戦後史断章

2016年8月28日 (日)

台風10号の経路と狩野川台風/戦後史断章(25)

台風10号の動きが不気味だ。
八丈島付近で発生し、南西方向に進んだ後、エネルギーを蓄えて、本州を狙っている。
あたかも意志あるものの戦略的行動のように見える。
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日本付近の進路予想

通常今頃は、日本の南の海上に太平洋高気圧が張り出すため、その北側を吹く西よりの風や、ジェット気流と呼ばれる上空の強い西風に流され、日本付近では北東方向に進む。
ところが10号は、日本付近で北西に変わると予測されている。
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台風10号 史上初ルートで本州接近・上陸へ

原因は、「いつもより東に偏った太平洋高気圧」と「寒冷渦」と言われる。
台風10号は、東日本に接近すると、寒冷渦の反時計回りの風に乗って、「東北太平洋側からの上陸」の可能性が高まっている。
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台風10号 史上初ルートで本州接近・上陸へ

史上初ルートと言われるが、本州中央に上陸した台風に狩野川台風がある。
1958年(昭和33年)9月27日、台風第22号が神奈川県に上陸した。
伊豆半島と関東地方に大きな被害を与えたが、特に狩野川流域で被害が大きかったことから、狩野川台風と命名された。
伊豆半島の状況について、狩野川台風-Wikipediaには、以下のように記されている。

雨は25日から降り始めたが、台風と前線の影響で26日にはわーとなり、台風の中心が伊豆半島に最も接近した26日20時から23時頃が最も激しく、湯ヶ島では21時からの1時間雨量が120ミリメートルにも達し、総雨量は753ミリメートルに及んだ。
この大雨のために、半島の中央部を流れる狩野川では上流部の山地一帯で鉄砲水や土石流が集中的に発生した。天城山系一帯では約1,200箇所の山腹、渓岸崩壊が発生[。旧中伊豆町の筏場地区においては激しい水流によって山が2つに割れたほどだった。同時に、所によっては深さ12メートルにもなる洪水が起こり、これが狩野川を流れ下った。この猛烈な洪水により、川の屈曲部の堤防は破壊されて広範囲の浸水が生じ、また途中の橋梁には大量の流木が堆積し、巨大な湖を作った後に「ダム崩壊現象」を起こしてさらに大規模な洪水流となって下流を襲った。旧修善寺町では町の中央にある修善寺橋が同様の状態になり、22時頃に崩壊し鉄砲水となって多くの避難者が収容されていた修善寺中学校が避難者もろとも流失した。さらに下流の大仁橋の護岸を削り、同町熊坂地区を濁流に飲み込み多数の死者を出した。この地区の被害が大きかったために、当時の首相である岸信介がヘリで視察に来るほどだった。旧修善寺町の死者行方不明は460人以上。その他、旧大仁町・旧中伊豆町など狩野川流域で多くの犠牲者が出た。
狩野川流域では、破堤15箇所、欠壊7箇所、氾濫面積3,000ha、死者・行方不明者853名に達し、静岡県全体の死者行方不明者は1046人で、そのほとんどが伊豆半島の水害による。

台風第22号は進路を北北東ないし北東に取って26日21時頃伊豆半島のすぐ南を通過し、27日0時頃に神奈川県東部に上陸した。
勢力は衰えていたが日本付近に横たわる秋雨前線を刺激し、東日本に大雨を降らせた。
27日1時には東京のすぐ西を通過して、6時には三陸沖に抜け、9時に宮城県の東の海上で温帯低気圧になった。
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狩野川台風-Wikipedia

今年の台風10号とは大分進路が異なる。
狩野川台風の被害は、静岡県では、空前絶後と言って良いだろう。
狩野川の洪水対策としては、狩野川放水路が、1951年6月に建設に着手されていたが、完成する前に狩野川台風の直撃を受けた。
完成したのは、それから7年後の1965年7月にであった。
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狩野川放水路-Wikipedia

平成27年の台風第18号では、上流域の天城山で400mm超の大雨を観測し、この放水路がなければ浸水被害もあり得たと言われる。

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2016年1月14日 (木)

『母と暮らせば』と複素的な世界観/戦後史断章(24)

山田洋次監督の『母と暮らせば』は、山田監督の「70年談話」に相当するものと考えられよう。
「戦後70年」だった昨年は、さまざまな議論が交わされた。
中でも、安倍首相は入念な準備の上に談話を発表した。
⇒2015年8月15日 (土):安倍首相の「70年談話」を読む/日本の針路(213)
その評価は人によってさまざまであろうが、「戦後レジーム」の否定は彼の一貫した主張である。
「戦後」とひと言で言うけれど、もちろん戦争があっての「戦後」である。
多くの戦死者、戦傷者、あるいは難民となた人々の上に戦後はある。

『母と暮らせば』は、井上ひさしさんに捧げたオマージュである。
井上ひさしさんの、『父と暮らせば』は、広島の原爆で死んだ父と生き残った娘との物語である。
『母と暮らせば』は、舞台を長崎に移し、死んだ息子・浩二(二宮和也)と生き残った母・伸子(吉永小百合)に変えた。
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http://hahatokuraseba.jp/

