幕末維新史

2018年11月27日 (火)

坂本龍馬暗殺の犯人/幕末維新史(15)

坂本龍馬を殺した犯人肌fれか?
以下のように諸説がある。
京都見廻組説
新撰組説
薩摩藩説
紀州藩説
土佐藩説
グラバー説
中岡慎太郎説
坂本龍馬暗殺の謎は解けていた!「お~い竜馬」は当たりか?

Wikipediaでは次のように説説明している。

実行犯については諸説あるが、江戸幕府の組織である京都見廻組によるものという説が有力である。
事件発生当時、土佐藩家老の寺村左膳は新選組による犯行だと考え、新選組から離脱し、対立していた御陵衛士の証言もそれを補強した。海援隊士は当時「いろは丸事件」などでトラブルを抱えていた紀州藩の犯行と推定し、天満屋事件などが起こったが、実行犯は見つからなかった。しかし大正元年、見廻組隊士今井信郎の供述に基づく龍馬殺害の経緯が『維新土佐勤王史』に収録され、大正15年には今井の口上書が『坂本龍馬関係文書』に収録された。以降は文献的に京都見廻組の佐々木只三郎らを実行犯とする説が通説として扱われている。
見廻組隊士だった今井信郎は1889年(明治2年)に箱館戦争で降伏し、兵部省と刑部省によって取り調べを受けていた。この頃、坂本殺害について旧新選組隊士に取り調べが行われたが、いずれも新選組の関与を否定した。このうち大石鍬次郎が見廻組が実行犯であると自供したため、今井も取り調べを受け、自供することとなった。『勝海舟日記』明治2年4月15日条には松平勘太郎(松平信敏)に聞いた話として、今井が「佐々木唯三郎(只三郎)首トシテ」犯行に及んだことを自供したという記述がある。この中で勝海舟は指示したものは佐々木よりも上の人物、あるいは榎本対馬(榎本道章)か、わからないと記述している。
1870年(明治3年)9月2日、今井は禁固刑、静岡藩への引き渡しという判決を受けた。直接手を加えていないが龍馬殺害にかかわったこと、その後脱走して官軍に抵抗したことが罪状とされている。今井の証言をおさめた口上書は佐々木只三郎の指示により、佐々木、今井、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼(早)之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の七人が近江屋に向かい、佐々木・渡辺・高橋・桂の4人が実行犯となって龍馬らを殺害したというものである。殺害の命令があった理由については、寺田屋事件の際に龍馬が同心二名を射殺したことをあげている。今井は京都見廻役小笠原長遠に命じられたとしているが、小笠原は一切関知していないとしている。

「操觚の会」に集う7人の作家が、想像力と推理を駆使して挑む。書き下ろし短篇競作と銘打っているのは『幕末暗殺!』中央公論新社(2018年1月)である。
Photo

同書の中で、誉田龍一氏の「天が遣わせし男」が龍馬暗殺をテーマにしている。
誉田氏は、京都所司代の家に生まれ、見廻組に入隊していた桂早之助が直接手を下したとしている。

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2018年11月26日 (月)

坂本龍馬暗殺と近江屋/幕末維新史(14)

NHKの大河ドラマ「西郷どん」の9月16日は坂本龍馬暗殺のシーンだった。
180916
東京新聞9月16日

場所は河原町三条下がるの近江屋で、慶応3(1967)年12月10日であった。
近江屋の向かいに土佐藩邸ががあり、相対的に安全な場所という認識だっただろう。
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坂本龍馬暗殺の舞台の近江屋と土佐藩邸はすぐそばと聞きましたが何メートルぐらいですか。

