京都彼方此方

2012年2月 2日 (木)

平等院/京都彼方此方(4)

今年のNHKの大河ドラマは『平清盛』である。
去年の11月に京都に行ったときはそんな情報には無関心だったが、京都には清盛ゆかりの場所が少なくない。
⇒2011年11月30日 (水):龍谷ミュージアム/京都彼方此方(3)
ドラマは始まったばかりで権力の階段を上るところまで至っていないが、やがて権力者となって栄華を極める。

しかし、「驕れる者は久しからず」で、平家は滅亡に向かう。
『平家物語』の盛者必衰であるが、その平家衰亡の足掛かりとなったのが以仁王の乱である。

後白河法皇の皇子の以仁王と源頼政が共謀して、王位奪回と打倒平家を企て、全国の源氏に平氏追討の令旨を発する。
源頼政は令旨を、源義朝の弟の新宮十郎行家(源行家)に全国の源氏へ配らせる。
以仁王の令旨が発覚し、平清盛は頼政一族が関わっていると知らず源兼綱に以仁王追補を命令するが、兼綱は以仁王を三条高倉殿から園城寺(滋賀県大津市にある天台宗寺門派の総本山)へ逃す。
頼政は嫡子の仲綱以下一族の軍勢を率いて以仁王と合流、反平氏の旗色を明らかにするが、平等院(京都府宇治市)の近くで平知盛や重衡率いる平氏の大軍に追いつかれ、宇治川を挟んで合戦となった。
優勢を誇る平氏軍は川に飛び込んで渡り攻め込んだ為、数の少ない頼政軍は次々と討ち死にした。
源兼綱、源仲綱、源仲家、源仲光ら討死。
頼政も傷を負い平等院の内に入り自害。
以仁王は奈良へ落ちる途中、藤原景家の軍勢に討たれた。
http://park17.wakwak.com/~anw/tns/yoshitsune/win/5.html

上記のように、宇治川の合戦で破れた源頼政が自害したのが、有名な宇治の平等院である。
去年京都に行った仲間は、中学校の修学旅行で訪れているようである。京都といえば修学旅行の定番であるが、私は小・中・高いずれも修学旅行で京都に行っていない。
京都市内からは少し離れている。どちらかといえば馴染みの薄い場所といえるだろう。
家族旅行で1度と学生時代に1度か2度で、余り鮮明な記憶はない。

昨年、久しぶりに平等院を訪れた。
JR奈良線宇治駅からは、リハビリ中の私でも歩いて行ける。
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http://www.byodoin.or.jp/haikan.html#access

百人一首に次の歌がある。

わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり  

作者は喜撰法師であるが、その実像は不明である。
たつみは、東南であり、下図で見るように宇治は平安京の東南に位置している。
Photo
http://www.keihan-uji.jp/history.html

平等院の鳳凰堂は、阿弥陀如来像が安置されている中堂と、左右の翼廊、背面の尾廊からなる。
建物自体が羽根を広げた鳳凰の姿に似ていること、建物の大屋根に鳳凰が飾られていることから鳳凰堂の名前がついた。
平等院を代表する建物であり、レイアウト的にも中心である。
Photo
http://www.byodoin.or.jp/tanbou-byoudouin.htm

側正面中央の扉を開放すると、柱間の格子は本尊の頭部の高さに円窓が開けられており、建物外からも本尊阿弥陀如来の面相が拝せるようになっている。
安野光雅さんの「洛中洛外」の平等院は、この構図で描いている(産経新聞111002掲載)。
阿弥陀如来の住する極楽浄土は西方にあると信じられており、池の東岸(あるいは寺の前を流れる宇治川の東岸)から、向かい岸(彼岸)の阿弥陀如来像を拝するように意図されたものであるといわれる。
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http://sankei.jp.msn.com/life/news/111002/art11100203510000-n1.htm

鳳凰堂が10円硬貨のデザインに用いられているので、日本人には最も見覚えがある建物の1つだろう。
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Wikipedia

