戦後史断章

2017年8月 9日 (水)

『母と暮らせば』と『シン・ゴジラ』/戦後史断章(27)

長崎に原爆が投下されて72年。
長崎市の平和公園で拓かれた平和祈念式典で、田上富久・長崎市長は、今年7月の核兵器禁止条約の採択を「被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間だった」と歓迎する一方、日本政府に対し、「条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できない」と批判した。
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長崎市長、平和宣言で政府批判 「姿勢理解できない」

被爆地ならずとも、多くの国民が理解できないだろう。
⇒2017年8月 6日 (日):今こそ、主導して核兵器禁止を前に進めるべきだ/日本の針路(325)

去年の1月に公開された『母と暮らせば』は、井上ひさしさんの『父と暮らせば』を本歌とする山田洋次監督作品である。
長崎の原爆で死んだ息子(二宮和也)の亡霊と対話しながら生きる母(吉永小百合)の物語だ。
私は、現実世界(実数的世界)と幻覚の世界(虚数的世界)の複素的世界観の表現だと理解した。
⇒2016年1月14日 (木):母と暮らせば』と複素的な世界観/戦後史断章(24)

ユヴァリ・ノア・ハラリ『サピエンス全史-文明の構造と人類の幸福』河出書房新社((2016年9月)によるまでもなく、われわれは実の世界ばかりではなく、虚の世界にも生きている。
⇒2017年7月22日 (土):仲間ファーストの共謀3・記録を否定する山本地方創生相/アベノポリシーの危うさ(260)

虚の世界の全般的共有は難しいが、部分的な共有はしている。
特に、政治の世界は、吉本隆明が説いたように、「共同幻想」が本質とも言える。
⇒2012年3月19日 (月):吉本隆明の天皇(制)論/やまとの謎(58)
⇒2012年3月20日 (火):『方法としての吉本隆明』/やまとの謎(59)

であれば、「理念」こそが重要である。
日本国憲法の「戦争放棄」規定を虚構・幻想だと否定する人がいるが、その虚構・幻想を地球上に広め、定着させることが重要なのだ。

日本が世に出した代表的なキャラクター「ゴジラ」は、核エネルギーもしくは核兵器のメタファーと考えられる。
⇒2012年10月21日 (日):ゴジラは何の隠喩なのか?/戦後史断章(2)
それは、第五福竜丸事件に触発されて第一作が「水爆怪獣」として設定されたことからも首肯できる。
⇒2011年5月 9日 (月):誕生の経緯と香山滋/『ゴジラ』の問いかけるもの(1)

そして福島原発事故を体験した。
ヒロシマア、ナガサキに次ぐ被曝体験である。
昨年評判になった『シン・ゴジラ』の解読は多様であるが、福島原発事故との関係を抜きにはできないだろう。
⇒2016年8月 1日 (月):『シン・ゴジラ』と福島原発事故/技術論と文明論(60)

今年は、官僚の行動様式が話題になった。
『シン・ゴジラ』の見どころの1つは、官僚機構と危機対応である。
佐川宣寿、前川喜平、藤原豊、柳瀬唯夫氏らの思考と行動が国民の目に晒された。
主権者であるわれわれの判断が問われと言えよう。

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2017年8月 8日 (火)

民主党政権の「顧客満足度」から学ぶ/戦後史断章(26)

このブログを始めて10年。
入院してネットへ接続できなかった期間を除き、基本的には関心の向くままに書いてきた。
当初の想定とはだいぶ変わってきた。
想定していなかった最大の出来事は、やはり東日本大震災と福島原発事故だと思う。
⇒2011年3月11日 (金):大規模地震で日本国はどうなるのか?

私は2012年8月と2016年8月に東北旅行をしたが、2012年の時は、未だ爪痕が生々しい状態であった。
⇒2012年8月27日 (月):大川小学校の悲劇と避難誘導の難しさ/因果関係論(20)・みちのく探訪(1)
去年は直接の被災地へは出向かなかったが、南相馬市出身の知人の話等を聞くと、東日本大震災、とりわけ原発事故からの復興は未だ途上だと感じざるを得ない。

福島原発事故は廃炉の工程の入り口にも立っていない。
規制委の適合性審査は必要条件に過ぎないのに、合格したら可及的速やかに稼働させるというのは明らかに短絡だろう。
⇒2013年7月 9日 (火):規制委の安全性審査は必要条件ではあるが十分条件ではない/花づな列島復興のためのメモ(243)

