京都彼方此方

2016年11月28日 (月)

足利義政と銀閣寺/京都彼方此方(12)

京都では、西より東の方が馴染みがある。
銀閣寺にはかれこれ数え切れないくらい行っているが、それも昔のことだ。
直近では、2年前の紅葉シーズンが最後である。
銀閣寺(東山慈照寺)は、室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられた。 

華やかな金閣寺とは対照的に、いかにも侘び・寂を感じさせる佇まいである。
京都に17か所ある世界文化遺産の一つである。
京都五山第二位の格式を誇る禅寺・相国寺の境外塔頭(相国寺の境内の外にある相国寺に所属する小院)である。
金閣寺(鹿苑寺)も同様に相国寺の境外塔頭である。

疎水沿いの「哲学の道」の起点(終点)が、銀閣寺道バス停付近の白川通今出川交差点である。
京都学派の哲学者・西田幾多郎や田辺元らが好んで散策したことから名付けられた。
思索しながら歩くには好適であるが、最近は観光客で賑わっているので、思索に向かないかも知れない。
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エントランスは、「銀閣寺垣」で誘導される。
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「銀閣寺垣」は、低い石垣、低い建仁寺垣、それに樫、椿などの常緑樹の高い生垣からなっているが、左右の造りが異なっている。
国宝の銀閣(観音殿)は、一層目の心空殿は書院風の建築様式で、二層目の潮音閣は花頭窓をしつらえた唐様仏殿の様式の建物である。
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花頭窓は炎をかたどった禅寺で良く見かける窓なので、当初は「火頭窓」という字が使われていたが、戦国の動乱期などがあったことなどから火は災いを連想されるので「花」という漢字が使われるようになったらしい。
建物の閣上の鳳凰は日が昇る方角・東を向いていて、観音菩薩を祀る銀閣を守護している。
ます。

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東求堂は初期書院造りの住宅建築遺構として、国宝に指定されている。
四畳半の空間は当時としては画期的なしつらえで、プライバシーか確保された小さな部屋に住むようになったのはこの頃からと言われ、これが後の書院造に発展していった。
東求堂の出現が生活様式を変えるきっかけとなったと考えられている。

本堂の前の庭園には二つの盛り砂がある。
波紋を表現した銀沙灘と白砂の円錐形の盛り砂・向月台である。
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銀沙灘は、白砂を段形に盛り上げて造られたもので、月の光を反射させて銀閣を照らすために造られたと言わる。
向月台は、その上に座って正面にある月待山から昇る月を眺めるためのものと言われている。

義政は東山にあった浄土寺という寺の墓地を没収し無断でこの地に東山殿を造営したと言われている。
造営のために民衆に多額の臨時税を課して、それを財源として東山殿の造営に暴走した。
幕府の権力が衰退すると同時に地方の武士が台頭し、情勢が不安定な時期で、義政は気の休まる東山殿という別荘を創建するために突き進んでいった。
しかし、戦乱と大飢饉で資金は集まらなかったので、京都や奈良の寺社などから優れた石や樹木を略奪したともいう。

義政は、夢想疎石が建てた苔寺(西芳寺)に憧れていた。
夢想疎石は名作庭家として知られており、苔寺を模倣して、下段を池泉回遊式庭園、上段を枯山水庭園とした。
両脇が植栽の壁で覆われていて、途中で直角に曲がる参道などは同じ様式となっている。

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2016年8月16日 (火)

大文字の送り火/京都彼方此方(11)

京都の名物行事・伝統行事「五山の送り火」の日である。
京都は生憎余り良い天気ではなく、市内からは見えないところが多かったようだ。

毎年8月16日に
 ・「大文字」(京都市左京区浄土寺・大文字山(如意ヶ嶽)。20時00分点火)
 ・「松ヶ崎妙法」(京都市左京区松ヶ崎・西山及び東山。20時05分点火)
 ・「舟形万灯籠」(京都市北区西賀茂・船山。20時10分点火)
 ・「左大文字」(京都市北区大北山・左大文字山。20時15分点火)
 ・「鳥居形松明」(京都市右京区嵯峨鳥居本・曼陀羅山。20時20分点火)
以上の五山で炎が上がり、お精霊(しょらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされる。
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Wikipedia-五山送り火

京都では「送り火」とか「大文字さん」と呼んでいる。
よく「大文字焼き」という人がいるが、ネイティブ京都人はそういう言い方はしない。
山焼きではなく、宗教的行事である。

