日本古代史

2017年1月 7日 (土)

舒明天皇の「国見の歌」の謎(2)/天皇の歴史(14)

舒明天皇の『万葉集』2番の「国見」の歌は謎の歌でもある。
⇒2016年9月29日 (木):象徴の行為としての「国見」/天皇の歴史(8)
⇒2016年11月24日 (木):舒明天皇の「国見の歌」の謎/天皇の歴史(11)

原文
高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇]
天皇登香具山望國之時御製歌
山常庭 村山有等  取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者
(A 扁左[忙]旁[可] は外字)
古田武彦 講演会

かな書きすれば、以下のようである。

やまとには,むらやまあれど,とりよろふ,あまのかぐやま,のぼりたち,くにみをすれば,くにはら は,けぶりたちたつ,うなはらは,かまめたちたつ,うましくにぞ,あきづしま,やまとのくには

古田武彦氏は、次のように問題を提起する。

 講演会では何回も「なぜ大和盆地で海が見えるのですか。」と質問を良く受けてまいりました。今までは「良く考えておきます。」とその度保留してきた。今回はこれを正面から取り組んでみて、確かにおかしい。万葉学者が「おかしくない。」と言ってみても、常識ある人間からはおかしい。池のことを海原と言い換えても、他にそのような例があるかと確認すれば全然無い。
 典型的なのは「山常庭 村山有等 取與呂布 やまとには むらやまあれど とりよろふ」の中の「とりよろふ」の解釈に疑問を持った。なぜかというと万葉学者の解釈にはいろいろ有るけれでも、どんな解釈をしても、大和盆地にいろいろある岳(やま)の中で天の香具山が一番目立っているという意味には違いない。しかしこれは知らぬが仏で、奈良県の飛鳥に行ったことのない人は騙されますが、実際に行ってみたら一番目立たない山である。澤潟久孝氏の『万葉集注釈』という本の写真を使わせていただきますが、畝傍山、耳成山は立派ですね。香久山は目立たない平凡な山ですね。これは写真に撮れば良く分かる。上の二つは良く撮れる。香久山は写真に撮れば逆にどこかと探すぐらい分からない。よほど現地の人に確認しないと分からない。この写真には立派に写っているが、素人が撮ればそんなにうまく写らない。
 しかも高さは百六十三メートルしかなく、奈良盆地自身が海抜百メートルぐらいありますので、山の麓(ふもと)に立っている高さは、五十メートル位であるので、私が歩いても頂上までさっと十分ぐらいで上がって行けた。
 非常に低い丘である。それが山の中でも目立つ山とは言えない。これは明らかにおかしいと、おそまきながら気が付いてきた。

そして、冒頭と末尾の2つの「やまと」に着目する。

山常庭 村山有等
蜻嶋 八間跡能國者

最後の「八間跡」と表記する大和は他に全くない。
その前の「蜻嶋」については次のように言う。

これについて私の『盗まれた神話』で分析したことがありまして、これは『古事記』などに「豊秋津島」と言う形で出てまいります。この「豊秋津」に対して私は、これは「豊」は豊国のことであろう。豊前・豊後の豊国。「秋」と言うのは、例の国東半島の所に安岐町、安岐川がある。大分空港のあるところである。そこの港が安岐港である。しかしこの「秋津」は安岐川の小さな川口の港ではなくて、関門海峡からやってくると、安岐町のところが別府湾の入口になる。そうすると「秋津」は別府湾のことではないか。別府湾を原点にして、九州島全体を指すのが「豊秋津島」ではないか。そう考えた研究の歴史がある。そうするとこの歌の「秋津島」とは九州島のことではなかろうか。そう思い始めた。これを考えたときはおっかなびっくりだったのですが、さらに進んで別府湾なら「海原」があって「鴎(かもめ)立ちたつ」も問題なし。のみならず「国原に煙立つ立つ」も問題がなくなった。私の青年時代、学校の教師をやったのが松本深志高校。そこに通うとき浅間温泉の下宿させていただいた。坂を下り学校に通うとき、冬など温泉のお湯がずっと溝に流し出され、それが冷たい外気に触れて湯気が立ち上がっていて、本当に「煙立ちたつ」の感じだった。そこをぬうようにして降り、なかなかいい光景だった。浅間温泉のような小さな温泉でそうだから、別府となりますと日本きっての温泉の一大団地。そうすると、まさに「煙立ちたつ」ではないか。学校の授業の時は「民のかまどの煙が立ちこめ」と注釈にもそう書いてあったので「家の煙」だと解説していた。しかし良く読んでみると、「海原は鴎立ちたつ」は自然現象。鴎が自然発生しているのと同じように、それと同じく「国原煙立ちたつ」も自然現象。煙が自然発生しているのと同じ書き方である。同じ自然現象です。

