追悼

2017年7月25日 (火)

時代を象徴するヒット曲メーカー・平尾昌晃/追悼(108)

作曲家で歌手の平尾昌晃さんが、7月21日夜、東京都内の病院で肺炎のため亡くなった。
79歳だった。
平尾さんは東京都出身で、慶應義塾高校時代にウェスタンバンドで米軍キャンプなどで演奏し、下積み時代を送った。
1958年に歌手デビューし、ミッキー・カーチスさん、山下敬二郎さんと共に、「ロカビリー三人男」として人気を博した。

石原裕次郎を国民的スターにした映画『嵐を呼ぶ男』に歌手役で出演している。
その経緯を、次のように語っている。

Ws000000_2 ある日、ジャズ喫茶「テネシー」に渡邊美佐さん(現渡辺プロダクショングループ代表)と映画「嵐を呼ぶ男」を撮る井上梅次監督が来店した。映画に起用するステージ歌手を探すためで、(後の「ロカビリー3人男」の)山下敬二郎、ミッキー・カーチスと私の3人が候補になっていることは聞かされていた。1、2曲歌ったところで楽屋に呼ばれて依頼を受ける。「憧れの石原裕次郎さんと共演できる」と胸が張り裂けそうだった。決め手になったのはステージ衣装だったようだ。歌手である以上、常に目立ちたいという意識を持っていて、その日の衣装も真っ赤なジャケット。これが良かったらしく、監督から「その格好で来て下さい」と言われた。
 撮影所に行くと「テネシー」と同じセットが組んであった。店で撮ればいいのにと思ったが、当時の日活はケタ違いにお金があったのだろう。初めてお会いした裕次郎さんの印象は強烈で、なにか近寄ってはいけないオーラに満ちていた。女優さんも同じだ。映画に出演する方はテレビにちょこちょこ出ているタレントさんとは 全然違う。浅丘ルリ子さんは本当にきれいで光り輝いていた。撮影所ではずっとキョロキョロしていた。
【平尾昌晃・生涯青春】(5)「嵐を呼ぶ男」裕次郎さん、強烈オーラ

1966年に作曲家に転身し、数々のヒット曲を人気歌手に提供した。
代表曲は以下の通りである。

1966年 霧の摩周湖 布施明
1971年 よこはま・たそがれ 五木ひろし
1971年 わたしの城下町 小柳ルミ子
1974年 うそ 中条きよし
1979年 銀河鉄道999 ささきいさお
1998年 アメリカ橋 山川豊

いずれも私でも顔とメロディが一致する曲である。
それぞれの歌手の代表曲、出世曲になっている。
TVの歌番組も、少なくなった。
昭和に比べ、平成は歌謡界の広がりの幅が狭くなったのではないか。

たまたま梅原猛氏が、NHKの「のど自慢」や「紅白歌合戦」について書いている。
歌謡曲と人生の関係について、同感するところがある。
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東京新聞7月25日

1974年に平尾昌晃歌謡教室(現平尾昌晃ミュージックスクール)を開校して、森口博子さん、狩人らを育てた。
2003年には紫綬褒章を受章した。
その時代を象徴するような曲を作った人と言えよう。
合掌。

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2017年7月18日 (火)

葉っぱのフレディ-いのちの旅・日野原重明/追悼(107)

聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんが、18日、呼吸不全で死去した。
105歳だった。

Ws000001 1911年山口県生まれ。京都帝大医学部卒。41年から内科医として聖路加国際病院に勤めた。同病院内科医長、聖路加看護大学長、同病院長などを歴任。2002年度朝日社会福祉賞。05年に文化勲章を受章した。
 専門は内科学。54年、勤務していた聖路加国際病院で、国内の民間医療機関で初めて人間ドックを導入した。成人病と呼ばれていた脳卒中、心臓病などを「習慣病」と呼んで病気の予防につなげようと70年代から提唱してきた。旧厚生省は96年になって成人病を生活習慣病と改称し、今では広く受け入れられている。
 医師が患者を大切にして、対等に接する米国医療の側面に戦後早くから注目し、看護師の仕事も重視した。51年の米留学後、医師の卒後臨床研修の改革や、看護教育の充実、看護師業務の拡充などを求めてきた。聖路加看護大学長を務め、88年には看護学として日本初の大学院博士課程を開設した。
100歳超えて現役医師 日野原さん「習慣病」も提唱

