幕末維新史

2018年10月10日 (水)

敗者の戊辰戦争/幕末維新史(10)

いささか古い論文であるが一橋大学経済研究所が出している「経済研究」という雑誌の1975年1月号に、梅村又次氏の『治水と利水』というレビューが掲載された。
梅村氏は経済学者で、執筆当時経済研究所の所長を務めていた。
水問題に関しては圧倒的に理・工学系の論文が多く、社会科学の専門家による包括的なレビューは珍しく、コピーを取っておいた。
その一節である。
032

これは以下の図の説明である。
Photo 
2011年4月23日 (土) 暘谷(フォッサマグナ)論/やまとの謎(30)

何でこの論文を思い出したかと言えば、「・SPA!」誌の9月18・25日号の『敗者の戊辰戦争』の図を見たからである。
Spa180918252

戊辰戦争は、新政府軍VS幕軍の戦いであると同時に、西南日本と東北日本の戦いであった。
安倍首相のように官軍史観でしか考えられない人間は、一度石光真人編著『ある明治人の記録 改版 - 会津人柴五郎の遺書』中公新書(1971年5月)に目を通すべきである。
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柴五郎は明治維新の際に朝敵とされた元会津藩士である。¥明治維新の際に青森に移封されたが、旧領と職封を合わせると、70万石に達する大藩が、わずか3万石に減封されたのである。
苛酷な処遇であったが武士としての矜持・誇りを失わず、「西南の役」で薩摩軍を殲滅して快哉を叫んだ。
苦難の末に陸軍学校に入学し、陸軍大将となった。
明治人の魂の記録である。

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2018年5月 6日 (日)

大塩平八郎の乱と幕藩体制の揺らぎ/幕末維新史(9)

幕末というのは何時からのことを言うか?
ごく一般的なイメージは、1853(嘉永6)年のペリー浦賀来航を契機として、幕藩体制が揺らいだとする見方であろう。
Wikipedia:幕末では次のように記述されている。

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。

しかし、中村彰彦『幕末史かく流れゆく』中央公論新社(2018年3月)は、1841(天保12)の「三方領地替え」の幕命を撤回するという失態が幕府の権威を失墜させたとする。
まあ、幕末というのは、末期ということで明確に定義されるものではないといえよう。
1833(天保3)~1839(天保9)年は「天保大飢饉」で全国に餓死する人間が大勢出たのであって、社会情勢的な歪が蓄積したと考えられる。

Wikipedia:天保の大飢饉 は次のように記す。

主な原因は天保4年(1833年)の大雨による洪水や冷害による大凶作であった。東北地方(陸奥国と出羽国)の被害が最も大きく、特に仙台藩の場合は盛んに新田開発を行い、実高で100万石を超える石高を有していたが、米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大であった。50年前の天明の飢饉と比較して、凶作対策が行われたため死者の数は少なかった。商品作物の商業化で農村に貧富の差が拡大したため、貧困の百姓が多く餓死した。各地で餓死者を多数出し、徳川幕府は救済のため、江戸では市中21ヶ所に御救小屋(5800人収容)を設置したが、救済者は70万人を超えた。米価急騰も引き起こしたため、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、天保7年6月に幕府直轄領である甲斐国一国規模の百姓一揆となった天保騒動や、天保8年2月に大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなった。特に大阪では毎日約150人-200人を超える餓死者を出していたという。

このような状況の中で、旗本という幕府の役人であった大塩平八郎が反幕府的な行動に出たのである。
Wikipedia:大塩平八郎の乱

決起直前になって内通離反者が出てしまい、計画は奉行所に察知された。跡部を爆死させる計画は頓挫し、完全な準備の整わぬままに2月19日(3月25日)の朝、自らの屋敷に火をかけ決起した。
天満橋(現大阪市北区)の大塩邸を発った大塩一党は、難波橋を渡り、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となった。彼らは「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、いたずらに火災(大塩焼け)が大きくなるばかりで、奉行所の兵に半日で鎮圧された。
大塩焼けによる被害状況は、『浮世の有様』などの史料によれば、天満を中心とした大坂市中の5分の1が焼失し、当時の大坂の人口約36万人の5分の1に当たる7万人程度が焼け出され、焼死者は少なくとも270人以上であり、餓死者や病死者を含めるとそれ以上だといわれている。

