梅棹忠夫

2014年10月22日 (水)

知的生産のスキルとセンス/知的生産の方法(106)

梅棹忠夫さんが亡くなったのは、2010年7月だからもう4年余の時間が過ぎたことになる。
しかし、未だに梅棹さんの業績をタネにした書籍が後を絶たない、
堀正岳、まともとあつし『知的生産の技術とセンス 知の巨人・梅棹忠夫に学ぶ情報活用術』マイナビ新書(2014年9月)は、梅棹さんの『知的生産の技術』岩波新書(1969年7月)のアップデートを目指したものである。

1969年といえば、私が社会人になった年である。
当時と現在とでは、情報環境はまさに隔世の感がある。
現在のノートパソコンよりずっと厚みのある電子式卓上計算機(電卓)を、会社の課で1台購入したという時代である。
それまで実験データの解析はタイガー式と呼んでいた手回しの機械式計算機でやっていたから、格段の違いであった。

「1年半で2倍」と呼ばれる「ムーアの法則」という経験則がある。
表現にはバリエーションがあるようであり、元は集積回路の素子の集積度に関するものであるが、先端技術全般の発展法則を示すものとされる。
1969年は45年前だから、仮にムーアの法則を適用してみれば、2の30乗=約10億倍ということになる。
数字はともかく、知的生産の環境が大きく変わったのは間違いない。

私は特に「センス」の語をタイトルに入れたのが気になった。
というのは楠木建『経営センスの論理』新潮新書(2013年4月)を読んで、スキル・技術とセンスの異同について興味を覚えたからである。
楠木氏は、昨今のビジネスパーソンは「すぐによく効く新しいスキル」を求めがちであるが、スキルだけでは経営はできない、という。

 戦略を創るというのは、スキルだけではどうにもならない仕事だ。
 すぐれた戦略をつくるために一義的に必要なのは何か。それは「センス」としか言いようがない。

スキルとセンスはどう違うか?
アナリシス(分析)とシンセシス(綜合)の区別だと楠木氏は言う。
戦略の本質はシンセシスにあり、スキルをいくら鍛えても優れた経営者にはなれない。
まったく同感であるが、それではセンスを習得する方法はあるのか?

梅棹さんの『知的生産の技術』の時代と現在の違いは、端的にはアナログとデジタルの違いである。
しかし、知的生産の本質に変化はない。
知的生産の技術とセンス 知の巨人・梅棹忠夫に学ぶ情報活用術』の著者らは、センスを次のような「3極モデル」で考える。
Ws000000

要は、インプットとアウトプットの差異をもたらすものであるが、「Secret Sauce」では手の打ちようがない。
著者らは、世間に対して自分の成果を問い,それに対する評価を受けるというサイクルの繰り返しで「個人のセンス」が見えてくるというが、それでは何も言っていないようなものではないか、と思う。


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2013年8月 2日 (金)

川勝平太静岡県知事の生態史観図式論/梅棹忠夫は生きている(6)

部屋を片付けようと古雑誌を整理していたら、「文藝春秋2013年新年特別号」に目が止まった。
「創刊90周年記念」と銘打って、完全保存版とある。
そういうわけにもいかないので、保存しておきたい記事は、PDF化することになろうが、電子化するとパラパラと眺めてみるということができない。
検索パワーはずいぶんと強化され、記憶に残っていることの検索はできるが、自分で意識していないような“発見”の楽しみは、紙媒体に劣るのではないか。

上記の「文藝春秋」誌に、「激動の90年 歴史を動かした90人」という企画特集がある。
文春誌が生まれてからの90年で、世界を瞠目させた日本人を、90人の識者が書いている。
その中に、川勝平太静岡県知事の「梅棹忠夫-フィールドワークの目線」がある。

川勝氏には、『文明の海洋史観 (中公叢書)』中央公論社(1997年11月)という著書があるので、梅棹忠夫の影響を受けていることは明らかである。
川勝氏は、梅棹の『文明の生態史観』の書き出しを引用して、次のように書いている。

 この出だしの文章にすでに梅棹の面目があらわれている。音読される漢字は平易なものをのぞいて漢字のままに書かれ、訓読できる漢字はひらがなで表記される。そのために梅棹の文章は漢字が少なく、ひらがなが多いので、中学生でも読める。また、日記のごとき書きぶりであり、同時に紀行文であり旅行記である。

こう書き写してみれば、川勝氏自身、梅棹のような書き方をしようとしていることが窺われる。
川勝氏は、梅棹の学問の方法はフィールドワーク(現場での観察)であるという。
そして、フィールドワークをもとに、ユーラシア大陸で繰り広げられた歴史のパターンを、簡潔な2図にまとめたとする。
『東南アジアの旅から』で提示されているA図、B図である。

『梅棹忠夫著作集第5巻 比較文明学研究』中央公論社(1989年10月)に、『東南アジアの旅から』が収録されている。
同論文は、「中央公論」誌の1958年8月号に掲載された。
A図は以下のようである。
A

梅棹は、文化伝播の起源によってわける系譜論ではなく、共同体の生活様式のデザインを問題にする機能論で、社会を見るという立場をとる。
旧世界全体を細長い横長の楕円であらわして、左右の端に近いところで垂直線をひく。
その外側がが第一地域で内側が第二地域である。

第一地域は、塞外野蛮の民としてスタートし、第二地域からの文明を導入し、封建制、絶対主義、ブルジョワ革命を経て、資本主義による高度の近代文明を持っている。
第二地域は、もともと古代文明発祥の地域であるが、封建制を発展させることなく、巨大な専制帝国をつくり、多くが第一地域の植民地ないしは半植民地となった。

A図を修正したものがB図である。
A図の乾燥地帯の外側には、準乾燥地帯と湿潤地帯があるというのが生態学的な構造である。
そこで、その境界線を書き加えたのがB図である。
B

この図によって、東南アジアの位置がはっきりする。
旧世界の東部の湿潤地帯にある地域である。
中国世界から東南に突き出た三角形の地域は、いわゆる嶺南の地である。

梅棹自身、「こういうかんたんな図式で、人間の文明の歴史がどこまでも説明できるとは、わたしももちろん思っていない。こまかい点をみてゆけば、いくらでもボロがである」と言っている。
しかし、川勝氏は次のように書いている。

ユーラシア各地にかかわる万巻の書を読んでも、そこから得られる知識は、二図のなかに収まる。

残念ながら、梅棹忠夫はもういない。
しかし、彼の思索の跡は幸いにして多くが言語化されている。
私たちにとって、それは汲めども尽きない叡智の泉である。

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2011年8月27日 (土)

