紀伊半島探訪

2013年5月27日 (月)

熊野本宮大社/紀伊半島探訪(7)

熊野本宮大社は、全国に3000社あるといわれる「熊野神社」の総本山である。
和歌山県田辺市本宮町本宮にある。
本殿へは、158段あるという石段を登っていく。
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身障者にはきつそうだったので、尋ねてみると裏側に身障者用の駐車場があるという。
有難いことだ。
至る所に八咫烏がデザインされている。
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八咫烏は、日本神話で、神武東征の際に、高皇産霊尊によって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる烏である。
3本足のカラスとして知られる。

かつては、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原」と呼ばれる中洲にあったが、明治22年の洪水で多くが流出した。
流出を免れた上四社3棟を明治24年(1891)に現在地に移築・再建したという。
http://www.hongu.jp/kumanokodo/hongu-taisya/

大斎原の古図として、以下のようなものが残されている。
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http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/hongu/colum/colum.htm

大斎原の現況は以下のような雰囲気らしい。
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http://www.hongu.jp/kumanokodo/hongu-taisya/ooyunohara/

社殿は3棟並んで建っている。
左手の社殿が夫須美神(ふすみのかみ)・速玉神(はやたまのかみ)の両神、中央は主神の家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)、右手は天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られている。

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http://www.hongu.jp/kumanokodo/hongu-taisya/

左の社殿と他の2つの社殿の向きが90度違うのはなぜだろうか?
いにしえの雰囲気を漂わせている神社である。

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2013年5月14日 (火)

熊野速玉大社と新宮/紀伊半島探訪(6)

熊野速玉大社は、和歌山県新宮市新宮1にある神社で、熊野三山の一つである。
熊野速玉大神と熊野夫須美大神を主祭神とする。
境内は、2004(平成16)年7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産・大峯奥駈道の一部である。
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境内に推定樹齢1000年の梛(なぎ)の大樹がある。
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http://www.mikumano.net/meguri/sinnagi.html

平安末期に熊野三山造営奉行を務めた平重盛の手植えと伝えられ、梛としては日本最大だそうである。
梛の樹というのはあまり馴染みがなかったが、裾野市の某高級住宅地に、「梛の葉」というレストランがあって主婦に人気のようである。

新宮市は固有名詞であるが、本宮から神霊を分けて建てた神社のことであり、今宮とか若宮と同義である。
和歌山県南東端、熊野川河口に位置する。
熊野川の対岸は三重県である。
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新宮市は、熊野速玉大社(新宮権現)の門前町として発展した。
古くから木材の集散地として栄え、製材・製紙業が発達した。

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2013年5月13日 (月)

那智大社と那智滝/紀伊半島探訪(5)

那智滝の名前は子供の頃から、落差日本1位の滝として馴染みがあった。
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の那智川にかかる滝で、一の滝における落差は133mある。
華厳滝、袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。

その那智滝を眺望する場所に那智大社がある。
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滝壺に近くには昔は行けたらしいが、今は行けないと聞いた。
いずれにしろ身障者にはムリだろう。

熊野那智大社は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある。
熊野三山の一つで、熊野那智大社の社殿および境内地は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部になっている。

参道の長い石段の上は、右に青岸渡寺がある。
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青岸渡寺は、西国三十三ヵ所巡りの第一番札所で、豊臣秀吉が再建した本堂は南紀最古の建造物である。
風格ある建造物である。
反対側は朱の大鳥居と大社の境内が続いている。
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境内に樟の巨樹がある。
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樟の枝葉を蒸留して得られる無色透明の固体が、樟脳である。
防虫剤として広く使われていた(る?)。
カンフル注射のカンフルはこの樟脳を指しており、“camphora”という種名にもなっているということである。

2011年の台風12号は、桁外れの雨の降り方で紀伊半島に大きな被害をもたらした。
この降水により大きな被害が発生したが、その復旧工事が1年半以上経っても盛んに行われていた。
熊野那智大社の近傍でも、アチコチに爪痕が残っている。
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1回の降水量が1800ミリを超えたというから、降水量が多いことで知られる紀伊半島でも異例の事態だったといえよう。
⇒2011年9月 6日 (火):台風12号による降水被害/花づな列島復興のためのメモ(3)

ちなみにわが国の年間の降水量の状況は下表の通りである。
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http://www.japan-now.com/article/188395718.html

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2013年5月10日 (金)

橋杭岩と宝永地震/紀伊半島探訪(4)

和歌山県東牟婁郡串本町に、橋杭岩(はしくいいわ)という景勝地がある。
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名前の通り、岩が直線上に立ち並ぶ姿が、橋の杭のように見える。
潮岬の近くで、同所の道の駅は、本州最南端になるそうである。
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http://bochibochikuroshio.blog137.fc2.com/

