追悼

2019年2月24日 (日)

日本文学への深い愛・ドナルドキーン/追悼(138)

米コロンビア大名誉教授のドナルド・キーンさんが2月24日、心不全のため東京都内の病院で亡くなった。
1922年、米ニューヨークで貿易商の家庭に生まれ、コロンビア大学に進学し、18歳の時、英訳された「源氏物語」を偶然手に取り、みやびな世界に魅了された。
太平洋戦争中には、米海軍語学将校として日本兵捕虜の尋問・通訳に従事した。

2011年3月の東日本大震災の津波被害と原発事故を憂えて、「大好きな日本に永住し、日本人になる」と表明年に日本国籍を取得し、2013年には、研究業績などを紹介する「ドナルド・キーン・センター柏崎」(同県柏崎市)がオープンした。

2012生涯独身で、後に養子に迎える新潟県出身の文楽三味線奏者、上原誠己さんと06年秋に知り合ったことが日本国籍取得(12年)の最大の契機になったという。
2012年から東京新聞等で『東京下町日記』を掲載し、日本文学への深い造詣と愛情を示した。
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東京新聞2013年10月6日

年譜は以下の通りである。
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東京新聞2月25日

 戦後、大学に戻り、本格的に日本文学研究に打ち込み、53年には京都大大学院へ留学。後の文相で教育社会学者の永井道雄と親交を結ぶ中、中央公論社の嶋中鵬二社長を紹介されたのを機に、谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫ら多くの文学者と交流。古典から近現代文学まで幅広い日本文学作品に精通し、太宰治や三島、安部公房らの作品を積極的に翻訳、紹介した。谷崎、川端、三島らの名前が候補に挙がったノーベル文学賞の事前選考にも、大学の同僚だった日本文学研究者エドワード・G・サイデンステッカー(2007年死去)とともに関わった。
・・・・・・
 日記文学を論じた「百代の過客」で読売文学賞と日本文学大賞(85年)、力作評伝「明治天皇」で毎日出版文化賞(02年)を受賞するなど多数の論考を著した。
 近年でも評伝「正岡子規」(12年)、同「石川啄木」(16年)を刊行するなど晩年まで創作意欲は旺盛だったが、18年3月の米ニューヨーク訪問後に体調を崩しがちになり、都内の病院で入退院を繰り返していた。公には、同年5月に埼玉県草加市で上演された「幻」の古浄瑠璃「越後国柏崎 弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)」の記念座談会で元気そうな姿を見せたのが最後となった。
ドナルド・キーンさん死去 96歳 日本文学研究者、翻訳で国際化に貢献

あの世というものがあれば、三島由紀夫や川端康成などと、心行くまで交歓されることを。
合掌。

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2019年2月11日 (月)

秀才かつクリエイティブ・堺屋太一/追悼(137)

堺屋太一さんが2月8日に多臓器不全のため東京都内の病院で亡くなった。
本名は池口小太郎。元通産(現経済産業)官僚。
昭和45年の大阪万博の開催に携わった後、石油危機を描いた小説「油断!」で作家としてデビューした。
第二作の『団塊の世代』文春文庫(2005年4月)がベストセラーになり世間に知られた。
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Wikipedia

「団塊」というのは本来は地質学の用語である。
それを人口構成上の用語に転用した。
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「団塊の世代」の研究(年表)

私にとっては『油断』日本経済新聞社(1975年)が鮮烈だった、
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刊行された時は某リサーチファームに所属しており、ある意味で描かれた世界は親しいものだった。
作者については某中央官庁の官僚とあったように記憶している。

藤原肇さんの『石油危機と日本の運命―地球史的・人類史的展望』サイマル出版会(1973年)などの影響で、1973年の石油危機発生の直前に石油化学業界から転職したのだった。
2014年9月20日 (土) 藤原肇『石油危機と日本の運命』/私撰アンソロジー(34) 
2009年4月 4日 (土) 同級生の死/追悼

油断』の内容は驚きは無かったが、政策決定の描写のリアリティはさすがであった。
旺盛な好奇心と筆力のある人だったと思う。
秀才であるには違いないが、クリエイティブな側面も兼ね備えていたとな存在だった。

