戦後史断章

2019年2月 7日 (木)

北方領土の日/戦後史断章(34)

今日は内閣府が定めた「北方領土の日」である。
「北方領土問題に対する国民の関心と理解を更に深め、全国的な北方領土返還運動の一層の推進を図るために制定された記念日」である。
「北方領土の日」をいつにするかについては、ソ連が択捉島への侵略を開始した8月28日などいくつかの候補があったが、最終的に、1855年(安政元年)に江戸幕府とロシア(当時は帝政ロシア)との間で最初に国境の取り決めが行われた日露和親条約が結ばれた2月7日に決まった。

歴史を江戸時代まで巻き戻してみよう。
1855(安政元)年「日露(魯)通好条約」が結ばれた。
この条約で、両国の国境を択捉島とウルップ島の間に定め、ウルップ島より北につらなる千島列島はロシア領、択捉・国後・色丹・歯舞の四島は日本の領土、樺太については「どちらにも帰属しない、と定められた。Photo
日露通好条約

1875年「樺太・千島交換条約」が結ばれ、樺太はロシア領、千島列島は日本領になった。
1905年、日露戦争の戦後処理である「ポーツマス条約」によって、樺太の南半分が日本領になった。
私は日露戦争は日本が勝ったと学習したが、実態は「限りなく引き分けに近い」ものだった。
Wikipedia:ポ-ツマス条約の記述は以下のようである。

日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、日本海海戦戦勝後の1905年(明治38年)6月、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていたアメリカ合衆国に対し「中立の友誼的斡旋」(外交文書)を申し入れた。米国に斡旋を依頼したのは、陸奥国一関藩(岩手県)出身の日本の駐米公使高平小五郎であり、以後、和平交渉の動きが加速化した。
講和会議は1905年8月に開かれた。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない」と主張していたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが日本としてはこれ以上の戦争の継続は不可能であると判断しており、またこの調停を成功させたい米国はロシアに働きかけることで事態の収拾をはかった。結局、ロシアは満州および朝鮮からは撤兵し日本に樺太の南部を割譲するものの、戦争賠償金には一切応じないというロシア側の最低条件で交渉は締結した。半面、日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝者としての体面を勝ち取った。
この条約によって日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあたる20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得することができなかった。そのため、条約締結直後には、戦時中の増税による耐乏生活を強いられてきた国民によって日比谷焼打事件などの暴動が起こった。

日比谷焼打事件が起きたのも、「日本が勝った」ということがミスリードした結果だろう。
そして1945年である。
8月6日:広島原爆投下
8月8日:ソ連対日宣戦布告
8月9日:長崎原爆投下
8月14日:ポツダム宣言受諾
8月15日:玉音放送
8月28日:択捉占拠
9月5日:ソ連が北方四島の編入を宣言

上記過程からすれば、ラブロフ外相が「第二次大戦の結果、南クリール諸島(四島)がロシア領になったことを日本が認めない限り、領土交渉の進展は期待できない」というのもムリがあるだろう。
少なくとも、歯舞、色丹は、降伏後の領有というべきだろう。
しかし日本は一貫して「北方領土(四島)は日本固有」を主張してきた。1901232
東京新聞1月23日

しかし、岸信介元首相が日米安全保障条約を改定したことにより、米軍基地は日本国内のどこにでも置ける。
モスクワで行われた日ロ首脳会談でも特段の前進はなかったようである。
2019年1月26日 (土) 日ロ領土問題の経緯と落としどころ/世界史の動向(73)

そういう前提で考えれば、容易にロシアが了解するとも思えない。
安倍首相は成果を得たいために前のめりであるが、国益を損なうような交渉であってはならない。

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2019年1月19日 (土)

東大安田講堂封鎖解除から50年/戦後史断章(33)

1969年の東大闘争の安田講堂の封鎖解除から50年経つ。
節目ということだからであろうが、雑誌や単行本などで、当時を回顧するようなものが目に付く。
例えば「週刊現代1月19・26日号」には『1969年、ニッポンの青春に逢いに行こう』という特集があって、そこに1969年1月19日の朝日新聞が載っている。Ws000004

社会的に大きな関心を持たれていたから、メディアの扱いも大きかった。
私は関西圏にいたがテレビでリアルタイムで視聴していた記憶がある。
1月18日の毎日新聞では、当時の活動家学生の「今」を好意的に紹介している。501901182