日野原さんは昭和45年の「赤軍派」ハイジャック事件の日航「よど号」に乗客として搭乗していた。

 日野原氏は45年3月、出張で搭乗したよど号で事件に遭遇。乗客がハイジャックを理解せず、メンバーも説明に窮する中、声をあげて「人質を取る乗っ取り」と説明。「ハイジャックする人が説明できないのはおかしい」とマイクで語り、緊張する機内をなごませた。
 日野原氏は後年、産経新聞への寄稿で、メンバーが革命歌「インターナショナル」を歌うと、乗客が別れの歌「北帰行」を吟じたエピソードなどを回顧。「生きるも死ぬも皆が同じ運命にあるという意識から生じたストックホルム症候群という敵味方の一体感に一同が酔ったといえるのかもしれない」と振り返っていた。
「思い上がりを正した恩人。直接おわびしたかった」日野原氏の訃報によど号メンバーも弔意

私には、レオ・バスカーリアの『葉っぱのフレディ-いのちの旅』のミュージカル化の印象が強い。
同書は子供向けの絵本であるが、1998年10月27日の日本経済新聞朝刊のコラム「春秋」と産経新聞朝刊のコラム「産経抄」が揃って紹介したことが忘れられない。
「産経抄」から引用する。

絵本といえば絵本、童話といえば童話なのだが、「死」についての本である。子どもに「死」を考えさせる絵本は珍しいのではないか▼小欄へ贈ってくださる本は多いのだが、そんなことでご紹介する気になった。本の題は『葉っぱのフレディ』(みらいなな訳、島田光雄画)といい「いのちの旅」という副題がある。作者はアメリカの哲学者レオ・バスカーリア、生涯でただ一冊書いた童話だった▼葉っぱのフレディは大きな木の太い枝に生まれ、夏には木かげをつくって涼しい風を送っていた。しかし、季節はかけ足で過ぎ、秋の寒気がきて紅葉する。霜をうけ枯れ葉となった仲間はつぎつぎに散っていく▼「こわいよう、ぼくも死ぬの?」とおびえるフレディに友人のダニエルは教えた。「その通りさ、でも世界は変化しつづけているんだ。変化しないものはひとつもないんだよ。死ぬというのも、変わることのひとつなんだ。だれでもいつかは死ぬ。でも“いのち”は永遠に生きている」▼だが春に生まれて冬に死んでしまう一生にどんな意味があるというのだろう。「ねえ、ぼくは生まれてきてよかったのだろうか」。よかったのさ、夏は木かげをつくり、秋は紅葉でみんなを楽しませたじゃないか、といってダニエルは夕暮れの光のなか枝を離れていく▼翌朝は雪で、フレディもねむりに入るが、また春はめぐってきた…。わたしたちはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか。子どもはだれでも一度はそのことを考える。そういう難問に、この本は真正面から答えている。

約20年が過ぎたが、この絵本の問いかけはますます考えさせられる。
人生を1年に見立て、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」というが、わが人生も、白秋から玄冬へ入った。
生き続けるかのように見えた日野原さんも、自然の摂理に従って、従容として旅立って行ったのだろう。
合掌。

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2017年7月14日 (金)

中国民主化運動の象徴・劉暁波/追悼(106)

天安門事件(中国の民主化運動)の象徴的存在だった劉暁波(リウシアオポー)氏が7月13日、入院先の遼寧省・瀋陽の病院で死去した。
61歳だった。
私は、天安門事件の20周年を迎える日に、天安門広場を訪れる機会があった。
そのものものしい警戒ぶりに、事件が未だに歴史にはなっていないことを実感した。
⇒2009年6月 5日 (金):天安門の“AFTER TWENTY YEARS”