起源は諸説あるがはっきりしない。
1.  平安初期「空海」説
かつて大文字山のふもとにあった浄土時が火事になったときに、本尊の阿弥陀仏が山上に飛来して光明を放ったと伝えられています。
この光を弘法大師(空海)が大の字型に改めて火を用いる儀式にしたという説
2、 室町中期「足利義政」説
1499年、足利義政が近江の合戦で死亡した息子・義尚の冥福を祈るために、家臣に命じて始めたとの説。
3. 江戸初期「能書家・近衛信尹」説
1662年に刊行された書物「案内者」の中に「大文字は三藐院殿(近衛信尹)の筆画にて」の記述がある。

五山の送り火も、先祖の霊を天国に送るお盆の行事である。
自らが健康で元気な毎日を送れていることに感謝し、鎮魂の気持ちでお祈りを捧げるものと言われる。
基本的には、点火された時に大声を出したり、騒いだりするようなものではない。眺める場所は鴨川などが一般的であろう。
昔、京都大学理学部の校舎の屋上に上がって見たことがある。
左大文字の如意ケ嶽(大文字山)は目の前であり、絶好のポジションだったが、今では管理が厳しくなっているというから難しいだろうなあ。
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2015年11月27日 (金)

紅葉の永観堂/京都彼方此方(10)

今年の紅葉シーズンも間もなく終わる。
紅葉の名所は全国にあるが、京都にも数多い。
先日、若い女性と話をしていて、「大覚寺がいちばん!」と言われた。
そう言えば昔流行った「女ひとり」という歌に、次のような一節があった。

京都 嵐山 大覚寺
恋に疲れた女がひとり
塩沢がすりに名古屋帯
耳をすませば滝の音
京都 嵐山 大覚寺
恋に疲れた女がひとり

作詞:永六輔、作曲:いずみたく、歌唱:デューク・エイセスである。
私も京都の紅葉について、ベスト10を考えてみた。
東福寺、三千院・・・
しかし永観堂を外すわけにはいかないだろう。

永観堂は、有名な哲学の道にある。
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哲学の道は、明治の頃、文人が多く住むようになり「文人の道」と称されていた。
その後、京都学派の哲学者・西田幾多郎や田辺元らが散策したため「哲学の小径」と云われたり、「散策の道」「思索の道」「疏水の小径」などと呼ばれた。
1972年(昭和47年)、地元住民が保存運動を進めるに際し、相談した結果「哲学の道」と決まりその名前で親しまれるようになった。

永観堂の正式名称は聖衆来迎山無量寿院禅林寺というが、中興の祖永観律師にちなみ、「永観堂」と呼ばれている。
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http://www.eikando.or.jp/keidaizu.pdf

例年、紅葉シーズンは大変な人出である。
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境内の与謝野晶子の歌碑が有名である。
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秋を三人椎の実なげし鯉やいづこ池の朝かぜ手と手つめたき

明治33年(1900年)11月、晶子は山川登美子、与謝野鉄幹と共に永観堂で紅葉を賞でた。
晶子と登美子とはそれぞれに若い師鉄幹に思いを寄せていたライバルであった。  
登美子は義理人情のしがらみの中で郷里の男と結婚せざるを得なくなって、晶子は鉄幹と結ばれた。
遠く若狭へ去った登美子を思い、詠んだ歌である。
『みだれ髪』所収

その池であろう。
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2015年5月 8日 (金)

長州藩が朝敵となった戦い・蛤御門(禁門)/京都彼方此方(9)

NHKの大河ドラマ『花燃ゆ』は、松蔭が主人公の第一幕から、いよいよ松蔭亡き後の幕末の動乱期に変わったところである。
そうなれば、京都舞台の比重も高まるのではないか?

