私撰アンソロジー

2017年5月22日 (月)

谷川俊太郎『大岡信を送る』/私撰アンソロジー(47)

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戦後の詩壇を牽引してきた大岡信さんが4月5日に亡くなった。
⇒2017年4月 7日 (金):ことばの魔術師・大岡信/追悼(102)
⇒2017年4月16日 (日):大岡信『春のために』/私撰アンソロジー(45)

JR三島駅の近くに「大岡信ことば館」がある。
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東京新聞5月11日

この「ことば館」で盟友ともいうべき谷川俊太郎さんの朗読とDiVaの演奏会が開かれた。
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DiVaというのは、谷川さんの子息・賢作さんを中心とする音楽グループである。
賢作さんは、もちろん子供の時から大岡さんと面識があり、アットホームな会であった。
掲出の詩は、「ことば館」の壁にレリーフになっている。
朝日新聞に4月11日に発表されたものである。

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2017年4月16日 (日)

大岡信『春のために』/私撰アンソロジー(45)

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4月5日に亡くなった大岡信は、昭和6年、満州事変の年に静岡県三島市に生まれ、旧制沼津中学在学中に詩作を始めた。
⇒2017年4月 7日 (金):ことばの魔術師・大岡信/追悼(102)

新幹線三島駅北口に「大岡信ことば館」があるのはその縁である。
⇒2011年7月 9日 (土):「大岡信ことば館」における『私の万葉集とことば』座談会

同館の展示には工夫が凝らされていて面白い。
⇒2012年8月26日 (日):大岡信『二人の貧窮者の問答』/私撰アンソロジー(15)

掲出の詩は処女詩集『記憶と現在』に収められている。
25歳の時の上梓であり、以後詩歌界を牽引してきたことは周知の通りである。
建築家で詩人の渡辺武信氏は、思潮社版現代詩文庫『大岡信詩集』(1969年7月)の解説「大岡信論-感覚の至福からのいたましき目覚め」で、次のように言っている。

詩集《記憶と現在》は、一つの感受性が開花に至るまでの、みずみずしい混沌に満ちた彷徨の記録である。

掲出詩の第三連については、次のように解説している。

 ここでは、視像から視像への動きが、たたみかけるような詩句の呼吸と一体化して、ほとんど官能的な視覚的運動感をつくり出している。次々と提示される視像は決してあらかじめ予定されたスタティクな構図にはめこまれることはない。
・・・・・・
運動が官能的にすら感じられるのは、この詩が戦後の恋愛詩の傑作であり、<おまえ>と呼びかけられているのが恋人であるというような主題からくるのではなく、読む者が言葉にとらえられて一緒に動くというこの感覚からくるのだろう。

見事な読解と言えるが、主題と言葉のリズムが見事に一致しているからこその効果だと思う。
この詩人の新作を読めないというのは寂しいが、死は生命体の宿命である。
そのことを、子ども向けの絵本にしたのが、レオ・バスカーリアというアメリカの哲学者が書い『葉っぱのフレディ-いのちの旅』である。
私には、1998年10月27日の日本経済新聞朝刊のコラム『春秋』と産経新聞朝刊のコラム『産経抄』で、この絵本を紹介した時のことが忘れられない。

掲出詩のような青春を経て、朱夏、白秋、玄冬と季節と同じように、人生も移り変わって行く。
いかに長寿化しようが、死は避けられないのだ。

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2017年1月30日 (月)

恩田陸『蜜蜂と遠雷』/私撰アンソロジー(44)

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今期の直木賞受賞作。
第6回芳ケ江国際ピアノコンクールを舞台に、若きコンテスタントたちの戦いと友情を描く。芳ケ江は浜松がモデルで、随所にそれを思わせる描写が出てくるが、浜松とは無関係に楽しめる。
「ノスタルジアの魔術師」と言われ、青春群像の描写に定評がある著者の手練れの作品だ。
⇒2017年1月21日 (土):恩田陸『夜のピクニック』/私撰アンソロジー(43)

