やまとの謎

2017年11月27日 (月)

伊都国の位置論(4)/やまとの謎(121)

汗牛充棟のごとき邪馬台国関連本の中で、ちょっと興味を喚起されたのが、安田哲也『解読・邪馬台国の暗号-記紀に封印された倭国王朝の光と影』講談社出版サービスセンター(2007年2月)である。
奥付の著者略歴欄を見ると、昭和20年生まれで、最高検検事、鹿児島地検検事正を経て、公証人とある。
実生活でも成功した人と言えるだろう。

安田氏は著書の狙いを「魏志倭人伝」の解釈によって
1.邪馬台国が南九州にあったこと
2.そに『記紀』の暗号解読による裏づけ
と説明している。
オーソドックスな読解をして行くと、南九州説になるとも言えよう。
⇒2012年11月20日 (火):「邪馬台国=西都」説/オーソドックスなアプローチ
私が読んだのは遅かったが、安田氏の著書は中田氏に先行しており、かつ両者の論旨は独立である。

安田氏は、通説の「伊都国=糸島半島」説を、国の所在地を地名や遺跡・遺物で確定しようという発想に問題があるとする。
古代の王都には遷都がつきものであるが、地名や遺跡・遺物を理由として確定はできない。
しかも、通説では年代観が邪馬台国の時代と合わない。

「魏志倭人伝」には、伊都国唐津付近に比定される末盧国から「東南陸行五百里」である。
かつ「南水行」が可能な場所である。

のちの肥前国松浦郡 (佐賀県唐津市付近) にあったとみられる。四千余戸があり,漁業に従事したという。『古事記』には末羅県 (あがた) ,『日本書紀』『肥前国風土記』『万葉集』には松浦県とみえ,古代北九州の要地であった。
末盧国:ブリタニカ国際大百科事典

虚心坦懐に考えれば、有明海沿岸であることは自明である。
Photo

また「世有王皆統属女王国郡使往来常所駐」を、伊都国の説明と読む通説は間違いだとする。
伊都国のことは、その前の「千余戸有」で終わって、「世有王」以下は、伊都国だけでなく既出の四ヵ国に共通する事項と読む。
そして「世有王」の世は世襲の意味であるとする。

問題の「水行十日陸行一月」は、「水行十日及び陸行一月」と解すべきであるとする。
⇒2012年12月 7日 (金):魏使の行程のアポリアとしての「水行十日陸行一月」/邪馬台国所在地論

安田氏の読解による邪馬台国への行程は以下のようである。
Photo_2
通説に比べると支持する人は(現時点では)少ないが、安田、中田、幸田氏らの、伊都国有明湾沿岸、邪馬台国宮崎説は合理的であるように思う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2017年11月26日 (日)

伊都国の位置論(3)/やまとの謎(120)

もちろん、伊都国を「魏志倭人伝」に書かれているように、末蘆国の東南に読んで考える人たちもいる。

魏志倭人伝の記述によれば、
「末廬国(長崎県唐津市付近)から東南に500里」
だそうです。通説に従うと「1里=約80m」らしいので、「500里=約40km」です。 
するとどこに辿り着くでしょうか。何と佐賀市、小城市付近なのです。
あの有名な吉野ヶ里遺跡のある、佐賀平野。・・・・
なんとなく、納得出来ると思いませんか!?
となると、奴国と不弥国も自ずと判ります。 
魏志倭人伝の記述によると、伊都国の東南100里(約8km)に奴国、さらにその東100里(約8km)に不弥国があるそうです。
つまり、佐賀市東方から鳥栖、久留米、筑後、八女のどこか・・・・ではないでしょうか。おそらく筑後川流域でしょうね。
・・・・・・
「都市は水量豊富な大河の注ぐ、肥沃な平野において発展する」
という歴史の法則があります。
魏志倭人伝の記述から、伊都国は倭の重要拠点であることが読み取れます。比定地佐賀は現在でこそ、某お笑い芸人のネタになるような田舎(失礼)ですが、確かに歴史の法則に適っています。
Photo_10
氷解!! 魏志倭人伝の謎 - 南へ水行20日は「薩摩」

