やまとの謎

2019年1月10日 (木)

元号と改元と日本建国/やまとの謎(125)

1979年に制定・公布された「元号法」によって、「元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める」とされた。
いわゆる「一世一元の制」の法制化であり、天皇が譲位される今年は改元の年でもある。
2017年12月 3日 (日) 改元のスケジュール/日本の針路(356)

 安倍晋三首相は4日、三重県伊勢市で年頭記者会見を開き、5月1日の新天皇即位に伴う改元について「国民生活への影響を最小限に抑える観点」から、4月1日に改元の政令を閣議決定した上で事前公表すると正式表明した。今の天皇陛下が政令に署名して公布する方針も示した。民間のシステム改修などを巡る混乱を避けるため、1カ月間の準備期間を設け、国民生活に配慮した。
・・・・・・
 改元発表時期を巡っては、自民党内外の保守派は当初「明治以来の一世一元(天皇1人に元号は一つ)に反する」と事前公表に反発。その後、事前公表容認に転じたが、「天皇と元号の一体不可分性」を維持するため、政令に新天皇が署名して公布することを求めていた。首相は会見で「公布は通常の政令制定の手続きに従って行う」と明言した。

明治以前は、天皇の在位中にも災害など様々な理由によりしばしば改元が行なわれていたし、寛永や慶長のように、新たな天皇が即位しても、元号が変わらない場合もあった
民間のシステム改修などを巡る混乱を避けるため、1カ月間の準備期間を設け、国民生活に配慮」するならば、もっと早く決めるべきであろうが、保守派に配慮したということであろう。

このように、日本の伝統と技術・文明の進歩はしばしば矛盾する。
それを弥縫的にやりくりしてきたのが、まあ「日本の智慧」ということだろう。
憲法9条と自衛隊の関係も、論理で割り切れない部分があるが、今まで何とか弥縫的にやってきたのである。
その矛盾が大きくなって現実とどうしてもフィットしなくなった時、どうするか?
それはケースバイケースというしかない。

ところで、元号はいつから使われたのか?
天皇制を神武にまで遡らせて考えたい三原じゅん子議員らの認識においても、大化以前の元号について言及はしていないと思われる(良くは知らない)。
2015年3月18日 (水) 確信的「無知」の「無恥」・三原じゅん子/人間の理解(10)
現在の歴史教科書では「乙巳の変」で孝徳天皇になって、「大化」の年号が使われたということになっている。

初期の年号については謎が多い。
たまたま書店で手にした日本の元号研究会編『日本の元号』
池田書店(2018年12月)に以下の図がある。
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うまり、最初の元号と次の元号はいずれも孝徳朝であって、次の改元は「朱鳥」である。
天武紀15年(686)7月のことで、その年の9月9日に天武は亡くなっている。
そして朱鳥には、「阿訶美苔利(アカミトリ)」と和訓されているが、年号に和訓は施されないのが通例である。
2008年1月11日 (金) 「朱鳥」改元について

そして、「白雉」と「朱鳥」の間に、「白鳳」「朱雀」という謎の年号がある。
天皇紀で言えば、斉明、天智、弘文、天武であって、白村江の敗戦と壬申の乱という外・内の2つの戦争があって、日本列島が大きく変動した時代である。
この時期こそ、日本建国の本質があるのではないだろうか。

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2019年1月 7日 (月)

どんどん焼き・左義長/やまとの謎(124)

書初めをやっていた時、昔のどんどん焼きの話題になった。
正月に使った門松や注連縄などと一緒に燃やす。
どんどん焼きで、高く舞い上がれば字が上手になると言われていた。
最近は野焼きが禁じられているので、小学校などでやっているようである。
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東京新聞1月6日

ところが東北地方出身者が知らないという。
Wikipediaでは、「どんどん焼き」の項に「この項目では、小麦粉を主体とした日本の焼き物料理について説明しています。正月飾りや書き初めなどを燃やす日本の正月の年中行事については「左義長」をご覧ください。」とある。
左義長の項では以下のように説明されている。

