論争

2008年8月19日 (火)

文武天皇をめぐる謎

澤田洋太郎『異端から学ぶ古代史』彩流社(9410)によりつつ、「聖武天皇をめぐる謎」について記した(08年7月8日の項)。
上掲書によって、聖武天皇の父・文武天皇をめぐる謎について、検討してみよう。
文武天皇は、草壁皇子の遺児である。
2_2系譜上の位置は、図に示す通りである(寺沢龍『飛鳥古京・藤原京・平城京の謎』草思社(0305))。
そして、草壁皇子の薨去後、持統天皇が自らの血統を継ぐ皇統の維持を図るため、自ら皇位に就いて文武にバトンタッチしたこと、藤原不比等が藤原氏の血統を皇統に注入するため、娘の宮子を夫人としたこと等において、日本古代史の皇統におけるキーパーソンであるが、『日本書紀』と『続日本紀』の記述には以下のような謎がある。

1.没年齢
草壁皇子は689年に、文武天皇は707年に亡くなっているが、『日本書紀』『続日本紀』ともに没年齢を記していないし、この2人の功績を讃えたり、死を悼む言葉が記されていない。

2.皇后不在
『日本書紀』には軽皇子立太子に直接触れた記事がなく、持統11年春2月28日の条に、「直広壱当麻真人国見を東宮大傳とした。直広参路真人跡見を春宮大夫とした」とあるだけである。
『続日本紀』の冒頭の文武天皇の即位記事には、以下のような記述がある(宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206))。

母は天智天皇の第四女、元明天皇である。天皇は天性ゆったりとしておられ、めぐみ深く怒りを外にあらわされることもなかった。ひろく儒教や歴史の書物を読まれ、とくに射芸(弓を射ること)にすぐれておられた。持統天皇の十一年に皇太子にお立ちになった。

文武即位は、文武元(697)年8月1日であり、崩御は慶雲4(707)年6月15日であるから、在位期間はほぼ10年である。
この間に、皇后を立てなかったのはなぜか?
天皇家にとって、血統はもっとも重要なテーマであるにもかかわらず、そして文武即位は持統の宿願であったにもかかわらず、皇后を立てなかったのは大きな謎である。

3.妃をめぐる謎
『続日本紀』の文武元(697)年に以下の文章がある。

八月二十日 藤原朝臣宮子娘(不比等の娘、聖武天皇の母)を、文武天皇の夫人とし、紀朝臣竈門の娘・石川朝臣刀子娘を妃(嬪の誤りか)とした。

和銅6(713)年には、次のようにある。

十一月五日 石川(石川朝臣刀字娘)・紀(紀朝臣竈門娘)の二嬪の呼称を下して、嬪と称することが出来ないことにした(宮子夫人への考慮か)。

この呼称変更の意味は何か? この2人には子供はいなかったのか?

4.名前の謎
文武天皇は、なぜ「軽皇子」と呼ばれたのか?
また諡号の「天真宗豊祖父天皇」の「祖父」とはどういう意味か? 文武天皇は、若くして死んだのではないか?

5.年齢の謎
文武天皇の没年齢について、『懐風藻』、『扶桑略紀』、『水鏡』、『一代要記』、『皇代記』などは、25歳没としているが、『愚管抄』に、次のような文章がある。

諱は軽、十五にして在位、(死去の)御年は二十五あるいは七十八

宮内庁に現存する『帝王系図』には、「白鳳十二年に誕生し、慶雲四年に六十五歳で亡くなった」とする記述があるという。
白鳳という年号についても謎が多く(08年1月12日の項2月20日の項)、白鳳十二年をどの時点とするか疑問であるが、文武天皇の没年齢に高齢説があることは確かである。

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2008年6月 4日 (水)

「君が代」挽歌説

全く驚くようなこともあるものだと思う。
「賀」や「寿」という字のイメージに繋がる「君が代」が、実は挽歌だったという。
室伏志畔『方法としての吉本隆明 大和から疑え』響文社(0805)に紹介されている藤田友治氏の説である。
吉本隆明といえば、今では「吉本ばななの父」と紹介されたりすることもあるらしいが、私の学生時代には大きな影響力を持っていた。今でも、「戦後思想を代表する」というような形容句はよく使われている。
私の体験的には、詩、文芸時評、追悼文などは心に響いてくるものがあったが、『言語にとって美とはなにか』とか『共同幻想論』などの、いわゆる主著と呼ばれている著作については、原理志向が強すぎて、結果として難解であり、影響を受けるという感覚にはならなかった。

しかし、「方法としての吉本隆明」というタイトルには惹かれるものがある。特に、著者が、異端の史学ともいうべき古田武彦氏の系統の中で、さらに異端を自負する室伏氏であれば、である。
室伏氏の方法論は、自ら幻想史学と名づけている「幻視」を中心とするものであり、必ずしも普遍性を持たないと思われる。異端とならざるを得ない性格のものといえるだろう(08年4月25日の項)。
「幻視」については、阿川弘之さんの『雲の墓標』新潮文庫(5807)のモデルでもある大浜厳比古さんの『万葉幻視考』集英社(7801)が、まさに「幻視」を方法とするものであり、改めて対象にしたいと思っている。
室伏氏が紹介しているのは、藤田友治『「君が代」の起源―「君が代」の本歌は挽歌だった』明石書店(0501)である。

昭和19(1944)年生まれの私たちの世代は、「戦争を体験した」とは言い難い。
戦争中に生まれはしたものの、戦争の間はまったく無自覚であり、もの心ついたのは、戦争復興が本格化した頃からのことである。
だから、「君が代」を歌ったり聞いたりする機会も、学校の入学式や卒業式などの儀式、あるいは大相撲やオリンピックやワールドカップなどの場合が殆んどである。

従って、「君が代」について、斉唱を強制するようなものか、という思いはあったものの、その由来や起源などについての関心は、正直なところ殆んどなかった。
「君」は天皇もしくはオオキミのことであり、その御代が、「千代に八千代に」つまり末永く繁栄することを祈願したものだ、というふうに理解してきた。
「さざれ石の厳となりて」などというのは、まあ何となく悠久の時間のことを言っているのだろうという感じはしたが、余り深く考えてみたことはなかった。

だから、古田武彦氏らが、『「君が代」は九州王朝の讃歌』であって、現在の天皇家とは無関係だ、ということを、動かし難いと思われるエビデンス(地名・神社名・祭神名等)をもって示したことで、先ず驚いたのだ。
藤田氏も、古田史学の中心的な推進者の1人だった(05年8月に亡くなられている)。
藤田説の大要は、以下の通りである。
①「君が代」の歌は、賀の歌よりも挽歌の先の天智天皇臨終の歌に近い。
②『万葉集』では、「巌」の語は、死と墓場を意味している。
③「さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」は、挽歌のテーマである死と再生(転生)が歌いこまれている。
④『梁塵秘抄』は、「君が代」を、「塵も積もれば山となる」の諺と結びつけ、霊魂が蓬莱山に積もる死後の世界ととらえている。
⑤「君が代」は、『万葉集』に収められている次の歌の本歌取りの可能性が高い。

妹が名は千代に流れむ姫島の子松が末に苔生すまでに  河辺宮人(カハヘノミヤヒト)
(小さな松が大きく成長して、そこに苔が生えるまで、貴女の名前は永遠に語り継がれるでしょう)

つまり、水死した乙女のための鎮魂歌である。この歌には、「姫島で若い女性の水死体を発見した作者は、その女性を哀れんで詠んだ歌」という前書きがついている。つまり、この歌は、「賀歌」ではなくて、「挽歌」だった。
現時点では、「君が代=挽歌説」は、一般に受け入れられているとは言えない。
まあ、本歌が挽歌であったとしても、一般の理解が賀歌であれば問題ないのかも知れないが、卒業式などで強制して歌わせることは、如何なものだろう。
通達で強制する前に、「君が代」の起源や来歴について、もっとオープンな議論が必要なように思う。

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2008年6月 2日 (月)