ちなみに浜松国際ピアノコンクールの概要は以下の通りである(Wikipedia)。

現在では、国際音楽コンクール世界連盟に加盟する国際コンクールである。第1回大会は浜松市市制施行80周年を記念して1991年(平成3年)に開催され、若手ピアニストの育成を図るとともに楽器の街から音楽文化の街への昇華を図る近年の浜松市政の代表的なものとなっている。第1回審査委員長は小林仁、第2回審査委員長は安川加寿子。安川の没後に中村紘子が後任に選ばれてからは、課題曲、審査員、コンテスタントの人選が以前よりも変化に富み、コンテスタントのレベルや選べるコンチェルトも次第に上がっていった。開始当初、レパートリーやコンチェルトの選曲の異様な狭さが問題となっていた。
開始当初はピアノの「ビッグスター」あるいは「スーパースター」が来場することで有名で、彼らはその後に国際コンクールの主要タイトルを連取した。ショパン国際ピアノコンクールやヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールの優勝者すら複数名も輩出し、予選落ちですらチャイコフスキー国際コンクールピアノ部門の優勝者やクリーブランド国際ピアノコンクール]やソウル国際音楽コンクールピアノ部門の優勝者を出すなど、華やかな激戦が繰り広げられた。ただし、中村紘子が審査から退任後は国際コンクールの「周遊組」が目立つようになり、2012年は優勝こそイリヤ・ラシュコフスキーであったものの、彼はその後チャイコフスキー国際音楽コンクールに失敗し、第二位第三位受賞者もことごとくメジャー国際コンクールで落選した。2015年度はヴィオッティ国際音楽コンクールピアノ部門、ショパン国際ピアノコンクール、ブゾーニ国際ピアノコンクールの予選落ち同士が本選で対決するなど、レヴェルの膠着化が顕著になってきている。
現時点で「メジャーデビュー」を成功させた優勝者は、チョ・ソンジンだけである。これも「メジャーデビューが難しい」とされているヴァン・クライバーン国際コンクールの在り方に酷似しているが、ツアーが3年ついて回るということはない。また、予選で落ちた人物の演奏CDを販売しており、人気のあるコンテスタントは即SOLD OUTになるなど、市民にピアニストの音が根付く仕掛けが施されている。

掲出部分は、かつて天才少女と言われた栄伝亜夜が、自然児的天才風間塵の才能に触れ、再び音楽に意欲を復活させるシーン。
コンクールの期間中に劇的に進化を遂げて行く若者たちが感動的だ。
音楽性の進化という不可視のテーマを、恩田さんは一幅の絵のように見事に描写している。
全日本卓球選手権で優勝した平野美宇選手が、「少女から勝負師に変身した」と言われているが、上達するときは昆虫の変態のように進化するのだろう。
コンクールが舞台だけに、ふんだんに楽曲名が登場する。

ちなみにファイナルに残った6人のコンテスタントの演奏する楽曲は、以下の通りである。
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http://ml.naxos.jp/playlist/naxos/565625

こんなことがアップされていることでも分かるように、クラシック音楽ファンには「一粒で二度も三度もおいしい」作品と言えよう。

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2017年1月21日 (土)

恩田陸『夜のピクニック』/私撰アンソロジー(43)

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第156回芥川・直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が1月19日で開かれ、芥川賞に山下澄人さんの「しんせかい」(新潮7月号)が、直木賞に恩田陸さんの「蜜蜂と遠雷」(幻冬舎)が選ばれた。
恩田さんは6回目の候補であり、実力はよく知られている。
私は若い人たちが本屋大賞の話で、小川洋子さんの『博士の愛した数式』と共に、恩田さんの『夜のピクニック』の支持が高かったので読んでみた。
『小説新潮』誌に、2002年11月号から2004年5月号まで連載。
2004年7月、新潮社から刊行され、第2回本屋大賞、第26回吉川英治文学新人賞を受賞した。

ストーリーは、以下の通り(Wikipedia)。

全校生徒が24時間かけて80kmを歩く高校の伝統行事「歩行祭」。3年生の甲田貴子は、最後の歩行祭、1年に1度の特別なこの日に、自分の中で賭けをした。それは、クラスメイトの西脇融に声を掛けるということ。貴子は、恋心とは違うある理由から西脇を意識していたが、一度も話をしたことがなかった。しかし、ふたりの不自然な様子をクラスメイトは誤解して…。

モデルは、著者の母校である茨城県立水戸第一高等学校の名物行事「歩く会」であるが、いわゆる伝統には似たような行事が少なくないと思われる。
掲出したように、普通の高校生の会話が中心で、それをどう感ずるかが評価の分かれ目だろう。
私は、遠い日の、甘いような切ないような気分が蘇ってきた。
瑞々しい秀作だと思う。

直木賞受賞作の『蜜蜂と遠雷』はモデルは浜松で開催されている)国際ピアノコンクールだ。
まだ読了していないが、ドキドキワクワク感がある導入部である。
「郷愁を誘う情景描写に巧みで「ノスタルジアの魔術師」と称される」と紹介されているが、「むべなるかな!」であろう。

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2016年4月27日 (水)

石黒耀『死都日本』/私撰アンソロジー(42)