確かに温泉地では湯煙が見える。
私も霧島の鹿児島大学病院に入院していた時に、周辺が湯煙だらけだったのを思い出す。
20120519_060643

そして、別府に「天香具山」はあるのか、と問う。

まず「天 あま」はあった。別府湾に「天 あま」はあるのかと調べると、まずここは『倭名抄』では、ここら一帯は「安万 あま」と呼ばる地帯だった。この間行ってきた別府市の中にも天間(あまま)区(旧天間村)など、「あま」という地名は残っている。天間(あまま)の最後の「ま」は志摩や耶麻の「ま」であり、語幹は「あま」である。奈良県飛鳥は「天 あま」と呼ばれる地帯ではない。
 現在でも大分県は北海士郡・南海士郡というのが有り、南海士郡は大分県の宮崎県よりの海岸から奥地までの広い領域を占め、北海士郡は佐賀関という大分の海岸寄りの一番端だけになっている。点に近い所だけだが大分市や別府市が独立して喰いちぎられていったことは間違いない。これはもう本来は北海士郡は別府湾を包んでいたに違いない。それで海部族が支配していて「天 安万 あま」と呼ばれる地帯だったことは間違いがない。
 それでは香具山はどうか。別府の鶴見岳の存在です。
……
 ですからもう一言言いますと、「土蜘蛛 津神奇藻(つちぐも)」というばあいも、「くも」というのは「ぐ、く」は不思議な、神聖なという意味、「も」は(海の)藻のように集まっているという意味で、「くも」は不思議な集落という意味で、「津神奇藻(つちぐも) 土雲」は「港に神様をお祭りしている不可思議な集落」という誉め言葉なのです。それをへんな動物の字を当てて卑しめていて野蛮族扱いにイメージをさせようとしているのが『古事記』・『日本書紀』です。それを見て我々は騙されている。本来はこれは良い意味です。岡山県には津雲遺跡などがあります。そういう知識がありましたので、「ほ」は火山のことになる。
それで平安時代に、この鶴見岳の火山爆発があり『三代実録』にめづらしく詳しい状況が書いてあります。頂上から爆発し、三日三晩かけて吹っ飛び、大きい磐がふっ飛んできて、小さい岩でも水を入れる瓶ぐらいの大きさの岩が飛んできた。又硫黄が飛び散って川に流れて何万という魚が全部死んだという非常にリアルな描写があります。現在はそれで一三五〇メートルで、今は隣の由布岳より少し低い。その鶴見岳は吹っ飛ぶ前は高さが二千メートル近くあったのではないかという話があり、もしそうであれば鶴見岳の方が高かった。
 それで元に戻り、鶴見岳には火軻具土(ほのかぐつち)命を祭っている。「か」はやはり神様の「か」で神聖なという意味で、「ぐ く」は先ほどの不可思議なという意味であり、「神聖な不可思議な山」が「香具山(かぐやま)」である。火山爆発で神聖視されていた山である。もう一つ後ろに神楽女(かぐらめ)湖という湖がある。非常に神秘的な湖ですが、その神楽女湖も、「め」は女神、「ら」は村、空などの日本語で最も多い接尾語で、これもやはり語幹は「かぐ」である。だから並んで山も「かぐ」、湖も「かぐ」である。ですからやはり本来のこの山の名前は「かぐやま」であろう。「香具山(かぐやま)」とは本来ここで有ろう。それで安万(あま)の中にありますから「天香具山(あまのかぐやま)」である。

ちなみに「国見町」をWikipediaで検索すると、以下の3例が出てくる。

  • ・国見町(くにみまち) - 福島県伊達郡にある町。
  • ・国見町 (長崎県)(くにみちょう) - かつて長崎県南高来郡にあった町。現在の雲仙市の一部。
  • ・国見町 (大分県)(くにみちょう) - かつて大分県東国東郡にあった町。現在の国東市の一部。
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    2016年12月28日 (水)

