追悼

2017年12月 5日 (火)

計算化学の第一人者・諸熊奎治/追悼(113)

計算化学の第一人者である諸熊奎治博士が亡くなった。

Photo 計算化学の第一人者で京都大福井謙一記念研究センター研究員の諸熊奎治(もろくま・けいじ)氏が、11月27日に京都市内の病院で病気のため亡くなっていたことが4日、分かった。83歳。葬儀・告別式は近親者で行った。
 諸熊氏は京都大工学部卒。同学部石油化学科の教授だった故福井謙一氏の研究室に大学院時代から加わった。福井研究室の助手を経て1964年に渡米し、米ロチェスター大教授などを経て76年に帰国。分子科学研究所(愛知県)で電子計算機センター長を務め、93年から2006年まで米エモリー大教授を務めた。06年から現職。
 量子化学など理論化学にもとづく分子の構造や反応などの理論的予測、計算法の研究を進め、分子をタマネギのように多層化して計算する「ONIOM法」の開発などで知られ、理論、実験と並ぶ第3の研究手法として計算化学を発展させた。京大でもさまざまな化学反応のメカニズムをコンピューターで解析する研究に取り組んだ。
 ノーベル化学賞の有力候補者だった。13年の同賞は化学反応をコンピューターで計算する手法の開発が授賞業績で、スウェーデン王立科学アカデミーは同分野の発展に尽くした1人に諸熊氏の名前を挙げていた。
 エモリー大名誉教授、分子科学研究所名誉教授。12年文化功労者。
諸熊奎治氏が死去 計算化学の第一人者、ノーベル賞候補

化学と言えば一般には「実験」のイメージがあるだろう。
つまり経験科学である。
その化学の非経験化に挑戦してノーベル賞を受賞したのが福井謙一博士だった。
福井博士は工学部燃料化学科(後に石油化学科に改称・改組)の教授であった。
理学部でなく工学部であるところがユニークである。
それは、喜多源逸、兒玉信次郎らによって培われてきた自由を尊び、基礎を重視する学風の中で開花した。
⇒2009年10月10日 (土):プライマリーな独創とセカンダリーな独創

福井博士から直接の指導を受けた第一世代の5人が『量子化学入門』化学同人(1963年)という著書を書いた。
米澤貞次郎、加藤博史、永田親義、今村詮、諸熊奎治の諸氏である。
量子化学を勉強する人の必読書と言われる。

上記記事にあるように、2013年のノーベル賞は計算化学分野に対して授与された。
諸熊博士の業績も大きな貢献をしたが、残念ながら直接の受賞者とはならなかった。
しかし、諸熊博士をも育んだ基礎と自由を重視する学風は現在でも引き継がれている。
⇒2017年9月25日 (月): 日本の研究力を回復するために・基礎と自由/日本の針路(330)

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2017年9月 3日 (日)

『母と暮らせば』の医学生のモデル・土山秀夫/追悼(112)

長崎原爆の被爆者で、元長崎大学長の土山秀夫さんが2日、多臓器不全のため亡くなった。
92歳だった。

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東京新聞9月3日

1945年8月当時は長崎医科大付属医学専門部(現・長崎大医学部)3年だった。
山田洋次監督の『母と暮らせば』の亡霊となった学生のモデルとされる。
⇒2016年1月14日 (木):母と暮らせば』と複素的な世界観/戦後史断章(24)
⇒2017年8月 9日 (水):『母と暮らせば』と『シン・ゴジラ』/戦後史断章(27)