長崎医大の学生だった浩二は、8月9日に大学の講義を受講中に、原爆で一瞬のうちにこの世から消えてしまう。
原爆の爆風で浩二の使っていたインク瓶が変形して溶けていく映像が印象的だ。
物語は、亡霊の浩二と母の会話を軸として進む。

実の世界と虚の世界があるという考え方がある。
実軸と虚軸で構成される複素平面的世界観とでも言えよう。
虚軸は不可視ではあるが、深層の世界で作用している。
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【色即是空】の意味

浩二は亡霊であるから、浩二との会話は虚の世界である。
母の心の中の出来事とも考えられる。
もちろん虚の世界だけでなく、実の世界も描かれている。

実の世界の登場人物には、浩二の恋人だった町子(黒木華)や「上海のおじさん」(加藤健一)、町子と結婚することになる黒田(浅野忠信)などである。
町子は親身になって伸子の世話をしているが、伸子の「浩二のことはもう忘れて、いい人がいたら結婚しなさい」という説得を受け入れて、復員した同じ学校の教師の黒田と結婚する。
黒田は戦争で負傷した障害者で、戦争の犠牲者の一人である。

町子と黒田を結びつけるのは、浩二が遺したメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のレコードである。
甘く切ないメロディが効果を上げている。
「上海のおじさん」は闇市で逞しく商売するフーテンの寅さんのような人物である。
井上ひさしさんは、一時期浅草で渥美清と一緒に仕事をしていたことがあり、山田洋次監督の両者への思い入れの一端が窺われる。

昨年は1年を通してテロの印象が強かった。
理不尽なテロに屈してはならないだろうが、テロに対する戦いとしての空爆が解決の手段になるのだろうか?  
現在も、空爆によって多数の無辜の市民が犠牲になっている。
広島・長崎への原爆投下は、その極限的なものである。
また、ヨーロッパに逃れた大量の難民は、新たな問題の火種になっている。
負の連鎖である。

今年も年初から、サウジアラビアとイランの国交断絶や北朝鮮の水爆(?)実験など、世界は不穏な雰囲気に包まれている。
安倍晋三政権は、積極的平和主義を標榜して、集団的自衛権を軸とする安保法を成立させた。
他国の戦争に介入することが積極的平和とは、普通の感覚では理解しかねる。
常識的な平和主義に戻る年でありたい。

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2016年1月13日 (水)

沼津自由大学というトライアル/戦後史断章(23)

敗戦の翌年の昭和21(1946)年、沼津中学(現沼津東高)の昭和8年卒業生の同窓会が、開かれた。
同期生の少なからぬメンバーが戦死していた。
生き残った会員の中から、祖国と郷土の再興を誓う声が上がり、その根本は文化運動ではないかということになった。

同窓会は、「昭八会」と名付けられ、具体的な活動が始まり「沼津自由大学」と名付けられ、第1回が7月7日から14日にかけて連続講演会が開かれた。
講師には、各界の超一流人が名を連ねた。
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沼津史談会という集まりで、同会の会員でもあり昭八会のメンバーでもある矢田保久氏(100歳)が講演する予定だったが、当日体調がすぐれずピンチヒッターが立ったが、当時の資料などを閲覧することができた。
交通事情も良くない中で、よくこれだけの講師陣を揃えたと感嘆する。

昭八会の会員に朝日新聞の東京本社の記者がおり、そのツテを生かしたことが大きいだろう。
その他に、沼津中学の美術の教師を務めていた前田千寸(ゆきちか)という人の存在が大きかった。
沼津中学は、芹沢光治良、井上靖、大岡信という3人のペンクラブ会長を出している。
3人ともが、前田の薫陶を受けている。
『黯い潮』『夏草冬涛』(井上靖)、『人間の運命』(芹沢光治良)等の作品には前田千寸をモデルとした人物が登場している。

例えば、井上靖は、『青春放浪』で次のように書いている。

 この教師に、私は終戦後に、中学卒業以来初めてあって、彼が『日本色彩文化史の研究』という大著に取り組んでいることを始めて知った。私たちが中学生であった当時、前田さんはこの終生の仕事に既に取りかかっていたのであった。
   私は「黯い潮」という小説にその旧師の仕事を書かせてもらった。前田さんの仕事は河出書房から出た『むらさき草』という書物としてみのり、毎日出版文化賞を受けた。そして更に全部の仕事が岩波書店から出た『日本色彩文化史の研究』という大著として完成した。

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2015年12月21日 (月)

バブル経済と名門企業の退場/戦後史断章(22)

戦後の経済でバブルと呼ばれるのは、Wikipediaで、次のように』説明する時期である。

バブル景気(バブルけいき)は、景気動向指数(CI)上は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象とされる。情勢自体はバブル経済と同一であり、平成景気(へいせいけいき)や平成バブル景気(へいせいばぶるけいき)とも呼ばれる。日本国政府の公式見解では数値上、第11循環という呼称で、指標を示している。
ただし、多くの人が好景気の雰囲気を感じ始めたのはブラックマンデーをすぎた1988年頃からであり、政府見解では、1992年2月までこの好景気の雰囲気は維持されていたと考えられている。