下図のようなパロディのチラシがあった。
Photo
大塩平八郎の乱

既にマグマは溜まっていたのである。
そこに黒船来航等が続き、徳川長期政権も崩壊へ向かって行った。
盤石に見えた「安倍一強」体制が断末魔の様相を示している。
失政のツケを官僚に押し付けても、前川喜平前文科次官ように、反旗を翻す人間は出てくるはずである。
もう一息である。

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2018年2月16日 (金)

リベラルの源流としての明六社/幕末維新史(8)

明治6年は明治維新の大きな分岐点だった。
李氏朝鮮に対する政策で、国論が二分されたのだ。
いわゆる「征韓論論争」である。
これが「明治6年の政変」と言われる事態となって、新政府が二つに割れた。
Wikipediaを見てみよう。

そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣した。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。更に当時における日本大使館を利用して、征韓を政府に決行させようとしていたとも言われる(これは西郷が板垣に宛てた書簡からうかがえる)。これを根拠に西郷は交渉よりも武力行使を前提にしていたとされ、教科書などではこれが定説となっている。
この西郷の使節派遣に賛同したのが板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任らであり、反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆らである。

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歴史人別冊 西郷隆盛と幕末維新の争乱』BEST MOOK SERIES 63(2017年12月)

現象的には岩倉使節団として洋行した派と留守を守った派の対立であるが、結果的には西郷たちは下野して、維新勢力は二分される。
盟友だった薩摩の西郷と大久保は、不倶戴天の敵となった。
⇒2018年1月15日 (月) 西郷隆盛のイメージ/幕末維新史(4)
⇒2018年1月18日 (木) 西郷隆盛のイメージ(続)/幕末維新史(5)

一方、この年に啓蒙主義の団体である「明六社」が設立された。
「明治6年の政変」は明治10年の西南戦争に繋がっていく。
自由民権運動が本格化するのは西南戦争以降であり、それまでの期間は啓蒙思想の時代と呼ばれる。
「明六社」の構成メンバーは、森有礼(主唱者)、西村茂樹、津田真道、西周、中村正直、加藤弘之らである。
開成所出身の旧幕府吏僚が多かったが、日本最初の学術団体とされる。

政治、経済、教育、宗教、思想、哲学、婦人問題など多くの分野で開明欧化、自由進取の立場から論陣を張った。
いわゆる「進歩的文化人」のハシリであり、日本のリベラリズムの源流である。

松岡正剛氏は「千夜千冊第592夜」で『戸沢行夫 『明六社の人びと』』を取り上げ、以下のように書いている。

 日本にはどうも啓蒙が流行らない。啓蒙主義なんて、知識人の暇つぶしのようにおもわれている向きさえ強い。そればかりか、大学から次々に教養学部や教養過程がなくなりつつあるいまでは、教養という言葉だって流行らない。
 日本には啓蒙や教養が根付かないのである。根付かない理由は容易に指摘できる。タテばかりが強い知識人の系譜に対して、知をヨコに組む動きがつくれていないからである。ヨコに組む者たちはたちまち排斥され、横破り呼ばわりされた。だいたい横柄・横行・横着というふうに、ヨコの言葉は悪くうけとられている。
 が、ほんとうはそんなことはない。能の声の出し方には「横(おう)の声」というものがあって、ヨコに広がっていく声をいう。タテの声では能にはならない。また幕末維新の志士たちが何をしたかといえば、その動向の本質は「横議横行」をしたことにあった。松陰や龍馬や高杉や中岡がヨコに脱藩をし、ヨコに海外渡航を企てたから、幕末のすべてが動いたのである。
 日本に啓蒙と教養が定着するには、ヨコの文化が脈動している必要がある。

この「知をヨコに組む」というのがリベラルであり、その方法や分野がリベラルアーツと言えよう。
⇒2017年11月 5日 (日) リベラル・アーツとの関係/リベラルをどう考えるか(2)
⇒2017年11月 6日 (月) リベラル・アーツとの関係(続)/リベラルをどう考えるか(3)
⇒2017年11月 9日 (木) リベラル・アーツとの関係(3)/リベラルをどう考えるか(4)

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2018年2月 6日 (火)

琉球処分/幕末維新史(7)