原爆投下時は母の疎開先の佐賀にいたが、翌日に長崎市内へ戻って被爆したが、負傷者の救護に奔走した。
爆心地に近い山里町に住んでいた兄一家4人は全員被爆死した。

Ws000000 その後、52年に長崎医科大を卒業した。専攻は病理学で、米国留学などを経て、69年から長崎大教授となり、82~86年に医学部長、88~92年には学長を務めた。
 学長退任後、核兵器廃絶や恒久平和を訴える市民運動に本格的に取り組んみ、運動を理論的な面からリードした。90年からは長崎原爆の日の平和祈念式典で長崎市長が読む平和宣言の起草委員を25年間務め、2004年からは「世界平和アピール七人委員会」のメンバーにもなった。10年に長崎市名誉市民に選ばれた。山田洋次監督が長崎原爆を題材に撮影した映画「母と暮せば」の主人公のモデルにもなった。
訃報 土山秀夫さん92歳=長崎で被爆・元長崎大学長

先日の谷口稜曄さんに続き、ナガサキ被曝の生き証人がまた亡くなったことになる。
⇒2017年8月31日 (木):赤い背中の告発・谷口稜曄/追悼(110)
戦後72年ということは、明治維新からの時間の半分近くになるということである。
しかし、戦後は終わってはいないどころか、再び戦争体制化しつつある。
⇒2017年8月15日 (火):再び戦争体制に向かう「母國」/永続敗戦の構造(10)

合掌。

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2017年9月 2日 (土)

哲学は言葉だ・中村雄二郎/追悼(111)

哲学者の中村雄二郎さんが、8月26日、老衰のため死去した。
91歳だった。
中村さんは1952年に東京大学大学院を修了。
明治大法学部専任講師を経て専任教授を務め、1996年に退職後、名誉教授となった。

Photo_3 旧制高校まで理系だったが、敗戦の衝撃から哲学を志望した。一九五〇年に東京大哲学科卒。文化放送勤務を経て、哲学に専念。「現代情念論」「感性の覚醒」などで、近代合理主義を内側から乗り越える独自の思索を進めた。
 ミシェル・フーコーら同時代の西洋哲学を参照しながら構造主義やポストモダニズムの最先端の知を論じた。同時に、二十世紀前半の哲学者、西田幾多郎(きたろう)に新たな光を当てた。また「共通感覚論」で知の組み替えを提唱。「魔女ランダ考」などでは演劇、パフォーマンスを巡る斬新な議論を展開した。
 他の著書に「哲学の現在」やベストセラー「術語集」など。
中村雄二郎さん死去 91歳 哲学者「魔女ランダ考」

私は単行本は岩波新書の『術語集』しか読んでいないが、「哲学=考えること」とすれば、哲学にとって言葉は本質的である。
人類史を俯瞰したユヴァリ・ノア・ハラリ『サピエンス全史-文明の構造と人類の幸福』河出書房新社((2016年9月)が評判である。
同書によれば、約7万年前の「認知革命」が今日の人類を造り出す出発点だった。
認知革命によって、ヒトはリアルと同じように虚構の世界を生きるようになった。
⇒2017年8月 9日 (水):『母と暮らせば』と『シン・ゴジラ』/戦後史断章(27)

「現実や世界を読み解いていくためのキー・ワード=術語。現在の〈知の組みかえ〉の時代にあって、著者は、記号、コスモロジー、パラダイム等、さまざまな知の領域で使われている代表的な四〇の術語と関連語について、概念の明晰化を試みながらそれを表現の場で生かそうとする。現代思想の本質が把握できる、〈気になることば〉の私家版辞典。」(「BOOK」データベースより)は哲学者の本領といえよう。

代表的な四〇の術語とは、「アイデンティティ」「遊び」「エントロピー」「仮面」「狂気」「差異」「身体」「分裂病」「身体」etc.である。
九鬼周造『「いきの構造」』に比べると、一語の分量が少ない分だけ、読みやすい。
⇒2013年1月27日 (日):『「いき」の構造』に学ぶ概念規定の方法/知的生産の方法(33)

認知することは、概念の獲得である。
言葉に拘ることは哲学の王道と言えよう。
哲学なき政治家が横行している世相を嘆きつつ旅立ったのであろうか。
合掌。

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2017年8月31日 (木)