東京新聞の連載『甦る経済秘史(8)日銀「空白の1年」 バブル経済狂乱を放置』に次のような記述がある。

 一九八八年。住宅は次々マンションに、山はゴルフ場に変貌。東京圏の住宅地地価は一年で七割上がった。一軒三十一億円の建売住宅が売り出され、五百万円前後の日産自動車のシーマに予約が殺到。経済成長率は7%を超えていた。
 背後にいたのは銀行。土地を担保にどんどん金を貸した。
 「無担保なら五千万円、有担保なら五億円まで貸します」。日銀調査統計局長だった南原晃(82)の家にも銀行員が訪れ、不動産投資を勧誘。南原は「地価が崩れたらどうなるのか」と警鐘を鳴らすリポート作成に着手した。
 「銀行も証券もたがが外れて、めちゃくちゃに走ってる」。調査担当理事・鈴木淑夫(84)に、営業担当理事の佃亮二(84)は不安をぶつけた。
 だが「円卓」の座につけば皆、下を向き沈黙した。
 「総裁も副総裁も動けないのが分かっているのに、利上げを話題に出すこと自体、大人げない感じがあった」と鈴木が円卓の状況を証言する。米国の経常赤字削減のために円高を決めた八五年のプラザ合意を受け、日銀は景気への打撃を和らげようと2・5%まで利下げ。八七年には副総裁の三重野康が物価を簡単に火がつく「乾いた薪」に例えて利上げを探る。だが、十月に米国で株が急落する「ブラックマンデー」が発生。金融恐慌を警戒する米国に配慮、大蔵省は利上げをとどまるよう強力に圧力をかけていた。
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この時期、多くの名門企業が取り返しのつかない傷を負った。
日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、山一證券、三洋証券等々である。
⇒2008年7月19日 (土):旧長銀粉飾決算事件
⇒2009年1月26日 (月):長銀粉飾決算事件再考
⇒2009年1月27日 (火):長銀粉飾決算事件再考②

バブル期を代表する人物に故高橋治則氏がいる。
イ・アイ・イ・インターナショナルの社長として、リゾート施設を中心に総資産1兆円超の企業グループを構築した人である。
背任容疑で東京地検特捜部に逮捕・起訴されていたが、東京高裁より懲役3年6ヶ月の実刑判決を受け、最高裁判所に上告中の2005年クモ膜下出血により59歳で死去した。

高橋氏と親密交際が問題視されたのが、大蔵省主計局次長などを務めた中島義雄氏である。
1997年、京セラ入社して、京セラミタ専務、京セラ北京代表所首席代表等を経て、2005年、船井電機取締役兼執行役副社長に就任した。
その後、2009年にセーラー万年筆に常務取締役として入社し、12月に前社長死去に伴い社長に就任した。
最近、社長を解任されたことがニュースになった。

老舗の文具メーカー「セーラー万年筆」の社長交代をめぐり、会社側と前社長が対立する異例の事態となっている。同社は12月12日、代表取締役社長だった中島義雄氏が「代表権のない取締役」となり、代わりに比佐泰取締役が代表取締役社長になるという決議を、取締役会でおこなったと発表した。その2日後、この決議が、中島氏を除く4人の社内取締役による「社長解任」だったことが明らかにされた。
一方、中島氏は12月14日、「社長解任の決議は無効」として、社長の地位の確認を求めて、東京地裁に仮処分を申請した。そのような動きに対して、セーラー万年筆はウェブサイトで、中島氏の社長としての行動に問題があったので他の社内取締役たちが辞職を求めたが、拒否されたために社長解任を決議した、という経緯を説明。定時取締役会における解任決議の手続に問題はなく、有効であると主張している。
セーラー万年筆「社長解任劇」が話題

バブル経済を「概ね不動産や株式をはじめとした時価資産価格が、投機によって経済成長以上のペースで高騰して実体経済から大幅にかけ離れ、しかしそれ以上は投機によっても支えきれなくなるまでの経済状態を指す」(Wikipedia)としたら、現在もそうではないか、という気がする。

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2015年9月12日 (土)

モーレツからビューティフルへ/戦後史断章(21)

9月9日の日本経済新聞のコラム「春秋」が、「モーレツからビューティフルへ」という広告キャンペーンのことを書いている。
1970年、創業期の富士ゼロックスのことである。

▼広告を企画した電通の藤岡和賀夫氏は当時、環境破壊など高度成長によるひずみが気になっていた。これまでのモーレツ主義とは逆の価値観を、あえて企業広告で世に問いたい。そう思い「ビューティフル」という言葉に行き着く。この挑戦を即座に受け入れた富士ゼロックス側の担当者が後の社長、小林陽太郎氏だった。▼繁栄のただ中で、後の日本のありようを先取りした藤岡氏と小林氏。広告と企業経営というそれぞれの分野で、両者とも未来を見据えた提案を続けた。藤岡氏は、派手な名所よりも、何気ない街の風景や普通の人々を前面に出した国鉄の広告「ディスカバージャパン」でも指揮を執り、今に至る女性たちの旅の形を作った。▼小林氏は早くから社員のボランティア活動などを応援し、広く企業の社会的責任(CSR)の重要性を説いたことで知られる。その2人が相次ぎ鬼籍に入った。「21世紀になりモーレツからビューティフルへというメッセージは、より意味を持っているのではないか」。10年ほど前、本紙の記事で小林氏はそう語っている。

