追悼

2017年2月18日 (土)

現代の艶歌・船村徹/追悼(101)

「別れの一本杉」「王将」「矢切の渡し」など多くのヒット曲を生んだ作曲家の船村徹さんが2月16日、死去した。
84歳だった。
東京新聞に評伝が載っている。
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まさに五木寛之さんの『艶歌』の世界だ。
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主人公「艶歌の竜」のモデルは、馬淵玄三というディレクターであるが、いま艶歌の作曲と言えば、船村さんが群を抜いた存在ではなかったかと思う。
東京新聞の朝刊コラム「筆洗」が船村節を体現したような文章だ。
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Wikipedia・船村徹に次のようなことが書いてある。

船村の代表曲のひとつ『矢切の渡し』は元々ちあきなおみに提供した楽曲だったが、細川たかしが歌ったものがヒットし、第25回日本レコード大賞を受賞した。しかし、船村は細川盤のほうがヒットしたことに対して「大複雑」と発言し、「ちあきの歌は(楽曲のイメージの)手漕ぎの櫓で、細川の歌はモーター付の船だ。」という評価を下している。また、ちあきの歌は「鑑賞用」なのに対して、細川の歌は省略法でありカラオケのような誰でも歌える歌い方になってしまっているとも発言している。
美空ひばりに関して、高音(裏声)に良いものを持っていると発言しており、実際に船村がひばりに提供した作品には、高音部分がある楽曲が多い。ただし、母の喜美枝には「苦手だからやめて」と拒否されていた。また、船村自身が高く評価しているちあきなおみと美空ひばりを対比し、「美空ひばりとちあきなおみの決定的な違いは、裏声の出るか出ないかだ」とも発言している。

私にとっては懐かしい唄の数々である。
ちあきなおみや美空ひばりは、まさに艶歌の歌い手ではないだろうか。

ちあきの義兄である宍戸錠は「ちあきの歌の上手さはハンパじゃないんだよ。好き嫌いはあると思うけど、俺は美空ひばりより上手いと思うね。ありとあらゆる流行歌、英語の歌も含めて、ちあきにかなう歌手はいないよ。リズム&ブルースでもゴスペルでもないんだけど、ちあきは心にその二つの精神を持っている。びっくりするぐらい上手い。」と語っている。
Wikipedia・ちあきなおみ

艶歌の時代も終わりということだろうか。
合掌。

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2016年11月27日 (日)

キューバ革命のレジェンド・カストロ/追悼(100)

キューバ共和国の首相、大統領を務めたフィデル・カストロ前国家評議会議長が90歳で死亡した。
冷戦中の1950年代にキューバ革命で中心的役割を果たした後、49年間にわたりキューバを統治した。
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日本経済新聞11月27日

カストロの評価は立場によって極端に割れている。
支持者からは、アメリカその他世界中の政治的大国に立ち向かい社会主義者の理想のために戦った英雄としてもてはやされ、批判者は、国民に対して数え切れぬほどの人権侵害を犯し、キューバ経済を崩壊させた独裁者として見られた。

トランプ次期アメリカ大統領は後者の代表であろう。

キューバのカストロ前国家評議会議長が死去したことについて、キューバとの歴史的な国交回復に踏み切ったアメリカのオバマ大統領は哀悼の意を示す声明を発表しましたが、国交回復を批判してきたトランプ次期大統領は、「残虐な独裁者が死去した。キューバ国民が自由を得られるよう全力をあげる」とする声明を発表し、対照的な反応を見せています。
カストロ氏死去 オバマ大統領とトランプ氏 対照的な反応