菅首相の退陣演説&記者会見の欺瞞と空虚

菅首相の民主党両院議員総会での退陣演説は、絵に描いたような自画自賛というものだろう。

菅氏は「やるべきことはやった」と胸を張り、3カ月間の政治空白を生んだことへの反省の弁はなかった。「国民が聞く耳を持たなくなった」ことを退陣理由に挙げた鳩山由紀夫前首相と同様に、責任を明確にしないままの不自然な幕引きだ。
「大震災、そして原発事故に遭遇したときの内閣総理大臣、このことは歴史の中で消えることはない」
「歴史の評価」にこだわり続けた菅氏らしく、総会では震災と原発事故の対応にも自負をにじませた。

退陣表明 独自スタイル、孤立 震災復興へ、道半ば

「大震災や原発事故に遭遇したこと」自体は、決して手柄ではない。本来ならば、遭遇以前に退陣すべきだったのだ。
誇るならば、対応の仕方であるはずだ。「歴史の評価」はいずれ明らかになるだろうが、対応のマズサは歴史を待つまでもない。
一番重要な初動において、自身がパニックに陥っていたことは、松本健一氏等が明らかにしつつある。
⇒2011年8月20日 (土):菅批判を始めた松本健一内閣官房参与
歴史などと大上段に振りかぶる必要はない。

その後の記者会見も同様である。

退陣にあたっての率直な感想は、与えられた厳しい環境のもとでやるべき事はやったという思いだ。東日本大震災からの復旧・復興、東京電力福島第1原子力発電所事故の収束、社会保障と税の一体改革など、内閣の仕事は確実に前進している。内閣としては一定の達成感を感じている。
・・・・・・
私の在任期間中の活動を歴史がどう評価するかは後世の人々の判断に委ねたい。思いが国民にうまく伝えられず、ねじれ国会の制約の中で円滑に物事を進められなかった点は大変申し訳なく思う。

菅首相、最後の記者会見 発言要旨

「与えられた厳しい環境のもとで」というのが、衆参のねじれ状態をいうのであれば、参院選の大敗にもかかわらず責任を負おうとしなかった自分の作った環境であることを棚に上げて言うのはまことにノーテンキなものだとせざるを得ない。
東日本大震災や福島原発事故のことを指すのであれば、震災の直接的な原因は自然現象であるにしても、国民の多くは、人災としての側面があると思っている。
“菅災”という言葉が使われているのをご存知ないのだろうか?

識者と言われる人たちの評価もなべて厳しい。

「点数を付けるならマイナス100点」と切り捨てるのは政治評論家の森田実氏。「内閣不信任案を否決させるため(首相を)辞めるとうそをついた」と指摘し、その後の2カ月余りを「内政も外交も全部止まり、ガタガタになった」と話す。
元内閣安全保障室長の佐々淳行氏も「(菅政権は)原発が手の付けられない状態になってから住民を避難させた。最悪の事態に備えるのが危機管理の基本なのに、原発事故の対応は犯罪に近い不作為」と厳しい。 一方、原発問題に取り組む市民団体からは「『脱原発依存』を打ち出したのは特筆すべきだ」との意見も聞かれた。

マイナス100点と酷評も 原発事故対応は犯罪に近い

まあ、森田氏は佐々氏のような玄人スジとは相性が悪いようであるから、酷評は織り込み済みであろう。
問題は、私のようなアマチュアの期待を、まったく裏切ったことである。
市民活動家というものに、私は好意的であった。
ラジカルであるかどうかは別として、運動をするにしても、セクトよりはノンセクト、という感じである。
最大の集団は無党派層らしいが、サイレントマジョリティとも言い換えられよう。

菅氏に期待したのは、ある種のアマチュアリズムである。
私は、政治を、プロつまり職業政治家の手に委ねるのはいかがなものか、と思うようになってきた。
もちろん、スジがね入りのプロの力量は恐るべきものであろう。
だからプロを評価しないということではないが、現在の国会議員等の出自をみれば、二世、官僚、労組出身者のいかに多いことか。
「商売としての政治」のような気がするのだ。

松下政経塾のようなインキュベーター機関にも、一種の危うさがつきまとう。
大本命とされる前原氏は、メール問題の教訓を生かしていないのではないか。元(?)大本命の野田氏も、その後の経緯をみれば、器ではないことが滲んでくる。

去年行われた長野県知事選が、プロVSアマの1つの図式であったように思う。
結果はプロの側の勝利であるが、安曇野にあるいわさきちひろ美術館の元館長・松本猛氏が挑んだ選挙だった。
松本氏の母はいわさきちひろさんで、父は元日本共産党衆議院議員の松本善明氏であるが、政治志向は窺えない。
⇒2010年8月 9日 (月):長野県知事選をめぐる感想

この選挙にアマチュアリズムの可能性を感じた。
⇒2010年8月10日 (火):政治におけるアマチュアの可能性
それは、佐倉統氏が評価する梅棹忠夫のひとつの側面でもある。
⇒2011年7月31日 (日):アマチュアリズム/梅棹忠夫は生きている(4)

菅氏は、このようなアマチュアリズムを期待しらのだが、それはまったくの幻想であった。
それどころか、拉致実行犯容疑者と親密な関係にある団体との間に重大な疑惑が発覚している。
思うに、「市民派」には、無党派・ノンセクトの市民派と、党派・セクトとしての市民派があるのだろう。
菅氏の大罪の1つに、無党派的市民派を偽装した党派的活動を挙げるべきだろう。
⇒2011年8月14日 (日):退陣菅内閣の「7つの大罪」論と後継内閣の責務

もっとも、偽装は退陣表明に見られるように、菅氏のお家芸ともいえる。
内閣不信任決議案の可決をタイジン偽装で切り抜けたころから、開き直ったのではないだろうか。
不信任案を可決する度胸のなかった民主党の代議士は、菅氏の居座り幇助だということを自覚すべきだ。

それにしても、6月2日の意向表明から3カ月近く、次々に新たな政策をぶち上げ、外交を含む政治空白を作った。
「この3カ月間は実りの多い政策実行の期間だった」という自賛も空しく聞こえるだけである。

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2011年8月16日 (火)

科学観と方法論/梅棹忠夫は生きている(5)

佐倉統氏の『梅棹忠夫と3・11』(中央公論1108号)について書いてきた。
サブタイトルは「私たちは科学技術とどう向き合っていくのか」である。
今、もっとも考えなければならないテーマについて、梅棹忠夫というもっとも好奇心をそそられる視点から論じられている。