    薬師寺論争と年輪年代法/やまとの謎(117)

    飛鳥の法隆寺、天平の東大寺と対比され、白鳳を代表する寺が薬師寺であるとされている。
    薬師寺は、天武8(680)年に、鸕(ウ)野皇后(のちの持統天皇)の病気治癒を祈願して、天武天皇によりその造営が企図された。
    この薬師寺は、平城京ではなく、藤原京に建立された。

    ところが、元明天皇によって平城遷都の詔が出され、和銅3年(710)藤原京から平城京への遷都が実施された。
    それと共に、飛鳥や藤原の地に造営された諸寺も、平城京へ移転することになった。

    これらの寺院の移転には大きな特色がある。"移転”と言うと、旧伽藍を解体し、平城京で新たに組み立てたとの印象を与えがちだが、実情はそうではない。単に寺号を受け継いだだけで、平城京で新しく堂宇を建立しているのだ。しかも、旧伽藍とは全く異なる伽藍配置を採用している。
    唯一の例外が薬師寺である。薬師寺だけは寺号を変えなかった。そのため、藤原京にあった薬師寺は、奈良薬師寺と区別するために「本薬師寺」と呼ばれるようになる。それだけではない、他の大寺とは異なり、本薬師寺の伽藍配置をそのまま踏襲している。
    本薬師寺から奈良薬師寺への移転の陰に隠された秘密

    薬師寺が、本薬師寺の伽藍配置をそのまま踏襲していることから、本薬師寺と薬師寺に関して、建築物と仏像の関係が、「移建-非移建」「移座-非移座」についての論争がある。
    「移建・移坐」ならば、東塔は、文武天皇の時に建てられたものの移建であり、金堂三尊は、持統天皇の時に造られたものの移坐である。
    非移建ならば、両者とも平城京遷都後のものということになる。
    文化史・美術史では、平城京遷都までを「白鳳」、遷都後を「天平」といっているので、「移建・移坐」か「非移建・非移坐」の問題は、「白鳳」か「天平」か、という問題であり、美術史の様式をどう捉えるかという問題になる。
    ⇒2008年2月22日 (金):薬師寺論争…①「白鳳」か「天平」か

    奈良文化財研究所(奈文研)が、解体修理中の薬師寺東塔の天井板2点に対し年輪年代測定を実施した結果、新事実が判明した。
    伐採年が729年と730年と推計され、塔中央の心柱についても、最も外側の年輪が719年を示し、720年代に伐採された可能性が高まった。
    1612202
    読売新聞12月20日

    東塔の造営年代については、平安時代の歴史書「扶桑略記」に「天平2(730)年3月29日、薬師寺東塔を建て始める」とする記述がある。
    東塔保存修理事業専門委員長の鈴木嘉吉・元奈良国立文化財研究所長(建築史)は「年輪年代測定の結果が史書の記述と一致する、国内初の発見。東塔を平城京で造ったことが確定した」と話している。
    年輪年代法という理化学的方法の有用性は法隆寺論争でも明らかにされてきたが、様式論とは別の視点から、古代史の謎解明に貢献するのではなかろうか。
    ⇒2007年8月30日 (木):若草伽藍の瓦出土

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    2016年11月24日 (木)

    舒明天皇の「国見の歌」の謎/天皇の歴史(11)

    舒明天皇の『万葉集』2番の「国見」の歌は有名であるが、謎の歌でもある。
    ⇒2016年9月29日 (木):象徴の行為としての「国見」/天皇の歴史(8)

    Photo_2
    万葉の旅 大和三山

    大和には 群山あれど 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

    率直に言って、大和に「海原は 鴎立ち立つ」とは理解しがたい。
    一般には次のように解説されている。

    江戸初期の学者契沖も、「和州には海なきを、かくよませ給ふは、彼山より難波の方などの見ゆるにや」と訝しがっています。標高150メートル前後の香具山から、大阪湾が見えるなんてことがあるのでしょうか。
     契沖の疑問に対し、少し後の時代の国学者たちは、香具山の麓にある埴安(はにやす)の池を海といったのだ、と解答しました。この説は広く受け入れられ、以来、この「海」は埴安の池ということにほぼ落ち着いているようです。
     最も新しい個人万葉全注釈である伊藤博氏の『萬葉集釋注』でも、この句について次のように注記しています。