キューバの地政学的なポジションと革命指導者という立場から、カストロの評価に毀誉褒貶が入り混じるのは不可避であろう。

カストロ時代の統治では、全国共通の医療制度や教育といった社会改革を始めたことで賞賛されている。2011年にはキューバの識字率は99.8%だったとみられる。
2006年、当時のロンドン市長だった左派政治家ケン・リビングストンは、カストロの社会改革を賞賛している。「驚くべきことに、ほぼ半世紀にわたってアメリカから不法な経済制裁を受けていた国で、国民に最高の標準的な医療制度とすばらしい教育をもたらしたことだ」と、リビングストンは語った。「経済戦争の真っ只中で実行したのはフィデル・カストロの偉大さの証だ」
しかし、カストロが政権の座に就いていたおよそ50年の間、彼はキューバ国民に絶対の服従を求めていたとも言われている。そして、彼はこの間、報道の自由を弾圧し、反体制派の活動家、芸術家、LGBTコミュニティに属する人々など、自分が「反社会的」だとみなした人々を投獄していた。
「ほぼ50年にわたって、キューバ国民たちは、自由な表現、プライバシー、結社、集会の開催、政治・社会活動、法の適正な手続といった基本的人権を、組織的に奪われていた」と、人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは2008年に報告している。「政治的服従を強めるために使われた戦略には、警察からの警告、監視、短期間の留置、自宅監禁、旅行の制限、刑事起訴、そして、政治的な動機による解雇などがあった」
カストロは、数千人の政治犯を投獄したと考えられている。彼が政権を握っていた約50年間で、100万人以上のキューバ人たちが祖国から難民となって逃亡した。
フィデル・カストロ――波乱に満ち、光と影が交差したキューバ革命指導者の生涯

光が強ければ影も濃い。
カストロの死とトランプの登場は、世界史の枠組みの転換を暗示しているようだ。
特に中南米諸国にどう影響するか?
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日本経済新聞11月27日

世界が不安定化する要因が増えそうである。
キューバにとってのみならず、1つの時代が終わったのだと思う。
合掌。

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2016年10月28日 (金)

古代オリエント史学・三笠宮崇仁親王/追悼(99)

昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父である三笠宮崇仁親王が10月27日朝、東京都内の病院で薨去された。
明治以降の皇族では最長寿の100歳だった。
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東京新聞10月28日

三笠宮親王は、1915年(大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四皇男子として誕生した。
「三笠宮」の宮号は、1935年(昭和10年)12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、奈良市の三笠山にちなんで命名された。
お印は若杉。
長男・寛仁様、次男・桂宮様、三男・高円宮様の3人の子息がいたが、すでに亡くなられている。
9人の孫と4人の曾孫がいる。

三笠宮親王は、戦時中は旧日本軍の大本営参謀などを務め、陸軍参謀として中国・南京にも派遣された。
お印にちなんで「若杉参謀」の名を用いた。
次のような逸話が、Wikipediaに紹介されている。

日中戦争当時、進駐先で、事態が未だに解決しない理由について全員(およそ200人)に自由記述で答案を書かせた後、“日本人が真の日本人たり得ていないから”と答えた一人のみを及第判定。「そのとおりだ。皇軍がその名に反する行為(暴行略奪など)をしている、これでは現地民から尊敬などされるわけがない。今の皇軍に必要なのは装備でも計画でもない、“反省”だ。自らを顧み、自らを慎み、一挙一動が大御心に反していないかを自身に問うこと」と部下達を叱りつける。居並ぶ一同は三笠宮の叱咤に言葉がなかったという。

開明的な皇族だったと言えよう。
『紀元節についての私の信念』(「文藝春秋」59年1月号に次のように書いている。

日本人である限り、正しい日本の歴史を知ることを喜ばない人はないであろう。紀元節の問題は、すなわち日本の古代史の問題である。
・・・・・・・
昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史――それは華やかではあるが――を信じた人たちは、また勝算なき戦争――大義名分はりっぱであったが――を始めた人たちでもあったのである。もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人としてこれらのことには大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている。

2015年3月の参院予算委で、「八紘一宇」という戦前・戦中のスローガンを唐突に持ち出し、「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と言ってのけたのけた三原じゅん子議員は、この言葉をよく読んでみた方はいい。
おりしも天皇の生前退位に関する有識者会議の議論が始まったところである。
三笠宮親王は、生前退位については、基本的人権の問題として考えていたと言われる。
動乱の時代を生き抜いたが故に、平和の尊さを知っておられた。
言葉通り、「昭和は遠くなりにけり」という気がする。
合掌。

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2016年10月25日 (火)

新劇の巨人・平幹二朗/追悼(98)

戦後日本演劇界の第一線で活躍し、海外でも高く評価された俳優の平幹二朗さんが亡くなった。
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東京新聞10月25日

23日夕に世田谷区内の自宅の浴室で倒れているのを家族が発見した。
「幹の会」を主宰し、これまでシェークスピア作品を12本上演した。
映像では、NHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」「国盗り物語」で主演した他、多くの映画、ドラマに出演した。

