満州「国」論

2013年2月27日 (水)

石原莞爾と2・26事件/満州「国」論(15)

昨日は2・26事件の発生から77年目の日であった。
昭和11(1936)年2月26日、陸軍の一部皇道派将校に率いられた1400名の兵が、首相・陸相官邸、内大臣私邸、警視庁、朝日新聞などを襲撃、陸軍省・参謀本部・警視庁などを占拠した。
大雪が降っていたことは、写真、映画などで私も見知っている。

翌27日に東京市に戒厳令が施行され、28日になると戒厳司令部の香椎長官は次のような「兵に告ぐ」というビラを撒く。

今からでも遅くないから原隊へ帰れ。抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する。お前達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ。

このビラを読んだ兵や下士官たちは、「逆賊」という言葉に動揺し、大勢は帰順して、一部の幹部は自決し、残りは全員逮捕された。
斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎陸軍教育総監らが殺害され、岡田啓介首相のは難を逃れたもの松尾伝蔵陸軍大佐が身代わりになって殺されるという大事件はあっけない結末を迎えた。

この事件については、膨大な研究書や文学作品がある。
人によって評価はマチマチだろう。
しかし、激動の時代を象徴する事件だったことは間違いないだろう。

昭和 6年 9月18日 満州事変
昭和 7年 1月 8日 桜田門天皇狙撃未遂事件
             1月28日 上海事件
             3月 1日 満州国建国宣言
             5月15日 5・15事件(犬養首相殺害)
昭和 8年 3月27日 国際連盟を脱退
昭和11年 2月26日 2・26事件
昭和12年 7月 7日 蘆溝橋事件
昭和13年 4月 1日 国家総動員法公布
昭和16年12月 8日 日本軍真珠湾を奇襲

まさに日本が坂道を転がる如く、戦争の泥沼にはまり込んでいくのが分かる。
その出発点となったのは、満洲事変であったといってよいであろう。

満洲事変。
その立役者は、板垣征四郎と石原莞爾ということも、まあ定説といっていいだろう。
小澤征爾の名は、国際的に通用する日本人の代表格といっていいだろうが、征爾の名前は、板垣征四郎の征と石原莞爾の爾をとって命名された。
満州青年連盟などの運動に携わった征爾の父小澤開作は、2人に傾倒していた。
「智謀石原、実行板垣」と称せられていたように、石原莞爾は脳力に秀でていた。

謀略によって満洲事変を起こし、それを契機として約1万の関東軍をもって、あっという間に、23万といわれる張学良軍を撃破して満州を領有する。
関東軍の方針は領有から建国に転換し、満洲「国」を建国するが、敗戦と共にはかなく消えた。

満州国の建国の理念として、『五族協和の王道楽土』 というコンセプトである。
五族協和とは満州人、蒙古人、漢人、日本人、朝鮮人で、これらの民族が協力して 『多民族国家』 を形成し、欧米諸国のような覇道によらずに王道をもって治めると謳われた。
⇒2011年11月22日 (火):イーハトーブと満州国/「同じ」と「違う」(35)・満州「国」論(1)

満州「国」建設は、石原莞爾の主導によるものと考えていいだろう。
石原の構想は、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向し、日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだとした。
その背景に、石原独自の最終戦争論があった。
すなわち日米決戦に備えるためのステップとして満蒙独立があり、それを実現するための民族協和であった。

満州「国」建設を主導した石原莞爾は、2・26事件に対しては、断固鎮圧すべしという立場でブレなかった。
陸軍首脳の多くがどっちつかずの態度であったのに比して大きな違いである。
2・26事件が起きた時、石原は参謀本部作戦課長だった。
東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にたった。

この時の石原の態度について昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している。
もちろん 「正当」というのは、昭和天皇から見てである。

満洲事変や2・26事件の背景として、東北地方農村部の疲弊があった。
現在も、東日本大震災、とりわけ福島原発事故によって、東北地方に大きな犠牲を強いている。

1930年代の日本は世界恐慌の直撃を受けて大不況の真っただ中。特に東北地方は「昭和東北飢饉(ききん)」といわれる飢饉に襲われ、娘の身売りが相次いだ。2・26事件が起きた一因にはこうした農村の疲弊があったと指摘されている。
・・・・・・
 2・26事件当時と現代の世相がどうしてもだぶってみえてしようがない。リーマン・ショック後の先行きが見通せない景気、大震災による東北地方の疲弊、震災と原発事故に対応が後手後手となっている政治への不信、そして、保身に走る政府首脳と国民そっちのけかのような政治家の権力闘争劇…。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110515/stt11051507010001-n1.htm

確かに、80年前の国情と重なる部分があるように思う。
「歴史は繰り返す」といわれるが、繰り返さないのが人間の知恵というものだろう。

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2013年2月24日 (日)

満州で生まれ、現在も刊行されている同人誌/満州「国」論(14)