    香具山の周辺には、埴安、磐余など、多くの池があった。「海原」はそれを海とみなしたものであろう。「かまめ」は「かもめ」の古形で、その池のあたりを飛ぶ白い水鳥をかもめと見なしたのか。

     そして、舒明天皇の国見歌は、「海と陸によって成る"日本国"全体の映像を」大和にになわせたもの、と見ています。奈良盆地の小風景に日本国全体を幻視している、というわけです。
    天の香具山と「海原」

    苦しい解釈である。
    別解としては、吉本隆明が『ハイ・イメージ論』で紹介した樋口清之の説がある。

    樋口氏は、地下の地質調査から判明した事実として「ほぼ長方形をしている現在の大和平野は、今から約一万年余り前、即ち洪積期の最終末の頃、山城平野に口を開いている海湾であった」ことを指摘しています。同書に載っていたランドサット映像からの想像図をたよりに、約1万年前の畿内地方の概念図を作ってみました。
    Photo_4

     上の図の水色の部分が、当時海湾であったと推定される領域です。樋口氏の説をさらに聞きましょう。

    海の塩水は大阪湾を満し、山城平野を満し、現在の奈良市の北にある奈良山の丘陵はなくて、それを越えて大和湾に北から南へ湾入していた。後に紀伊半島の地盤隆起に従って、大和平野の地盤は次第に海面から離れて行くことになった。(中略)つまり、大和盆地はもと湖であったが、地盤の隆起につれて排水が進行すると湖面が次第に低下し、最後には干上がって浅い摺鉢状の盆地になったと理解されます。(樋口清之「日本古典の信憑性」『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)

     簡単にまとめると、洪積世末期から沖積世にかけて、大和(奈良)盆地は、

     海湾→海水湖→淡水湖→盆地

    と移り変わったことになります。
     奈良盆地の標高45メートル線以下には、奈良時代以前の住居跡や遺物は発見されておらず、それ以下の低地は大和盆地湖の名残りで、湖水や湿潤地であった、と樋口氏はいいます。そして舒明天皇の国見歌に言及し、何十回も香具山に登ってみたが、埴安の池は見えなかった、とのべ、「むしろここから見える海原は、国原に対して海原と表現したもので、かつての盆地湖の名残りとして、丁度今の郡山の東の方が奈良朝まで湿潤の地であり、香具山からはこれが見え、また鴎の立つ姿も見えたと思う」と論じます。
    天の香具山と「海原」

    舒明天皇は、Wikipedia によれば推古天皇元年(593年) - 舒明天皇13年(641年)とされる。
    この頃には大和には鴎が群れ飛んでいたのだろうか?

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    2016年10月26日 (水)

    舒明天皇と皇統/天皇の歴史(10)

    舒明天皇は『万葉集』2番歌、いわゆる国見の歌の作者として知られる。
    ⇒2016年9月29日 (木):象徴の行為としての「国見」/天皇の歴史(8)
    舒明天皇は推古天皇を継ぐ第34代天皇で、系譜は以下のようである。
    先代が推古天皇、次代が皇極天皇で、女性天皇に挟まれる形である。
    Photo
    『日本の女帝の物語 ――あまりにも現代的な古代の六人の女帝達』 橋本治 

    推古天皇は、在位36年余だったが、628年4月15日に崩御した時、継嗣を定めていなかった。
    蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。
    すなわち舒明天皇である。

    蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとしたという説と他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がある。
    また近年では、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)と、庶子である用明天皇の直系(山背大兄皇子)による皇位継承争いとする見方もある。
    いずれにせよ、政治の実権は蘇我蝦夷にあったと言える。

    しかし、舒明天皇の皇后が次の皇極天皇であり、大化の改新を実行した孝徳天皇を挟んで斉明天皇として重祚している。
    百済救援のための航海中に亡くなるという対外的にも波乱の時代であった。
    斉明天皇下の百済救援政策が、白村江での大敗という存亡の危機をもたらした。
    そして「壬申の乱」という内政上の大転換に至るのである。