小林陽太郎氏と藤岡和賀夫氏のことは、小林氏の訃報に関連して軽く触れた。
⇒2015年9月 7日 (月):社会的存在としての企業のあるべき姿・小林陽太郎/追悼(75)

1970年、私は社会人2年目だった。
この年の記憶に残る出来事をWikipediaより抜粋してみよう。

3月14日 - 日本万国博覧会(大阪万博)開幕( - 9月13日)。
3月31日 - 日本航空機よど号ハイジャック事件発生。
6月23日 - 日米安全保障条約自動延長。全国で安保反対統一行動が行われ、77万人が参加。
8月2日 - 東京都内ではじめての歩行者天国が銀座、新宿、池袋、浅草で実施。
10月1日 - 日本国有鉄道(国鉄)が「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを開始。
11月25日 - 三島由紀夫、市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部にて割腹自決(三島事件)。

個人的な記憶で言えば、大きく社会が動こうとしているのを肌で感じた気がする年だった。
⇒2011年7月27日 (水):大阪万博パラダイム/梅棹忠夫は生きている(2)
「春秋」に触発されて、書棚の片隅に眠っていた一冊の本を探し出した。
藤岡和賀夫『モーレツからビューティフルへ-藤岡和賀夫全仕事2』PHP研究所(1988年4月)。
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キャンペーン誕生について、藤岡氏は次のように回想している。

 それはある日の車中の出来ごとでした。私は、その頃通い始めた富士ゼロックスの宣伝部長の小林陽太郎さん(現社長)に、車の中で思い切って切り出してみたのです。
 どうも最近のモーレツブームは気に入りませんね。どうでしょう。ひとつ、富士ゼロックスが先に立って、「モーレツからビューティフルへ」というメッセージを出して「ビューティフル」を世の中にキャンペーンしてはいかがでしょう。
 私たちは、確か毎日新聞社へ向かうところでした。丁度、小林さんと私とで、『人間と文明』という富士ゼロックスの紙上万博企画ともいうべき仕事を話し合っていましたから、何度か新聞社へ一緒に行く都合があったのです。
 もちろんと言いますか、私にはプレゼンテーションのための企画書ひとつ用意がありませんでした。何しろ、こんな広告とは言えない広告の提案なのですから、とりあえずはただ雑談的に私の考え方を聞いて貰えればいい。そんな、私にしたら控え目な気持が車中のチャンスを利用したというわけです。
 それがどうでしょう。小林さんからは、あ、結構じゃないですか、面白いですね、と即座に返事が返ってきた。赤坂を出て千鳥ヶ淵にかかる頃です。

ちなみにモーレツブームというのは、1969年、丸善石油のハイオクガソリンのCMで、猛スピードで走る自動車が巻き起こした風で小川ローザというタレントのミニスカートがまくりあがり、「Oh! モーレツ」と叫ぶ内容で一世を風靡した現象である。
幼児の間でも「Oh! モーレチュ」と言い、スカートめくりが流行するほど社会現象にまでなった。
まだまだ工業社会は隆盛であったが、「成長の限界」が意識され始めてもいた時代であった。
⇒2011年12月24日 (土):『成長の限界』とライフスタイル・モデル/花づな列島復興のためのメモ(15)

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2015年7月26日 (日)

本気で自衛隊の治安出動を考えた岸信介/戦後史断章(20)

自衛隊には、他国からの武力攻撃に対処するための防衛と並んで治安出動という任務がある。
治安出動とは、緊急事態や治安上重大な事態に際し、自衛隊の全部または一部を出動させて、治安の維持をはかることを自的とした活動である(自衛隊法第78条、同81条)。
ただし、「一般の警察力をもっては、治安を維持することができないと認められる場合」(同78条第1項)である。
防衛庁・自衛隊の発足から今日まで、治安出動が行われたことは一度もない。

そのことは戦後といわれる期間、平和主義憲法下に現存する実力組織・自衛隊の性格の一面を示すものであろう。
しかし、治安出動が本気で検討されたことが1回だけあった。
「60年安保闘争」の国民的盛り上がりに対して、岸信介が、時の自民党幹事長・川島正次郎を通じて、防衛庁長官だった赤城宗徳に、デモを鎮圧するため自衛隊の治安出動を要請したのである。
赤城はこれを拒否した。
赤城は、「武器を持った自衛隊の出動で死者が出れば、デモは革命的に全国に発展する。そうしたら、収拾がつかなくなる」と考えたという。
岸の暴走を止める理性が、当時の閣僚にはあったということだ。