2013年2月21日の日本経済新聞の文化欄に、「満州の実相 書き残す」という記事が載っている。
筆者は、秋原勝二さんという作家である。
今年の6月には100歳を迎えるということだが、現在も執筆活動を続けている。
見事な高齢者の1人だろう。

1932年(昭和7年)というから、80年前になる。
満鉄(南満州鉄道)の文学好きの人たちが集まって、「作文」という同人誌を発刊した。
満鉄は、昭和20年、敗戦によりわずか13年と5ヵ月で消失した満州「国」の基幹企業であるが、もちろん満州「国」と運命を共にした。
⇒2011年11月22日 (火):イーハトーブと満州国/「同じ」と「違う」(35)・満州「国」論(1)

静岡県駿東郡小山町に、富士霊園という名前の広大な霊園がある。
そのもっとも標高の高い部分の一角に、「満鉄留魂碑」というものがある。
満鉄ゆかりの人たちでつくる「満鉄会」が毎年留魂祭を行ってきたが、去年で終わりになったそうである。
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デザインされたMの真ん中をレールが貫いているのが、満鉄(The South Manchuria Railway Co., Ltd.)のマークである。
横に、満鉄留魂碑建立の趣旨が記された碑銘碑がある。
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留魂祭を主催してきた満鉄会も、さすがに高齢化が進み事実上活動を停止した。
Wikipediaでは以下のように説明している。

会員は多い時で約1万5000人いたが、その後は会員の高齢化に伴って減少した。2010年(平成24年)10月19日に最後の大会を開催し、翌2013年(平成25年)3月末をもって事実上解散することを決定した。ただし、同年4月から3年間は情報発信のみをおこなう「満鉄会情報センター」として存続するとしている。

そんな中で、秋原さんは奮闘している。
「作文」は、1942年、第55集をもって休刊せざるを得なかった。
戦争になって、統制が進んだ中の一環である。
秋原さんは、誤解されがちな満州の実相を文字にしようと復刊を願った。
実際に復刊が叶ったのは、1964年で20人ほどの同人が集まったということである。

現在の同人は3人、「作文」は第205集まで発行している。
秋原さんの情熱に倣いたいものだ。

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2012年12月24日 (月)

エリート官僚としての岸信介/満州「国」論(13)

総選挙で圧勝した自民党の安倍総裁は、岸信介元首相の孫である。
⇒2012年12月22日 (土):御殿場の岸信介の旧邸/戦後史(9)
幼い頃、安保反対のデモ隊のマネをして、「アンポハンタイ」と口にしていたという話である。
その安倍氏は、首相として、外交政策特に東アジア政策の舵取りをどう進めるのであろうか?

安倍氏の尊敬する祖父・岸信介は、戦前、政治家になる以前は、エリート官僚であった。
農商務省(後に農林省と商工省に分かれ、岸は商工省に所属)から満洲「国」の産業部次長になった。
産業部は、日本の商工省に相当する役所で、次長というのは実質的なトップであった。
小林英夫『「昭和」をつくった男―石原莞爾、北一輝、そして岸信介』ビジネス社(0609)に、次のような記述がある。

 満鉄経済調査会の文書の中に、次のような趣旨の文面が見られます。
<満洲国では、日本人が前面に立ってはいけない。なぜなら、中国人は大変誇り高い民族で、メンツを重んじる民族だから、そのメンツをつぶすような形で統治をすれば、日本による統治は短命に終わる可能性が高くなってしまう。それゆえ、彼らを形式的には祭り上げて、実質的な権限は日本人が持つのが望ましい>
 こうした統治のあり方を「内面指導」と呼んでいます。その内面指導を行うほうがはるかに効率よく、またスムーズに統治できると、当時の関東軍は考えたのです。
……
 岸は当初、産業部次長の肩書でした。「次長」ですから、やはりナンバー2です。何かしら重要な判断をする際は当然、トップの承諾なり許可が要る。しかし、彼は産業部次長の職にあった三年もの間、一度もトップのもとを訪ねなかったといいます。では、そのトップは何をしていたかというと、日がな一日写経をしていたという。そのトップは中国人なわけです。

このような姿が、満州「国」の実態であった。
「中国人は大変誇り高い民族で、メンツを重んじる民族だから」という辺りの文章には、つい野田首相と胡錦濤前国家主席との「立ち話」を思い出してしまう。

 いまの野田佳彦首相は、その未熟な政治力が、内憂外患を招いている。とくに近隣外交の拙劣さが、禍となり、国難が襲ってきている。韓国の李明博大統領の突然の竹島上陸、尖閣諸島国有化めぐり、中国に反日、暴動の動きを誘発させてきた。野田佳彦首相は、APECが開かれたウラジオストックで、胡錦濤国家主席から「国有化しないでしい」と要請されたにもかかわらず、その翌日に国有化方針を打ち出してしまい、胡錦濤国家主席は、「顔を潰された」とカンカンに怒ったという。
http://blogos.com/article/47504/