 広島市出身。子供のころから歌舞伎などの舞台を見て育ち、高校時代は演劇部で活躍した。1953年に2度目の受験で俳優座養成所に合格。56年に俳優座座員となり、「貸間探し」で舞台デビューした。66年劇団四季の浅利慶太さん演出による「アンドロマック」に出演。2年後に俳優座を退団し、以降、浅利演出作品、蜷川幸雄演出作品などに次々と主演し、演劇界で確固たる地位を築いた。
   整った顔立ちにスラリとした長身。深みのある声、明瞭かつ重厚なセリフ術を武器に、空間を瞬く間に支配するダイナミックで緻密な演技は、他の追随をゆるさない存在感を放った。蜷川の海外初進出作品となった78年初演のギリシャ悲劇「王女メディア」では、異形の女形でメディアの怒りと悲しみを造形し、83年のアテネ公演では本場の観客らから絶賛を浴びた。太地喜和子と共演した「近松心中物語」(蜷川演出)の忠兵衛、「NINAGAWAマクベス」(同)のマクベス、「リア王」のタイトルロールなど代表作多数。
俳優の平幹二朗さん82歳 自宅で倒れる

1970年に女優、佐久間良子さんと結婚し、男女の双子をもうけたが、1984年に離婚した。
長男の平岳大さんも俳優である。
「週刊新潮」誌の『私の週間食卓日記』というリレー連載で、元気な父の姿を書いたばかりだった。
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週刊新潮9月29日号

合掌。

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2016年10月21日 (金)

イメージとマネージ・平尾誠二/追悼(97)

「ミスター・ラグビー」と称された平尾誠二・神戸製鋼ゼネラルマネジャー(GM)が、10月20日死去した。
53歳の若さだった。
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東京新聞10月21日

 平尾さんは京都市生まれ。伏見工高3年の時に主将として全国高校大会で初優勝。同志社大では1982年度からの大学選手権3連覇に貢献した。同大2年の19歳4カ月の時に、当時としては史上最年少で日本代表入り。86年に神戸製鋼に入社しSOやCTBを務め、1988年度からは大八木淳史や大西一平とともに新日鉄釜石に並ぶ日本選手権7連覇を達成した。
 特に3連覇までは主将を務め、監督を置かないチームの中で、練習方法や作戦などを中心となって企画。FWとバックスが区別なくボールをつないでいくプレースタイルなど独自の「神鋼ラグビー」を作り上げた。
 W杯には87年の第1回大会から3大会連続で出場し、第2回大会では主将を務め、日本のW杯初勝利に貢献した。97年2月に史上最年少の34歳で日本代表監督に就任。98年1月に現役引退した。2007年3月から14年3月までは神戸製鋼の総監督も務めた。
平尾誠二さん死去…53歳 「ミスター・ラグビー」

私には、松岡正剛さんとの対談『イメージとマネージ―リーダーシップとゲームメイクの戦略的指針』集英社(1996年12月)が印象に残る。

Photo平尾 ………やはりそれぞれのプレイヤーにはイメージがなくてはならないわけです。しかもそのイメージはかなり豊富である必要がある。ひとつだけのイメージは実はマネージと同じで、それはスキルなんです。そうではなく、たくさんのイメージを思い浮かべて、自分のアタマの中でラグビーを拡張していかなければダメなんです。イメージの多様性が拡張を生む。
松岡 うん、そうですね。しかも、それは最近のスポーツでよく言われるイメージ・トレーニングとは違うんだよね。イメージ・トレーニングというのは、どちらかというと、ひとつのサクセス・イメージを何度もアタマの中に思い浮かべて、ワンパターンの自信をつけることでしょう。なんとか自分に言い聞かせるというか、暗示をかける。しかし、それじゃない。むしろいくつものシナリオ選択能力を持つということですね。

柔軟な思考が必要なのは、スポーツもビジネスも変わりはない。
1995年のワールド・カップの予選の最終戦で、日本はオールブラックスを相手にしたが、17対145という大会ワースト記録で屈辱的な大敗を喫した。
スキル、パワー、スピードというラグビーの3大要素のすべてにおいて日本は大きく劣っている上に、状況の変化に対応する判断力もないという状態であった。

その後日本代表チームの監督に就任した平尾さんは、日本ラグビーの再興を期して「ジャパン・プロジェクト」を立ち上げた。
そして日本チームのSWOT分析を行った。
⇒2016年5月16日 (月):分ける思考(5)マトリクス②/知的生産の方法(149)