Wikipediaの「近江屋事件」を引用する。

坂本龍馬はそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿であった寺田屋が江戸幕府に目をつけられ急襲(寺田屋事件)されたため、三条河原町近くの材木商鮓屋を京都での拠点にしていたが、慶応3年10月頃には近江屋(醤油屋)へ移った。このことについて薩摩の吉井幸輔は「四条ポント町位ニ居てハ、用心あしく」として土佐藩邸に入れないのであれば薩摩藩邸へ入るよう勧めたが、薩摩藩邸に入る訳にはいかないとして龍馬は近江屋に留まった。
11月15日(12月10日)、夕刻に中岡が近江屋を訪れ、三条制札事件について話し合う。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士(今井信郎の証言では松代藩士)を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。元力士の山田藤吉は客を龍馬に会わせようとするが後ろから斬られた(1日後に死亡)。大きな物音に対し、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言い、刺客に自分たちの居場所を教えてしまう。刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入した。そして龍馬は額を斬られた(この他、浪士達が2人を斬る前に名刺を渡してから斬ったという説など諸説ある)。その後、龍馬は後頭部から背中、再度額を深く斬られたところで刺客のひとりが「もうよい、もうよい」と言い、全員立ち去った。龍馬は、ほとんど即死。中岡は全身数十箇所を切られたが、長刀を屏風の後ろに隠していたため、仕方なく身に付けていた脇差しで防戦。鞘から脇差しを抜く暇も与えられずに鞘ぐるみで相手の刃を受けていたが、鞘がささらのようになるまで敵の刃を防ぐが防戦むなしく気絶した。中岡は翌日2日後まで生きており、好物の焼き飯を食べられるまで回復するが出血多量で、その後吐き気をうったえ死亡した。生存中に土佐藩士谷干城に暗殺時の状況を伝えている。
凶行時、騒動に気付いた近江屋店長の井口新助が土佐藩邸へ知らせに駆け込んだ。下横目の嶋田庄作が近江屋の門口で刺客が出て来るのを抜刀して待ち構えていた所へ、龍馬の遣いで軍鶏を買いに出ていた鹿野峰吉が戻り、嶋田と共に部屋を確認したところ刺客は既に去った後で、陸援隊の詰所である白川屋敷へ峰吉が知らせに走った。土佐藩邸から河村盈進と同時に、曽和慎八郎が、続いて谷干城、毛利恭介、薩摩藩の吉井友実、陸援隊士の田中光顕、海援隊隊士の白峰駿馬らが現場に駆けつけた。
なお、近江屋と土佐藩邸の位置関係は、河原町通りを隔てた真向かい(数メートル)であった。

明治維新の見方はさまざまであるが、Restoration(王政復古)であることは重要な側面であろう。
2018年1月30日 (火) 明治維新=the Meiji Restoration/幕末維新史(6)
以下のような解説図がある。Photo_5
どうして徳川慶喜は大政奉還をしたの?きっかけはあの幕末ヒーロー

安倍首相は鹿児島での総裁選出馬表明に際し、「薩長同盟」などと時代錯誤な発言をした。
2018年9月 2日 (日) 安倍首相の無神経な「薩長同盟」発言/メルトダウン日本(23)

上図のように「薩長同盟」の本質は暴力革命路線と見ることができる。
安倍首相は何を訴求したかったのか?

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2018年11月25日 (日)

敗者の戊辰戦争(4)150年の恩讐を超えて/幕末維新史(13)

戊辰戦争は、西南日本と東北日本の内戦という側面を持っていた。
2018年10月10日 (水) 敗者の戊辰戦争/幕末維新史(10)

勝った西南日本、特に長州勢の狼藉ぶりは徐々に知られるところとなっている。
例えば、『満州国演義』の冒頭シーンは、会津の婦女子に対する陵辱シーンである。
負けた東北日本側の恨みは深い。

ようやく戊辰戦争の両者の間に恩讐を超えた動きが見られる。150181025
東京新聞10月25日

明治150年の前半史は、『満州国演義』に見られるように、 戊辰戦争の影響が通奏低音のように流れていたのである。
それを敗者の側の視点で捉えたのが『賊軍の昭和史』と言えよう。
著者の半藤一利氏は山形県(庄内藩)の生まれであり、西南日本側への恨みを隠そうとしていない。

しかしさすがに150年が経とうとしている。
歴史を見つめ直す時だろう。



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2018年11月 7日 (水)

ハロウィーンと「ええじゃないか」/幕末維新史(12)

江戸時代末期の慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで、「えじゃないか」の騒動が発生した。
民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。
ハロウィーンの渋谷の騒動をTVで見ていて、現代版「ええじゃないか」ではないかと思った。

渋谷では仮装した若者たちが暴走し、逮捕者も出た。1810313
東京新聞10月31日

「ええじゃないか」は、岩倉具視の『岩倉公実記』によると、京の都下において、神符がまかれ、ヨイジャナイカ、エイジャナイカ、エイジャーナカトと叫んだという。
8月下旬に始まり12月9日王政復古発令の日に至て止む、とあり、明治維新直前の大衆騒動だった。
ことがわかる。

