邪馬台国

2014年8月25日 (月)

「壹・臺」論争は決着したのか?/やまとの謎(96)

いわゆる「邪馬台国論争」が混迷を続けていることの理由の1つが「壹」か「臺」かという問題であろう。
「「壹・臺」論争として知られる。
⇒2008年11月24日 (月):「壹・臺」論争の帰結

「魏志倭人伝」(『三国志』「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条)には、「邪馬壹国」とあり、『後漢書』倭伝には「邪馬臺国」とある。
後漢は三国に先行するが、史書は『三国志』が先行し、『後漢書』はその後である。
『三国志』の「邪馬壹国」が正しいのか、『後漢書』の「邪馬臺国」が正しいのか?
あるいは、「壹」にしろ「臺」にしろ、われわれが馴染んでいる「邪馬台国」との関係はどう考えるべきか?

「魏志倭人伝」の古写本がすべて「邪馬壹国」と表記されていることから、1969年に『史学雑誌』に「邪馬壹国」を発表したのが古田武彦氏である。
後に『邪馬台国はなかった-解読された倭人伝の謎-』として単行本にまとめた(朝日新聞社、1971年)。
古田氏以前にも、「邪馬壹国」という表記であることは周知されていた。
例えば、内藤湖南(虎次郎)は、明治43(1910)年に発表した『卑弥呼考』において、「魏志倭人伝」に「邪馬壹国」とあるのは、『梁書』、『北史』、『隋書』などがみな「邪馬臺国」としており、「壹」は「臺」の訛ったものだとしている。

古田氏は、この通説を、根拠なき原文改訂であり、「壹」が「臺」の誤記であることの明証がない限り、「邪馬壹国」とすべきである、とした。
そして、それが「魏志倭人伝」解明のキーであり、「邪馬壹=山倭=やまゐ」として論を展開した。
これに真っ向から反論したのが安本美典氏で、『「邪馬壱国」はなかった 古田武彦説の崩壊』という著書を刊行した(新人物往来社、1979年)。
安本氏は、「壹」は「臺」の誤記であるとした。「台」は「臺」の略字である。

古田氏は、賛同者・読者の会として「市民の古代研究会」があり、1979年(昭和54年)より雑誌『市民の古代』が刊行された。
安本氏は、「邪馬台国の会」主宰し、『季刊邪馬台国』の責任編集者を務めている。
まさに宿命のライバルとも言える。
⇒008年11月18日 (火):「古田史学」VS「安本史学」

この両者は、中央公論社から出ていた「歴史と人物」誌の1992年7月号に収録されている7時間に及んだという討論をしている。
司会は、「季刊邪馬台国」の初代編集等だった作家の野呂邦暢氏が行っていたが、討論終了後急逝された。
まさに因縁の対決だった。
⇒2008年11月17日 (月):「季刊邪馬台国」

2人はその後直接話す機会を持っていないようであるが、『東日流外三郡誌』などの和田家文書の扱いなどをめぐっても激しく対立している。
第三者的に言うならば、もはや感情論のレベルのようである。
しかし、2人とも、所在地に関しては九州説の立場と言える。
古田氏:博多湾岸説
安本氏:甘木・朝倉説

ところで、「壹」か「臺」かの問題は決着したのか?
鷲崎弘朋氏(『邪馬台国の位置と日本国家の起源』新人物往来社(9609)の著者)は、「宋時代に『三国志』が版本として刊行される前に、『三国志』を引用・参照した史書に、「邪馬壹(一)国」とする表記がまったく出現していないこと、『三国志』版本が出版された以降に『三国志』を引用・参照した史書がことごとく「邪馬壹(一)国」となっていることから、陳寿のオリジナルの『三国志』は、「邪馬臺国」であった」と結論付けている。
これが、通説・多数派の立場と言っていいだろう。

ここにまったく別の視点から、解を与えたようと試みているのが、山田繁雄『「邪馬壹國」の読み、意味と所在地』牧歌舎(2005年11月)である。
著者は、大阪市中央卸売市場等に勤めていた経歴の持ち主であり、アマチュア史学者である。
韓国の言語研究家・朴炳植氏の著作『日本語の悲劇』(情報センター出版局、1986年)等を参考に、「音韻変化の法則」と「基礎単位言語」等から考究した。

著者の問題意識は以下の点である。
1.「邪馬台国」と書くこと、それを「ヤマタイコク」と読むのは正しいか?
2.「魏志倭人伝」に記載されている「南」の方角の解釈はどう考えるか?
3.「魏志倭人伝」に書かれている「余傍の国」の解釈は?

