やまとの謎

2016年12月28日 (水)

薬師寺論争と年輪年代法/やまとの謎(117)

飛鳥の法隆寺、天平の東大寺と対比され、白鳳を代表する寺が薬師寺であるとされている。
薬師寺は、天武8(680)年に、鸕(ウ)野皇后(のちの持統天皇)の病気治癒を祈願して、天武天皇によりその造営が企図された。
この薬師寺は、平城京ではなく、藤原京に建立された。

ところが、元明天皇によって平城遷都の詔が出され、和銅3年(710)藤原京から平城京への遷都が実施された。
それと共に、飛鳥や藤原の地に造営された諸寺も、平城京へ移転することになった。

これらの寺院の移転には大きな特色がある。"移転”と言うと、旧伽藍を解体し、平城京で新たに組み立てたとの印象を与えがちだが、実情はそうではない。単に寺号を受け継いだだけで、平城京で新しく堂宇を建立しているのだ。しかも、旧伽藍とは全く異なる伽藍配置を採用している。
唯一の例外が薬師寺である。薬師寺だけは寺号を変えなかった。そのため、藤原京にあった薬師寺は、奈良薬師寺と区別するために「本薬師寺」と呼ばれるようになる。それだけではない、他の大寺とは異なり、本薬師寺の伽藍配置をそのまま踏襲している。
本薬師寺から奈良薬師寺への移転の陰に隠された秘密

薬師寺が、本薬師寺の伽藍配置をそのまま踏襲していることから、本薬師寺と薬師寺に関して、建築物と仏像の関係が、「移建-非移建」「移座-非移座」についての論争がある。
「移建・移坐」ならば、東塔は、文武天皇の時に建てられたものの移建であり、金堂三尊は、持統天皇の時に造られたものの移坐である。
非移建ならば、両者とも平城京遷都後のものということになる。
文化史・美術史では、平城京遷都までを「白鳳」、遷都後を「天平」といっているので、「移建・移坐」か「非移建・非移坐」の問題は、「白鳳」か「天平」か、という問題であり、美術史の様式をどう捉えるかという問題になる。
⇒2008年2月22日 (金):薬師寺論争…①「白鳳」か「天平」か

奈良文化財研究所(奈文研)が、解体修理中の薬師寺東塔の天井板2点に対し年輪年代測定を実施した結果、新事実が判明した。
伐採年が729年と730年と推計され、塔中央の心柱についても、最も外側の年輪が719年を示し、720年代に伐採された可能性が高まった。
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読売新聞12月20日

東塔の造営年代については、平安時代の歴史書「扶桑略記」に「天平2(730)年3月29日、薬師寺東塔を建て始める」とする記述がある。
東塔保存修理事業専門委員長の鈴木嘉吉・元奈良国立文化財研究所長(建築史)は「年輪年代測定の結果が史書の記述と一致する、国内初の発見。東塔を平城京で造ったことが確定した」と話している。
年輪年代法という理化学的方法の有用性は法隆寺論争でも明らかにされてきたが、様式論とは別の視点から、古代史の謎解明に貢献するのではなかろうか。
⇒2007年8月30日 (木):若草伽藍の瓦出土

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2016年10月 7日 (金)

半世紀前に出土木簡からペルシャ人情報/やまとの謎(116)

奈良文化財研究所は10月5日、現在の奈良市に位置し、1000年以上前の都、平城京の遺跡から発掘された木簡を改めて調査した結果、ペルシャ人の役人が働いていたことを示す新しい証拠が見つかったことを明らかにした。
「天平神護元年」(765年)と記された木簡に、ペルシャ人の役人とみられる「破斯清通」という名前があったことが分かった。