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スクープを連発している「週刊文春」の3月17日号に、池澤夏樹氏の『3.11を読む』という書評が載っている。
小松左京『日本沈没』、石黒耀『死都日本』、北野慶『亡国記』である。
いずれも、地学的な変動が日本国を滅亡の淵に追い詰めるというストーリーである。
⇒2016年3月23日 (水):浜岡原発撤退の論理と倫理/技術論と文明論(42)

発行は『日本沈没』が1973年、『死都日本』が2002年、『亡国記』が2015年である。
日本沈没』と『死都日本』では、先見性のある政治家が危機を救うが、『亡国記』では安倍晋三首相をモデルにしていることが明らかであるが、危機におけるリーダーとしてまったく機能しないリーダー像である。

私は今回の「別府-島原地溝帯」と呼ばれる地域で起きている地震の第一報を聞いたとき、この作品のことが頭に浮かんだ。
霧島火山帯の古層の加久藤カルデラが30万年ぶりに噴火し、日本が壊滅の危機に瀕する……。
初版は2002年だが、東日本大震災が起きて、ストーリーの現実味が増した。

日本列島はプレートの押し合いで成り立っている。
押す圧力と岩盤の強度のバランスが崩れると断層になる。
大断層帯として中央構造線と中央地溝帯(フォッサマグナ)があるが、静岡県はそのシンボル的な地域である。
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富士川河口断層帯では中央地溝帯が露出している。
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東西を結ぶ要衝であり、地震が起きれば被害は甚大である。
浜岡原発は中央構造線と中央地溝帯に挟まれた地点にある。

偶然かも知れないが、太平洋の対岸のエクアドルでも大地震が起きた。
地下で何が起きているのか? 
気象庁はどう推移するか予測できないとしている。
「別府-島原地溝帯」という限定された範囲でも分からないののが現在の地球科学の水準である。
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地震連鎖と愚か者の無責任

「火の国」の由来となった阿蘇で巨大噴火が起きる可能性もゼロとは言えないだろう。
今回は内陸断層型地震で、南海トラフ地震との関連性は薄いとされているが、南海トラフ地震の発生確率は確実に高まっていると考えられる。
死都日本』は先見的な警告の書として読まれるべきであろう。

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2016年3月22日 (火)

清水昶『開花宣言』/私撰アンソロジー(41)

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気象庁は3月21日、東京・靖国神社にある桜標本木を観察し、東京都心のソメイヨシノの開花を宣言した。
平年より5日早く、昨年より2日早い観測という。
関東で最初に開花である。

清水昶の<デジタル版 日本人名大辞典+Plus>の解説は以下にようである。

1940-2011 昭和後期-平成時代の詩人。
昭和15年11月3日生まれ。清水哲男の弟。同志社大在学中「現代詩手帖」に投稿,昭和39年「暗視の中を疾走する朝」を発表,40年正津勉(しょうづ-べん)と詩誌「首」を創刊。41年現代詩手帖賞。「長いのど」「少年」などに時代の意識をうたう。「詩の根拠」などの評論集でも知られた。平成23年5月30日死去。70歳。東京出身。

私より少し早い生まれだが、ほぼ同時期の空気を吸っていた人である。
村上一郎は、吉本隆明、谷川雁とともに雑誌『試行』の創刊メンバーであった。
私は学生時代、学校の近くの古書店で二束三文で購入した春秋社の「現代の発見」シリーズの第3巻に収載されていた『日本軍隊論序説』でこの人の名前を知った。
日本浪漫派に通ずるパセティックな文章だった記憶がある。

村上一郎が、武蔵野市の自宅で日本刀により頸動脈を切り自刃したのは、1975年3月29日であった。
つまりこの年の開花宣言は、平年よりやや遅かった。
全共闘運動の活動家だったという清水昶は、村上一郎の感情過多のような生き方(死に方)にシンパシーを抱いていたと思われる。

絢爛と咲き誇って、すぐに散ってしまうというはかなさが大和魂と共通すると思われてきた歴史がある。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

そして、それが死のイメージを呼び起こす。
死者が埋められた場所の桜は成長が早いともいう。

21日の日の夕方、房総へのバスツアーの一員として、暗くなる頃、アクアラインを通って東京駅に帰着した。
開花宣言を記念して、東京タワーがピンク一色のダイヤモンドヴェールのイルミネーションで彩られるのに遭遇した。
一夜限りというイベントであるところが桜らしいと言えようか。
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一夜限定!東京タワーがピンクダイヤモンドに染まる

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2015年8月22日 (土)

阿川弘之『雲の墓標』/私撰アンソロジー(40)

