人物

2009年12月22日 (火)

百人一首の構成

寒い季節になったが、ゴルフに出かけたりして防寒が特に必要なとき以外は、最近は股引というものを滅多にはく機会がない。
全般的な暖冬化ということもあるだろうが、暖房器具の発達や家屋等の構造によるものだろう。
私の育った環境では、このモモヒキをモモシキと発音していた。
もちろん、江戸っ子というわけではないが、周りの人間もヒとシを混用していたように思う。

そんなこともあって、子供の頃、「百人一首」で遊び始めた頃、オオトリに位置する順徳院の歌は比較的早く覚えたものの1つである。

ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり

ももしきは勿論下着のことではない。
百磯城の表記で、たくさんの石で築いた城の意味であり、大宮、宮中を指す。
子供の頃には、歌の意味も余り考えたことがなかったし、ましてこの歌がオオトリに置かれていることの意味など全く関心の外であった。

しかし、直前の99番が後鳥羽院の歌で、この2人が「承久の乱」に敗れて、それぞれ佐渡と隠岐に流され、生きて帰ることがなかったことを知ると、その配列の意味に興味が湧いてくる。
2人の院は、歌人としても力量のある人だった。
特に後鳥羽院は、『新古今和歌集』の撰にも深く係わったとされ、和歌の歴史に大きな影響を与えた人物だった。
2008年7月24日 (木):「百人一首」と藤原定家
2008年7月26日 (土):「百人一首」の成立事情

隠岐に流されたとき、後鳥羽院は42歳で、この小島で18年を過ごし、60歳で亡くなった。
順徳院が佐渡に流されたのはまだ25歳のときだった。
佐渡で20年を過ごして亡くなった。

「ももしきや……」の歌は、かつての栄華の日をしのぶものであり、佐渡へ流されてからの望郷・懐旧の歌のように思われる。
しかし、実際は、建保4(1216)年のまだ20歳のとき、討幕の謀に取り組んでいた頃の作ということである。

冒頭に天智天皇、持統天皇を置き、最後を後鳥羽院と順徳院で締めたことに、藤原定家はどのような意図を込めたのだろうか?
持統天皇は、天智天皇の娘であるから、最初と最後に親子の作が並べられている。
もちろん、偶然ではないだろう。

天智天皇は、中大兄皇子として大化改新を決行し、蘇我氏から権力を奪還して天皇家の権力を確立したとされる。
後鳥羽・順徳の両院は、朝廷への権力の奪還を試みたが、逆に朝廷の権力を失う結果となった。
天智・持統の親子は、実質的な律令制の確立者であり後鳥羽・順徳の親子は、結果的に律令制を崩壊させることになった。
私は、「百人一首」は単に時代順に並べられているのかな、と単純に考えていたのだが、さすがに定家は、意図を持った構成を行っていたようである。

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2009年12月21日 (月)

「天皇の政治利用反対」という錦の御旗(5)承久の乱

古来、天皇は、政治利用される対象であると共に、しばしば自ら政治権力者として行動してきた。
天智天皇は、中大兄皇子として大化改新の主導者として理解されているし、天武天皇は、壬申の乱に勝利して天皇位に就いた。
天皇号を初めて用いたのも天武天皇とされる。
天武朝は、天皇親政だったが、天皇の政治的権力を高めようとするときのスローガンが「天皇親政」という言葉だった。
明治維新は、長らく武家に握られていた政治権力を朝廷に大政奉還するものであった。

鎌倉幕府の成立後、鎌倉の武家政権と京都の公家政権が並存していた。
承久元(1219)年、3代将軍の実朝が、甥の公暁に暗殺された。
実朝の死後、鎌倉の政務は頼朝の正室の北条正子が代行し、弟の執権・義時が補佐する体制となった。
朝廷の最高権力者は後鳥羽上皇だった。

鎌倉サイドは、実朝の後継将軍として皇族を迎えたいと申し出るが、後鳥羽上皇の求めた条件が幕府の根幹を揺るがすものとして拒否した。
義時は、皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、執権を中心とした政務体制となったが、この将軍継嗣問題により、義時と後鳥羽上皇との間にしこりが残ることになった。

朝廷と幕府の緊張が次第に高まっていき、後鳥羽上皇は討幕の意思を固める。
土御門上皇は反対の立場であり、多くの公卿たちも反対もしくは消極的だったが、順徳天皇は積極的だった。
承久3(1221)年5月14日、後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して挙兵した。
「承久の乱」である。
京方は、院宣の効果を過大視し、「義時は朝敵となったので、義時に参ずる者は千人もいないだろう」と楽観視していた。