政治・社会的には民主党への政権交代(とその失敗)が残念であった。
⇒2009年9月 1日 (火):総選挙における「風」と「空気」
政権交代の総選挙の盛り上がりは、戦後史の特筆すべき事象と言える。
自民党政権へのウンザリ感が、空前の風を呼び起こした。

似たような「風」の威力は、最近の都議選でも見られた。
自民党へのウンザリ感の受け皿となったのは、都民ファーストの会であり、民主党の後継である民進党は、戦う前から敗北していたのだった。
⇒2017年7月 2日 (日):都議選の結果は国政にどう影響するか/日本の針路(323)

民進党(旧民主党)は、なぜ、かくも人心から離れてしまったか?
マーケティングにおいて、顧客満足度は次のように表されるという。
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顧客満足度を高めている企業は「事前期待」を掴んでいる

つまり、期待か大きかった分、結果に落胆したのである。
そのガッカリ感が未だに尾を引いている。

現政権不支持の理由の第1位が「首相が信頼できない」であるにかかわらず、支持の理由は「他の政権よりマシ」である。
地方首長選に事例があるように、与野党対決型の選挙では結構反自民側が勝利しているケースが多い。

民進党は細野豪志氏が離党して新党を目指すという。
若狭勝氏の「日本ファーストの会」との合流・統合も噂されている。
どういう形で反自民党政権の受け皿が現実化するのか想定は難しいが、小異を捨てて大同に付くことが必要である。
小沢一郎氏の唱えている「オリーブの木」方式しかないのかも知れない。
次の総選挙では、野党統一候補を何人立てられるかが鍵になると思う。

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2016年8月28日 (日)

台風10号の経路と狩野川台風/戦後史断章(25)

台風10号の動きが不気味だ。
八丈島付近で発生し、南西方向に進んだ後、エネルギーを蓄えて、本州を狙っている。
あたかも意志あるものの戦略的行動のように見える。
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日本付近の進路予想

通常今頃は、日本の南の海上に太平洋高気圧が張り出すため、その北側を吹く西よりの風や、ジェット気流と呼ばれる上空の強い西風に流され、日本付近では北東方向に進む。
ところが10号は、日本付近で北西に変わると予測されている。
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台風10号 史上初ルートで本州接近・上陸へ

原因は、「いつもより東に偏った太平洋高気圧」と「寒冷渦」と言われる。
台風10号は、東日本に接近すると、寒冷渦の反時計回りの風に乗って、「東北太平洋側からの上陸」の可能性が高まっている。
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台風10号 史上初ルートで本州接近・上陸へ

史上初ルートと言われるが、本州中央に上陸した台風に狩野川台風がある。
1958年(昭和33年)9月27日、台風第22号が神奈川県に上陸した。
伊豆半島と関東地方に大きな被害を与えたが、特に狩野川流域で被害が大きかったことから、狩野川台風と命名された。
伊豆半島の状況について、狩野川台風-Wikipediaには、以下のように記されている。

雨は25日から降り始めたが、台風と前線の影響で26日にはわーとなり、台風の中心が伊豆半島に最も接近した26日20時から23時頃が最も激しく、湯ヶ島では21時からの1時間雨量が120ミリメートルにも達し、総雨量は753ミリメートルに及んだ。
この大雨のために、半島の中央部を流れる狩野川では上流部の山地一帯で鉄砲水や土石流が集中的に発生した。天城山系一帯では約1,200箇所の山腹、渓岸崩壊が発生[。旧中伊豆町の筏場地区においては激しい水流によって山が2つに割れたほどだった。同時に、所によっては深さ12メートルにもなる洪水が起こり、これが狩野川を流れ下った。この猛烈な洪水により、川の屈曲部の堤防は破壊されて広範囲の浸水が生じ、また途中の橋梁には大量の流木が堆積し、巨大な湖を作った後に「ダム崩壊現象」を起こしてさらに大規模な洪水流となって下流を襲った。旧修善寺町では町の中央にある修善寺橋が同様の状態になり、22時頃に崩壊し鉄砲水となって多くの避難者が収容されていた修善寺中学校が避難者もろとも流失した。さらに下流の大仁橋の護岸を削り、同町熊坂地区を濁流に飲み込み多数の死者を出した。この地区の被害が大きかったために、当時の首相である岸信介がヘリで視察に来るほどだった。旧修善寺町の死者行方不明は460人以上。その他、旧大仁町・旧中伊豆町など狩野川流域で多くの犠牲者が出た。
狩野川流域では、破堤15箇所、欠壊7箇所、氾濫面積3,000ha、死者・行方不明者853名に達し、静岡県全体の死者行方不明者は1046人で、そのほとんどが伊豆半島の水害による。