「巨人、大鵬、卵焼き」と言ったのもこの人で、造語感覚が優れていた。
東日本大震災の直後に「第1の敗戦は幕末、第2の敗戦は太平洋戦争、そして、下り坂20年の末にきた大震災が第3の敗戦である。ここで大改革ができなければ、なお日本は負け続ける。」という問題意識で、『第三の敗戦』講談社(2011年6月)を緊急出版した。
しかし「大改革」どことろか、政権に復帰した安倍晋三首相の下で、取り返しのつかない道へ迷い込んでしまった。

官庁データを駆使した油断』でデビューし、人口動態データから団塊の世代』を書いた人は、公文書を偽造し、データ不正が疑われている現状をどう思っていたのだろう。
合掌。

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2019年2月 9日 (土)

自然と命の画家・堀文子/追悼(136)

風景の絵や花鳥画で知られた日本画家の堀文子さんが、5日、心不全のため亡くなった。
私は「サライ」誌の連載『命といふもの』で存じ上げていた。
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「サライ」2019年3月号

 東京・平河町生まれ。女子美術専門学校(現女子美術大学)で学び、創画会などで活動した。うつろいゆく自然の姿を日本画特有の透き通った色合いと端正なタッチで描き続けた。
 自然、生命を生涯のテーマとしながら新境地を追い求め、イタリアの古都アレッツォ郊外にアトリエを構えたり、幻の花ブルーポピーをたずねてヒマラヤの高地に赴いたり。80歳を超えて動脈の病気で倒れた後は顕微鏡をのぞき、プランクトンなどのミクロな世界を優美に描いた作品で注目を集めた。「命といふもの」や「ホルトの木の下で」などの著作でも知られた。
 親しみやすい画風と同時に、自身を「わたくし」と呼ぶ丁寧な、かつ東京育ちらしい切れ味のいい語り口と若々しい姿でも人気に。「群れない、慣れない、頼らない」がモットーで、バブル景気以降の日本人のおごりを嫌い、晩年は「大きな公募団体展は好みません」と画壇からも距離をとっていた。
日本画家の堀文子さん死去 うつろいゆく自然の姿描く 

東京新聞のコラム「筆洗」がその画業の特質をうまく要約している。
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2月9日

「凛」という言葉が相応しい人だと思う。
日本人の美質のようなことを考えるとしたら、この人の人生と作品を参照すべきであろう。
堂々たる大往生である。
合掌。

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2019年1月30日 (水)

「わからない」という方法・橋本治/追悼(135)

橋本治さんが29日亡くなった。
1948年生まれだから、70歳である。
平均寿命からしたら若過ぎるが、書かれた作品の量・質は十分とも言えよう。

東京都出身で、東京大在学中、学園紛争の渦中で行われた駒場祭で「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」のコピー入りポスターを手掛けた。
コピーライター兼デザイナーであり、デビュー時からクリエイティブ・ディレクターだった。
作家というより文筆家ないしはアーティストという方が適切であろう。
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毎日新聞1月30日

 エッセーや評論も膨大に残した。95~07年の「ひらがな日本美術史」(全7巻)では仏像や絵巻を大胆に読み解いた。オウム真理教事件を機に執筆した「宗教なんかこわくない!」で96年に新潮学芸賞。02年に「『三島由紀夫』とはなにものだったのか」で第1回小林秀雄賞。04年、日本人の思考をたどる文化論「上司は思いつきでものを言う」はベストセラーに。短編集「蝶(ちょう)のゆくえ」で05年、柴田錬三郎賞。09年から10年にかけて刊行した「巡礼」「橋」「リア家の人々」は戦後史を市井の人々の人生に重ねた「戦後3部作」と呼ばれた。日本人の心性を探る試みは、18年に野間文芸賞を受けた長編小説「草薙の剣」に結実する。古典芸能にも造詣(ぞうけい)が深く、歌舞伎に関する著書もある。
 団塊の世代に属しながら、孤高を守り、独特のシニカルな視点で現代を見つめる作家だった。集団的自衛権や憲法改正などの時事的なニュースを受けて、本紙にたびたび寄稿やインタビューを掲載。政府や有権者にも苦言を呈した。
作家の橋本治さん死去 「とめてくれるな おっかさん」