「君が代」論争

5月29日に、平成16(2004)年3月に、東京都立板橋高校の卒業式で、国歌斉唱の際の不起立を呼びかけ、式典の開始を遅らせるなどして、威力業務妨害罪に問われた元同高校教諭に対して、東京高裁が、罰金20万円を課す判決が下された。
この裁判は、一審の東京地裁の判決に対する被告側の控訴を棄却したもので、被告側は即日上告している。
なお、求刑は、懲役8月だったから、有罪判決ではあったものの、量刑的には原告側主張は受け入れられなかったとみることもできる。

この裁判は、「君が代」の内容が争われたわけではなく、被告の行為が「威力」に当たるか否かが争われたものである。
弁護側は「君が代斉唱を義務付けた都教育委員会の通達は民事訴訟で違憲と判断され、通達に反対する呼び掛けは正当防衛」と訴えた。しかし、須田裁判長は「外部に対する積極的な表現行為により円滑な進行を阻害した」として威力性を認定し、「憲法21条は表現の自由を無制限に保障したものではない」と述べた。
なお、元教諭は、来賓として卒業式に招かれていたものだ。

元教諭の行為によって、卒業式の開始が約2分間遅れたという。
率直に言って、2分程度の遅れだったら、さほど大騒ぎすることもないような気がする。「威力業務妨害」というのは、いささか大仰ではないだろうか。
同時に、来賓として招かれていたのならば、式典の主催者の意に背くような行為も如何なものだろうと思う。
「君が代」を起立して斉唱することに反対ならば、卒業式の場以外のところで訴えるべきではないだろうか。
しかし、最も問題にすべきは、「君が代」斉唱を義務付ける都教育委員会の通達であろう。

都教委の通達は、平成15(2003)年10月23日に出されたもので、以下のような内容である。
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/press/pr031023s_2.htm

1 学習指導要領に基づき、入学式、卒業式等を適正に実施すること。
2 入学式、卒業式等の実施に当たっては、別紙「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針」のとおり行うものとすること。
3 国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われることを、教職員に周知すること。

この通達に対しては、平成18(2006)年9月21日、東京地裁が違憲判決を下している。
原告にはさまざまな人が含まれていたが、教員である以前に1市民としての個人史を持っており、その個人史から、日の丸・君が代を強制されることを苦痛に感じたり、強制に抵抗せざるを得ない、というのが原告側主張の根幹だ。
裁判は継続中で、最終的に確定しているわけではないが、違憲判決が出ていることはきちんと受け止めるべきだろう。
私は、日常生活において、関心の対象外にあるものを、儀式の際だけに強制しようとするところにムリがあるのではないかと思う。

国旗・国歌を法制化しようという動きの直接の契機は、1999年2月28日に、広島県の県立世羅高校の校長が、日の丸掲揚・君が代斉唱をするかどうかで、県教育委員会と県教組との間で板ばさみになり、悩んだ結果、自殺した事件が起きたことだった。
法的根拠が曖昧であることが混乱を増幅させたとする意見が、法制化推進を後押ししたということになる。

私自身は、「君が代」を歌わなければならないような儀式に出席する機会は滅多にないが、式次第に「国歌斉唱」とあるような場合には、ためらわずに歌う。
それは、「君が代」の意味・内容などとは余り関係なく、その式典の主催者に敬意を表するというような意味合いにおいて、である。
しかし、正直な話、「君が代」のメロディは、いささか歌いづらいとは思う。

「日の丸」や「君が代」に対しては、東亜・太平洋戦争の経緯等から、中国などには極端な反発がある。
その代表例が、今回の四川大地震の被災者救援に、自衛隊の輸送機を使うことの是非論の中に出てきた意見だろう。
中国内には、自衛隊を、旧日本軍と重ねてみる見方がある。
それは、中国政府の「反日=愛国」のプロパガンダの影響が大きいだろうが、中国侵略の事実は否定できないのだから、根気よく対応するしかないのではないか。自衛隊機に付いている「日の丸」が、強いシンボル性になっているらしい。

震災の被害者にとっては、一刻も早い救援物資を待っているだろう。それに自衛隊機を使うかどうかは、政府の判断である。
今回の場合、日本の政府内には、過去の経緯に留意するよりも、自衛隊機を公認させるいい機会だと捉えた向きがあったようだ。
つまり、今回の救援活動で自衛隊機が使用されれば、中国政府が自衛隊批判をしづらくなるだろう、という判断である。
もし、自衛隊機派遣が、本当に日中の関係改善に役立つならば、それは結構なことだと思う。

中国との関係あるいは東アジア世界での日本のポジションは、古代史の時代からの重要テーマである。
靖国参拝を強行した小泉元首相とは違って、福田首相は基本的に親中派だという。しかし、今回の対応は、いささか姑息で、大局的な判断に欠けていたのではないだろうか。
どうも福田政権の打つ手にはチグハグなことが多いような気がする。

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2008年6月 1日 (日)

「君が代」とは?

「君が代」は、平成11(1999)年)8月13日に公布・即日施行された「国旗及び国歌に関する法律」によって、法的に日本の国歌として定められた。しかし、実体的には、明治時代から、国歌として扱われてきたものである。
「国旗及び国歌に関する法律」は、下記のように、きわめてシンプルというか味気ないものである。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO127.html

国旗及び国歌に関する法律
(平成十一年八月十三日法律第百二十七号)

(国旗)
第一条
 国旗は、日章旗とする。
 日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。

(国歌)
第二条  国歌は、君が代とする。
 君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。

この別記第二には、以下のように歌詞が示されている。

君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで

この歌詞の表記については、平沼赳夫元経済産業相を会長とする超党派議連「国語を考える国会議員懇談会=国語議連」の設立総会において、平沼氏が、「いわお」を「いはほ」と正したい、としたと、5月29日の各紙で報じられている。
私も、国語の問題は日本のアイデンティティを考える上で重要な問題と考える者の一人であり、大いに議論して頂きたいと思う。
もっとも、この議連に関しては、「ほのかに政局のにほひ」がするとの声もあるようで、それはそれで気になるところではあるが。

この「君が代」の歌詞は、一般的には、『古今和歌集』の詠み人知らず巻七の巻頭歌に基づくものとされている。しかし、『古今和歌集』では、初句は「わが君は」となっていて、現在の国歌と完全に一致する形ではない、ということである。
私はごく単純に「君が代」の「君」は、「おおきみ=天皇」のことだと理解していたが、どうも必ずしもそういうことではないらしい。
WIKIPEDIA(06年10月18日最終更新)によれば、「君が代」もしくは「わが君」の「君」については、以下の3つの解釈があるという。

①「わたしの恋しいあなたは……」と恋人の長生を祈る歌
②「こちらのだんなさまは……」と祝言を専門とする芸能者が門付けによってその家の主の繁栄と長生を祈る歌、またはそうした態度をまねてある人がある人の長寿を祝う歌
③「わが大君は……」と天子の千秋万歳を祈る歌

そして、WIKIPEDEAでは、次のように説明されている。
「わが君は」として考えた場合、
a 詠み人知らずの民謡的な歌であること
b 4首続けて詠み人知らずの後に、仁明天皇が僧正遍昭の長寿を祈る歌が掲げられていること
などから、②の解釈が最も穏当であろう。
そして、民謡的な歌であることを考えれば、テキストに異文があることは奇異ではなく、「わが君は」と「君が代は」の両様が行なわれていたのであろう。
ただし、上記は『古今和歌集』採録時においては、ということであって、それ以前もしくは原初的に、どのように解釈されていたかについては、まったく見当がつかない。
「君が代は」とした場合にも上記の①~③はあり得るが、「君が代」は祝・賀の歌によく用いられることから、①の線は薄くなる。
「君が代」の表現は、『和漢朗詠集』に見られるが、その配列からは、明確に③の解釈を与えられている。

テキストということでいえば、次のような異文もあるらしい。

イ 「千代に八千代に」(冷泉家系統)
ロ 「千代にや 千代に」(二条家系統)
これについては、「国旗・国歌法」の別記に示されているように、「イ」とするものが大勢ということであろう。

江戸時代になると、一般的な祝いの席で庶民の間で歌われるようになり、例えば婚儀の席で歌われるときは、「君」は新郎のことを指す、というように変わってきたらしい。
そして、明治時代になって、1869(明治2)年に、薩摩藩の大山厳(後の日本陸軍元帥)が、大山の愛唱歌だった薩摩琵琶歌からとって、国歌的な位置づけにしたということである。