「壹」と「臺」は共に「ト」の当て字である、と言うのが著者の結論である。
「壹」や「臺」の漢字は、「ト」という音を表すために使われたのであり、それだけのことである。
つまり「ヤマト」という和語を表記するのに、中国で「壹」と「臺」を利用した。
したがって、邪馬台国の所在地は、ヤマトである、という結論であるが、果たしてどうか?

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2012年12月20日 (木)

邪馬台国と金印/やまとの謎(72)

『魏志倭人伝』を適切に解読すれば、邪馬台国は宮崎平野にあった、というのが中田力『日本古代史を科学する 』PHP新書(1202)が得た結果であった。
中田氏は、『魏志倭人伝』を前提とするという条件を設定する限り、理論的にこの結論は揺るがない、と言う。
そして、『魏志倭人伝』に続く日本古代史の記載解析は、「記紀」が中心になることも議論の余地がない、とする。

そして、「記紀」を参照とするという条件を設定すると、「記紀」に描かれた大王(天皇)はすべて実在したものと考えるべきだ、というのは必然だという。
私は、合理的な理由があれば、必ずしもそう考える必要はないのではないかとも思うが、さしあたっては、古代天皇の誰かが実在しなかったと考える合理的な理由もない。
中田氏は上記のように言って、古代の年代解析は、「記紀」を参照する限り、中田氏の示した数理考古学の結果が議論の出発点とならなければならない、とする。
⇒2012年11月26日 (月):邪馬台国と『記紀』の年代論/やまとの謎(68)
⇒2012年12月16日 (日):天孫降臨の年代と意味/やまとの謎(71)

上記を揺るがしがたい大前提とすると、3世紀半ばの日本の代表勢力として、以下の存在を考えることができる。
・邪馬台国:九州中央部の広い範囲を勢力下におく。
←唐津から宮崎平野に至る行程から
・狗奴国:邪馬台国の南方にあり、邪馬台国と争う存在。
・出雲国:神話として描かれる。アマテラスとスサノオの姉弟喧嘩から天孫降臨までの期間。

そして歴史(考古学)的事実との整合性を考えると、博多の奴国の存在がある。
金印である。
時代的には邪馬台国時代を2世紀ほど遡る。
しかし、その頃、倭国の宗主として権勢を誇った国である。

大和朝廷との係わりの記載はどこかに残されていないか?
中田氏は、神武の母方の曽祖父・海神の綿津見大神を考える。
志賀島の志賀海神社が綿津見神を祀っている。
アマテラスやスサノオの時代には、志賀島を中心に、綿津見神の勢力があったと考えられる。

同じ名前の大綿津見神は、神話の最初に登場する。
志賀島の綿津見神の先祖が大綿津見神だとすると、博多の奴国は、大和朝廷や出雲よりもずっと以前に成立したと考えられる。
「倭国の大乱」が、博多の奴国が力を失って起きた混乱だとすれば、邪馬台国は勢力伸長のために博多の奴国と血族関係を結んでも不思議ではない。

神武の父親のウガヤフキアエズはホオリ(山幸彦)と海神の娘・豊玉姫の間に生まれた。
ホオリの父はニニギであるから、神武は天孫降臨から数えて4代目である。
卑弥呼=アマテラスの時代は、天孫降臨以前であるから、綿津見国(博多の奴国)も、宗主の座からは降りたものの、まだ健在だったと考えられる。

邪馬台国は博多の奴国に代わって宗主の立場にあった。
大陸との交通の主要港は、博多から唐津に変わり、金印を賜るほどになった。
中田氏は、天孫降臨は、金印を賜った事実を意味するのかも知れない、としているが、面白い見方だと思う。

最近見た週刊新潮の連載「一の宮巡礼」の47として、海神神社が載っている(2012年12月13日号)。
対馬国一宮である。
古老の中には、「わだつみじんじゃ」と呼ぶ人もいるという。
(大)綿津見神の勢力は、対馬を含んでいた、というよりも、対馬の勢力が博多を圏域にしていたのだろうか?
121213_2
週刊新潮2012年12月13日号

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2012年12月13日 (木)

邪馬台国所在地問題の陥穽/やまとの謎(70)

邪馬台国の所在地は、大別して九州説と畿内説がある。
よく、九州説は方角は合っているが、距離に難点がある、とか、畿内説は距離は合っているが、方角に難点がある、という言い方がされる。
結局、どっちもどっちで、考古学的な発掘成果を待とう、ということになる。
しかし、邪馬台国という名前がいわゆる『魏志倭人伝』という中国の史書に登場する名前であることを考えれば、決定的な考古学的な発掘資料が出てこない限り、邪馬台国所在地を決定づけるものとはならないと思う。