赤い背中の告発・谷口稜曄/追悼(110)

長崎への原爆投下から72年が過ぎた。 
⇒2017年8月 9日 (水):『母と暮らせば』と『シン・ゴジラ』/戦後史断章(27)

この原爆で焼けただれた自身の「赤い背中」の写真を掲げて核兵器廃絶を訴え続けた人がいた。
日本の被爆者運動をリードした日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員で、長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)会長の谷口稜曄氏だ。
谷口氏が31日、十二指腸乳頭部がんのため長崎市内の病院で死去した。
88歳だった。

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東京8月31日

日本政府は核兵器禁止条約に参加しない姿勢をとったままだ。
私には、ヒロシマ、ナガサキの被爆者への裏切りのように思える。
⇒2017年8月 6日 (日):今こそ、主導して核兵器禁止を前に進めるべきだ/日本の針路(325)

 郵便局員だった16歳の時、長崎の爆心地から1・8キロの住吉町で、自転車に乗って配達中に被爆。熱線で背中に大やけどを負い生死をさまよい、激痛と苦しみのあまり「殺してくれ」と叫んだ。うつぶせのまま過ごした1年9カ月を含め、入院生活は3年7カ月に及び、奇跡的に一命を取り留めた。その後、被爆者運動の立ち上げに加わり長崎被災協には1956年の発足時から参加、2006年から会長を務めた。10年には被団協の代表委員に就任。08年度から8月9日に長崎市長が読み上げる長崎平和宣言の起草委員を務めていた。
 被爆地を訪れる修学旅行生に被爆体験を精力的に語ったほか、核兵器の恐ろしさを世界に知ってもらうため海外に25回渡航。大やけどを負った背中の写真を掲げ核廃絶を訴えた。10年には米ニューヨークの国連本部で開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせ渡米し、非政府組織(NGO)セッションで各国代表らに被爆体験を証言した。
 被爆70年を迎えた15年8月9日の平和祈念式典では被爆者代表として2回目の「平和への誓い」を読み上げ、多くの命を奪った核兵器と戦争への怒りをあらわにしたほか、安全保障関連法の成立を図る日本政府を批判した。
 一方、近年は体調を崩すことが多く、入退院を繰り返していた。核兵器を法的に禁止する核兵器禁止条約の採択を歓迎する今年7月の集会では、病床からビデオメッセージを送り「核兵器の非人道性を知る被爆者がいなくなった時にどんな世界になるのかが一番心配だ。被爆者が頑張らなければいけない」と呼び掛けた。
被爆者・谷口稜曄さん死去

安倍政権は、北朝鮮のミサイル発射を奇貨として、軍備増強を進めようとしている。
悲惨な戦争の実相の生き証人がまた一人居なくなった。
合掌。

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2017年8月29日 (火)

偉そうに振舞わない政治家・羽田孜/追悼(109)

羽田孜元首相が28日午前7時6分、老衰のため、東京都内の自宅で死去した。 
82歳だった。

82歳で老衰?
この長寿社会で、ちょっと違和感がある。
確か脳梗塞を発症し、半身不随の陥ったということを聞いたことがある。
脳血管障害の後遺症は人それぞれであるから一般論では語れない。
私の場合、右半身の麻痺は継続しているが、日常生活は自立で生活している。
この日常生活の活動(ADL:Activity of Daily Life)が重要である。
多少は不自由があっても、継続的に身体を動かしていることが、急速な衰えを防ぐと考えたい。