例によって、勝手気ままに感想を記していたところ、当の佐倉氏からコメントをいただいた。
私のごとき者のブログにまで目を通していただき、恐縮の極みである。もちろん、誤読している可能性は大いにあるが、それも含めて1人の読者の感想として書いておきたいことを書く、というスタイルは維持したいと思う。
⇒2011年7月31日 (日):アマチュアリズム/梅棹忠夫は生きている(4) 

さて、佐倉氏は、「3・11後の科学技術」を考える際に、乗り越えるべき梅棹の思想として、次の2点を挙げる。
①梅棹の科学観
②個体差を無視したシステムにのみ注目する方法論

①の「科学観」については、湯川秀樹との対談『人間にとって科学とはなにか』中公新書(6705)に彼の科学観がよく表れている、とする。
私も、一度触れたことがある。
⇒2010年7月19日 (月):人間にとって科学とはなにか/梅棹忠夫さんを悼む(7)
佐倉氏は、この対談に表れている梅棹忠夫の科学観の特徴を、老荘思想にみる。
そして、梅棹は、基本的にニヒリストで、価値相対主義者の傾向が強い、としている。

これは、まさに梅棹自身が認めているところである。
小山修三氏を聞き手として最後に語った『梅棹忠夫 語る (日経プレミアシリーズ)』日本経済新聞出版社(1009)で次のように言っている。

わたしは基本的に老荘の徒やから、ニヒリズムがある。

佐倉氏は、梅棹のニヒリズムの表れとして、「科学的方法に限界があることを認め、人間を理解するためにはまったく不十分であるという指摘」が、現在ますます有効な示唆である、と評価する。

しかし、一方で、梅棹の科学観の限界を、エリート主義として批判する。
梅棹が、科学には訓練が必要であり、教育しなければ納得できないとして、次のように言っていることに関してである。

科学というものは、非日常的なものを考えるから科学になるのであって、日常体験の中からは科学は出てこないということですね。

佐倉氏は、梅棹のこの言葉は間違いではないが、リビング・サイエンティストならば、非日常の世界で得られた知識や自然観を、もう一度日常生活の中に投げ返す視点が必要ではないか、とする。
生活者の視線とプロのレベルの質の両立である。
佐倉氏は、“ひょっとすると”梅棹が、思想はアマチュア化できても、科学はできないと思っていたかもしれない、としている。

これは、「思想」と「科学」をそれぞれどう定義するかの問題ではなかろうか。
先端的な科学の探求そのものに、アマチュアの介入の余地がないことは当然であろう。
しかし、それが社会に対して持つ意味や評価に関しては、アマチュアが介入する余地があるだろう。場合によっては、アマチュアがイニシアティブを発揮すべき場合もあるのではないか。
それを、思想と言えば言えないこともないのではないか。

②の「個体差を無視したシステムにのみ注目する方法論」については、梅棹の議論は、情報産業論にしろ妻無用論にしろ、すべてシステムの動向であって、個体の行動や活動や生活が反映される余地がない、と批判している。
梅棹は、データを集めるときは徹底した生活者目線で、個人の水準で動き回って集める。そうして集めた膨大なデータを、一気に俯瞰してシステムとして把握する。
佐倉氏は、外部の参照点と対比して俯瞰しシステムの特性を捉えるところに、梅棹の方法論があるとしている。
情報文明論の場合、内部はテレビ業界で外部は学校や宗教活動というように、である。

佐倉氏は、その俯瞰のスキルを見事なものとして評価するが、ひとたび鳥の目を獲得してしまうと、虫の目を放棄してしまう、とする。
システムと要素の相互連関が捨象されてしまうというのだ。
そして、“例外として”初期の生態学の研究を挙げる。
それは、オタマジャクシを材料に、個体間の干渉関係から、集団の分布の特性を数理的に探究した博士論文である。

佐倉氏は、その研究に、最高級の讃辞を贈る。
しかし、「微妙な個体差が社会の構造に影響する可能性を全然考慮しないのは、あまりにも俯瞰的にすぎないか」と疑問を投げかけるのだ。
最近の「個体ベース・モデル」のコンピュータ・シミュレーションでは、微細な個体差が大きな構造の変化の原因になる場合が、決して少なくない。

確かに、いわゆる複雑系においては、ほんのわずかな条件の差異が、予想外の結果をもたらすことが明らかにされている。
いわゆるバタフライ効果ーアマゾンを舞う1匹の蝶の羽ばたきが、遠く離れたシカゴに大雨を降らせる、である。
より一般化した表現では、「初期条件のわずかな差が時間とともに拡大して、結果に大きな違いをもたらす。そしてそれは予測不可能」ということになる。

佐倉氏は、次のようにる。

科学技術と社会の関係を考えるときにも、どこの、誰が、いつ関わっているのかによって、扱いは千差万別だ。

確かに、佐倉氏の指摘しているように、原発の問題について考えれば、「どこの、誰が、いつ関わっているのか」は重要である。
あるいは、公害問題や災害問題、あるいは公共事業に係る諸問題についても同じことだろう。
言い換えれば、これらは代表的な複雑系の問題ではないだろうか。

梅棹がオタマジャクシを対象にして学位論文となる研究をしたとき、今風にいえば、複雑系に対する関心があったのではないのだろうか。
そして、佐倉氏もいっているように、その頃はツールとして手回し計算機しか使えなかった。私も学生時代に使ったことのあるタイガー式というタイプであろう。

それは時代の制約である。
梅棹の限界というよりも、研究段階の問題だと思う。
特許の要件とのアナロジーでいえば、梅棹の研究には、新規性も進歩性もあったが、進歩性は一足飛びには進まないということであろう。
⇒2007年10月23日 (火):選句の基準…③新規性と進歩性

私も、科学技術者自身に、日常生活との関わりを意識して欲しいし、意識すべきだと思う。
梅棹はその点に関しても、抜きん出た問題意識があった。
であればこそ、佐倉氏も讃辞を惜しまないレベルの研究がなされたのではないだろうか。

何よりも、博物館の思想がまさに科学技術と社会との関係を示す象徴ではないだろうか。
梅棹が批判されなければならないとしたら、民博のコンセプトや展示のコンテンツあるいは展示の方法論であるとおもう。
佐倉氏は、そのことについては、直接触れていない。

「どこの、誰が、いつ関わっているのか」は、ひと昔前の言葉でいえば「階級性」の問題でもある。
あるいは、受益者と負担者(あるいはステークホルダー間)の利益均霑の問題と言い換えることもできよう。
佐倉氏の指摘は、ひらたく言えば「専門バカ」になるな、ということではないかと思う。
それは60年代末の大学紛争のとき以来のテーマでもある。

私自身は、専門家の第一義的な責務は、「プロのレベルの質」ではないかと思う。
そして、それをとことん追求すれば、多くの領域において、社会との関わりも果たすことになるのではないだろうか。