お定まりの弘法大師伝説がある。
弘法大師と天の邪鬼(上のマークの写真のキャラクター)が熊野地方を旅したときのことである。
天の邪鬼が弘法大師に、チャレンジした。

 「弘法さん、大島はご覧の通り海中の離れ島で、天気の悪い日には串本との交通が絶え島の人は大変困るそうですが、我々はひとつ大島と陸地との間に橋を架けてやろうじゃありませんか。」天の邪鬼が誘う。
「それが良い、それが良い。」と弘法大師。
 「ところで二人いっぺんに仕事するのもおもしろくない。一晩と時間を限って架けくらべをしましょう。」
天の邪鬼は、「いかに偉い弘法大師でも、まさか一夜で架けることはできまい。」と考えたのだ。

夜になって、弘法大師が橋を架けることになった。
弘法大師は、山から巨岩を担いできて海中に立てている。
一晩あれば、十分橋が架かるだろうと、天の邪鬼は焦った。
そして何か邪魔する方法はないかと考えた末、大声で鶏の鳴き真似をした。
それを聞いた弘法大師は、本当に夜が明けたのだと思ってついに仕事を中止した。
そのときの橋杭の巨岩が現在も残っている、という話である。

橋杭岩に転がっている岩の中には、岩のそそり立つところからかなり遠くのものもある。
これらの岩は、宝永地震で起こった大きな津波によってそこまで転がったのではないか、と推測されている。
湿ったところを好む植物・生物が死滅し、化石になったものが表面上に残っていて、それが宝永地震の起こった1700年代であることが分かった。
また、散らばっている岩が動くのには秒速4メートル以上の速い流れ(流速)が必要とされ、これもこの地域で頻繁に襲来する台風から起こる波や同じく震源域に近い東南海が震源の単独地震を想定して計算された流速ではなく、東海・東南海・南海地震の連動型であった宝永地震を想定して計算された流速と一致している。
Wikipedia-橋杭岩

なお、宝永地震はWikipediaでは次のように説明されている。

宝永地震(ほうえいじしん)は、江戸時代の宝永4年10月4日(1707年10月28日)、遠州灘沖から紀伊半島沖(北緯33.2度、東経135.9度 [注 1])を震源として発生した巨大地震。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされてきた。世にいう宝永の大地震(ほうえいのおおじしん)、あるいは宝永大地震(ほうえいおおじしん)とも呼ばれ、地震の49日後に起きた宝永大噴火と共に亥の大変(いのたいへん)とも呼ばれる。
南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として、江戸時代には宝永地震のほか、慶長9年(1605年)の慶長地震、嘉永7年(1854年)の安政東海地震および安政南海地震が知られている。また、宝永地震の4年前(1703年)には元号を「宝永」へと改元するに至らしめた関東地震の一つである元禄地震が発生している。

それにしても、地震や津波は人知を超えているのではなかろうか。

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2013年5月 6日 (月)

丸山千枚田/紀伊半島探訪(3)

三重県熊野市(旧南牟婁郡紀和町)の丸山に、日本最大級の棚田がある。
日本の棚田百選の一つになっている。
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まさに「耕して天に至る」という感じで、営々として積み重ねられた努力に頭が下がる。
熊野は基本的に山地だから、田畑は段々状になる。
丸山千枚田は、実際には高低差160m(標高90-250m)の谷合に、約1,340枚(7ha)の棚田があるといわれる。

丸山千枚田がいつ頃から存在したかは明らかではない。
関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が紀伊に移封され、慶長6年(1601年)に検地が行われたときには既に約2,240枚の棚田があったとされる。
その後、明治時代には11.3haにまで増え、戦後20数年間は、ほぼその規模で維持されてた。
しかし、昭和40年代半ば以降、過疎化・高齢化などにより耕作面積が減少した。

棚田経営は近くの銅鉱を中心とした鉱山での労働との兼業によって維持されていた。
しかし、1978年(昭和53年)に鉱山が閉山して労働力の流出を招いた。
後継者不足、高齢化]、減反政策、コメの価格低迷、機械化が難しいことなどの諸要因も重なり、耕作放棄が進み、1992年(平成4年)には530枚まで減少した。

この歴史的遺産を残すため、1993年(平成5年)に当時の紀和町の町長が音頭を取って、行政の支援を表明、同年8月に「丸山千枚田保存会」が結成された。
1994年(平成6年)には紀和町が日本初の千枚田を保存する「紀和町丸山千枚田条例」(平成6年紀和町条例第1号)を制定した。
紀和町は平成の大合併により、2005年(平成17年)11月1日に熊野市と合併し、消滅したが、条例は新・熊野市に引き継がれた。