民主党は、戦前の関東軍以下の歴史感覚、政治感覚しかなかったということだ。
所詮民主党政権は未熟・幼稚であったということになるが、そのツケは代表辞任で済むような話ではないだろう。

岸が満州に渡ったのは1936(昭和11)年のことであった。
1931年9月 満洲事変
1932年3月 満洲国建国宣言
1933年3月 国際連盟脱退
1935年8月 皇道派の相沢中佐が統制派の永田軍務局長を刺殺
1936年2月 皇道派の青年将校による二・二六事件発生
1937年7月 盧溝橋事件が起こり、日中戦争が始まる

簡単に並べてみても、物情騒然というか慌ただしい情勢である。
岸が、大日本帝国官僚から満州「国」官僚に変身したのは、このような時代であった。

 

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2012年12月22日 (土)

御殿場の岸信介の旧邸/戦後史断章(9)

次期首相に内定している自民党安倍総裁の母方の祖父が、岸信介である。
⇒2012年10月 3日 (水):自民党総裁選の決選投票をめぐる因縁/戦後史(1)
Wikipediaの岸信介の項に載っている系図は以下の通りである。
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岸は、戦後世代にとっては、60年安保の一方の主役として記憶されている。
⇒2012年10月22日 (月):60年安保と岸信介/戦後史(3)
しかし、岸は、戦前から農商務省のあるいは満洲「国」のエリート官僚として活躍していた。
終戦と共に、A級戦犯の容疑で巣鴨拘置所(俗に巣鴨プリズンといわれる)に拘留されたが、「奇跡」的な復活を遂げ、あれよあれよという間に、首相になった。
岸のことを、「昭和の妖怪」などと評するが、昭和自体がすでに「遠くになりにけり」である。

岸は、晩年を御殿場市東山で過ごした。
御殿場市は、東海の軽井沢などとも呼ばれ、秩父宮旧邸など由緒のある建造物が少なくない。
その御殿場市の「東山旧岸邸」が、今年の静岡県景観賞民間施設部門の優秀賞を受賞した。

 東山旧岸邸は1969年に建築家吉田五十八が設計、建築した近代数寄屋造りの私邸。伝統的な数寄屋建築と近代的な住まいの機能を持ち合わせた建築物として評価も高い。2003年に同市に寄贈され、09年から一般公開されている。イヌシデやムクロジ、岸元首相の好みで選ばれたノムラモミジなどの樹木が色づき始めた庭園には小川も流れ、来館者が自由に散策できる。
 景観を保つため、施設管理者などが毎日の清掃以外に月に1度、庭園や建築物の清掃活動を行い、保全に努めているという。
 昨年、優秀賞を受賞し、岸邸に隣接する「とらや工房」では、茶や茶菓子も楽しめる。来場者は落ち着いた雰囲気の中で季節の移ろいを味わっている。
Photo_2
http://www.at-s.com/news/detail/474541666.html

閑静な環境の中の瀟洒なたたずまいであり、こんな邸宅は庶民的な発想ではとても手に入るようなものではない。
毀誉褒貶はあるが、昭和を代表する人物の1人であると思う。

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2012年11月18日 (日)

瀬島龍三氏の戦争観と満州事変/満州「国」論(12)

瀬島龍三氏は、元陸軍参謀にして、商社マンあるいは財界人として著名であった。
陸軍士官学校から陸軍大学校へ進み首席で卒業して(第51期)、昭和天皇から恩賜の軍刀を賜った。
⇒2007年9月 5日 (水):瀬島龍三氏の死/追悼(1)
1911年12月9日生まれ。
満州事変の首謀者とされる石原莞爾は1889年1月18日生まれだから、 石原より23年ほど歳下である。
石原は、陸大30期の次席である。

陸軍中央に在籍した瀬島は、“大先輩”の石原らの起こした満州事変をどう見ているか?
瀬島氏の著書『大東亜戦争の実相 』PHP研究所(9807)を見てみよう。
この書は、ハーバード大学大学院で「一九三〇年代より大東亜戦争開戦までの間、日本が歩んだ途の回顧」というテーマで行った講演録であることが、瀬島氏による「まえがき」に書いてある。

全体の構成は以下のようである。

序  章  「大東亜戦争」という呼称について
第一章  旧憲法下における日本の政治権力の構造上の問題点
第二章  満洲事変
第三章  国防方針、国防に要する兵力及び用兵綱領
第四章  支那事変
第五章  昭和十五年の国策のあゆみ
第六章  昭和十六年の情勢
第七章  東条内閣の登場と国策の再検討
第八章  開戦
終  章  回顧よりの教訓

序章において、「大東亜戦争」という名称を使用する理由を以下のように説明する。
1.開戦直後の1941年12月10日の大本営政府連絡会議において、「支那事変を含めて、呼称するとしたこと。
-それは、中国に対する軍事行動と米英蘭3国に対する戦争を一括するものであり(ABCD包囲網)、1945年8月に参戦したソ連との戦争も包含される。
2.戦争期間中に施行された日本の法令条規の随所に使用されていること。
要するに、戦後のマッカーサー元帥の「使用禁止の通達」に抵触するものであることに対する弁明である。