名護市長選で、普天間基地の辺野古移設を進める安倍晋三政権が推した新人で元市議の渡具知武豊氏が、移設に反対する翁長雄志知事が支援した現職の稲嶺進氏の3選を阻み、初当選した。
安倍首相は、辺野古移設推進の民意が示されたと、移転に前のめりであるが、当の渡具知氏は、選挙結果が辺野古新基地建設に対する名護市民の容認の意思を示すかどうかについて、「そうとは思っていない。私は容認ということで選挙に臨んでいない」とした。
早急に移転を進めることになれば「琉球処分」に遡って問題になるだろう。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説を引用する。

1879年(明治12)に明治政府の手で行われた沖縄の廃藩置県のことで、これにより琉球王国は崩壊し沖縄県が設置された。なお後述のように、1872年の琉球藩設置から80年の中国(清(しん)国)と明治政府の外交問題である分島問題までの一連の過程(いわゆる琉球帰属問題)をさして広義に使う場合もある。
・・・・・・
前述したような背景・経過をもつ琉球処分とはいったいなんだったのか、第二次世界大戦前から多くの研究者がさまざまな評価を行っている。大づかみに整理すると、〔1〕日本における近代国家形成時の民族統一の一環として積極的に評価する見解、〔2〕民族統一の一環である点は疑いないが、統一の過程に現れた強権的・国家的側面を同時に重視すべきだとする見解、〔3〕民族統一というよりも侵略的な併合とみるべきではないかとする見解、に大別される。しかし〔1〕~〔3〕の見解内部でも論者によりニュアンスが異なるなど、評価はかならずしも一致していない。そのことは、民族統一であったはずの沖縄の廃藩置県の直後に、分島問題が惹起(じゃっき)した点に象徴されるように、もっぱら明治政府の都合により処分が推進され、琉球住民の意向を十分にくみ取ることなく、他律的な形で実施されたことが、評価をむずかしくさせているからである。琉球処分のこうした性格に絡んで、第二次世界大戦後、とくに1972年(昭和47)前後の沖縄返還問題をめぐる日本国政府の沖縄施策を批判する際に、「第二の琉球処分」という用語も登場したほどである。

沖縄に対する政権の対応を見ていると、確かに「新しい琉球処分」ではないかと思うことが多い。
沖縄に「琉球処分は不当だった」という感情・世論が存在する。
Photo
琉球新報2014年7月11日

琉球処分をどう評価するか。
民族統一の一環であったことは事実だとしても、武力を背景として強圧的になされたことも事実である。
警視庁の機動隊まで動員して、反対運動を排除する様子が放映されているが、前近代的な手法と言わざるを得ないだろう。
名護市長選のウラで何が行われていたのか、注視する必要がある。

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2018年1月30日 (火)

明治維新=the Meiji Restoration/幕末維新史(6)

「幕末の思想地図」として下図が掲げられている。
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真説幕末明治維新史「官軍史観」と「逆賊」の真実』 DIA Collection(2017年12月)

私が子供の頃、チャンバラごっこでは、「尊王攘夷」が正義派で、佐幕はワルモノであった。
例えば何度か映画化されている『侍ニッポン』(郡司次郎正)の主人公・新納鶴千代は次のように歌われている。

〽昨日勤王 明日は佐幕
その日その日の出来心
・・・・・・

上図ですべてを尽くしているわけではないが、多方向のベクトルを持ったイデオロギーが入り組んでいたことが分かる。
幕末を「超克」して明治維新になったわけだが、それでは明治維新は思想地図的にどうポジショニングされるだろうか。
「日本資本主義論争」という有名な論争があった。

1933年頃から1937年頃まで行われたマルクス主義に立つ経済学者の論争のこと。広義には1927年頃から1932年頃まで日本共産党と労農派の間で行われた日本民主革命論争を含めていうこともある。日本の資本主義の性格について、講座派と労農派の間で激しく論戦が交わされた。
・・・・・・
共産党系の講座派は、明治維新後の日本を絶対主義国家と規定し、まず民主主義革命が必要であると論じた(「二段階革命論」)。これに対し、労農派は明治維新をブルジョア革命、維新後の日本を近代資本主義国家と規定し、社会主義革命を主張した。
Wikipedia
近代を代表する大論争と言えるが、明治維新の基本的性格の規定の見解の相違である。
詳しくは知らないが、決着がついたとも聞かない。
西鋭夫『新説・明治維新 西鋭夫講演録』ダイレクト出版(2016年4月)は、『A New Theory Of the Meiji Restoration』というタイトルが付いている。
「restoration」は辞書を引くと「もとに戻すこと、返還、もとの状態に戻ること、復職、復位、回復、復旧、修復、復元(作業)、(建物・死滅動物などの)復元(したもの)」とある(weblio)。
西氏の立場はともかく、用例にも載っているので英語では「the Meiji Restoration」というようだ。
この意味では「王政復古」が最も近いのだろう。