Ws000000「破斯(はし)」はペルシャ(現在のイラン付近)を意味する中国語の「波斯」と同義で、国内の出土品でペルシャ人を示す文字が確認されたのは初めて。外国人が来日した平城宮の国際性を示す史料となりそうだ。
 奈文研によると、木簡は平城宮跡東南隅の発掘で1966年に出土した、役人を養成する「大学寮」での宿直勤務に関する記録。当時は文字が薄いため名前の一部が読めなかったが、今年、赤外線撮影したところ、「破斯」の文字を判読できた。
 「大学寮解 申宿直官人事」のほか、下部に、特別枠で任じられた役人を意味する「員外大属(いんがいだいさかん)」という役職名もあった。
、古代の日本が予想よりも国際色豊かだった可能性があると指摘した。
 日本と現在のイランの間の直接的な貿易関係は遅くとも7世紀に始まったことが知られているが、1960年代に発見された木簡を改めて調査したところ、さらに広範囲な交流が見えてきたという。
 古代の日本で紙の代わりとして使われていた木簡に書かれていた文字は、これまで判読不可能だったが、今回、赤外線を使って調査した結果、日本に住むペルシャ人の役人の名前とみられること分かった。
 奈良文化財研究所の渡辺晃宏(Akihiro Watanabe)史料研究室長によると、このペルシャ人は日本の役人が教育を受ける施設で働いており、ペルシャが得意としていた数学を教えていた可能性があるという。
ペルシャ人の役人 765年木簡に「破斯」

シルクロードを経由して、ペルシャやヨーロッパと交流があったことは良く知られている。
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ローマと日本人の相性は、良い!

また、ギリシャで発達した数学がインドの記法と合体することによってさらに発展していったが、中東諸国の媒介があったと言われる。
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古代へのロマンを誘う解読だが、半世紀前に出土した木簡から新しい情報が得られるというのも技術進歩の賜物と言えよう。

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2016年9月28日 (水)

国石・ヒスイの古代における流通/やまとの謎(115)

水晶か、翡翠か、それとも…
諸候補があった「日本の石(国石)」について、9月24日、日本鉱物科学会が翡翠を選定した。
翡翠は約5億年前に海洋プレートが沈み込む地中深くで生まれた宝石と言われる。
Wikipediaでは以下のように解説している。

日本では古代に糸魚川で産出する硬玉の翡翠が勾玉などの装飾品の材料とされ珍重されていたと推定されるが、奈良時代以降その存在は顧みられなくなっていた。日本での翡翠の産出が再発見されたのは1938年(昭和13年)のことである。2008年(平成20年)北京オリンピックのメダルにも使われている。現在では翡翠は乳鉢の材料としても馴染み深い。

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東京新聞9月27日

 国石は以前から俗説があったため、日本鉱物科学会は国鳥(キジ)や国蝶(オオムラサキ)のように学術団体として正式に選定することを決め、一般からの意見公募を行うなど選定作業を進めてきた。
 金沢市で開かれた学会総会では、最終5候補の推薦者が提案理由の発表を行った後、会員による投票でヒスイ71票、水晶52票となり、国石が決定した。ヒスイの応援演説に立ったフォッサマグナミュージアム(糸魚川市)の宮島宏館長は、「プレートが沈み込む場所でしか産出されないヒスイは日本ならではの美しい宝石。縄文時代から古代人が加工して利用した世界最古の歴史もある」などと訴え、多くの会員に認められた。
「国石」にヒスイ選定…産地・糸魚川は喜びの声

現在、古代史ファンならずとも、古代の遺跡で見つかるヒスイの産地が糸魚川市の姫川流域であることは知っているだろう。
しかし、明治になって遺跡からヒスイが発掘され出した当時は、日本にはヒスイの産地は無いというのが学会の定説だったという。
当時日本に一番近いヒスイの産地は、ミャンマー北部・雲南方面であり、ここらが日本のヒスイの産地であろうというのが一般的な見方だった。
糸魚川出身で、早稲田大学に学び「都の西北」の作詞者でもある相馬御風は、記紀に記される「玉」はヒスイではないかと考えた。

イハレビコの祖先、天孫の日向三代が、アマテラスに豊葦原の瑞穂の国を治めるように仰せになった前の葦原の瑞穂の国を治めていたのは、出雲の国のオホクニヌシ(ヤチホコ)であったが、高志の国のヌナカハヒメを妻にしている。このヒメは、糸魚川の姫川のヒメであり、ヒスイの産地のヒメである。また、オホクニヌシは天孫系からも妻にしている。それは、アマテラスとスサノヲがウケヒして、アマテラスがスサノヲの十拳の剣を噛み砕いて、噴出した三女神のひとり、タキリビメである。縄文時代の出雲の国の権力者が、糸魚川のヒスイの鉱山を手に入れるため、嫁にした事になる。
翡翠勾玉から見た古代史 