1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた餅(三色団子、ヤマボウシの枝に刺した団子等地域によって違いがある)を食べる、また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくとその年の病を除くと言われている。また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達すると言われている。道祖神の祭りとされる地域が多い。
民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる。お盆にも火を燃やす習俗があるが、こちらは先祖の霊を迎えたり、そののち送り出す民間習俗が仏教と混合したものと考えられている。
とんど(歳徳)、とんど焼き、どんど、どんど焼き、どんどん焼き、どんと焼き、さいと焼きとも言われるが、歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域ではそう呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられている。とんどを爆竹と当てて記述する文献もある。これは燃やす際に青竹が爆ぜることからつけられた当て字であろう。
子供の祭りとされ、注連飾りなどの回収や組み立てなどを子供が行う。またそれは、小学校などでの子供会(町内会に相当)の行事として、地区ごとに開催される。

ほぼこの通りであった。
「全国で広く見られる」とあったが、「知らない」というのは地域差なのか時代差なのか。

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2018年12月23日 (日)

今上天皇在位最後の誕生日/やまとの謎(123)

天皇陛下が85歳の誕生日を迎えられた。
来年の譲位が確定しているので、天皇としては最後ということになる。
さすがに万感が去来したのであろう、昨日の記者会見で即位後の30年を旅になぞらえたが、何度も声を震わせておられた。
テレビで視聴していても胸が熱くなった。
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東京新聞12月23日

今年の漢字に「災」がえらばれたが、冒頭「この1年を振り返るとき、例年にも増して多かった災害のことは忘れられません。集中豪雨、地震、そして台風などによって多くの人の命が落とされ、また、それまでの生活の基盤を失いました。」と述べられた。

実際に陛下は即位依頼災害地を歴訪されている。
被災者が一様に感動的に感謝の言葉を口にしているのを見ると、お人柄もさることながら「天皇」という制度が日本に深く根付いていることを感ずる。
「やまとの謎」の1つとして良いだろう
感想は多岐にわたっているが、例えば、外国人就労者に対して。
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政権とは多くの点で対蹠的と言わざるを得ない。

沖縄についても「昭和28年(53年)に奄美群島の復帰が、昭和43年(68年)に小笠原諸島の復帰が、そして昭和47年(72年)に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません。」と述べられた。
口先だけ「沖縄に寄り添い」と言いながら、辺野古の土砂投入の当日、平然とゴルフに興じる安倍首相とはまったく感性が異なるのは明らかであろう。

 安倍晋三首相は15日午前、神奈川県茅ケ崎市のゴルフ場を訪れ、秘書官らとゴルフをした。
 記者団から調子を尋ねられると、「今日は結構冷え込んでいるけど、寒さに耐えて頑張っていますよ」と笑顔を浮かべた。
 しかし、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設工事で名護市辺野古沿岸部の埋め立てが始まったことについて質問が飛ぶと、首相は苦笑い。身体を反転させて無言でゴルフ場に戻った。
安倍首相、辺野古質問に苦笑い ゴルフ場で記者団に

政権には「尊厳」の概念がないという意見もある。
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残念なことではあるが、同意せざるを得ない。

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2017年12月24日 (日)

沼津市が「高尾山古墳」保存の最終案/やまとの謎(122)

沼津市が懸案だった「高尾山古墳保存と計画道路整備」について、最終案を発表した。
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東京新聞12月22日
大要以下の通りである。
4車線の道路の西側2車線をトンネル、東側2車線を一部橋梁とする方式で、工期は2020年代後半、工費は概算で35~40億円。
2015年6月の沼津市定例市議会で、道路建設のため墳丘取り壊しを伴う調査予算が可決された。
遺跡破壊の崖っぷちであったが、各方面から遺跡保存の要望が高まり、栗原裕康前市長が執行を停止するという判断をした。
当時現場を視察した議員の一人は、「こんなもの早く潰してしまえ」と言ったそうである。
当時の議会の雰囲気が窺える。
⇒2015年6月25日 (木) 高尾山古墳が存亡の危機という非常事態/やまとの謎(104) 