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2018年1月18日 (木)

西郷隆盛のイメージ(続)/幕末維新史(5)

大河ドラマ『西郷どん』のオープニングで、上野恩賜公園の西郷像の除幕式において、西郷の妻が「ちごっ、ちごっ! こんな人でなか」と叫んでいた。
⇒2018年1月15日 (月) 西郷隆盛のイメージ/幕末維新史(4)
お雇い外国人のキヨッソーネが描いたの肖像画をよく目にするが、西郷従道と大山巌をモデルにして作り上げたものだという。
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真説 幕末明治維新史 「官軍史観」と「逆賊」の真実』ダイアプレス(2018年1月)

ところが西郷隆盛を描いた可能性がある新しい肖像画が、枕崎市で見つかったと報道されている。

Photo_4 作者や制作年は不明で、西郷の遺品などを管理している鹿児島市の西郷南洲顕彰館が今月から一般公開して情報を求めている。西郷ゆかりの縁者は「祖先から聞いていた西郷さんの特徴がそろっている」と期待している。
 肖像画が保管されていたのは、鹿児島県枕崎市宮田町の丸谷兼彦さん(87)、昭子さん(83)夫妻宅。油絵で描かれ、サイズは縦54センチ、横45センチ。署名はなく、だれがいつ描いたのか全くわかっていない。ただ、1926年ごろには昭子さんの実家の仏間に掲げられていたという。
 これまでに外部に持ち出されたことはなく、兼彦さんは「西郷さんの肖像か真偽のほどはわからないが、維新150周年の記念の年に多くの人に見てもらえたら」と話す。
 肖像画を西郷南洲顕彰館へ橋渡ししたのは、鹿児島市の西郷銅像横にある「K10カフェ」の店長、若松宏さん(57)。若松さんの曽祖母の岩山トクさんは西郷の妻イトの弟に嫁ぎ、西郷家の家事を手伝うなど付き合いが深かったという。肖像画を見た若松さんは「西郷さんの顔を何度も見ていたトクばあさんが語っていた西郷さんの特徴がそろっている」と話す。
 トクさんは97歳で亡くなる前年の1951年、当時の鹿児島市長に西郷の顔の特徴として、目の上が少し盛り上がっていたこと、耳が縦に長かったこと、額の左右の部分の髪が抜けていたことなどを挙げており、若松さんは肖像画と一致していると見ている。
西郷隆盛の新肖像画を発見? 縁者「特徴そろっている」

どうしてアイデンティファイするか分からないが、アーネスト・サトウによる証言の「黒ダイヤのように光る大きな目玉」という特徴は現れているような感じではなかろうか。
西郷像のスタンダードになるのだろうか?
まあ、これを機会に謎多き西郷隆盛の実像の検討が深まることを期待したい。

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2018年1月15日 (月)

西郷隆盛のイメージ/幕末維新史(4)

今年は「明治150年」にあたることから、各種の記念行事が企画されている。
NHKの大河ドラマも西郷隆盛を主人公に『西郷どん』である。
原作林真理子、脚本中薗ミホという女流コンビが担当し、時代考証は『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』NHK出版 (2017年5月)の磯田道史氏である。

西郷は、戊辰戦争を主導し、勝海州との会談で江戸無血開城を決めるなど、明治維新の顔であることは間違いないだろう。
大河ドラマのオープニングで、上野恩賜公園の西郷像の除幕式で、西郷の妻が「ちごっ、ちごっ! こんな人でなか」と叫んでいたシーンがチラッと映されたが、実際に西郷隆盛とは似ていないそうである。
作者は高村光雲、つまる光太郎の父で、近代彫刻の父である。