    『日本書紀』の系図上、天智、天武の両天皇の父であるから、古代史におけるキーパソンということになる。
    『万葉集』の巻頭に、雄略天皇の次に舒明天皇が置かれている。
    編者の意図はどうことだったのだろうか?
    Wikipediaでは、編者について、次のように解説している。

    『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。
    『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、内部徴証から、おおむね以下の順に増補されたと推定されている。

    1. 巻1の前半部分(1 -53番)…
      原・万葉集…各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇や柿本人麻呂が関与したことが推測されている。
    2. 巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集
      持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。元明天皇や太安万侶が関与したことが推測されている。
    3. 巻3 - 巻15+巻16の一部増補…15巻本万葉集
      契沖が万葉集は巻1 - 16で一度完成し、その後巻17 - 20が増補されたという万葉集二度撰説を唱えて以来、この問題に関しては数多くの議論がなされてきたが、巻15までしか目録が存在しない古写本(「元暦校本」「尼崎本」等)の存在や先行資料の引用の仕方、部立による分類の有無など、万葉集が巻16を境に分かれるという考え方を裏付ける史料も多い。元正天皇、市原王、大伴家持、大伴坂上郎女らが関与したことが推測されている。
    4. 残巻増補…20巻本万葉集
      延暦2年(783年)頃に大伴家持の手により完成したとされている。

    ただし、この『万葉集』は延暦2年以降に、すぐに公に認知されるものとはならなかった。延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり家持も連座したためである。その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806年)以降にようやく完成したのではないか、と推測されている。
    「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しない。この理由については「延暦4年の事件で家持の家財が没収された。そのなかに家持の歌集があり、それを契機に本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから『万葉集』が史料にみえるようになった」とする説 などがある。

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    2016年10月 7日 (金)

    半世紀前に出土木簡からペルシャ人情報/やまとの謎(116)

    奈良文化財研究所は10月5日、現在の奈良市に位置し、1000年以上前の都、平城京の遺跡から発掘された木簡を改めて調査した結果、ペルシャ人の役人が働いていたことを示す新しい証拠が見つかったことを明らかにした。
    「天平神護元年」(765年)と記された木簡に、ペルシャ人の役人とみられる「破斯清通」という名前があったことが分かった。

    Ws000000「破斯(はし)」はペルシャ(現在のイラン付近)を意味する中国語の「波斯」と同義で、国内の出土品でペルシャ人を示す文字が確認されたのは初めて。外国人が来日した平城宮の国際性を示す史料となりそうだ。
     奈文研によると、木簡は平城宮跡東南隅の発掘で1966年に出土した、役人を養成する「大学寮」での宿直勤務に関する記録。当時は文字が薄いため名前の一部が読めなかったが、今年、赤外線撮影したところ、「破斯」の文字を判読できた。
     「大学寮解 申宿直官人事」のほか、下部に、特別枠で任じられた役人を意味する「員外大属(いんがいだいさかん)」という役職名もあった。
    、古代の日本が予想よりも国際色豊かだった可能性があると指摘した。
     日本と現在のイランの間の直接的な貿易関係は遅くとも7世紀に始まったことが知られているが、1960年代に発見された木簡を改めて調査したところ、さらに広範囲な交流が見えてきたという。
     古代の日本で紙の代わりとして使われていた木簡に書かれていた文字は、これまで判読不可能だったが、今回、赤外線を使って調査した結果、日本に住むペルシャ人の役人の名前とみられること分かった。
     奈良文化財研究所の渡辺晃宏(Akihiro Watanabe)史料研究室長によると、このペルシャ人は日本の役人が教育を受ける施設で働いており、ペルシャが得意としていた数学を教えていた可能性があるという。
    ペルシャ人の役人 765年木簡に「破斯」

    シルクロードを経由して、ペルシャやヨーロッパと交流があったことは良く知られている。
    Photo
    ローマと日本人の相性は、良い!