次いで、第一章において、旧憲法(明治憲法:1889年制定、1947年廃棄-大日本帝国憲法)の問題点、特に、戦争指導機構の問題点を次の2つにフォーカスして論じている。
1.「統帥権の独立」問題
2.明治憲法の構造的問題
1.は、菊田均氏の著書に関連して触れたことがある。
⇒2012年10月26日 (金):菊田均氏の戦争観と満州事変/満州「国」論(7)

2.について、内閣総理大臣の権限が、現憲法に比べきわめて弱いものであり、国家の運営が、内閣、陸軍、海軍の3極構造、または内閣総理大臣(外務大臣)、陸軍大臣、参謀総長、海軍大臣、軍令部総長の5(6)極構造で行われたが、それが国家権力の分散牽制を招き、集中統一性を欠くこととなった。
統治権を総攬する天皇は、絶大な精神的権威を持っていたが、英国流の「君臨すれども統治せず」という立場をとったが、天皇親政の建前の憲法との間に齟齬があった。
瀬島氏は、天皇に問題があったのではなく、憲法に問題があったのだ、としている。

第二章が、満洲事変について論じている部分である。
最初に、「満洲事変とは」と、対象の規定をしている。
すなわち、
1.1931年9月18日、日本軍が中国東北辺防軍との紛争に起因して軍事行動を開始。
2.おおむね1年半後に、満洲から中国軍を一掃。
3.1932年3月1日、満洲国独立宣言。
4.1932年9月15日、日本の満洲国承認。
5.1933年5月31日、日中両軍事当局間で停戦協定が成立(塘沽(タンク)停戦協定)。

上記の満洲事変は、1937年支那事変に、1941年大東亜戦争に発展した。
これら三者は、分離すべきものであったが、日本の政治家、軍人はこれを分断し得なかった。
その結果、満洲事変は日本の破滅への途における歴史的転機となった。

そして、瀬島氏は、幕末から明治維新、日清・日露戦争、第一次世界大戦等を通じての日本の大陸政策とアメリカの反応をレビューする。
結論的に、第一次世界大戦後のアメリカ主導のワシントン体制で、日本の地位は後退弱化し、大陸発展政策は手かせ足かせをはめられに至った。

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2012年11月17日 (土)

張作霖爆殺河本真犯人説の論拠/満州「国」論(11)

秦郁彦氏は、『陰謀史観』新潮新書(1204)において、田母神氏らのコミンテルン陰謀説を下表のように整理している。
Photo_2
p152

張作霖陰謀説は、一連の陰謀説の出発点に位置する。
秦氏は、田母神氏の論文を、「実証性に乏しい俗論に過ぎない」と論評する一方で、定説となっている河本犯行説の確度を検証している。
秦氏の援用する資料は以下の通りである。

1.『昭和天皇独白録』
寺崎御用掛の遺した筆記録。「事件の首謀者は河本大作大佐である」という記述がある。
これに対して、小堀桂一郎氏は、「先帝陛下までそれ(河本犯行説)を信じられて」と言っている。

2.河本大佐の磯谷廉介中佐宛書簡
1928年4月18日付の書簡で、「今度という今度は是非やるよ」等、決意を示したと見られる記述がある。

3.森克己博士のヒヤリング
森克己という人は、満州建国大学教授。参謀本部から満州事変秘史の収集を依頼され、1942~44年に関係者からヒヤリングした。河本の聴取記録も含まれ、爆殺計画の企画実行の経緯が語られている。

4.川越守二大尉の回想記
1962年防衛庁戦史室の依頼で執筆。河本を補佐して爆殺の準備にあたった経緯が記述されている。

5.尾崎義春少佐の回想録
河本の部下で警備参謀の任。爆破の様子が記述されている。

6.森島守人奉天領事
著書の中に、実行者の東宮大尉が「黒幕は河本大佐」と記述している。

7.河本大作の獄中供述書
中国共産党時代の獄(太原)中供述書ではあるが、他の第一次資料とも整合している。

8.桐原貞寿中尉が撮影した写真記録
爆破の現場写真や張作霖の葬儀などを撮影。

秦氏は、「これだけ証拠が揃うのは裁判でもめったにあるまい」としている。
当時の状況から、可能性のあるのは、日本、国民革命軍(蒋介石)、ソ連の三者であった。
事件の第一報は、関東軍の奉天特務機関から参謀本部に舞い込んだ。

張作霖の列車南方便衣隊により爆破せらる。張負傷す

その証拠として、現場付近で日本兵が刺殺した中国人が持っていた命令書だった。
しかし、その命令書は日本流の漢文であることを中国側から指摘された。
林久治郎奉天総領事は、「ひどいことだず、陸軍の連中がやったんだ」と語ったという。