単行本としては、和田英二『東大闘争-50年目のメモランダム』ウェイツ(2018年11月)が目に入った。
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奥付を見ると、和田氏は安田講堂の最後の攻防戦に参加し、1972年に東京高裁で執行猶予付判決を受けた。
ご多聞に漏れず長期拘留だったから、実刑判決と大差ないだろう。
解除した側からの著書として、機動隊の陣頭指揮を執っていた『東大落城-安田講堂攻防七十二時間』文藝春秋(原著1993年、文庫版1996年1月)が多くの読者を得たようであるが、まじめなノンポリ学生が闘争が問いかけた問題を正面から受け止め、ついには籠城・逮捕されて行く内面が、もちろん主観的ではあるが、50年後にできるだけ冷静に回顧したものである。

著名な政治学者・丸山眞男法学部教授が東大全共闘を「ナチもしなかった」と非難したと報じられた事件が当時話題になった。
著者はこの報道の真偽を執拗に追いかけた。
結果的には、世に伝えられる「史実」が危ういものであることを示したものと言えよう。

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2018年8月25日 (土)

なぜ、今、サマータイムか?/戦後史断章(32)

サマータイムが話題になっている。
五輪組織委員会が猛暑対策として安倍首相に要請し、首相が検討を自民党に指示した。1808112
東京新聞8月11日

日本では、第二次世界大戦敗北後の連合国軍占領期にGHQ指導下で、1948年(昭和23年)4月28日に公布された夏時刻法に基づき、同年5月2日の午前0時から9月11日にかけて初めて実施された。
以後、1951年(昭和26年)9月7日に打ち切られるまで実施された。
私は微かな記憶があるが、まだ幼かったのでどういう影響があったか記憶にない。

一方、1970年代から夏時間が定着している欧州では、健康面への悪影響から廃止を求める声が広がっているという。
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サマータイム、EUで廃止論 是非判断へ世論調査

知り合いの会社で、入力した顧客の誕生日が1日前に変わる不具合が見つかったという話題があった。
原因はサマータイムで、、「誕生日時は当日の0時」と設定してあるものが1時間繰り上がって「前日の23時が誕生日時」として認識されたとのことだという。

これを聞いてY2Kのことを思い出した。
1999年12月31日から2000年1月1日に変わる時、コンピュータの記憶装置が当時は西暦の下2桁を使用していたことへの対処である。
991231から000101と変わることで時間の経過が認識されないということで大きな社会問題になった。
当時に比べ、ICT化は生活の隅々にまで浸透している。
「システム会社の特需」などと言ったレベルを超えて大きな混乱が起きるであろう。

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2018年8月16日 (木)

際立つ今上天皇のリベラル性/戦後史断章(31)

昨日の戦没者追悼式における天皇のお言葉を見てみよう。
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ごく当たり前のようにも思えるが、毎年同じわけではない。
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東京新聞8月16日

明確な戦争に対する反省と今年新たに戦後の平和が強調された。
現在、「昭和天皇に戦争責任はない」という考えが多数説であろう。
それは立憲君主制においては「君主無答責」という考え方があるからである。
日本大百科全書の解説を見てみよう。

君主は、その行為について、だれに対しても政治上・法律上の責任を負わない、という原則。イギリスでは古くから「王は悪をなさず」King can do no wrong.ということばによってこの原則が憲法上の慣習として認められてきた。したがって中世以来、イギリスにおいては、悪政に対する責任は大臣が負うものとされ、大臣に対する弾劾制度が発達した。こうして君主無答責の原則は、立憲君主制をとる国に共通なものとなった。戦後の日本では、天皇は国政に関する権能は有せず、天皇の行う国事行為については内閣が責任をとるとされる。国事行為には内閣の助言と承認が必要である(憲法3条)ということがその法的根拠と考えられる。また、天皇は、象徴的地位にあること(憲法1条)、摂政(せっしょう)は在任中訴追されないこと(皇室典範21条)などから、刑事法の適用を受けることはない。しかし民事上の責任は免れないものとされている。

しかし、戦前・戦中の最高意思決定者は天皇だったのであり、昭和天皇の戦争責任は免れないのではないか。
東条英機から開戦の手順を聞いた昭和天皇は、「うむうむ」と応じたという。
東条からその様子を聞いた湯沢三千男内務次官のメモを遺族が保管していた。