事実、新疆ウイグル族が関与していると考えられる自爆テロが起きたりしている。
⇒2013年11月 4日 (月):天安門自爆テロ?/世界史の動向(1)

劉氏は、北京オリンピックがあった2008年、「世界人権宣言」 60周年に合わせ、インターネット上で中国の民主化を呼びかける「08憲章」を発表して、中国共産党の一党独裁の放棄や言論の自由などを訴えた。
しかし、2009年に「国家政権転覆扇動罪」で懲役 11年の判決を受け服役した。

北京オリンピックがあった2008年、劉氏は「世界人権宣言」 60周年に合わせ、インターネット上で中国の民主化を呼びかける「08憲章」を発表。中国共産党の一党独裁の放棄や言論の自由などを訴えた。多くの署名が集まったが、2009年に「国家政権転覆扇動罪」で懲役 11年の判決を受けた。
服役中の2010年、「中国での基本的人権の確立のため長年にわたり非暴力の闘いを続けてきた」という理由でノーベル平和賞を授賞した。
だが当時は獄中にあったため、授賞式には出席できなかった。妻の劉霞(リウシア)さんも中国当局によって自宅に軟禁され、代理出席は叶わなかった。

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劉暁波氏と、妻の劉霞氏
授賞が決まった直後、劉氏は劉霞さんに「(ノーベル平和賞は)天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と、涙を流しながら語ったという。
2017年5月末、服役していた刑務所で腹部に異常が見つかった。中国当局は6月、劉氏が末期の肝臓がんであることを公表した。
劉氏はドイツかアメリカでの治療を希望。7月8日に診察したドイツとアメリカの医師は「安全な移送は可能」としていたが、中国当局が出国を認めず、劉氏の望みは叶わなかった。
劉暁波氏が死去 中国民主化運動の象徴、ノーベル平和賞の人権活動家

中国はアメリカと並んで、世界の2大強国になった。
しかし今後の発展は、民主化なしにはあり得ないだろう。
そえを確認できなかったのは心残りかも知れないが、礎になったことは人々が記憶し続けろと思う。
合掌。

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2017年6月 4日 (日)

宝暦治水を描いた『孤愁の岸』・杉本苑子/追悼(105)

『孤愁の岸』の作家・杉本苑子さんが、5月31日、老衰のため死去した。
91歳だった。

Photo_4 東京生まれ。文化学院卒業後、サンデー毎日の懸賞小説に応募したのを機に、選考委員だった吉川英治氏に師事。ほぼ10年間吉川氏のもとで文学修業を積み、昭和38年、幕府から治水工事を命じられた薩摩藩士の苦悩を描いた「孤愁の岸」で直木賞を受賞した。豊富な歴史知識をもとに、古代から近世まで幅広く描いた。
 53年に「滝沢馬琴」で吉川英治文学賞、61年に「穢土荘厳(えどしょうごん)」で女流文学賞。平成14年には文化勲章と菊池寛賞を受けた。生涯独身を貫き、著作権を含む全財産を静岡県熱海市に寄贈すると表明していた。
作家の杉本苑子さんが死去 91歳 「孤愁の岸」「滝沢馬琴」など歴史小説

『孤愁の岸』は、江戸時代に美濃国の揖斐川、長良川、木曽川の3川の治水難工事を成し遂げた薩摩藩士(薩摩義士)を描く。
いわゆる木曽三川が乱流する地帯は、輪中という治水・水防のしくみで有名である。
記憶しているのは、1976年(昭和51年)9月12日に、岐阜県安八郡安八町で長良川が決壊して大被害を生じた「安八水害」がある。
輪之内町などの地名が、輪中を彷彿とさせる。
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この辺り一帯を視察旅行したことがあるが、天気の良い日だったので、水害の様子をイメージすることが難しかった。

杉本さんは、吉川英治の唯一の弟子と言われるが、『孤愁の岸』は直木賞受賞作。
雄藩を消耗させるという狙いもあったと言われる「お手伝い普請」であるが、中心人物は薩摩藩の工事責任者である家老平田靭負である。
昔、鹿児島の仕事に携わっていた時があり、何代目かの末裔と会ったことがある。