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2008年5月30日 (金)

「君が代」をめぐって

とぼけた作風で多くのファンを持つ寒川猫持さんに、次の作品がある(『猫とみれんと―猫持秀歌集 』文春文庫(0308))。

「学校で君が代習ったことないの」それって自慢することなのか

この歌に示されているように、私なども含めて、東亜・太平洋戦争後の世代は、概して「君が代」には冷淡である。その意味するところが余りピンと来ない、というのが素直な感想だろう。
サッカーの元日本代表の花形選手だった中田英寿氏が現役時代に、「君が代」について、「ダサイ。戦意が喪失する」などと発言して、右翼の強烈な怒りをかったことがある。しかし、中田氏の言葉に心の中で同感した人も多かったのではなかろうか。

国旗・国歌が法制化されたのは、1999年の小渕内閣時代のことであった。
別に法律で明文として規定しなくても、慣習が確立されていればいいではないか、という考え方もあり、私もそう思う。しかし、「日の丸」を掲揚したり、「君が代」を演奏することに対し、「法的根拠がないから」という反対意見もあったらしいから、法的に定めておくことにも必要だったということだろう。
まあ、憲法19条の「思想及び良心の自由」を持ち出すまでもなく、「日の丸」の掲揚や「君が代」の斉唱は、強制されてするものだろうか、とも思うが。
特に、「日の丸」は、他国の国旗に比べ、デザイン的にもシンプルで優れたものだと感じるが、「君が代」については、言葉であるから意味の示す内容が問題になってくる。

「君が代」の「君」とは何か?
もちろん、○○クンという「君」ではないし、Youの「君」でもない。
私は、「『君』は天皇を、『君が代』はその御代を指す」というのが素直な解釈だと思う。
これに対し、政府見解は以下の通りである。

「君」は日本国及び日本国民統合の象徴で主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指す。「君が代」は象徴天皇のいる日本のことを指す。

この説明は、日本国憲法の冒頭の次の規定を踏まえたものだろう。

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

しかし、「『君が代』は象徴天皇のいる日本のことを指す」というのは、いかにも苦しい説明だろう。右翼にも左翼にも気を使うと、訳の分からない説明になってしまう。
「象徴」とは、一般には、あるものを、その物とは別のものを代わりに表象することによって、あるものを間接的に表現し、知らしめるという方法である(08年4月26日の項)。
「象徴」をこのような一般的な意味で理解した場合、日本国憲法の規定-ある人間が国家の「象徴」で、その地位は世襲されなければならない-という論理は、正直に言って私には理解できない。

しかし、国旗や国歌が「象徴」だというのならば、理解できる。オリンピックなどの国家を単位とするイベント等において、日本のアイデンティティを示すための「象徴」として機能していると思う。
また、私は、そのような場合に、国旗が掲揚されたり、国歌が演奏されたりすることに違和感があるわけではない。というよりも、国旗の掲揚や国歌の演奏を積極的に応援したいという気持ちも持っている。

評論家で麗澤大学教授の松本健一氏は、日本の国歌を「君が代」から「海ゆかば」に変えたらどうかと提言したことがある(産経新聞正論欄:990914)

海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍 大君の 邊にこそ死なめ 顧みは せじと言立て

大伴家持の歌から作られた「海ゆかば」については、人によって受け止め方に大きな差異があるだろう。
戦争中の暗い、悲劇的な思い出に直結して拒否反応を起こす人もいるだろう。
しかし、松本氏は、「あの戦争における死者の悲しい記憶につながっている。日本人の心に血をふきださせる歌、といってもいい。」「民族の戦争を忘れないために、いや戦争における死者を忘れないために、日本は『海ゆかば』を国歌としたらいい。」と説いていた。
一理ある主張だとは思うが、実際の情勢としては、「君が代」を変えるということは、あり得ないことだろうとも思う。

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2008年5月25日 (日)

都江堰と信玄堤

甲府盆地は、果樹が豊富で、特に春の桃の花は見事である。遠くから見ると、地域全体が桃色に染まって美しい。戦国時代のヒーローの1人である武田信玄が勢力を張っていた地域である。
甲府盆地から流れ出る水は、最終的には富士川として駿河湾に注いでいるが、富士川の上流部は釜無川と呼ばれ、有名な暴れ川だった。「水を治める者は天下を治める」と言われるように、水を治めることは、地域にとって最重要課題であった。この暴れ川をうまく制御したのが武田信玄であった。

釜無川の「竜王の鼻」と呼ばれる地点が、治水上のポイントである。
甲府盆地の主要部は釜無川の扇状地であるが、その扇頂部に位置している。規模は別として、四川盆地における都江堰と似たような立地ということができる。
御勅使川が右側から、塩川が左側から合流し、大規模な氾濫が繰り返し起きてきた。
扇状地では、自然の状態では河川は扇頂部から扇状地面を無秩序に流れやすく、扇頂部は、水害防御のための要諦ということになる。

国土交通省甲府河川国道事務所のHPに、信玄の治水方策が解説されている。
その概要を以下に紹介する。(http://www.ktr.mlit.go.jp/koufu/kai/kai_kawa/shingen/shingen_05.htm
2_2御勅使川の河道を安定させるために、A地点(白根町築山)に巨大な「石積出し」を作って扇頂部における乱流を抑止する。
B地点(白根町有野)とC地点(韮崎市竜岡)に「将棋頭」という分流構を設けると共に、D地点(堀切橋付近)を開削して新たに河道を作り、流れを二分させて水勢を弱める。
E地点(韮崎市御座田)に16の巨石を置いて、釜無川との合流を調整し、さらに釜無川の主流がF地点「高岩」に突き当たる流向とする。
その下流の左岸には、竜王の鼻に山付けしたいわゆる信玄堤を築造する。堤防を直接洪水が襲わないように、「出し」を前面に置き、二重の備えとする(G地点)。
万一にも堤防が決壊して洪水が氾濫した場合には、H地点「飯喰」と「臼井」に霞堤の開口部を作っておき、氾濫水を川に戻すことが図られた。
霞堤というのは、連続した堤防ではなく、「八」の字を逆さにして何段も重ねたような形状をした堤防である。
信玄の治水方策は、急流河川に対する優れた治水策であり、甲州流と呼ばれて江戸時代には各地で適用された。
力で自然を制するのではなく、自然の力を利用しながら治めようとするところに特徴があり、今日的にいえば、「自然との共生のシステム」ということになろう。

こうして完成させた治水施設を永久に護り維持するために、信玄は、竜王河原宿の人々に対し、堤防をはじめとする管理を命じ、一方で税を免除して人心を掌握する措置をとった。
また、甲府盆地を横断して一宮町の浅間神社から信玄堤のある三社神社まで、神輿が練る「御幸さん」の水防祭りを盛大に挙行して、領民に治水の重要性を周知させた。現在でもこの伝統は引き継がれ、毎年出水期の前の4月15日に、日本一の水防祭り「御幸さん」が行われている。
信玄は、中国の史書『史記』を参照したといわれる。『史記』には、成都の治水と利水において重要な役割を担う都江堰のことが記されているという。和田一範『信玄堤』山梨日日新聞社(0212)から、『史記』の関連部分を引用する。

蜀では太守冰が、乱流する離確(現在の都江堰地域)の岸を削って広げ、洪水の被害を避けるようにさせた。さらに二江を成都の中に開削した。これらの水路は船が行き来でき、余裕があれば田畑を潤し、農民たちはその利益を享受した。ことにこの溝の通過する地方では、あちこちでその水を引き、さらに田畑の小水路にまでそそぎ入れたので、その利は万億を以って計るほど多くなって、数え切れないのであった

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2008年5月23日 (金)

修史事業の骨格

鸕野称制女王と藤原不比等は、天武の殯の3年数ヶ月の期間に、百官を呼び入れて忠誠を誓わせ、天皇の神格化を推進した。
神格化した天皇を国家のしくみの中でどう位置づけるか?
そこに修史事業の眼目があった。
「日本建国」の基本方針は、非革命国家組織を固定化することであった。つまり、「天皇」自体が、「天命」の体現者であるとすることが必要であった。
そのために、天神の子孫が、天から降臨したことにするアイデアが出された。
林青梧氏は、それを百済系渡来人の太安万呂だとしている。
安万呂は、金官加羅国の首露王伝説を持ち出す。