なぜ似ていない像が作られたのか?
西郷隆盛の肖像画はよく見る。
例えば以下の貌である。
Photo
西郷隆盛

西郷の現存する写真はなく、お雇い外国人のキヨッソーネが西郷従道と大山巌をモデルにして作り上げたという。
要するに実像は謎である。

加治将一『西郷の貌-新発見の古写真が暴いた明治政府の偽造史』祥伝社 (2012年2月)という小説がある。
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以下のような紹介文である。

なぜ、維新の英傑の顔っは消されたのか?歴史作家・望月真司は、一枚の古写真に瞠目した。 「島津(しまづ)公(こう)」とされる人物を中心に、総勢13人の侍がレンズを見据えている。 そして、その中でひときわ目立つ大男……かつて望月が 「フルベッキ写真」で西郷隆盛に比定した侍に酷似していたからだ。 この男は、若き日の西郷なのか? 写真はないとされている西郷だが、この大男が彼だとしたら、この写真はいつ、何のために撮影 されたのか?誰が、何のために合成の肖像画、似ても似つかぬ銅像を造ってまで偽のイメージを植えつけようとしたのか? 謎を解明するために望月は鹿児島へ飛んだ。

テーマは面白いが、文章が粗い感じなのが残念だ。
しかし僅か150年ほど前のことではあるが、幕末維新には多くの謎がある。

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2015年2月 7日 (土)

吉田松陰の行動と死/幕末維新史(3)

今年の大河ドラマ『花燃ゆ』は、幕末の長州の藩都・萩が舞台である。
NHKは安倍首相に阿っているのではないかという批判がある。
確かにそう見られても仕方がないような両者の動きだと思うが、それについてはもう少し様子見としよう。
吉田松陰は、「草莽崛起」で知られる。
辞書を引くと「志を持った在野の人々が一斉に立ち上がり、大きな物事を成し遂げようとすることを意味する」とある。
安倍首相がどう理解しているか、質問してみたい気がする。

♪きのう勤皇 あしたは佐幕……
西条八十作詞の『侍ニッポン』という古い歌の一節である。
幕末は「勤皇か佐幕か」と国論が激しく争われた時であった。
「攘夷か開国か」はTPPに似ていると思うが、攘夷が勤皇と結び、開国が佐幕と結ぶという、守旧と改革が複雑に錯綜していた。
子どもの頭では理解できるはずもなかったが、「勤皇か佐幕か」はチャンバラごっこで遊ぶ時の定番のセリフだった。
⇒2012年10月29日 (月):開国を迫られた老中阿部正弘の苦悩の改革/幕末維新史(2)
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歴史人別冊『幕末維新の真実』㏍ベストセラーズ(2012年9月)

松陰は下田でペリーの黒船に密航を企てるなど、静岡県とも縁がある人物である。
嘉永4年(1851年)3月、参勤交代に同行して江戸にも遊学。佐久間象山に出会い、。同年12月には、宮部鼎蔵らと「水戸学」や「海防」などの勉強を目的とした東北の旅を計画する。
なかなか藩からの関所通過書が届かないことから、松陰は当時重罪であった脱藩を実行する。
現在も、「国益より省益を優先する国家官僚の在りかたを嫌い官僚を辞めたが、改革の志を失っていない元官僚」を脱藩官僚などという。

松陰は東北を訪問後、脱藩の罪で萩に送還されるが、松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出る。
2度目の江戸遊学中の嘉永6年(1853年)6月、ペリー提督率いるアメリカ合衆国東インド艦隊が浦賀に来航(いわゆる黒船来航)する。
浦賀に出かけ黒船を観察した松陰は大きな衝撃を受け、幕府の国防に対する不備を強く認識するとともに、多くの志士たちが感じたように危機感を覚える。
嘉永7年(1854年)1月、ペリー再来航の際、密航計画を知り松陰に強く願い出た長州藩足軽・金子重之助とともに密航を再度企てる。

松陰と金子はペリーの船に乗り込もうといろいろ手を尽くし、走り回ったがことごとく失敗し、下田に移動したペリーの船に、夜間、小舟をこぎ寄せた。
ペリー側は、松陰たちの必死の頼みにも渡航を拒絶し、松陰の密航計画はまたしても失敗した。         
松陰と金子は自首し、江戸伝馬町の牢屋に入れられ、その後、萩に送還され、松陰は士分が入れられる野山獄、金子は岩倉獄へと投獄される。
TVはこの辺りまで進んでいる。