邪馬台国を宮崎に比定するのは多数説ではないが、自然科学的発想のアプローチをしている『日本古代史を科学する  』PHP新書(2012年2月)の中田力氏も宮崎平野節であった。
⇒2012年11月20日 (火):「邪馬台国=西都」説/オーソドックスなアプローチ

やはり伊都国を「魏志倭人伝」の記述に忠実に、東南の方角に比定している。
Photo_11

中田説では、佐賀平野は現在より後退した位置にあり、有明湾の海岸線は現在より内陸側にあったとしている。
Photo_13

これらの説は合理的であり、定説が「伊都国=糸島半島」としたことが、解決がないような混迷に陥った原因ではないかと思える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月24日 (金)

伊都国の位置論(続)/やまとの謎(119)

「伊都国=糸島半島」説が定説になっていることは、例えば福岡マラソンの以下のようなアピールからも窺える。
Photo_7
奴国から伊都国へ駆け抜ける!! 福岡マラソン

とはいえ、「伊都国=糸島半島」説には致命的な弱点がある。
「東南陸行五百里到伊都國」であって、伊都国はその前の末盧国から「東南」の方角のはずである。
末盧国を松浦半島唐津付近だとすれば(これにも高木彬光『邪馬台国の謎』のように異論はあるにしても、唐津は他の記述との整合性という点で不合理とは言えない)、糸島半島は、「東南」ではなく「(東)北東」と言うべきである。
Ws000000

定説は、誤差、誤記、誤認・・・としているが、伊都国の位置は重要である。
戦後間もなく、榎一雄氏により「放射説」が発表され、「魏志倭人伝」の読解に画期をもたらした。
榎一雄氏は、次の点に着目した。

伊都国までと、伊都国以降で記述のスタイルが異なる。
   伊都国以前 →方位、距離、国名
   伊都国以降 →方位、国名、距離又は日数
これは、伊都国以降の記述が、「伊都国を起点に、それぞれの国の方位等を個別に記述したもの、すなわち放射状に書かれていると解釈すべきである。

放射説によれば、邪馬台国は伊都国の南であるし、順次式に読んでも、大略南であるから、邪馬台国比定の上で伊都国をどう考えるかは重要である。Photo_9
第320回 邪馬台国の会  出雲神話と邪馬台国 『魏志倭人伝』を徹底的に読む

また、伊都国には、以下のような記述があって、伊都国自身が重要な国であったと思われる。
Photo_8
たーさんの部屋

伊都国のプロファイルを以下のように論考している論者もいる。
Ws000000_2
魏誌倭人伝の検証に基づく 邪馬台国の位置比定

このような位置づけを持つ伊都国については慎重に比定すべきではなかろうか。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月22日 (水)

伊都国の位置論/やまとの謎(118)

相変わらず「邪馬台国論」の人気は衰えていないようである。
私も書店で次のムック(2017年10月)をつい購入してしまった。
Real
歴史REAL邪馬台国 (洋泉社MOOK 歴史REAL)

特に新しい内容というよりも、今までの論争の現時点でのおさらいという感じである。
「魏志倭人伝」に記載されている「国」、特に邪馬台国以外で重視されている伊都国については、定説の市島半島以外の記述はない。
Photo_4

邪馬台国への行程記事中で伊都国に関する記述は以下のようである。
Photo_5
ここまでわかった! 邪馬台国 (新人物文庫)2013年10月)

上記にあるように、糸島の「イト」が「伊都」に通じるということから、伊都国=糸島半島説がほぼ定説とされてきた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月28日 (水)

薬師寺論争と年輪年代法/やまとの謎(117)

飛鳥の法隆寺、天平の東大寺と対比され、白鳳を代表する寺が薬師寺であるとされている。
薬師寺は、天武8(680)年に、鸕(ウ)野皇后(のちの持統天皇)の病気治癒を祈願して、天武天皇によりその造営が企図された。
この薬師寺は、平城京ではなく、藤原京に建立された。