金官加羅国では、首露王は、天から雲間を降臨したと信じられているのであります。その先導をつとめたのが、三韓のカラス(鵲:カササギのこと)であります。カラスが先導したという話になっておりますが、事実は、カラスの南下する路を、北から下ってきたということでしょう。首露王の軍勢は、途中で休止いたしました。その時、金色のトビが天から舞い降りてきて、首露王の弓の先にとまり、金色の強い光を、四海に放ちました。

天孫降臨から神武東征に発展する神話の骨子が定まった。
次の課題は、紀元の問題をどう定めるか、である。
天孫降臨に相応しい由緒ある年であることが条件であった。
中国では、「辛酉甲子」説が言われていた。「辛酉の年に革命となし、甲子を革令とす=辛酉には革命がおこりやすく、甲子の年には政治的大変革がおこる」という考え方である。
干支が一巡する60年が一元、21元が一蔀(ホウ)である。
日本に暦法の入ったあと最古の辛酉は、推古9(601)年であり、それより一蔀前の辛酉が日本紀元とされ、渡来大王をそこにはめ込むことにした。
しかし、5世紀頃にはじまる倭国の大王を、この紀元にあてはめたことにより、神武以下仁徳までの16人中の13人が100歳をこえる高齢者になってしまうことになった。

推古朝を基準にして紀元が定められたことにより、国内向けの史書は推古までとされた。
鸕野女王に繋がる大王家を天皇家と呼ぶことにし、その周囲に、渡来系各氏族を配置することにした。そのために、天皇家とその係累を皇別とし、天帝に発する万世一系の血脈とすることにして、天孫と共に天から下ってきた従者たち、つまり神別の子孫として、飛鳥地方とその近辺に本貫をもつ諸豪族が存在することにした。

対外向けの史書は、推古朝以降に重点が置かれることになった。
第一のポイントは、大化の政変で、蘇我氏の否定と鎌足の顕彰が図られた。そして、そこに至るまでの仏教伝来や唐の干渉などを正史の中に取り込むことが必要条件であった。
仏教の受容を史実に溶け込ませるために、厩戸皇子が使われた。悉達(シツタル)太子(シャカ)にあやかって、聖徳太子の名が付けられた。
計画中の律令制定へつながる気運醸成のために、太子によって憲法の原型のようなものが制定されたことにした。

第二の正史で最も重点が置かれたのは天武紀であった。というのは、天武朝は実質的には唐の傀儡政権で、最も弱いものであったが、大王家の絶対化のためには天武朝を強調することが必要だったわけである。
そのため、天武紀には2巻があてられ、「天皇親政」という観念がつくり出された。
「天皇親政」という言葉を、文字通り天皇が直接手を下すと考えれば、そんなことが実際にできるはずがない。
昭和期には、「天皇親政」の言葉の下に、「統帥権」が独走して、国家存亡の危機を招いた。
不比等の意図は、「天皇親政」の名で、天武弱体政権を粉飾して、国民の団結を促し、対外抵抗力を強めることにあった。
対外的に認めてはならないことは隠蔽された。垂仁朝の天日槍による日本侵略や応神朝の淡路から兵庫一帯にかけての新羅による占領や吉備6国の割譲などが隠されるべき史実であった。

律令制定事業が完成したのは、大宝元(701)年であった。
翌年、律令制定の主要メンバーで、不比等の腹心の粟田朝臣真人を正使とする遣唐使が組織された。大宝律令の唐による承認を求めるためであった。粟田真人らの一行は、3年間も唐に滞在した。
大宝律令として出発した律令が養老律令として発効する間の事情について、大宝律令に唐側でさまざまな検討が加えられ、17年後の718年に日本に返還されて養老律令になったのではないか、と林氏は推測する。
真人たちは、大唐による平城遷都の要求を持ち帰った。日本が、韓半島やその他の周辺国に出兵する余力を持ち得ないようにするための経済的制裁の一面を持っていた。
和銅3(710)年3月に、平城京に遷都した。

あをによし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり(万葉集 3-328)

とその仏教文化が華咲く様が謳われたが、実態は、平城京築造のために全国から徴用された多くの壮丁が、官給米が不足するなどして行路使者を出すなど、はなはだ悲惨な状況であった。

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2008年5月22日 (木)

安万呂の暗号

『日本書紀』の大津皇子処刑記事に次のような謎の一文がある。

この年、蛇と犬とが相交(ツル)んだのがあったが、しばらくして両方とも死んだ。

この一句は何を意味しているのだろうか?
これを、林青梧氏は、『「日本書紀」の暗号』講談社(9009)で次のように謎解きをしている。

『書紀』筆法の反対論でいくと、《しばらくして両方とも死んだ》は、やがて両方とも、明確な形を失った。つまり、現実の中に消えたという意味だ。《相交んだ》は密議したであろう。となると、蛇は持統、犬は臣下の不比等ということになるかも知れない。しかもその一行は、大津の処刑と、粛清の嵐殯三年半の間にはさまれている。これは何を意味するのか。「そうだ……」とわたしの胸に、落ちてくるものがあった。
「これは、安万呂が後世、『日本書紀』という闇の中に、しゃにむに分け入ってくるものに示した暗号に違いない。この年の事件のすべては、持統と不比等の密議から出たものであり、その密謀どおりに、その後のすべては進展した」
 と、大安万呂は、『書紀』の中に書き残したのだ。この暗号が、いつの日か解読されることを念じながら……。
……
 鸕野皇后と藤原不比等との密議談合が頻繁に行われたのは、大津皇子謀殺の渦中か、あるいはその直後、そして、恐怖の天武殯の始まる直前であったことが、安万呂のこの一句で立証されたのだった。そして、その合議の結論はきびしく実行され、その後の日本国の形成の中に、発展的に解消し、実現していった、と断定することが可能なのである。

林氏は、鸕野皇后の提議とそれに対する不比等の応答を、以下のように推測する。
1.「日本国」に在住する三韓系、新来の高句麗、新羅、さらには亡命百済系(鸕野の一族を含む)など、すべての日本国在住者を統合し、新しく「日本人」を形成する方法やいかに?
→各国人が統合された「日本人」となるためには、統合全住民が唯一の権力、絶対化された主権を持つことが必要である。
王権の従属関係を否定するためには、主権の質的優位を確立しなくてはならない。
中国では、高宗が病床にあり、皇后の武則天が実際の政務を担当し、帝王権を誇示するために、高宗を「天皇」と称し、自分を「天后」と自称している。それは、鸕野皇后と全く同じ立場ではないか。
そして、王権を強化するために、天武殯の期間中に、皇太子以下百官を天武の遺骸の前にぬかずかせ、忠誠を誓わせた。
そして、唐では天命を失った皇帝が放伐されるのに対し、放伐されないようにするために、天皇は天命そのものである、というアイデアを案出した。つまり、現人神として、代々その血脈を伝え、不可侵の神とする。何十代も継続すれば、大唐以上の国柄となり得る。

2.日本律令の実現方法やいかに?
→「天皇号」の採用を前提とすると、律令制の構成の中に、主権の問題を取り入れざるを得ない。
それは、これまで中臣家が主宰してきた神事を、天皇主権に結びつけて、律令制の中に組み込むことによって実現できる。
不比等は、藤原氏の本流である中臣氏の、意美麻呂によって代表される「神官」職を、正式に、国法による神事担当者として、律令の内か外に位置づけることにした。
天皇を現人神とする以上、天皇神事は他の一般神事と同列に扱うべきではなく、「神祇伯」として、「神祇令」によって行うことにすればいいだろう。