同古墳は東日本最古級と推定される。
関心は全国に広がり、中沢新一氏が「週刊現代」に連載中の『アースダイバー』で取り上げたりした。
築造が230年頃、埋葬が250年頃と推定されている。
卑弥呼の墓と言われている奈良県桜井市の箸墓古墳は250年頃の築造とされているから、ほぼ同時期である。
発生期の古墳として、重要な意味を持つ。
箸墓が前方後円墳、高尾山が前方後方墳という型式上の差異は何を意味しているか。
2016年2月、沼津市民文化センターで「狗奴国サミット」が開催された。
狗奴国は邪馬台国のライバルだったとされるクニであり、高尾山古墳の主が狗奴国と関係があるのではないかという説があることの縁である。
⇒2015年6月17日 (水) 高尾山古墳の主は卑弥弓呼か?/やまとの謎(103)
前方後方墳は東国に多いとも言われる。
ヤマトが全国的な統一を果たす前に、各地はどう統治されていたのだろうか。
日本国建国プロセスに係わる重要なランドマークであり、保存されることになったのは喜ばしい。
最終案とはいえ、今後検討していくべき課題も少なくない。
駐車場や見学施設を含めた総費用はいくらであり、それをどう負担するのか?
しかし、遺跡は単なる文化財ではなく、文化遺産である。
⇒2015年9月15日 (火) 高尾山古墳の文化遺産学/やまとの謎(107)
加藤秀俊・川添登・小松左京監修、大林組編著『構想と復元』に、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)等の復元シミュレーションが載っている。
監修者は、大阪万博の企画に係わったメンバーで、京都を拠点とするユニークなシンクタンクだったCDIのメンバーである。
同じような発想で、高尾山古墳の工法、工期、工数はどう考えられるであろうか。
同書のサブタイトルは「歴史から未来へ」であるが、未来を考えるためには、歴史を知る必要がある。
高尾山古墳は地域の宝であると同時に、全国の宝である。
せっかく保存するのであれば、そのポテンシャルを活かす方策を考えるべきであろう。

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2017年11月27日 (月)

伊都国の位置論(4)/やまとの謎(121)

汗牛充棟のごとき邪馬台国関連本の中で、ちょっと興味を喚起されたのが、安田哲也『解読・邪馬台国の暗号-記紀に封印された倭国王朝の光と影』講談社出版サービスセンター(2007年2月)である。
奥付の著者略歴欄を見ると、昭和20年生まれで、最高検検事、鹿児島地検検事正を経て、公証人とある。
実生活でも成功した人と言えるだろう。

安田氏は著書の狙いを「魏志倭人伝」の解釈によって
1.邪馬台国が南九州にあったこと
2.そに『記紀』の暗号解読による裏づけ
と説明している。
オーソドックスな読解をして行くと、南九州説になるとも言えよう。
⇒2012年11月20日 (火):「邪馬台国=西都」説/オーソドックスなアプローチ
私が読んだのは遅かったが、安田氏の著書は中田氏に先行しており、かつ両者の論旨は独立である。

安田氏は、通説の「伊都国=糸島半島」説を、国の所在地を地名や遺跡・遺物で確定しようという発想に問題があるとする。
古代の王都には遷都がつきものであるが、地名や遺跡・遺物を理由として確定はできない。
しかも、通説では年代観が邪馬台国の時代と合わない。