棚田をできれば残したい、という気持ちは多くの人が共有するものであろう。
「全国棚田サミット」も開催されているし、第6次産業という言葉もある。
6次というのは、1次、2次、3次のすべてを取り込むということで、1+2+3と1×2×3が共に6になることに由来する。
⇒2010年10月30日 (土):第6次産業の可能性

私は、むかしネパールに行ったとき、棚田をみて、既視感のようなものを感じたことを覚えている。Photo
http://ouac1949.world.coocan.jp/langtangreporta07.html

丸山千枚田の中には、1㎡以下のものもあるという。
ヒトの営みの形を示すものとして、保存に尽力している人たちに敬意を表したい。

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2013年5月 1日 (水)

徐福公園/紀伊半島探訪(2)

徐福は今から2200年ほど前、秦の始皇帝の命により、日本にやって来たと言われる。
Wikipedia-徐福によれば、次のようである。

司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。

日本では、青森県から鹿児島県に至るまで、徐福に関する伝承が残されている。
徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡などが知られている。
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(財)新宮徐福協会「徐福公園パンフレット」)

南紀白浜に行ったついでに、速玉大社の近くにある徐福公園を訪ねた。
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公園内には、徐福のお墓や顕彰碑が建っている。
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徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われる。
徐福はお茶をもたらしたと言われている。
徐福が持ち込んだ中国茶と抹茶用の茶の花粉が受粉して、静岡の藪北種が誕生して煎茶の品種になったと考えられている。

静岡と埼玉は絹の織物が地場産業であるが、徐福は養蚕の技術も伝来させている。
富士山の世界遺産登録対象から外されたということであるが、旧清水市の三保の松原は羽衣伝説で有名である。
⇒2011年10月 9日 (日):三保松原で薪能を観る
絹の透けた着物を織ることができたということであろう。
徐福の一族の女官の着物姿のことを指しているという説もある。

逗子市や葉山町に残る縄文時代末期の遺跡は、陶器や古墳の埋葬方式から観て、徐福たちの居住跡であるといわれる。
遺構から出土した漁具や水深測量の石球は、中国の徐福村の出土品と形状が酷似しているそうである。

徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須から2200年前の中国の硬貨である半両銭が発見されている。
波田須駅1.5kmのところに徐福の宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている。

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2013年4月29日 (月)

南方熊楠記念館/紀伊半島探訪(1)

南方熊楠記念館は、かねてから是非行きたいと考えていた人物記念館である。
南紀白浜に来たからには、と行ってみた。
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記念館の創立については、以下のように説明されている。

南方熊楠は、和歌山県が生んだ博物学の巨星。植物学・菌類学者としてのみならず、民俗学の創始者、19才から14年間アメリカ、イギリスなどへ海外遊学、10数ヶ国語を自由に使いこなし、国内外に多くの論文を発表した。日本に「ミナカタ」ありと世界の学者を振り向かせ、生涯在野の学者に徹した。天文学、鉱物学、宗教学などにも多くの足跡をのこしています。没後、遺族からそのいくつかの資料の寄贈を受け、南方熊楠の遺した偉大な業績と遺徳をしのびその文献、標本類、遭品等を永久保存し、一般に公開するとともに博物学の巨星を後世に伝え、学術振興と文化の進展を目的として昭和40年4月に開館した。
http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/info/index.htm

熊楠は、「知の巨人」という形容詞が付けられることが多い。
1867(慶応3)年に、紀州徳川家が治めていた和歌山城下で、金物商の二男として生まれた。
熊楠の名前は、熊野の「熊」と海南市藤白神社のご神木である「楠」からとられたという。
一風変わった名前のように思えるが、この地方では比較的多い名前であると、熊楠自身が語っている。

東京大学予備門を退学後、14年にわたり欧米で独学した。
十数カ国語に通じたといわれ、その研究対象は博物学、民俗学に始まって、天文、地理、歴史、宗教、性愛、超心理現象などに及んだ。
まさに博物学である。

知的才能は幼少の頃から際だっていたようで、9歳の頃には、近所の酒屋から日本最初の百科事典といわれる『和漢三才図絵』借りてきて筆写を始めたという。
3年かけて、12歳までに81冊105巻を写し終えたというから、並の子供ではないことは確かだ。
関心のあるテーマに熱中し、書物を読んで写し取ったり、動植物を観察するために山に入って数日戻らなかったりするということがあったらしい。
その博覧強記ぶりを、民俗学者柳田国男は、「日本人の可能性の極限かと思ひ、又時としては更にそれよりもなほ一つ向ふかと思ふことさへある」と評している。