1753年(宝暦3年)12月25日江戸幕府老中・西尾忠尚は薩摩藩に命じて濃尾地方の木曽川、長良川、揖斐川の3河川の治水事業にあたらせた。これは幕府の、雄藩をあまり富裕ならしめないための政策手段でもあったが、この3河川は、その流域が今日の長野、岐阜、愛知、三重、滋賀の五県にわたり、とりわけそのうち南北15里、東西2里では、多くの本支流が交錯し、容易ならざる難事業であった。そのうえ寛保年間以後、11年間にわたって洪水が頻発し、惨状を呈していた。
そのために幕府の厳命、督促は猶予がなく、薩摩藩は死力をつくしてこれにあたった。藩主島津重年の命によって家老平田靱負正輔、大目付伊集院十蔵久東らが工事を担当し、留守居山沢小左衛門盛福、普請奉行川上彦九郎親英らとともに、美濃国大牧村を本陣として、1754年(宝暦4年)2月5日から工事に着手し、5月22日ひとまず工事を中止し、同年9月21日さらに勘定頭倉橋武右衛門が参加し、翌1755年(宝暦5年)3月28日ついに工事を完成し、幕府目付牧野織部、勘定吟味役細井九郎助らあらたに江戸からくだった検使は、地元の検使とともに、同年4月16日から5月22日まで、一ヶ月余にわたって本検分をすませた。
薩摩藩はこの工事で、数十万両もの莫大な経費を負担した。幕府側の妨害工作などによる過労のため病となり生命を落としたり、あるいは横暴な幕府側への抗議のために切腹して果てる者を多数出した。総奉行平田靱負は工事完遂を見届け、この難事業の責任を取る形で切腹した。藩主重年も後を追う様に病没した。
1938年(昭和13年)に、平田靱負ら85名の「薩摩義士」を、「祭神」に『治水神社』(岐阜県海津市海津町油島)が建立された。
Wikipedia・薩摩義士

近年、治水工事の実相や義士の顕彰運動を見直す動きもあるようだ。
治水は、右岸と左岸、上流と下流で、利害が相反するので、単純な見方はできず、多くの人の関心を引き起こし、層の厚い研究が求められる。
『孤愁の岸』は、治水に対する関心の喚起という意味でも重要である。
91歳は大往生と言えよう。
合掌。

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2017年4月26日 (水)

映像世界のパラダイムシフト・松本俊夫/追悼(104)

映像作家の松本俊夫さんが12日、腸閉塞のため、東京都内の病院で死去した。
85歳だった。葬儀は、家族による密葬で行われる。

 東大卒業後、ドキュメンタリーの世界に入り、「西陣」「石の詩」など前衛的作品を発表。67年の「母たち」でベネチア国際記録映画祭のグランプリを得た。69年、ピーター(池畑慎之介)さんを主演に迎えて新宿の先端文化を生きる若者を描いた「薔薇の葬列」で劇映画に進出。88年には夢野久作の長編小説を原作に桂枝雀さん主演の「ドグラ・マグラ」を監督した。70年の大阪万博では「せんい館」の映像を担当。実験映画やビデオアートなど多彩な作品を残した。
映像作家の松本俊夫さん死去 「薔薇の葬列」「母たち」

私の同僚に、九州工科大学の画像設計工学科の出身者が何人かいた。
いずれも個性的で、一家言を持っていた。
密かにどんな教育が行われてきたのか、興味を抱いたことがある。

同大学は、現在、九州大学に統合されている。
設立時のコンセプト策定には、梅棹忠夫さんなども関わっていて、ユニークな大学だった。
九州大学のような総合大学の一学部となることは、メリットもあるだろうが、失うものも多いような気がする。