3.天武によって提唱され、中断中の修史事業の実現方法やいかに?
→林によれば、天武は、大化改新と称する新羅の内政干渉を督励するために、金春秋の命令で倭にやってきて王位に押し上げられた金多遂であるから、彼が編纂できる歴史書などはあり得ない。
そこで、蘇我氏等の在来勢力からの予想される反応に対応するため、『帝紀』とか『本辞』など諸氏の持っているものは、一族中心的な間違いが多いから、いまその誤りを正そうということにしたらどうか。
問題は、天皇号の割り込ませ方であったが、それを文辞修飾の大家・太安万呂に任せることにした。

これらの諸事業に共通する真の目的が、日本主権の独立と唐勢力の排除にあることが、薬師寺にいる唐人や、対唐従属的な倭人に気取られると、唐の強力な干渉を招き、鸕野と不比等の失脚を招く可能性がある。
唐の同意を得られるように編纂すれば国内豪族を反発させ、国内豪族の喜ぶようなものでは唐が承知しないだろう。
問題の突き当たる壁が二面あるのならば、二冊つくればいいのではないか。
こうして、『古事記』と『日本書紀』の芽は生まれた。

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2008年5月21日 (水)

大津皇子処刑の背景…③林青梧説

大津皇子の謀反事件については、梅原猛氏の見かた(07年8月31日の項)、上山春平氏の見かた(07年9月1日の項)について検討したが、林青梧氏はどう見ているか?
『日本書紀』の天武13年春1月の条に、次のような記述がある。

二十八日、浄広肆広瀬王・小錦中大伴連安麻呂および判官・録事・陰陽師・工匠らを畿内に遣わして、都を造るに適当な所を視察し占わせた。この日、三野王・小錦下采女臣筑羅らを信濃に遣わして、地形を視察させられた。この地に都を造ろうとされるのであろうか。

そして、4月の条には次のように書かれている。

十一日、美濃王らが信濃国の図面をたてまつった。

つまり、信濃遷都計画があったことになる。
それを、林青梧氏は、薬師寺まで唐に詰め寄られた天武の乾坤一擲の反抗策ではなかったかとみる。
唐の圧力に、国都を信濃に移して対決しようとしたが、それは失敗した。
その結果、外国勢力を懐柔することが必要になった。

冬十月一日、詔して、「諸氏の族姓を改めて、八種(クサ)の姓をつくり、天下のすべての姓を一本化する。
第一に真人。第二に朝臣。第三に宿禰。第四に忌寸。第五に道師。第六に臣。第七に連。第八に稲置である」といわれた。この日、守山公・路公………の十三氏に、姓を賜って真人といった。
……
十一月一日、大三輪君・太春日臣………の五十二氏に、姓を賜って朝臣といった。
……
十二月二日、大伴連・佐伯連……の五十氏に、姓を賜って宿禰といった。
……
十四年春一月二日、百寮は賀正の礼を行なった。二十一日、さらに爵位の名を改め階級を増加した。
二月四日、大唐の人・百済の人・高麗の人合わせて百四十七人に爵位を賜った。

つまり、これらの措置は、唐羅勢力と調停であり、結果的に混合国家が成立したことになる。
その過程で天武は疲れ果てたのか、14年9月24日に病に倒れる。
翌年の秋7月には、次のような状況になる。

十五日、勅して、「天下のことは大小となく、ことごとく皇后および皇太子に申せ」といわれた。

つまり、天武はもはや唐羅の内政干渉をはね返すことができなくなっていた。
その頃、鸕野は県犬養三千代を使者として不比等を訪問させ、「天下を恢興する策や如何?」と下問したのではないか、と林氏は推測する。
天武12(683)年2月1日に、「大津皇子がはじめて朝政をお執りになった」とあり、唐羅への反抗は、大津の性格を反映したものとも考えられる。
不比等は、唐羅への反発による失政の責を大津に負わせる案を示す。

朱鳥元年九月九日、天武天皇が崩御され、皇后は即位の式もあげられぬまま、政務を執られた。

林氏は、これは持統による一種のクーデターではないか、とする。
そして、ひと月も経たない10月2日、皇子大津の謀反が発覚し、長期の天武の殯に入る。
大津皇子の事件について、林氏は次のように推測する。
天武が病に倒れたとき、大津が継続して朝政を執れば、国内の諸豪族は支持するであろうが、唐羅は喜ばないから、採用できない。とすれば、表面親唐内面反唐の自主路線で行くしかない。
外交を優先させて、内政をそれに調和させる道である。つまり反対者を黙らせることが必要である。
持統と不比等は、大津に一撃を加えることによって国内に恐怖を与え、女帝を立てることによって外圧を緩めさせて、日本国自立の道をさぐった。
4年に及ぶ長期の天武の殯は、天武の柩を守る持統への忠誠の誓いの儀式であった。
国内を統一する心理的な基盤を確立するために、大津皇子の死が必要だった。

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2008年5月20日 (火)

薬師寺と唐勢力

美術史家の鈴木治氏は、薬師寺論争(白鳳か天平か? 08年2月22日の項)を次のように解いている(08年3月8日の項)。
白村江敗戦後の体制の中で、東院堂聖観音像が唐から運び込まれ、それをモデルに金堂三尊が制作され、本薬師寺に設置された。
そのため、白鳳期であるにも拘わらず、天平像の特徴を備えている。
平城薬師寺への移転に伴い、本薬師寺の金堂三尊を模倣した仏像が作られたが、拙劣だったため埋蔵され、本薬師寺の本尊が移坐された。
つまり、遣唐使断絶時期であるにも拘わらず、唐の影響が強くあったのは、事実上唐の占領下にあったとするものである。
平城薬師寺が本薬師寺を移建することなく新しく建てられたのは、倭の国力消耗を図る唐の意向による。

林氏は、鈴木氏の説を継承し、本薬師寺は、大宰府にいた唐の郭務悰の倭京への進出要求に屈して造営されたものであるとする。
郭務悰は、表面は寺院をよそおいながら、裏面では天武王を監視督励する屯所を倭京に置きたいと考えていた。
孝徳王が難波京の鴻臚館に認めざるを得なかった「大唐司令所」を強化して、日本支配を厳しくしようとするものであった。

壬申の乱の際に、近江朝が筑紫の栗隈王と吉備の当摩公広嶋を味方に引き入れようと使者を派遣して説得に当たらせた。筑紫に行ったのは佐伯男だったが、栗隈王の2人の息子、三野王と武家王の抵抗にあって、逃げ帰らざるを得なかった。
この三野王とはどのような人物なのか?

大海人が決起し、吉野の宮滝から津振川を通って宇陀郡の吾城から甘羅村に来たとき、大伴朴本大国の一団と出会い一行に加えた。それに続いて次のような記述がある。

また美濃国の王(豪族)を召された。するとやってきてお供に加わった。湯沐の米を運ぶ伊勢国駄馬と、菟田郡の屯倉のあたりで遭った。そこでみな、米を捨てさせ、徒歩の者を乗らせた。

美濃王とは誰か?
美濃から米を運んできた一行の宰領であろうか? 美濃の国には国司はいても王と呼ばれる人物はいない。
林氏は、『日本書紀』に登場する類似の人物を抽出する。
美濃王:天武2年12月17日/4年4月10日
三野王:11年3月1日/13年2月28日/4月11日/持統8年9月22日
弥努王:14年9月11日
鈴木治氏は、これらはすべて同一人物で、大阪府中河内郡三野を本貫とする三野王であるとし、林氏もそれに賛成している。

鈴木(林)氏は、美濃王(三野王)は、唐の工作員として、畿内と九州を往復していたとする。この美濃王の妻が、県犬養三千代である。三千代の夫は、『日本書紀』では美努王となっているが、これも同一人物である。
県犬養氏は、河内郡古市郡に本貫を持つ「屯倉(トミクラ)の税」を握る家柄で、不比等の預けられていた田辺氏の本貫に近接していた。
つまり、不比等と三千代が出会っていた可能性は十分にある。

『日本書紀』の天武9年7月に以下の文章がある。

五日、天皇は犬養連大伴の家においでになり、病を見舞われた。恵み深いお言葉を賜って云々といわれた。

犬養連大伴は、壬申の乱の功臣であるが、三千代の父の同族である。このとき、筑紫から美努王の妻の三千代も上京していたのではないか?
筑紫から久しぶりに上京し、唐色濃厚な倭京のはなやかさの中で、若き不比等の颯爽とした姿が、三千代の目に入ったのではないか、と林氏は推測する。
三千代は、後に美努王と別れて不比等の妻となり、光明子(光明皇后)を生む。軽皇子(後の文武天皇)の乳母を務めて後宮で勢力を振るったとされる。