上皇の挙兵に鎌倉の武士は動揺したが、武士たちを鼓舞して団結を高めさせたのは、政子のアジテーションだったとされる。
政子は、追討令は、上皇側近の讒言によるもので、不条理なものであり、頼朝の恩顧を説いて、上皇との戦いに向かう決意を固めたという。

『増鏡』には、北条泰時が、「もし鳳輦を先立て、上皇みずから軍の先頭に立って攻めてこられた場合」にどうすればいいかと問うたのに対し、義時が、「君の御輿に弓を引くことはできぬ。鎧をぬぎ、弓の弦を切って降参するほかない。だが、上皇が洛中にとどまり、軍兵だけが派遣されてきた場合には、千人が一人になるまでも戦うべし」と答えたとされる。
この時点では、朝廷の権威はそれだけ大きかったわけである。

結果として京方は大敗した。
首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島に、順徳上皇は佐渡へ配流となった。
朝廷の権力奪還の試みは敢え無く失敗し、朝廷は幕府に完全に従属することになった。
律令制は実質的に崩壊し、古代から中世への転機となった乱であった。
大化改新と対をなす出来事だったと見ることができる。

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2009年12月19日 (土)

「天皇の政治利用反対」という錦の御旗(3)張作霖爆殺事件

「文藝春秋2010年1月号」に、『昭和の肉声-いま甦る時代の蠢動』という特集記事がある。
歴史探偵を自認する半藤一利氏の解説で、昭和史の60のシーンを象徴する言葉でレビューしようという企画である。
その2番目に、昭和天皇の「最初に言つたことと違ふぢやないか」という言葉が取り上げられている。

昭和3(1928)年6月4日に、満州軍閥の指導者だった張作霖を乗せた特別列車が爆破され、張作霖が暗殺されるという事件が起きた。
いわゆる「15年戦争」と呼ばれる中国との戦争の導火線に火を点けた事件である。
この張作霖爆殺事件については、現在では、日本陸軍の陰謀であったことが共通認識になっていると言っていいだろう。

しかし、世の中には敢然と通説に反論する人がいる。
例えば、田母神俊雄元航空幕僚長である。
田母神氏は、アパグループ主催の第1回『「真の近現代史観」懸賞論文』の最優秀賞を受賞した人である。
応募の時点では現職の航空幕僚長であったが、この論文の内容が問題視され、職を解かれたことで話題になった。
2009年1月10日 (土):田母神第29代航空幕僚長とM資金問題

私は、多くの場合、異端の説を好む傾向があるが、この田母神論文は、私の感覚とは全く相容れないものであた。
張作霖爆殺事件についての田母神氏の見解に対しては既に触れたことがある。
田母神氏は、張作霖爆殺事件は、「関東軍の仕業であると長い間言われてきたが」「最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている」と書いた。
2009年1月13日 (火):田母神氏のアパ論文における主張②…張作霖爆殺事件

「文藝春秋」誌で解説を担当している半藤一利氏は、『歴史探偵 昭和史をゆく』PHP研究所(9205)において、「いまでは日本陸軍の陰謀であることは明らかになっている」が、「当時、なぜあれほど早くバレてしまったのか」いつも気になっていた、として、その背景事情を調べた経緯を書いている。
半藤氏は、『小川平吉関係文書』から、白川義則大将の小川宛書簡と、小川が中国に派遣していた工藤鉄三郎らの小川宛電報を見つける。

白川大将は、事件当時陸相の地位にあったが、この書簡の時点では、田中義一内閣が総辞職して後任の宇垣一成大将と交代していた。
書簡と電報から、現職の陸相だった白川大将から、主犯河本大佐の名前が明らかになったあとの、もみ消し工作の資金が拠出されていることが分かる。

半藤氏は、陸軍中央ぐるみの陰謀であったと解説している。
田母神氏の見解は、現時点におては、異端というよりも偏見というべきだろう。
張作霖爆殺事件については、当初から、陸軍に疑念がかけられていた。
元老西園寺公望に言われ、田中義一首相は、「張作霖爆殺事件については、どうも我が帝国の陸軍の中に多少その元凶たる嫌疑がありやうに思ひますので、目下陸軍大臣をして調査させてをります」と昭和天皇に報告した。
陸軍大臣は、上記の白川大将である。