企業の場合でいえば、CSR(企業の社会的責任)である。
メセナとかフィランソロピーも結構であるが、先ずは本業において、CSRを果たすべきであろう。
「専門もバカ」な研究者よりも、「専門バカ」の研究者の方が好ましいのではないか。

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2011年8月 8日 (月)

「3・11」と日本の「戦後」

このブログの第1回は、2007年の8月8日だった。それから満4年。
途中、発症と入院でやむを得ず中断したが、それ以外は継続している。何事にも飽きっぽい私であるが、連続出場にも価値があるという気持ちで続けてきた。

8月8日というのは私の誕生日であるが、毎年この時期になると考えさせられることがある。
8月6日と9日がわが国にとって特別の意味を持った日だからである。
いうまでもなく6日のヒロシマ、9日のナガサキと人類史上唯一、原爆が投下された日だからである。
しかし、今年は特別である。「3・11」にるフクシマの惨事が起きた年であるからである。

もちろん、原爆と原発を同一平面で論じるべきではないであろう。
核・放射能の脅威という意味では同じであるという意見もあるが、原爆は、意図的な殺傷のための兵器である。原発は平和的利用の形態であり、フクシマは意図せざる事故である。
その違いは分けて考えるべきであろう。

菅首相は6日の広島の平和式典で、「脱原発」を強調した。
日経新聞

菅直人首相は6日午前、広島市での平和記念式典であいさつし、エネルギー政策について「白紙からの見直しを進めている。原発への依存度を引き下げ、原発に依存しない社会を目指していく」と述べ、原発依存からの脱却をめざす姿勢を改めて鮮明にした。同時に「原子力についてはこれまでの安全神話を深く反省し、事故原因の徹底的な検証と安全性確保のための抜本対策を講じる」と強調した。
首相は退陣表明後、原発依存度を段階的に引き下げる「脱原発依存」の方向を打ち出したが、後に「個人の見解」と修正した。再び言及したのは、脱原発に取り組む首相の意思を内外に示すとともに、政府方針に位置付ける意欲のあらわれだ。
首相は式典で、東京電力福島第1原発事故の現状に触れ「事態は着実に安定してきている」と説明した。同時に「今回の事故を人類の新たな教訓と受け止め、世界の人々や将来の世代に伝えていくことが我々の責務だ」と主張した。
核兵器廃絶に関しては「核兵器のない世界の実現に向け、国際社会の先頭に立って取り組むと強く決意し、実践してきた」と表明。「日本国憲法を順守し、非核三原則を堅持する。核軍縮・不拡散分野の国際的な議論を主導する」と語った。
広島での首相あいさつを巡っては、首相周辺にも「原爆と原発を同列に考えるべきではない」として原発政策に触れることへの慎重論もあったが、首相の姿勢を明らかにする好機ととらえ、改めて訴えることにした。

菅首相が強調するまでもなく、事実上、原発の新規立地が認められる状況ではないであろう。
休止中の炉を再稼働させる見通しもない。
定期点検により休止した炉が再稼働できなければ、近い将来稼働している原発施設はゼロになる。
すなわち原発なき社会は否応なくやってくる可能性が高いだろうと考える。

しかし、菅首相の演説には違和感を感じざるを得ない。
発言に一貫性がないこともさることながら、平和式典を政治利用する姿勢が馴染めない。
学習院大学教授・井上寿一氏は産経新聞の「正論」欄で、『震災下の8・15』で次のように書いている。

戦後の日本は矛盾を抱えて再出発する。科学技術立国の立場から原子力の平和利用(原子力発電)に積極的であると同時に、絶対平和主義の立場から反核運動を展開したからである。
矛盾はもう一つあった。冷戦状況の進展の中で、敗戦国日本は戦勝国アメリカに依存しながら独立した。アメリカの核の傘に守られる「唯一の被爆国」の矛盾の現実があった。
戦後日本は矛盾を矛盾として意識せずに済ますことができた。原発が象徴する科学技術によって、高度経済成長が可能になったからである。近代以降の歴史において、日本社会は初めて格差縮小へ向かう。国民は「一億総中流」意識を持つようになった。
経済発展を重視する国家再建路線は、日米安保条約における軍事負担の対等性の回避を志向する。基地貸与と駐留米軍の経費負担以上の関与はしない。アメリカに向かってそう言うとき、憲法9条は有用性があった。
アメリカの核の傘に守られる「唯一の被爆国」日本の矛盾とは、憲法9条と日米安保条約を同時に受容することの矛盾でもある。戦後日本はこのような矛盾のなかで、経済成長と平和を追求し続けることができた。
東日本大震災によって、図らずも日本はこれらの矛盾を露呈する結果となった。

「3・11」はわが国の「戦後」のあり方を改めて問うものであった。
佐倉統氏は、それを「大阪万博パラダイム=梅棹忠夫の時代」と言っている。
⇒2011年7月27日 (水):大阪万博パラダイム/梅棹忠夫は生きている(2)
私は、大阪万博パラダイムは「戦後」の一側面であるし、梅棹忠夫の思考の射程は「戦後」を超えていると思う。

「3・11」は、井上氏の言うように、「戦後の日本が抱えていた矛盾」をあぶりだした。
「戦後」はほとんど私の人生にオーバーラップしている。
「3・11」によって引き起こされた諸問題から目を逸らすことなく、残りの人生を生きなければならない。

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2011年7月31日 (日)

アマチュアリズム/梅棹忠夫は生きている(4)

佐倉統氏は、受け継ぐべき梅棹の思想として、リビング・サイエンスと共に、アマチュアリズムを挙げる。
→「中央公論」11年8月号の『梅棹忠夫と3.11』
梅棹の初期の文章に、『アマチュア思想家宣言』がある。
「思想の科学」の創刊号(5404)に載せたものである。
1963年に「思想の科学」の『思想の科学の主題』という特集で採録された(『著作集12巻』)。

初出の時の1954年の世相を覗いてみよう。

・3月1日、太平洋のビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行い、第五福竜丸が被曝した。
・6月2日、近江絹糸で「人権ストライキ」。世論は組合を支持。9月に妥結。
・7月1日に防衛2法が施行され、3自衛隊を統括する防衛庁が総理府の外局として設置された。
・7月に、東通工(現=ソニー)が東京のデパートでトランジスタの「展示即売会」を開催。
・9月26日、青函連絡船「洞爺丸」が暴風のため航行不能となり、高波を受けて沈没した。

1954年[ザ・20世紀]