評判になった「とめてくれるなおっかさん」のポスターは知っていた。
しかし「桃尻娘」で作家としてデビューした頃は違和感が先に立った。
それが先入観に過ぎないことは、『「わからない」という方法』集英社新書(2001年4月)を読んで知った。
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私が同感したのは、「なんでも簡単に“そうか、わかった”と言えるような便利な“正解”はもうない」ということであり、「重要なものは、身体と経験と友人で、それがなければ、脳味噌の出番なんかないのである。身体とは「思考の基盤」で、経験とは「たくわえられた思考のデータ」で、友人とは「思考の結果を検証するもの」である」という言葉だった。
私の経験とぴったり合っていた。
もう少し活躍して頂きたかったが病魔には勝てない。
合掌。

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2019年1月16日 (水)

人文知の大輪の花・梅原猛/追悼(134)

哲学者の梅原猛さんが12日、肺炎のため亡くなった。
93歳だった。
京都大学文学部を卒業し、長く立命館大学で教育と研究に携わった。
「梅原日本学」と称される独自の日本学を構築し、国際日本文化研究センターの初代会長や日本ペンクラブ会長を務めた。

非合理・理不尽さの体験が、物事を根源から疑う姿勢を生み、大胆な仮説の構築に繋がった。
そのバックグラウンドには戦争体験がある。
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東京新聞1月15日

年譜が読売新聞にまとまっていた。
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「怨霊なしに日本文化論じられず」…梅原猛さん

代表作に『神々の流竄』『隠された十字架ー法隆寺論』『水底の歌ー柿本人麿論』の古代三部作がある。
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私は、高松塚被葬者との関係で、黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(1973年6月)を面白く読んだ。
2008年9月21日 (日) 地下の朝賀…梅原猛説
~⇒2008年10月 2日 (木) 高松塚の被葬者は弓削皇子か?…梅原猛説(ⅹⅱ)

専門家から見ると批判すべき点もあろうが、人文知の面白さを社会に広めた功績は大きい。
「人麻呂終焉の地論争」を含め、梅原日本学にもう少し接近したいと思う。
2013年1月 8日 (火) 人麻呂終焉の地論争/やまとの謎(77) 

合掌。

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2019年1月13日 (日)

海外紀行番組の草分け・兼高かおる/追悼(133)

「兼高かおる世界の旅」(TBS系)の案内役として約150カ国を巡った旅行ジャーナリストの兼高(かねたか)かおる(本名兼高ローズ)さんが5日、心不全のため死去した。

90歳だった。葬儀・告別式は近親者で行い、後日「しのぶ会」を開くという。

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 東京の香蘭女学校を出た後、米国のロサンゼルス市立大に留学。帰国後、英字紙でフリー記者として活動した。航空機を乗り継ぎ、世界一周の速さを競うコンテストで約七十三時間の記録を樹立し、有名になった。
 日本人の海外渡航が自由化される前の一九五九年に紀行番組「兼高かおる世界飛び歩き」がスタート。六〇年にタイトルが「世界の旅」となり、海外旅行ブームに先駆けた名物番組として、九〇年まで約三十年間放送された。
 番組出演・ナレーターのほか、ディレクターやプロデューサーも兼務。行動力と語学力を武器に各国で取材、南極や北極も訪れた。スペインの画家ダリやケネディ米大統領、英国のチャールズ皇太子ら著名人とも面会。総移動距離は約七百二十一万キロ、地球百八十周分というテレビ史上例を見ないスケールになった。
 兵庫県淡路市の「兼高かおる旅の資料館」名誉館長や横浜市の「横浜人形の家」初代館長も務めた。著書に「私の好きな世界の街」「スーツケースのティー・タイム」など。菊池寛賞、紫綬褒章などを受けた。
兼高かおるさん死去 90歳「世界の旅」放送30年

まさに草分けであるが、当然だ草分けには草分けの苦労がある。
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毎日新聞1月10日「余禄」

酷使したであろう羽根を休めて安らかに。
合掌。

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2018年11月29日 (木)

破滅文士型コラムニスト・勝谷誠彦/追悼(133)

コラムニストの勝谷誠彦さんが亡くなった。
57歳で、肝不全だった。
兵庫県尼崎市の開業医の家に生まれ、灘中・灘高を経て、早稲田大学第一文学部を卒業、文藝春秋社に入社。
退社後、フリーランサーとして活動した。181129
東京新聞11月29日