陸軍部内の処罰に反対し、闇から闇に葬ってしまえ、という大勢に押されて、「断固処罰します」と明言していた田中義一首相は態度を変え、「本件を行政事務として内面的に処置し、然して一般には事実なしとして発表致したく」といいはじめた。
これに対し、『昭和天皇独白録』文藝春秋(9103)によれば、以下のような天皇の発言となる

田中は再び私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であつた。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云つた。
この言葉によって、田中義一は辞表を出さざるを得なくなり、総辞職するに至る。
そして、この事件の後、昭和天皇は内閣の上奏する所のものは、自分が反対の意見を持つていても裁可を与える事に決心した、と「NOを言わぬ天皇」となった。
現在とは政治体制も異なるが、昭和史の起点において、誰が天皇を政治利用(しようと)したことになるのだろうか?

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2009年12月18日 (金)

「天皇の政治利用反対」という錦の御旗(2)玉松操

内政上の「30日ルール」を破って、中国の習近平副主席との会見の機会を設定したことについて、激しい批判が起きている。
もちろん、現代において、天皇の政治利用は戒められるべきことであろう。
しかし、日本史は、ある意味で「天皇の政治利用」の歴史でもあった。
「大化改新」「建武中興」「明治維新」「二・二六事件」……

「天皇の政治利用」という言葉から、「玉」という言葉を連想する。
東京大学教授の山内昌之氏は、産経新聞に連載している『幕末から学ぶ現在』で、次のように書いている。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091217/acd0912170807002-n1.htm

木戸孝允や大久保利通ら政治工作に巧みだった薩長の人間は、幼少の明治天皇を隠語で「玉」と称して、ひそかに抱え込み、「玉」の威力で官軍を名乗ることに成功したのであった。
これは最も大胆な天皇の政治利用にほかならない。この時に、錦旗を考案して討幕軍を鼓舞したのが玉松操である。

玉松操は余り馴染みのある名前ではないが、Wikipediaでは以下のように解説されている(2008年10月22日最終更新)。

玉松 真広(たままつ まひろ、文化7年3月17日(1810年4月20日) -明治5年2月15日(1872年3月23日))は幕末期の国学者。岩倉具視の謀臣として王政復古の勅を起草したことで有名。通称は。雅号は毅軒。
京都で国学者大国隆正に師事したが、やがて師と対立して泉州に下り、さらに近江国真野に隠棲。三上兵部、樹下茂国らを弟子とした。1867年、三上の紹介によって岩倉具視に会い、その腹心となる。以後、幕末維新期の岩倉と常に行動をともにし、その活動を学殖・文才によって助けた。
ことに有名なのは小御所会議の席上示された王政復古の勅を起草したことであろう。さらに玉松は、早晩幕府との交戦があることを予想し、官軍の士気を鼓舞するための錦旗のデザインを考案するなど、その功績小ならざるものがあった。

つまり、「錦の御旗」を考えた人であった。
錦の御旗とは次のような旗である。
もっと 古くからあったような気がしていたが、歴史はそんなに古くない。
しかし、その威力は大きかった。
山内氏は、以下のように解説している。

東海道や東山道を下る軍の先頭を飾った日月章の錦の御旗と菊花の紅白旗は、そのまま古代から公の旗として格別に使われていたわけでない。下級公家出身の玉松の工夫したデザインは、あたかも朝廷に長く伝えられた由緒ある制式の旗でもあるかのように各地の人びとを心服させる魔法の役割を演じた。

Photoつまり、幕末において、既に古くから使われていたように錯覚されていたということである。
「旗」というものは、まことに不思議な働きをするものである。
「旗幟鮮明」という言葉があるように、その立場を明確に示すものであるが、アイデンティティを示す最も有効な手段ともいえよう。
そういえば、最近は、国民の祝日に国旗を掲げている家を見る機会が激減している。
私などの世代は、日章旗に対する拒絶感はほとんどない。
紛糾の上「国歌・国旗」を法制化したが、現状を見る限り、その効果は余りなかったということになる。

しかし、「錦の御旗」に「天照皇太神」とあるように、皇国史観と一体のものであった。
山内氏は、次のように説いている。

(玉松操は)幕末薩長の倒幕リーダーたちが天皇を「玉」と呼ぶなどプラグマチックな活動家だったことを知っていたはずだ。
そのうえで、「玉」という考えにあたかも象徴的権威を与えるために「旗」を考案したのだから、新政府が倒幕を実現して想像以上の欧化主義を採用したとしても自業自得というところであろう。