「魏志倭人伝」には、伊都国唐津付近に比定される末盧国から「東南陸行五百里」である。
かつ「南水行」が可能な場所である。

のちの肥前国松浦郡 (佐賀県唐津市付近) にあったとみられる。四千余戸があり,漁業に従事したという。『古事記』には末羅県 (あがた) ,『日本書紀』『肥前国風土記』『万葉集』には松浦県とみえ,古代北九州の要地であった。
末盧国:ブリタニカ国際大百科事典

虚心坦懐に考えれば、有明海沿岸であることは自明である。
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また「世有王皆統属女王国郡使往来常所駐」を、伊都国の説明と読む通説は間違いだとする。
伊都国のことは、その前の「千余戸有」で終わって、「世有王」以下は、伊都国だけでなく既出の四ヵ国に共通する事項と読む。
そして「世有王」の世は世襲の意味であるとする。

問題の「水行十日陸行一月」は、「水行十日及び陸行一月」と解すべきであるとする。
⇒2012年12月 7日 (金):魏使の行程のアポリアとしての「水行十日陸行一月」/邪馬台国所在地論

安田氏の読解による邪馬台国への行程は以下のようである。
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通説に比べると支持する人は(現時点では)少ないが、安田、中田、幸田氏らの、伊都国有明湾沿岸、邪馬台国宮崎説は合理的であるように思う。

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2017年11月26日 (日)

伊都国の位置論(3)/やまとの謎(120)

もちろん、伊都国を「魏志倭人伝」に書かれているように、末蘆国の東南に読んで考える人たちもいる。

魏志倭人伝の記述によれば、
「末廬国(長崎県唐津市付近)から東南に500里」
だそうです。通説に従うと「1里=約80m」らしいので、「500里=約40km」です。 
するとどこに辿り着くでしょうか。何と佐賀市、小城市付近なのです。
あの有名な吉野ヶ里遺跡のある、佐賀平野。・・・・
なんとなく、納得出来ると思いませんか!?
となると、奴国と不弥国も自ずと判ります。 
魏志倭人伝の記述によると、伊都国の東南100里(約8km)に奴国、さらにその東100里(約8km)に不弥国があるそうです。
つまり、佐賀市東方から鳥栖、久留米、筑後、八女のどこか・・・・ではないでしょうか。おそらく筑後川流域でしょうね。
・・・・・・
「都市は水量豊富な大河の注ぐ、肥沃な平野において発展する」
という歴史の法則があります。
魏志倭人伝の記述から、伊都国は倭の重要拠点であることが読み取れます。比定地佐賀は現在でこそ、某お笑い芸人のネタになるような田舎(失礼)ですが、確かに歴史の法則に適っています。
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氷解!! 魏志倭人伝の謎 - 南へ水行20日は「薩摩」

邪馬台国を宮崎に比定するのは多数説ではないが、自然科学的発想のアプローチをしている『日本古代史を科学する  』PHP新書(2012年2月)の中田力氏も宮崎平野節であった。
⇒2012年11月20日 (火):「邪馬台国=西都」説/オーソドックスなアプローチ

やはり伊都国を「魏志倭人伝」の記述に忠実に、東南の方角に比定している。
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中田説では、佐賀平野は現在より後退した位置にあり、有明湾の海岸線は現在より内陸側にあったとしている。
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これらの説は合理的であり、定説が「伊都国=糸島半島」としたことが、解決がないような混迷に陥った原因ではないかと思える。

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2017年11月24日 (金)

伊都国の位置論(続)/やまとの謎(119)

「伊都国=糸島半島」説が定説になっていることは、例えば福岡マラソンの以下のようなアピールからも窺える。
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奴国から伊都国へ駆け抜ける!! 福岡マラソン