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2008年5月19日 (月)

持統天皇…林青梧説

持統天皇(鸕野讃良皇女)は、天智天皇と遠智媛の間の子供である(08年1月29日の項)。
大化元(645)年の生まれで、姉の大田皇女に次いで大海人の第二夫人となったが、姉が早く亡くなったため天武王の后となり、天武の後に称制期間を経て天皇に即位した。
大宝元(701)年に薨去しており、乙巳のクーデターから大宝律令発布までを生きたこの時代を象徴する人物ということになる。

鸕野讃良皇女はどこで出生したか?
河内国更荒郡(サラチゴオリ)鸕<偏・茲+旁・鳥>野邑(ウノノムラ)という地名があり、鸕野に因むのではないかと思われる。渡来人韓半島からの渡来人が多く居住していた。
林青梧氏は、中大兄の一人である余豊璋は、叔母の宝(皇極・斉明女王)を頼って倭京にやってきたあと、更荒地方を本貫としたのではないかと推測している。林説では、宝は、百済義慈王の妹であるが、倭国で舒明妃となった。
林氏は、中大兄のもう一方の葛城皇子は、葛木郡の出生と考えられるから、名前からしても、鸕野は余豊璋の娘ではないか、とする。

中大兄が、2人の人物の合成像であるとするならば、兄が弟に4人もの娘を差し出すという不自然さもある程度解消される。
葛城と豊璋の両者が大海人となる金多遂に2人ずつ娘を差し出して折り合いをつけようとした、ということではないか?
持統が豊璋の娘だとすれば、大王家の血脈の中に、横から割り込んだ形であり、外的には唐の郭務悰などから、内的には旧豪族たちから、たえず排斥除外されるかも知れないという恐れを抱いていたであろう。
その恐怖感は、持統に強い権力を志向させ、新しい国をつくろうとさせる原動力になった。
そこに、不比等と同一のベクトルがあった、と林氏はみるのである。

不比等が記録の上で登場した持統3(689)年2月26日の直ぐ後の4月13日に、持統の最愛の息子の草壁皇太子が病死した。
その直前に、「黒作懸佩太刀」が草壁から不比等に依託されている。
大津皇子の粛清に不比等が係わっていたのではないか、とする上山春平説について紹介したことがある(07年9月1日の項)。
上山氏は、この「黒作懸佩太刀」について、東大寺献物帳から由緒を引き出している。

右の刀は、草壁皇子が常に身につけていた刀であり、皇子はこれを不比等に与えた。不比等は、文武天皇即位のときに、これを天皇に献じ、天皇の崩御のとき、天皇はこれを不比等に与えた。そして不比等の薨去の日に、不比等はこれを、聖武天皇に献じた。

つまり、元明、元正の女帝の時には、太刀は不比等の手にあり、文武、聖武が立つと不比等から天皇の手に戻されていることになる。太刀は、男帝皇位の象徴である。
見かたを変えれば、男帝皇位が不安定であり、男帝の即位を嫌う外圧があったのではないか、とも考えられる。
そのような重大な太刀を、判事に任命されて間もない不比等が係わっていたとすれば、不比等は判事任命までに深く大王家に係わりを持っていたのではないか、と考えられる。

上山説のように、不比等が史書に登場する3年前の686年の大津皇子の謀殺事件に係わっていたとすれば、不比等と大王家との関係の深さが窺われるが、とすれば、その係わりの始まりはさらに以前に遡ることになる。
林氏は、それを天武9(680)年の頃だろうと推測している。不比等は21歳で、長男武智麻呂の生まれた頃である。
その頃、藤原京の薬師寺が、鸕野の病気平癒を祈願して発願された(薬師寺略年表は、08年2月24日の項)。
しかし、その頃鸕野が重病だったという記録はなく、名目上のことではなかったか?

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2008年5月18日 (日)

鎌足と不比等

藤原不比等は、斉明5(659)年生まれだとされる。百済から出兵要請のある前年である。
白村江の敗戦のあと、倭・百済連合軍が九州に撤退し、近江大津を占拠したときには4歳であった。
不比等の父鎌足は、百済軍と在郷諸豪族との調停であった。その象徴的なシーンが、『藤氏家伝』に記されている「近江浜楼事件」である(08年1月20日の項)。

帝(天智)、群臣を召して、浜楼に置酒したまふ。酒酣(タケナワ)にして歓を極む。是に、大皇弟長き槍を以て、敷板を刺し貫きたまふ。帝、驚き大きに怒りて、執害(ソコナ)はむとしたまふ。大臣固く諌め、帝即ち止めたまふ。大皇弟、初め大臣の所遇の高きことを忌みたるを、茲(コ)れより後、殊に親ぶることを重みしたまふ。

林青梧氏は、この事件を、天智こと余豊璋と大海人こと金多遂の対決と、鎌足の調停とみる。
倭京の巨勢氏や大伴氏など、白村江出兵に反対した豪族たちは、大海人を担いだ。大海人は、豊璋と雌雄を決する覚悟で浜楼に臨んだが、豊璋も大海人を追い詰めて殺害してしまうつもりでいた。
その情報を得た鎌足は、自分の手兵に百済の軍装をさせて待機させた。
果たして会談で、豊璋は大海人に無理難題を浴びせて挑発した。
大海人が槍の穂先の鞘を払った瞬間、鎌足の手兵が大海人を包囲した。
余豊璋も、鎌足を責めることはできなかった。

鎌足は、天智8(669)年10月16日に死んだ。
その前日、天智(豊璋)は、鎌足に大織冠と藤原の姓を与えた。
鎌足は、新羅系による大化改新を主導した一人だった。律令制度導入において、新羅の方が百済よりも先進的であったからだが、孝徳王や大海人などの新羅系のリーダーは、実績を上げることができなかった。
皇極廃王一派の反撃を招き、白村江出兵の敗北まで招くことになってしまった。亡国百済軍ですら、倭の古京の諸豪族族の連合勢力を凌駕するものがあった。

不比等の名前が登場するのは、『日本書紀』の持統称制3(689)年2月26日の判事任命記事である(07年9月1日の項)。
その時31歳で位階は直広肆だった。その後右大臣にまで進むが、その事績は殆んど残されていない。それを林氏は、「あえて残すまいとした」のではないか、とする。
その隠されている不比等の事績と、「日本建国」の歴史が抱き合わせになっているのではないか。
不比等が出仕した時期も不明であるが、長男武智麻呂の生まれた天武9(680)年の直前の頃ではないかと推測される。とすれば20歳頃ということになる。

統一に向おうとしてしていた倭国は、中国に端を発した韓半島の動乱に連動して、滅亡した百済を背負い込み、国号を変更せざるを得ない結果となった。
そして、唐の介入によって、列島自身が動乱の渦を引き起こす場となってしまった。
林氏は、三韓を中心とする多種多様の渡来人とそれらのもたらした雑多混合の文化を、肥沃な日本列島の中で安定的に自立した国として統一するためには、これらの要素と条件を切り回し、配置し、新しい意識とイメージを誕生させる演出者が必要だった、とする。
それこそが藤原不比等に求められた役割であった。
そして、その重大な役割を不比等は見事にこなし、自らは歴史の地表から消えた。

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2008年5月17日 (土)

壬申の乱…林青梧説

大海人皇子が、天智天皇の遺児の大友皇子の統括する近江朝廷への叛乱軍を組織し、実力によってこれを打倒し、皇位を獲得した「壬申の乱」は、日本古代史の中でも解釈が多様に分かれる事件といえるだろう。
既に、そのいくつかの側面について紹介しているが((ⅰ)研究史-08年1月21日の項(ⅱ)原因論争-22日の項(ⅲ)砂川史学-23日の項(ⅳ)国体論-24日の項)、林青梧氏の見解(『「日本書紀」の暗号』講談社(9009))を見てみよう。

林氏は、星野良作『研究史 壬申の乱・増補版』吉川弘文館(7801)に、「壬申の乱に戦い勝って、天皇となった天武は、古代貴族によって神と称され、現実的権力に、さらに超越的権威を付加して、律令体制の頂点に、確固とした地歩を築いたかに見える」としているのを、否定する。
・在位14年の間、大和から一歩も外へ足を踏み出すことのできなかった天武が、古代貴族たちから神と仰がれたというのは史実か?
・天武は、太政大臣も左右大臣もおかない「親政」を敷いたとされているが、それは律令体制の頂点に確固とした地歩を築いたこととどういう関係にあるか?
・『日本書紀』の編纂されていない時代に、「天皇制」などあったのか?