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2009年12月17日 (木)

「天皇の政治利用反対」という錦の御旗

12月15日に、天皇陛下が、中国の習近平国家副主席と会見した。
習氏は、胡錦濤現主席の後を継ぐ人物と目されているが、中国のことだからこれから何が起きるか予測不能である。
しかし、中国の国家的要人であることは間違いないようだ。
この会見の日程の調整をめぐって、論議が紛糾している。

民主党政権が、「30日ルール」を破って無理矢理日程調整したのではないか?
天皇の政治利用に相当するのではないか?
あるいは、中国に媚びる朝貢外交ではないのか?
逆に、宮内庁は政権交代して、政治主導になったことに適応していないのではないか?

どうやら、世論は鳩山内閣を操縦しているように見える小沢幹事長の剛腕(というよりも傲慢)ぶりに対する批判が多数派のようである。
私も、小沢幹事長の挙動について、いささか不遜の度が過ぎるように感じるのは事実である。
しかし、小沢氏や鳩山総理に対する反発も、感情論が先行しているのではなかろうか。
例えば、「週刊文春091224」号の特集記事は、『小沢も鳩山は天皇陛下に土下座して謝れ』と銘打たれている。
これでは、「天皇の政治利用反対」を錦の御旗として振りかざしているのではないか、という気がする。

もう少し冷静に問題の所在を探ってみよう。
もちろん、私には現時点で論点を俯瞰できる知見も、また特別の情報があるわけでもない。
しかし、ごく図式的にいえば、天皇制に対する共同幻想が、基層の部分で分裂しつつあるのではなかろうか。
多くの国民の、小沢氏等に対する反発は、2000年の伝統ともいうべき共同幻想に基づくものだろう。
極論すれば、「天皇は神聖不可侵」である。

一方、戦後民主主義の申し子とでもいうべき現在の民主党の執行部は、天皇制に対して、よりプラグマティックな構えではなかろうか。
それは明治維新時の薩長の志士たちのようでもあり、昭和前期の石原莞爾らのように、である。
要するに、天皇は「玉」である、という位置付けである。

今回の天皇陛下と習副主席との会見は、客観的に見れば、中国の政治的思惑と、民主党の政治的思惑との落着点である。
現在の日本国憲法では、冒頭で天皇について、次のように規定している。

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第3条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
つまり、現在の日本の「国体」は「象徴天皇制」である。
しかし、この「象徴天皇制」というものが、いささか分かりづらい。
そして、「国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要」とする、とある。
責任は内閣にあるのである。
そして「国事」については、次のように規定されている。
第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
1.憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
2.国会を召集すること。
……
9.外国の大使及び公使を接受すること。
10.儀式を行ふこと。
今回の論議の現象的な問題点としては、第一に「30日(1カ月)ルール)」と呼ばれるルールをめぐる問題がある。
私は、今回の問題が起きるまで「30日ルール」というものの存在を知らなかった。
それは、次のようなことである。
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp3-20091214-575796.html

外国要人が天皇陛下との会見を希望する場合に、1カ月前までの正式申請を求める日本政府の慣例。公務多忙な平価の日程調整を円滑に行うのが目的で、1995年に文書で定められた。特に2004年以降は、前年に平価が前立腺がんの摘出手術を受けられたこともあり、厳格に守るよう徹底してきたとされる。

問題は、このようなルールが存在したとして、その運用に関してのルールが明確でなかった、ということではなかろうか?
このルールを運用するのは宮内庁なのか、その上位機関として内閣があるのか?
何でもかんでもルール化すればいい、というものではないとは思うが、これは最終的な判断を誰が行うかという職務分掌を明確化すればいい問題だと思う。

第二は、中国副主席との会見は憲法に規定する国事行為ではないので、「内閣の助言と承認を必要とする」という憲法の規定を持ち出すのは筋違いである、という点である。
確かに、天皇の国事行為は限定列挙されていて、「外国の大使及び公使を接受すること」は挙げられているが、「要人」について規定されてはいない。
そして、要人との接受などは、「公的行為」という区分けになるらしい。

小沢氏が憲法について認識不足であるかのような批判がある。
しかし、天皇の公的な活動について、国事行為か公的行為かを論じることは、余りにも文言に囚われたもの言いではないだろうか。
小沢氏の発言は、言葉の表面的な解釈からすれば、誤解である。
しかし、法の精神ということを考えた場合、「国事行為」と「公的行為」を厳密に区分して考えることが妥当であろうか。
私は、外国要人との接受についても、「内閣の助言と承認を必要とする」という国事行為に関する規定は準用すべきではないかと思う。