歌詞は各地で作られ、例えば「今年は世直りええじゃないか」(淡路)、「日本国の世直りはええじゃないか、豊年踊はお目出たい」(阿波)といった世直しの訴えのほか、「御かげでよいじゃないか、何んでもよいじゃないか、おまこに紙張れ、へげたら又はれ、よいじゃないか」(淡路)という性の解放、「長州がのぼた、物が安うなる、えじゃないか」(西宮)、「長州さんの御登り、えじゃないか、長と醍と、えじゃないか」(備後)の政治情勢を語るもの、などがあった。
Wikipedia

囃子言葉と共に政治情勢が歌われたことから、世直しを訴える民衆運動であったと一般的には解釈されているが、倒幕派が国内を混乱させるために引き起こした陽動作戦だったという説もある。
一見バカバカしいような渋谷の争乱も、時代が転換していく予兆なのだろうか?

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2018年10月22日 (月)

敗者の戊辰戦争(2)奥羽越列藩同盟/幕末維新史(11)

戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)・蝦夷地(北海道)および越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、薩長中心の新政府の圧力に対抗するために、奥羽越列藩同盟を結成した。
薩長史観の教科書の世代の私は、あまり印象が残っていない。

最初は、奥羽諸藩が、会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟(奥羽列藩同盟)であった。
そのため、両藩は会庄同盟を結成して列藩同盟の盟約書には署名しなかった。
しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、列藩同盟は新たな政権(北日本政権)の確立を目的とした軍事同盟に変化した。
以下Wikipediaによる。

奥羽越列藩同盟の政策機関として奥羽越公議府(公議所とも)がつくられ、諸藩の代表からなる参謀達が白石城で評議を行った。
奥羽越公議府において評議された戦略は、「白河処置」及び「庄内処置」、「北越処置」、「総括」であり、全23項目にのぼる。
主に次のような内容で構成される。

・白河以北に薩長軍を入れない、主に会津が担当し仙台・二本松も出動する
・庄内方面の薩長軍は米沢が排除する
・北越方面は長岡・米沢・庄内が当たる
・新潟港は列藩同盟の共同管理とする
・薩長軍の排除後、南下し関東方面に侵攻し、江戸城を押さえる
・世論を喚起して、諸外国を味方につける
このほか、プロシア領事、アメリカ公使に使者を派遣し貿易を行うことを要請している。

石井孝『戊辰戦争論吉川弘文館(2008年1月)は、戊辰戦争の本質を「絶対主義形成の二つの途の戦争」と規定し、天皇制と大君制(徳川)の対立を幕末段階から説き起こした。
そして、戊辰戦争を以下の三段階に分けた。
1.「将来の全国政権」を争う「天皇政府と徳川政府との戦争」(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城)
2.「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権・奥羽越列藩同盟との戦争」(東北戦争)
3.「封禄から外れた旧幕臣の救済」を目的とする「士族反乱の先駆的形態」(箱館戦争)

奥羽越列藩同盟は、第二段階における反政府行動であった。Photo
戊辰戦争

戊辰戦争は西南日本と東北日本の戦いという側面を持っていた。
2018年10月10日 (水) 敗者の戊辰戦争/幕末維新史(10)

そもそも西南日本と東北日本は成り立ちからして違うのかも。Photo_2
地球科学研究倶楽部編『日本列島5億年の秘密がわかる本 』学研プラス(2018年10月)

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2018年10月10日 (水)

敗者の戊辰戦争/幕末維新史(10)

いささか古い論文であるが一橋大学経済研究所が出している「経済研究」という雑誌の1975年1月号に、梅村又次氏の『治水と利水』というレビューが掲載された。
梅村氏は経済学者で、執筆当時経済研究所の所長を務めていた。
水問題に関しては圧倒的に理・工学系の論文が多く、社会科学の専門家による包括的なレビューは珍しく、コピーを取っておいた。
その一節である。
032

これは以下の図の説明である。
Photo 
2011年4月23日 (土) 暘谷(フォッサマグナ)論/やまとの謎(30)