御風は、ヌノカワと読める勾玉の産地は糸魚川を流れる「姫川」の事ではないかと考え、これを地元の人々に説いて昭和14年、探索していた地元住民により初めて姫川支流の小滝川上流でヒスイが発見された。
糸魚川でヒスイが産出するという事が考古学会で認められて13年後(その間第二次世界大戦と戦後の混乱期をはさむ)の昭和29年、初めて糸魚川市の長者ケ原遺跡に本格的な学術調査が入った。
その結果、完成品のペンダント2個を含むヒスイの原石が250点も出土した。
さらにその多くが加工途中の半製品或いは破損品である事が判明し、長者ケ原はヒスイを中心とする石材の一大加工センターであった事が判明した。

三内丸山遺跡でもヒスイは出土している。
⇒2016年9月 9日 (金):三内丸山遺跡と縄文人のルーツ/技術論と文明論(66)
縄文時代の交易圏の広さを再認識させられる。

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2016年9月22日 (木)

キトラ古墳の極彩色壁画/やまとの謎(114)

キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)の展示施設「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」が古墳の北隣に完成した。
同古墳は、奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳で、亀虎古墳とも書く。
墳丘にある石室内に極彩色の壁画が発見され、高松塚と共に保存事業が進められている。
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キトラ古墳

壁画は1983年に発見された。
劣化が進んでいたため2004〜2010年に順次剥ぎ取って、カビや汚れを除去するなどの修復を続けている。
四神像のうち、「青龍」「玄武」は年内に修復を終える予定だ。

 金箔(きんぱく)で表現された約350個の星、それを朱で結んだ少なくとも74の星座たち。この美しい天文図の存在は、最初の壁画の発見から15年後、1998年に確認された。他にも、北極星を中心に常に星が地平線下に沈まない範囲を示す円(内規)、天の赤道などが精密に描かれている。いつ、どこで見上げた夜空なのか。その謎解きに挑んだ2人の天文学者の研究成果が昨年7月、発表された。
 地球が自転する際の軸となる「地軸」の傾きは時代によって変わり、星の見え方も変化する。
 中村士・元帝京平成大教授(天文学史)は、古代中国で国家の運命を占う際に使われた28星座「二十八宿」の位置に着目し、天文図が描いたのは紀元前80年の前後40年の星空だと推定。一方、国立天文台の相馬充助教(位置天文学)は描く際の誤差が少ないと考えられる内規や赤道に近い星11個で計算し、紀元後300年の前後90年に、古代中国の都、洛陽や長安(現西安)を通る北緯約34度で観測したと結論付けた。
 二つの分析は一見矛盾するように思えるが、キトラ古墳の調査を担当する奈良文化財研究所飛鳥資料館の石橋茂登・学芸室長は「古い星図に修正を加えながら、中国や朝鮮半島との交流を通じて日本にもたらされたのでは」と想像する。紀元前4世紀に活躍した中国の天文学者、石申の観測記録と伝わる「石氏星経」が原典になったと考えられるという。
息をのむ極彩色壁画 世界最古天文画も

キトラ古墳の被葬者は誰か?
高松塚と同様に、ほぼ藤原京の中央、朱雀大路の南への延長上、いわゆる「聖なるライン」のやや西へずれたところに位置している。
この中央線上に、菖蒲池古墳、天武・持統天皇陵、文武天皇陵がある。
⇒2008年9月 4日 (木):高松塚古墳のポジショニング
その位置からすると、やはり天武・持統天皇の近親者ということになろうか。
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飛鳥プロジェクト

天武天皇の長男、高市皇子(696年死去)や、陰陽師の安倍晴明が子孫ともされる右大臣、阿倍御主人(703年死去)との説があるようだ。

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2016年2月22日 (月)

高尾山古墳と狗奴国論/やまとの謎(113)

保存か道路整備かで注目を集めていた沼津市の高尾山古墳に一定の方向性が見えてきた。
⇒2015年11月25日 (水):高尾山遺跡保存の方向へ/やまとの謎(109)

両立の方向性を検討する有識者協議会で、2月2日、会の結論ではないが、有識者有志の連名で「T字4車線迂回路」が推奨案とされた。
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東京新聞2月3日