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 メモによると、東条は十二月七日夜、首相官邸に呼び出した湯沢に「戦争開始と国民の処置を決定した」と通告。「陛下の命令を受け一糸乱れることのない軍紀の下、行動できるのは感激に堪えない」と発言した。
 昭和天皇については「いったん決めた後は悠々として動揺もない」「(報告には)うむうむとおっしゃられ、いつもと変わらなかった」「対英米交渉に未練があれば、暗い影が生じるだろうが、そんなことはなかった」と述べたとしている。
開戦前夜、東条首相「すでに勝った」 政府高官のメモ見つかる

東条の責任はもちろんであるが、やはり昭和天皇も無答責で済ませるわけにはいかないだろう。
今上天皇はその辺りの経緯も踏まえておられるのであろう。
今上天皇が敗戦を迎えたのは11歳の時であった。1808142
東京新聞8月14日

現行憲法では天皇は「象徴」であるとされているから、名実ともに無答責であるが、この敗戦時の体験がリベラルの立場にたっていることの原体験であると思われる。
A級戦犯容疑者岸信介を敬愛する安倍首相と対極的である。
2016年8月 9日 (火) 天皇陛下のお気持ちと護憲/日本の針路(285)

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東京新聞8月16日

安倍政権に比べ、今上天皇リベラル性は際立っている。

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2018年7月 6日 (金)

オウム真理教の死刑囚の死刑執行/戦後史断章(30)

オウム真理教の元代表の麻原彰晃、本名・松本智津夫死刑囚(63)らが、6日死刑が執行されたことが報じられている。
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【号外】オウム・松本死刑囚ら刑執行

未だに詳細が不明な部分も多く、不可解な事件であったが、一つの時代が終わったと言って良いだろう。
しかし、再び起こらないとは言えない。

オウム真理教の代名詞とも言える地下鉄サリン事件が起きたのは1995年3月であった。、
もう23年前になるが、記憶は明瞭である。
既に前年から、ヨガ同好会のような組織から生まれたオウム真理教という教団が関与したのではないかと推認される犯罪が連続していた。
物情騒然とした雰囲気のびきの年明けであったが、新年早々に阪神淡路大震災が起きた。
⇒2015年1月17日 (土):阪神淡路大震災から20年/日本の針路(99)

ますます社会不安的な状況人sっていた時、「地下鉄サリン事件」が起きた。
2015年3月20日 (金) 地下鉄サリン事件から20年/戦後史断章(19)

オウム真理教の特徴の一つは、代表(教祖)の松本智津夫が冴えない風貌であったのに対し、幹部に高学歴者が多いことだった。
・青山吉伸:京都大学法学部
・村井秀夫:大阪大学理学部物理学科→大阪大学大学院
・早川紀代秀:神戸大学農学部→大阪府立大学大学院
・中川智正:京都府立医科大学
・遠藤誠一:帯広畜産大学→京都大学大学院
・土谷正実:筑波大学農林学類→筑波大学大学院
・豊田亨:東京大学医学部
・富永昌宏:東京大学理学部→東京大学大学院
・廣瀬健一:早稲田大学理工学部応用物理学科
・林郁夫:慶應義塾大学医学部
・上祐史浩:早稲田大学理工学部電子通信学科→早稲田大学大学院
⇒2011年11月25日 (金):オウム真理教事件と知的基礎体力(?)

彼らのように、学力において秀でていると思われる人間がなぜ簡単にマインドコントロールされてしまったのか?
たとえば、富永昌宏は、高校時代(灘高)、3年連続で「大学への数学」誌の学力コンテストで全国1位になったというし、青山吉伸は在学中に司法試験合格している。
相当な秀才であったことは間違いないだろう。

毎日新聞社の牧太郎氏(サンデー毎日の編集長等を歴任)や菅直人元首相らは、「知的基礎体力」という言葉を使っているが、私は「知的基礎体力」という言葉がよく分からなかったし、今も分からない。
文脈からすると、「柔軟に幅広く状況に応じて判断する力」のようであるが、要は、自分で判断をすることを放棄し、他者の判断に身を委ねてしまっているからのように思える。