昨年の兵庫県知事選の出馬し、固い地盤を持つ現職の井田敏三氏に敗れたものの、65万票近くを獲得している。
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今年8月21日に、激しい腰痛に襲われ、そのまま入院した。
劇症肝炎という病名だったが、アル中であり、入院中から隠れて飲酒していたらしい。
辛口で攻撃的な文章が多かったが、根は繊細な精神の持ち主だったはずである。
いつか旅するひとへ』潮出版社(9808)という本を読んだとき、テレビでの印象とは異なり、フラジャイルな人だと感じた。
2007年9月 2日 (日) 偽装国家

なお、偽装国家―日本を覆う利権談合共産主義 』扶桑社(0703)という著書があり、何よりも偽装を侮蔑・嫌悪してきたはずの人が、「偽装国家」の元締めともいうべき安倍晋三首相とは意気投合していたようで、不可解である。
2018年9月 3日 (月) 公文書管理と偽装国家の本領/メルトダウン日本(24)

政治的には右翼的な発言が多いが、田中康夫氏が当選した長野県知事選では田中氏を応援した。
2010年8月 9日 (月) 長野県知事選をめぐる感想
市民派的感覚も持ち合わせていた。

灘中へ進学するほどだから、小学生時代は成績優秀だったはずである。
灘高時代の同級生に精神科医の和田秀樹氏、イスラム学者のハッサン中田氏等がいる。
東大も受験して失敗しているというから、コンプレックスを内蔵していたのかも知れない。

早稲田一文の同期生だった森谷明子さんと一時期結婚していた。
2017年7月 7日 (金) 森谷明子『春や春』/私撰アンソロジー(48)
なお作家の小川洋子さんも同期である。⇒2014年2月 4日 (火):小川洋子『博士の愛した数式』/私撰アンソロジー(31)
早稲田一文というのは、作家・モノ書きの集まる学部だが、この学年は特に傑出していたと言えよう。

才能を評価する鑑識眼は一流だっただろうから、コンプレックスに輪をかけたのかも知れない。
最近はめっきり少なくなった太宰治や田中英光などと似ている破滅型文士と言えるが、天賦の才を破滅させたのは、自分に対する「甘え」ではないだろうか。
入院中も飲酒を断てなかったことが証明している。
天国ではきっぱりと断酒して才能を発揮されることを。
合掌。

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2018年10月27日 (土)

ミスター半導体・西澤潤一/追悼(132)

半導体の世界的権威で、文化勲章、米国電気電子学会(IEEE)エジソンメダルなどを受賞した元東北大総長の西澤潤一さんが、21日、仙台市内で死去した。
92歳だった。
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東京新聞10月27日

西澤さんは、何よりも独創性を重んじた人として知られる。
技術開発には、改良・応用技術開発=セカンダリーな独創と基礎からの開発=プライマリーな独創とがある。

たとえば、奇妙な現象にAが気が付き、Bが着目して、Cがアイディアを思いついて、Dが実験で確かめ、Eが理論的に体系づけて、Fが実用化し、Gが工業化した。
A、B、C、D、E、F、Gそれぞれが広義の独創者である。
それぞれが重要であるが、種子から育てていこうとする風土が日本には欠けている。
独創的な成果を生むには、思考の原点において自由でなければならない、というのが西澤さんの意見だ。
2009年10月10日 (土) プライマリーな独創とセカンダリーな独創

そしてそれは日本で初めてノーベル化学賞を受賞した福井謙一博士の理論のバックボーンでもある。
米沢貞次郎、永田親義『ノーベル賞の周辺―福井謙一博士と京都大学の自由な学風』化学同人(9910)によれば、「京都大学が伝統的に持つとされる自由な雰囲気」である。

2009年のノーベル物理学賞は、光ファイバーによる情報通信への貢献を評価された元香港中文大学長のチャールズ・カオ博士と電荷結合素子(CCD)センサーの発明を評価されたウィラード・ボイル博士、ジョージ・スミス博士の3人に与えられた。
光ファイバーが授賞対象になるのであれば、当然、西澤さんが受賞してしかるべきだったと思う。
2009年10月 7日 (水) 今年のノーベル物理学賞と西澤潤一氏の研究