第三は、今回の会見が、「天皇の政治利用」に相当するか否か、という点である。
これにはさらに2つの側面がある
1つは、会見自体が「天皇の政治利用」なのか否かという問題であり、もう1つは「30日ルール」との関係で政治利用なのか否かという問題である。
後者については、「30日ルール」についての「運用のルール」の問題なので、これについては、ルールを明確化するということで決着するだろう。

前者についてはどうか?
私は、日本国憲法の第一章が「天皇」となっている以上、国事行為であるか公的行為であるかを問わず、公人としての天皇の行為は、政治的効果を持つものだと思う。
そもそも、今回のようなことが問題化すること自体が政治的効果の反映ではないだろうか。
だから、天皇の公的な行為については、「内閣の助言と承認を必要とする」ということを原則だとすべきだと考える。

羽毛田長官は、皇太子にさえ苦言を辞さない人と言われる。
だとしたら、「30日ルール」を守るべきだと考えたのならば、職を賭してでもそうすべきだったのではないだろうか。
私は、小沢幹事長の傲慢さに組する気持ちはないが、「天皇の政治利用反対」を錦の御旗とする人たちもいささか感情論が先行しているように思う。

問題は、「象徴天皇制」をどう捉えるか、というところにあるように思う。
私たちは、戦後と呼ばれる時間を、巧妙に問題を先送りして曖昧に過ごしてきたのではないだろうか。
それも限界に近づいているように感じる。
2010年は、天皇制と憲法について、大いに論議が起きてくる年のような予感がする。

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2009年12月16日 (水)

「卑弥呼=天照大神」説の否定論(3)母集団と標本-その2

坂田隆氏が、『卑弥呼をコンピュータで探る-安本美典説の崩壊』青弓社(8511)において展開している安本美典『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)における数理統計学の誤利用論をもう少しみてみよう。
安本氏の立論の基本は、以下のように示される。
Photo_8 ある天皇の即位年Tが既知とすると、その天皇よりn代まえの天皇の即位年τは次の式で推定できる。
Photo_12 
坂田氏は、ここで安本氏は、1つの母集団において適用すべき(3)式を、2つの母集団に対して適用するという誤用をしていると批判している。
2つの母集団とは以下の2つである。
母集団A:第31代用明天皇から第49代光仁天皇までの19代およそ200年間の天皇の在位年数。母集団の大きさは19である。
母集団U:歴史的に確実でさかのぼりうる最古の諸天皇と等質の母集団。

Photo_2安本氏は、用明天皇より前の諸天皇は、母集団「U」からの標本である、とする。
あるいは、天照大神~光仁天皇の54代の一人一人の在位年数「x」は、仮想母集団「U」からの標本である。
この(仮想)母集団「U」の大きさは、54もしくはそれ以上である。
坂田氏は、「A」と「U」は、「2つの母集団」であるにもかかわらず、「1つの母集団」に対して成立する(3)式を用いて推論するのは間違いである、と指摘している。

坂田氏は、このことを説明するために、岡田泰栄『統計』共立出版(1968)から、上掲コラムを引用している。
つまり、(5・6)式は、安本氏の式(3)と同一であるが、この式は、「1つの母集団」を前提とするもであり、安本氏の説明は、「1つの母集団」については成り立つが、安本氏は、実際には「2つの母集団」を対象としているのであって、それは重大な誤りである、ということになる。

坂田氏は、安本氏はさらに重大な誤りをしている、とする。
それは、安本氏が、“数値の知られていないものを「標本」としている”ということである。
そして、安本氏は“「母集団」の数値によって、「標本」の数値を推定している”が、数理統計学は“「標本」の数値によって、「母集団」の数値を推定する”方法であり、安本氏はまったく逆のことを行っている。

安本氏は、次のように言っている。
1.用明から光仁まで19代の天皇の在位年数を「母集団」とする。
2.用明天皇より前の諸天皇は、母集団「U」からの「標本」と考える。
つまり、安本氏は、「母集団」によって「標本」を推定しているのである。

安本氏の誤用の原因は何か?
第一に、用明~光仁の19代の天皇の在位年数を、安本氏は「母集団」としているが、これは「標本」と考えるべきである。
なぜならば、標本とは数値が知られているものであって、その標本から母集団を推定するものであるから、用明~光仁の在位年数は「標本」だとすべきである。
また、用明以前の天皇の在位年数は、数値の分からないものとして扱っているのであるから、これは「標本」ではなく、母集団の一部として考えるべきものである。