昨年の学習指導要領の改訂により、カリキュラムが段階的に改変されることになっている。
新しい学習指導要領の狙いはアクティブラーニングすなわち未知の問題に対して、自ら主体的に学習する姿勢の涵養である。
オウム真理教の幹部たちは、受験秀才ではあったが、問題意識を持って主体的に学ぶ能力に欠けていたように思える。
受験秀才はAIに叶わない。
もっとも「東ロボくん」プロジェクトが示すように、一般的な高校生がAI未満であることが深刻な問題であるが。

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2018年6月13日 (水)

新幹線通り魔殺人事件と不条理の模倣/戦後史断章(29)

9日22時前、神奈川県内を走行中の東京発新大阪行きの東海道新幹線「のぞみ265号」で無差別殺人事件が発生した。
車内は、突然の凶行に逃げ惑う乗客でパニックになったが、新幹線は小田原駅で緊急停車。車内アナウンスで警察が容疑者の男を確保したことが伝えられた。1806122
東京新聞6月12日

駆けつけた県警小田原署の署員が、切りつけたとみられる男を現行犯逮捕し、刺された3人は小田原市内の病院に運ばれた。
男性1人が首の右側を切られて死亡し、20代とみられる女性2人が頭や肩に重傷を負った。

新幹線の車内では逃げようもない。
遭遇した乗客の恐怖はいかばかりだったか。
逮捕されたのは愛知県岡崎市蓑川町に住む、自称・小島一朗容疑者(22歳)だが、本名かどうかは不明である。
小島容疑者は、斧で殺害した動機を警察で聞かれ「むしゃくしゃしてやった」「誰でもよかった」と話しているという。
しかも殺害をしようと計画して東海道新幹線に乗ったとされており、無差別殺人をするのが目的だったことも判明している。

私は10年前の秋葉原無差別査証事件の「模倣犯:コピーキャット」のような気がする。
2018年6月 8日 (金) アキバ通り魔事件と働き方の問題/戦後史断章(28) 

現時点で報道されている小島容疑者の人物像は次のようである。

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 「(小島容疑者が14歳の時)しつけに関しては、何も私はしなくなりました」(小島容疑者の実の父親)
 両親と折り合いが悪く、祖母の養子になったという小島容疑者。中学生のときに不登校となり、その後、自立支援施設で6年以上生活したといいます。
 「うちにいたころは非常に真面目で、何か問題をおこすとか一切なかった」(自立支援施設代表)
 親族などによりますと、小島容疑者は3年前、高校卒業後に就職しましたが、1年足らずで退職したということです。この場所は、小島容疑者が去年まで使用していた部屋。「人生においてやり残したこと」として、「冬の雪山での自殺」などと自殺願望を示すメモが残されていました。そして・・・。
 「こんなところでごそごそしとるより、死んだ方がいいってね」(小島容疑者の祖母)
 去年12月、祖母の家を出ていったというのです。
 「仕事で挫折したもんだから、自信がなくなったんだろうな」(小島容疑者の祖母)

つまり、「家庭環境」と「仕事の挫折」である。
同様の要因が指摘されたのが、秋葉原事件であった。
「家庭環境の問題」は『万引き家族』が典型であるが、社会の縮図の凝縮のように思える。
2018年6月11日 (月) 『万引き家族』の評価を巡って/ABEXIT(49)

安倍政権の苦手なテーマであるが、「仕事」についても心許ない。
今国会の最重要テーマと言っている割にお粗末な審議である。
2018年2月18日 (日) 何のための「働き方改革」なのか/日本の針路(375) 
2018年3月 2日 (金) 何のための「働き方改革」なのか(9)/日本の針路(384)
2018年3月12日 (月) 政府の「働き方改革」の馬脚/日本の針路(393)
2018年5月27日 (日) 「働き方改革法案」を強行採決/ABEXIT(35)

労働体験の貧弱な世襲議員では「働き方」の本質に迫ることは難しいだろう。
「今年は明治維新150年」と同時に「マルクス生誕200年」である。
高プロを「残業代を払わなくて良い制度」と考えていると、手痛いしっぺ返しがある。

無差別通り魔殺人事件は、個人的な一過性の問題とは言えない。
今月のNHKEテレの『100分de名著』は、中条省平氏の解説による『アルベール・カミュ ペスト』である。
学生時代にかじった程度であるが「不条理」に向き合った作家として知られる。
この種の不条理は、社会のあり方を健全化して行かないと、増えこそすれ減ることはないだろう。