松陰はこの後、安政4(1857)年から松下村塾で教えるのだが、日米通商条約を結んだ幕府を批判して野山獄に再投獄されてしまう。
結局松下村塾で教えたのは、2年ばかりの期間に過ぎないが、倒幕・維新を牽引する綺羅星の如き逸材を輩出したのは周知の通りである。
大河ドラマを見る習慣はないのだが今年はどういう風の吹き回しか、今のところ続けて見ている。
松陰は伝馬町獄の刑場で斬首に処される。
墓は東急世田谷線松陰神社駅近くの松陰神社内にあるという。
松陰が死罪に処された「安政の大獄」の指揮者・井伊直弼の墓所である豪徳寺に近接しているのは不思議な縁である。
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東京新聞1月19日

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2012年10月29日 (月)

開国を迫られた老中阿部正弘の苦悩の改革/幕末維新史(2)

日本の近代史は、ペリーの浦賀来航をきっかけとしたといっていいだろう。
爾来、アメリカとの関係は、一貫して戦後史に至るまでの日本史を規定している。

幕末維新史における最大の争点の1つが、攘夷か開国かであった。
徳川幕府は、日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限する鎖国政策をとった。
一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止以降を鎖国という。
200年以上続いてきた鎖国を解いて開国するか、はたまた外国勢力の干渉を排除して鎖国を維持するか?

この鎖国体制を揺さぶったのが、アメリカ東インド艦隊から選抜された船団を率いたマシュー・カルプレイス・ペリーであった。
ペリー提督は、アメリカの東インド艦隊司令長官兼遣日特使であったが、1853(嘉永6)年6月3日、浦賀沖に黒船と共にやってきた。

浦賀沖に現れたのは、旗艦サスケハナ号、ミシシッピ号、プリマス号、サラトガ号の4隻である。
いずれも船体は黒く塗られ、蒸気船の煙突からは黒い煙が上がったため、「黒船」と呼ばれた。
実際に蒸気船はサスケハナ号とミシシッピ号の2隻で、他の2隻は帆船だったが、サスケハナ号は2,450トンあって、せいぜい100トン程度の千石船しか見たことがない日本人が慌てふためいたのも無理はない。

泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず

黒船来航によるテンヤワンヤを歌った狂歌である。
上喜撰とは高級な日本茶のことであるが、蒸気船とかけて幕府のあわてぶりを皮肉った。

ペリー来航の目的は、日本を開国させることであった。
アメリカは産業として捕鯨を行っており、日本に薪炭、食料、水を供給させることが狙いだった。
ペリーは、アメリカ大統領フィルモアから将軍宛ての国書を受け取るように幕府に迫った。
鎖国を維持したい幕府は、長崎で交渉しようとしたが、ペリーは強引に幕府の喉元である江戸湾に入った。

船団が江戸湾内を示威的に航行すると、江戸は大騒ぎになり、浦賀には見物人が押し寄せた。
幕府はペリーの強硬姿勢に屈し、6月9日、久里浜に上陸を許可して国書を受け取った。
幕府は即答を避け、ペリーはそれを了解し、1年間の猶予ということで浦賀を去った。

直後に12代将軍徳川家慶が他界する。
暑気当たりで倒れたのが死因といわれるが、幕府の行方を暗示するかのような死であったといえよう。
嫡男の家定が13代将軍に就いたが、虚弱体質で政治的能力も凡庸だったといわれる。

必然的に幕閣に大きな役割が期待された。
老中首座の阿部正弘は35歳。
当初、阿部は鎖国の伝統を守り、異国船打払令の復活を主張した。
しかし、時の幕府に、アメリカの要求をはねつけて国防体制を整える経済的余裕はなかった。

阿部は、国難ともいうべき事態に対処するため、従来のやり方を大胆に改革した。「安政の改革」である。
まず、譜代大名が中心だった政治体制を改めた。
強硬な開国反対論者の徳川斉昭を幕政参与に起用すると共に、薩摩藩主島津斉彬ら有力な外様大名の意見を求めた。
同時に朝廷や公家社会との連携を強化して挙国一致を図った。