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先日亡くなった阿川弘之さんの代表作『雲の墓標』の末尾。
私は高校時代から繰り返し読んだ作品である。
⇒2015年8月 6日 (木):落暉よ碑銘をかざれ・阿川弘之/追悼(74)

主人公は吉野次郎。
藤倉、坂井、鹿島と共に、京大の国文で万葉集を学んでいた。
昭和18年に学徒出陣で応召する。
学徒出陣について、Wikipediaは以下のように記す。

学徒出陣(がくとしゅつじん)とは、第二次世界大戦終盤の1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。日本国内の学生だけでなく、当時日本国籍であった台湾人や朝鮮人、満州国や日本軍占領地、日系二世の学生も対象とされた。なお、学徒動員と表記されることもある。
中では、鹿島と藤倉が戦争に「きわめて批判的乃至傍観的であった」。

鹿島は一般兵科で、横須賀武山海兵団に行き、3人とは別れる。
吉野、藤倉、坂井は、飛行科で土浦航空隊に配属される。
その後、大竹海兵団に移って訓練を受ける。
藤倉は、ずっと反戦的な気分を持続させていたが、昭和20年3月に訓練中に事故死する。
坂井は、昭和20年4月に特攻出撃し、戦死する。

吉野の出撃は、7月9日である。
あと1カ月余で敗戦であり、もちろんその頃は必敗ということは分かっていた。
吉野の鹿島宛の遺書が、、次の言葉で始まる。

雲こそ吾が墓標
落暉よ碑銘をかざれ

そして、唯一生き残った鹿島は吉野の両親あての手紙を書き、詩を同封する。
その詩の後半部分を掲出した。
まさに絶唱というべきであろう。

安倍政権の手で、積極堤平和主義という名の下に、戦争ができる国へと大きく舵を切ろうとしている。
しかし、多くの国民はその欺瞞性をすでに理解している。
安倍首相の言うように、「国民の理解が進んでいない」のではなく、理解したから反対しているということが、政府・与党には「理解が進まない」らしい。

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2015年7月15日 (水)

声明書・自由と平和のための京大有志の会/私撰アンソロジー(39)

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http://www.kyotounivfreedom.com/manifesto/

多くの国民が反対する中で、また憲法学者や歴代内閣法制局長官が違憲を表明しているのにも拘わらず、政府・与党は安保法案を衆院特別委で可決した。
歴史的な暴挙として長く記憶される日となろう。

そんな中で、久しぶりに我が意を得た。
「自由と平和のための京大有志の会」による声明書である。

一篇の詩のようにも読めるが、精選された言葉に込められた意思と意味は重い。
たとえこの国会で安保法案が通ってしまったとしても、反撃に移ろう。
国民的レベルで意思表示の時だ。

ヤンキー的な政治家がいつまでも大きな顔をし続けられるわけがない。
私も激しく同意する。

血を流すことを貢献と考える普通の国よりもは、
知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。

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2015年6月29日 (月)

吉本隆明『擬制の終焉』/私撰アンソロジー(38)

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吉本隆明「『擬制の終焉」『民主主義の神話』現代思潮社(1960年9月)

6月は、「安保の季節」と言っていいのかもしれない。
1960年6月、日米安保条約を改定しようとする岸信介の政権と、これに反対の多数の国民が激しく対立した。
⇒2007年10月11日 (木):「60年安保」とは何だったのか
そのピークが6月15日であった。

60年安保の主役と言われたのは、全学連主流派の学生であった。
⇒2013年9月 9日 (月):ゼンガクレンという伝説/戦後史断章(13)
指導部の多くは、共産主義者同盟(ブントと略称)という日本共産党から離党した(除名された)人たちを主要メンバーとする組織に加入していた。
過激な街頭行動を本領としており、その街頭行動がピークに達したのが、6月15日で、樺美智子という東大の女子学生が死亡した。

全学連主流派と行動を共にした数少ない知識人として、詩人・評論家の吉本隆明氏がいた。
1960年は私が高校に入学した年であり、田舎の高校であることもあって、過激か否かを問わず、直接的な政治活動をしているように見える同級生はいなかった。
吉本氏の名前も、大学に入ってから初めて知ったのだった。
⇒2012年3月16日 (金):さらば、吉本隆明/追悼(20)

掲出の文章は、旬だった頃の吉本氏の文章である。
直ぐ後に、単独の評論集『擬制の終焉』現代思潮社(1962年6月)に収録された。
同書が60年代の学生に与えた影響は大きなものであったと思う。

それからずい分歳月が流れ、吉本氏も亡くなった。
読み返してみれば、70年代末の全共闘世代の思考と行動の様式はかなり的確に予測していたと思う。
しかし果たして擬制は終焉したのだろうか?
真制は出現したのだろうか?