混乱の第一の原因は、日本列島に上陸してからの魏使の行程の読み方にあろう。
池田宏『古代史学に対する疑問』新樹社(7706)は、アカデミズムの定説を批判する。
池田氏は『魏志倭人伝』の行程部分を次の3つに分けて検討する。

A 郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。……又南に一海を渡ること千余里、命けてかん海と日う。一大國に至る。……又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。
B 東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至。……東南のかた奴國に至ること百里。……東行して不彌國に至ること百里。……南のかた投馬國に至る。水行二十日。……南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。……水行十日、陸行一月。
C その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。

http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

池田氏は、<B>の部分について、伊都国は福岡県糸島郡前原町(現前原市)付近、奴国は博多付近が定説とされ、その他の国については意見が一致していないと書いている。
この定説について、池田氏は疑問を呈している。
古代に糸島郡や博多付近に、北九州の中心部とも推定できる集落があったことは判明しているが、だからといって倭人伝の伊都国や奴国をこの地と断定できるのか?

全くその通りであって、畿内説でいう纏向遺跡についても、3世紀中ごろに高度な集積があったことが考古学的に確認できたとしても、どうして倭人伝の邪馬台国と断定できるのか?

池田氏は、津田左右吉の『日本古典の研究』のなかの「魏志倭人伝の邪馬台国の位置について」の中の記述を取り上げる。

こヽで大切なのは方位と距離とであるが、末蘆(松浦)から奴(儺)までは、或は不弥を宇瀰とすればその不弥までは、ほゞそれが地理上の事実と一致する。
……
さうしてまた百里とか五百里とかいふ大数によって距離を記してあるこの記載からいへば、それにこのくらゐの不精確なところがあつても、怪しむに足らぬ。

伊都国に比定されている糸島半島の方角は、どう見ても東より北側であって、東南とはいえないだろう。
あるいは、唐津から前原までと前原から博多までは、だいたい同じくらいであって、5:1の記述はおかしいだろう、というのが池田氏の批判である。

一方、池田氏は上記のような事情について、次のように述べている。

 結論からいえば、倭人伝に記載されている方角距離の記録が日本列島の実地に合わない原因は、当時の倭国に「日本列島の真実の地理を洩らすべからず」とする強力な伝統政策があったからであって、それ以外にはあり得ないのである。

池田氏の批判は、中田力氏が『日本古代史を科学する 』PHP新書(1202)の説くところと一致重なっている。
中田氏は、上記のような事情を踏まえたうえで、邪馬台国を宮崎県西都付近に比定した。
⇒2012年12月 7日 (金):魏使の行程のアポリアとしての「水行十日陸行一月」/邪馬台国所在地論

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2012年12月 7日 (金)

魏使の行程のアポリアとしての「水行十日陸行一月」/邪馬台国所在地論

いわゆる『魏志倭人伝』(『魏志』巻三十・東夷伝・倭人条)の記載は、魚豢の『魏略』をベースにしたものだという。
『魏略』が成立したのは、魏の終わり~晋の初め頃といわれ、3世紀である。
日本列島にようやく小さな地方単位のまとまり(『魏志倭人伝』に記載された国)ができた頃である。
『魏志倭人伝』には、政治的な思惑などから、方位や距離に関して作為的な改変が行われているのではないか、という説もあるが、その必要性はないだろうし、あったとしても確かめようがない。

中田力氏が『日本古代史を科学する 』PHP新書(1202)において示された解釈の特色の1つは、末蘆国から伊都国への道程を、原文通りに東南方向に考えていることである。

東南陸行五百里にして、伊都国に到る。

伊都国の位置は重要である。
多数説では、伊都国を前原付近(糸島市もしくは怡土と呼ばれた福岡市西区付近)に比定する。
しかしこれでは伊都国は末蘆国の「東南」というよりも「北東」になる。
3
原文尊重という立場に立てば、中田説のように東南方向に考える立場に軍配を上げざるを得ない。

『魏志倭人伝』の行程の記載は不弥国までと以降とで変化がある。
里数で表現されていたものが日数になる。
つまりアバウトになっているわけである。

この理由は何か?
『隋書倭国伝』に、「夷人里数を知らず、ただ計るに日を以てす」とあることから、日数表現で距離を記載するのは夷人と考えて良い。
その理由を中田氏は、上級官吏が倭国の粗末な船に乗るのを躊躇したからだろうとするが、そんなところかと思う。