平尾さんは日本チームが強くなるために、「自分で自分を成長させていけるような、自発性と自主性をもったプレーヤーを育てる」ことを1つの目的として設定した。
「知のスピード」をもったプレーヤーであれば、どのように変化する状況のもとにおいても壁を破れるであろう、と考えたのである。
日本のラグビーさらにはスポーツ界のために、もっともっと力を発揮してもらいたかったと思うのは私だけではないだろう。
合掌。
 

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2016年9月13日 (火)

シルクロードの夢・加藤九祚/追悼(96)

国立民族学博物館(大阪府吹田市)名誉教授で民族・考古学者の加藤九祚さんが亡くなった。
94歳だった。
調査のために訪れていたウズベキスタンで体調を崩し、7日から南部・テルメズの病院に入院していたが12日に死去した。

Photo加藤さんは大正11年に朝鮮半島で生まれ、上智大学の予科に在学中に徴兵されて、終戦後、ソ連軍の捕虜になり、昭和25年までシベリアに抑留されます。
帰国後に上智大学を卒業すると、シベリア抑留中に学んだロシア語を使ってシベリアの歴史や民族の研究を始めました。
昭和50年には国立民族学博物館の教授になり、翌年、アイヌ民族の研究者として知られるニコライ・ネフスキーの生涯を書いた「天の蛇」で大佛次郎賞を受賞しました。
また、中央アジアのシルクロードの研究も手がけ、地域の情勢が安定しないことから発掘調査が進んでいなかったウズベキスタンの仏教遺跡などの調査にあたったほか、一般向けの著作も数多く出版しました。
平成11年に南方熊楠賞に選ばれ、平成23年には瑞宝小綬章を受章しています。
文化人類学者の加藤九祚さん死去 ウズベキスタンで

シルクロードは日本人のロマンを誘う。
ジャーナリストの嶌信彦氏は、「時代を読む」というメールマガジンの9月9日号に次のように書いている。

 小さい頃から中国大陸、中央アジア、シルクロード──といった言葉に夢やロマンを感じていた。私は1942年に中国で生まれ、1年ほど上海で暮らしたことや、父も新聞記者で中国やアジア地域を駆け巡り、時々取材の話などを聞いていたためだろう。私と母は敗戦間近の1944年末に帰国しているが中国滞在中の記憶は全くない。時々、中国にいた頃の写真を見て記憶を辿(たど)るのだが何も覚えていない。
・・・・・・・
 ウズベクは数千年前から欧州と中国をつなぐ真ん中に位置し、東西の文物、文化、学問、人間の交流の結節点にあった。天文学や数学、織物文化などに優れ、欧州やインド、ペルシャ、トルコ、中国、モンゴル、ロシア人などの交易が行き交い、16世紀の大航海時代が来るまでは世界の文化の中心的存在だった。しかしその後、鉄道や飛行機、宇宙の時代が到来するにつれ中央アジアの存在感は薄れてゆく。

井上靖の西域ものは大ベストセラーだったし、北杜市の平山郁夫シルクロード美術館は人気の高い美術館だ。
同館で見た高句麗壁画古墳の再現模型が、高松塚古墳を思わせる壁画で印象深かった。
⇒2012年9月 8日 (土):平山郁夫シルクロード美術館と高句麗壁画

加藤さんは、井上靖、NHK取材班との共著『NHKシルクロード〈第10巻〉アジア最深部』等の啓蒙的著作で私たちに夢の一端を覗かせてくれた。
しかし加藤さんの亡くなったウズベキスタンをはじめ、シルクロードの現状は、ロマンとはほど遠いようだ。
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中央アジアの旅

思い遺したことは多いのかも知れないが、調査の現場で亡くなられたのであれば、本望だったのではないだろうか。
合掌。

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2016年9月 4日 (日)

優しき視点の映画人・松山善三/追悼(95)

映画監督で脚本家の松山善三さんが、8月27日死去したと報じられている。
91歳だった。
既に近親者で葬儀を営んだ。
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松山善三さん死去