Ws000006 羽田氏は1935年8月24日、東京都大田区で生まれた。成城大経済学部卒業後、69年衆院選で父の羽田武嗣郎元衆院議員の後継者として、旧長野2区から自民党公認で初当選し、連続14選を果たした。
 中曽根、竹下両内閣で農相、宮沢内閣で蔵相を歴任し、小沢一郎・自由党共同代表らとともに「竹下派七奉行」の一人に数えられた。
 93年6月に宮沢内閣不信任決議案に賛成して自民党を離党。小沢氏らと新生党を結成し、党首に就いた。同8月、細川内閣に副総理兼外相で入閣し、94年4月の細川首相辞任後、第80代首相に就任した。
 内閣発足直前に社会党が連立を離脱したため、少数与党での不安定な政権運営となり、6月に総辞職した。在職日数は戦後2番目に短い64日だった。
 退陣後は新進党、太陽党、民政党を経て、98年4月の民主党結成に参加。2012年11月の衆院解散で政界を引退した。最近は、体調を崩しがちで、自宅などで療養を続けていた。
 夏場は、半袖の上着の「省エネルック」を愛用した。
羽田孜元首相が死去…82歳、「省エネルック」

せっかく自民党を離脱し政権交代の流れを作りながら、歴史的な非自民政権では首相を細川護煕氏に譲った。
「剛腕」小沢一郎氏に引き回された印象があるが、対話と改革を重んじた政治家だった。
寿命を縮めた要因として、脳血管性認知症を指摘する人もいるが、私がコメントすべきことではないだろう。

 羽田氏は結婚披露宴に招かれると、新郎新婦に詩人・吉野弘氏の「祝婚歌」を贈った。「二人が睦(むつ)まじくいるためには 愚かでいるほうがいい 立派すぎないほうがいい」から始まる。羽田氏の人生訓でもある。
 意見の違う人とも愚直に語り合う。もの別れになっても相手と、しこりが残らない。
羽田孜氏死去 「立派すぎない」政治家

偉そうに振る舞う政治家が多い中で、稀少な存在だったと言えよう。
今朝から北朝鮮のミサイル発射で大騒ぎである。
自由党京都支部の鈴木まりこという人のツイートである。
Ws000005
同感である。



合掌。

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2017年7月25日 (火)

時代を象徴するヒット曲メーカー・平尾昌晃/追悼(108)

作曲家で歌手の平尾昌晃さんが、7月21日夜、東京都内の病院で肺炎のため亡くなった。
79歳だった。
平尾さんは東京都出身で、慶應義塾高校時代にウェスタンバンドで米軍キャンプなどで演奏し、下積み時代を送った。
1958年に歌手デビューし、ミッキー・カーチスさん、山下敬二郎さんと共に、「ロカビリー三人男」として人気を博した。

石原裕次郎を国民的スターにした映画『嵐を呼ぶ男』に歌手役で出演している。
その経緯を、次のように語っている。

Ws000000_2 ある日、ジャズ喫茶「テネシー」に渡邊美佐さん(現渡辺プロダクショングループ代表)と映画「嵐を呼ぶ男」を撮る井上梅次監督が来店した。映画に起用するステージ歌手を探すためで、(後の「ロカビリー3人男」の)山下敬二郎、ミッキー・カーチスと私の3人が候補になっていることは聞かされていた。1、2曲歌ったところで楽屋に呼ばれて依頼を受ける。「憧れの石原裕次郎さんと共演できる」と胸が張り裂けそうだった。決め手になったのはステージ衣装だったようだ。歌手である以上、常に目立ちたいという意識を持っていて、その日の衣装も真っ赤なジャケット。これが良かったらしく、監督から「その格好で来て下さい」と言われた。
 撮影所に行くと「テネシー」と同じセットが組んであった。店で撮ればいいのにと思ったが、当時の日活はケタ違いにお金があったのだろう。初めてお会いした裕次郎さんの印象は強烈で、なにか近寄ってはいけないオーラに満ちていた。女優さんも同じだ。映画に出演する方はテレビにちょこちょこ出ているタレントさんとは 全然違う。浅丘ルリ子さんは本当にきれいで光り輝いていた。撮影所ではずっとキョロキョロしていた。
【平尾昌晃・生涯青春】(5)「嵐を呼ぶ男」裕次郎さん、強烈オーラ