そこで行程である。
次の一節は、茫漠たる記述の故に、古来さまざまな解釈が行われてきた。

南、投馬国に至る、水行二十日
南、邪馬台国に至る、水行十日陸行一月

素直な読み方は、直前の不弥国から連続して読む方法であろう。
すなわち、不弥国から投馬国へは南に水行二十日、投馬国から邪馬台国へは南に水行十日陸行一月かかる。
かつてはこう読む読み方が中心であった。

しかし、そうすると不弥国から邪馬台国へは合計水行三十日陸行一月ということになる。
不弥国をどこに比定するかは別として、いずれにしても九州のどこかであれば、九州の範囲を越えてしまうのではないか?
ごく素直に読めば以下のようである。

不弥国~投馬国   水行二十日
投馬国~邪馬台国  水行十日陸行一月

この茫漠たる情報から、中田氏は、かなりの説得力を以て、「邪馬台国=西都」としているわけである。
⇒2012年11月20日 (火):「邪馬台国=西都」説/オーソドックスなアプローチ
中田氏の推論の傍証となるような記事が、雑誌「ジパング倶楽部12年12月号」(交通新聞社)に載っている。
『矢岳越え-鉄道遺産の宝庫、肥薩線のハイライト』である。

熊本県の八代駅と鹿児島県の隼人駅を結ぶ肥薩線は、車窓風景の美しい路線として知られる。八代駅~人吉駅間は球磨川の流れに沿って線路が延び、「川線」の愛称が付けられている。一方、人吉駅~吉松駅間の愛称は「山線」で、九州屈指の山岳路線となっている。

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「ジパング倶楽部12年12月」

「川線」の部分は、邪馬台国時代も街道筋であった、というのが中田氏の推論で、人吉盆地は南九州山岳地帯の中継点だったとする。
「山線」は、急勾配が連続する難路で、大畑駅にスイッチバックとループ線の両方が作られた。
山深さを示している。

私が高校時代に通学に利用していた御殿場線は、箱根を貫通する丹那トンネルが掘削される前までは、東海道本線だった。
しかし、私が通学に利用している頃には、すでに「山線」と呼ばれていた。
岩波駅や富士岡駅にはスイッチバックが設けられていたのを懐かしく思い出す。

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2012年11月20日 (火)

「邪馬台国=西都」説/オーソドックスなアプローチ

いわゆる「邪馬台国論争」は、ひところのブーム的な現象は終わったかのようであるが、まだまだ熱気は冷めていないようだ。
必ずしも網羅的に論争をレビューしたわけではないが、断面を切り取って見せたものに、渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち 』学陽書房(9710)、岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)がある。
⇒2008年11月27日 (木):「憑かれた人たち」と「珍説・奇説」

上掲2書に紹介されている説は、タイトルから受ける印象と異なり真摯な探究の姿勢のものが多いが、「邪馬台国論争」には、憑かれたように自説へのこだわりを見せる人や、ずいぶんと奇矯な説などがある。
学界の説は、九州説と畿内説に大別され、最近は考古学的な発掘の成果から、纏向などの畿内説が有力だと言われている。
⇒2009年11月11日 (水):纏向遺跡の巨大建物跡は卑弥呼の宮殿か?

しかし、私は、纏向=邪馬台国説に違和感を感じざるを得ない。
「邪馬台国」は、いわゆる『魏志倭人伝』に登場する名前であって、考古学的に所在地論争が決着するのは「親魏倭王」の金印などの決定的な遺物が発見されることが条件である。
あるいは、金印のような「動くもの」だけでは決定的な証拠足りえないというべきかも知れない。
現時点では、『魏志倭人伝』の記載をベースに、『記紀』や考古学的な知見を含め、総合的・大局的に「仮説」として考えることが、オーソドックスな立場といえよう。
⇒2009年11月13日 (金):邪馬台国と大和朝廷の関係

中田力『日本古代史を科学する 』PHP新書(1202)は、上記のような意味で、まことにオーソドックスな立場に立った古代史論であり邪馬台国位置論だと思う。
著者の中田氏は、巻末の紹介文を参照すれば以下の通りである。