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2009年12月15日 (火)

「卑弥呼=天照大神」説の否定論(3)母集団と標本

坂田隆氏は、『卑弥呼をコンピュータで探る-安本美典説の崩壊』青弓社(8511)において、安本美典『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)における数理統計学の手法を批判している。
坂田氏は、まず、安本氏の説を引用する。
2
その批判の論点は、以下の通りである。
1.安本氏がここで母集団平均値、母集団標準偏差としているのは、それぞれ標本平均値、標本標準偏差である。
つまり、安本氏は、母集団と標本を取り違えているのではないか?
「母集団と標本」に関しては、下記でみたばかりである。
2009年12月11日 (金):「同じ」と「違う」(12)母集団と標本

坂田氏は、「母集団と標本」の関係を示すために、鷲尾泰俊『推定と検定 #数学ワンポイント双書 18#』共立出版(7802)から、以下の部分を引用している。

上の三つの例に見られる共通的な性質は、推測をしたい“もの”の集団があり、この集団についての推測をするために、集団から何個かの“もの”をランダムに取り出してデータを得ている、ということである。統計学では、この関係を強調するために、推測をしたい“もの”の集まりを母集団(population)とよび、母集団の推測をするために母集団から取り出されるいくつかの“もの”を標本(sample)とよぶ。標本の中に含まれている“もの”の数を標本の大きさ(size)とよぶ。統計学(数理統計学)は、標本から母集団についての推測をするための方法を与える学問であり、この方法を統計的方法とよぶ。

2.安本氏は、「n」を「n代前の天皇」の意味で用いている。
しかし、引用箇所における「n」は、「標本の個数」の意味である。
つまり、安本氏は、用明天皇から光仁天皇までの19代の天皇の在位年数をもとに、天照大神の活躍時期を推定している。
すなわち、19は、標本の個数であって、通常、数理統計学ではこれを「n」と表わす。
また、天照大神~光仁天皇までの54代までが推計の対象であるから、これが母集団であって、54は母集団の大きさであり、ふつう「N」で表わす。
にもかかわらず、安本氏は、「n」を、本来の「在位年数の知られている天皇の数」の意味で用いたり、「N-n」つまり何代前の天皇かの意味で用いてたりしている。

3.上掲の引用における式(3)は、正規分布をした母集団から、n個の標本を取り出した際に適用できる式である。
天皇の在位年数は正規分布していない母集団であるから、このような母集団に適用することはできない。
Photo_6Photo_7坂田氏は、用明天皇から大正天皇までの天皇在位期間のヒストグラムを示している。
図で見るように、用明天皇から大正天皇までの天皇の在位期間の分布は正規分布をしていない。
このような分布の母集団に対して、(3)式のような推計を行うことはできない。

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2009年12月14日 (月)

「卑弥呼=天照大神」説の否定(2)n代違う天皇の時間差の推定

安本美典氏は、『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)において、歴代の天皇の在位年数のデータから平均値と標準偏差を算出している。
Photo_2つまり、第31代用明天皇から大正天皇までの98天皇の平均在位年数は14年であり、用明天皇から第49代光仁天皇(奈良時代の最後)までの平均在位年数は約10年である。

安本氏は、用明天皇から光仁天皇までの値を、古代の天皇の一般的な在位年数と標準偏差とすれば、2人の天皇の時間的距離を、平均在位年数にその間の代数nを掛けることによって求められる、としている。
そして、平均値と実際の時間とは当然差異がある。
推定する時のこの差異は誤差であり、標準偏差から計算できる。

Photo_5安本氏は、用明天皇から光仁天皇までの平均在位年数と標準偏差を用いて、n代違いの天皇の時期の推計値と誤差の幅を、95%、99%の信頼度という形で、表のように算出している。

これをグラフ化すると、次図のようになる。
Photo_4  1代前の場合には、平均在位年数の10.35年に、±16.27年の幅をみておけば、95%くらいの確からしさ(つまり、100回のうちの95回くらい)でその範囲に収まる、ということである。
用明天皇の即位年を正しいものとして、その10代前の雄略天皇の即位年を推定する場合には、95%の信頼度だと、52.06~154.94年前、99%の信頼度だと、35.78~171.22年前ということになる。