    また、ギリシャで発達した数学がインドの記法と合体することによってさらに発展していったが、中東諸国の媒介があったと言われる。
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    古代へのロマンを誘う解読だが、半世紀前に出土した木簡から新しい情報が得られるというのも技術進歩の賜物と言えよう。

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    2016年10月 5日 (水)

    天皇制の始まりを告げる儀式の跡か?/天皇の歴史(9)

    奈良県橿原市にある飛鳥時代の都の跡、藤原宮跡で大型の旗を立てたと見られる穴が見つかった。
    調査した奈良文化財研究所は古代の歴史書に記された重要な儀式で使われた可能性が高いと見ている。

    Ws000000律令国家の成立を告げた701年(大宝元年)の元日朝賀で使われたとみられ、専門家は「国の形が完成したことを内外に宣言した儀式の様子が、具体的にわかる発見」と評価する。
    同年には日本最初の法典・大宝律令が完成し、中央集権体制が整ったとされる。この年の元日朝賀について、古代の歴史書「続日本紀」は、文武天皇が朝鮮半島の使節らを招き、7本の幢幡を立てたと伝える。
    律令国家成立祝う旗、藤原宮跡で柱穴7個確認

    『続日本紀』の大宝元(701)年の元旦に朝賀の儀式の様子は、宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206)に次のように記述されている。

    春正月一日、天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀式の様子は、大極殿の正門に烏形の幢(先端に烏の像の飾りをつけた旗)を立て、左には日像(日の形を象どる)・青竜(東を守る竜をえがく)・朱雀(南を守る朱雀をえがく)を飾った幡、右側に月像・玄武(北を守る鬼神の獣頭をえがく)・白虎(西を守る虎をえがく)の幡を立て、蕃夷(ここでは新羅・南嶋など)の国の使者が左右に分れて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。
    ⇒2008年9月 9日 (火):被葬状態の謎と大宝元年正月の朝賀

    朝賀の様子は以下のように推測されている。

    Ws000001
     発掘してきた奈良文化財研究所の松村恵司所長は「今回の発掘で律令国家完成のシンボルがようやく見つかった」と言う。南門前では2008年以降、一列に並ぶ16個の旗竿跡が見つかったが、続日本紀に記された本数と異なっていた。松村所長は「遺構と文献が合致する点で、今回の発見は非常に重要だ」と強調する。
    Ws000002 奈良時代中期以降の平城宮跡などの遺構や、平安時代の即位式を描いたとされる絵図は、旗竿がいずれも一列に並んでいた。藤原宮跡では中央に柱穴1個、左右に三角を形作るように3個ずつ柱穴があった。大阪府立弥生文化博物館の黒崎直館長(考古学)は「常識に一石を投じた」と評する。
     さらに興味深いのは、当時の権力層に与えていた古代中国由来の「陰陽五行思想」の影響だ。続日本紀は701年の儀式について、東側に日像(にちぞう)(太陽)▽四方を守る「四神(しじん)」のうちの青龍と朱雀(すざく)の3本の旗竿を、西側に月像▽四神のうちの玄武と白虎(びゃっこ)の3本を立てたと記す。
    律令国家儀式、鮮やかに 続日本紀、記述裏付け 藤原宮、旗竿跡発見

    先日復元公開されたキトラ両古墳でも、東に日像と青龍、西に月像と白虎を描くなど共通
    した思考が窺える。
    ⇒2016年9月22日 (木):キトラ古墳の極彩色壁画/やまとの謎(114)
    実質的な天皇制の始まりを告げる儀式だったのかも知れない。

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    2016年9月28日 (水)

    国石・ヒスイの古代における流通/やまとの謎(115)

    水晶か、翡翠か、それとも…
    諸候補があった「日本の石(国石)」について、9月24日、日本鉱物科学会が翡翠を選定した。
    翡翠は約5億年前に海洋プレートが沈み込む地中深くで生まれた宝石と言われる。
    Wikipediaでは以下のように解説している。

    日本では古代に糸魚川で産出する硬玉の翡翠が勾玉などの装飾品の材料とされ珍重されていたと推定されるが、奈良時代以降その存在は顧みられなくなっていた。日本での翡翠の産出が再発見されたのは1938年(昭和13年)のことである。2008年(平成20年)北京オリンピックのメダルにも使われている。現在では翡翠は乳鉢の材料としても馴染み深い。

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    東京新聞9月27日

     国石は以前から俗説があったため、日本鉱物科学会は国鳥(キジ)や国蝶(オオムラサキ)のように学術団体として正式に選定することを決め、一般からの意見公募を行うなど選定作業を進めてきた。
     金沢市で開かれた学会総会では、最終5候補の推薦者が提案理由の発表を行った後、会員による投票でヒスイ71票、水晶52票となり、国石が決定した。ヒスイの応援演説に立ったフォッサマグナミュージアム(糸魚川市)の宮島宏館長は、「プレートが沈み込む場所でしか産出されないヒスイは日本ならではの美しい宝石。縄文時代から古代人が加工して利用した世界最古の歴史もある」などと訴え、多くの会員に認められた。
    「国石」にヒスイ選定…産地・糸魚川は喜びの声