その後、林総領事は、日本軍犯行説を、「風説」と報じたが、海外メディアはもちろんのこと、日本の新聞でさえ「風説」を肯定するような書きぶりだった。
現時点では、「歴史を書き換える」必要はないようである。

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2012年11月13日 (火)

田母神見解と陰謀史観/満州「国」論(10)

第29代航空幕僚長を務めた田母神俊雄氏が、アパグループ主催の第1回『「真の近現代史観」懸賞論文』で、最優秀藤誠志賞を受賞した。
この論文の内容が、政府見解と異なる歴史認識であり、かつ独断で外部発表したことにより、防衛大臣から航空幕僚長の職を解かれ、航空幕僚監部付に降格された。
その後、田母神氏は、時の人となり、講演や著作の刊行、マスメディアへの露出など、華々しく活動している。
⇒2009年1月10日 (土):田母神第29代航空幕僚長とM資金問題

田母神氏は、満州事変の前史である張作霖爆殺について、コミンテルンの仕業という説をとっている。
すなわち、合法的に中国に駐留していた日本軍に対し、蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返したが、蒋介石はコミンテルンに動かされていたのである。
コミンテルンの目的は、日本軍と国民党を戦わせて両者を消耗させ、最終的に毛沢東率いる共産党に中国大陸を支配させることであった。
⇒2009年1月13日 (火):田母神氏のアパ論文における主張②…張作霖爆殺事件

この主張は、河本大作大佐を首謀者とする関東軍によるもの、という定説に真っ向から抵触するものであった。
この田母神論文が一定の影響力を発揮し、一部言論人が昭和史の書き換えを主張するようになっている。
秦郁彦『陰謀史観』新潮新書(1204)は、次のように書いている。

 たとえば保守系の運動組織である日本会議は、中西輝政、小堀桂一郎の対談を軸とする『歴史の書き換えが始まった--コミンテルンと昭和史の真相』と題するブックレットを刊行した。その序文には「かつて年輩の方々から『日本があの戦争に巻き込まれたのはコミンテルンに引っ掻き回されたからだ』とよく聞かされていたが、その直感は正しかった」という中西の宣告をかかげている。
pp150-151

秦氏は、張作霖爆殺の犯人が関東軍であることは、「この半世紀ばかりは動かせない歴史上の事実として受け入れられてきたといってよい」としている。
そして、「異説」が突如出現した。
ユン・チアンとジョン・ハリディの共著『マオ―誰も知らなかった毛沢東』講談社(0511)において、である。
ユン・チアンは、『ワイルド・スワン―Wild swans』講談社(9512)の著者である。

張作霖爆殺ソ連工作員犯行説は、この書で登場した新説であるとして、秦氏は邦訳の全文(3行)を引用しているので孫引きしておこう。

張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロッキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。

これに対し、秦氏の表現によれば、「強烈な反応」が起きた。
あえて名を記せば、松原隆一郎、猪木武徳、中西輝政氏らが、新聞・雑誌等で、もし事実であれば、日本の近代史は修正が必要になる、とした。
もし事実であるならば、という条件が付いているが、とりあえずは検証抜きで興奮しているのである。

ところが、産経新聞の内藤モスクワ支局長が、出典として挙げられている『GRU帝国』の原著者のプロポロフを取材し、「既存の資料を総合し分析した結果、スターリンの命令で実行した工作員は1925年に張作霖暗殺に失敗し、2回目に成功したということが、ほぼ間違いない」という結果だった。
藤岡信勝氏は、内藤記者の記事に対して、「2回目は関東軍が先に実行してしまったので、自分たちがやったように報告」した可能性を指摘した。 
産経新聞も、「新しい歴史教科書をつくる会」前会長も藤岡氏も、コミンテルン犯行説が実証されれば、おそらく歓迎する立場だろうが、冷静である。

秦氏は、「泰山を鳴動させた張本人が、あっさりと伝聞と類推の産物と自認したのだから騒ぎは決着しそうなものだが、そうはならないのが陰謀論の世界では珍しくない」としている。
陰謀史観は読み物としては面白いが、実相としては如何なものだろうかと思うが、現に陰謀と思われる現象もあるのだから、決して廃れることはないだろう。

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2012年11月12日 (月)

田中上奏文と陰謀史観/満州「国」論(9)

史観といわれるものは多い。
その中でも「陰謀史観」という文字を目にする機会が結構多い。
はてなキーワード」には以下のような説明がある。

史観とは歴史をどういう切り口で分析するかという方法論であり、例えば唯物史観は「突き詰めれば生産手段の組織化の形態が歴史を動かすのだ」という立場で歴史を見る。
陰謀史観は、何等かの陰謀によって歴史が動かされていると見なす立場に立つ。すべての陰謀を企画している何等かの黒幕の存在を前提することが多いが、必ずしも必要ではない。
太平洋戦争ルーズベルトの陰謀だ」にしても、