ほんの一端であるが、戦後復興から高度成長へ移行しようとしてした時期であることが窺えよう。
翌1955年には保守合同と社会党統一がなされ、「55年体制」が成立した。
私としては、映画「ゴジラ」が公開されたのが1954年であったことに注意を喚起しておきたい。
⇒2011年5月 9日 (月):誕生の経緯と香山滋/『ゴジラ』の問いかけるもの(1)
⇒2011年5月10日 (火):技術の功罪と苦悩する化(科)学者/『ゴジラ』の問いかけるもの(2)
⇒2011年5月19日 (木):核エネルギー利用と最終兵器//『ゴジラ』の問いかけるもの(3)

ゴジラ[東宝](11月3日封切)
<度重なる水爆実験により安住の地を破壊されたゴジラが放射能をまとい東京に上陸する。「ゴジラ」はゴリラとクジラの合成語で、社員のあだ名から名付けられた。制作費は破格の6300万円>
[監督]本多猪四郎、[特技監督]円谷英二、[出演]宝田明、河内桃子、志村喬

1954年[ザ・20世紀]

年譜によれば、梅棹は、1952年に肺結核の診断をうけ、2年間の自宅療養生活送る、とあるから療養中の作品であろうか?
梅棹は、『アマチュア思想家宣言』で何を宣言したのか?
当時は世相から窺えるように、論壇の主流は、講壇マルクス主義者によって占められていた。
梅棹はカメラを引き合いにして、思想を論じる。

梅棹がカメラのことを知りたいと思い、入門書をみると、むつかしそうなことがたくさん書いてある。
たとえば各種レンズの球面収差について書いてあるが、球面収差とはなにか、ということは書いてない。
読んでわかるのは、読む前から分かっている人だけだ。
つまりカメラのプロである。

思想も同じようである。
思想について論じられているが、分かるのはプロ思想家だけではないか。
思想の本は、一般人の役に立たない。
役に立たないのは思想の本や雑誌であって、思想そのものは役に立つ。カメラの本が役に立たなくてもカメラは役に立つのと同じように。

梅棹は、思想に対する接し方に次の2通りがあるという。
1.思想を論ずる。
2.思想をつかう。
思想を論ずるのは思想家の仕事であり、思想をつかうのは、民衆の仕事である。
思想は論じられるものである、という考えが圧倒的であった思想界に、梅棹はアンチテーゼを立てる。
思想はつかうべきものである、と。

思想は西洋かぶれのプロ思想家の独占物ではないのであって、アマチュアたる土民のだれかれの自由な使用にゆだねるべきである。プロにはまかせておけない。アマチュア思想道を確立するべきである。

佐倉氏も言うように、思想を科学技術に、思想家を科学者・技術者に置き換えれば、リビング・サイエンスと同じことである。
「思想の科学」は、いわゆる思想雑誌の一種だろうが、創刊号から梅棹のような、自称アマチュアに誌面を開放しているのは英断で、毎号アマチュアに勝手にしゃべらせろ、と梅棹は提案して(アジって?)いる。

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2011年7月29日 (金)

リビング・サイエンティスト/梅棹忠夫は生きている(3)

今朝の日経新聞の文化欄に、民族学者の石毛直道さんが、「小松左京さんを悼む」を載せている。
石毛さんは小松さんとは、親族だけで行われた通夜や告別式に参加するほどの長い親交だった。

わたしの人生において幸せなことは、天才ということばにふさわしい二人の人物に巡り会ったことである。一人は昨年亡くなった国立民族学博物館の創始者である梅棹忠夫さん、もう一人が小松左京さんである。七〇年万博で一緒に仕事をして以来、この二人の天才は親しい間柄であった。
そのことは、わたしにとって幸せだっただけではなく、日本のためにも幸せなことであった。この二人が立案した、関西活性化のプロジェクトで実現したものがいくつもある。

お二人は、「3・11」後の日本のあり方についても、貴重な「ものの見方・考え方」を提示してくれたのではないかと思う。
いまや、その二人ともが不在ということになった。

佐倉統氏は、「3・11は<大阪万博パラダイム=梅棹忠夫の時代>の終焉」と位置づけたい、とした。
→佐倉統『梅棹忠夫と3.11』「中央公論」11年8月号
大阪万博パラダイムの内容についても、大阪万博以降の期間を梅棹忠夫の時代とすることについても、全面的には賛同し難いが、梅棹が万博に積極的に関わったことは事実である。
梅棹の自伝ともいうべき『行為と妄想 わたしの履歴書 (中公文庫)』(0204)には、次のように書かれている。

わたしたちは「万国博を考える会」という研究会をつくった。メンバーは林雄二郎、川添登、加藤秀俊、小松左京とわたしの五人である。林は当時経済企画庁経済研究所長であった。のちに東京工大教授をへて、東京情報大学長をつとめた。川添は評論家として活躍していた。加藤は京都大学教育学部の助教授であったが、のちに学習院大学教授となり、その後、放送教育開発センターの所長をつとめた。小松はSF作家として、売りだし中であった。
わたしたちはときどきあつまって、自由勝手なテーマで議論をした。

いかにも楽しげな集まりである。この集まりが発展して、1968年に日本未来学会が誕生した。
梅棹は、さまざまな形で大阪万博に関わった。テーマ委員会の宣言文のほか、佐藤総理の演説、石坂泰三万博会長のあいさつ文などを書いた。
八面六臂の活躍ぶりであり、確かに大阪万博を動かしていた1人といっていいだろう。
しかし、繰り返しになるが、「3・11」に至る時代を<大阪万博パラダイム=梅棹忠夫の時代>と規定し、「3・11」をもってそれが終焉したというのはどうだろうか。

佐倉氏は、「3・11」が梅棹忠夫の時代を終焉させたという前提の下に、梅棹忠夫の何を受け継ぎ、発展させ、何を批判して捨て去るべきか、という問いを立てる。

梅棹忠夫から受け継ぐべきことの第一に佐倉氏が挙げているのが、専門家の見通しや知識の不十分性である。
それは専門的知識そのものが不正確ということではなく、巨大システムだと少数の専門家では全貌をカバーしきれない。
専門家といえども群盲象をなでる状態だというわけだ。
有名なイソップ童話であるので説明は不要であるが、たまたま丁度いい例を見つけた。
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前衆議院議員小野晋也氏(愛媛県、自民党)のブログである。
自民党にはすっかりイヤケがさしていたが、そして今でも自民党政権に戻るのはゴメンだと思うけれど、民主党との比較ならばよりマシかも知れない?