ノーベル賞には恵まれなかったが、日本を代表する独創の研究者だったことは万人が認めるところであろう。
合掌。

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2018年9月17日 (月)

さりげなく計算されつくした演技・樹木希林/追悼(131)

女優の樹木希林さんが亡くなった。
9月15日2時45分、東京都渋谷区の自宅で家族に看取られ、75歳で生涯を終えた。
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東京新聞9月17日

さりげない自然に見える演技だったが、計算された演技でもあったと思う。
私は、是枝裕和監督の「万引き家族」がカンヌ国際映画祭で、パルムドールに選ばれたというニュースを聞き、近くのシネコンで先行公開されていたのを観に行った。
期待に違わない作品で、いろんなことを考えさせられた。
日本的な感じもするが、それを超越した普遍性が審査員に響いたということだろう。001_2

是枝監督は、登場する各世代で、最もうまい役者に頼んだという趣旨のことを話していた。
日本映画史に残る名優であろう。

行動派でもあった。
2015年に東海テレビで放映された『戦後70年 樹木希林ドキュメンタリーの旅』では、ナビゲーター役を務め、残留孤児、原爆、特攻隊、沖縄戦など戦争の悲惨さについて、真剣に迫っていた。
沖縄をテーマにした回では、辺野古の新基地建設に反対する人びとが集うキャンプ・シュワブのゲート前に現れ、座り込みを続ける86歳のおばあ、島袋文子さんの手を握り、語り合った。

沖縄知事選の最中に、安室奈美恵が出身地である沖縄で25年の芸能活動にピリオドを打ったのと同期するかのようにこの世を去った。
行く末を見届けられなかったのは残念だろうが、安らかにお眠りください。
合掌。

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2018年8月28日 (火)

ちびまる子ちゃんの昭和の日常・さくらももこ/追悼(130)

国民的な人気アニメ「ちびまる子ちゃん」を生んだ漫画家のさくらももこさんが乳がんで亡くなった。
53歳という若さであり、余りにも早い死である。

「ちびまる子ちゃん」は、1970年代の静岡県清水市(現静岡市清水区)に暮らす山口百恵好きのおっちょこちょいな小学3年生・まる子が主人公だ。
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東京新聞8月28日

いつも味方になってくれる祖父の友蔵(ともぞう)や酒好きの父ヒロシ、叱り役のお母さん、ドライな性格のお姉ちゃんらの3世代6人家族に、親友のたまちゃん、お金持ちでキザな花輪クン、学級委員になることに全てをかける丸尾君ら個性的なクラスメートが加わって繰り広げる昭和のほのぼのとした日常を描く。連載は86年に始まり、90年のアニメ化で爆発的な人気に。同年10月に最高視聴率39・9%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)を記録するなど、平成のお茶の間で絶大な支持を集めた。
昭和の日常描く「ちびまる子ちゃん」 平成を駆け抜けた

評論家の中森明夫さんは「平成の初期はバブル崩壊や阪神大震災、オウム事件と暗い話題が多かったが、人々は昭和のように上昇しなくても、身の回りの楽しみ、小さな喜びを見つけていったのではないか。ちびまる子ちゃんはそんな時代を象徴する番組だった。SMAP解散、安室奈美恵引退と続き、平成の終わりを感じる」と語っている(同上)。た。

また、作家の吉本ばななさんは 「青春を共に過ごしたももちゃん、闘病は知っていましたが、いつも元気にメールをくれるから回復を信じていました。言いがたいほど淋(さび)しく、残念です。」とがんと闘いながらも、さくらさんが明るく元気なメールを届けてくれていたことを告白。「友だちとして、たくさんの楽しい思い出をありがとう。私たちの時代に、まるちゃんやコジコジをもたらしてくれて、ほんとうにありがとう。」と青春時代から変わらぬ友情に感謝した。
さくらさんの闘病知っていた数少ない親友、吉本ばななさん悲痛、友情に感謝

さくらさんは、今年亡くなった西城秀樹さんのファンで、亡くなった時に自身が闘病中でもあったが。次のようなメッセージを発していた。
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平成が終わりに近づき、昭和はますます遠ざかって行く。

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