市長も前向きだというからほぼこの案に沿って進むであろう。
議会で決定された当初案が覆されたのは画期的であるが、現地には道路整備を前提として既に移転済みの人もいるからまだまだ調整は必要である。
保存を願ってきた者としては、是非「沼津モデル」と呼ばれるような形で最終的な決着を見せて頂きたい。

連動して13日に、「全国邪馬台国連絡協議会」の主催により、「第1回狗奴国サミットin沼津」が開催された。
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1年前ならば、誰しもが「何で、沼津で、狗奴国サミット?」と不思議がられたはずだ。
狗奴国は「魏志倭人伝」に登場するクニの1つで、邪馬台国(連合)のライバルと目されている。
主催の名前からも分かるように、邪馬台国の候補地は全国に分布している。
ということは、狗奴国の位置論も同様ということである。
サミットでも狗奴国の見方はさまざまであった。
基調講演の考古学・森岡秀人氏が天竜川以東を唱えておられたが、雰囲気的には小数説であろう。
面白いと思ったのは医師の若井正一氏の「狗奴国大和説」であり、邪馬台国ならぬ狗奴国が大和にあったというのは、逆転の発想である。
いずれにしろ、高尾山古墳については分からないことが多い。
是非検討を深化させて行って欲しいと思う。

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2016年2月 2日 (火)

三角縁神獣鏡論争の新展開/やまとの謎(112)

1月30日付の日本経済新聞文化面に、『「卑弥呼の鏡」深化する論争』という記事が載っていた。
同鏡については、「国産か中国産か」ということで論争が続いている。
中国産であれば、「魏志倭人伝」の「魏帝が卑弥呼に鏡100枚を下賜した」という記述の信憑性が高くなる。
しかし、日本では既に多数(500枚以上といわれるが、正確な総数は不明)が出土しているにもかかわらず、肝心の中国からは1枚も出土していないと言われていた。
私は、「卑弥呼の鏡ではない」という立場を支持していた。

ところが昨年の3月に、「中国河南省の洛陽市で見つかったとする論文が、地元の研究誌に掲載された」というニュースが朝日新聞に掲載された。

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 論文を書いたのは河南省在住のコレクターで研究者でもある王趁意さん。王さんは鏡について「2009年ごろ、当時、洛陽最大の骨董(こっとう)市で、市郊外の白馬寺付近の農民から譲り受けた」と説明する。正確な出土地点はわからないという。
 鏡は直径18・3センチ。厚さ0・5センチ。三角縁神獣鏡としてはやや小ぶりで、内側に西王母(せいおうぼ)と東王父(とうおうふ)という神仙や霊獣、外側にノコギリの刃のような鋸歯文(きょしもん)と二重の波状の模様を巡らせる。
邪馬台国論争に新材料 卑弥呼の鏡?「中国で発見」論文

骨董市で譲渡された出土地が明らかでないものでは史料的価値には疑問があると言わざるを得ない。
ところが大阪府教育委員会副主査の西川寿勝氏が加工痕をもとに「日本のものと同じ工人集団が作ったもの」と結論づけた。
経緯は西川氏の発表資料に以下のようにまとめられている。
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日本書紀研究会12月例会報告/洛陽で発見された三角縁神獣鏡

西川氏の言うように、加工痕が日本のものと差がないとすれば、中国で新発見の鏡も日本製であるか、日本で出土している鏡も中国産か、という両様の可能性が出てくる。
常識的に考えれば、日本で出土した鏡が、何らかの経路で中国の骨董市で売り出されたと考えるべきだろうが。

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2016年1月10日 (日)

邪馬台国と駿河と高尾山古墳/やまとの謎(111)

JR東海の広報誌「ひととき」の1月号に、歴史と旅の作家・恵美嘉樹氏が『邪馬台国と駿河』という一文を寄せている。
沼津市の高尾山古墳によって、邪馬台国時代の歴史観が変わるかもしれない、という内容である。
高尾山古墳は旧辻畑古墳というが、昨年道路計画のため取り壊されそうになった。
⇒2009年9月20日 (日):沼津市で最古級の古墳を発掘
⇒2009年9月21日 (月):沼津市で最古級の古墳を発掘(続)
⇒2009年10月25日 (日):朱の効能
⇒2015年6月17日 (水):高尾山古墳の主は卑弥弓呼か?/やまとの謎(103)
⇒2015年6月25日 (木):高尾山古墳が存亡の危機という非常事態/やまとの謎(104)