「60年安保闘争」は、戦後史を画する出来事であった。
⇒2015年6月29日 (月):吉本隆明『擬制の終焉』/私撰アンソロジー(38)
岸信介は、安保条約の改正を政権獲得時の重要課題としていた。

岸は、敗戦後直ぐにA級戦犯容疑で逮捕されたことがあったが、東条英機らが処刑された翌日に釈放されている。
岸内閣は、軍事・教育・治安三点セットでの統制を強めた(福井紳一『戦後史をよみなおす――駿台予備学校「戦後日本史」講義録』講談社(1111)。
統制経済を主導した官僚の政治家としての姿ということだろう。

1958年10月に、警察官職務執行法改正案が国会に提出された。
激化していた勤評闘争を押さえることが目的といわれ、「戦後版治安警察法」などといわれた。
この法案は廃案になったが、その過程で、社会党・総評を中心に市民レベルに反対闘争が広まった。
岸は、1957年訪米して、アイゼンハワー大統領と「日米新時代声明」という共同声明を出し、1960年1月、ワシントンで日米新安全保障条約に調印する。
⇒2012年10月22日 (月):60年安保と岸信介/戦後史断章(3)

安倍首相が、日本の国会での審議を経ないで、安保法案の成立をアメリカ議会で約束したことが、既視感のように思えるのは、このような経緯があるからであろう。
そして、60年に入ると、全国の老若男女が反安保・反岸といった感じになっていく。

5月、自民が日米安保新条約を強行採決。6月15日、デモ隊と警官隊が衝突し東大生の樺美智子さんが死亡した。アイゼンハワー米大統領は来日中止。新安保は19日に自然承認。23日、岸信介首相が辞任表明。
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1960年 安保の対立、犠牲者も

これから参議院での審議が始まる。
安倍首相自ら、国民の理解が進んでいないという安保法案。
にもかかわらず、珍妙な解説で説明した気になっている。
国民は、理解していないというよりも、何かを隠そうとしているのではないかと感じてしまっているのだ。
反安倍の運動は、今まで政治的な意識が薄いと言われてきた層をも巻き込んで行くことになるだろう。
まさに戦後レジームの評価が問われているのだ。

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2015年3月20日 (金)

地下鉄サリン事件から20年/戦後史断章(19)

あの戦慄の地下鉄サリン事件から20年目の日である。
この年は1月から騒然とした雰囲気だった。
前年からオウム真理教をめぐり、日本全体が劇場社会化していた。
⇒2010年5月 2日 (日):「恐竜の脳」の話(2)オウム真理教をめぐって

1月に阪神淡路大震災が起きた。
⇒2015年1月17日 (土):阪神淡路大震災から20年/日本の針路(99)

オウム真理教という宗教組織には理系の高学歴者が多かった。
例示すると、以下のような名前がメディアを賑わせていた。
・青山吉伸:京都大学法学部
・村井秀夫:大阪大学理学部物理学科→大阪大学大学院
・早川紀代秀:神戸大学農学部→大阪府立大学大学院
・中川智正:京都府立医科大学
・遠藤誠一:帯広畜産大学→京都大学大学院
・土谷正実:筑波大学農林学類→筑波大学大学院
・豊田亨:東京大学医学部
・富永昌宏:東京大学理学部→東京大学大学院
・廣瀬健一:早稲田大学理工学部応用物理学科
・林郁夫:慶應義塾大学医学部
・上祐史浩:早稲田大学理工学部電子通信学科→早稲田大学大学院
⇒2011年11月25日 (金):オウム真理教事件と知的基礎体力(?)

地下鉄サリン事件は、現在から見れば追い詰められていることを自覚した教団の最後の賭であったというべきであろう。
しかし、最初は何事が起きたのか良く分からなかった。
一応化学系の学科を卒業したが、「サリン」などという化合物は聞いたことがない。
塩素系だというから、いわゆる毒ガスの一種だろうとは思ったが、まさか日本の地下鉄で撒くなどということが起きるだろうか。
しかも、都心の乗降客の多い駅である。
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東京新聞3月20日

まさに狂気としか言いようのない事件であった。
しかし、オウム真理教事件は未だ決着していない。
後継組織は新たな信者獲得に躍起である。
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東京新聞3月17日

国際的にはIS(イスラム国)を始めとするテロが後を絶たない。
科学技術が進歩しても、不可解なのが人間である。

東京新聞社説で引用している山室恵弁護士の言葉が重い。
山室弁護士は、東京地裁で林郁夫被告に死刑ではなく、無期懲役を判決を言い渡した人である。

若い世代へ向け、山室さんは林受刑者に言い渡した判決の一部をゆっくりと読み上げて紹介した。
 「なまじ純粋な気持ちと善意の心を持っていただけに、かえって『真理』や『救済』の美名に惑わされ、視野狭窄(きょうさく)に陥って、麻原(死刑囚)の欺瞞(ぎまん)性、虚偽性を見抜けなかった」
 美しいものを正面から見てものめり込まない。引いて見る。斜めから見る。いわば裏側を疑ってみる姿勢の大切さを説いた。
 人の純真さが美しいものを介し、凶器へと豹変(ひょうへん)した事例を幾度も見聞きしてきたのだろう。世代を問わず肝に銘じたい。
地下鉄サリン20年 凶行の中に人間の弱さ