実力による皇位簒奪としての「壬申の乱」は、もちろん皇国史観においてはやっかいなシロモノであったが、すっかりタブーが取り払われたように思われる今日でも、明快な像が示されているとは言えないようである。
『日本書紀』の全30巻の中で、28巻は「壬申紀」といわれるように、ほとんどすべてが「壬申の乱」の記述で占められている。
それをどう解釈するかが、古代史の実像解明のカギであることは間違いない。
しかし、林氏は、例えば『日本書紀』の天武紀上の冒頭に、

天智天皇元年に、立って東宮(皇太子)となられた

という記述があるにもかかわらず、天智紀には、その記録がいっさいないのはどういうことか? と問う。
林氏の見方では、中大兄は、葛城皇子と余豊璋が合わさったもととされているが、のちの天智王となるのは、豊璋の方であるとする。
豊璋は、国情騒然とした中で、7年間も称制のまま施政に当たっている。
一般的には、皇太子のままの方が政治をしやすかった、などと解釈されているが、林氏は、国内情勢が危なくておいそれと王位につけなかったのが実状ではなかったか、と見る。
国内が騒然とした状況にあったことは、『日本書紀』が、近江遷都の後、出火が多かったことを記していることからも窺える。
有名な「法隆寺が一屋も残さず焼失した」とするのも、天智9(670)年4月30日の条の一文である。
これらの出火は、白村江敗戦後の、唐・新羅双方の間諜たちの攪乱工作と見られる。もう一人の中大兄である葛城皇子を暗殺したのも、大海人皇子と唐の合作ではないか、とする。白村江の敗戦後の日本は、唐の占領状態下にあったという鈴木治氏の見解(08年3月7日の項8日の項)に、林氏も賛意を表している。

新羅が唐に対して反抗的になると、唐は、日本に新羅系王朝を立てて、新羅を牽制しようとしていた。
天智が死んで大友が即位し、傀儡政権を樹立するチャンスがやってきた。
重篤な病床にある天智は大海人を呼んで、後事を託そうとする。そこに謀を感じ取った大海人は、出家して吉野に入る。
ある人が「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と言った。
しかし、出家して吉野に入ることが、どうして「虎に翼をつけて野に放つようなもの」なのか?

大海人が決起する契機として、『日本書紀』は、次のように書く。

「朕が位を譲り世を逃れたわけは、独り病を養い、身を全くして長く百年を終えんとしたためである。然るにいま避けられない禍を受けようとしている。黙して身を滅ぼすことはできぬ」と言われた。

林氏は、次のように問う。
「朕が位を譲った」というのは、どういう意味か?
王位継承を辞退したという意味なのか? あるいは、近江京の日本国王余豊璋とは別に、大和京で即位したのを、日本国王に譲った(日本国は倭国を併合す)のか?
その前段に、「近江京から大和京に至るまでに、処々に監視人を置いている」という記述からすれば、近江京と大和京の2つの都があったのか?

この時、近江朝では、大皇弟(大海人)が東国に赴かれたことを聞いて、群臣は悉く恐れをなし、京の内は騒がしかった。ある者は逃げて東国に入ろうとしたり、ある者は山に隠れようとした。

この動揺ぶりには、攪乱工作の臭いがする。
瀬田川を挟んだ戦いの中で、近江軍の指揮をとったのは将軍智尊とされているが、智尊なる人物についての説明がない。林氏は、唐人か大海人側から送り込まれた工作員ではないか、としている。
また、近江側の将軍羽田矢国が突然に大海人側に寝返ったとされている。矢国は、山部王の率いる近江主力軍の将軍であったが、副将の蘇我果安と巨勢比等が山部王を殺したため、果安らを処分して大海人軍に投じた。それは、あらかじめ大海人側と打ち合わせていたのは間違いないのではないか。

林説は、中大兄は2人いたからこそ、暗殺と病死が両立するのであり、天智と天武は、百済人余豊璋と新羅人金多遂だったからこそ、容易に対立抗争に走ったとみる。そして、大友は、豊璋の子であったからこそ、大和の豪族や左右大臣から簡単に見捨てられたとする。
唐が日本に内政干渉したのは、韓半島で新羅が離反の動きを見せたため、それを牽制するために唐の実質的な支配下にある新羅系日本政府を作りだしておきたかったからで、そう考えれば、多くの疑問が解けやすい。

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2008年5月16日 (金)

「日本国」誕生

白村江で破れた余豊璋は、高句麗に逃げたとされているが、その後の足取りは不明である。
倭軍はほうほうの態で撤退し、博多にひき返した。逃げ場を失った百済軍も倭軍を追って博多に押し寄せた。
白村江敗戦直後、倭と百済敗残軍は、2つの課題に当面した。
1つは、唐軍の追撃上陸であり、もう1つは、倭京の情勢である。

『日本書紀』は、中大兄の身分を、「素服称制」(白い服喪の服装で、即位せずに朝政を聴く)としている。
林青梧氏は、この状況を、九州の一角で、朝政を聴いたということであるが、北九州にいただけなのか、倭京の政治のことなのかはっきりしないが、明快に記述できないような混乱状態にあったことを示しているのではないか、としている。
葛城は倭京に戻り、大海人皇子に詔して、増位増官を行なう。
九州から飛鳥になだれ込もうとしてる百済の流亡貴族たちを迎え入れるための措置であった。
しかし、廷臣扱いされた大海人の怒りを誘い、大海人と葛城の対立の要因となる。

「天智暗殺説」については既に触れた(08年1月27日の項)。
井沢元彦氏が「天智暗殺説」を小説化した『隠された帝―天智天皇暗殺事件』祥伝社(9702)は、『扶桑略紀』という平安時代に書かれた史料の、以下のような記述をベースにしている。
山科の里に遠乗りに出かけたまま帰ってこなかった。山林の中で、どこで亡くなったのか分からない。それで、その沓が落ちていたところを陵にした。その後も、天智の遺体は発見されていない。

林氏は、中大兄は、葛城皇子と余豊璋の2人が合成された人物像で、暗殺されたのは葛城皇子の方だったのではないか、としている。
『日本書紀』では、山科の里で、太皇弟(大海人)、藤原内大臣(鎌足)、群臣らがお供をして薬狩りをした、とされている。
天智は、鎌足と盟約を結んだのも脱げた履沓がきっかけであり、暗殺されたときも履沓を残している。
『日本書紀』編纂時に、中大兄を必要としたのは、この時暗殺された人物を、その後も生きていて即位するというストーリーとするためであったのではないか。
つまり、葛城と余豊璋の2人を合わせて中大兄としたのであり、葛城暗殺後の中大兄は豊璋のことである、ということになる。

豊璋は、博多に残留していたが、葛城行方不明(暗殺)を聞くと、飛鳥を金多遂(大海人)らの新羅系に押さえられているのを奪回すべく、ただちに飛鳥に入ることを周辺に諮る。
そして、飛鳥では補給線も確保できないことから、琵琶湖畔の南岸がいいという周辺の意見を聞き、近江に遷る。
葛城が処分されたのとほぼ同じ頃、九州に唐軍が進駐する。

(天智4年)
九月に二十三日、唐が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣わしてきた。--等というのは右戎衛郎将上柱国百済禰軍・朝散大夫柱国郭務悰をいう。全部で二百五十四人。七月二十八日に対馬着。九月二十日、筑紫につき、二十二日に表函をたてまつった。
冬十月十一日、盛大に菟道で閲兵をした。