その阿弥陀如来坐像の耳が、別の部材で作られていたことがわかった、と先頃報じられた。

Photo_3平等院(京都府宇治市)は14日、寄せ木造りの本尊・阿弥陀如来坐像(国宝、1053年)の制作過程で、頭部の後ろ半分を切って下にずらし、耳の位置を下げる微調整をしていたことが分かった、と発表した。寄せ木造りでは、鎌倉時代初期に運慶、快慶が芸術性を高める微調整を始めたとされていたが、同坐像の構造解明で、この手法の始まりが約150年さかのぼることになった。
平等院は「顔のバランスが悪かったため、途中で修正したのではないか」と推測する。
・・・・・・
同坐像の頭部から胴体にかけては、前半分、後半分とも2本ずつの角材(一辺約40センチ)で作られている。ところが、前半分は頭部と胴体がつながっているのに、後ろ半分は、頭部を一旦切り離して2センチ下にずらし、再接合していた。これによって前頭部側の耳(耳の前半分)が後頭部側より高くずれたため削り取り、別の部材を後頭部側に合わせて張り付けていた。ずらしたことで後ろ半分がくぼんだ頭頂部も別の部材で埋めていた。
寄せ木造りでの微調整について、浅湫毅(あさぬま・たけし)・京都国立博物館研究員は「造形過程における細やかな変更は、東大寺南大門の仁王像(運慶)など鎌倉時代の仏師による事例がよく知られているが、同様の微調整が定朝の頃に既に行われていたとは興味深い」としている。

http://mainichi.jp/enta/art/news/20111215k0000m040121000c.html

阿弥陀如来座像は、仏師定朝によって平安時代後期、天喜元年(1053)に造られたものとされる。
頬がまるく張った円満な顔の表情は、やさしさにあふれていて、自然である。
できあがっていた仏像の「顔のバランスの修正」とは、現代で言えば美容整形ということになろうか。癒やしを与え続けてきた仏像も、いろいろ苦労はあったんだなあと思うと、何となくユーモラスな感じもする。
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『平等院/週刊古寺を巡る13』小学館(0705)

宇治は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台である。
また冒頭に記したように、宇治川は源平合戦の古戦場として有名である。
治承4年(1180)5月、源頼政は反平家の旗を揚げこの地で戦ったが、平重衛の軍勢に敗れて平等院で自害した(『平家物語―橋合戦』)。
能の『頼政』として有名である。
頼政は、平等院内で自決するが、浄域を血で汚さないために軍扇を敷いたといわれる。
「扇の芝」として、現存する。

「橋合戦」の主要な舞台となった宇治橋は、大化2年(646)に初めて架けられたと伝えられる。
由来を記した石碑-宇治橋断碑は、日本現存最古の石碑のひとつである。

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2011年11月30日 (水)

龍谷ミュージアム/京都彼方此方(3)

私の高校時代の友人が、新設された龍谷ミュージアムの初代館長に就任した。
彼の小学校時代からの仲間10人余の中に紛れ込んで、一緒に見学に連れて行ってもらった。

龍谷ミュージアムは、インドでの仏教の誕生からアジアへの広がり、日本の仏教の展開までを視野に入れ、仏教を中心とする文化財を広く公開することを通じて、仏教文化への理解を深めてもらうとともに、学術研究を推進し、その成果を社会に発信することを目指しています。
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http://museum.ryukoku.ac.jp/museum/concept.html

西本願寺の正面に位置している。
前面は堀川通りである。
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洒落た外観の建物の設計は日建設計による。
歴史ある街並みと調和のとれた端正な外観。外壁の簾は、セラミックルーバーであり、デザイン性は見た通りで京都らしさを演出しているが、同時に外壁を太陽光から守り、館内温度の上昇を抑える省エネ機能を備えている。
地下1階、地上3階建てで、約1,000㎡の展示室と約500㎡の収蔵庫を備えている。
京都市の景観条例で高さの制限(15m)があるため、地下1階を設けたそうである。
仏教の起源から現代の仏教までを概観できる展示内容を予定しているという。