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2018年6月 8日 (金)

アキバ通り魔事件と働き方の問題/戦後史断章(28)

10年前、秋葉原の歩行者天国は人出で賑わっていた。
そこに起きた惨劇を予想し得た人は誰もいなかったであろう。
犯行を起こした当人以外には。
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東京新聞

青森県の進学校の出身ながら、静岡県の自動車部品工場で派遣労働者として働いていた25歳の若者が、歩行者天国に車で突っ込み、車から降りてナイフで通行人に無差別で切りかかった。
何という不条理に震撼させられた。
⇒2008年6月11日 (水)  秋葉原通り魔と心の闇

しかし、驚くべきことに、この不条理を実行した犯人を「神」に譬え、ヒーロー視する人が少なからず存在したことである。
⇒2008年6月22日 (日)  通り魔をヒーロー視する人たち

犯人の履歴等についてはすでに少なからぬ論評がなされている。
もちろん、このような凶行に至るには、育った環境等の複合的な要因があるだろう。
犯人は、動機や心情をかなり詳細にネットに投稿していた。
そこから読み取れるのは、強い敗北感である。

その背景には、派遣労働者という労働形態がある。

1986年施行。当初は「自由な働き方ができる」と働く側に歓迎されたが、企業側が契約期間終了で「雇い止め」にできるため、人手不足のときに一時的に雇う「雇用の調整弁」にされやすい。2015年9月、派遣先への直接雇用の依頼や、派遣元での無期雇用などの雇用安定措置を盛り込んだ改正法が施行された。
労働者派遣法

私は派遣元と派遣先の両方の企業の経験があるが、現実に派遣労働者の多くが非正規雇用である。
それが「正規-非正規」の格差を生んでいることは疑い得ない。
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東京新聞6月4日

安倍政権は「働き方」の問題を今国会の最大のテーマに掲げている。
2018年2月18日 (日) 何のための「働き方改革」なのか/日本の針路(375) 
2018年3月 2日 (金) 何のための「働き方改革」なのか(9)/日本の針路(384)

しかし、過労死遺族の前でへらへら笑う安倍首相の態度を見れば、この政権の体質が良く分かる。
立法根拠であるデータが実にいい加減なのだ。
2018年3月12日 (月) 政府の「働き方改革」の馬脚/日本の針路(393)
結果として裁量労働制については法案を取り下げたが、「高プロ制」については強行突破の構えである。
2018年5月27日 (日) 「働き方改革法案」を強行採決/ABEXIT(35)

しかし、何と高プロ制の根拠のアンケート調査は僅か2サンプルに過ぎず、うち9人は事後的に実施したものであるという。
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東京新聞6月8日

後付けで立法事実を作るのは、アリバイつくりということである。
こんなウソばかりの政権には当然引導を渡さなければならない。

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2017年8月 9日 (水)

『母と暮らせば』と『シン・ゴジラ』/戦後史断章(27)

長崎に原爆が投下されて72年。
長崎市の平和公園で拓かれた平和祈念式典で、田上富久・長崎市長は、今年7月の核兵器禁止条約の採択を「被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間だった」と歓迎する一方、日本政府に対し、「条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できない」と批判した。
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長崎市長、平和宣言で政府批判 「姿勢理解できない」

被爆地ならずとも、多くの国民が理解できないだろう。
⇒2017年8月 6日 (日):今こそ、主導して核兵器禁止を前に進めるべきだ/日本の針路(325)

去年の1月に公開された『母と暮らせば』は、井上ひさしさんの『父と暮らせば』を本歌とする山田洋次監督作品である。
長崎の原爆で死んだ息子(二宮和也)の亡霊と対話しながら生きる母(吉永小百合)の物語だ。
私は、現実世界(実数的世界)と幻覚の世界(虚数的世界)の複素的世界観の表現だと理解した。
⇒2016年1月14日 (木):母と暮らせば』と複素的な世界観/戦後史断章(24)

ユヴァリ・ノア・ハラリ『サピエンス全史-文明の構造と人類の幸福』河出書房新社((2016年9月)によるまでもなく、われわれは実の世界ばかりではなく、虚の世界にも生きている。
⇒2017年7月22日 (土):仲間ファーストの共謀3・記録を否定する山本地方創生相/アベノポリシーの危うさ(260)