松本さんは、作家でありかつ批評家でもあった。

 1969年に初の長編劇映画『薔薇の葬列』を発表して、センセーションを巻きおこした。当時、大島渚と今村昌平をトップランナーとしてきた日本映画に、従来とはまったく異なる映画の作り方があることを示し、世界映画の最前線に並んだのだ。
 題材は古代ギリシャのエディプス神話で、主人公を現代日本のゲイボーイにして、原作の有名なドラマを、母を殺し父と交わる物語に転換してしまった。主役を演じたのは、映画初出演の美少年ピーター(後の池畑慎之介)だった。
 だが、それ以前に松本俊夫は、実験的記録映画の旗手であり、さらに、日本の映画理論の水準を格段に高めた批評家として知られていた。私はそのころ中学生だったが、松本の批評集『映像の発見』と『表現の世界』を読み、映画を見、文学を読み、芸術を享受することの根源的な意味と、それを言葉で論理的に説明するやり方を教わった。当時の芸術を志す若者への松本の影響力の大きさは、今では信じられないだろう。
 だが、ここへ来て、松本俊夫の再評価の波が大きく起こっている。気鋭の映画監督・筒井武文は10年かけて、なんと11時間40分のドキュメンタリー『映像の発見=松本俊夫の時代』を昨年完成したし、全文業を網羅する『松本俊夫著作集成』(全4巻)がついに刊行されはじめた。
【書評】学習院大学教授・中条省平が読む『松本俊夫著作集成I 一九五三-一九六五』(松本俊夫著)

私は昔『映像の発見―アヴァンギャルドとドキュメンタリー』三一書房(1963年)を読んだことがあるが、残念ながら継続的にウォッチングしてこなかった。

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東京新聞4月25日

鬼才も安らかに眠るのだろうか。
合掌。

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2017年4月15日 (土)

高度成長期の歌姫・ペギー葉山/追悼(103)

 「ドレミの歌」「南国土佐を後にして」で知られる歌手のペギー葉山さん(本名・森シゲ子さん)が12日午前、都内の病院で死去した。
83歳だった。

Ws000000ペギー葉山さんは東京都出身で、昭和27年にレコードデビューしました。昭和33年には、NHK高知放送局の依頼で歌った「南国土佐を後にして」が、ふるさとを離れて働く人たちの望郷の歌として大ヒットしました。
その後も「ドレミの歌」や「ラ・ノビア」、「学生時代」など幅広いジャンルのヒット曲で人気を集め、昭和41年のNHK紅白歌合戦では紅組の司会を務めました。
また平成17年に亡くなった俳優の根上淳さんと仲のよいおしどり夫婦として知られ、根上さんの闘病生活を支えてきました。
その後も平成19年に、女性として初めて日本歌手協会の会長に就任するなど第一線で活躍し、おととし3月、放送文化賞を受賞しています。
所属するレコード会社によりますと、ペギー葉山さんは最近まで活動を続けていましたが、10日に東京都内の病院に入院し、12日昼前、肺炎のため亡くなったということです。
ペギー葉山さん死去 「ドレミの歌」「学生時代」など

 「ドレミの歌」や「南国土佐を後にして」は、私もよく歌った。
伸びやかな高音で歌うペギーさんのようにはなかなか歌えないが、気持ちが良くなる宇多田。
Wikipediaより略歴をピックアップしてみよう。

1960年、オーストラリア・ゼネラルテレビの招きで、テレビ番組『今宵のメルボルン』に1か月間レギュラー出演する。
同年の8月にはロサンゼルスの日米修好百年祭に日本人代表として招かれる。この際にミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』を鑑賞。帰国後、自身の作詞で同ミュージカルの劇中歌「ドレミの歌」をペギー自身の訳詞で紹介した。ペギーの訳詞・歌唱による「ドレミの歌」はNHK「みんなのうた」でも使用され、音楽の教科書にも掲載されるなど、広く知られている。
しかし、生来病弱であったことに加え、その人気による過密スケジュールから、1963年の春に気胸を患い半年間の療養を余儀なくされたが、病気療養中に「ラ・ノビア」もヒットしたことも幸いし、ブランクをものともせず無事復帰した。また、復帰翌年の1964年には「学生時代」がロングセラーとなり、人気の健在ぶりを示した。
1965年に俳優の根上淳と結婚、1968年には長男を出産している。根上とは、芸能界きってのおしどり夫婦で知られ、1998年に根上が糖尿病の合併症から来る脳梗塞で倒れてから2005年に亡くなるまで歌手業の傍ら在宅介護を続けた。