その後反対運動が高まり、中沢新一氏が、「週刊現代」に連載中の『アースダイバー』で扱ったりした。
また、狗奴国研究の第一人者である赤塚次郎さんの講演会などもあって、現在は古墳の保存と道路の両立ということになっている。

恵美氏の文章も、基本的には高尾山古墳は狗奴国連合の一員ではなかったかとするものである。
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残念なことは、出土品を展示している沼津市文化財センターが、土・日・祝・年末年始等が休館なことである。
平日にしか時間がとれない希望者も多いだろう。
担当を交代制にするなど、何らかの策を講じて欲しいと考える。
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恵美氏もヤマトタケルの話と結びつけていた。
ヤマトタケルが火攻めにあったという記紀神話が、焼津の地名の起源であるとうことである。
高尾山古墳の主も、ヤマトタケルの抵抗勢力だったかも知れない。
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焼津神社のヤマトタケル像

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2015年11月30日 (月)

日本古代史におけるパラダイム転換/やまとの謎(110)

10月14日に古代史家の古田武彦氏が亡くなった。
⇒2015年10月18日 (日):古代史のイノベータ―・古田武彦/追悼(76)
上記記事に対し、C13シロウズという方からコメントを頂き、同氏のブログ(孤独な散歩者の観・閑・想)に大いなる示唆を受けた。

私は社会人になった頃、実家の近くにあった小さな書店の片隅で、偶然に安本美典氏の『数理歴史学-新考邪馬台国』筑摩書房(1970年3月)という本を手にし、興味をそそられた。
いわゆる邪馬台国問題に、数理統計的アプローチでアプローチしたものである。
⇒2008年11月16日 (日):安本美典氏の『数理歴史学』

安本氏は文学部の出身で、数理統計的手法で文体分析などやマーケティングへの活用を研究していたが、議論百出だった邪馬台国問題に数理統計を応用した。
以来、私は安本氏の著書が出ると買って読むようになり、安本氏は「季刊邪馬台国」の編集長となって、邪馬台国問題権威者の1人となった。

安本氏と激しい論争をしたのが古田武彦氏で、2人は「中央公論 歴史と人物/昭和55年7月号」という雑誌で、『熱論「邪馬台国」をめぐって』という対談を行った。
7時間にわたり、いろいろな論点を語り合っているのだが、その頃は安本ファンだったので、安本氏に分があるように感じた。

古田氏は親鸞の研究者だったが、古代史の分野の単行本デビュー作は『「邪馬台国」はなかった-解読された倭人伝の謎』朝日新聞社(1971年11月)で、安本とほぼ同時期ということになる。
文体も、安本氏が数理的な解説を淡々と記述するのに比し、古田氏はエキセントリックなように感じた。
⇒2008年11月18日 (火):「古田史学」VS「安本史学」

古田武彦氏の印象は、安本氏との対比で分が悪かったのだが、私の関心が建国問題にシフトするに連れ、古田氏の言説に興味を持つようになった。
古田氏は現在ミネルヴァ書房から「古代史コレクション」を刊行中である。
古田氏の提示した仮説は数多いが、代表的なものはやはり「九州王朝論」ではなかろうか。
古代史の通説では、「倭の五王=讃、珍、済、興、武」の時代には、大和朝廷が日本列島の大部分(東北、北海道を除く)を統一していた。
五王の比定には諸説あるが、年代は413年 - 478年である。

この通説に対し、古田氏は7世紀末まで日本列島を代表して中国と交渉していたのは、筑紫の九州王朝だとする。
7世紀末までは太宰府に首都をおく九州の王朝が日本列島の代表者だった、という「一元通念無効の指摘」である。
「一元通念無効の指摘」という言い方は、中小路駿逸氏の言い方で、一般には、「九州王朝説」とか「多元的王朝論」などと言われてる。

日本は昔、「倭」と呼ばれていた。
そして、「倭」が大和の王権によって、5世紀中には統一的に支配されていたというのが、古代史の「定説=標準理論」になっている。
つまり、聖徳太子や推古天皇などが大和で活躍したことは、疑う余地のない事実とされてきた。