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2014年9月23日 (火)

朝日新聞、ソニーの凋落と戦後という時代の終わり/戦後史断章(18)

朝日新聞が火だるまになっている。
私は朝日を擁護する義理はないが、産経、読売、週刊新潮、週刊文春、「たかじんのそこまで言って委員会」等がこぞって朝日バッシングに狂奔している状況は肌寒い感じがする。
しかし、問題拡大の一因となった池上彰氏のクールな対応などに救われたような気がした。
⇒2014年9月18日 (木):朝日新聞の2つの「吉田証言」問題/日本の針路(44)

ネットでも基本的には朝日はサンドバッグ状態であるが、「泉の波立ち」を書いている南堂久史氏等の正気な論客がいる。
以下、南堂氏のOpenブログを引用しよう。

 実を言うと、朝日の誤報など、たいしたことはない。吉田調書の誤報は、ただの言葉のニュアンスの問題ぐらいにすぎない。慰安婦の誤報は、はるか昔のことであり、現在においてはほとんど影響がない。
 一方、読売の誤報は、原発の真の原因を隠そうとしたり、浜岡原発を「安全だ」と誤報することで日本を滅亡させようとしている。
  → 読売の歪曲報道
 また、安倍晋三の方は、「菅首相がデマを飛ばした」というデマを自分自身が飛ばしたし、その前の第一期首相時代には、「原発は安全だ」という虚偽を語ることで、原発事故の直接の原因をもたらした。
  → 安倍晋三のデマ(海水注入の中止) の 【 追記 】
 ここから国会答弁を引用しよう。

   Q(吉井英勝):原子炉が破壊し放射性物質が拡散した場合の被害予測や復旧シナリオは考えてあるのか
   A(安倍晋三):そうならないよう万全の態勢を整えているので復旧シナリオは考えていない


 こういう形で、日本に原発事故の被害をもたらした張本人が、安倍晋三なのである。なのに、その責任を問うこともなく、原発事故の鎮静化のために努力した菅直人を非難したり、真実を隠蔽しようとする安倍内閣の秘密を探り出した(調書を見つけた)朝日を攻撃したりする。
 比喩的に言えば、殺人事件があったときに、殺人犯を非難するかわりに、事件の被害者の救済に当たった消防署員(≒ 菅直人)を非難したり、殺人事件を隠蔽しようとする悪徳警官(≒ 安倍晋三)の隠していた資料を暴露する記者(≒ 朝日)を避難する。
 こういう滅茶苦茶なことをやっているのが、保守派なのだ。

「たかじんのそこまで言って委員会」は、たかじん氏亡き後も番組が存続しており、現在は辛坊治郎氏が総合司会を務めている。
前回の放映では、津川雅彦氏(俳優)、加藤清隆氏(政治評論家・時事通信社特別解説委員)、竹田恒泰氏(憲法学者(但し自称)・作家)などのレギュラーメンバー、花田紀凱氏(元週刊文春編集長・月刊『WiLL』編集長)、百田尚樹氏(作家・「探偵!ナイトスクープ」構成作家、NHK経営委員)などの準レギュラー、櫻井よしこ氏らが嬉しそうに悪乗りして朝日バッシングをやっていた。
ほとんどイジメを思わせる雰囲気だった。

時を同じくして、ソニーの苦境が報じられている。

 ソニーは、2015年3月期の最終損益の見通しを、従来予想(500億円の赤字)の5倍近い、2300億円の赤字に下方修正。さらに、1958年の上場以来続けてきた配当を、初めて無配にすると発表した。
 大幅な赤字見通しの最たる要因は、スマートフォンの販売不振が招いたモバイル(MC)分野の減損にある。
スマホ事業減損で初の無配

私が大学に入ったのは1963年であるが、下宿生活で初めて購入した高額(?)商品がソニーのトランジスタラジオだった。
TVや冷蔵庫などは考えることもできない時代だった。
ケネディ暗殺のニュースは叔父の家のTVでリアルタイムで視聴したが、ソニーのラジオで忘れられないのは三井三池炭鉱の粉塵爆発のニュースだった。
「石炭から石油へ」のエネルギー革命を象徴する事故であった。

1962年には、ソニーの工場を昭和天皇が視察し、世界最小・最軽量のTV試作品を見た。
井深大社長(当時)は、「まだ世の中に出ていませんから」と説明し、天皇に口止めしたと話題になった。
技術オリエンテッドな経営で独創的な製品を送り出し、ブランドロイヤリティを築いた。
いつの頃からか、MBA的経営になって、ソニーは輝きを失った。

朝日新聞社とソニーという戦後史に大きな足跡を残した企業が、正視できないような無残な姿をさらしている。
これを戦後レジームの終焉と考えるべきか?
いま、日本社会は大きな転換期を迎えていることは間違いないだろう。

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2013年12月 6日 (金)

安全保障の名目で国を危うくする安倍一族/戦後史断章(17)

特定秘密保護法案が、5日の参院国家安全保障特別委員会で自民、公明両党の賛成多数で可決した。
両党は、6日までの会期を延長した上で、参院本会議で可決、成立させる方針だ。
22時時点では可決されたという報道はないが、時間の問題というものだろう。

それにしても、終盤に来て反対論が急速に盛り上がってきたような感じがする。
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東京新聞12月5日

世論調査の結果も今国会での成立を支持する声は少ない。
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http://www.asahi.com/politics/update/1201/TKY201312010146.html

これだけの反対の声を封殺して急ぐのはなぜか?
時を置くに連れ、反対論が強まると予測されるからではないか?