東京新聞のコラム筆洗に「ドレミの歌」訳詞のエピソードが紹介されている。
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どうも高度成長期の記憶とオーバーラップする。
暗い時代が続いているが、これが常態と思うべきなのかも知れない。
合掌。

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2017年4月 7日 (金)

ことばの魔術師・大岡信/追悼(102)

大岡信さんが亡くなった。
幅広い文芸のジャンルで活動した詩人・評論家だった。
私は大岡さんの世代の何人かに親しくさせていただいていたので、何度か酒席を共にさせていただいたことがある。
著名な詩人にもかかわらず、たいへんフランクで楽しい人柄だった。

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静岡新聞4月6日

 31年、歌人大岡博の長男として現在の静岡県三島市に生まれ、旧制沼津中在学中から詩を書き始めた。旧制一高を経て、東大国文学科在学中の51年、日野啓三らと同人誌「現代文学」を創刊。53年、読売新聞社に入社し、外報部勤務のかたわら詩作を続け、54年に川崎洋や茨木のり子らの詩誌「櫂(かい)」に加わった。55年に「現代詩試論」を刊行し、批評家として頭角を現す一方、56年の第1詩集「記憶と現在」でみずみずしい作風が注目された。
 63年に退社後、本格的な創作活動に取り組んだ。主な詩集に「水府 みえないまち」「草府にて」「春 少女に」(79年無限賞)、「故郷の水へのメッセージ」(89年現代詩花椿〈つばき〉賞)、「地上楽園の午後」(93年詩歌文学館賞)など。古今東西の文学・芸術の知識に裏打ちされ、豊かな叙情をたたえた作品群は戦後詩史の中で重要な地位を占める。
 評論活動では伝統的な詩歌の世界に目を向けた。主な評論集に「蕩児(とうじ)の家系」(69年歴程賞)、「紀貫之」(72年読売文学賞)、「うたげと孤心」「詩人・菅原道真」(90年芸術選奨文部大臣賞)など。
 和歌や俳句から歌謡や漢詩、近・現代詩に至るまで多彩なジャンルの詩歌を取り上げた人気コラム「折々のうた」を79年1月に始め、詩歌の魅力を広く読者に伝えた業績で80年に菊池寛賞。コラムは休載をはさみながら07年3月まで計6762回続いた。
 連歌や連句の伝統を踏まえながら詩を共同制作する「連詩」の創始者でもある。実相寺昭雄監督の映画「あさき夢みし」の脚本、武満徹らとの歌曲の共同制作、丸谷才一や井上ひさしらとの連句の会、放送劇や戯曲など活動は多方面にわたった。
 明治大や東京芸術大の教授を務め、89~93年に日本ペンクラブ会長、01~07年度に朝日賞選考委員。95年恩賜賞・日本芸術院賞、96年マケドニアの国際的なストルガ詩祭で金冠賞、97年朝日賞と文化功労者、02年国際交流基金賞、03年文化勲章、04年には仏レジオン・ドヌール勲章オフィシエ。
詩人の大岡信さん死去 朝日新聞コラム「折々のうた」

1931(昭和6)年は満州事変の年だ。
終戦が14歳。
ものごころついてから多感な少年期を戦争と共に過ごしていたことになる。
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東京新聞4月7日

戦争の記憶を持った人が去って行く。
それと同期するように、教育勅語が、否定はしないという議論を含め、肯定論するような論調が高まっている。
共謀罪の審議も始まった。
処女詩集のタイトルは『記憶と現在』。
この国の自分の「記憶」を振り返りつつ、「現在」に心を痛めていたのではないだろうか。
合掌。

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2017年2月18日 (土)

現代の艶歌・船村徹/追悼(101)