去年の11月、TVで永観堂の紅葉を映していたのを観て、「そうだ 京都、行こう」とJR東海のコピーに乗せられたような気持ちになった。
行きたいとなると、是が非でも行ってみたくなる性分で、三島始発の朝一番のこだまで出かけた。
発症以降ムリはしないという基本方針ではあるが、インターネットで宿を探し、奇跡的に1部屋を確保できた。

その宿が、京都ガーデンパレスというホテルで、御所の禁門(蛤御門)のすぐ前であった。
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その時は、大河ドラマのことなど頭になく、朝広々とした御所の中を丸太町まで歩いた。
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いずれ放映されるであろうが、『花燃ゆ』の主人公・文の結婚した久坂玄瑞が戦闘に倒れた「禁門(蛤御門)の変」が戦われた場所である。

前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615年)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件であった。
大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、尊王攘夷派は真木保臣ら急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させることとなった。一方、長州掃討の主力を担った一橋慶喜・会津藩・桑名藩の協調により、その後の京都政局は主導されることとなる(一会桑政権も参照)。
禁門の変後、長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征討が行われるが、その後も長州藩の政治的復権をねらって薩長同盟(1866年)が結ばれ、四侯会議(1867年)においても長州藩処分問題が主要な議題とされるなど、幕末の政争における中心的な問題となった。
「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」の名称は、激戦地が京都御所の御門周辺であったことによる。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、今も門の梁には弾痕が残る。
Wikipedia-禁門の変

戦いに敗れた長州藩は、御所に向かって発砲したことなどから朝敵となった。
長州藩兵は履物に「薩賊会奸」などと書きつけて踏みつけるようにして歩いたといわれる。
現在でも、会津と長州には確執があるというが、そんなことはないという人もいて、まあ人それぞれだろう。
観光のためのヤラセの部分が大きいようだ。

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2014年9月22日 (月)

水神を祀る貴船神社/京都彼方此方(9)

名水で知られる柿田川公園に、水神を祀る貴船神社がある。
貴船神社は全国に約450社あるといわれるが、総本社は京都市左京区にある。
水の神様として、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めている。
京都の市街地からは離れているので行こうという意識がないとなかなか訪れる機会がない。
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四季折々の風情が楽しめる。
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貴船神社

特に夏の川床と紅葉は有名である。
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そうだ、流しそうめん食べに行こう!

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貴船神社

和泉式部は夫との仲がうまくいかなくなって貴船神社にお詣りしたという。

ものおもへば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞみる

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貴船神社 和泉式部の歌碑

永田和宏、河野裕子『京都うた紀行―近現代の歌枕を訪ねて京都新聞社(2010年10月)に京都の歌枕の1つとして取り上げられている。

とどろきをともなふ雨は谷こめて貴船の山ゆ降りおろしきぬ(上田三四二)

螢飛ぶ貴船の沢に若かりしわれらが時間(とき)は還ることなし(河野裕子)

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2014年7月 9日 (水)

親鸞と本願寺/京都彼方此方(8)

静岡新聞、東京新聞等で連載していた五木寛之『親鸞・完結篇』が7月6日に終わった。

 十一月二十八日、朝方、つよい風が吹いて庭木が折れた。
 親鸞はその日、朝から呼吸がとぎれたり、また大きくあえいだりしながら、すこしずつ静かになり、やがて昼過ぎに口をかすかに開いたまま息絶えた。自然な死だった。
 そばにつきそっていたのは、覚信と蓮位、有房、顕智、専信、そして尋有の六人だけだった。

さすがにストーリーテラーである。
エンディングに向けて、息詰まるような展開で、朝の楽しみだった。
Wikipediaによれば、親鸞の入滅は以下のようである。

親鸞は、弘長2年(1262年 )11月28日 (グレゴリオ暦換算 1263年1月16日 )、押小路(おしこうじ)南、万里(までの)小路東の「善法院」(弟の尋有が院主の坊) にて、享年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。 流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。

私はそれから750年という節目の年に、所縁の龍谷ミュージアムや西本願寺を訪れる機会を得た。
⇒2011年11月30日 (水):龍谷ミュージアム/京都彼方此方(3)

本願寺の成立については、Wikipediaは以下のように記している。

文久9年(1272年)(親鸞入滅より10年後)、親鸞の弟子たちの協力を得た覚信尼により、「大谷」の地より「吉水の北の辺」に改葬し「大谷廟堂」を建立する。(永仁3年(1295年)親鸞の御影像を安置し、「大谷影堂」となる。)
元応3年(1321年)、「大谷廟堂」は本願寺第三世 覚如により寺院化され、「本願寺」と号し成立する。(応長2年〈1312年〉に、「専修寺」と額を掲げるが、叡山の反対により撤去する。)