虚の世界の全般的共有は難しいが、部分的な共有はしている。
特に、政治の世界は、吉本隆明が説いたように、「共同幻想」が本質とも言える。
⇒2012年3月19日 (月):吉本隆明の天皇(制)論/やまとの謎(58)
⇒2012年3月20日 (火):『方法としての吉本隆明』/やまとの謎(59)

であれば、「理念」こそが重要である。
日本国憲法の「戦争放棄」規定を虚構・幻想だと否定する人がいるが、その虚構・幻想を地球上に広め、定着させることが重要なのだ。

日本が世に出した代表的なキャラクター「ゴジラ」は、核エネルギーもしくは核兵器のメタファーと考えられる。
⇒2012年10月21日 (日):ゴジラは何の隠喩なのか?/戦後史断章(2)
それは、第五福竜丸事件に触発されて第一作が「水爆怪獣」として設定されたことからも首肯できる。
⇒2011年5月 9日 (月):誕生の経緯と香山滋/『ゴジラ』の問いかけるもの(1)

そして福島原発事故を体験した。
ヒロシマア、ナガサキに次ぐ被曝体験である。
昨年評判になった『シン・ゴジラ』の解読は多様であるが、福島原発事故との関係を抜きにはできないだろう。
⇒2016年8月 1日 (月):『シン・ゴジラ』と福島原発事故/技術論と文明論(60)

今年は、官僚の行動様式が話題になった。
『シン・ゴジラ』の見どころの1つは、官僚機構と危機対応である。
佐川宣寿、前川喜平、藤原豊、柳瀬唯夫氏らの思考と行動が国民の目に晒された。
主権者であるわれわれの判断が問われと言えよう。

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2017年8月 8日 (火)

民主党政権の「顧客満足度」から学ぶ/戦後史断章(26)

このブログを始めて10年。
入院してネットへ接続できなかった期間を除き、基本的には関心の向くままに書いてきた。
当初の想定とはだいぶ変わってきた。
想定していなかった最大の出来事は、やはり東日本大震災と福島原発事故だと思う。
⇒2011年3月11日 (金):大規模地震で日本国はどうなるのか?

私は2012年8月と2016年8月に東北旅行をしたが、2012年の時は、未だ爪痕が生々しい状態であった。
⇒2012年8月27日 (月):大川小学校の悲劇と避難誘導の難しさ/因果関係論(20)・みちのく探訪(1)
去年は直接の被災地へは出向かなかったが、南相馬市出身の知人の話等を聞くと、東日本大震災、とりわけ原発事故からの復興は未だ途上だと感じざるを得ない。

福島原発事故は廃炉の工程の入り口にも立っていない。
規制委の適合性審査は必要条件に過ぎないのに、合格したら可及的速やかに稼働させるというのは明らかに短絡だろう。
⇒2013年7月 9日 (火):規制委の安全性審査は必要条件ではあるが十分条件ではない/花づな列島復興のためのメモ(243)

政治・社会的には民主党への政権交代(とその失敗)が残念であった。
⇒2009年9月 1日 (火):総選挙における「風」と「空気」
政権交代の総選挙の盛り上がりは、戦後史の特筆すべき事象と言える。
自民党政権へのウンザリ感が、空前の風を呼び起こした。

似たような「風」の威力は、最近の都議選でも見られた。
自民党へのウンザリ感の受け皿となったのは、都民ファーストの会であり、民主党の後継である民進党は、戦う前から敗北していたのだった。
⇒2017年7月 2日 (日):都議選の結果は国政にどう影響するか/日本の針路(323)

民進党(旧民主党)は、なぜ、かくも人心から離れてしまったか?
マーケティングにおいて、顧客満足度は次のように表されるという。
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顧客満足度を高めている企業は「事前期待」を掴んでいる

つまり、期待か大きかった分、結果に落胆したのである。
そのガッカリ感が未だに尾を引いている。

現政権不支持の理由の第1位が「首相が信頼できない」であるにかかわらず、支持の理由は「他の政権よりマシ」である。
地方首長選に事例があるように、与野党対決型の選挙では結構反自民側が勝利しているケースが多い。