いま岸信介を敬愛する孫の安倍晋三政権により、安保法案が強行審議されているのを見ると、激しい既視感に襲われる。
60年安保の時に、反対運動をしている多くの国民の過半は安保条約の中身のことは詳しく知らなかったという。
ただ、岸首相のの強引な政治手法が国民の反発を招いたのだと言われる。
⇒2012年10月22日 (月):60年安保と岸信介/戦後史断章(3)

それも既視感の大きな要因であろう。
⇒2013年12月 6日 (金):安全保障の名目で国を危うくする安倍一族/戦後史断章(17)
憲法審査会に呼んだ3人の憲法学者がこぞって安保法案違憲論を述べた。
しかし、学者の言うことなど机上の空論だとばかりに聞く耳を持たない。
結局は俺たちの言うと通りになっているではないか。

しかし、国民の過半が現在安保条約を支持しているのは、岸信介の先見性を示すか?
私は違うのではないかと思う。
憲法の運用が日本社会に定着し、自衛のための武力を越えない範囲の装備の自衛隊を評価しているのであって、戦争に加担する自衛隊を支持しているわけではないだろう。
安倍首相は、前提条件を誤解していると思う。

岸信介は、満州国長官や開戦時内閣で商工大臣を務めるなど、文字通りのエリートであった。
⇒2012年12月24日 (月):エリート官僚としての岸信介/満州「国」論(13)
岸に比べると、安倍は単なる良家の世襲政治家という印象を拭えない。
父の安倍晋太郎は、それなりの見識を備えた政治家と思うが、晋三には培養されたお坊ちゃんではないか。
⇒2014年9月28日 (日):「山は動いた」のか? 土井たか子/追悼(58)

安倍にはサイコパスかと思わせるような人間性の欠如を感ずる。
国の骨格を大きく変えようとする国会審議において、公然と「早く質問しろよ」「大げさなんだよ」というような言葉を口にする人間に、国家の舵取りを任せていいのだろうか。
⇒2015年6月 2日 (火):安倍晋三=サイコパス論/人間の理解(13)

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2015年6月 1日 (月)

垣根涼介『光秀の定理』/私撰アンソロジー(37)

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モンティ・ホール問題(Monty Hall problem)というものがある。
確率や心理に関係する問題で、アメリカのゲームショー番組、「Let's make a deal」の中で行われたゲームに由来する。
正しい答えを推論する人も多いが、一種の心理トリックになっているせいで、誤った答えを直感的に推論してしまう人も多いと言われる。

問題は以下のようなものである。

Wikiプレイヤー(回答者)の前に閉じられた3つのドアが用意され、そのうちの1つの後ろには景品が置かれ、2つの後ろには、外れを意味するヤギがいる。プレイヤーは景品のドアを当てると景品をもらえる。最初に、プレイヤーは1つのドアを選択するがドアは開けない。次に、当たり外れを事前に知っているモンティ(司会者)が残りのドアのうち1つの外れのドアをプレイヤーに教える(ドアを開け、外れを見せる)。ここでプレイヤーは、ドアの選択を、残っている開けられていないドアに変更しても良いとモンティから告げられる。プレイヤーはドアの選択を変更すべきだろうか?
モンティ・ホール問題-Wikipedia

『光秀の定理』角川書店(2013年8月)の掲出部分は、モンティ・ホール問題と同型である。
正解は、 「プレイヤーが選択した扉、モンティが開けた扉、残りの扉のそれぞれの当たりの確率は、1/3, 0, 2/3 である。したがって選択を変更するのが得である。」

しかし、直感的には扉を開けても確率は変わらないように思える。
事実、1990年9月9日発行、ニュース雑誌Paradeで正解を正解を紹介したところ、読者から「その解答は間違っている」との約1万通の投書が殺到したという。
中には高名な数学者も含まれていたという。

ジョージ・メイソン大学 ロバート・サッチス博士
「プロの数学者として、一般大衆の数学的知識の低さに憂慮する。自らの間違いを認める事で現状が改善されます」
フロリダ大学 スコット・スミス博士
「君は明らかなヘマをした(中略)世界最高の知能指数保有者自らが数学的無知をこれ以上世間に広める愚行を直ちに止め、恥を知るように!」
モンティ・ホール問題-Wikipedia

  • 私もなかなか納得ができなかった。
    データが得られたことによって確率が変化するのであるが、一般にベイズの定理と呼ばれている。
    『光秀の定理』の光秀は、本能寺の変を起こすことになる明智光秀のことであるが、数学の理論をうまく歴史小説の取り入れている。

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