ところが、元明天皇によって平城遷都の詔が出され、和銅3年(710)藤原京から平城京への遷都が実施された。
それと共に、飛鳥や藤原の地に造営された諸寺も、平城京へ移転することになった。

これらの寺院の移転には大きな特色がある。"移転”と言うと、旧伽藍を解体し、平城京で新たに組み立てたとの印象を与えがちだが、実情はそうではない。単に寺号を受け継いだだけで、平城京で新しく堂宇を建立しているのだ。しかも、旧伽藍とは全く異なる伽藍配置を採用している。
唯一の例外が薬師寺である。薬師寺だけは寺号を変えなかった。そのため、藤原京にあった薬師寺は、奈良薬師寺と区別するために「本薬師寺」と呼ばれるようになる。それだけではない、他の大寺とは異なり、本薬師寺の伽藍配置をそのまま踏襲している。
本薬師寺から奈良薬師寺への移転の陰に隠された秘密

薬師寺が、本薬師寺の伽藍配置をそのまま踏襲していることから、本薬師寺と薬師寺に関して、建築物と仏像の関係が、「移建-非移建」「移座-非移座」についての論争がある。
「移建・移坐」ならば、東塔は、文武天皇の時に建てられたものの移建であり、金堂三尊は、持統天皇の時に造られたものの移坐である。
非移建ならば、両者とも平城京遷都後のものということになる。
文化史・美術史では、平城京遷都までを「白鳳」、遷都後を「天平」といっているので、「移建・移坐」か「非移建・非移坐」の問題は、「白鳳」か「天平」か、という問題であり、美術史の様式をどう捉えるかという問題になる。
⇒2008年2月22日 (金):薬師寺論争…①「白鳳」か「天平」か

奈良文化財研究所(奈文研)が、解体修理中の薬師寺東塔の天井板2点に対し年輪年代測定を実施した結果、新事実が判明した。
伐採年が729年と730年と推計され、塔中央の心柱についても、最も外側の年輪が719年を示し、720年代に伐採された可能性が高まった。
1612202
読売新聞12月20日

東塔の造営年代については、平安時代の歴史書「扶桑略記」に「天平2(730)年3月29日、薬師寺東塔を建て始める」とする記述がある。
東塔保存修理事業専門委員長の鈴木嘉吉・元奈良国立文化財研究所長(建築史)は「年輪年代測定の結果が史書の記述と一致する、国内初の発見。東塔を平城京で造ったことが確定した」と話している。
年輪年代法という理化学的方法の有用性は法隆寺論争でも明らかにされてきたが、様式論とは別の視点から、古代史の謎解明に貢献するのではなかろうか。
⇒2007年8月30日 (木):若草伽藍の瓦出土

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年10月 7日 (金)

半世紀前に出土木簡からペルシャ人情報/やまとの謎(116)

奈良文化財研究所は10月5日、現在の奈良市に位置し、1000年以上前の都、平城京の遺跡から発掘された木簡を改めて調査した結果、ペルシャ人の役人が働いていたことを示す新しい証拠が見つかったことを明らかにした。
「天平神護元年」(765年)と記された木簡に、ペルシャ人の役人とみられる「破斯清通」という名前があったことが分かった。