台風第22号は進路を北北東ないし北東に取って26日21時頃伊豆半島のすぐ南を通過し、27日0時頃に神奈川県東部に上陸した。
勢力は衰えていたが日本付近に横たわる秋雨前線を刺激し、東日本に大雨を降らせた。
27日1時には東京のすぐ西を通過して、6時には三陸沖に抜け、9時に宮城県の東の海上で温帯低気圧になった。
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狩野川台風-Wikipedia

今年の台風10号とは大分進路が異なる。
狩野川台風の被害は、静岡県では、空前絶後と言って良いだろう。
狩野川の洪水対策としては、狩野川放水路が、1951年6月に建設に着手されていたが、完成する前に狩野川台風の直撃を受けた。
完成したのは、それから7年後の1965年7月にであった。
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狩野川放水路-Wikipedia

平成27年の台風第18号では、上流域の天城山で400mm超の大雨を観測し、この放水路がなければ浸水被害もあり得たと言われる。

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2016年1月14日 (木)

『母と暮らせば』と複素的な世界観/戦後史断章(24)

山田洋次監督の『母と暮らせば』は、山田監督の「70年談話」に相当するものと考えられよう。
「戦後70年」だった昨年は、さまざまな議論が交わされた。
中でも、安倍首相は入念な準備の上に談話を発表した。
⇒2015年8月15日 (土):安倍首相の「70年談話」を読む/日本の針路(213)
その評価は人によってさまざまであろうが、「戦後レジーム」の否定は彼の一貫した主張である。
「戦後」とひと言で言うけれど、もちろん戦争があっての「戦後」である。
多くの戦死者、戦傷者、あるいは難民となた人々の上に戦後はある。

『母と暮らせば』は、井上ひさしさんに捧げたオマージュである。
井上ひさしさんの、『父と暮らせば』は、広島の原爆で死んだ父と生き残った娘との物語である。
『母と暮らせば』は、舞台を長崎に移し、死んだ息子・浩二(二宮和也)と生き残った母・伸子(吉永小百合)に変えた。
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http://hahatokuraseba.jp/

長崎医大の学生だった浩二は、8月9日に大学の講義を受講中に、原爆で一瞬のうちにこの世から消えてしまう。
原爆の爆風で浩二の使っていたインク瓶が変形して溶けていく映像が印象的だ。
物語は、亡霊の浩二と母の会話を軸として進む。

実の世界と虚の世界があるという考え方がある。
実軸と虚軸で構成される複素平面的世界観とでも言えよう。
虚軸は不可視ではあるが、深層の世界で作用している。
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【色即是空】の意味

浩二は亡霊であるから、浩二との会話は虚の世界である。
母の心の中の出来事とも考えられる。
もちろん虚の世界だけでなく、実の世界も描かれている。

実の世界の登場人物には、浩二の恋人だった町子(黒木華)や「上海のおじさん」(加藤健一)、町子と結婚することになる黒田(浅野忠信)などである。
町子は親身になって伸子の世話をしているが、伸子の「浩二のことはもう忘れて、いい人がいたら結婚しなさい」という説得を受け入れて、復員した同じ学校の教師の黒田と結婚する。
黒田は戦争で負傷した障害者で、戦争の犠牲者の一人である。

町子と黒田を結びつけるのは、浩二が遺したメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のレコードである。
甘く切ないメロディが効果を上げている。
「上海のおじさん」は闇市で逞しく商売するフーテンの寅さんのような人物である。
井上ひさしさんは、一時期浅草で渥美清と一緒に仕事をしていたことがあり、山田洋次監督の両者への思い入れの一端が窺われる。

昨年は1年を通してテロの印象が強かった。
理不尽なテロに屈してはならないだろうが、テロに対する戦いとしての空爆が解決の手段になるのだろうか?  
現在も、空爆によって多数の無辜の市民が犠牲になっている。
広島・長崎への原爆投下は、その極限的なものである。
また、ヨーロッパに逃れた大量の難民は、新たな問題の火種になっている。
負の連鎖である。

今年も年初から、サウジアラビアとイランの国交断絶や北朝鮮の水爆(?)実験など、世界は不穏な雰囲気に包まれている。
安倍晋三政権は、積極的平和主義を標榜して、集団的自衛権を軸とする安保法を成立させた。
他国の戦争に介入することが積極的平和とは、普通の感覚では理解しかねる。
常識的な平和主義に戻る年でありたい。

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2016年1月13日 (水)

沼津自由大学というトライアル/戦後史断章(23)