松山善三:Wikipediaから、主な略歴を引いてみよう。

1944年、横浜第三中学校卒業。
1948年、助監督公募に合格して松竹大船撮影所助監督部に入社。中村登、吉村公三郎につくかたわら、同期入社の斎藤武市、中平康、鈴木清順らと「赤八会」というグループを作り、同人雑誌にシナリオを発表。
1950年の『婚約指輪』で木下監督につき、次の『カルメン故郷に帰る』からは、シナリオの口述筆記に携わった。
1954年、川口松太郎の原作を映画化した『荒城の月』で脚本家デビュー。
1961年、若くして結婚した聴覚障害者の夫婦の第二次世界大戦末期から戦後にかけての生活を描いた『名もなく貧しく美しく』で監督デビュー。

サリドマイド薬害で肢体が不自由に生まれた女性が自ら主演し、明るく生きる姿を描いた劇映画「典子は、今」(1981年)は大きな反響を呼んだ。
社会的弱者をヒューマニズムの視点から描いた作品が中心だった。
 「二十四の瞳」に主演した俳優の高峰秀子さんと1955年に結婚し、おしどり夫婦として有名だった。
結婚時には、大女優とほとんど無名の助監督で、先行きを危ぶむ声が多かったという。

意外な側面として、ゴルフ場開発に携わったことがあった。
昭和61年頃、映画プロダクション等経営の小川安三氏と共に、(株)飯能くすの樹カントリー倶楽部の前身の(株)西武飯能カントリー倶楽部の開発許認可を取得し、着工した。
同社は、平成15年9月、東京地裁から破産宣告を受けた。
ゴルフ場用地・施設には、元の埼玉銀行の抵当権が付いていて、債権譲渡された㈱整理回収機構(RCC)が破産を申し立てた。
なお、ゴルフ場の現経営会社は、(株)マス・コーポレーションという別会社であり、関係はない。
地元には反対もあり、完成が遅れたことも破綻の要因だと言われるが、バブル期にはこの人にもそんなエピソードがあったのだ。
合掌。

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2016年8月22日 (月)

反戦のレジェンド・むのたけじ/追悼(94)

反戦平和を訴え続けた反骨のジャーナリストむのたけじ(本名武野武治)さんが、21日老衰のため死去した。
101歳だった。
アジア・太平洋戦争で大本営発表をそのまま報道した責任に向き合って、敗戦を機に朝日新聞社を辞めた。
1948年2月、故郷の秋田でタブロイド判2ページの週刊新聞「たいまつ」を創刊した。
同紙は米国占領下の検閲に屈せず、教育や農業問題を中心に社会の矛盾を掘り下げた。
戦後の時代を見事に生きた「反戦のレジェンド」と言えよう。
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東京新聞8月22日

1936年に東京外国語学校(現・東京外大)卒業後、報知新聞、朝日新聞の社会部記者として活躍した。
1942年にインドネシア上陸作戦に従軍し、終戦日の45年8月15日に退社した。

一度は捨てたペンを握り「たいまつ」を創刊したのは、その前年の連合国軍総司令部(GHQ)が出した2・1ゼネスト中止命令への怒りだった。
「どんな悪い平和でもいい戦争に勝る。平和は意識的な戦いの中でしかつかめない」と説いた。
原点は、戦争中に3歳のまな娘を病気で亡くした経験だった。

私の高校時代からの友人で、某新聞社でジャーナリストとして活躍し、働き盛りに亡くなった友人が、高校時代に尊敬する人として、むのさんの名前を挙げていたのを思い出す。
その頃読んだ『たいまつ十六年 』が岩波現代文庫で復刊されている。
100歳を超えていたのだから、天寿を全うしたと言えよう。
合掌。

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2016年8月18日 (木)

全総と共に生きた計画の人・下河辺淳/追悼(93)

元国土事務次官の下河辺淳氏が、13日亡くなった。
92歳だった。
1947年に東京大学第一工学部建築学科を卒業した。
在学中に終戦を迎えたため高山英華氏の下で戦災復興都市計画に参画し、卒業後戦災復興院に勤務した。

1961年、「工業地の立地条件 - 計画単位及び必要施設に関する研究」で、日本都市計画学会石川賞論文調査部門受賞。
1962年からは経済企画庁総合開発局。「国土の均衡ある発展」を謳い、戦後日本における国土開発の根幹をなした全国総合開発計画(通称「全総」、1962年閣議決定)の策定に携わる。以後、2000年の21世紀の国土のグランドデザイン(五全総)に至るまで、長らく国土開発・国土行政に力を及ぼし続けた。1977年、国土事務次官に就任。1979年退官し、総合研究開発機構(通称NIRA)の理事長に就任。
退官後も「多極分散型国土」を掲げる第四次全国総合開発計画(四全総)の策定にも尽力。1992年から株式会社東京海上研究所理事長。「ボランタリー経済」に取り組む。社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)裁定委員会委員などを経て1995年からは阪神・淡路大震災復興委員会委員長として復興政策の立案に参画。 2003年に下河辺研究室を設立。
下河辺淳-Wikipedia