大阪大学の医学部に、ホルマリン溶液に浸した熊楠の脳が保存されている。
希有の天才の脳は、溝が深くて表面積が普通の人より広く、聴覚性と視覚性の発語中枢と呼ばれる部分がよく発達しているというのが、熊楠の脳を調べた故黒津俊行大阪大学教授の所見である。
しかし、結論的には、「相当優れた脳であることは間違いないが、--南方氏のあの偉大さを直接証拠立てる何物もない」とされている。
そして、報告書には、人間の大脳は、その能力を十分に使いこなされていない、熊楠と凡人との差は努力の違いである、というようなことが記されているという。

1886(明治19)年、熊楠は、横浜港からサンフランシスコに向けて出航する船に乗り込んだ。
東京大学予備門(後の第一高等学校)に進んだが、平均的な成績を求める秀才型の教育に飽きたらず、退学して米国行きを決意したのだった。
1892(明治25)年、大英帝国の都・ロンドンに渡る。ビクトリア朝の末期である。
大英博物館への出入りを許された熊楠は、「ここが自分が望んでいた場所だ。これで勉強ができる」と感動したという。
当時、大英博物館には150万冊の蔵書があったといわれるが、熊楠は、数カ国語にわたる約500冊の書物から、自分の関心のあるテーマについて抜き書きし、そのノート(『ロンドン抜書』)は52冊に及んだ。

熊楠は、トラブルから1900(明治33)年に学半ばにして帰国せざるを得ない事態となってしまった。
1897(明治30)年に、熊楠は中国の革命家孫文と出会う。時に孫文30歳、熊楠29歳であった。
孫文は、1895(明治28)年に広州で起こした武装蜂起に失敗し、アメリカからイギリスに逃れていたのだった。その後、孫文は1911年の辛亥革命により中華民国が成立する過程で、臨時大総統に就任するが、軍事的基盤が弱かったことから、軍閥の袁世凱にその地位を譲る。
1919年には、国民党を創設して、軍閥の打倒と不平等条約の撤廃などを目指すが、1925年に、「革命いまだ成功せず」の言葉を残し、北京で客死した。

帰国した熊楠は、和歌山市から那智勝浦に移るが、そこで熊楠の学問的業績が飛躍的に伸長することになった。
那智山は神域として照葉樹の原生林が残っていて、熊楠の研究にとっては格好のフィールドであった。
那智山麓の離れの借家で、和歌山南部の熊野山中や田辺などで採集した「粘菌」の研究に没頭する。
粘菌が生態系の中で果たしている役割は未だ十分に解明されていないらしいが、動物とも植物とも判別しがたい不思議な生物である。

生態系の中では、動植物などの有機物を地中のバクテリアが分解して無機物に変える。
粘菌は、バクテリアを主食とする生物で、バクテリアの多量発生を抑え、分解の速度をコントロールすると考えられている。
熊楠は、日本における粘菌研究のパイオニアであった。

熊楠の宇宙観・世界観を示すものと言われる「南方曼陀羅」といういたずら書きのような図がある。
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仏教的世界観の中に、当時の科学の論理を部分的に超える論理を見出している、といわれる。
ニュートン力学に代表される自然科学は、因果律の発見を目標としている。
因果律とは、一定の原因と一定の結果との対応関係の必然性を示すものである。
これに対して、仏教では「因縁」という考え方をする。因縁の「因」は因果律の因であるが、「縁」は偶然性を意味している。
「南方曼陀羅」は、物事の変化のありさまを、必然性ばかりではなく偶然性も織り込んで理解すべきことを示している。
偶然性の問題に正面から取り組む量子力学が登場するのは、それからおよそ30年後の1930年代になってからのことである。
あるサイトでは、次のような図で説明していた。
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http://blogs.itmedia.co.jp/businessanatomy/2012/12/post-fa3d.html

1906(明治39)年、西園寺公望内閣の内相原敬によって「神社合祀令」が通達される。
神社は一町村一社を標準に、由緒・財産のない格式の低い神社を、格のある神社に合併せよ、という趣旨である。
明治44年までの5年間で、和歌山県下の神社数は、3,700から600に激減したという。
熊楠にとって、神社を取り巻く自然林は人手の入っていない生物の宝庫であり、研究の場であった。反対運動の急先鋒として意見を発表し、奮闘する。

1918(大正7)年に、神社合祀は廃止されるが、それまでの12年の間に全国で約7万の神社とそのまわりの自然林が姿を消したとされる。
それは、「国」の成り立ちの基盤である「地域」の拠り所が消えたこと、そして身近に存在した多様なな生物種から成る生態系が消えたことをも意味していた。

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