幕末維新史

2015年2月 7日 (土)

吉田松陰の行動と死/幕末維新史(3)

今年の大河ドラマ『花燃ゆ』は、幕末の長州の藩都・萩が舞台である。
NHKは安倍首相に阿っているのではないかという批判がある。
確かにそう見られても仕方がないような両者の動きだと思うが、それについてはもう少し様子見としよう。
吉田松陰は、「草莽崛起」で知られる。
辞書を引くと「志を持った在野の人々が一斉に立ち上がり、大きな物事を成し遂げようとすることを意味する」とある。
安倍首相がどう理解しているか、質問してみたい気がする。

♪きのう勤皇 あしたは佐幕……
西条八十作詞の『侍ニッポン』という古い歌の一節である。
幕末は「勤皇か佐幕か」と国論が激しく争われた時であった。
「攘夷か開国か」はTPPに似ていると思うが、攘夷が勤皇と結び、開国が佐幕と結ぶという、守旧と改革が複雑に錯綜していた。
子どもの頭では理解できるはずもなかったが、「勤皇か佐幕か」はチャンバラごっこで遊ぶ時の定番のセリフだった。
⇒2012年10月29日 (月):開国を迫られた老中阿部正弘の苦悩の改革/幕末維新史(2)
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歴史人別冊『幕末維新の真実』㏍ベストセラーズ(2012年9月)

松陰は下田でペリーの黒船に密航を企てるなど、静岡県とも縁がある人物である。
嘉永4年(1851年)3月、参勤交代に同行して江戸にも遊学。佐久間象山に出会い、。同年12月には、宮部鼎蔵らと「水戸学」や「海防」などの勉強を目的とした東北の旅を計画する。
なかなか藩からの関所通過書が届かないことから、松陰は当時重罪であった脱藩を実行する。
現在も、「国益より省益を優先する国家官僚の在りかたを嫌い官僚を辞めたが、改革の志を失っていない元官僚」を脱藩官僚などという。

松陰は東北を訪問後、脱藩の罪で萩に送還されるが、松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出る。
2度目の江戸遊学中の嘉永6年(1853年)6月、ペリー提督率いるアメリカ合衆国東インド艦隊が浦賀に来航(いわゆる黒船来航)する。
浦賀に出かけ黒船を観察した松陰は大きな衝撃を受け、幕府の国防に対する不備を強く認識するとともに、多くの志士たちが感じたように危機感を覚える。
嘉永7年(1854年)1月、ペリー再来航の際、密航計画を知り松陰に強く願い出た長州藩足軽・金子重之助とともに密航を再度企てる。

松陰と金子はペリーの船に乗り込もうといろいろ手を尽くし、走り回ったがことごとく失敗し、下田に移動したペリーの船に、夜間、小舟をこぎ寄せた。
ペリー側は、松陰たちの必死の頼みにも渡航を拒絶し、松陰の密航計画はまたしても失敗した。         
松陰と金子は自首し、江戸伝馬町の牢屋に入れられ、その後、萩に送還され、松陰は士分が入れられる野山獄、金子は岩倉獄へと投獄される。
TVはこの辺りまで進んでいる。

松陰はこの後、安政4(1857)年から松下村塾で教えるのだが、日米通商条約を結んだ幕府を批判して野山獄に再投獄されてしまう。
結局松下村塾で教えたのは、2年ばかりの期間に過ぎないが、倒幕・維新を牽引する綺羅星の如き逸材を輩出したのは周知の通りである。
大河ドラマを見る習慣はないのだが今年はどういう風の吹き回しか、今のところ続けて見ている。
松陰は伝馬町獄の刑場で斬首に処される。
墓は東急世田谷線松陰神社駅近くの松陰神社内にあるという。
松陰が死罪に処された「安政の大獄」の指揮者・井伊直弼の墓所である豪徳寺に近接しているのは不思議な縁である。
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東京新聞1月19日

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2012年10月29日 (月)

開国を迫られた老中阿部正弘の苦悩の改革/幕末維新史(2)

日本の近代史は、ペリーの浦賀来航をきっかけとしたといっていいだろう。
爾来、アメリカとの関係は、一貫して戦後史に至るまでの日本史を規定している。

幕末維新史における最大の争点の1つが、攘夷か開国かであった。
徳川幕府は、日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限する鎖国政策をとった。
一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止以降を鎖国という。
200年以上続いてきた鎖国を解いて開国するか、はたまた外国勢力の干渉を排除して鎖国を維持するか?