安本氏は、雄略天皇の実際の即位年は不明であるが、雄略天皇が通説通り「倭王武」であるとすれば、478年に宋へ使いを出したことが『宋書』に記されている。
用明天皇の即位年を通説通り、西暦585年とすれば、雄略天皇の推計即位年は、95%の信頼度で、430.06年~532.94年であるが、上記の宋への使いからして、即位年がこの範囲において即位していることはほぼ確実である、としている。
即位年の推定値は、481±51.44年(95%信頼度)として表わされるが、481年は上記の478年ときわめて接近した値ということになる。 

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2009年12月13日 (日)

「卑弥呼=天照大神」説の否定論(1)天皇の在位年数

『魏志倭人伝』に描かれた「卑弥呼」像と、『記紀』の「天照(御)大神像」とには、類似した要素が多いことは事実だろう。
しかし、問題は、3世紀中ごろに死んだと想定される「卑弥呼」が、神武天皇より5代前とされる「天照大神」と、年代的に重ならないのではないか、ということである。
この問題に、数理統計学という斬新な手法で「解」を与えたのが、安本美典氏であった。
2009年11月26日 (木):卑弥呼の死(7)天照大御神の年代観

ところが、この安本氏の推論とその結論は、謬論であるとする人がいる。
坂田隆『卑弥呼をコンピュータで探る-安本美典説の崩壊』青弓社(8511)は、タイトルが示しているように、コンピュータによる推論によって、安本美典氏の説を全面的に否定したものである。
巻末に坂田氏が用いたコンピュータ・プログラムが掲載されている。
坂田氏は、京都大学の工学研究科の修士課程を修了後、仏教大学文学部史学科で学士号を取得した人で、履歴的にも数理的な推論は得意であると自負している。

坂田氏は、史学界においては正統的な研究者としては位置づけられていないのであろうが、日本古代史における有数の論客として多くの著書を出されている。
邪馬台国の位置論に関する坂田氏の推論についてレビューしたことがある。
2009年1月 6日 (火):珍説・奇説の邪馬台国・補遺…⑥「田川郡・京都郡」説(坂田隆)

坂田氏の安本説非定の論理をみてみよう。
坂田氏が問題にしているのは、安本氏の年代論である。
安本氏は、邪馬台国論に関して数多くの著書を出されているが、坂田氏が対象としているのは、先ずは『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)である。
安本氏は、天皇の平均在位年数を検証し、ある天皇の即位の年代を、天皇の「代」の数から推論するという方法を採用した。

もちろん、天皇の在位年数は、個々の天皇によってまちまりである。
下図は、用明天皇から大正天皇までの在位年数をグラフ化したものである。
Photo_2即位や退位の時期などが、歴史的な事実として信頼できるのは用明天皇の頃から以後であろうという前提である。
 
グラフではあまり明確な傾向は読み取れないが、安本氏は、時代別に天皇の在位年数を平均し、あるいは世紀別に平均して、時代を遡るに従い、天皇の平均在位年数は短くなるという傾向を発見した。
Photo_3 Photo_4

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2009年12月12日 (土)

『日本書紀』はなぜ、「卑弥呼=神功皇后」と見せかけたのか

『日本書紀』は、神功皇后紀に「魏志」の記事を引用していて、「卑弥呼=神功皇后」を匂わせている。
2009年11月26日 (木):卑弥呼の死(7)天照大御神の年代観
神功皇后は、Wikipedia(最終更新 2009年11月21日 (土))では次のように記されている。

神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) -神功69年4月17日(269年6月3日))は、仲哀天皇の皇后。『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。 父は開花天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。

つまり、『日本書紀』の年代設定において、卑弥呼と神功皇后が重なるわけである。
しかし、『日本書紀』の記す天皇の系譜が正しいとしても、実年代をその通りとするわけにはいかないから(神功皇后も享年100歳ということになるが、100歳を超える超長寿の天皇が大勢いて、これらを真だとはとても考えられない)、神功皇后の実年代も別途検討が必要になってくる。
ちなみに、100歳以上とされている天皇には、以下のような人々がいる。
初代神武(127歳)、5代孝昭(114歳)、6代孝安(137歳)、7代孝霊(128歳)、8代孝元(116歳)、9代開化(111歳)、10代崇神(119歳)、11代垂仁(139歳)、12代景行(143歳)、13代成務(107)、15代応神(111)、16代仁徳(143歳)