Ws000000「破斯(はし)」はペルシャ(現在のイラン付近)を意味する中国語の「波斯」と同義で、国内の出土品でペルシャ人を示す文字が確認されたのは初めて。外国人が来日した平城宮の国際性を示す史料となりそうだ。
 奈文研によると、木簡は平城宮跡東南隅の発掘で1966年に出土した、役人を養成する「大学寮」での宿直勤務に関する記録。当時は文字が薄いため名前の一部が読めなかったが、今年、赤外線撮影したところ、「破斯」の文字を判読できた。
 「大学寮解 申宿直官人事」のほか、下部に、特別枠で任じられた役人を意味する「員外大属(いんがいだいさかん)」という役職名もあった。
、古代の日本が予想よりも国際色豊かだった可能性があると指摘した。
 日本と現在のイランの間の直接的な貿易関係は遅くとも7世紀に始まったことが知られているが、1960年代に発見された木簡を改めて調査したところ、さらに広範囲な交流が見えてきたという。
 古代の日本で紙の代わりとして使われていた木簡に書かれていた文字は、これまで判読不可能だったが、今回、赤外線を使って調査した結果、日本に住むペルシャ人の役人の名前とみられること分かった。
 奈良文化財研究所の渡辺晃宏(Akihiro Watanabe)史料研究室長によると、このペルシャ人は日本の役人が教育を受ける施設で働いており、ペルシャが得意としていた数学を教えていた可能性があるという。
ペルシャ人の役人 765年木簡に「破斯」

シルクロードを経由して、ペルシャやヨーロッパと交流があったことは良く知られている。
Photo
ローマと日本人の相性は、良い!

また、ギリシャで発達した数学がインドの記法と合体することによってさらに発展していったが、中東諸国の媒介があったと言われる。
Photo_2

古代へのロマンを誘う解読だが、半世紀前に出土した木簡から新しい情報が得られるというのも技術進歩の賜物と言えよう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2016年9月28日 (水)

国石・ヒスイの古代における流通/やまとの謎(115)

水晶か、翡翠か、それとも…
諸候補があった「日本の石(国石)」について、9月24日、日本鉱物科学会が翡翠を選定した。
翡翠は約5億年前に海洋プレートが沈み込む地中深くで生まれた宝石と言われる。
Wikipediaでは以下のように解説している。

日本では古代に糸魚川で産出する硬玉の翡翠が勾玉などの装飾品の材料とされ珍重されていたと推定されるが、奈良時代以降その存在は顧みられなくなっていた。日本での翡翠の産出が再発見されたのは1938年(昭和13年)のことである。2008年(平成20年)北京オリンピックのメダルにも使われている。現在では翡翠は乳鉢の材料としても馴染み深い。

1609272
東京新聞9月27日

 国石は以前から俗説があったため、日本鉱物科学会は国鳥(キジ)や国蝶(オオムラサキ)のように学術団体として正式に選定することを決め、一般からの意見公募を行うなど選定作業を進めてきた。
 金沢市で開かれた学会総会では、最終5候補の推薦者が提案理由の発表を行った後、会員による投票でヒスイ71票、水晶52票となり、国石が決定した。ヒスイの応援演説に立ったフォッサマグナミュージアム(糸魚川市)の宮島宏館長は、「プレートが沈み込む場所でしか産出されないヒスイは日本ならではの美しい宝石。縄文時代から古代人が加工して利用した世界最古の歴史もある」などと訴え、多くの会員に認められた。
「国石」にヒスイ選定…産地・糸魚川は喜びの声

現在、古代史ファンならずとも、古代の遺跡で見つかるヒスイの産地が糸魚川市の姫川流域であることは知っているだろう。
しかし、明治になって遺跡からヒスイが発掘され出した当時は、日本にはヒスイの産地は無いというのが学会の定説だったという。
当時日本に一番近いヒスイの産地は、ミャンマー北部・雲南方面であり、ここらが日本のヒスイの産地であろうというのが一般的な見方だった。
糸魚川出身で、早稲田大学に学び「都の西北」の作詞者でもある相馬御風は、記紀に記される「玉」はヒスイではないかと考えた。

イハレビコの祖先、天孫の日向三代が、アマテラスに豊葦原の瑞穂の国を治めるように仰せになった前の葦原の瑞穂の国を治めていたのは、出雲の国のオホクニヌシ(ヤチホコ)であったが、高志の国のヌナカハヒメを妻にしている。このヒメは、糸魚川の姫川のヒメであり、ヒスイの産地のヒメである。また、オホクニヌシは天孫系からも妻にしている。それは、アマテラスとスサノヲがウケヒして、アマテラスがスサノヲの十拳の剣を噛み砕いて、噴出した三女神のひとり、タキリビメである。縄文時代の出雲の国の権力者が、糸魚川のヒスイの鉱山を手に入れるため、嫁にした事になる。
翡翠勾玉から見た古代史 