とはいえ、「伊都国=糸島半島」説には致命的な弱点がある。
「東南陸行五百里到伊都國」であって、伊都国はその前の末盧国から「東南」の方角のはずである。
末盧国を松浦半島唐津付近だとすれば(これにも高木彬光『邪馬台国の謎』のように異論はあるにしても、唐津は他の記述との整合性という点で不合理とは言えない)、糸島半島は、「東南」ではなく「(東)北東」と言うべきである。
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定説は、誤差、誤記、誤認・・・としているが、伊都国の位置は重要である。
戦後間もなく、榎一雄氏により「放射説」が発表され、「魏志倭人伝」の読解に画期をもたらした。
榎一雄氏は、次の点に着目した。

伊都国までと、伊都国以降で記述のスタイルが異なる。
   伊都国以前 →方位、距離、国名
   伊都国以降 →方位、国名、距離又は日数
これは、伊都国以降の記述が、「伊都国を起点に、それぞれの国の方位等を個別に記述したもの、すなわち放射状に書かれていると解釈すべきである。

放射説によれば、邪馬台国は伊都国の南であるし、順次式に読んでも、大略南であるから、邪馬台国比定の上で伊都国をどう考えるかは重要である。Photo_9
第320回 邪馬台国の会  出雲神話と邪馬台国 『魏志倭人伝』を徹底的に読む

また、伊都国には、以下のような記述があって、伊都国自身が重要な国であったと思われる。
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たーさんの部屋

伊都国のプロファイルを以下のように論考している論者もいる。
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魏誌倭人伝の検証に基づく 邪馬台国の位置比定

このような位置づけを持つ伊都国については慎重に比定すべきではなかろうか。 

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2017年11月22日 (水)

伊都国の位置論/やまとの謎(118)

相変わらず「邪馬台国論」の人気は衰えていないようである。
私も書店で次のムック(2017年10月)をつい購入してしまった。
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歴史REAL邪馬台国 (洋泉社MOOK 歴史REAL)

特に新しい内容というよりも、今までの論争の現時点でのおさらいという感じである。
「魏志倭人伝」に記載されている「国」、特に邪馬台国以外で重視されている伊都国については、定説の市島半島以外の記述はない。
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邪馬台国への行程記事中で伊都国に関する記述は以下のようである。
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ここまでわかった! 邪馬台国 (新人物文庫)2013年10月)

上記にあるように、糸島の「イト」が「伊都」に通じるということから、伊都国=糸島半島説がほぼ定説とされてきた。

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2016年12月28日 (水)

薬師寺論争と年輪年代法/やまとの謎(117)

飛鳥の法隆寺、天平の東大寺と対比され、白鳳を代表する寺が薬師寺であるとされている。
薬師寺は、天武8(680)年に、鸕(ウ)野皇后(のちの持統天皇)の病気治癒を祈願して、天武天皇によりその造営が企図された。
この薬師寺は、平城京ではなく、藤原京に建立された。

ところが、元明天皇によって平城遷都の詔が出され、和銅3年(710)藤原京から平城京への遷都が実施された。
それと共に、飛鳥や藤原の地に造営された諸寺も、平城京へ移転することになった。

これらの寺院の移転には大きな特色がある。"移転”と言うと、旧伽藍を解体し、平城京で新たに組み立てたとの印象を与えがちだが、実情はそうではない。単に寺号を受け継いだだけで、平城京で新しく堂宇を建立しているのだ。しかも、旧伽藍とは全く異なる伽藍配置を採用している。
唯一の例外が薬師寺である。薬師寺だけは寺号を変えなかった。そのため、藤原京にあった薬師寺は、奈良薬師寺と区別するために「本薬師寺」と呼ばれるようになる。それだけではない、他の大寺とは異なり、本薬師寺の伽藍配置をそのまま踏襲している。
本薬師寺から奈良薬師寺への移転の陰に隠された秘密