敗戦の翌年の昭和21(1946)年、沼津中学(現沼津東高)の昭和8年卒業生の同窓会が、開かれた。
同期生の少なからぬメンバーが戦死していた。
生き残った会員の中から、祖国と郷土の再興を誓う声が上がり、その根本は文化運動ではないかということになった。

同窓会は、「昭八会」と名付けられ、具体的な活動が始まり「沼津自由大学」と名付けられ、第1回が7月7日から14日にかけて連続講演会が開かれた。
講師には、各界の超一流人が名を連ねた。
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沼津史談会という集まりで、同会の会員でもあり昭八会のメンバーでもある矢田保久氏(100歳)が講演する予定だったが、当日体調がすぐれずピンチヒッターが立ったが、当時の資料などを閲覧することができた。
交通事情も良くない中で、よくこれだけの講師陣を揃えたと感嘆する。

昭八会の会員に朝日新聞の東京本社の記者がおり、そのツテを生かしたことが大きいだろう。
その他に、沼津中学の美術の教師を務めていた前田千寸(ゆきちか)という人の存在が大きかった。
沼津中学は、芹沢光治良、井上靖、大岡信という3人のペンクラブ会長を出している。
3人ともが、前田の薫陶を受けている。
『黯い潮』『夏草冬涛』(井上靖)、『人間の運命』(芹沢光治良)等の作品には前田千寸をモデルとした人物が登場している。

例えば、井上靖は、『青春放浪』で次のように書いている。

 この教師に、私は終戦後に、中学卒業以来初めてあって、彼が『日本色彩文化史の研究』という大著に取り組んでいることを始めて知った。私たちが中学生であった当時、前田さんはこの終生の仕事に既に取りかかっていたのであった。
   私は「黯い潮」という小説にその旧師の仕事を書かせてもらった。前田さんの仕事は河出書房から出た『むらさき草』という書物としてみのり、毎日出版文化賞を受けた。そして更に全部の仕事が岩波書店から出た『日本色彩文化史の研究』という大著として完成した。

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2015年12月21日 (月)

バブル経済と名門企業の退場/戦後史断章(22)

戦後の経済でバブルと呼ばれるのは、Wikipediaで、次のように』説明する時期である。

バブル景気(バブルけいき)は、景気動向指数(CI)上は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象とされる。情勢自体はバブル経済と同一であり、平成景気(へいせいけいき)や平成バブル景気(へいせいばぶるけいき)とも呼ばれる。日本国政府の公式見解では数値上、第11循環という呼称で、指標を示している。
ただし、多くの人が好景気の雰囲気を感じ始めたのはブラックマンデーをすぎた1988年頃からであり、政府見解では、1992年2月までこの好景気の雰囲気は維持されていたと考えられている。

東京新聞の連載『甦る経済秘史(8)日銀「空白の1年」 バブル経済狂乱を放置』に次のような記述がある。

 一九八八年。住宅は次々マンションに、山はゴルフ場に変貌。東京圏の住宅地地価は一年で七割上がった。一軒三十一億円の建売住宅が売り出され、五百万円前後の日産自動車のシーマに予約が殺到。経済成長率は7%を超えていた。
 背後にいたのは銀行。土地を担保にどんどん金を貸した。
 「無担保なら五千万円、有担保なら五億円まで貸します」。日銀調査統計局長だった南原晃(82)の家にも銀行員が訪れ、不動産投資を勧誘。南原は「地価が崩れたらどうなるのか」と警鐘を鳴らすリポート作成に着手した。
 「銀行も証券もたがが外れて、めちゃくちゃに走ってる」。調査担当理事・鈴木淑夫(84)に、営業担当理事の佃亮二(84)は不安をぶつけた。
 だが「円卓」の座につけば皆、下を向き沈黙した。
 「総裁も副総裁も動けないのが分かっているのに、利上げを話題に出すこと自体、大人げない感じがあった」と鈴木が円卓の状況を証言する。米国の経常赤字削減のために円高を決めた八五年のプラザ合意を受け、日銀は景気への打撃を和らげようと2・5%まで利下げ。八七年には副総裁の三重野康が物価を簡単に火がつく「乾いた薪」に例えて利上げを探る。だが、十月に米国で株が急落する「ブラックマンデー」が発生。金融恐慌を警戒する米国に配慮、大蔵省は利上げをとどまるよう強力に圧力をかけていた。
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この時期、多くの名門企業が取り返しのつかない傷を負った。
日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、山一證券、三洋証券等々である。
⇒2008年7月19日 (土):旧長銀粉飾決算事件
⇒2009年1月26日 (月):長銀粉飾決算事件再考
⇒2009年1月27日 (火):長銀粉飾決算事件再考②