阿部は、アメリカ大統領の国書を諸大名に示して、意見を求めた。
さらには、大名だけでなく、幕府の役人、藩士、一般庶民にまで諮問した。
これらの改革を、阿部の開明性と見るか、幕府の威光の低落と見るかは、見解の分かれるところであろうが、阿部の朝廷との連携路線は、後に「公武合体論」へと発展していった。

諸大名や幕臣が出した意見書は700近くに及んだという。
その大多数は、鎖国堅持、相手が拒否すれば打払うというものだった。
「攘夷」とは、外夷を打ち払うことである。
⇒2012年9月17日 (月):維新ブーム考/花づな列島復興のためのメモ(144)

「それができるなら苦労はない」と阿部は思ったことだろう。
次に多かったのは、時間をかけて交渉するとか、アメリカとだけ開国しようというものだった。
幕府内の積極的な開国論者は、勝麟太郎(海舟)や井伊直弼など、ごく限られていた。Photo
歴史人別冊『幕末維新の真実』㏍ベストセラーズ(1209)

結局、阿部はアメリカの国書に対し明確な回答をしないまま、「海防大号令」を発してペリーの再来を待つことになった。
決断しない先送りともいえるが、多くの優秀な人材を登用したことは功績といえよう。

その1人が、伊豆韮山の代官・江川英龍(担庵、36代太郎左衛門)である。
江川は、海防の建言を行い、阿部に評価され勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入りを果たした。
阿部の命で江戸湾に台場を築くと共に、反射炉を築造し、銃砲製作も行った。
現在も韮山(伊豆の国市)に残る反射炉跡は貴重な近代化産業遺産である。
⇒2011年2月19日 (土):大仁神社と大仁梅林

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2012年9月25日 (火)

フルベッキ写真と権力による情報の隠蔽/幕末維新史(1)

8月11日の夜のことであった。
加治将一『ビジュアル版 幕末 維新の暗号』祥伝社(1208)を眺めていたら、見るともなく視聴していたTVから上野彦馬という名前が聞こえてきた。
テレビ東京の「美の巨人 国宝建築②大浦天主堂」という番組であった。

世界に名を馳せる西洋建築の最高峰が長崎にあります。国宝『大浦天主堂』。正式名称は『日本二十六聖殉教者天主堂』と言います。創建されておよそ150年。現存する日本最古の木造教会です。一歩中へ入ると、まず目に飛び込んでくるのは鮮やかなステンドグラス。天井はゴシック様式特有の優美な曲線で覆われています。しかし、これほどの装飾美・建築美を生み出す技術は、当時の日本には無かったはず。
いったいどうやってこの美しい教会は建てられたのでしょうか?さらに、この教会がある奇跡を起こしたというのですが…。それはいったい?

http://www.tv-tokyo.co.jp/program/detail/14857_201208112216.html

その大浦天主堂を、日本で最初のカメラマンといわれる上野彦馬が撮影した写真が遺されている。
上野の人物像はWikipediaによれば、以下の通りである。

天保9年(1838年)、長崎の蘭学者・上野俊之丞(しゅんのじょう)の次男として生まれる。広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、咸宜園を離れた後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする医学伝習所の中に新設された舎密試験所に入り、舎密学(化学)を学んだ。このとき、蘭書から湿板写真術を知り、大いに関心を持つ。同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。その後、堀江とともに江戸に出て数々の写真を撮影して耳目を開き、文久2年(1862年)には堀江と共同で化学解説書『舎密局必携』を執筆する。
同年、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した。ちなみにこれは日本における最初期の写真館であり(ほぼ同時代に鵜飼玉川や下岡蓮杖が開業)、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。同撮影局では坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。

個人的には、舎密学(化学)という名前が懐かしい。
工業化学系の学科に在籍していたので、友人たちと舎密塾という勉強会をやっていたことがあった。
遠い昔の記憶である。

加治将一氏の作品についてはすでに『西郷の貌』を取り上げた。
⇒2012年4月16日 (月):『西郷の貌』と万世一系のフィクション/やまとの謎(61)
文章は荒削りだが、着眼点が興味を惹く。