今年は親鸞没後750年という節目の年である。
龍谷ミュージアム自体がその記念事業の1つであるが、開館記念展示として「釈尊と親鸞」をやっている。
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館長自らによる展示の解説を聞くという贅沢なツアーであった。

圧巻は、ベゼクリク石窟寺院の原寸大復元展示であろう。
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ベゼクリク石窟寺院は中国・新疆ウイグル自治区のトルファン郊外にある。
ベゼクリクとは、ウイグル語で「絵のあるところ」という意味だそうだ。
荒れ果てた寺院を目にして、各国の探検隊は壁画を自国で保存する決断をした。
貴重な文化財の保護の行為は、一方で散逸でもある。

かの大英博物館の収蔵品も、世界中から収奪(?)したものという見方もできる。
龍谷大学は、文学部や理工学部など全学的な協力体制で、世界各地に散らばっている断片を統合して再現した。
極彩色の壁画が石窟を飾っていたことを想像すると、幻想的な思いに駆られる。

龍谷大学というと仏教系というイメージが強いが、今や8学部9研究科を擁する総合大学である。
五木寛之さんが一時仏教史を聴講していた。
龍谷ミュージアムの開館記念講演会の基調講演を五木さんが行った。我々が訪ねたのはその直前であったが、4000席の会場が短時間の予約で埋まったそうである。
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2011年8月 7日 (日)

「花背」の思い出と往時渺茫たる長期的記憶の秘密/京都彼方此方(2)

昨日、小中学校時代の同窓会があった。
小学校区と中学校区が同一なので、基本的には9年間を共にした仲間である。もともと110人余の集団であったが、既に19人が亡くなっている。まあ、年齢相応の率かも知れないが、やっぱり寂しいものである。

事前の情報では、奈良や松本に居る人も出たいということであったが、それぞれ欠かせぬ用事ができたということで欠席となった。
中には私の発病のことを初めて聞いたと言って、驚いていた人もいるが、多くの人は、昨年退院直後の集まりの時か1月の同級生の通夜以来で、「元気になった」と喜んでくれた。
⇒2011年1月 9日 (日):同級生の死(2)

出欠席通知のハガキの情報では、同級生の1人がやはり脳梗塞に罹り、現在リハビリ入院中だとのことである。
豪快な酒飲みだったから、彼の場合もなるべくしてなった、という気がしなくもない。
私たちの年齢になると、何かしら身体の不調を訴える人は少なくない。
しかし、同窓会に出席できるだけでも可と考えるべきかもしれない。

今朝の産経新聞に、安野光雅さんの「花背」が載っていた。「洛中洛外」の第4回である。
Photo
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110807/art11080702430000-n1.htm

「花背」といえば、安野さんの絵のように、京都市の北部の山里である。
私にとっては、学生時代にスキーを初めて体験した場所であり、山好きの親友と低山徘徊した思い出の地である。
Map_2 改めて地図を見ると、鞍馬よりさらに大分奥に入っている。
これでも左京区であるから、左京区域はずい分広い。

ネットで調べてみると、スキー場はずっと前に閉鎖されてしまったようだ。
私の記憶もすでにほとんど失われていて、スキーも体育の時間に行ったのか、友人と出かけたのかも定かではない。

往時渺茫である。

そういえば、立原正秋の『春の鐘』 に花背に天魚(アマゴ)を食べに行くシーンがあった。
⇒2010年12月26日 (日):「麗し大和」と法隆寺論争/やまとの謎(21)
主人公の鳴海と多恵は京都の八条口からタクシーで鞍馬を抜け、花背峠を越える。