薬師寺が、本薬師寺の伽藍配置をそのまま踏襲していることから、本薬師寺と薬師寺に関して、建築物と仏像の関係が、「移建-非移建」「移座-非移座」についての論争がある。
「移建・移坐」ならば、東塔は、文武天皇の時に建てられたものの移建であり、金堂三尊は、持統天皇の時に造られたものの移坐である。
非移建ならば、両者とも平城京遷都後のものということになる。
文化史・美術史では、平城京遷都までを「白鳳」、遷都後を「天平」といっているので、「移建・移坐」か「非移建・非移坐」の問題は、「白鳳」か「天平」か、という問題であり、美術史の様式をどう捉えるかという問題になる。
⇒2008年2月22日 (金):薬師寺論争…①「白鳳」か「天平」か

奈良文化財研究所(奈文研)が、解体修理中の薬師寺東塔の天井板2点に対し年輪年代測定を実施した結果、新事実が判明した。
伐採年が729年と730年と推計され、塔中央の心柱についても、最も外側の年輪が719年を示し、720年代に伐採された可能性が高まった。
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読売新聞12月20日

東塔の造営年代については、平安時代の歴史書「扶桑略記」に「天平2(730)年3月29日、薬師寺東塔を建て始める」とする記述がある。
東塔保存修理事業専門委員長の鈴木嘉吉・元奈良国立文化財研究所長(建築史)は「年輪年代測定の結果が史書の記述と一致する、国内初の発見。東塔を平城京で造ったことが確定した」と話している。
年輪年代法という理化学的方法の有用性は法隆寺論争でも明らかにされてきたが、様式論とは別の視点から、古代史の謎解明に貢献するのではなかろうか。
⇒2007年8月30日 (木):若草伽藍の瓦出土

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2016年10月 7日 (金)

半世紀前に出土木簡からペルシャ人情報/やまとの謎(116)

奈良文化財研究所は10月5日、現在の奈良市に位置し、1000年以上前の都、平城京の遺跡から発掘された木簡を改めて調査した結果、ペルシャ人の役人が働いていたことを示す新しい証拠が見つかったことを明らかにした。
「天平神護元年」(765年)と記された木簡に、ペルシャ人の役人とみられる「破斯清通」という名前があったことが分かった。

Ws000000「破斯(はし)」はペルシャ(現在のイラン付近)を意味する中国語の「波斯」と同義で、国内の出土品でペルシャ人を示す文字が確認されたのは初めて。外国人が来日した平城宮の国際性を示す史料となりそうだ。
 奈文研によると、木簡は平城宮跡東南隅の発掘で1966年に出土した、役人を養成する「大学寮」での宿直勤務に関する記録。当時は文字が薄いため名前の一部が読めなかったが、今年、赤外線撮影したところ、「破斯」の文字を判読できた。
 「大学寮解 申宿直官人事」のほか、下部に、特別枠で任じられた役人を意味する「員外大属(いんがいだいさかん)」という役職名もあった。
、古代の日本が予想よりも国際色豊かだった可能性があると指摘した。
 日本と現在のイランの間の直接的な貿易関係は遅くとも7世紀に始まったことが知られているが、1960年代に発見された木簡を改めて調査したところ、さらに広範囲な交流が見えてきたという。
 古代の日本で紙の代わりとして使われていた木簡に書かれていた文字は、これまで判読不可能だったが、今回、赤外線を使って調査した結果、日本に住むペルシャ人の役人の名前とみられること分かった。
 奈良文化財研究所の渡辺晃宏(Akihiro Watanabe)史料研究室長によると、このペルシャ人は日本の役人が教育を受ける施設で働いており、ペルシャが得意としていた数学を教えていた可能性があるという。
ペルシャ人の役人 765年木簡に「破斯」

シルクロードを経由して、ペルシャやヨーロッパと交流があったことは良く知られている。
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ローマと日本人の相性は、良い!

また、ギリシャで発達した数学がインドの記法と合体することによってさらに発展していったが、中東諸国の媒介があったと言われる。
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古代へのロマンを誘う解読だが、半世紀前に出土した木簡から新しい情報が得られるというのも技術進歩の賜物と言えよう。

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