1966年に作曲家に転身し、数々のヒット曲を人気歌手に提供した。
代表曲は以下の通りである。

1966年 霧の摩周湖 布施明
1971年 よこはま・たそがれ 五木ひろし
1971年 わたしの城下町 小柳ルミ子
1974年 うそ 中条きよし
1979年 銀河鉄道999 ささきいさお
1998年 アメリカ橋 山川豊

いずれも私でも顔とメロディが一致する曲である。
それぞれの歌手の代表曲、出世曲になっている。
TVの歌番組も、少なくなった。
昭和に比べ、平成は歌謡界の広がりの幅が狭くなったのではないか。

たまたま梅原猛氏が、NHKの「のど自慢」や「紅白歌合戦」について書いている。
歌謡曲と人生の関係について、同感するところがある。
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東京新聞7月25日

1974年に平尾昌晃歌謡教室(現平尾昌晃ミュージックスクール)を開校して、森口博子さん、狩人らを育てた。
2003年には紫綬褒章を受章した。
その時代を象徴するような曲を作った人と言えよう。
合掌。

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2017年7月18日 (火)

葉っぱのフレディ-いのちの旅・日野原重明/追悼(107)

聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんが、18日、呼吸不全で死去した。
105歳だった。

Ws000001 1911年山口県生まれ。京都帝大医学部卒。41年から内科医として聖路加国際病院に勤めた。同病院内科医長、聖路加看護大学長、同病院長などを歴任。2002年度朝日社会福祉賞。05年に文化勲章を受章した。
 専門は内科学。54年、勤務していた聖路加国際病院で、国内の民間医療機関で初めて人間ドックを導入した。成人病と呼ばれていた脳卒中、心臓病などを「習慣病」と呼んで病気の予防につなげようと70年代から提唱してきた。旧厚生省は96年になって成人病を生活習慣病と改称し、今では広く受け入れられている。
 医師が患者を大切にして、対等に接する米国医療の側面に戦後早くから注目し、看護師の仕事も重視した。51年の米留学後、医師の卒後臨床研修の改革や、看護教育の充実、看護師業務の拡充などを求めてきた。聖路加看護大学長を務め、88年には看護学として日本初の大学院博士課程を開設した。
100歳超えて現役医師 日野原さん「習慣病」も提唱

日野原さんは昭和45年の「赤軍派」ハイジャック事件の日航「よど号」に乗客として搭乗していた。

 日野原氏は45年3月、出張で搭乗したよど号で事件に遭遇。乗客がハイジャックを理解せず、メンバーも説明に窮する中、声をあげて「人質を取る乗っ取り」と説明。「ハイジャックする人が説明できないのはおかしい」とマイクで語り、緊張する機内をなごませた。
 日野原氏は後年、産経新聞への寄稿で、メンバーが革命歌「インターナショナル」を歌うと、乗客が別れの歌「北帰行」を吟じたエピソードなどを回顧。「生きるも死ぬも皆が同じ運命にあるという意識から生じたストックホルム症候群という敵味方の一体感に一同が酔ったといえるのかもしれない」と振り返っていた。
「思い上がりを正した恩人。直接おわびしたかった」日野原氏の訃報によど号メンバーも弔意

私には、レオ・バスカーリアの『葉っぱのフレディ-いのちの旅』のミュージカル化の印象が強い。
同書は子供向けの絵本であるが、1998年10月27日の日本経済新聞朝刊のコラム「春秋」と産経新聞朝刊のコラム「産経抄」が揃って紹介したことが忘れられない。
「産経抄」から引用する。