この鎖国体制を揺さぶったのが、アメリカ東インド艦隊から選抜された船団を率いたマシュー・カルプレイス・ペリーであった。
ペリー提督は、アメリカの東インド艦隊司令長官兼遣日特使であったが、1853(嘉永6)年6月3日、浦賀沖に黒船と共にやってきた。

浦賀沖に現れたのは、旗艦サスケハナ号、ミシシッピ号、プリマス号、サラトガ号の4隻である。
いずれも船体は黒く塗られ、蒸気船の煙突からは黒い煙が上がったため、「黒船」と呼ばれた。
実際に蒸気船はサスケハナ号とミシシッピ号の2隻で、他の2隻は帆船だったが、サスケハナ号は2,450トンあって、せいぜい100トン程度の千石船しか見たことがない日本人が慌てふためいたのも無理はない。

泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず

黒船来航によるテンヤワンヤを歌った狂歌である。
上喜撰とは高級な日本茶のことであるが、蒸気船とかけて幕府のあわてぶりを皮肉った。

ペリー来航の目的は、日本を開国させることであった。
アメリカは産業として捕鯨を行っており、日本に薪炭、食料、水を供給させることが狙いだった。
ペリーは、アメリカ大統領フィルモアから将軍宛ての国書を受け取るように幕府に迫った。
鎖国を維持したい幕府は、長崎で交渉しようとしたが、ペリーは強引に幕府の喉元である江戸湾に入った。

船団が江戸湾内を示威的に航行すると、江戸は大騒ぎになり、浦賀には見物人が押し寄せた。
幕府はペリーの強硬姿勢に屈し、6月9日、久里浜に上陸を許可して国書を受け取った。
幕府は即答を避け、ペリーはそれを了解し、1年間の猶予ということで浦賀を去った。

直後に12代将軍徳川家慶が他界する。
暑気当たりで倒れたのが死因といわれるが、幕府の行方を暗示するかのような死であったといえよう。
嫡男の家定が13代将軍に就いたが、虚弱体質で政治的能力も凡庸だったといわれる。

必然的に幕閣に大きな役割が期待された。
老中首座の阿部正弘は35歳。
当初、阿部は鎖国の伝統を守り、異国船打払令の復活を主張した。
しかし、時の幕府に、アメリカの要求をはねつけて国防体制を整える経済的余裕はなかった。

阿部は、国難ともいうべき事態に対処するため、従来のやり方を大胆に改革した。「安政の改革」である。
まず、譜代大名が中心だった政治体制を改めた。
強硬な開国反対論者の徳川斉昭を幕政参与に起用すると共に、薩摩藩主島津斉彬ら有力な外様大名の意見を求めた。
同時に朝廷や公家社会との連携を強化して挙国一致を図った。

阿部は、アメリカ大統領の国書を諸大名に示して、意見を求めた。
さらには、大名だけでなく、幕府の役人、藩士、一般庶民にまで諮問した。
これらの改革を、阿部の開明性と見るか、幕府の威光の低落と見るかは、見解の分かれるところであろうが、阿部の朝廷との連携路線は、後に「公武合体論」へと発展していった。

諸大名や幕臣が出した意見書は700近くに及んだという。
その大多数は、鎖国堅持、相手が拒否すれば打払うというものだった。
「攘夷」とは、外夷を打ち払うことである。
⇒2012年9月17日 (月):維新ブーム考/花づな列島復興のためのメモ(144)