バブル期を代表する人物に故高橋治則氏がいる。
イ・アイ・イ・インターナショナルの社長として、リゾート施設を中心に総資産1兆円超の企業グループを構築した人である。
背任容疑で東京地検特捜部に逮捕・起訴されていたが、東京高裁より懲役3年6ヶ月の実刑判決を受け、最高裁判所に上告中の2005年クモ膜下出血により59歳で死去した。

高橋氏と親密交際が問題視されたのが、大蔵省主計局次長などを務めた中島義雄氏である。
1997年、京セラ入社して、京セラミタ専務、京セラ北京代表所首席代表等を経て、2005年、船井電機取締役兼執行役副社長に就任した。
その後、2009年にセーラー万年筆に常務取締役として入社し、12月に前社長死去に伴い社長に就任した。
最近、社長を解任されたことがニュースになった。

老舗の文具メーカー「セーラー万年筆」の社長交代をめぐり、会社側と前社長が対立する異例の事態となっている。同社は12月12日、代表取締役社長だった中島義雄氏が「代表権のない取締役」となり、代わりに比佐泰取締役が代表取締役社長になるという決議を、取締役会でおこなったと発表した。その2日後、この決議が、中島氏を除く4人の社内取締役による「社長解任」だったことが明らかにされた。
一方、中島氏は12月14日、「社長解任の決議は無効」として、社長の地位の確認を求めて、東京地裁に仮処分を申請した。そのような動きに対して、セーラー万年筆はウェブサイトで、中島氏の社長としての行動に問題があったので他の社内取締役たちが辞職を求めたが、拒否されたために社長解任を決議した、という経緯を説明。定時取締役会における解任決議の手続に問題はなく、有効であると主張している。
セーラー万年筆「社長解任劇」が話題

バブル経済を「概ね不動産や株式をはじめとした時価資産価格が、投機によって経済成長以上のペースで高騰して実体経済から大幅にかけ離れ、しかしそれ以上は投機によっても支えきれなくなるまでの経済状態を指す」(Wikipedia)としたら、現在もそうではないか、という気がする。

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2015年9月12日 (土)

モーレツからビューティフルへ/戦後史断章(21)

9月9日の日本経済新聞のコラム「春秋」が、「モーレツからビューティフルへ」という広告キャンペーンのことを書いている。
1970年、創業期の富士ゼロックスのことである。

▼広告を企画した電通の藤岡和賀夫氏は当時、環境破壊など高度成長によるひずみが気になっていた。これまでのモーレツ主義とは逆の価値観を、あえて企業広告で世に問いたい。そう思い「ビューティフル」という言葉に行き着く。この挑戦を即座に受け入れた富士ゼロックス側の担当者が後の社長、小林陽太郎氏だった。▼繁栄のただ中で、後の日本のありようを先取りした藤岡氏と小林氏。広告と企業経営というそれぞれの分野で、両者とも未来を見据えた提案を続けた。藤岡氏は、派手な名所よりも、何気ない街の風景や普通の人々を前面に出した国鉄の広告「ディスカバージャパン」でも指揮を執り、今に至る女性たちの旅の形を作った。▼小林氏は早くから社員のボランティア活動などを応援し、広く企業の社会的責任(CSR)の重要性を説いたことで知られる。その2人が相次ぎ鬼籍に入った。「21世紀になりモーレツからビューティフルへというメッセージは、より意味を持っているのではないか」。10年ほど前、本紙の記事で小林氏はそう語っている。

小林陽太郎氏と藤岡和賀夫氏のことは、小林氏の訃報に関連して軽く触れた。
⇒2015年9月 7日 (月):社会的存在としての企業のあるべき姿・小林陽太郎/追悼(75)

1970年、私は社会人2年目だった。
この年の記憶に残る出来事をWikipediaより抜粋してみよう。

3月14日 - 日本万国博覧会(大阪万博)開幕( - 9月13日)。
3月31日 - 日本航空機よど号ハイジャック事件発生。
6月23日 - 日米安全保障条約自動延長。全国で安保反対統一行動が行われ、77万人が参加。
8月2日 - 東京都内ではじめての歩行者天国が銀座、新宿、池袋、浅草で実施。
10月1日 - 日本国有鉄道(国鉄)が「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを開始。
11月25日 - 三島由紀夫、市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部にて割腹自決(三島事件)。