「別れの一本杉」「王将」「矢切の渡し」など多くのヒット曲を生んだ作曲家の船村徹さんが2月16日、死去した。
84歳だった。
東京新聞に評伝が載っている。
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まさに五木寛之さんの『艶歌』の世界だ。
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主人公「艶歌の竜」のモデルは、馬淵玄三というディレクターであるが、いま艶歌の作曲と言えば、船村さんが群を抜いた存在ではなかったかと思う。
東京新聞の朝刊コラム「筆洗」が船村節を体現したような文章だ。
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Wikipedia・船村徹に次のようなことが書いてある。

船村の代表曲のひとつ『矢切の渡し』は元々ちあきなおみに提供した楽曲だったが、細川たかしが歌ったものがヒットし、第25回日本レコード大賞を受賞した。しかし、船村は細川盤のほうがヒットしたことに対して「大複雑」と発言し、「ちあきの歌は(楽曲のイメージの)手漕ぎの櫓で、細川の歌はモーター付の船だ。」という評価を下している。また、ちあきの歌は「鑑賞用」なのに対して、細川の歌は省略法でありカラオケのような誰でも歌える歌い方になってしまっているとも発言している。
美空ひばりに関して、高音(裏声)に良いものを持っていると発言しており、実際に船村がひばりに提供した作品には、高音部分がある楽曲が多い。ただし、母の喜美枝には「苦手だからやめて」と拒否されていた。また、船村自身が高く評価しているちあきなおみと美空ひばりを対比し、「美空ひばりとちあきなおみの決定的な違いは、裏声の出るか出ないかだ」とも発言している。

私にとっては懐かしい唄の数々である。
ちあきなおみや美空ひばりは、まさに艶歌の歌い手ではないだろうか。

ちあきの義兄である宍戸錠は「ちあきの歌の上手さはハンパじゃないんだよ。好き嫌いはあると思うけど、俺は美空ひばりより上手いと思うね。ありとあらゆる流行歌、英語の歌も含めて、ちあきにかなう歌手はいないよ。リズム&ブルースでもゴスペルでもないんだけど、ちあきは心にその二つの精神を持っている。びっくりするぐらい上手い。」と語っている。
Wikipedia・ちあきなおみ

艶歌の時代も終わりということだろうか。
合掌。

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2016年11月27日 (日)

キューバ革命のレジェンド・カストロ/追悼(100)

キューバ共和国の首相、大統領を務めたフィデル・カストロ前国家評議会議長が90歳で死亡した。
冷戦中の1950年代にキューバ革命で中心的役割を果たした後、49年間にわたりキューバを統治した。
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日本経済新聞11月27日

カストロの評価は立場によって極端に割れている。
支持者からは、アメリカその他世界中の政治的大国に立ち向かい社会主義者の理想のために戦った英雄としてもてはやされ、批判者は、国民に対して数え切れぬほどの人権侵害を犯し、キューバ経済を崩壊させた独裁者として見られた。

トランプ次期アメリカ大統領は後者の代表であろう。

キューバのカストロ前国家評議会議長が死去したことについて、キューバとの歴史的な国交回復に踏み切ったアメリカのオバマ大統領は哀悼の意を示す声明を発表しましたが、国交回復を批判してきたトランプ次期大統領は、「残虐な独裁者が死去した。キューバ国民が自由を得られるよう全力をあげる」とする声明を発表し、対照的な反応を見せています。
カストロ氏死去 オバマ大統領とトランプ氏 対照的な反応