1950年学習院一家の末っ子として東京に生まれる。学習院初等科・中等科・高等科を経て、76年東京大学医学部医学科卒業。78年にアメリカの西海岸にて臨床医になるために渡米。カリフォルニア大学、スタンフォード大学で臨床研修を受け、92年にカリフォルニア大学脳神経学教授に就任。96年にファンクショナルMRIの世界的権威として日本に戻り、2002年に新潟大学脳研究所・統合脳機能センター設立、センター長に就任

つまり医学畑の人である。
医学は、もちろん自然科学的に基礎を置くが、人間に対する深い理解がなければならないだろう。
いみじくもiPS細胞をめぐる山中伸弥京大教授と森口尚史東大病院特任研究員の著しい対照が、人間性の側面の重要性を示しているのではなかろうか。

著者は、自らの立場を次のように言っている。

 科学者としての私は自然科学者である。
 複雑系脳科学を専門としているが、研究の対象は人文学的命題であることが多い。
・・・・・・
 複雑系科学において最初に考えなければならないことは「初期条件の設定」である。
・・・・・・
 また、複雑系科学ではマルコフ連鎖が重要な役割を果たすと考える。・・・・・・一般に、過去を問わないという表現で教えられる理論である。
 過去を問わないということは、過去を問えないという意味でもある。・・・・・・考古学の当てはめて言えば、時間軸に沿った考察だけが許されるという意味である。
・・・・・・
 これらの原則に当てはめながら日本の歴史、特に考古学的な歴史を自然科学者として考察してみることにする。まずは初期条件の設定であるが、それは、どう考えてみても「魏志倭人伝」にあるように思える。

そして中田氏は、理論展開の規準となる「前提(postulate)」を次のように定める。
前提1 「魏志倭人伝」に書かれている記載には故意に変更された事項がない。
前提2 科学・技術の時代背景をきちんと考察する。
前提3 社会学的な意識を持ち込まず、常識的でない解釈は採用しない。

そして衛星画像を処理して考古学的に利用することを、中野不二男氏が「宇宙考古学」と命名しているが、中田氏は、衛星画像を使い、「魏志倭人伝」に記された行程を検討する。
先ず、帯方郡~末蘆国までは通説の通りで、九州上陸の場所である末蘆国を唐津近辺とする。
次に問題となるのが、「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」である。

多数説は、前原付近(糸島市もしくは怡土と呼ばれた福岡市西区付近)に比定するが、それは論理的ではない、とする。
上記の場所は、水行の方が有利であり、魏王朝の一向が陸行したとの記述に合わない。
また、方角も北東に近く、東南という記載に合わない。
1里は、それまでの記述から、約60メートルと推定される(いわゆる短里説)。
そうすれば、五百里≒30kmだから、東南方向に30kmほどのところが伊都国の地である。

こうして、伊都国、奴国、不弥国までを下図のように比定する。
Photo

「魏志倭人伝」の行程は、不弥国以降、記載の調子が変わる。

南、投馬国に至る水行二十日。
南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。

いよいよ諸説が乱立(?)する箇所である。
松本清張が『水行陸行』という小説にしたように、その前までと文章の書き方も異なるので、難解である。
中田氏は、「宇宙考古学」によって、奴国の2倍以上の戸数が扶養できる場所は、熊本付近だけであることを確認する。

そしていよいよ邪馬台国である。
水行十日で、八代市付近で上陸する。
陸行一月は、人吉盆地まで行くのが地形的にも自然である。
以後のルートは、北へ行くと熊本に戻り、南に行くと伊佐、えびの市、東へ行くと西都である。
「魏志倭人伝」によれば、邪馬台国は海岸に面している。
陸行で行くに相応しいのは、人吉からまっすぐ東へ行っても、南へえびの市に出て都築へ抜けるかしても、いずれにしろ宮崎平野、日向灘に面したところである。
Photo_2

上記の説は十分に納得的である。
西都という「都」がついた地名と有名な古墳群の存在、天孫降臨神話との親和性等である。
⇒2012年7月 9日 (月):天孫降臨の高千穂峰/やまとの謎(66)

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2011年10月31日 (月)

伊都國について/魏志倭人伝をめぐって

福岡市の元岡・桑原遺跡群で、銘文が象眼で刻まれた鉄製の大刀が出土して注目されている。
⇒2011年9月24日 (土):福岡元岡古墳出土の大刀と日本の暦/やまとの謎(38)