天智8年のこの年条に、「大唐が郭務悰ら二千余人を遣わしてきた」とあり、天智10年11月10日条に、「唐の使人郭務悰ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、総計二千人が、船四十七艘に乗って比知島に着いた」というような記述があって、『日本書紀』の記述も整理しきれていないような印象を受ける。
それはともかくとして、林氏は次のように解説する。

退却する倭・百済連合軍を追撃して郭務悰軍が博多に上陸したとき、余豊璋の百済軍は、すでに九州を離れて畿内に乱入して、一気に琵琶湖畔大津地方を占領し、畿内に群居する百済人たちへ大津への移住を命じた。それを嫌う百済人は東国に逃げた。
郭軍は、菟道で閲兵した後、ひとまず筑紫に退き、九州の一角から倭ににらみを利かす。
近江に成立した政治体は、周辺豪族の制圧と併合にとりかかる。

三月十九日、都を近江に移した。
……
八月、皇太子(天智)が倭の京(飛鳥)におでましになった。

林氏が指摘した闇に包まれた古代史の謎の1つの「京が2つあったのか?」という疑問である。
余豊璋は、倭の古京の飛鳥に赴き、大海人と調停を結んで、新朝廷を樹立し、国号を「日本」とする。
『旧唐書』の記す「日本はもと小国にして、倭国を併合す」である。

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2008年5月15日 (木)

白雉の政変

大化改新否定論者の原秀三郎氏が「白雉惟新」を唱えていることは既に紹介した(08年4月5日の項)。
それは、孝徳朝の実体は白雉以降であり、その記録が大化年間に集中的に集められたのではないか、とするものである。
原氏は、「白雉惟新」論の具体的内容を以下のように想定している。
第一に「評制」が施行された。
第二に、白雉改元をした。
第三に、白雉2年に難波遷都を行った。これに伴い、畿内制を施いた。
第四に、653年と654年に遣唐使を派遣した。
これらの孝徳の新政は、儒教に基づく理想主的な政治であったため、現実面の経済政策や土地政策でぬかりがあり、中大兄と対立関係になった。

林青梧氏は、白雉改元は、日本列島における新羅系と百済系の主導権争いの1コマだとする。
新羅の武列王から、倭の孝徳王への肩入れを命じられて、大化5年に、金多遂が倭を訪れた。しかし孝徳朝は崩壊寸前で、金多遂も手の打ちようがなかった。
『日本書紀』では、翌年(大化6年)の1月1日から、突然に「白雉」に年号が変わっている。その理由は説明されていない。
2月9日の条で、白雉が現れたことを瑞祥とみる、という説明がある。
白雉出現の意義を問われて答えているのは、百済君豊璋である。
つまり、孝徳王に代わって、豊璋が百済系の斉明(皇極・宝)女王の復活を図った政変だった。
冬12月の晦日の条に、この年、新羅の朝貢使知万沙飡が、(唐の服を着て筑紫に来たため)追い返され、巨勢大臣が、「今新羅を討つべし」と上奏した、というような記述がある。

文定昌『日本上古史』(1970)は、この時期、倭朝は、新羅系孝徳王の大和国と、百済系白雉朝の併立王朝だった、としている。
白雉朝の遣唐使派遣は、新羅系を一掃した百済系王朝が、唐の反応を確かめるためのものであった。
新羅系の高向玄理は、翌年の遣唐使に加えられ、唐に追放されて唐で死去する。僧旻は、病に倒れる。僧旻を病床に見舞った孝徳は、「もし法師が今日亡くなれば、自分はお前を追って明日にでも死ぬだろう」(宇治谷孟訳)と言った。
そして、皇太子の「倭京に遷りたい」という奏上を孝徳が拒否し、皇太子は、皇極上皇・間人皇后・大海人皇子らを率いて、倭の飛鳥河辺行宮に遷ってしまうことになる。
皇極上皇と記されているが、この時代に上皇という呼び名はない。

ここで林青梧氏は、大海人皇子の登場を重要なこととして指摘する。
乙巳のクーデター時にも、孝徳王の政権にも、全く影も形も現さなかった大海人皇子が、白雉王朝になって突然に姿を現した。
大化5年以前に倭にいなくて、それ以後倭にやってきた人物で、政治的に重要な人物は誰か?
林氏は、新羅王が倭に派遣した金多遂こそ大海人皇子であった、とする。

金多遂は、孝徳からの援軍要請に応えて来倭したのだったが、孝徳王をテコ入れできるような情勢ではなかった。
林氏は、大海人を、海の向こうから渡来し、新しく余氏に加わった大切な人物、というような意味ではないか、と解している。

この時期、韓半島では、高句麗、百済、新羅が、三つ巴の激闘を繰り返していた。
655(百済義慈王15、斉明元)年、百済、高句麗、靺鞨が同盟して新羅に総攻撃をかけ、三十余城を攻略した。
新羅の武列王(金春秋)は、「先滅百済、後討高句麗」を唐に提案し、唐の高宗はこれに同意した。
660年に、唐は蘇定方を帥として13万の大軍を発し、新羅軍5万が加わって、百済軍を一気に攻略して、百済は敗亡した。
斉明女王は、百済からの救援要請に応えて、豊璋を百済王に任じ、百済再興を図る。
ちなみに、林氏は、『日本書紀』において後に天智天皇となる中大兄皇子とは、葛城皇子と余豊璋の合体したものとしている。

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2008年5月14日 (水)

倭と新羅の政変の連動

『日本書紀』の大化3年の項に、以下のような記述がある(宇治谷孟現代語訳)。

新羅が上臣大阿飡金春秋(のちの武列王)らを遣わして、博士小徳高向黒麻呂、小山中中臣連押熊を送り、孔雀一羽・鸚鵡一羽を献上した。春秋は人質として留まった。春秋は容色美しく快活に談笑した。

林青梧氏は、『「日本書紀」の暗号』講談社(9009)において、「孔雀一羽、鸚鵡一羽の手土産を持ち、容色美しく快活に談笑する『人質』とは、いかなる意味か?」と問う。
そして、文定昌『日本上古史』(1970)の以下のような解説を紹介する。

金春秋は、倭における大化政変の結果の検分に来たのだった。新羅からみると、在倭新羅系の孝徳王の親新羅政策は生ぬるく、金春秋は、難波京にのりこむと、孝徳王に倭国の国号の変更を求めた。当時、真徳王の新羅は、年号を「大和」といった。それをそのまま使わせてヤマトと読むことを命じたのだ。
翌年、金春秋は、自由意志で倭を去って本国に戻り、さらに唐に入る。そういう人物を「人質」と書かなければならなかった事情が倭国にあったと考えるべきだろう。
応神紀の「御友別」が侵入軍の意味であったことからすれば、「人質」についても同様のことが言えるのではないか?

当時、高句麗で唐の冊立した建武王を、淵蓋蘇文が殺害し、これに唐が制裁行動をとったことから、倭・韓に影響が及んだ。
その余波によって、新羅と倭で連動する政変が起きた。
〔新羅〕
上大等(新羅の家臣最高の身分)の<偏・田+旁・比>曇(ビダン)を首領とする門閥グループと、金春秋らの国王グループとの間に、反目対立の状況が生じた。
金春秋は、善徳女王をかついで、強い集中権力を作り上げようとした。
〔倭〕
蘇我王を中心とした畿内王族、大伴の連合政権で、「君」は女の宝大君だった。中臣鎌足が、中大兄とはかって、宝大君を強力に支持して強権を築き上げ、韓半島から分離して自立する道を探っていた。

唐の太宗は、新羅の状況をみて、善徳女王では弱いから、太宗の一族を送るからそれを王にしたらどうか、と新羅に申し送ってきた。
新羅は、それを真似て、宝大君では弱いから、新羅の派遣する王族を王にしたらどうか、と倭に言ってきた。その候補者が金春秋だった。
という背景を考えれば、大化政変は次のように考えられるだろう。

1.新羅では上大等の路線は多くの貴族の支持を得て、善徳女王廃位へと向かっていた。倭では、蘇我本宗家が豪族層の支持を受けて、宝女王(皇極)廃位に向かっていた。
2.大等層の意向に対して、善徳女王を支持したのが金春秋であり、金庾信だった。倭では、中大兄と鎌足の関係がこれに