「一元通念」とうのは、日本列島の支配者は大和朝廷以来、天皇家であるという考え方を指す。
私(たち)は、小学校以来、「悠久の大和」というような概念を刷り込まれている。
甚だしいのは国会の予算委員会で、八紘一宇を「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と言ってのけた三原じゅん子議員のような人だろう。
⇒2015年3月18日 (水):確信的「無知」の「無恥」・三原じゅん子/人間の理解(10)
しかし、三原氏は別としても、「倭の五王=讃、珍、済、興、武」を近畿大和の天皇家に比定するのは古代史の通説である。

その枠組みの中で、ことに「武=ワカタケル=雄略天皇」であるというのを論拠として、武の時には、統一王朝が成立していたというのが多数説だ。
行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた銘文と、熊本県玉名郡和水町にある江田船山古墳出土の鉄刀の銘文が共に「ワカタケル」と読むことができるから、5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈されるというわけである。

高松塚の壁画に描かれている光景のような記述が『続日本紀巻二』の文武天皇五年目の冒頭にある。
「大宝元年春正月乙亥朔、天皇御大極殿受朝」とある条で、「大宝元年」という年号が明記されている。
これに対し、『続日本紀巻一』では、文武に関して「高天原広野姫天皇十一年、立為皇太子」とあり、次に「八月甲子朔、受禅即位」とあって天皇への即位が記されているが、即位の年の年号は記されていない。
即位という重要な年に年号が記されていないのは不自然であろう。

古代史の分野に「郡評論争」と言われる有名な論争があった。
井上光貞氏(東大教養学部助教授)が、『日本書紀』の大化2(646)年正月条に記されている大化改新詔の用語が、後世の大宝律令によって大幅に修飾されていることを主張した。
地方行政単位のコオリ(郡)が、大宝令で初めて使用された用語であるとし、その後藤原宮から出土した木簡などによって立証さた。
当時、『日本書紀』の推古紀位以降は基本的には史実と考えられており、東大文学部国史学科の重鎮だった坂本太郎教授が否定して、日本史学界を二分する論争になった。
⇒2007年9月12日 (水):藤原宮木簡と郡評論争
⇒2008年4月 1日 (火):大化改新…⑤否定論(ⅱ)

白村江の戦いで弱体化した倭が壬申の乱を経て、近畿天皇家に代表の座を奪われたとするものである。
私も古田説の仮説としての効力は大きいと考える者の1人である。C13シロウズ氏の説の中で、興味深かったのは、『中小路駿逸の論文 「『日本書紀』の書名の「書」の字について」 1988年 』と『続・中小路駿逸の論文 「古田言説が出現してからーー中小路言説とのかかわり」 』である。
中小路駿逸氏の名前は目にしていた。
古田氏の『関東に大王あり―稲荷山鉄剣の密室』創世記(1979年11月)の中に「補編 友アリ遠方ヨリ来ル」という文章があって、中小路氏からの手紙が紹介されている。
中小路氏の自己紹介が次のように書かれている。

私は現在愛媛大学教養部に勤めておりまして、専門は国文学です。(昭和二十八年京大国文卒。)現在調べていますことは、同封の抜刷でごらん下されば幸いです。

そして、古田氏は、百万の援軍を得た思いを綴っている。
四面楚歌的状況にあって、中小路氏からの便りに如何に力づけられたかは良く分かる。
アカデミズムでは無視されてきたが、アマチュアの間では九州王朝の支持者は多い。
「倭の五王」について、九州の王とする説の一端を紹介する。

宋書には倭王武の上表文が、長文引用されている。この中で、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とある。従来これを「近畿を中心とした倭国版の中華思想のあらわれ」と見なした。だが、これはふさわしくない。倭王武の上表文にあらわれるとおり、倭王は、中国(南朝)の臣下として、厳にその立場を主張している。当然、自らを「東夷」の一角におき、東夷の王として中国の天子の威徳が及ぶ範囲を、広げてきた、と倭王武は語っている。

王道融泰にして、土を廓き畿を遥かにす。累葉朝宗して歳に愆らず。

この文言がすべてを物語っている。ここで語っている、東西+海北の範囲は以下のようだ。
<図>衆夷(西)を中心に北と東へ。
したがって、倭の五王の居城は九州にあったと見なすのが、最も自然である。
3.倭の五王

毛人のエリアについては、違和感があるが。

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2015年11月25日 (水)

高尾山遺跡保存の方向へ/やまとの謎(109)