ビジュアル版 幕末 維新の暗号』のAmazonの内容紹介は以下の通りである。

累計50万部を突破した“加治将一の禁断の歴史シリーズ"(既刊5作)から、『龍馬の黒幕』『幕末  維新の暗号』『西郷の貌』3作を選び出し、ビジュアル要素を1冊に凝縮。宣教師・フルベッキが明治政府に与えた影響とは? 西郷隆盛の「顔」が封印された理由は? 幕末期の古写真を中心に70点の写真が、明治維新という革命の裏面史を浮かび上がらせる。

幕末期の古写真といえば、上野彦馬は欠かせない。
上野が撮影したという説もあるフルベッキの写っている写真が作品のモチーフである。
ちなみにフルベッキとはWikipediaから引用すれば、以下のような人物である。

グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck、或いはVerbeek、1830年1月23日 - 1898年3月10日)は、オランダの法学者・神学者、宣教師。オランダ・ザイスト市出身。ユトレヒトで工学を学んだ。日本では発音しやすいようフルベッキ(Verbeck)と名乗り、現在に至るまでこのように表記されている。両親は敬虔なルター派の信徒とされているが、正確にはオランダ系ユダヤ人であり、いわゆる改宗ユダヤ人である[要出典]。フルベッキはモラヴィア教会で洗礼を受け、同派の学校でオランダ語、英語、ドイツ語、フランス語を習得している。

先日、知人が下図のような写真を額に入れて置いてあるのを見た。
Verbeck
A3判くらいの大きさの立派そうな額に入ったフルベッキ写真である。
ちなみに、フルベッキ写真とは以下のように解説されているものである。

「フルベッキ写真」とは、フルベッキとその子を囲んで撮影された集合写真の俗称。
この写真は古くから知られており、1895年(明治28年)には雑誌『太陽』(博文館)で佐賀の学生達の集合写真として紹介された。その後、1907年(明治40年)に発行された『開国五十年史』(大隈重信監修)にも「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」とのタイトルで掲載されている。
1974年(昭和49年)、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、この写真には坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作をはじめ、明治維新の志士らが写っているとする論文を発表した(2年後の1976年にはこの論文の続編を同誌に発表)。島田は彼らが写っているという前提で、写真の撮影時期を1865年(慶応元年)と推定。佐賀の学生達として紹介された理由は、「敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、偽装されたもの」だとした。
この説は学会では相手にされなかったが、一時は佐賀市の大隈記念館でもその説明をとりいれた展示を行っていた。また、1985年(昭和60年)には自由民主党の二階堂進副総裁が議場に持ち込み、話題にしたこともあったという。また、2004年(平成16年)には、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞にこの写真を焼き付けた陶板の販売広告が掲載された。東京新聞が行った取材では、各紙の広告担当者は「論議がある写真とは知らなかった」としている。また、業者は「フルベッキの子孫から受け取ったもので、最初から全員の名前が記されていた」と主張している。
2009年現在、朝日新聞と毎日新聞は「フルベッキ写真の陶板」広告を掲載し続けている。
この写真の話題は間歇的に復活して流行する傾向がある。ちなみに最初に島田が推定した維新前後の人物は22人であったが、流通する度に徐々に増加、現在では44人全てに維新前後の有名人物の名がつけられている。
現在でも土産物店などでこの説を取り入れた商品が販売される事がある。
また、大室寅吉という名で後の明治天皇が写っているとした説や、「明治維新は欧米の勢力(例:フリーメイソン)が糸を引いていた」説等の陰謀論、偽史の「証拠」とされた例もある。

加治氏は、上掲書の「万世一系のトリック」の項で、次のように書いている。

情報の締め出し、非公開。
 福島原発事故の隠蔽工作を見るまでもなく、日本には昔から隠し癖がはびこっている。
 先進国なら事実と虚構の間に争いが生じるはずだが、日本では起きない。なぜなら、困ったことに政治家、学者、メディア、基幹産業が官僚支配層にひれ伏しているからだ。そのために論争すら起こらず、ほぼ完璧に封印されてきたのである。
 支配層は昔から「隠蔽」「封印」と露骨に言わない。
 何と言うか?
 上から目線で、「民は之に由らしむべし。之を知らしむべからず」だ。

その代表が「万世一系」という物語というわけである。
明治維新を『坂の上の雲』のようなイメージで捉えるだけでは、平面的な見方ということになりそうである。

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