個人的な記憶で言えば、大きく社会が動こうとしているのを肌で感じた気がする年だった。
⇒2011年7月27日 (水):大阪万博パラダイム/梅棹忠夫は生きている(2)
「春秋」に触発されて、書棚の片隅に眠っていた一冊の本を探し出した。
藤岡和賀夫『モーレツからビューティフルへ-藤岡和賀夫全仕事2』PHP研究所(1988年4月)。
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キャンペーン誕生について、藤岡氏は次のように回想している。

 それはある日の車中の出来ごとでした。私は、その頃通い始めた富士ゼロックスの宣伝部長の小林陽太郎さん(現社長)に、車の中で思い切って切り出してみたのです。
 どうも最近のモーレツブームは気に入りませんね。どうでしょう。ひとつ、富士ゼロックスが先に立って、「モーレツからビューティフルへ」というメッセージを出して「ビューティフル」を世の中にキャンペーンしてはいかがでしょう。
 私たちは、確か毎日新聞社へ向かうところでした。丁度、小林さんと私とで、『人間と文明』という富士ゼロックスの紙上万博企画ともいうべき仕事を話し合っていましたから、何度か新聞社へ一緒に行く都合があったのです。
 もちろんと言いますか、私にはプレゼンテーションのための企画書ひとつ用意がありませんでした。何しろ、こんな広告とは言えない広告の提案なのですから、とりあえずはただ雑談的に私の考え方を聞いて貰えればいい。そんな、私にしたら控え目な気持が車中のチャンスを利用したというわけです。
 それがどうでしょう。小林さんからは、あ、結構じゃないですか、面白いですね、と即座に返事が返ってきた。赤坂を出て千鳥ヶ淵にかかる頃です。

ちなみにモーレツブームというのは、1969年、丸善石油のハイオクガソリンのCMで、猛スピードで走る自動車が巻き起こした風で小川ローザというタレントのミニスカートがまくりあがり、「Oh! モーレツ」と叫ぶ内容で一世を風靡した現象である。
幼児の間でも「Oh! モーレチュ」と言い、スカートめくりが流行するほど社会現象にまでなった。
まだまだ工業社会は隆盛であったが、「成長の限界」が意識され始めてもいた時代であった。
⇒2011年12月24日 (土):『成長の限界』とライフスタイル・モデル/花づな列島復興のためのメモ(15)

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2015年7月26日 (日)

本気で自衛隊の治安出動を考えた岸信介/戦後史断章(20)

自衛隊には、他国からの武力攻撃に対処するための防衛と並んで治安出動という任務がある。
治安出動とは、緊急事態や治安上重大な事態に際し、自衛隊の全部または一部を出動させて、治安の維持をはかることを自的とした活動である(自衛隊法第78条、同81条)。
ただし、「一般の警察力をもっては、治安を維持することができないと認められる場合」(同78条第1項)である。
防衛庁・自衛隊の発足から今日まで、治安出動が行われたことは一度もない。

そのことは戦後といわれる期間、平和主義憲法下に現存する実力組織・自衛隊の性格の一面を示すものであろう。
しかし、治安出動が本気で検討されたことが1回だけあった。
「60年安保闘争」の国民的盛り上がりに対して、岸信介が、時の自民党幹事長・川島正次郎を通じて、防衛庁長官だった赤城宗徳に、デモを鎮圧するため自衛隊の治安出動を要請したのである。
赤城はこれを拒否した。
赤城は、「武器を持った自衛隊の出動で死者が出れば、デモは革命的に全国に発展する。そうしたら、収拾がつかなくなる」と考えたという。
岸の暴走を止める理性が、当時の閣僚にはあったということだ。

「60年安保闘争」は、戦後史を画する出来事であった。
⇒2015年6月29日 (月):吉本隆明『擬制の終焉』/私撰アンソロジー(38)
岸信介は、安保条約の改正を政権獲得時の重要課題としていた。

岸は、敗戦後直ぐにA級戦犯容疑で逮捕されたことがあったが、東条英機らが処刑された翌日に釈放されている。
岸内閣は、軍事・教育・治安三点セットでの統制を強めた(福井紳一『戦後史をよみなおす――駿台予備学校「戦後日本史」講義録』講談社(1111)。
統制経済を主導した官僚の政治家としての姿ということだろう。

1958年10月に、警察官職務執行法改正案が国会に提出された。
激化していた勤評闘争を押さえることが目的といわれ、「戦後版治安警察法」などといわれた。
この法案は廃案になったが、その過程で、社会党・総評を中心に市民レベルに反対闘争が広まった。
岸は、1957年訪米して、アイゼンハワー大統領と「日米新時代声明」という共同声明を出し、1960年1月、ワシントンで日米新安全保障条約に調印する。
⇒2012年10月22日 (月):60年安保と岸信介/戦後史断章(3)