何でこの論文を思い出したかと言えば、「・SPA!」誌の9月18・25日号の『敗者の戊辰戦争』の図を見たからである。
Spa180918252

戊辰戦争は、新政府軍VS幕軍の戦いであると同時に、西南日本と東北日本の戦いであった。
安倍首相のように官軍史観でしか考えられない人間は、一度石光真人編著『ある明治人の記録 改版 - 会津人柴五郎の遺書』中公新書(1971年5月)に目を通すべきである。
Photo_2

柴五郎は明治維新の際に朝敵とされた元会津藩士である。¥明治維新の際に青森に移封されたが、旧領と職封を合わせると、70万石に達する大藩が、わずか3万石に減封されたのである。
苛酷な処遇であったが武士としての矜持・誇りを失わず、「西南の役」で薩摩軍を殲滅して快哉を叫んだ。
苦難の末に陸軍学校に入学し、陸軍大将となった。
明治人の魂の記録である。

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2018年5月 6日 (日)

大塩平八郎の乱と幕藩体制の揺らぎ/幕末維新史(9)

幕末というのは何時からのことを言うか?
ごく一般的なイメージは、1853(嘉永6)年のペリー浦賀来航を契機として、幕藩体制が揺らいだとする見方であろう。
Wikipedia:幕末では次のように記述されている。

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。

しかし、中村彰彦『幕末史かく流れゆく』中央公論新社(2018年3月)は、1841(天保12)の「三方領地替え」の幕命を撤回するという失態が幕府の権威を失墜させたとする。
まあ、幕末というのは、末期ということで明確に定義されるものではないといえよう。
1833(天保3)~1839(天保9)年は「天保大飢饉」で全国に餓死する人間が大勢出たのであって、社会情勢的な歪が蓄積したと考えられる。

Wikipedia:天保の大飢饉 は次のように記す。

主な原因は天保4年(1833年)の大雨による洪水や冷害による大凶作であった。東北地方(陸奥国と出羽国)の被害が最も大きく、特に仙台藩の場合は盛んに新田開発を行い、実高で100万石を超える石高を有していたが、米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大であった。50年前の天明の飢饉と比較して、凶作対策が行われたため死者の数は少なかった。商品作物の商業化で農村に貧富の差が拡大したため、貧困の百姓が多く餓死した。各地で餓死者を多数出し、徳川幕府は救済のため、江戸では市中21ヶ所に御救小屋(5800人収容)を設置したが、救済者は70万人を超えた。米価急騰も引き起こしたため、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、天保7年6月に幕府直轄領である甲斐国一国規模の百姓一揆となった天保騒動や、天保8年2月に大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなった。特に大阪では毎日約150人-200人を超える餓死者を出していたという。

このような状況の中で、旗本という幕府の役人であった大塩平八郎が反幕府的な行動に出たのである。
Wikipedia:大塩平八郎の乱

決起直前になって内通離反者が出てしまい、計画は奉行所に察知された。跡部を爆死させる計画は頓挫し、完全な準備の整わぬままに2月19日(3月25日)の朝、自らの屋敷に火をかけ決起した。
天満橋(現大阪市北区)の大塩邸を発った大塩一党は、難波橋を渡り、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となった。彼らは「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、いたずらに火災(大塩焼け)が大きくなるばかりで、奉行所の兵に半日で鎮圧された。
大塩焼けによる被害状況は、『浮世の有様』などの史料によれば、天満を中心とした大坂市中の5分の1が焼失し、当時の大坂の人口約36万人の5分の1に当たる7万人程度が焼け出され、焼死者は少なくとも270人以上であり、餓死者や病死者を含めるとそれ以上だといわれている。

下図のようなパロディのチラシがあった。
Photo
大塩平八郎の乱

既にマグマは溜まっていたのである。
そこに黒船来航等が続き、徳川長期政権も崩壊へ向かって行った。
盤石に見えた「安倍一強」体制が断末魔の様相を示している。
失政のツケを官僚に押し付けても、前川喜平前文科次官ように、反旗を翻す人間は出てくるはずである。
もう一息である。

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2018年2月16日 (金)

リベラルの源流としての明六社/幕末維新史(8)