森鴎外の小説に、『阿部一族』という作品がある。
鴎外の歴史小説の中の代表作と目されるもので、多分、中学か高校の頃に読んだはずであるが、内容は忘却し、タイトルだけ覚えている。
以下は、タイトルからの連想であって、内容には全く関係がない。

安倍首相の系図は以下のようである。
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総理大臣の家系図

まさに「華麗なる一族」というべきであろう。

一族の中で、特に注目すべきは、岸信介-佐藤栄作の兄弟であろう。
岸信介は、安倍晋三の祖父(母・洋子の父)である。
東京帝国大学法学部卒業後、農商務省に入省、同省廃止後は商工省にて要職を歴任した。
建国されたばかりの満州国に渡り、国務院の高官として「満州開発五か年計画」などを手がけた。
その後、東條内閣では商工大臣として入閣したが、太平洋戦争後にA級戦犯被疑者として逮捕されるも、不起訴となる。
公職追放解除後に政界に復帰し、石橋湛山の病気により石橋内閣が総辞職すると、後任の内閣総理大臣に指名され、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の成立に尽力した。
⇒2012年12月24日 (月):エリート官僚としての岸信介/満州「国」論(13)

石橋湛山は私の住んでいた地区の選挙区(中選挙区)であり、岸が首相に指名された時のことは遠い記憶として残っている。
⇒2011年7月24日 (日):様々なる引き際-魁皇、湛山、菅総理
しかし何と言っても岸の記憶は、60年安保とセットになっている。
⇒2012年10月22日 (月):60年安保と岸信介/戦後史断章(3)
60年安保は、安保条約の中身の問題よりも、改定を進めようとする岸内閣および自民党のやり方に対する反感だったといえる。
⇒2007年10月11日 (木):「60年安保」とは何だったのか

佐藤栄作は、東京帝国大学卒業後、鉄道省に勤務し、運輸省の次官を最後に退官すると、非議員ながら第2次吉田内閣の内閣官房長官に任命された。
その後、第24回衆議院議員総選挙(1949年)で当選し、一年生議員ながら自由党の幹事長に就任した。
1964年、池田勇人が病気で退陣すると、後継に指名された。
1972年に退陣するまで、首相の連続在任期間は歴代総理中最長の7年8ヶ月に及んだ。
私は1963年に大学に入学し、修士課程を69年に終了しているので、ほとんどの期間が佐藤首相の時代ということになる。

岸と佐藤は、総裁公選のすぐ後に当選者(石橋、池田)が病気退陣することに伴い、惜敗していた次点の候補者として、後継者になるというまったく同一の過程を経て、首相になった。
奇しき因縁といえよう。
岸の60年安保に対し、佐藤は70年安保ということになる。

両安保も、学生を中心とする激しい改定反対運動があったが、安保闘争-Wikipediaによれば、以下のように様相が異なるものであった。

60年安保闘争では安保条約は国会で強行採決されたが、岸内閣は混乱の責任を取り総辞職に追い込まれた。しかし70年安保闘争では左翼側の分裂や暴力的な闘争、抗争が激化し運動は大衆や知識人の支持を失った。

なお、佐藤栄作は、1974年非核三原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて受賞した。
甚だしい違和感を持ったことを憶えている。

佐藤の業績に沖縄返還が挙げられるが、首相就任直後の1965年1月のジョンソン会談に向けて沖縄の勉強を始めたときには「沖縄の人は日本語を話すのか、それとも英語なのか」と側近に尋ねて呆れられたとの逸話がある。
交渉の過程でアメリカ側の要請により「有事の沖縄への核持ち込みおよび通過」について、事前協議が行われた際には日本側が「遅滞なく必要を満たす」ことを明文化した密約の文書が交わされた。
これは、交渉の密使を務めた若泉敬によって、佐藤没後の1994年に暴露され、佐藤の遺品にこの合意議事録が含まれ、遺族が保管していたことが2009年12月に報道された。