元岡・桑原遺跡群の位置は、魏志倭人伝に書かれている伊都國の場所である。
Photo
http://mpv21hiro.blog75.fc2.com/blog-entry-824.html
伊都國は、倭人伝に登場する国々の中でも重要な国の1つである。
『魏志倭人伝』には、次のように記されている。
東南陸行五百里 至伊都國。官曰爾支 副曰泄謨觚・柄渠觚。有千余戸 丗有王 皆統属女王國。郡使往来常所駐(『魏志』倭人伝)
原文のおよその意味は、「(末廬國から)東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。そこの長官を爾支(にし、じき)といい、副官は泄謨觚(せつもこ、せつぼこ)・柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ)という。1000余戸の家があり、世に王があり、みなは女王國に属する。帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来する時、常にここにとどまる。」ということである。

伊都国は朝鮮半島中央部の西海岸にあった、帯方郡の支配を受けていたことが「魏志倭人伝」から窺える。支配と言っても、実際の統治は伊都国の王が行っていて、帯方郡からは役人が派遣され常駐していたと言われる。帯方郡は、西暦238年から中国の魏の支配下に入ったため、3世紀の半ば頃からは倭人を巡る国際関係は一変したと言う。

『魏志倭人伝』の中で王が居たと明記されている倭の国は伊都國と女王國と狗奴國で、他の国々には長官、副官等の役人名程度しか記されていない。

漢字のの字は「神の意志を伝える聖職者」、あるいは「治める人」の意を表す。都は「みやこ」の意味だが…。
Wikipedia伊都國

通説(多数説)は、末盧國=松浦半島唐津付近、伊都國=糸島半島と考える。
Photo
http://www.iokikai.or.jp/kodai.itokoku.html

もちろん伊都國の所在地についても異説がある。
⇒2009年1月 6日 (火):珍説・奇説の邪馬台国・補遺…⑥「田川郡・京都郡」説(坂田隆)
⇒2009年1月 7日 (水):珍説・奇説の邪馬台国・補遺…⑦「宇佐移転」説(澤田洋太郎)

しかし、「週刊朝日111007」の足立倫行氏の連載「倭人伝を歩く3」の『女王国の中核は伊都国と奴国』では、2007年11月の発掘調査により、唐津市の桜馬場遺跡が末盧国の王墓と推定されたことで、末盧国=唐津市がほぼ確定したとある。
とすれば、伊都國=糸島説も確定ということになるのだろうか?

問題は次の一文である。

東南陸行五百里、伊都国に到る

坂田隆氏は、「倭人伝の行路記事で最も肝要な部分は、末盧国から伊都国への方向を述べた部分である」としている。
通説では上図に見るように、末盧国から伊都国へは、東南ではなく東北の方向である。
これをどう考えるか?

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2011年1月23日 (日)

纏向遺跡は邪馬台国なのだろうか?/やまとの謎(26)

邪馬台国はどこにあったのか?
果てしない議論が続いているが、邪馬台国の有力な比定地とされる纏向遺跡がマスコミを賑わしている。
今日のNHKスペシャルも、「“邪馬台国”を掘る!」と題して纏向遺跡の発掘成果を報じていた。

邪馬台国の最有力候補地とされ「女王卑弥呼の宮殿」とも指摘される奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、昨年9月に大量のモモの種が見つかった人工の穴(土坑(どこう))の中に、多彩な海産物や栽培植物も埋められていたことが分かり、桜井市教委が21日、発表した。卑弥呼の時代の、大量のモモと山海の幸を集めた祭祀(さいし)の状況も浮かび、市教委は「バリエーションに富んだ供物が並んだ祭祀が鮮明になってきた」としている。
http://sankei.jp.msn.com/life/print/110121/art11012117300064-c.htm

昨年9月のモモの種の発見の際には、以下のように報道された。

古代中国の道教の神仙思想では、桃は不老不死や魔よけの呪力があるとされた。3世紀末の中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」は卑弥呼が倭国(わこく)を鬼道(きどう)(呪術)で支配したと記し、鬼道を道教とみる説もある。辰巳和弘・同志社大教授(古代学)は「卑弥呼が竹ざるに桃を積み上げて祭事を行ったのではないか」と話す。
http://www.asahi.com/culture/update/0917/OSK201009170081.html

2つの記事を併せて読むと、「邪馬台国=纏向」がほぼ固まったかのようである。
NHKの放送内容は、邪馬台国探究はまだまだ続くとしながらも、纏向遺跡の発掘についてがほとんどで、九州説については、吉野ケ里にちょっと触れていた程度である。