東京電力は12日、福島第一原発一号機で原子炉圧力容器内の水位計を点検し、調整した結果、その水位は、燃料棒の上部から少なくとも5m低かったと発表した。そうなると、これまでは水の注入などにより、燃料棒の冷却が行われていると判断されてきたわけであるが、実は、燃料棒のすべてが露出をしてしまっていて、全く冷却がなされず、その結果、おそらくは燃料棒の大半が自らの熱によって溶融し、圧力容器の底に貯まる形になってしまっていたということになる。そしてさらに、その底に貯まった燃料の熱によって、圧力容器の底が損傷して穴が開き、強い放射能を帯びた水と燃料とが外へ漏れ出していた可能性が高いということである。
おやおやと思う。これでは、これまでの発表はすべて違っていたということではないか。燃料棒が十分に冷却されていることを前提として、対策も打ち出されていたのではなかったか。その判断の一番大事なデータが全く信用できないものであったということである。
「群盲、象をなでる」という言葉があるが、全体を見ずに、部分だけをあれこれとみて判断していたとするならば、あまりに稚拙な対応であったと言わざるを得まい。ほとほと愛想を尽かした次第である。

http://iratan.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/512-7fb2.html

佐倉氏は、例示として原発事故の影響評価をとりあげる。
放射線医学、気象学、土壌学、疫学、生態学などの専門的知識が必要になるが、このような膨大な知識を統一的な視点から編集することは、特定分野の研究者や専門家にできることではない。
ここで必要になるのは生活者としての目線や価値観からの意味づけである。

この佐倉氏の意見は納得できるものである。
佐倉氏は続けて、3・11後の科学技術と社会の双方にとって必要なのが、生活のための科学技術であるとし、専門家と生活者が、情報を往復させることが必要だ、とする。
生活者の目線で、専門的科学技術を再編集する作業を、リビング・サイエンスと呼び、佐倉氏自身が、その具現化のプロジェクトを実践したことがある、という。

佐倉氏は、自分たちのプロジェクトは、専門家と生活者の間の情報の往復運動の回路を有効にデザインできたとはいえないが、梅棹はまさにリビング・サイエンティストであったのではないか、としている。
もっとも、佐倉氏がプロジェクトを行っていたときには気がつかなかったということであるが。

梅棹の仕事は、家庭論にしろ情報産業論にしろ文明論にしろ、彼自身の日常生活から得られた情報をもとに思考を展開しているから、卓抜な説得力と見通しを持つことができたのだ、と佐倉氏はいう。
そして、この点に注目し評価しているのが、鶴見俊輔氏だという。

私はこの部分の論旨には全面的に賛成である。
ただ、「膨大な知識を統一的な視点から編集すること」は、シンクタンクの歴史と共に古い。
満鉄調査部にまで遡る必要はないだろう。

日本には三波のシンクタンク・ブームがあった。第一波は戦後の復興期、二波が高度成長と列島改造ブーム、野村総研や三菱総研はこの時期に出来た。三波が80年代からバブルにかけて。都銀から地方銀行まで金融界が横並びで参加し、研究所ブームが全国に広がった。セゾン総研やフジタ未来研はバブルの落とし子である。
http://www.asyura2.com/0403/hasan35/msg/482.html

要するに、アプローチの仕方自体が不明というような多様な要素から成る問題が起きると、シンクタンクに光が当てられるわけだ。
多くのシンクタンクが、総研(総合研究所)を名乗っているのも、個別専門領域を超えて、という意味であろう。
私が体験したのは上記でいうところの第二波にあたる。野村総研の設立が1965年、三菱総研の設立が1970年、田中角栄の『日本列島改造論』が出版されたのが1972年であるから、大阪万博はシンクタンクブームの第二波と同期していたともいえる。

梅棹は、川添登や加藤秀俊らが中心となった京都のシンクタンクCDIの設立にもかかわっているが、日本のシンクタンクの元締めであるNIRAの創立時の理事(非常勤)だった。
⇒2010年7月27日 (火):シンクタンク/梅棹忠夫さんを悼む(15)
私は、そもそも探検という活動がリサーチそのものだと思う。

シンクタンクが政策科学や政策工学を標榜するのも、膨大な情報を政策として編集することを主なミッションとしているからである。
政治家はもともと何かの専門家として期待されているのではない。
期待されているのは、生活者の感覚である。研ぎ澄まされた生活者目線で専門家の情報を編集することである。

元市民運動家という菅直人に期待したのも生活者目線での政策の編集であったはずだ。
しかし、実態は、市民運動家を偽装した権力主義者であったようである。
現在も、良質のシンクタンクが求められる時代ではなかろうか。

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2011年7月27日 (水)

大阪万博パラダイム/梅棹忠夫は生きている(2)

佐倉統「中央公論」11年8月号の『梅棹忠夫と3.11』の続きである。
⇒2011年7月20日 (水):梅棹忠夫は生きている

佐倉氏は、「3・11」と梅棹を結びつけるものとして、《科学技術と社会の関係に関する一九七〇年代大阪万博パラダイムの終焉》という表現をしている。そして、それは科学技術と社会の蜜月時代の終わり、と付言している。
私は、ここでちょっとした違和感を感じた。
もちろん、科学技術と社会の蜜月状態がずっと続いていたわけではないことは、佐倉氏も認めているところである。
「公害問題や人間疎外など、むしろ科学技術の弊害が目立つようになってきたのがこの時代でもある」と言っている。

しかし、「も」を付けて表現していることから、佐倉氏の主眼は「蜜月時代」の方にあると考えられる。
そして、それを「大阪万博パラダイム」と評していると理解するのが、文脈的に自然な解釈であろう。
私の感覚では、まさに科学技術のあり方が問われているときに開催されたのが大阪万博ではないか。

個人史的に言えば、大阪万博が開催された1970年は、社会人2年目だった。
まだ新入社員の感覚が抜けない貧しい青年だったが、結婚して世帯主と呼ばれる立場になった。
当時は千葉県に住んでおり、二軒続きの長屋暮らしだった。妻も勤めを継続していたが、家計は火の車状態で、大阪まで出かけるゆとりがなかった。

経済的な面を別にしても、大阪までお祭り騒ぎのイベントに出かける気持ちにもならなかったように思う。
万博という一過性のイベントに重要な意味があることを悟るようになったのは、1985年の「科学万博」で某広告代理店の下請けの仕事をした頃だと思う。
1970年頃には、既に科学技術のマイナス面は、クローズアップされており、企業内技術者といえども無関心な人間は少数派であったように思う。
水俣病のことは学生時代から、宇井純氏等の活動を通じて知っていた。
修士課程を終える頃に過熱した大学紛争でも、大きなテーマだったように思う。