古代史の分野には多くの謎が残されている。
それは私たちの好奇心を刺激するが、日本の国の成り立ちを正しく知ることは重要であろう。

私は、老後の楽しみに邪馬台国関連著書を集めていた。
しかしいざ老後を迎えると、発症やら地震やらの影響で、家族から蔵書の処分を迫られ、邪馬台国関連本は殆ど処分してしまった。
私自身の興味が、日本の建国問題(大化改新、白村江の戦い、壬申の乱等)に移ったことも大きい。
そこに邪馬台国と同時代かも知れないという古墳が沼津市で発見された。
発症前に発掘調査を見学し、貴重品とされた大量の朱や破鏡などが発掘されたと聞き、これは重要な古墳かもしれないと、思っていた(当時は辻畑古墳という名称)。
⇒2009年9月20日 (日):沼津市で最古級の古墳を発掘
⇒2009年9月21日 (月):沼津市で最古級の古墳を発掘(続)
⇒2009年10月25日 (日):朱の効能

その直後、長い入院とリハビリの間に、高尾山古墳のことなどすっかり忘れていたが、新聞報道で、道路建設のために取り壊す予算が市議会で可決されたということを知った。
「地方創生」と言われ、「地域の宝探し」が行われている時に、何ということだと思って、微力ながら反対運動に協力してきた。
⇒2015年6月17日 (水):高尾山古墳の主は卑弥弓呼か?/やまとの謎(103)
⇒2015年6月25日 (木):高尾山古墳が存亡の危機という非常事態/やまとの謎(104)

その後、反対運動の盛り上がりなどもあって、市長は協議会を設けて両立の方策を探るとしてきた。

前提方針 
協議会では、初めに前回に市側が実施を約束した沼津南一色線の交通量推計が報告され、一日二五、八〇〇台であるとされた。この推計は、道路を二車線にするか四車線にするかの判断基準として実施され、一万二千台以下なら二車線化も可能になるとされていた。しかし、推計値は基準値を大きく超えたため、二車線化による道路設計は否定されることになった。
続いて、古墳の現地での現状保存については、文化庁の禰宜田氏から「移築では史跡指定の対象とはならない」との意見が出され、古墳移築は検討対象から除外された。
代替案 
前回協議会で委員達が要望していた新たな道路設計の代替案について、市側から九案が提出された。
この九案を設計するに当たり、市側は「古墳北側部分の高く盛り上がっている墳丘部を壊さない」「道路用地取得のための建物再移転は可能な限り避ける」「追加の用地買収は最小限に抑える」などの原則を設定。
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一長一短 各案には、それぞれ利点と欠点がある。
四車線が一体的にS字力ーブで古墳を迂回する方式では、用地買収面積が広くなり、過去に移転に応じた建物が再移転を迫られる件数が最も多くなる。
T字交差点方式は、事業費用が約五億円と九案の中では最少レベルであるのに対し、交差点の追加により、スムーズな車両通行に影響が出る。
トンネル方式は、四車線をすべてトンネル化した場合、事業費として最低でも五十億円以上が必要となる。事業費の半分は国負担となるが、平均の年間道路事業費が約八億円である沼津市にとっては重大な負担となる。
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T字方式の利点 新たに交差点を設けることになるT字交差点による古墳迂回方式は、スムーズな車両走行の妨げになる可能性があると指摘されたが、新たな用地取得や事業費が比較的少なくなることから、委員達からも大きく注目された。
それに伴い矢野委員は、「自分は道路の専門家ではないが」と前置きした上で、交差点の設置により車両の走行速度が落ちることから、交通安全の面では有益であると指摘した。
都市計画の専門家である久保田委員は「T字方式は、道路の専門家が見ると『びっくりたまげた』案であろう」と述べて非常識的なアイデアだとする一方で、「しかし、この場合は可能性のある案だ。近くには国道一号との交差点があり、沼津南一色線の走行車両は、必ず国道一号で止まることになる。どうせ、すぐに止まるのだから、その手前で一時止まるようなことになっても、交通への影響は限られるのではないか」と話した。
国交省の神田氏は、信号機付きの交差点が設置されることは、児童の道路横断にとって都合が良いものであり、交通安全の観点からプラスになる、と意見を述べた。
今回の結論議長役の大橋委員は、各委員からの意見表明を受けた上で、①四車線を一体的にT字交差点方式で古墳西側を迂回させる案、②片側二車線を古墳西側地上でS字カーブさせ、残り二車線をトンネル化する案、③片側二車線を古墳西側地上をT字交差点方式で迂回させ残り二車線をトンネル化する案の三案が有力になるだろう、と述べた。
これに対し、神田氏は、古墳と神社を分断する東西迂回案については、市民の意見を反映した上で今後の検討対象として残すことを要望した。
この意見を踏まえ、大橋委員は市に対して協議会の第3回開催以前に、パブリックコメントなどの実施による市民意見の聴取を市側に要望した。
【沼朝平成27年11月20日(金)号】