「卑弥呼=神功皇后」とした背景を、『邪馬台国の位置と日本国家の起源』新人物往来社(9609)の著者鷲﨑弘朋氏は、次のように解説している。

1.日本書紀の編纂にあたっては、初代神武天皇と皇祖天照大御神をどう位置づけるかが最大のポイントであった。ことは言うまでもない。

2.数多くの漢籍を見た日本書紀の編者達は、漢籍に頻出する著名な女帝卑弥呼が、皇祖天照大御神の人物像と一致し、同一人物であると認識せざるを得なかった。

3.ここで、日本書紀の編纂に重大な障害が生じた。
1)卑弥呼=皇祖天照大御神とすると、天照大御神が三世紀の人物となる。 しかし日本建国を太古の時代と設定したい大和朝廷にとって、これは是認しがたいことであった。
日本建国の時期を中国に劣らず古い時代に設定する必要から、初代神武天皇の即位を、推古天皇九年辛酉(紀元601年)から1260年(1蔀=21元)を溯った紀元前660年とした。
このように、神武天皇の即位を紀元前660年に設定すると、皇祖天照大御神すなわち卑弥呼は、それ以前の人としなければならない。
ところが中国側歴史書群では卑弥呼が三世紀の女帝であることが歴然としている。
このように、中国側であまりに有名な女帝卑弥呼を無視できず、日本書紀の作成にあたっては、中国側歴史書との整合性を意識せざるを得なくなった。
2)卑弥呼と中国魏王朝との地位関係も問題になる。
卑弥呼は日本神話・伝承では皇祖天照大御神として、神聖不可侵の存在であった。
ところが魏志倭人伝は卑弥呼と魏王朝を対等の関係に扱っていない。
魏の明帝から卑弥呼への詔書は、中国の天子が臣下に与える内容で、たとえば卑弥呼を「汝」と呼び捨てにするのが13ヶ所も出現する。また、「是れ汝の忠孝にして我甚だ汝を哀れむ」 「勉めて孝順を為せ」 「国家の汝を哀れむを知らしむべし」 「汝に好物を賜うなり」とある。このような表現は、対等な国家間の国書とは到底言いがたい。
卑弥呼が親魏倭王に制せられ魏の友好国としても、日本書紀の編者すなわち大和朝廷は、卑弥呼・邪馬台国を正面きって認めることができなかった。

4.そこで考案されたのが架空の人物 「神功皇后」である。
天照大御神の実体は卑弥呼・台与であるが、これを実像とすれば、日本書紀はこの実像を神武天皇以前----すなわち紀元前660年以前の神代に送った。さらに虚像・神功皇后を三世紀邪馬台国時代に設定するとともに、神功紀に魏志および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけて、中国側歴史書と年代の整合性をとったのである。

5.日本書紀は神功皇后をあくまで皇后とし、天皇(女帝)とは扱っていない。
日本書紀は神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけようとした。しかし、神功を第15代天皇の女帝と設定すると、後世の歴史家が神功と卑弥呼・台与を完全な同一人物と断定する危険性が生じる。
その場合は、第15代神功天皇が中国魏王朝に臣従していたことになる。このよう な事態を避けるため、日本書紀の編者は二つの細工をした。
1)
日本書紀は神功紀に魏志と晋起居注を引用しながら、卑弥呼・台与・邪馬台国との表現を一切避けて、単に年代を合わせるにとどめた。そして神功皇后の人物像と治績は卑弥呼・台与とまったく異なるものとした。このようにしておけば、神功が卑弥呼・台与であるような無いような微妙になって、あいまいにしておける。
2)神功を天皇とはせず、あえて皇后にとどめ、後世の歴史家がまんいち神功=卑弥呼・台与と断定しても、日本の最高指導者・天皇は中国に臣従していない、との伏線を張った。

6.仲哀天皇に皇后がいたことは当然であろう。そして、この皇后を仮に 「神功皇后」 と 呼ぶとすれば、その意味では実在の人物である。
しかし日本書紀が語る神功皇后像の本質は、①:69年間の天皇空位のままの摂政、②:時の最高権力者でありながら、また応神を出産する間際でありながら、さらには夫の仲哀天皇の喪中でありながら、みずから200キロの海を越えて朝鮮出兵したこと、③:神功紀に魏志および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけていること、----以上の三点であって、これらの観点からすれば、神功皇后は架空の人物ということである。
すなわち神功皇后の実体は、仲哀天皇の皇后という実像の上から、卑弥呼・台与の虚像の半透明膜を覆いかぶせたものである。

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