全総の系譜は以下のようである。
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成長戦略とガバメント・リーチ

私は、三全総の頃、リサーチャーをやっていた。
NIRAがスタートした頃、リサーチャーから転向したが、リサーチの世界の頂点にいた人と言えよう。

Photo_3米軍用地強制使用手続きを巡る代理署名訴訟で、大田県政と橋本政権との関係が緊張した際、梶山静六官房長官の要請で沖縄と政権との間を仲介した。「沖縄問題を解決するために」とする「下河辺メモ」は大田知事と橋本首相を和解に導いた。
下河辺淳氏が死去 普天間返還にも深い関わり 大田県政と政府を仲介

市場主義が優位になり、国土計画の存在感が薄くなっている。
安倍政権に至っては、「PDCAサイクル]さえない。
⇒2016年5月14日 (土):PDCAなき安倍政権の政策/アベノポリシーの危うさ(64)
⇒2016年7月25日 (月):アベノミクスの帰結としてのヘリコプターマネー/アベノポリシーの危うさ(93)

しかし政策に計画は不可避である。
今、この人が現役ならば、どう考え、行動していたであろうか。
合掌。

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2016年8月17日 (水)

野武士から評論家へ・豊田泰光/追悼(92)

元西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)遊撃手で、引退後は辛口の野球評論家として活躍した豊田泰光さんが14日、肺炎のために亡くなった。
茨城県出身で81歳だった。

Ws000001_2 1952年に水戸商高の主力として夏の甲子園に出場。選手宣誓を務め、翌年西鉄に入団。守備よりも打撃が評価され、1年目から遊撃手のレギュラーとなり、115試合で27本塁打、打率2割8分1厘で新人王を獲得。56年には巨人との日本シリーズでMVPを獲得、以後57年は優秀選手、58年は首位打者と西鉄黄金時代となった3年連続日本一に貢献した。
 62年に中西太選手兼任監督の補佐として選手兼任で助監督を務めたが、翌年は国鉄(現ヤクルト)に移籍。69年に17年の現役生活にピリオドを打った。通算成績は1814試合に出場し、1699安打、263本塁打、打率2割7分7厘。
 引退後は72年に近鉄でコーチとなった以外は、スポニチ本紙特別編集委員を務めるなど評論家として活動。ニッポン放送、文化放送、フジテレビで評論、解説を行い、93年から2013年まで「週刊ベースボール」誌上でコラム「豊田泰光のオレが許さん!」を1001回にわたって執筆した。辛口で愛情のある評論はファンにも親しまれた。
元西鉄の強打者 豊田泰光さん死去 81歳 辛口評論でも人気

西鉄の黄金時代のことは、数々の語り草を遺している。
「神様、仏様、稲尾様」と言われた稲尾和久投手をはじめ、打線は別名流線型打線である。

西鉄黄金時代の監督・三原脩は、三宅大輔などの理論をふまえ、1番に一発もあるバッティングの巧い打者を据え、2番に入っている強打者で一気に得点を挙げ、3番に最強打者を、4・5番に長距離打者を、という、それまでの野球界の常識を覆す打線論を提唱した。それがこの流線型打線である。それなりの選手が揃っていなければ組めないものであるが、当時の西鉄にはそれを可能にするだけの面々が揃っていた。流体力学から着想を得たという説もあるが、真偽のほどは不明である。
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Wikipedia-流線型打線

2番の豊田泰光は、2番打者でありながらクリーンナップ並の成績を挙げている。
恐怖の2番打者の先駆けである。

1969年のシリーズ終了後に引退し、1973年以降、評論活動を続けている。
『週刊ベースボール』にはコラム「豊田泰光のオレが許さん!」を1993年から2013年に終了するまでに通算1001回にわたって連載し、日本経済新聞ではスポーツ欄にコラム「チェンジアップ」を1998年から2013年まで続けていた。
文武両道の人だった。
合掌。

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