安倍首相が、日本の国会での審議を経ないで、安保法案の成立をアメリカ議会で約束したことが、既視感のように思えるのは、このような経緯があるからであろう。
そして、60年に入ると、全国の老若男女が反安保・反岸といった感じになっていく。

5月、自民が日米安保新条約を強行採決。6月15日、デモ隊と警官隊が衝突し東大生の樺美智子さんが死亡した。アイゼンハワー米大統領は来日中止。新安保は19日に自然承認。23日、岸信介首相が辞任表明。
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1960年 安保の対立、犠牲者も

これから参議院での審議が始まる。
安倍首相自ら、国民の理解が進んでいないという安保法案。
にもかかわらず、珍妙な解説で説明した気になっている。
国民は、理解していないというよりも、何かを隠そうとしているのではないかと感じてしまっているのだ。
反安倍の運動は、今まで政治的な意識が薄いと言われてきた層をも巻き込んで行くことになるだろう。
まさに戦後レジームの評価が問われているのだ。

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2015年3月20日 (金)

地下鉄サリン事件から20年/戦後史断章(19)

あの戦慄の地下鉄サリン事件から20年目の日である。
この年は1月から騒然とした雰囲気だった。
前年からオウム真理教をめぐり、日本全体が劇場社会化していた。
⇒2010年5月 2日 (日):「恐竜の脳」の話(2)オウム真理教をめぐって

1月に阪神淡路大震災が起きた。
⇒2015年1月17日 (土):阪神淡路大震災から20年/日本の針路(99)

オウム真理教という宗教組織には理系の高学歴者が多かった。
例示すると、以下のような名前がメディアを賑わせていた。
・青山吉伸:京都大学法学部
・村井秀夫:大阪大学理学部物理学科→大阪大学大学院
・早川紀代秀:神戸大学農学部→大阪府立大学大学院
・中川智正:京都府立医科大学
・遠藤誠一:帯広畜産大学→京都大学大学院
・土谷正実:筑波大学農林学類→筑波大学大学院
・豊田亨:東京大学医学部
・富永昌宏:東京大学理学部→東京大学大学院
・廣瀬健一:早稲田大学理工学部応用物理学科
・林郁夫:慶應義塾大学医学部
・上祐史浩:早稲田大学理工学部電子通信学科→早稲田大学大学院
⇒2011年11月25日 (金):オウム真理教事件と知的基礎体力(?)

地下鉄サリン事件は、現在から見れば追い詰められていることを自覚した教団の最後の賭であったというべきであろう。
しかし、最初は何事が起きたのか良く分からなかった。
一応化学系の学科を卒業したが、「サリン」などという化合物は聞いたことがない。
塩素系だというから、いわゆる毒ガスの一種だろうとは思ったが、まさか日本の地下鉄で撒くなどということが起きるだろうか。
しかも、都心の乗降客の多い駅である。
Photo
東京新聞3月20日

まさに狂気としか言いようのない事件であった。
しかし、オウム真理教事件は未だ決着していない。
後継組織は新たな信者獲得に躍起である。
Photo_2
東京新聞3月17日

国際的にはIS(イスラム国)を始めとするテロが後を絶たない。
科学技術が進歩しても、不可解なのが人間である。

東京新聞社説で引用している山室恵弁護士の言葉が重い。
山室弁護士は、東京地裁で林郁夫被告に死刑ではなく、無期懲役を判決を言い渡した人である。

若い世代へ向け、山室さんは林受刑者に言い渡した判決の一部をゆっくりと読み上げて紹介した。
 「なまじ純粋な気持ちと善意の心を持っていただけに、かえって『真理』や『救済』の美名に惑わされ、視野狭窄(きょうさく)に陥って、麻原(死刑囚)の欺瞞(ぎまん)性、虚偽性を見抜けなかった」
 美しいものを正面から見てものめり込まない。引いて見る。斜めから見る。いわば裏側を疑ってみる姿勢の大切さを説いた。
 人の純真さが美しいものを介し、凶器へと豹変(ひょうへん)した事例を幾度も見聞きしてきたのだろう。世代を問わず肝に銘じたい。
地下鉄サリン20年 凶行の中に人間の弱さ

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2014年9月23日 (火)

朝日新聞、ソニーの凋落と戦後という時代の終わり/戦後史断章(18)