水俣病の“発見”は、1956年のことであるとされる。
紆余曲折があって、熊本大学水俣病研究班により、原因物質がメチル水銀だという公式見解が示されたのは、1968年9月26日であった(Wikipedia110723最終更新)。
しかし、作家の水上勉が、水俣病(当時の言い方では“水俣奇病”)をテーマにした小説『海の牙』双葉文庫(9511)の元になる「不知火海沿岸」を発表したのは、1959年12月の「別冊文藝春秋」であった。
⇒2009年7月 7日 (火):水俣病と水上勉『海の牙』
原因物質の完全な特定はできていなくても、チッソ水俣工場の廃液に起因するであろうことは、十分に推測可能であった。

今振り返ってみれば、1960年代(それは、私の高校から大学を出るまでの期間にほぼ対応している)は、科学技術の負の側面が意識されるようになった時代といえよう。
レーチェル・カーソンの『沈黙の春 (新潮文庫) 』が、『生と死の妙薬』というタイトルで邦訳されたのが、1964年のことである。
DDTなどの農薬類を代表とする化学物質の危険性を、「鳥達が鳴かなくなった春」で訴求したものである。邦題は、直接的であって原題の持つ象徴性がないとして評判がよくなかったように記憶しているが、原題(Silent Spring)を直訳しても、通じ難いと判断したためであろう。
『沈黙の春』は、生態系における人工物の挙動に対する警告の書であり、水俣病はその典型例であった。

大阪万博が開催された1970年は、60年代の総決算としての意味があったのではなかろうか。
大阪万博のテーマは、「人類の進歩と調和」(Progress and Harmony for Mankind)である。テーマ委員会の委員長は桑原武夫。梅棹はテーマ委員会の人選に係わった。
このテーマは、「人類の文化や科学技術の負の側面も考察し、西洋中心主義に疑義を投げかけるものであった」(吉見俊哉『万博幻想』からの佐倉氏からの引用)とされる。
佐倉氏は、続けて「実際の大阪万博が、そのような陰影に富んだ文化的深みをもたないものになってしまったのは、その後の万博協会の事務局や堺屋太一らの演出によるものである」と吉見の言葉を引用している。

しかし、佐倉氏は続けて次のように書く。

けれども、すでに述べたように、大阪万博以降の、いや、第二次大戦以降の日本の社会の動向は、梅棹の軌跡とぴたりと一致する。梅棹は近代主義者である。物質的な豊かさを肯定する。生活水準や知識水準が、量的に右肩上がりに進むことを、とりあえずの幸福とみなす。その先の人類社会が暗澹たるものになるかもしれないという予感をもちつつ、当座の世の中がその方向で進むことには疑問をもっていない。
・・・・・・
梅棹は、さまざまな領域に深く本質的なところで関わり続けた。それゆえに、戦後日本社会の良質の部分--民主的で公平で平和を愛する--を体現していたと同時に、その負の部分--技術に頼って目先の利益を負う--を助長する言説を生産することにもなったのではあるまいか。その意味で、3・11は梅棹忠夫の時代の終わりを告げていろとも言えるかもしれない。

私の理解では、梅棹は科学技術のもたらしたものについて、もう少し懐疑的あるいは負性について自覚的であったように思う。
⇒2010年7月19日 (月):人間にとって科学とはなにか/梅棹忠夫さんを悼む(7)
吉見の言葉を借りれば、「陰影に富んだ文化的深み」の追求者ではなかったか。

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2011年7月20日 (水)

梅棹忠夫は生きている

「人が完全に死ぬのは、皆がその人のことを忘れ去った時だ」というような意味の言葉を聞いたことがある。
梅棹忠夫は、物理的には、去年の7月3日に亡くなった。
⇒2010年7月 7日 (水):梅棹忠夫さんを悼む
しかし冒頭のような意味では、ますます「生き生きと、生きている」といっていいだろう。

3月11日の天変地異とそれによってもたらされた未曾有の大災害を前にして、「梅棹さんならば、どう言うだろうか?」と思った人は多いはずだ。
「中央公論」11年8月号に、佐倉統氏が『梅棹忠夫と3.11』という巻頭論文を書いている。
佐倉氏は、進化生物学者、東京大学 情報学環・学際情報学府教授である。
松岡正剛さんの「千夜千冊」のサイトの第三百五十八夜(010816)に、『現代思想としての環境問題 脳と遺伝子の共生』が取り上げられている。

その他にも、河出書房新社の「文藝別冊」で「梅棹忠夫-地球時代の知の巨人」(1104)があり、季刊「考える人」の11年夏号で「追悼特集梅棹忠夫-「文明」を探検したひと」という大特集がある。
死して1年を閲して、その存在感が否応なく高まっている。

佐倉氏の論文は、梅棹の死の直前の昨年6月19日に、国立民族学博物館で開催された日本展示学会の回想シーンから始まる。
この梅棹さんが中心になって設立され、初代会長を務めた学会に参加した帰りに、佐倉氏は、「薄暮の中の太陽の塔」に見下ろされ、挑発されているように感じた。

佐倉氏は、梅棹の足跡を、論壇で着目された論文等によってレビューする。
広く論壇で注目を集めたのは、1957年の「文明の生態史観」によってであった。
日本と西欧の並行進化を説いたこの論文は、論壇を覆っていたマルクス主義の軛に風穴を開けたとされる。

1959年には「妻無用論」を発表して、家事労働の将来像を展望し、家事専従者は不要になって、女性が社会で働く世の中が来るとした。
50年後の今日、梅棹の予測は、ほぼ的中しているといってよい。
1963年には、「情報産業論」を発表した。

私の個人史の中で、「情報産業論」は特別に大きな意味を持っている。
発表された1963年は、大学に入った年である。
しかし、重要な意味をもって迫って来たのは、最初の就職に疑問を持ち、転職を考え始めたときだと思う。
⇒2010年7月18日 (日):「情報産業論」の時代/梅棹忠夫さんを悼む(6)

化学系の学科を修了して、化学系の会社に就職した。
この就職についても、人並みにあれこれ考えた。私の父親は早く亡くなっていたので、身内で相談する人もいなくて、就職担当教授に相談をしてみた。
「最近できたばかりの野村総合研究所というシンクタンクが理系の卒業生にも門戸を開いているんですが……」
教授の反応は、「工学部の学生は、実業をやりなさい」だった。

バブル期には、理工系の卒業生が、金融・証券等の業界に殺到して問題視された。
特に東大工学部の機械工学系の卒業生の就職先の動向が注目されることがある。
それは、彼らが、全業種で受け入れられるので、その時々の就職人気産業を示すからであるが、長期的にみると、「企業の寿命は30年」などといわれる中で、30年先の構造不況業種を示唆するとも考えられるからだ。
私の就活はバブルよりずっと前のことであり、まさに工業社会の絶頂期であったが、新しく勃興しつつあった情報産業に魅力を感じたのだった。