「それができるなら苦労はない」と阿部は思ったことだろう。
次に多かったのは、時間をかけて交渉するとか、アメリカとだけ開国しようというものだった。
幕府内の積極的な開国論者は、勝麟太郎(海舟)や井伊直弼など、ごく限られていた。Photo
歴史人別冊『幕末維新の真実』㏍ベストセラーズ(1209)

結局、阿部はアメリカの国書に対し明確な回答をしないまま、「海防大号令」を発してペリーの再来を待つことになった。
決断しない先送りともいえるが、多くの優秀な人材を登用したことは功績といえよう。

その1人が、伊豆韮山の代官・江川英龍(担庵、36代太郎左衛門)である。
江川は、海防の建言を行い、阿部に評価され勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入りを果たした。
阿部の命で江戸湾に台場を築くと共に、反射炉を築造し、銃砲製作も行った。
現在も韮山(伊豆の国市)に残る反射炉跡は貴重な近代化産業遺産である。
⇒2011年2月19日 (土):大仁神社と大仁梅林

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2012年9月25日 (火)

フルベッキ写真と権力による情報の隠蔽/幕末維新史(1)

8月11日の夜のことであった。
加治将一『ビジュアル版 幕末 維新の暗号』祥伝社(1208)を眺めていたら、見るともなく視聴していたTVから上野彦馬という名前が聞こえてきた。
テレビ東京の「美の巨人 国宝建築②大浦天主堂」という番組であった。

世界に名を馳せる西洋建築の最高峰が長崎にあります。国宝『大浦天主堂』。正式名称は『日本二十六聖殉教者天主堂』と言います。創建されておよそ150年。現存する日本最古の木造教会です。一歩中へ入ると、まず目に飛び込んでくるのは鮮やかなステンドグラス。天井はゴシック様式特有の優美な曲線で覆われています。しかし、これほどの装飾美・建築美を生み出す技術は、当時の日本には無かったはず。
いったいどうやってこの美しい教会は建てられたのでしょうか?さらに、この教会がある奇跡を起こしたというのですが…。それはいったい?

http://www.tv-tokyo.co.jp/program/detail/14857_201208112216.html

その大浦天主堂を、日本で最初のカメラマンといわれる上野彦馬が撮影した写真が遺されている。
上野の人物像はWikipediaによれば、以下の通りである。

天保9年(1838年)、長崎の蘭学者・上野俊之丞(しゅんのじょう)の次男として生まれる。広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、咸宜園を離れた後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする医学伝習所の中に新設された舎密試験所に入り、舎密学(化学)を学んだ。このとき、蘭書から湿板写真術を知り、大いに関心を持つ。同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。その後、堀江とともに江戸に出て数々の写真を撮影して耳目を開き、文久2年(1862年)には堀江と共同で化学解説書『舎密局必携』を執筆する。
同年、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した。ちなみにこれは日本における最初期の写真館であり(ほぼ同時代に鵜飼玉川や下岡蓮杖が開業)、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。同撮影局では坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。

個人的には、舎密学(化学)という名前が懐かしい。
工業化学系の学科に在籍していたので、友人たちと舎密塾という勉強会をやっていたことがあった。
遠い昔の記憶である。

加治将一氏の作品についてはすでに『西郷の貌』を取り上げた。
⇒2012年4月16日 (月):『西郷の貌』と万世一系のフィクション/やまとの謎(61)
文章は荒削りだが、着眼点が興味を惹く。

ビジュアル版 幕末 維新の暗号』のAmazonの内容紹介は以下の通りである。

累計50万部を突破した“加治将一の禁断の歴史シリーズ"(既刊5作)から、『龍馬の黒幕』『幕末  維新の暗号』『西郷の貌』3作を選び出し、ビジュアル要素を1冊に凝縮。宣教師・フルベッキが明治政府に与えた影響とは? 西郷隆盛の「顔」が封印された理由は? 幕末期の古写真を中心に70点の写真が、明治維新という革命の裏面史を浮かび上がらせる。