  1. 第二次世界大戦に参戦できないので日本を挑発して戦争を誘発させた」だけで終わる場合
  2. 「実は当時の合衆国上層部には大量のソヴィエトのスパイが入り込んでいて、彼らに操られて合衆国は戦争に突入したのだ」
  3. ルーズベルトユダヤ国際陰謀結社によってコントロールされていたが(中略)最後は結社の邪魔になったので消されたのだ」

以上のように、これらをすべて「陰謀史観」の一言で括ることも可能だが、どちらかというと「いわゆる『陰謀史観』」としてカギ括弧付きで扱われることも多い。
なんとなれば陰謀の存在を信じてまじめに歴史を研究している当の本人からすれば、
「私の考えが
陰謀史観なのではない。従来の歴史が(故意に、もしくはたまたま)見落としていたことを研究しているだけだ」
ということになる。

上記のように、「陰謀史観」の前提となる「陰謀の事実」そのものが、きわめて検証されにくい性質のものである。
なぜならば、秘かに行われるから陰謀なのであって、それが公式に確認されれば、それはもはや陰謀とは呼ばれない。
昭和初期の歴史に関しても、「陰謀史観」は存在する。

当面の関心事である満州「国」に関してみれば、「田中上奏文」なるものの存在が挙げられる。
田中義一総理大臣が、天皇の勅旨に応じて提出したという形の文書である。
Wikipediaによれば、大略以下のようなものである。

田中上奏文(たなかじょうそうぶん)は、昭和初期にアメリカ合衆国で発表され、中国を中心として流布した文書である。
日本の歴史家の多くは怪文書偽書であるとしている。田中メモリアル・田中メモランダム・田中覚書とも呼ばれ、中国では田中奏摺、田中奏折と呼ばれる。英語表記はTanaka Memorialである。
田中上奏文は、その記述によれば第26代
内閣総理大臣田中義一1927年昭和2年)、昭和天皇へ極秘に行った上奏文であり、中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州蒙古)を征服するための手順が記述されている。松岡洋右重光葵などの当時の外交官は、日本の軍関係者が書いた文書が書き換えられたものではないかと見ていた。田中上奏文を本物であると考える人は現在でも特に日本の国外に存在する。

この文書で特に有名なのは、次のくだりである。

支那を征服せんと欲せば、先ず満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ず先ず支那を征服せざるべからず。(中略)之れ乃ち明治大帝の遺策にして、亦(また)我が日本帝国の存立上必要事たるなり。

秦郁彦『陰謀史観』新潮新書(1204)には、次のようにある。

 いわゆる田中上奏文は明白な偽書とはいえ、スケール、生命力、影響力のどれをとってみても、日本が関わった陰謀史観中の白眉と評してよいだろう。
p23

田中上奏文は、真贋論争としては、秦氏のいうように既に決着がついているのであろう。
しかし、歴史の教訓としては、現在でも意味を持っているのではないか?
たとえば次のような記述を見てみよう。

 5月15日に放送された「さかのぼり日本史 昭和 “外交敗戦”の教訓」の第3回は「国際連盟脱退 宣伝外交の敗北」と題し、国際連盟脱退に至った経緯をとりあげている。ゲストは服部龍二・中央大学教授。番組の焦点は田中上奏文をめぐる松岡洋右と顧維鈞の駆け引き。顧が論拠とした田中上奏文を松岡が「そのような文書が天皇に上奏された事実はない」「もし本物だというならその証拠を提出してもらいたい」と反駁。本国に連絡し「本物である証拠は提出できない」と回答された顧は「そのような証拠は日本のしかるべき地位の者にしか入手できない」と取り繕ったうえで、「証拠はともかく、この問題についての最善の証明は今日の満州で起きている現状である」と、現実が田中上奏文を裏付けているという主張へとシフト。だがこの論争が欧米で報道されるたびに、日本の軍事行動が印象づけられることになった、と。その結果、リットン報告書よりも日本に厳しい対日勧告案が可決されることとなる。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20120516/p1

田中上奏文には、記述の誤りもあって偽作されたものであることは疑えないが、張作霖爆殺事件、満州事変、日中戦争などの推移は、上奏文に書かれていたことを裏付けるかのように進んでいった。
それが、東京裁判でも、国際検事局が当初「共同謀議」を前面に出そうとした理由である。
現在の中国の反日キャンペーンも、田中上奏文をホンモノとして扱っているかのような気がする。

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2012年10月27日 (土)

吉本隆明氏の戦争観と満州事変/満州「国」論(8)

吉本隆明氏は、戦後、最も大きな影響力を持った人だろう。
私自身、余り良い読者とは言えないが、特に初期の論考に大きな影響を受けたと自覚している。
⇒2012年3月16日 (金):さらば、吉本隆明

吉本氏の戦争観は多くの著書に書かれているが、『私の「戦争論」』ぶんか社(9909)は、そのものズバリのタイトルである。
田近伸和氏をインタビュアーとして、戦争観を語ったものを編集してできあがったものである。
全体は、次の5章で構成されている。