しかし果たして「邪馬台国=纏向」で決着しそうなのだろうか。
「邪馬台国=纏向」の論拠は以下のように説明されている。

邪馬台国畿内説の候補地
■ 弥生時代末期から古墳時代前期にかけてであり、『魏志』倭人伝に記された邪馬台国の時期と重なる。
■ 当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡であり、一種の都市遺跡である。
■ 遺跡内に箸墓古墳があり、倭迹迹日百襲姫命の墓との伝承をもつが、これは墳丘長280メートルにおよぶ巨大前方後円墳である。それに先駆けて築造された墳丘長90メートル前後の「纒向型前方後円墳」も3世紀では列島最大の墳丘規模を持ちヤマト王権最初の大王墓であり各地にも纒向型前方後円墳が築造され、政治的関係で結ばれていたとも考えられている。
■ 倭迹迹日百襲姫命はまた、邪馬台国の女王・卑弥呼とする説がある。
・・・・・・
■ 3世紀を通じて搬入土器の量・範囲ともに他に例がないほどで、出土土器全体の15パーセントが駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められ、製作地域は南関東から九州北部までの広域に拡がっており、西日本の中心的位置を占める遺跡であったことは否定できない。また、祭祀関連遺構ではその割合は30パーセントに達し、人々の交流センター的な役割を果たしていたことがうかがえる。このことは当時の王権(首長連合、邪馬台国連合)の本拠地が、この纒向地域にあったと考えられる。

Wikipdeiaの纏向遺跡の項(110121最終更新)

纏向遺跡での相次ぐ考古資料の発見は、「邪馬台国=纏向」を強化ないしは決定づけるものであろうか?
上記のように、「候補地」の論拠とされるものはいずれも状況証拠というべきものである。
今回もその域に留まるものとしていいだろう。
纏向に高度な集積があったことは疑えないが、それが直ちに邪馬台国に結びつくものではない。
九州説あるいは他説も同様であると思われる。
だからこそ「果てしない」論争になっている。
決定的な物証(書証でもいいが卑弥呼の時代に直接的なものは期待しがたいと思う)が発見されるまで、邪馬台国比定地論争は論理ゲームに留まるのではないか。

先日も年末を沖縄で過ごしてきた友人が、木村政昭『邪馬台国は沖縄だった!―卑弥呼と海底遺跡の謎を解く 』第三文明社(1006)という本をプレゼントしてくれた。
沖縄滞在中に入手したものを、私が邪馬台国論争に興味を抱いているのを思いだして送ってくれたのだ。
著者は地質学者として実績のある学者であり、よくある郷土史家の身びいき的なお国自慢に傾いた説とは一線を画すものである。
いずれゆっくりと味読したいと考えている。
沖縄説も含め、まだまだ邪馬台国論争は終結しないのではないか。

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2010年11月 1日 (月)

倭から日本へ/やまとの謎(4)

古代において、日本は倭と呼ばれていたことはよく知られている。
邪馬台国論争でお馴染みの「魏志倭人伝」は、中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の略称であり、日本において一般に知られる通称である。
江戸時代の漢学者の中で『三国志』という書名を用いず『魏志』『蜀志』『呉志』などと称する慣習があったため、この通称が用いられた。
正式な名前は「『三国志』魏書東夷伝倭人条」である。

倭の由来や意味などについては諸説あるが、日本という国号が使われたのは大宝律令からであるとされる。
現在、日中関係のあり方が問われているが、古代においても同様であったようだ。
大国唐の冊封体制下から、いかにして独立性を高めるかが課題であった。
そのために、律令と年号の整備が行われた。

年号については、「大化」がよく知られているが、問題視する研究者も少なくない。
⇒2008年3月27日 (木):大化改新…①概観
⇒2008年3月31日 (月):大化改新…④否定論

年号が連続的に使われるのは、701年の「大宝」からである。
同じく律令についても、この年に「大宝律令」が整備された。
「701年」は、日本が独立を果たす上での大きなマイルストーンであったということができる。
ところが、中国側の認識はこれと違っていた。
2
徹底図解飛鳥・奈良』 新星出版社 (2008/12)
「認識のズレ」も歴史が長いという他ない。
文武天皇の時代であり、この年、倭から日本へ国号が変わったとされる。
しかし、その事情は必ずしも明らかであるとは言えないようだ。
そしてなぜか、倭も日本も「やまと」と訓じる場合があるのである。

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2010年9月26日 (日)

“やまと”の謎(1)

平城京に遷都(710年)してから1300年ということで、今年はさまざまなイベントが行われている。
平城遷都1300年祭ホームページ
私も、数年前から、古代史ファンの1人として、この節目の年に奈良の地を訪ねたいと思い、楽しみにしていた。
ところが、昨年末来の入院生活で、すっかり予定が狂ってしまった。
しかし、まだ期待を放棄したわけではない。

そんなわけで、関連資料は折に触れ目にしている。
かねてから、何で「奈良(≒やまと)」の地に古代宮都が置かれたか、という疑問を持っていた。
“やまと”の優位性は何か?