御風は、ヌノカワと読める勾玉の産地は糸魚川を流れる「姫川」の事ではないかと考え、これを地元の人々に説いて昭和14年、探索していた地元住民により初めて姫川支流の小滝川上流でヒスイが発見された。
糸魚川でヒスイが産出するという事が考古学会で認められて13年後(その間第二次世界大戦と戦後の混乱期をはさむ)の昭和29年、初めて糸魚川市の長者ケ原遺跡に本格的な学術調査が入った。
その結果、完成品のペンダント2個を含むヒスイの原石が250点も出土した。
さらにその多くが加工途中の半製品或いは破損品である事が判明し、長者ケ原はヒスイを中心とする石材の一大加工センターであった事が判明した。

三内丸山遺跡でもヒスイは出土している。
⇒2016年9月 9日 (金):三内丸山遺跡と縄文人のルーツ/技術論と文明論(66)
縄文時代の交易圏の広さを再認識させられる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月22日 (木)

キトラ古墳の極彩色壁画/やまとの謎(114)

キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)の展示施設「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」が古墳の北隣に完成した。
同古墳は、奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳で、亀虎古墳とも書く。
墳丘にある石室内に極彩色の壁画が発見され、高松塚と共に保存事業が進められている。
Photo
キトラ古墳

壁画は1983年に発見された。
劣化が進んでいたため2004〜2010年に順次剥ぎ取って、カビや汚れを除去するなどの修復を続けている。
四神像のうち、「青龍」「玄武」は年内に修復を終える予定だ。

 金箔(きんぱく)で表現された約350個の星、それを朱で結んだ少なくとも74の星座たち。この美しい天文図の存在は、最初の壁画の発見から15年後、1998年に確認された。他にも、北極星を中心に常に星が地平線下に沈まない範囲を示す円(内規)、天の赤道などが精密に描かれている。いつ、どこで見上げた夜空なのか。その謎解きに挑んだ2人の天文学者の研究成果が昨年7月、発表された。
 地球が自転する際の軸となる「地軸」の傾きは時代によって変わり、星の見え方も変化する。
 中村士・元帝京平成大教授(天文学史)は、古代中国で国家の運命を占う際に使われた28星座「二十八宿」の位置に着目し、天文図が描いたのは紀元前80年の前後40年の星空だと推定。一方、国立天文台の相馬充助教(位置天文学)は描く際の誤差が少ないと考えられる内規や赤道に近い星11個で計算し、紀元後300年の前後90年に、古代中国の都、洛陽や長安(現西安)を通る北緯約34度で観測したと結論付けた。
 二つの分析は一見矛盾するように思えるが、キトラ古墳の調査を担当する奈良文化財研究所飛鳥資料館の石橋茂登・学芸室長は「古い星図に修正を加えながら、中国や朝鮮半島との交流を通じて日本にもたらされたのでは」と想像する。紀元前4世紀に活躍した中国の天文学者、石申の観測記録と伝わる「石氏星経」が原典になったと考えられるという。
息をのむ極彩色壁画 世界最古天文画も

キトラ古墳の被葬者は誰か?
高松塚と同様に、ほぼ藤原京の中央、朱雀大路の南への延長上、いわゆる「聖なるライン」のやや西へずれたところに位置している。
この中央線上に、菖蒲池古墳、天武・持統天皇陵、文武天皇陵がある。
⇒2008年9月 4日 (木):高松塚古墳のポジショニング
その位置からすると、やはり天武・持統天皇の近親者ということになろうか。
Photo_2
飛鳥プロジェクト

天武天皇の長男、高市皇子(696年死去)や、陰陽師の安倍晴明が子孫ともされる右大臣、阿倍御主人(703年死去)との説があるようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年2月22日 (月)