絵本といえば絵本、童話といえば童話なのだが、「死」についての本である。子どもに「死」を考えさせる絵本は珍しいのではないか▼小欄へ贈ってくださる本は多いのだが、そんなことでご紹介する気になった。本の題は『葉っぱのフレディ』(みらいなな訳、島田光雄画)といい「いのちの旅」という副題がある。作者はアメリカの哲学者レオ・バスカーリア、生涯でただ一冊書いた童話だった▼葉っぱのフレディは大きな木の太い枝に生まれ、夏には木かげをつくって涼しい風を送っていた。しかし、季節はかけ足で過ぎ、秋の寒気がきて紅葉する。霜をうけ枯れ葉となった仲間はつぎつぎに散っていく▼「こわいよう、ぼくも死ぬの?」とおびえるフレディに友人のダニエルは教えた。「その通りさ、でも世界は変化しつづけているんだ。変化しないものはひとつもないんだよ。死ぬというのも、変わることのひとつなんだ。だれでもいつかは死ぬ。でも“いのち”は永遠に生きている」▼だが春に生まれて冬に死んでしまう一生にどんな意味があるというのだろう。「ねえ、ぼくは生まれてきてよかったのだろうか」。よかったのさ、夏は木かげをつくり、秋は紅葉でみんなを楽しませたじゃないか、といってダニエルは夕暮れの光のなか枝を離れていく▼翌朝は雪で、フレディもねむりに入るが、また春はめぐってきた…。わたしたちはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか。子どもはだれでも一度はそのことを考える。そういう難問に、この本は真正面から答えている。

約20年が過ぎたが、この絵本の問いかけはますます考えさせられる。
人生を1年に見立て、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」というが、わが人生も、白秋から玄冬へ入った。
生き続けるかのように見えた日野原さんも、自然の摂理に従って、従容として旅立って行ったのだろう。
合掌。

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2017年7月14日 (金)

中国民主化運動の象徴・劉暁波/追悼(106)

天安門事件(中国の民主化運動)の象徴的存在だった劉暁波(リウシアオポー)氏が7月13日、入院先の遼寧省・瀋陽の病院で死去した。
61歳だった。
私は、天安門事件の20周年を迎える日に、天安門広場を訪れる機会があった。
そのものものしい警戒ぶりに、事件が未だに歴史にはなっていないことを実感した。
⇒2009年6月 5日 (金):天安門の“AFTER TWENTY YEARS”

事実、新疆ウイグル族が関与していると考えられる自爆テロが起きたりしている。
⇒2013年11月 4日 (月):天安門自爆テロ?/世界史の動向(1)

劉氏は、北京オリンピックがあった2008年、「世界人権宣言」 60周年に合わせ、インターネット上で中国の民主化を呼びかける「08憲章」を発表して、中国共産党の一党独裁の放棄や言論の自由などを訴えた。
しかし、2009年に「国家政権転覆扇動罪」で懲役 11年の判決を受け服役した。

北京オリンピックがあった2008年、劉氏は「世界人権宣言」 60周年に合わせ、インターネット上で中国の民主化を呼びかける「08憲章」を発表。中国共産党の一党独裁の放棄や言論の自由などを訴えた。多くの署名が集まったが、2009年に「国家政権転覆扇動罪」で懲役 11年の判決を受けた。
服役中の2010年、「中国での基本的人権の確立のため長年にわたり非暴力の闘いを続けてきた」という理由でノーベル平和賞を授賞した。
だが当時は獄中にあったため、授賞式には出席できなかった。妻の劉霞(リウシア)さんも中国当局によって自宅に軟禁され、代理出席は叶わなかった。

Photo
劉暁波氏と、妻の劉霞氏
授賞が決まった直後、劉氏は劉霞さんに「(ノーベル平和賞は)天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と、涙を流しながら語ったという。
2017年5月末、服役していた刑務所で腹部に異常が見つかった。中国当局は6月、劉氏が末期の肝臓がんであることを公表した。
劉氏はドイツかアメリカでの治療を希望。7月8日に診察したドイツとアメリカの医師は「安全な移送は可能」としていたが、中国当局が出国を認めず、劉氏の望みは叶わなかった。
劉暁波氏が死去 中国民主化運動の象徴、ノーベル平和賞の人権活動家