竹村公太郎『土地の文明 地形とデータで日本の都市の謎を解く』PHP研究所(0506)に、びっくりするような図が載っている。
Photo
都道府県別の、旅館・ホテルの客室数の図である。

H9年度のデータであるが、なんと奈良県が最下位なのだ。
私のイメージとこのグラフは全く合わない。
奈良といえば京都と並んで、観光のメッカである。
私は違かったが、修学旅行の定番の土地である。
ちなみに、1位、2位は、東京と北海道であり、これはまあ納得的である。
わが静岡県が3位に入っているのは意外(?)であるが、山と海に恵まれ、温泉なども多いからであろうか?

それにしても、奈良県は歴史遺産の宝庫であるはずだ。
邪馬台国の有力な候補地であるし(私は現時点では九州説であるが)、纏向遺跡の頃から、聖徳太子の頃の飛鳥や斑鳩、藤原京や平城京まで、奈良は日本古代史の重要な土地だった。

今年は、全国10の地域でエイペックが開催される。
奈良市においても、「観光大臣会合」が、9月22日、23日に終了したばかりである。
http://apec2010nara.jp/meeting/
つまり、奈良は日本を代表する観光地という位置づけである。
その奈良が、なぜ最下位?

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2009年12月16日 (水)

「卑弥呼=天照大神」説の否定論(3)母集団と標本-その2

坂田隆氏が、『卑弥呼をコンピュータで探る-安本美典説の崩壊』青弓社(8511)において展開している安本美典『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)における数理統計学の誤利用論をもう少しみてみよう。
安本氏の立論の基本は、以下のように示される。
Photo_8 ある天皇の即位年Tが既知とすると、その天皇よりn代まえの天皇の即位年τは次の式で推定できる。
Photo_12 
坂田氏は、ここで安本氏は、1つの母集団において適用すべき(3)式を、2つの母集団に対して適用するという誤用をしていると批判している。
2つの母集団とは以下の2つである。
母集団A:第31代用明天皇から第49代光仁天皇までの19代およそ200年間の天皇の在位年数。母集団の大きさは19である。
母集団U:歴史的に確実でさかのぼりうる最古の諸天皇と等質の母集団。

Photo_2安本氏は、用明天皇より前の諸天皇は、母集団「U」からの標本である、とする。
あるいは、天照大神~光仁天皇の54代の一人一人の在位年数「x」は、仮想母集団「U」からの標本である。
この(仮想)母集団「U」の大きさは、54もしくはそれ以上である。
坂田氏は、「A」と「U」は、「2つの母集団」であるにもかかわらず、「1つの母集団」に対して成立する(3)式を用いて推論するのは間違いである、と指摘している。

坂田氏は、このことを説明するために、岡田泰栄『統計』共立出版(1968)から、上掲コラムを引用している。
つまり、(5・6)式は、安本氏の式(3)と同一であるが、この式は、「1つの母集団」を前提とするもであり、安本氏の説明は、「1つの母集団」については成り立つが、安本氏は、実際には「2つの母集団」を対象としているのであって、それは重大な誤りである、ということになる。

坂田氏は、安本氏はさらに重大な誤りをしている、とする。
それは、安本氏が、“数値の知られていないものを「標本」としている”ということである。
そして、安本氏は“「母集団」の数値によって、「標本」の数値を推定している”が、数理統計学は“「標本」の数値によって、「母集団」の数値を推定する”方法であり、安本氏はまったく逆のことを行っている。

安本氏は、次のように言っている。
1.用明から光仁まで19代の天皇の在位年数を「母集団」とする。
2.用明天皇より前の諸天皇は、母集団「U」からの「標本」と考える。
つまり、安本氏は、「母集団」によって「標本」を推定しているのである。

安本氏の誤用の原因は何か?
第一に、用明~光仁の19代の天皇の在位年数を、安本氏は「母集団」としているが、これは「標本」と考えるべきである。
なぜならば、標本とは数値が知られているものであって、その標本から母集団を推定するものであるから、用明~光仁の在位年数は「標本」だとすべきである。
また、用明以前の天皇の在位年数は、数値の分からないものとして扱っているのであるから、これは「標本」ではなく、母集団の一部として考えるべきものである。

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