奥山荘についたとき雨は小止みになっていた。車からおりたら、いきなり流れの音がきこえてきた。
「あら、この音、久しぶりだわ」
多恵は流れのそばに歩いて行った。降り続いていたので水は濁っていたが、水量が多かった。流れの向かい側は急斜面の杉林で、頂上の方は靄がかかっていた。雨後の濡れた風景が日本画になっていた。

昨日といい、懐旧的な気持ちが強い。
そう言えば栗本慎一郎『栗本慎一郎の脳梗塞になったらあなたはどうする―予防・闘病・完全復活のガイド』たちばな出版(0005)に、昔の記憶を思い出したら危険信号と思え、というようなことが書いてあった。

右海馬がやられると、長期の言語的記憶というものが強化されるらしい。強化というより、記憶の奥底から浮かび上がって.くるわけである。
長期の言語的記憶というとなにやら難しいが、要するに、昔の友達のだれそれはいい奴だったとか、中学校のあの教室は懐かしいなとかいうものだ。初恋のだれそれもよく出てくる「定番」らしい。
・・・・・・
「男は昔の仲間(や初恋の人)に無性に会いたくなると死ぬ」ということわざをを知っているだろうか。実は脳梗塞にやられた作家の永倉万治が、やはり、倒れる前、昔の仲間に会いたくなって、会いに行ってしまったら倒れたという話が私にも伝わってきていた。

私は発症前にそういう気になっていたかどうか、記憶はない。
なにやら都市伝説の一種かとも思うが、身に覚えのある人は要注意。

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2011年5月 1日 (日)

安野光雅さんの描くふるさとの風景/京都彼方此方(1)

安野光雅さんの「洛中洛外」シリーズの連載が産経新聞で始まった。
第1回は、嵐山法輪寺である。

Photo_3春の嵐山はさわやかだった。狭い住宅街を抜けて車が桂川左岸へと出たとたん、青い山並みと桜、銀色の川面が目の前に広がっていた。
「ここから描こう」と椅子をとりだしたのは、有名な渡月橋からずいぶん下流の変哲もない土手の上である。
目の前に、嵐山中腹に建つ法輪(ほうりん)寺の屋根が見えた。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110501/art11050107300002-n1.htm

私は青春の6年間を京都で過ごしたが、桂川べりは余り馴染がない。
それでも渡月橋付近は何回か出かけたことがあるが、この絵の場所に立ち止まって景色を眺めた記憶はない。
安野光雅さんの描く現代の「洛中洛外図」には、今後どこがどのような視角で描かれるのであろうか。
私の馴染のある情景も含まれるに違いない。

安野さんの風景画は人を安らがせる。
過日、伊勢丹で開催されていた「安野光雅が描く「日本のふるさと情景」展」を見る機会があった。

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http://www.isetanspecial.com/anno/ 

Wikipedia(最終更新110402)による安野さんの紹介は以下のようである。

子供の頃より、画家への夢を抱いてきた安野光雅は、美術のみならず、科学・数学・文学などにも造詣が深く、豊かな知識と想像力を駆使して独創性あふれる作品を発表してきた。原色や派手な色をほとんど使わない淡い色調の水彩画で、細部まで書き込まれながらも落ち着いた雰囲気の絵を描く。

安野さんのふるさとは津和野である。
Photo_5安野さんは、ふるさと・津和野の情景の1コマを左の絵のように描いている。
津和野は山陰の小京都と呼ばれることがある。

全国に「〇〇の小京都」は多い。それらの地域が集まる団体として「全国京都会議」がある。
私の友人にも津和野出身者がいるが、森鴎外、西周等の出身地であることはよく知られている。
何故かは知らないが、知を愛する独特の風土があるのだろう。
安野さんの描くふるさとの絵は、私にも懐かしさを覚えさせるものである。いわゆる原風景というものだろう。

東北の復興プランが策定されようとしている。
どのようなプランになるかは想像の埒外であるが、私はプランの根底に安野さんの絵を置いてみたいと夢想する。
津和野と東北は遠く隔たっているが、心象の風景として共通するものがあるのではないだろうか

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