就職担当教授の指導に従い、石油化学の会社に就職して日常業務に従事しながら、「自分はこれでいいのか?」という疑問が次第に大きくなっていった。
いわゆる情報化社会論や未来学の書籍も結構溢れていたが、直接的な後押しをしたのは、藤原肇『石油危機と日本の運命―地球史的・人類史的展望』サイマル出版会(1973)であった。
当時、34歳くらいだった藤原さんは、ほとんど無名に近い存在だった。どうして手にしたのか記憶にないが、この書が、私の工業から情報産業への転機となったことは間違いない。

1969年には、『知的生産の技術』が発刊される。
現在のパソコンを使ってデータ整理や文章執筆と同様の内容を、40年以上前に梅棹は具体化していた。
1987年には、「メディアとしての博物館」というコンセプトを提唱している。
今日、博物館をメディアといってもさしたる違和感がないが、当時にあっては相当に先進的な理念であった。

1988年に両目の視力を失うが、その後も驚くべき生産性を発揮している。
佐倉氏は、老人の生きがい論、介護論の注目すべき事例だとするが、同感である。
⇒2010年7月17日 (土):ハンディキャップとどう向き合うか?/梅棹忠夫さんを悼む(5)

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2011年7月 8日 (金)

「ある意味」と「まさに」-菅首相の言語技術について

言葉と思考は切り離せない。
レトリックの諸要素は、思考の方法論でもある。
しかし、私は学校教育において、レトリックについて学んだ記憶がない。学校では、思考の方法などは教えない。
教えるのは個別の教科である。

個別の教科の学力をアプリケーションソフトの性能だとすれば、思考の生産性はOSの性能に相当すると考えられる。
私は、リサーチャー時代に、思考と作文が密接に関連しているだろうという認識のもとに、初めて意識的に文章修業をした。
小学生の頃、作文をした記憶があるが、何のためにやるかまったく分かっていなかった。
といっても、先輩の添削を受けた他は、自分で名文だと思うものをお手本にして独学しただけではあるが。
私がお手本と考えたのは、例えば去年亡くなった梅棹忠夫氏である。梅棹氏の文章は、難解な語彙を使わず、実に明快である、と思う。

菅政権の中枢にいる枝野官房長官と仙谷官房副長官(前長官)は、共に弁護士である。
さすがにその弁論技術はしたたかといえよう。
しかし、それは時に、レトリックというよりは、強弁あるいは詭弁であるように思われる。
⇒2010年11月13日 (土):菅内閣の無責任性と強弁・詭弁・独善的なレトリック
⇒2011年4月27日 (水):またしても菅政権の強弁/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(18)

菅首相の場合はどうか?
「一定のメド」というような曖昧な言葉を使うのを、言質をとられないことの武器と考えているフシが窺える。
あえて、明晰でない言葉を使い、コミュニケーションに齟齬があると、自分はそういう意味で使ったのではない、と聞き手側の責任にする。
それは、たまたまそうだったということではなく、性癖なのだろう。
松本健一内閣官房参与との、東京電力福島第1原発の半径30キロ圏の避難・屋内退避区域について、「少なくとも10年間は居住が困難との認識を示した」という話について、首相が「私が言ったわけではない」と発言を否定したことなど、その典型であろう。
⇒2011年4月14日 (木):本当に精神異常?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(6)

演説や答弁を聞いていて、耳につく口ぐせは、「ある意味」と「まさに」の多用である。
これは、言葉というものを考える上で、まことに興味深い事例である。
言葉は有限である。それに対し、言葉で表そうという対象(すなわち森羅万象)は無限である。
したがって、1つの言葉が複数の事象に対応することは必然である。

例えば、われわれは「7色の虹」と言い、別に何の不思議も感じない。
しかし、可視光線のスペクトルは7分割されていつるわけではなく、連続している。
アナログの事象を、デジタル(離散的)である言葉で表現しようと思えばそういうことになる。
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虹は、例えば赤・黄・青の3つに分けられないこともなく、そうすれば3色だとも言える。
一方、黄色と緑色の中間には、いくらでも細分できる色がある。
どう細分化するかは、その人の表現欲求(能力・関心など)と、実用性・効率性などによって決まる。

あるいは、「やま:山」という言葉には、以下のような意味がある。

①起伏がいちじるしく、平地より高くそびえる土地。丘陵より高度や起伏が大きい。mountain。対義:川・野・海。-山に登る。
②山のような形に高く積んだもの。pile。滞貨物の-。
③物事の絶頂。climax。今が-だ。
④樹木の群生している所。山林。forest。-を持っている。
⑤鉱山。mine。-がさびれる。
⑥(鉱山経営は当たりはずれが多いことから)非常に確率の低い幸運への期待。まぐれ当たりをねらう予想。speculation。-が外れる。
⑦「やまぼこ」の略。
⑧比叡山。また延暦寺。対義:寺
講談社「日本語大辞典」(1989)

①を原義として、②以下が派生したと考えられよう。
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「やま:山」については、円の中心に①があり、その周りに、②~⑧が広がっている、と表わすことができるだろう。

また言葉は、生き物であるから、一応のルールはあるが、使う人によって変わりうる。
場合によっては、表面的な意味の他に、隠された意味もあるかも知れない。
特定の集団で使われる「隠語」などは、まさに隠されている意味を知っていることが重要であって、知らなければモグリということになる。
世代間でコミュニケーションギャップが生じるのは、こういった事情があるからだと思う。
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例えば、「カワイイ」という言葉の使い方が、われわれの世代と若い娘達では違うような気がしていたが、男と女で定義が異なるのだ、という説明がされている。
なんで男女の「かわいい」の定義は違うの!?

さて、菅首相の口ぐせとも言うべき「ある意味」と「まさに」はどういうことになるであろうか。
「ある意味」というのは、意識しているか否かは別として、一般的に中心として考えられている意味とは異なる、ということを言っているように思う。
これに対し、「まさに」は、原義に近いことを主張するものであろう。
場合によっては、「ある意味」は、水面下に隠れている意味かも知れない。

「一定のメド」の例で分かるように、確信犯的に誤解を招くような言葉使いをするのが高度な技術だと考えているのであろうか。
梅棹忠夫の文章は、「まさに」正反対である。
菅首相の口ぐせには、意味の確定から逃げようとする姿勢が露呈しているように思う。
やはり、「ある意味」もしくは「まさに」ペテン師という言葉が当たってるのではないか。

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