    現在、古代史ファンならずとも、古代の遺跡で見つかるヒスイの産地が糸魚川市の姫川流域であることは知っているだろう。
    しかし、明治になって遺跡からヒスイが発掘され出した当時は、日本にはヒスイの産地は無いというのが学会の定説だったという。
    当時日本に一番近いヒスイの産地は、ミャンマー北部・雲南方面であり、ここらが日本のヒスイの産地であろうというのが一般的な見方だった。
    糸魚川出身で、早稲田大学に学び「都の西北」の作詞者でもある相馬御風は、記紀に記される「玉」はヒスイではないかと考えた。

    イハレビコの祖先、天孫の日向三代が、アマテラスに豊葦原の瑞穂の国を治めるように仰せになった前の葦原の瑞穂の国を治めていたのは、出雲の国のオホクニヌシ(ヤチホコ)であったが、高志の国のヌナカハヒメを妻にしている。このヒメは、糸魚川の姫川のヒメであり、ヒスイの産地のヒメである。また、オホクニヌシは天孫系からも妻にしている。それは、アマテラスとスサノヲがウケヒして、アマテラスがスサノヲの十拳の剣を噛み砕いて、噴出した三女神のひとり、タキリビメである。縄文時代の出雲の国の権力者が、糸魚川のヒスイの鉱山を手に入れるため、嫁にした事になる。
    翡翠勾玉から見た古代史 

    御風は、ヌノカワと読める勾玉の産地は糸魚川を流れる「姫川」の事ではないかと考え、これを地元の人々に説いて昭和14年、探索していた地元住民により初めて姫川支流の小滝川上流でヒスイが発見された。
    糸魚川でヒスイが産出するという事が考古学会で認められて13年後(その間第二次世界大戦と戦後の混乱期をはさむ)の昭和29年、初めて糸魚川市の長者ケ原遺跡に本格的な学術調査が入った。
    その結果、完成品のペンダント2個を含むヒスイの原石が250点も出土した。
    さらにその多くが加工途中の半製品或いは破損品である事が判明し、長者ケ原はヒスイを中心とする石材の一大加工センターであった事が判明した。

    三内丸山遺跡でもヒスイは出土している。
    ⇒2016年9月 9日 (金):三内丸山遺跡と縄文人のルーツ/技術論と文明論(66)
    縄文時代の交易圏の広さを再認識させられる。

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    2016年9月22日 (木)

    キトラ古墳の極彩色壁画/やまとの謎(114)

    キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)の展示施設「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」が古墳の北隣に完成した。
    同古墳は、奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳で、亀虎古墳とも書く。
    墳丘にある石室内に極彩色の壁画が発見され、高松塚と共に保存事業が進められている。
    Photo
    キトラ古墳

    壁画は1983年に発見された。
    劣化が進んでいたため2004〜2010年に順次剥ぎ取って、カビや汚れを除去するなどの修復を続けている。
    四神像のうち、「青龍」「玄武」は年内に修復を終える予定だ。

     金箔(きんぱく)で表現された約350個の星、それを朱で結んだ少なくとも74の星座たち。この美しい天文図の存在は、最初の壁画の発見から15年後、1998年に確認された。他にも、北極星を中心に常に星が地平線下に沈まない範囲を示す円(内規)、天の赤道などが精密に描かれている。いつ、どこで見上げた夜空なのか。その謎解きに挑んだ2人の天文学者の研究成果が昨年7月、発表された。
     地球が自転する際の軸となる「地軸」の傾きは時代によって変わり、星の見え方も変化する。
     中村士・元帝京平成大教授(天文学史)は、古代中国で国家の運命を占う際に使われた28星座「二十八宿」の位置に着目し、天文図が描いたのは紀元前80年の前後40年の星空だと推定。一方、国立天文台の相馬充助教(位置天文学)は描く際の誤差が少ないと考えられる内規や赤道に近い星11個で計算し、紀元後300年の前後90年に、古代中国の都、洛陽や長安(現西安)を通る北緯約34度で観測したと結論付けた。
     二つの分析は一見矛盾するように思えるが、キトラ古墳の調査を担当する奈良文化財研究所飛鳥資料館の石橋茂登・学芸室長は「古い星図に修正を加えながら、中国や朝鮮半島との交流を通じて日本にもたらされたのでは」と想像する。紀元前4世紀に活躍した中国の天文学者、石申の観測記録と伝わる「石氏星経」が原典になったと考えられるという。
    息をのむ極彩色壁画 世界最古天文画も