第一章 小林よしのり『戦争論』を批判する
第二章 「新しい歴史教科書をつくる会」を批判する
第三章 保守派の「思想」を批判する
第四章 私は「戦争」をこう体験した
第五章 人類は「戦争」を克服できるか

ここで問題にしようとしている満州事変に直接触れている箇所はないが、「他国の領土内で行う戦闘行為は「侵略」である」という項目は、満州事変のことにも該当すると考えられる。
第一次大戦後、国際連盟は総会で、「すべての侵略戦争を禁止する決議」を行った。
しかし、「侵略」の定義が共通認識になっていない状態での決議だった。

第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英語:World War I)は、1914年から1918年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦である。
ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘はアフリカ中東東アジア太平洋大西洋インド洋にもおよび世界の多数の国が参戦した。
第一次世界大戦
国際連盟(こくさいれんめい、英語:League of Nations)は、第一次世界大戦の教訓から、1919年のドイツとのヴェルサイユ条約、および中央同盟国との諸講和条約により発足した。連盟としてのはじめての会合は1920年1月16日にパリで、第一回総会は1920年11月15日スイス・ジュネーブで開催された。史上初の国際平和機構であり日本では連盟と略されることもある。連盟本部はスイスジュネーヴに置かれていた。
国際連盟

吉本氏は、「侵略とは何か?」という問いには、次の1つのことだけしか言えないだろう、と言う。

戦争をしている国同士ががあって、相手国の領土内で行われた戦闘行為があった場合、その相手国への「侵略である

先の戦争では、日本軍は中国に出て行って中国で戦闘行為を行っている。
日本軍が「侵略」を行ったことは否定できない。
この点でいえば、満州事変は、明らかに日本(関東軍)の行った侵略行為だった。

「相手国の領土内」という言葉から連想されるのは、帝国主義および植民地であろう。

帝国主義(ていこくしゅぎ、英語: imperialism)とは、一つの国家が、自国の民族主義文化宗教経済体系などを拡大するため、新たな領土天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする思想政策
帝国主義
植民地(しょくみんち)とは、国外に移住者が移り住み、本国政府の支配下にある領土のこと。
植民地

吉本氏は、「帝国主義戦争」という言葉を、倫理的な意味合い(=善悪の問題として)で使うようになったのはレーニン以降であり、マルクスは倫理的な意味では使わなかった、という。
マルクスは、植民地化には害と利の両面があるとしている。
吉本氏が、レーニンを非、マルクスを是としていることは、文脈からして明らかである。

吉本氏は、日本軍や日本の官憲の評価は、支配地の現地で何をしたかによる、という。
もちろん、スローガンが良くてもふるまいが悪ければ非難されても仕方がない、ということを言っているのであるが、他国の領土を支配すること自体は、必ず、しも非難されるべきことではない、と読める。
本当にそうだろうか? という疑問が湧く。

それは、戦争をして負けたのはアメリカに対してであって、太平洋の島々が戦地であり、アメリカさえいなければ勝っていたかもしれない、という言葉についても同様である。
だいたい、アメリカは、自国内で戦闘行為を行っていないではないか。
先の定義からすれば、アメリカは一貫して侵略国ということになる。
吉本氏は、アジアの国々のことは、余り眼中にないようである。
やはり、違和感を覚えずにはいかない。

ところで、小林よしのり『戦争論』の中で、インドのパル判事の言葉を引用している。

ハルノートのようなものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルクでも矛をとってアメリカに立ち向かうだろう。

これに対し、吉本氏は次のようにいう。

当時、アメリカは日本に対して、「満州国を撤廃しろ」「日本軍は中国から全面撤退しろ」と要求してきた。
それは、日本が20年も30年もかけて積み上げてきた歴史的な歩みをすべて否定するものだった。
国民感情としては、「そんな要求を飲むことは、とうてい不可能だ」であった。
もちろん、吉本氏も、朝日新聞党のメディアも、志賀直哉や谷崎潤一郎らの文学界の長老もこぞって戦争肯定だった。

当時の状況はそうだったに違いない。
しかし、「20年も30年もかけて積み上げた歴史的な歩み」の出発点となるのは、張作霖爆殺事件あるいは満州事変であろう。
それは、他国の領土内で行われた謀略であり戦闘行為ではなかったか。
それを考えると、吉本氏の語っていることは矛盾しているのではなかろうか。

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2012年10月26日 (金)

菊田均氏の戦争観と満州事変/満州「国」論(7)

(文芸)評論家・菊田均氏の著作に、『なぜ「戦争」だったのか―統帥権という思想』小沢書店(9808)がある。
菊田氏は、1948年2月21日生まれで、『江藤淳論』冬樹社(7909)によって商業文壇にデビューした。
刊行時31歳だから、『江藤淳論』の論稿を書いていたのは20代であると思われる。
年齢の割に成熟した文体だという印象を持った。