本願寺は京都駅近くの一等地に、東西が併存している。
もちろん存在は学生時代から知っていたが、正直にいえば、余り関心がなかった。
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東西の本願寺がどう違うかも知らないで過ごしてきた。
2011年に西本願寺を訪ねて、その伽藍の大きさにびっくりした。
改めて本願寺の分立について引用すると、以下のようである。

関ヶ原の戦い後、かねてから家康によしみを通じていた教如は家康にさらに接近する。慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条に四町四方の寺領が寄進され、教如は七条堀川の本願寺の一角にあった隠居所から堂舎を移しここを本拠とする。「本願寺の分立」により本願寺教団も、「准如を十二世宗主とする本願寺教団」(現在の浄土真宗本願寺派)と、「教如を十二代宗主とする本願寺教団」(現在の真宗大谷派)とに分裂することになる。ただし教如の身分は死ぬまで公式には「本願寺隠居」であって必ずしも本願寺が分立したとは言い切れない。つまり形の上では七条堀川の本願寺の境内の一角に構えていた教如の隠居所(本願寺境内の三分の一を占め阿弥陀堂や御影堂もあった)を、六条烏丸に移させたにすぎない。東本願寺が正式に一派をなすのは次の宣如のときからである。
慶長8年(1603年)、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、本願寺(東本願寺)が開かれる。七条堀川の本願寺の東にあるため、後に「東本願寺」と通称されるようになり、准如が継承した七条堀川の本願寺は、「西本願寺」と通称されるようになる。
本願寺の歴史

ややこしいことである。
驚くべきことに、親鸞の実在性が確認されたのは、大正期以降のことであるらしい。
晋遊舎ムック『日本史の新常識100』(2014年7月)の「日本仏教界の革命者」の項に、次の記載がある。

 実際、明治半ばの歴史学界は親鸞の存在を否定する方向に傾いた。
・・・・・・
 大正9年(1920年)から平成の今日まで、親鸞実在の証拠が断続的に発見された。
・・・・・・
 さらに、常楽台には「親鸞木像の胎内に本人の遺骨を納めた」という伝承があった。平成20年(2008年)、根立研介京大教授の調査で、その事実も確認されたのだ。

私は親鸞の基礎資料についてはすでに研究され尽くしているかと思っていたが、とんでもない認識違いのようである。

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2013年7月16日 (火)

祇園祭と災厄祓い/京都彼方此方(7)

連日の猛暑であるが、京都の夏も殊の外暑い。
祇園祭は14日が宵々々山、15日が宵々山、16日が宵山、そして17日が見せ場の山鉾巡行となる。
京都出身で3連休を実家で過ごした人の話では、やはり大変な人出のようである。
八坂神社への参詣は諦めたと言っていた。

京都八坂神社のお祭りである祇園祭は、疫病退散を祈願した祇園御霊会が始まりだそうである。
『方丈記』の養和の飢饉の項に、惨憺たる都(平安京)の様子が描かれている。

 ついには笠を着て、足を隠し包み、立派な姿をした者、ひたすらに食料を求めて、家々を乞い歩く。途方(とほう)に暮れてさ迷いながら、歩くかと見ていれば、たちまちに倒れ伏せる。築地(ついじ)[屋根付きの土塀]にもたれ、あるいは道ばたに飢え死んだ者たちの、数さえ分からないくらいである。
 取り捨てる方法も知らないので、腐敗した死臭は世に満ちあふれ、死人(しびと)の朽ちてゆく姿、そのありさま、目もあてられないことばかり。まして、賀茂(かも)の河原などには、馬や車の行き交う道さえないほど、遺体があふれている。あやしげな賤(しず)[労働に従事するような下層の者ども、身分の低い者、賤民(せんみん)]、山がつ[木こりなど山に生計を求める労働者]さえ力尽きて倒れ、薪さえ乏しくなりだせば、頼りどころを持たない人は、みずからの家を壊して、市に持ち出して売りつける。しかし、ひとりが持ち込んだだけの値(あたい)で、一日の命をつなぐことさえ出来ないのだ。
http://reservata.s123.coreserver.jp/kobun-houjouki/houjouki-gendai.htm

まさに地獄絵のような様である。
養和というのは、治承の後、寿永の前の元号で、慌ただしい改元のため1年足らずの元号である。
治承5年7月14日(ユリウス暦1181年8月25日) 改元
養和2年5月27日(ユリウス暦1182年6月29日) 寿永に改元
慌ただしい改元は、天変地異と疫病が続いたためである。