明治6年は明治維新の大きな分岐点だった。
李氏朝鮮に対する政策で、国論が二分されたのだ。
いわゆる「征韓論論争」である。
これが「明治6年の政変」と言われる事態となって、新政府が二つに割れた。
Wikipediaを見てみよう。

そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣した。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。更に当時における日本大使館を利用して、征韓を政府に決行させようとしていたとも言われる(これは西郷が板垣に宛てた書簡からうかがえる)。これを根拠に西郷は交渉よりも武力行使を前提にしていたとされ、教科書などではこれが定説となっている。
この西郷の使節派遣に賛同したのが板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任らであり、反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆らである。

Photo
歴史人別冊 西郷隆盛と幕末維新の争乱』BEST MOOK SERIES 63(2017年12月)

現象的には岩倉使節団として洋行した派と留守を守った派の対立であるが、結果的には西郷たちは下野して、維新勢力は二分される。
盟友だった薩摩の西郷と大久保は、不倶戴天の敵となった。
⇒2018年1月15日 (月) 西郷隆盛のイメージ/幕末維新史(4)
⇒2018年1月18日 (木) 西郷隆盛のイメージ(続)/幕末維新史(5)

一方、この年に啓蒙主義の団体である「明六社」が設立された。
「明治6年の政変」は明治10年の西南戦争に繋がっていく。
自由民権運動が本格化するのは西南戦争以降であり、それまでの期間は啓蒙思想の時代と呼ばれる。
「明六社」の構成メンバーは、森有礼(主唱者)、西村茂樹、津田真道、西周、中村正直、加藤弘之らである。
開成所出身の旧幕府吏僚が多かったが、日本最初の学術団体とされる。

政治、経済、教育、宗教、思想、哲学、婦人問題など多くの分野で開明欧化、自由進取の立場から論陣を張った。
いわゆる「進歩的文化人」のハシリであり、日本のリベラリズムの源流である。

松岡正剛氏は「千夜千冊第592夜」で『戸沢行夫 『明六社の人びと』』を取り上げ、以下のように書いている。

 日本にはどうも啓蒙が流行らない。啓蒙主義なんて、知識人の暇つぶしのようにおもわれている向きさえ強い。そればかりか、大学から次々に教養学部や教養過程がなくなりつつあるいまでは、教養という言葉だって流行らない。
 日本には啓蒙や教養が根付かないのである。根付かない理由は容易に指摘できる。タテばかりが強い知識人の系譜に対して、知をヨコに組む動きがつくれていないからである。ヨコに組む者たちはたちまち排斥され、横破り呼ばわりされた。だいたい横柄・横行・横着というふうに、ヨコの言葉は悪くうけとられている。
 が、ほんとうはそんなことはない。能の声の出し方には「横(おう)の声」というものがあって、ヨコに広がっていく声をいう。タテの声では能にはならない。また幕末維新の志士たちが何をしたかといえば、その動向の本質は「横議横行」をしたことにあった。松陰や龍馬や高杉や中岡がヨコに脱藩をし、ヨコに海外渡航を企てたから、幕末のすべてが動いたのである。
 日本に啓蒙と教養が定着するには、ヨコの文化が脈動している必要がある。

この「知をヨコに組む」というのがリベラルであり、その方法や分野がリベラルアーツと言えよう。
⇒2017年11月 5日 (日) リベラル・アーツとの関係/リベラルをどう考えるか(2)
⇒2017年11月 6日 (月) リベラル・アーツとの関係(続)/リベラルをどう考えるか(3)
⇒2017年11月 9日 (木) リベラル・アーツとの関係(3)/リベラルをどう考えるか(4)

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2018年2月 6日 (火)

琉球処分/幕末維新史(7)

名護市長選で、普天間基地の辺野古移設を進める安倍晋三政権が推した新人で元市議の渡具知武豊氏が、移設に反対する翁長雄志知事が支援した現職の稲嶺進氏の3選を阻み、初当選した。
安倍首相は、辺野古移設推進の民意が示されたと、移転に前のめりであるが、当の渡具知氏は、選挙結果が辺野古新基地建設に対する名護市民の容認の意思を示すかどうかについて、「そうとは思っていない。私は容認ということで選挙に臨んでいない」とした。
早急に移転を進めることになれば「琉球処分」に遡って問題になるだろう。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説を引用する。