朝日新聞が火だるまになっている。
私は朝日を擁護する義理はないが、産経、読売、週刊新潮、週刊文春、「たかじんのそこまで言って委員会」等がこぞって朝日バッシングに狂奔している状況は肌寒い感じがする。
しかし、問題拡大の一因となった池上彰氏のクールな対応などに救われたような気がした。
⇒2014年9月18日 (木):朝日新聞の2つの「吉田証言」問題/日本の針路(44)

ネットでも基本的には朝日はサンドバッグ状態であるが、「泉の波立ち」を書いている南堂久史氏等の正気な論客がいる。
以下、南堂氏のOpenブログを引用しよう。

 実を言うと、朝日の誤報など、たいしたことはない。吉田調書の誤報は、ただの言葉のニュアンスの問題ぐらいにすぎない。慰安婦の誤報は、はるか昔のことであり、現在においてはほとんど影響がない。
 一方、読売の誤報は、原発の真の原因を隠そうとしたり、浜岡原発を「安全だ」と誤報することで日本を滅亡させようとしている。
  → 読売の歪曲報道
 また、安倍晋三の方は、「菅首相がデマを飛ばした」というデマを自分自身が飛ばしたし、その前の第一期首相時代には、「原発は安全だ」という虚偽を語ることで、原発事故の直接の原因をもたらした。
  → 安倍晋三のデマ(海水注入の中止) の 【 追記 】
 ここから国会答弁を引用しよう。

   Q(吉井英勝):原子炉が破壊し放射性物質が拡散した場合の被害予測や復旧シナリオは考えてあるのか
   A(安倍晋三):そうならないよう万全の態勢を整えているので復旧シナリオは考えていない


 こういう形で、日本に原発事故の被害をもたらした張本人が、安倍晋三なのである。なのに、その責任を問うこともなく、原発事故の鎮静化のために努力した菅直人を非難したり、真実を隠蔽しようとする安倍内閣の秘密を探り出した(調書を見つけた)朝日を攻撃したりする。
 比喩的に言えば、殺人事件があったときに、殺人犯を非難するかわりに、事件の被害者の救済に当たった消防署員(≒ 菅直人)を非難したり、殺人事件を隠蔽しようとする悪徳警官(≒ 安倍晋三)の隠していた資料を暴露する記者(≒ 朝日)を避難する。
 こういう滅茶苦茶なことをやっているのが、保守派なのだ。

「たかじんのそこまで言って委員会」は、たかじん氏亡き後も番組が存続しており、現在は辛坊治郎氏が総合司会を務めている。
前回の放映では、津川雅彦氏(俳優)、加藤清隆氏(政治評論家・時事通信社特別解説委員)、竹田恒泰氏(憲法学者(但し自称)・作家)などのレギュラーメンバー、花田紀凱氏(元週刊文春編集長・月刊『WiLL』編集長)、百田尚樹氏(作家・「探偵!ナイトスクープ」構成作家、NHK経営委員)などの準レギュラー、櫻井よしこ氏らが嬉しそうに悪乗りして朝日バッシングをやっていた。
ほとんどイジメを思わせる雰囲気だった。

時を同じくして、ソニーの苦境が報じられている。

 ソニーは、2015年3月期の最終損益の見通しを、従来予想(500億円の赤字)の5倍近い、2300億円の赤字に下方修正。さらに、1958年の上場以来続けてきた配当を、初めて無配にすると発表した。
 大幅な赤字見通しの最たる要因は、スマートフォンの販売不振が招いたモバイル(MC)分野の減損にある。
スマホ事業減損で初の無配

私が大学に入ったのは1963年であるが、下宿生活で初めて購入した高額(?)商品がソニーのトランジスタラジオだった。
TVや冷蔵庫などは考えることもできない時代だった。
ケネディ暗殺のニュースは叔父の家のTVでリアルタイムで視聴したが、ソニーのラジオで忘れられないのは三井三池炭鉱の粉塵爆発のニュースだった。
「石炭から石油へ」のエネルギー革命を象徴する事故であった。

1962年には、ソニーの工場を昭和天皇が視察し、世界最小・最軽量のTV試作品を見た。
井深大社長(当時)は、「まだ世の中に出ていませんから」と説明し、天皇に口止めしたと話題になった。
技術オリエンテッドな経営で独創的な製品を送り出し、ブランドロイヤリティを築いた。
いつの頃からか、MBA的経営になって、ソニーは輝きを失った。

朝日新聞社とソニーという戦後史に大きな足跡を残した企業が、正視できないような無残な姿をさらしている。
これを戦後レジームの終焉と考えるべきか?
いま、日本社会は大きな転換期を迎えていることは間違いないだろう。

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