養和の飢饉というのは以下のように説明されている。

前年の1180年が極端に降水量が少ない年であり、旱魃により農産物の収穫量が激減、翌年には京都を含め西日本一帯が飢饉に陥った。大量の餓死者の発生はもちろんのこと、土地を放棄する農民が多数発生した。地域社会が崩壊し、混乱は全国的に波及した。
・・・・・・
こうした市中の混乱が、木曾義仲の活動(1180年挙兵、1183年上洛)を容易にする遠因となっていたことも考えられており、寿永2年(1183年)5月の砺波山の戦い(倶利伽羅峠の戦い)まで平氏・頼朝・義仲の三者鼎立の状況がつづいた背景としてもこの飢饉の発生が考えられる。
しかし、こうした状況のなかで入洛した義仲軍は京中で兵糧を徴発しようとしたため、たちまち市民の支持を失ってしまった。

Wikipedia-養和の飢饉

祇園祭の由来を見てみよう。
貞観5年(西暦863年)に平安京の広大な庭園だった神泉苑で、仏教経典の読経、神楽・田楽や踊りなども行う御霊会が行われた。
しかし、疫病の流行は続いたため、貞観11年(西暦869年)に、インドの祇園精舎の疫病神「牛頭天王」を祀り、御霊を鎮めた。
やがて平安末期には疫病神を鎮め退散させるために神輿渡御や神楽・田楽・花笠踊りや山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになった。
この神仏習合の御霊会が祇園御霊会で、祇園祭の起源とされる。

祇園御霊会祇園祭は応仁の乱や第二次世界大戦で一時中断したが、平安京から1000年以上も続いている。
現在のような山鉾は、桃山時代から江戸時代にかけ祇園囃子を奏で、形造られた。
中国、インド、ペルシャなどからシルクロードを経て持ち込まれたタペストリーや京都の金襴・西陣織などの懸装品、左甚五郎作などの優れた彫刻や精緻な欄縁金具などの工芸装飾品で豪華絢爛に飾られ、「動く美術館」と称される。

京都の国際性と先進性の歴史は古い。

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2013年5月 9日 (木)

東福寺の「青々とした緑」/京都彼方此方(6)

京都で夕方時間があったので、東福寺へ行ってみた。
東福寺と言えば紅葉で有名である。
特に通天橋からの眺めは、紅葉の名所に事欠かない京都でも有数のものであろう。
子供が小さい頃、連れて行ったことがあるが、銀塩写真だったこともあって手許に残っていないので、壁紙サイトから援用する。
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http://k-kabegami.sakura.ne.jp/toufukuji/1.html

奥に見えるのが通天橋である。
仏殿から開山堂(常楽庵)に至る渓谷に架けられた橋廊で、1380(天授6)年、春屋妙葩(普明国師)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたといわれる。

拝観受付が16:00までで、境内に入ることはできなかったが、通天橋の方を覗くことはできた。
秋の紅葉は今の季節は青々とした若葉である。
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近所のおばさんが犬を連れて散歩しているのに同道して、いろいろ話を聞くことができた。
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東福寺への往還は市バスを利用した。
京都は市街地が格子状の街路になっているので、路線バスのルートも見つけやすい。2
http://www.tofukuji.jp/haikan.html

新幹線からそれほど距離はないが、緑に包まれた雰囲気でやはり京都は「いい所」と言うべきだろう。
と書いていて、「青々とした」という表現と「緑に包まれた」という表現はどうか?

5行説では、「青」が東にあたる。
四神の青竜は東の守り神である。
高松塚古墳の壁画に青竜が描かれていた。
大相撲でも青房が東である。

季節で言えば、青が春であることは、青春という言葉の通りである。
皇太子のことを東宮と言ったり、日銀総裁の黒田東彦氏の名前を「はるひこ」と読むこともこれに由来するのであろう。
⇒2013年3月 3日 (日):東宮一家の振る舞いの報じられ方/やまとの謎(83)

つまり、若い、未熟な状態が「アオ」である。
青二才とか青野菜のように、である。
そしてその実体は、緑色であることが多いが、「みどり」もまた、生まれたての状態、若々しいさまの形容である。
「みどりご」とか「みどりの黒髪」などのように。