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2015年11月19日第2回高尾山古墳・道路整備両立協議会画像資料

私もT字案がいいように思う。
何とか保存の方向性が見えてきたようで、保存を願ってきた者の1人として一安心である。

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2015年11月 4日 (水)

辺野古に考古遺跡か?/やまとの謎(108)

米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設で、埋め立て予定地の米軍キャンプ・シュワブ沿岸から新たに土器や石器が発見されたことが分かった。
発見場所は文化財の「碇石」が見つかった現場付近で、仮設岸壁や仮設道路建設予定地に一部が重なる。
土器などが文化財だった場合、市教育委員会は一帯を遺跡に認定するよう求める方針だという。

Photo 市教委は10月13~16日と26~30日の間、碇石発見現場付近で、歩いて遺物の有無を確かめる踏査を実施した。その結果、干潮時の海辺で土器や石器が数点見つかった。現在は市教委が保管している。市は遺失物法に基づいて名護署に届けを出し、同時に米軍に公開許可申請を提出する。その後県教委が文化財保護法に基づいて、土器や石器を鑑査し、文化財と認められた場合、その一帯を遺跡と認定するかを検討する。
 遺跡と認められた場合、工事の前に遺跡の規模を調べる試掘調査が必要となる。さらに、記録を残すための調査を実施する場合もある。市の担当者は「防衛局の工事の規模が分からない」と前置きし、「現在実施している調査すら本年度中で終わるとはとても思えない。(遺跡と認められた場合の)試掘調査はその後になる」との見通しを述べた。
シュワブ沿岸に土器 遺跡認定なら辺野古工事遅れ

沖縄は、考古学的にどのような位置づけにあるのだろうか?
琉球大学名誉教授で、噴火と地震に関する独自の理論の実績が注目されている木村政昭氏に、『邪馬台国は沖縄だった!―卑弥呼と海底遺跡の謎を解く』第三文明社(2010年5月)という著書がある。
邪馬台国位置論は、まさに汗牛充棟であるが、『魏志倭人伝』に描かれている倭の習俗は、どう考えても南方系である。
その頃の気候条件がどうだったかは別とすれば、九州はともかく、畿内とは思えないというのが率直な印象である。
決して突飛な議論ではない。

そもそも沖縄は、琉球弧と呼ばれる地理的条件にある。

 琉球弧とは、日本列島西南端の九州島から南約1,260kmの洋上に199余の島々が花緑のように分布し、地理学上で「南西諸島」「琉球列島」などと総称される。現在の行政区分上では北半分の薩南諸島38島は鹿児島県に、南半分の琉球諸島161島は沖縄県に所属する。ちなみに南西諸島という呼称は明治時代中期以降の行政的名称で、それ以前は「南島」や「南海諸島」「西南諸島」と呼称されてきたが、ここでは広く地理学・地学的名称として、国際的に認知される「琉球弧」という名称を使用する。
 琉球弧はユーラシア大陸東端の太平洋沿岸に、世界最強の「黒潮」(日本海流・暖流)の流路に沿って弧状に分布する島嶼群である。この地理的位置から先史時代以来多くの人々が琉球弧を往来し、「南西陸橋」「道の島」「海上の道」などと呼称されている。そして今日の「日本文化の基層」には、この琉球弧経由の文化要素が多く看取され、日本人・日本文化の源流を辿る時、この島嶼地域が重要な役割を果たした証左が解明されつつある。
琉球弧の考古学

沖縄(琉球弧)は日本の文化・文明の基層と深く関連している。
文化財保護の観点からも、辺野古移設は再考されるべきではなかろうか。

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