なぜ「戦争」だったのか―統帥権という思想』のオビには「戦後世代による戦争論」とある。
いわゆる団塊の世代ということになる。
団塊の世代は、全共闘世代でもあるが、上掲書の中で、「私は終始全共闘とは無関係だったが、同世代の人間として必ずしも無関心ではなかった」と書いている。

江藤淳論』を割合好意的に読んだので、この書も、私は刊行時に購入して一読した。
しかしその頃はまだ仕事が忙しかったので、そのまま本棚の一隅に放置してあった。
満州事変について改めて本棚を眺めていて、昔読んだ記憶を呼び覚まし、もう一度ざっと目を通してみた。

菊田氏は、「あとがき」でこの論考を書くきっかけについて、湾岸戦争に際して一部の文学者が出した「反戦声明」を挙げている。
その声明の中に、「(現行憲法が)他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた」と書かれている。
菊田氏は、この声明に対する違和感-自国の歴史に対してもっとまっとうに取り組むべきではないのか-と考えたことが、この本を書いた動機の一つである、と書いている。

そして、全てのスタートは、「なぜ結果として負けるような戦争をやってしまったのか」ということだと言っている。
田原総一朗氏が、「なぜ、日本は負けることが分かっていた戦争を始めたのか?」と全く同じである。
田原氏は1934年4月15日生まれだから、およそ14年の歳の差がある。
田原氏にとって疑問であったことは、戦後生まれの菊田氏にとってより分かりにくいことであるのは当然のことであろう。

菊田氏は、先入観を排して事実に基づいて、可能な限り正確に検証しようというスタンスで臨む。
特に、結果論において戦争を見るのではなく、当時の現在進行形に即して戦争の経緯を考えてみようと努めた。

菊田氏は、タイトルが示しているように、「統帥権」を軸にして考察を進めている。
「統帥権」は、大日本帝国憲法(明治22年制定)の第11条に規定されている。

天皇は陸海軍を統帥す

統帥というのは、軍隊を率いることであるが、憲法には「統帥す」とあって、統帥権という言葉は出てこない。
統帥権の概念は憲法制定以前からあったが、言葉として明確に出たのは、ロンドン海軍軍縮条約に反対する鳩山一郎の質問においてであった。
Wikipediaでは次のように解説している。

1930年(昭和5年)4月下旬に始まった帝国議会衆議院本会議で、野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎は、「ロンドン海軍軍縮条約は、軍令部が要求していた補助艦の対米比7割には満たない」「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。元内閣法制局長官で法学者だった枢密院議長倉富勇三郎も統帥権干犯に同調する動きを見せた。6月海軍軍令部長加藤寛治大将は昭和天皇に帷幄上奏し辞職した。この騒動は、民間の右翼団体をも巻き込んだ。
条約の批准権は昭和天皇にあった。浜口雄幸総理はそのような反対論を押し切り帝国議会で可決を得、その後昭和天皇に裁可を求め上奏した。昭和天皇は枢密院へ諮詢、倉富の意に反し10月1日同院本会議で可決、翌日昭和天皇は裁可した。こうしてロンドン海軍軍縮条約は批准を実現した。
同年11月14日、浜口雄幸総理は国家主義団体の青年に東京駅で狙撃されて重傷を負い、浜口内閣は1931年(昭和6年)4月13日総辞職した(浜口8月26日死亡)。幣原喜重郎外相の協調外交は行き詰まった。

そして、統帥権の独立が明確に強調されるようになったのが、1932(昭和7年)刊行の『統帥参考』においてである、と菊田氏はいう。
『統帥参考』は陸軍大学で作られ、秘密裏に刊行されたものだという。
統帥権干犯問題以降、政治に対しして軍部が優位に立ち、軍部内部においては統帥を担当する陸軍参謀本部、海軍軍令部の力が強まったということであろう。

ここで昭和初期の主要な出来事の年表をまとめておこう。
1926 昭和元  改元
1927 昭和2  昭和金融恐慌。若槻礼次郎内閣→田中義一内閣
1928 昭和3  河本大作大佐による張作霖爆殺事件
1929 昭和4  田中義一内閣→浜口雄幸内閣。NY株式大暴落
1930 昭和5  ロンドン海軍軍縮会議。政友会による統帥権干犯
1931 昭和6  浜口内閣→若槻内閣。満州事変。若槻内閣→犬養毅内閣
1932 昭和7  中国国民政府樹立。満州国成立。5・15事件。犬養内閣→斎藤実内閣
1933 昭和8  国際連盟脱退。関東軍華北侵入
1934 昭和9  帝人事件。斎藤内閣→岡田啓介内閣
1935 昭和10 天皇機関説と国体明徴運動。相沢事件
1936 昭和11 2・26事件。岡田内閣→広田弘毅内閣。日独防共協定
1937 昭和12 広田内閣→(宇垣一成)→林銑十郎内閣→近衛文麿内閣

慌ただしく、日中戦争を含む大東亜戦争(太平洋戦争)に雪崩れ込んでいった。

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