像は白鳳美術の代表例とされるが、「白鳳」とは何だろうか?
以前に九州年号との関連について書いたことがある。
⇒2008年1月 6日 (日):「白鳳」の由来
⇒2008年1月 8日 (火):「白鳳」年号の位置づけ
⇒2008年1月12日 (土):「白鳳」という時代

学習百科事典では、白鳳文化と関連語彙について、以下のように図解している。
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つまり、薬師寺が白鳳文化の代表例とされる。
⇒2008年2月22日 (金):薬師寺論争…①「白鳳」か「天平」か
あるいは、藤原京自体が白鳳的だといわれる。
⇒2008年1月 5日 (土):白鳳芸術としての藤原京

具体的には、乙巳の変(645年)から平城遷都(710年)までの期間である。
この期間の状況は複雑であり、白鳳時代像をどう認識するかは日本古代史理解の大きなカギであると言ってよい。

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