民進党は細野豪志氏が離党して新党を目指すという。
若狭勝氏の「日本ファーストの会」との合流・統合も噂されている。
どういう形で反自民党政権の受け皿が現実化するのか想定は難しいが、小異を捨てて大同に付くことが必要である。
小沢一郎氏の唱えている「オリーブの木」方式しかないのかも知れない。
次の総選挙では、野党統一候補を何人立てられるかが鍵になると思う。

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2016年8月28日 (日)

台風10号の経路と狩野川台風/戦後史断章(25)

台風10号の動きが不気味だ。
八丈島付近で発生し、南西方向に進んだ後、エネルギーを蓄えて、本州を狙っている。
あたかも意志あるものの戦略的行動のように見える。
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日本付近の進路予想

通常今頃は、日本の南の海上に太平洋高気圧が張り出すため、その北側を吹く西よりの風や、ジェット気流と呼ばれる上空の強い西風に流され、日本付近では北東方向に進む。
ところが10号は、日本付近で北西に変わると予測されている。
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台風10号 史上初ルートで本州接近・上陸へ

原因は、「いつもより東に偏った太平洋高気圧」と「寒冷渦」と言われる。
台風10号は、東日本に接近すると、寒冷渦の反時計回りの風に乗って、「東北太平洋側からの上陸」の可能性が高まっている。
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台風10号 史上初ルートで本州接近・上陸へ

史上初ルートと言われるが、本州中央に上陸した台風に狩野川台風がある。
1958年(昭和33年)9月27日、台風第22号が神奈川県に上陸した。
伊豆半島と関東地方に大きな被害を与えたが、特に狩野川流域で被害が大きかったことから、狩野川台風と命名された。
伊豆半島の状況について、狩野川台風-Wikipediaには、以下のように記されている。

雨は25日から降り始めたが、台風と前線の影響で26日にはわーとなり、台風の中心が伊豆半島に最も接近した26日20時から23時頃が最も激しく、湯ヶ島では21時からの1時間雨量が120ミリメートルにも達し、総雨量は753ミリメートルに及んだ。
この大雨のために、半島の中央部を流れる狩野川では上流部の山地一帯で鉄砲水や土石流が集中的に発生した。天城山系一帯では約1,200箇所の山腹、渓岸崩壊が発生[。旧中伊豆町の筏場地区においては激しい水流によって山が2つに割れたほどだった。同時に、所によっては深さ12メートルにもなる洪水が起こり、これが狩野川を流れ下った。この猛烈な洪水により、川の屈曲部の堤防は破壊されて広範囲の浸水が生じ、また途中の橋梁には大量の流木が堆積し、巨大な湖を作った後に「ダム崩壊現象」を起こしてさらに大規模な洪水流となって下流を襲った。旧修善寺町では町の中央にある修善寺橋が同様の状態になり、22時頃に崩壊し鉄砲水となって多くの避難者が収容されていた修善寺中学校が避難者もろとも流失した。さらに下流の大仁橋の護岸を削り、同町熊坂地区を濁流に飲み込み多数の死者を出した。この地区の被害が大きかったために、当時の首相である岸信介がヘリで視察に来るほどだった。旧修善寺町の死者行方不明は460人以上。その他、旧大仁町・旧中伊豆町など狩野川流域で多くの犠牲者が出た。
狩野川流域では、破堤15箇所、欠壊7箇所、氾濫面積3,000ha、死者・行方不明者853名に達し、静岡県全体の死者行方不明者は1046人で、そのほとんどが伊豆半島の水害による。

台風第22号は進路を北北東ないし北東に取って26日21時頃伊豆半島のすぐ南を通過し、27日0時頃に神奈川県東部に上陸した。
勢力は衰えていたが日本付近に横たわる秋雨前線を刺激し、東日本に大雨を降らせた。
27日1時には東京のすぐ西を通過して、6時には三陸沖に抜け、9時に宮城県の東の海上で温帯低気圧になった。
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狩野川台風-Wikipedia

今年の台風10号とは大分進路が異なる。
狩野川台風の被害は、静岡県では、空前絶後と言って良いだろう。
狩野川の洪水対策としては、狩野川放水路が、1951年6月に建設に着手されていたが、完成する前に狩野川台風の直撃を受けた。
完成したのは、それから7年後の1965年7月にであった。
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狩野川放水路-Wikipedia

平成27年の台風第18号では、上流域の天城山で400mm超の大雨を観測し、この放水路がなければ浸水被害もあり得たと言われる。

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