高尾山古墳と狗奴国論/やまとの謎(113)

保存か道路整備かで注目を集めていた沼津市の高尾山古墳に一定の方向性が見えてきた。
⇒2015年11月25日 (水):高尾山遺跡保存の方向へ/やまとの謎(109)

両立の方向性を検討する有識者協議会で、2月2日、会の結論ではないが、有識者有志の連名で「T字4車線迂回路」が推奨案とされた。
32160203
東京新聞2月3日

市長も前向きだというからほぼこの案に沿って進むであろう。
議会で決定された当初案が覆されたのは画期的であるが、現地には道路整備を前提として既に移転済みの人もいるからまだまだ調整は必要である。
保存を願ってきた者としては、是非「沼津モデル」と呼ばれるような形で最終的な決着を見せて頂きたい。

連動して13日に、「全国邪馬台国連絡協議会」の主催により、「第1回狗奴国サミットin沼津」が開催された。
001

1年前ならば、誰しもが「何で、沼津で、狗奴国サミット?」と不思議がられたはずだ。
狗奴国は「魏志倭人伝」に登場するクニの1つで、邪馬台国(連合)のライバルと目されている。
主催の名前からも分かるように、邪馬台国の候補地は全国に分布している。
ということは、狗奴国の位置論も同様ということである。
サミットでも狗奴国の見方はさまざまであった。
基調講演の考古学・森岡秀人氏が天竜川以東を唱えておられたが、雰囲気的には小数説であろう。
面白いと思ったのは医師の若井正一氏の「狗奴国大和説」であり、邪馬台国ならぬ狗奴国が大和にあったというのは、逆転の発想である。
いずれにしろ、高尾山古墳については分からないことが多い。
是非検討を深化させて行って欲しいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年2月 2日 (火)

三角縁神獣鏡論争の新展開/やまとの謎(112)

1月30日付の日本経済新聞文化面に、『「卑弥呼の鏡」深化する論争』という記事が載っていた。
同鏡については、「国産か中国産か」ということで論争が続いている。
中国産であれば、「魏志倭人伝」の「魏帝が卑弥呼に鏡100枚を下賜した」という記述の信憑性が高くなる。
しかし、日本では既に多数(500枚以上といわれるが、正確な総数は不明)が出土しているにもかかわらず、肝心の中国からは1枚も出土していないと言われていた。
私は、「卑弥呼の鏡ではない」という立場を支持していた。

ところが昨年の3月に、「中国河南省の洛陽市で見つかったとする論文が、地元の研究誌に掲載された」というニュースが朝日新聞に掲載された。

Ws000000
 論文を書いたのは河南省在住のコレクターで研究者でもある王趁意さん。王さんは鏡について「2009年ごろ、当時、洛陽最大の骨董(こっとう)市で、市郊外の白馬寺付近の農民から譲り受けた」と説明する。正確な出土地点はわからないという。
 鏡は直径18・3センチ。厚さ0・5センチ。三角縁神獣鏡としてはやや小ぶりで、内側に西王母(せいおうぼ)と東王父(とうおうふ)という神仙や霊獣、外側にノコギリの刃のような鋸歯文(きょしもん)と二重の波状の模様を巡らせる。
邪馬台国論争に新材料 卑弥呼の鏡?「中国で発見」論文

骨董市で譲渡された出土地が明らかでないものでは史料的価値には疑問があると言わざるを得ない。
ところが大阪府教育委員会副主査の西川寿勝氏が加工痕をもとに「日本のものと同じ工人集団が作ったもの」と結論づけた。
経緯は西川氏の発表資料に以下のようにまとめられている。
Ws000002
日本書紀研究会12月例会報告/洛陽で発見された三角縁神獣鏡

西川氏の言うように、加工痕が日本のものと差がないとすれば、中国で新発見の鏡も日本製であるか、日本で出土している鏡も中国産か、という両様の可能性が出てくる。
常識的に考えれば、日本で出土した鏡が、何らかの経路で中国の骨董市で売り出されたと考えるべきだろうが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