中国はアメリカと並んで、世界の2大強国になった。
しかし今後の発展は、民主化なしにはあり得ないだろう。
そえを確認できなかったのは心残りかも知れないが、礎になったことは人々が記憶し続けろと思う。
合掌。

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2017年6月 4日 (日)

宝暦治水を描いた『孤愁の岸』・杉本苑子/追悼(105)

『孤愁の岸』の作家・杉本苑子さんが、5月31日、老衰のため死去した。
91歳だった。

Photo_4 東京生まれ。文化学院卒業後、サンデー毎日の懸賞小説に応募したのを機に、選考委員だった吉川英治氏に師事。ほぼ10年間吉川氏のもとで文学修業を積み、昭和38年、幕府から治水工事を命じられた薩摩藩士の苦悩を描いた「孤愁の岸」で直木賞を受賞した。豊富な歴史知識をもとに、古代から近世まで幅広く描いた。
 53年に「滝沢馬琴」で吉川英治文学賞、61年に「穢土荘厳(えどしょうごん)」で女流文学賞。平成14年には文化勲章と菊池寛賞を受けた。生涯独身を貫き、著作権を含む全財産を静岡県熱海市に寄贈すると表明していた。
作家の杉本苑子さんが死去 91歳 「孤愁の岸」「滝沢馬琴」など歴史小説

『孤愁の岸』は、江戸時代に美濃国の揖斐川、長良川、木曽川の3川の治水難工事を成し遂げた薩摩藩士(薩摩義士)を描く。
いわゆる木曽三川が乱流する地帯は、輪中という治水・水防のしくみで有名である。
記憶しているのは、1976年(昭和51年)9月12日に、岐阜県安八郡安八町で長良川が決壊して大被害を生じた「安八水害」がある。
輪之内町などの地名が、輪中を彷彿とさせる。
Ws000000
この辺り一帯を視察旅行したことがあるが、天気の良い日だったので、水害の様子をイメージすることが難しかった。

杉本さんは、吉川英治の唯一の弟子と言われるが、『孤愁の岸』は直木賞受賞作。
雄藩を消耗させるという狙いもあったと言われる「お手伝い普請」であるが、中心人物は薩摩藩の工事責任者である家老平田靭負である。
昔、鹿児島の仕事に携わっていた時があり、何代目かの末裔と会ったことがある。

1753年(宝暦3年)12月25日江戸幕府老中・西尾忠尚は薩摩藩に命じて濃尾地方の木曽川、長良川、揖斐川の3河川の治水事業にあたらせた。これは幕府の、雄藩をあまり富裕ならしめないための政策手段でもあったが、この3河川は、その流域が今日の長野、岐阜、愛知、三重、滋賀の五県にわたり、とりわけそのうち南北15里、東西2里では、多くの本支流が交錯し、容易ならざる難事業であった。そのうえ寛保年間以後、11年間にわたって洪水が頻発し、惨状を呈していた。
そのために幕府の厳命、督促は猶予がなく、薩摩藩は死力をつくしてこれにあたった。藩主島津重年の命によって家老平田靱負正輔、大目付伊集院十蔵久東らが工事を担当し、留守居山沢小左衛門盛福、普請奉行川上彦九郎親英らとともに、美濃国大牧村を本陣として、1754年(宝暦4年)2月5日から工事に着手し、5月22日ひとまず工事を中止し、同年9月21日さらに勘定頭倉橋武右衛門が参加し、翌1755年(宝暦5年)3月28日ついに工事を完成し、幕府目付牧野織部、勘定吟味役細井九郎助らあらたに江戸からくだった検使は、地元の検使とともに、同年4月16日から5月22日まで、一ヶ月余にわたって本検分をすませた。
薩摩藩はこの工事で、数十万両もの莫大な経費を負担した。幕府側の妨害工作などによる過労のため病となり生命を落としたり、あるいは横暴な幕府側への抗議のために切腹して果てる者を多数出した。総奉行平田靱負は工事完遂を見届け、この難事業の責任を取る形で切腹した。藩主重年も後を追う様に病没した。
1938年(昭和13年)に、平田靱負ら85名の「薩摩義士」を、「祭神」に『治水神社』(岐阜県海津市海津町油島)が建立された。
Wikipedia・薩摩義士