つまり、「あお」と「みどり」は無差別だったのだろう。
有名な「あおによし」という奈良(寧楽、平城)にかかる枕詞は、「青丹よし」ということだが、薬師寺の説明で、「この色が青と丹です」と言われ、得心したことがある。
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2013年4月26日 (金)

樂美術館/京都彼方此方(5)

昨日の佐川美術館に続き、京都市にある樂美術館を訪ねた。
京都市の堀川一条東入るから少し下がった辺りにある。

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http://www.raku-yaki.or.jp/museum/access.html

美術館に入るエントランス部分である。
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ちょうど「樂歴代名品展 樂家歴代が手本として学んだ伝来の茶碗」という展示だった。
楽美術館の収蔵品は、設立時に先代・十四代覚入氏が寄贈された約1100余点である。
400余年にわたって樂家に蓄積されてきた歴代の作品と茶道具・関係資料である。
樂家各代が、手本とすべく伝えてきたもので、樂焼きのエッセンスである。
たとえば14代(先代)覚入の作品である。
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http://www.raku-yaki.or.jp/museum/collection/collection_15.html#01

まったく「わびさび」を形にするとこういうことになるのか、という感じである。
しかし、これに何かを付加して行かなければならないから、樂家に生まれるというのも楽ではない。
まさに「守破離」である。
次代の処女作も展示されていた。
十分に、「新しい樂」を予感させるものと思った。

美術館の隣の樂家(?)にちゃわん屋というのれんが掛かっていた。
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樂美術館の近くに、(一条)戻橋がある。
794年の平安京造営のときに架橋された。
橋そのものは何度も作り直されているが、場所は変わっていない。
一条通は平安京の一番北の通りであり、洛中と洛外を分ける橋でもあった。Photo_3

陰陽師・安倍晴明は、十二神将を式神として使役し家の中に置いていたが、妻がその顔を怖がったので、十二神将を戻橋の下に隠していたという。
高倉天皇の中宮建礼門院の出産のときに、母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。
このとき、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったという。
この童子は、晴明が隠していた十二神将の化身であろうと、『源平盛衰記』に書かれているという。

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2012年2月 2日 (木)

平等院/京都彼方此方(4)

今年のNHKの大河ドラマは『平清盛』である。
去年の11月に京都に行ったときはそんな情報には無関心だったが、京都には清盛ゆかりの場所が少なくない。
⇒2011年11月30日 (水):龍谷ミュージアム/京都彼方此方(3)
ドラマは始まったばかりで権力の階段を上るところまで至っていないが、やがて権力者となって栄華を極める。

しかし、「驕れる者は久しからず」で、平家は滅亡に向かう。
『平家物語』の盛者必衰であるが、その平家衰亡の足掛かりとなったのが以仁王の乱である。

後白河法皇の皇子の以仁王と源頼政が共謀して、王位奪回と打倒平家を企て、全国の源氏に平氏追討の令旨を発する。
源頼政は令旨を、源義朝の弟の新宮十郎行家(源行家)に全国の源氏へ配らせる。
以仁王の令旨が発覚し、平清盛は頼政一族が関わっていると知らず源兼綱に以仁王追補を命令するが、兼綱は以仁王を三条高倉殿から園城寺(滋賀県大津市にある天台宗寺門派の総本山)へ逃す。
頼政は嫡子の仲綱以下一族の軍勢を率いて以仁王と合流、反平氏の旗色を明らかにするが、平等院(京都府宇治市)の近くで平知盛や重衡率いる平氏の大軍に追いつかれ、宇治川を挟んで合戦となった。
優勢を誇る平氏軍は川に飛び込んで渡り攻め込んだ為、数の少ない頼政軍は次々と討ち死にした。
源兼綱、源仲綱、源仲家、源仲光ら討死。
頼政も傷を負い平等院の内に入り自害。
以仁王は奈良へ落ちる途中、藤原景家の軍勢に討たれた。
http://park17.wakwak.com/~anw/tns/yoshitsune/win/5.html

上記のように、宇治川の合戦で破れた源頼政が自害したのが、有名な宇治の平等院である。
去年京都に行った仲間は、中学校の修学旅行で訪れているようである。京都といえば修学旅行の定番であるが、私は小・中・高いずれも修学旅行で京都に行っていない。
京都市内からは少し離れている。どちらかといえば馴染みの薄い場所といえるだろう。
家族旅行で1度と学生時代に1度か2度で、余り鮮明な記憶はない。