岸-佐藤兄弟の歴史的評価は、人によって異なるだろう。
しかし私は、岸の安保改定強行採決は反対だったし、佐藤栄作の密約は国を危うくするものであると思う。

佐藤はノーベルへ平和賞を受賞したが、たまたま今朝、南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策と闘い、同国初の黒人大統領になったネルソン・マンデラ氏が死亡したというニュースが流れた。
ノーベル平和賞には、赤十字社を創設したアンリ・デュナン、ソーシャルワークの先駆者ジェーン・アダムズ、第2次世界大戦後の欧州復興を主導したジョージ・マーシャル、米公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、ミャンマーの民主化指導者アウン・サン・スー・チーなど、平和賞の名に値する人がいる一方で、オバマ大統領などのように、政治的思惑が露骨な受賞者もいる。
佐藤の場合は、「非核三原則-核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」の提唱者であることが授賞理由だから、自ら辞退すべきものであった。

安倍首相は、一族の宿願であるかのように、特定秘密保護法を強引に成立させようとしている。
岸、佐藤を含め、国を危うくする一族と言えるのではなかろうか。

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2013年11月17日 (日)

ケネディ暗殺とアメリカの闇/戦後史断章(16)

新しい駐日米大使のキャロライン・ケネディさんが、15日赴任した。
初めての女性の米大使であるが、父親は元米大統領のジョン・F・ケネディであり、知名度は抜群に高い。
ということもあるが、ケネディ家はアメリカ屈指の名門血族であると言った方がいいだろう。
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http://www.asahi.com/articles/TKY201311150461.html

ジョン・F・ケネディは第35代アメリカ合衆国大統領である。
1960年アメリカ合衆国大統領選挙に民主党指名候補として出馬し、共和党のリチャード・ニクソンを僅差で破った。
1960年は私が高校に入学した年である。
日本社会の空気は、「60年安保」の対立の構図から、この若々しい大統領への期待に一変した。
政治意識に乏しい田舎の高校生にも、何となく新時代の到来を告げているように感じられたことを憶えている。

期待にそぐわず、大統領在任中にピッグス湾事件、キューバ危機、ベルリンの壁の建設、米ソの宇宙開発競争など多くの歴史的事件に精力的に取り組んだ。
しかし、1963年11月22日にテキサス州ダラスで遊説中に暗殺され、犯人として逮捕されたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、2日後にジャック・ルビーによって射殺された。
1963年は私の大学入学の年であるが、たまたま叔父の家で、日米間テレビ宇宙中継の実験放送中を見ていた時に、ケネディ大統領暗殺が中継された。
幼いキャロラインの姿が涙を誘った。
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キャロライン・ケネディ-Wikipedia

素朴にも、民主主義の国と思っていたアメリカで、このような暗殺事件が起きたことはショックであった。
それにしても、「ケネディ暗殺事件」は多くの謎を秘めたまま今日に至っている。
ケネディ暗殺の真相さえ明らかにし得ぬのは、現代アメリカの暗部であり恥部でもあろう。

ケネディが暗殺されたのは、ダラスの市内をオープンカーでパレード中のことであった。
FBI、ウォーレン委員会、下院暗殺特別委員会のいずれもオズワルドによる単独犯行であるという結論を出しているが、暗殺者と暗殺理由は多くの説がある。
証拠物件は政府によって2039年まで不自然に制限されたり、また大規模な証拠隠滅が行われたと推測できる事象が多くあるともいわれる。

謎のいくつかを「ケネディ暗殺の真相」のサイトから要約する。

ケネディ大統領の頭蓋骨に命中した弾丸によりケネディ大統領は死亡したとされるが、公表された銃弾は新品のようだった…
オズワルドには銃を撃った後に検出されるはずの硝煙反応が検出されなかった・・・
オズワルドの位置からは木が邪魔をして撃つことが出来なかった・・・
また、ケネディ大統領は前から撃たれ 後ろに倒れたが、仮にオズワルドが撃ったなら後ろから撃ったはず・・・
大統領の車が通る予定のルート変更が 突然変更になったのも不自然・・・
21人の目撃者・関係者がいるが、4年以内に全員亡くなっている・・・

これくらいで十分であろう。
エイブラハム・ザプルーダーという人によって撮られた暗殺の瞬間の8ミリ映像には、ケネディ大統領の頭部は致命的と見られる射撃によってひどく破壊され、後方に動いている。
直後にケネディ夫人が動揺した様子で後方に目を移し、オープンカーの後方部分に這い出て、護衛にすぐ引き戻されている映像が独立した複数の映像から確認できる。
ケネディ夫人自身はその行動を認め、後方に吹き飛んだケネディの頭部破片を拾うために這い出たことを後に裁判で証言している。

これらは、射撃はすべて「後方から」リー・ハーヴェイ・オズワルド1人によって行われたとする暗殺真相究明委員会(ウォーレン委員会)による政府側報告書と矛盾している。
ケネディ大統領の急進的なベトナム戦争撤退の方針が政府側もしくは軍産複合体の利害と対立して、暗殺につながったという説など、様々な陰謀説が存在するのも根拠なしとは言えない。

ケネディ大使は、19日に天皇陛下に信任状を奉呈する予定で、安倍首相らへの挨拶を済ませてから活動するという。
奇しくも22日はケネディ元大統領の50年目の命日にあたる。
真相は2039年の証拠物件の開示によってはっきりするのであろうか?
ここにも情報開示がカギを握っている問題がある。

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