1879年(明治12)に明治政府の手で行われた沖縄の廃藩置県のことで、これにより琉球王国は崩壊し沖縄県が設置された。なお後述のように、1872年の琉球藩設置から80年の中国(清(しん)国)と明治政府の外交問題である分島問題までの一連の過程(いわゆる琉球帰属問題)をさして広義に使う場合もある。
・・・・・・
前述したような背景・経過をもつ琉球処分とはいったいなんだったのか、第二次世界大戦前から多くの研究者がさまざまな評価を行っている。大づかみに整理すると、〔1〕日本における近代国家形成時の民族統一の一環として積極的に評価する見解、〔2〕民族統一の一環である点は疑いないが、統一の過程に現れた強権的・国家的側面を同時に重視すべきだとする見解、〔3〕民族統一というよりも侵略的な併合とみるべきではないかとする見解、に大別される。しかし〔1〕~〔3〕の見解内部でも論者によりニュアンスが異なるなど、評価はかならずしも一致していない。そのことは、民族統一であったはずの沖縄の廃藩置県の直後に、分島問題が惹起(じゃっき)した点に象徴されるように、もっぱら明治政府の都合により処分が推進され、琉球住民の意向を十分にくみ取ることなく、他律的な形で実施されたことが、評価をむずかしくさせているからである。琉球処分のこうした性格に絡んで、第二次世界大戦後、とくに1972年(昭和47)前後の沖縄返還問題をめぐる日本国政府の沖縄施策を批判する際に、「第二の琉球処分」という用語も登場したほどである。

沖縄に対する政権の対応を見ていると、確かに「新しい琉球処分」ではないかと思うことが多い。
沖縄に「琉球処分は不当だった」という感情・世論が存在する。
Photo
琉球新報2014年7月11日

琉球処分をどう評価するか。
民族統一の一環であったことは事実だとしても、武力を背景として強圧的になされたことも事実である。
警視庁の機動隊まで動員して、反対運動を排除する様子が放映されているが、前近代的な手法と言わざるを得ないだろう。
名護市長選のウラで何が行われていたのか、注視する必要がある。

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2018年1月30日 (火)

明治維新=the Meiji Restoration/幕末維新史(6)

「幕末の思想地図」として下図が掲げられている。
Photo
真説幕末明治維新史「官軍史観」と「逆賊」の真実』 DIA Collection(2017年12月)

私が子供の頃、チャンバラごっこでは、「尊王攘夷」が正義派で、佐幕はワルモノであった。
例えば何度か映画化されている『侍ニッポン』(郡司次郎正)の主人公・新納鶴千代は次のように歌われている。

〽昨日勤王 明日は佐幕
その日その日の出来心
・・・・・・

上図ですべてを尽くしているわけではないが、多方向のベクトルを持ったイデオロギーが入り組んでいたことが分かる。
幕末を「超克」して明治維新になったわけだが、それでは明治維新は思想地図的にどうポジショニングされるだろうか。
「日本資本主義論争」という有名な論争があった。

1933年頃から1937年頃まで行われたマルクス主義に立つ経済学者の論争のこと。広義には1927年頃から1932年頃まで日本共産党と労農派の間で行われた日本民主革命論争を含めていうこともある。日本の資本主義の性格について、講座派と労農派の間で激しく論戦が交わされた。
・・・・・・
共産党系の講座派は、明治維新後の日本を絶対主義国家と規定し、まず民主主義革命が必要であると論じた(「二段階革命論」)。これに対し、労農派は明治維新をブルジョア革命、維新後の日本を近代資本主義国家と規定し、社会主義革命を主張した。
Wikipedia
近代を代表する大論争と言えるが、明治維新の基本的性格の規定の見解の相違である。
詳しくは知らないが、決着がついたとも聞かない。
西鋭夫『新説・明治維新 西鋭夫講演録』ダイレクト出版(2016年4月)は、『A New Theory Of the Meiji Restoration』というタイトルが付いている。
「restoration」は辞書を引くと「もとに戻すこと、返還、もとの状態に戻ること、復職、復位、回復、復旧、修復、復元(作業)、(建物・死滅動物などの)復元(したもの)」とある(weblio)。
西氏の立場はともかく、用例にも載っているので英語では「the Meiji Restoration」というようだ。
この意味では「王政復古」が最も近いのだろう。

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