昨年、久しぶりに平等院を訪れた。
JR奈良線宇治駅からは、リハビリ中の私でも歩いて行ける。
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http://www.byodoin.or.jp/haikan.html#access

百人一首に次の歌がある。

わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり  

作者は喜撰法師であるが、その実像は不明である。
たつみは、東南であり、下図で見るように宇治は平安京の東南に位置している。
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http://www.keihan-uji.jp/history.html

平等院の鳳凰堂は、阿弥陀如来像が安置されている中堂と、左右の翼廊、背面の尾廊からなる。
建物自体が羽根を広げた鳳凰の姿に似ていること、建物の大屋根に鳳凰が飾られていることから鳳凰堂の名前がついた。
平等院を代表する建物であり、レイアウト的にも中心である。
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http://www.byodoin.or.jp/tanbou-byoudouin.htm

側正面中央の扉を開放すると、柱間の格子は本尊の頭部の高さに円窓が開けられており、建物外からも本尊阿弥陀如来の面相が拝せるようになっている。
安野光雅さんの「洛中洛外」の平等院は、この構図で描いている(産経新聞111002掲載)。
阿弥陀如来の住する極楽浄土は西方にあると信じられており、池の東岸(あるいは寺の前を流れる宇治川の東岸)から、向かい岸(彼岸)の阿弥陀如来像を拝するように意図されたものであるといわれる。
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http://sankei.jp.msn.com/life/news/111002/art11100203510000-n1.htm

鳳凰堂が10円硬貨のデザインに用いられているので、日本人には最も見覚えがある建物の1つだろう。
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Wikipedia

その阿弥陀如来坐像の耳が、別の部材で作られていたことがわかった、と先頃報じられた。

Photo_3平等院(京都府宇治市)は14日、寄せ木造りの本尊・阿弥陀如来坐像(国宝、1053年)の制作過程で、頭部の後ろ半分を切って下にずらし、耳の位置を下げる微調整をしていたことが分かった、と発表した。寄せ木造りでは、鎌倉時代初期に運慶、快慶が芸術性を高める微調整を始めたとされていたが、同坐像の構造解明で、この手法の始まりが約150年さかのぼることになった。
平等院は「顔のバランスが悪かったため、途中で修正したのではないか」と推測する。
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同坐像の頭部から胴体にかけては、前半分、後半分とも2本ずつの角材(一辺約40センチ)で作られている。ところが、前半分は頭部と胴体がつながっているのに、後ろ半分は、頭部を一旦切り離して2センチ下にずらし、再接合していた。これによって前頭部側の耳(耳の前半分)が後頭部側より高くずれたため削り取り、別の部材を後頭部側に合わせて張り付けていた。ずらしたことで後ろ半分がくぼんだ頭頂部も別の部材で埋めていた。
寄せ木造りでの微調整について、浅湫毅(あさぬま・たけし)・京都国立博物館研究員は「造形過程における細やかな変更は、東大寺南大門の仁王像(運慶)など鎌倉時代の仏師による事例がよく知られているが、同様の微調整が定朝の頃に既に行われていたとは興味深い」としている。

http://mainichi.jp/enta/art/news/20111215k0000m040121000c.html

阿弥陀如来座像は、仏師定朝によって平安時代後期、天喜元年(1053)に造られたものとされる。
頬がまるく張った円満な顔の表情は、やさしさにあふれていて、自然である。
できあがっていた仏像の「顔のバランスの修正」とは、現代で言えば美容整形ということになろうか。癒やしを与え続けてきた仏像も、いろいろ苦労はあったんだなあと思うと、何となくユーモラスな感じもする。
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『平等院/週刊古寺を巡る13』小学館(0705)

宇治は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台である。
また冒頭に記したように、宇治川は源平合戦の古戦場として有名である。
治承4年(1180)5月、源頼政は反平家の旗を揚げこの地で戦ったが、平重衛の軍勢に敗れて平等院で自害した(『平家物語―橋合戦』)。
能の『頼政』として有名である。
頼政は、平等院内で自決するが、浄域を血で汚さないために軍扇を敷いたといわれる。
「扇の芝」として、現存する。

「橋合戦」の主要な舞台となった宇治橋は、大化2年(646)に初めて架けられたと伝えられる。
由来を記した石碑-宇治橋断碑は、日本現存最古の石碑のひとつである。

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