近年、治水工事の実相や義士の顕彰運動を見直す動きもあるようだ。
治水は、右岸と左岸、上流と下流で、利害が相反するので、単純な見方はできず、多くの人の関心を引き起こし、層の厚い研究が求められる。
『孤愁の岸』は、治水に対する関心の喚起という意味でも重要である。
91歳は大往生と言えよう。
合掌。

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2017年4月26日 (水)

映像世界のパラダイムシフト・松本俊夫/追悼(104)

映像作家の松本俊夫さんが12日、腸閉塞のため、東京都内の病院で死去した。
85歳だった。葬儀は、家族による密葬で行われる。

 東大卒業後、ドキュメンタリーの世界に入り、「西陣」「石の詩」など前衛的作品を発表。67年の「母たち」でベネチア国際記録映画祭のグランプリを得た。69年、ピーター(池畑慎之介)さんを主演に迎えて新宿の先端文化を生きる若者を描いた「薔薇の葬列」で劇映画に進出。88年には夢野久作の長編小説を原作に桂枝雀さん主演の「ドグラ・マグラ」を監督した。70年の大阪万博では「せんい館」の映像を担当。実験映画やビデオアートなど多彩な作品を残した。
映像作家の松本俊夫さん死去 「薔薇の葬列」「母たち」

私の同僚に、九州工科大学の画像設計工学科の出身者が何人かいた。
いずれも個性的で、一家言を持っていた。
密かにどんな教育が行われてきたのか、興味を抱いたことがある。

同大学は、現在、九州大学に統合されている。
設立時のコンセプト策定には、梅棹忠夫さんなども関わっていて、ユニークな大学だった。
九州大学のような総合大学の一学部となることは、メリットもあるだろうが、失うものも多いような気がする。

松本さんは、作家でありかつ批評家でもあった。

 1969年に初の長編劇映画『薔薇の葬列』を発表して、センセーションを巻きおこした。当時、大島渚と今村昌平をトップランナーとしてきた日本映画に、従来とはまったく異なる映画の作り方があることを示し、世界映画の最前線に並んだのだ。
 題材は古代ギリシャのエディプス神話で、主人公を現代日本のゲイボーイにして、原作の有名なドラマを、母を殺し父と交わる物語に転換してしまった。主役を演じたのは、映画初出演の美少年ピーター(後の池畑慎之介)だった。
 だが、それ以前に松本俊夫は、実験的記録映画の旗手であり、さらに、日本の映画理論の水準を格段に高めた批評家として知られていた。私はそのころ中学生だったが、松本の批評集『映像の発見』と『表現の世界』を読み、映画を見、文学を読み、芸術を享受することの根源的な意味と、それを言葉で論理的に説明するやり方を教わった。当時の芸術を志す若者への松本の影響力の大きさは、今では信じられないだろう。
 だが、ここへ来て、松本俊夫の再評価の波が大きく起こっている。気鋭の映画監督・筒井武文は10年かけて、なんと11時間40分のドキュメンタリー『映像の発見=松本俊夫の時代』を昨年完成したし、全文業を網羅する『松本俊夫著作集成』(全4巻)がついに刊行されはじめた。
【書評】学習院大学教授・中条省平が読む『松本俊夫著作集成I 一九五三-一九六五』(松本俊夫著)

私は昔『映像の発見―アヴァンギャルドとドキュメンタリー』三一書房(1963年)を読んだことがあるが、残念ながら継続的にウォッチングしてこなかった。

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東京新聞4月25日

鬼才も安らかに眠るのだろうか。
合掌。

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