幕末期の古写真といえば、上野彦馬は欠かせない。
上野が撮影したという説もあるフルベッキの写っている写真が作品のモチーフである。
ちなみにフルベッキとはWikipediaから引用すれば、以下のような人物である。

グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck、或いはVerbeek、1830年1月23日 - 1898年3月10日)は、オランダの法学者・神学者、宣教師。オランダ・ザイスト市出身。ユトレヒトで工学を学んだ。日本では発音しやすいようフルベッキ(Verbeck)と名乗り、現在に至るまでこのように表記されている。両親は敬虔なルター派の信徒とされているが、正確にはオランダ系ユダヤ人であり、いわゆる改宗ユダヤ人である[要出典]。フルベッキはモラヴィア教会で洗礼を受け、同派の学校でオランダ語、英語、ドイツ語、フランス語を習得している。

先日、知人が下図のような写真を額に入れて置いてあるのを見た。
Verbeck
A3判くらいの大きさの立派そうな額に入ったフルベッキ写真である。
ちなみに、フルベッキ写真とは以下のように解説されているものである。

「フルベッキ写真」とは、フルベッキとその子を囲んで撮影された集合写真の俗称。
この写真は古くから知られており、1895年(明治28年)には雑誌『太陽』(博文館)で佐賀の学生達の集合写真として紹介された。その後、1907年(明治40年)に発行された『開国五十年史』(大隈重信監修)にも「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」とのタイトルで掲載されている。
1974年(昭和49年)、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、この写真には坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作をはじめ、明治維新の志士らが写っているとする論文を発表した(2年後の1976年にはこの論文の続編を同誌に発表)。島田は彼らが写っているという前提で、写真の撮影時期を1865年(慶応元年)と推定。佐賀の学生達として紹介された理由は、「敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、偽装されたもの」だとした。
この説は学会では相手にされなかったが、一時は佐賀市の大隈記念館でもその説明をとりいれた展示を行っていた。また、1985年(昭和60年)には自由民主党の二階堂進副総裁が議場に持ち込み、話題にしたこともあったという。また、2004年(平成16年)には、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞にこの写真を焼き付けた陶板の販売広告が掲載された。東京新聞が行った取材では、各紙の広告担当者は「論議がある写真とは知らなかった」としている。また、業者は「フルベッキの子孫から受け取ったもので、最初から全員の名前が記されていた」と主張している。
2009年現在、朝日新聞と毎日新聞は「フルベッキ写真の陶板」広告を掲載し続けている。
この写真の話題は間歇的に復活して流行する傾向がある。ちなみに最初に島田が推定した維新前後の人物は22人であったが、流通する度に徐々に増加、現在では44人全てに維新前後の有名人物の名がつけられている。
現在でも土産物店などでこの説を取り入れた商品が販売される事がある。
また、大室寅吉という名で後の明治天皇が写っているとした説や、「明治維新は欧米の勢力(例:フリーメイソン)が糸を引いていた」説等の陰謀論、偽史の「証拠」とされた例もある。

加治氏は、上掲書の「万世一系のトリック」の項で、次のように書いている。

情報の締め出し、非公開。
 福島原発事故の隠蔽工作を見るまでもなく、日本には昔から隠し癖がはびこっている。
 先進国なら事実と虚構の間に争いが生じるはずだが、日本では起きない。なぜなら、困ったことに政治家、学者、メディア、基幹産業が官僚支配層にひれ伏しているからだ。そのために論争すら起こらず、ほぼ完璧に封印されてきたのである。
 支配層は昔から「隠蔽」「封印」と露骨に言わない。
 何と言うか?
 上から目線で、「民は之に由らしむべし。之を知らしむべからず」だ。

その代表が「万世一系」という物語というわけである。
明治維新を『坂の上の雲』のようなイメージで捉えるだけでは、平面的な見方ということになりそうである。

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