キューバの地政学的なポジションと革命指導者という立場から、カストロの評価に毀誉褒貶が入り混じるのは不可避であろう。

カストロ時代の統治では、全国共通の医療制度や教育といった社会改革を始めたことで賞賛されている。2011年にはキューバの識字率は99.8%だったとみられる。
2006年、当時のロンドン市長だった左派政治家ケン・リビングストンは、カストロの社会改革を賞賛している。「驚くべきことに、ほぼ半世紀にわたってアメリカから不法な経済制裁を受けていた国で、国民に最高の標準的な医療制度とすばらしい教育をもたらしたことだ」と、リビングストンは語った。「経済戦争の真っ只中で実行したのはフィデル・カストロの偉大さの証だ」
しかし、カストロが政権の座に就いていたおよそ50年の間、彼はキューバ国民に絶対の服従を求めていたとも言われている。そして、彼はこの間、報道の自由を弾圧し、反体制派の活動家、芸術家、LGBTコミュニティに属する人々など、自分が「反社会的」だとみなした人々を投獄していた。
「ほぼ50年にわたって、キューバ国民たちは、自由な表現、プライバシー、結社、集会の開催、政治・社会活動、法の適正な手続といった基本的人権を、組織的に奪われていた」と、人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは2008年に報告している。「政治的服従を強めるために使われた戦略には、警察からの警告、監視、短期間の留置、自宅監禁、旅行の制限、刑事起訴、そして、政治的な動機による解雇などがあった」
カストロは、数千人の政治犯を投獄したと考えられている。彼が政権を握っていた約50年間で、100万人以上のキューバ人たちが祖国から難民となって逃亡した。
フィデル・カストロ――波乱に満ち、光と影が交差したキューバ革命指導者の生涯

光が強ければ影も濃い。
カストロの死とトランプの登場は、世界史の枠組みの転換を暗示しているようだ。
特に中南米諸国にどう影響するか?
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日本経済新聞11月27日

世界が不安定化する要因が増えそうである。
キューバにとってのみならず、1つの時代が終わったのだと思う。
合掌。

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2016年10月28日 (金)

古代オリエント史学・三笠宮崇仁親王/追悼(99)

昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父である三笠宮崇仁親王が10月27日朝、東京都内の病院で薨去された。
明治以降の皇族では最長寿の100歳だった。
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東京新聞10月28日

三笠宮親王は、1915年(大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四皇男子として誕生した。
「三笠宮」の宮号は、1935年(昭和10年)12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、奈良市の三笠山にちなんで命名された。
お印は若杉。
長男・寛仁様、次男・桂宮様、三男・高円宮様の3人の子息がいたが、すでに亡くなられている。
9人の孫と4人の曾孫がいる。

三笠宮親王は、戦時中は旧日本軍の大本営参謀などを務め、陸軍参謀として中国・南京にも派遣された。
お印にちなんで「若杉参謀」の名を用いた。
次のような逸話が、Wikipediaに紹介されている。

日中戦争当時、進駐先で、事態が未だに解決しない理由について全員(およそ200人)に自由記述で答案を書かせた後、“日本人が真の日本人たり得ていないから”と答えた一人のみを及第判定。「そのとおりだ。皇軍がその名に反する行為(暴行略奪など)をしている、これでは現地民から尊敬などされるわけがない。今の皇軍に必要なのは装備でも計画でもない、“反省”だ。自らを顧み、自らを慎み、一挙一動が大御心に反していないかを自身に問うこと」と部下達を叱りつける。居並ぶ一同は三笠宮の叱咤に言葉がなかったという。

開明的な皇族だったと言えよう。
『紀元節についての私の信念』(「文藝春秋」59年1月号に次のように書いている。

日本人である限り、正しい日本の歴史を知ることを喜ばない人はないであろう。紀元節の問題は、すなわち日本の古代史の問題である。
・・・・・・・
昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史――それは華やかではあるが――を信じた人たちは、また勝算なき戦争――大義名分はりっぱであったが――を始めた人たちでもあったのである。もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人としてこれらのことには大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている。

2015年3月の参院予算委で、「八紘一宇」という戦前・戦中のスローガンを唐突に持ち出し、「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と言ってのけたのけた三原じゅん子議員は、この言葉をよく読んでみた方はいい。
おりしも天皇の生前退位に関する有識者会議の議論が始まったところである。
三笠宮親王は、生前退位については、基本的人権の問題として考えていたと言われる。
動乱の時代を生き抜いたが故に、平和の尊さを知っておられた。
言葉通り、「昭和は遠くなりにけり」という気がする。
合掌。

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