    キトラ古墳の被葬者は誰か?
    高松塚と同様に、ほぼ藤原京の中央、朱雀大路の南への延長上、いわゆる「聖なるライン」のやや西へずれたところに位置している。
    この中央線上に、菖蒲池古墳、天武・持統天皇陵、文武天皇陵がある。
    ⇒2008年9月 4日 (木):高松塚古墳のポジショニング
    その位置からすると、やはり天武・持統天皇の近親者ということになろうか。
    Photo_2
    飛鳥プロジェクト

    天武天皇の長男、高市皇子(696年死去)や、陰陽師の安倍晴明が子孫ともされる右大臣、阿倍御主人(703年死去)との説があるようだ。

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    2016年9月20日 (火)

    三内丸山遺跡の消失と列島合体/技術論と文明論(68)

    米田良三『列島合体から倭国を論ず―地震論から吉野ケ里論へ』新泉社(1998年8月)では、遺跡の消失が巨大地震によるとしている。
    約4000年前に、東北日本と西南日本が合体するような地殻変動があり、直径1mの柱が折れるような地震があった。

    クリ柱は地下2mのところで、破断しており、底面はさらに45cm深い。
    柱穴は柱より太い中子(なかご)を立て、その回りに土を叩き固める「版築」という技法が用いられた。
    中子は最後に外される。
    法隆寺の心柱と同じである。
    三内丸山のクリ柱の破断面は、大きな力による剪断破壊であることを示している。

    旧石器時代日本群島、朝鮮半島、樺太などは太平洋の中にあった。
    群島は太平洋プレートにのって西進し、ユーラシア大陸にぶつかる。
    西日本はほぼ現在の地図に近い姿であったが、東日本は島の集合であった。
    Photo

    プレートの境界が、樺太と大陸の間を通り、フォッサマグナ部分から、南海トラフ、琉球海溝へと繋がっていた。
    Photo_2

    西日本と東日本の間は、東のプレートが潜り込む形で海峡化し、海峡のところどころに熱水が沸き出す。
    『書経』に「暘谷」と記される海峡である。
    太平洋プレートを押す力が中部山岳を高め、関東平野を海の中から押し上げる。
    そして4000年前に東と西が合体し、海峡が消滅する。
    黒潮が日本海に入らなくなり、雪国が誕生する。
    交通路も消滅し、三内丸山遺跡は放棄された。

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    2016年9月19日 (月)

    『日本書紀』と「壬申の乱」/天皇の歴史(7)

    大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子(天智天皇の長子)が争った「壬申の乱」は、古代史最大の争乱と言われる。
    『日本書紀』の天武天皇紀は例外的に二巻で構成されている。
    上巻が「壬申の乱」、下巻がそれ以降である。
    つまり「壬申の乱」は、『日本書紀』でも特別な扱いである。
    瀧音能之『封印された古代史の謎大全』青春出版社(2015年12月)で、その概略を見てみよう。

    ことの発端は、病が篤くなった天智天皇が大海人皇子に位を譲ると言ったことである。
    大海人皇子は固辞して、仏道修行のため吉野に入る。
    天智天皇は大津宮で亡くなると、大海人皇子は村国連男依らを美濃国へ派遣し、東国の兵の確保と不破道の閉鎖を命じ、自身も鸕野讃良皇女(後の持統天皇)らと東国へ出発する。
    その後、高市皇子(大海人皇子の長男)が加わり、体制が次第に整って行った。

    大海人皇子が不破に入ると、尾張国守の小子部連鉏鉤が帰順し、大伴吹負が大海人皇子側について挙兵した。
    体制を整えた大海人皇子側は、大和と大津に向かって進撃する。
    そして大友皇子軍と瀬田橋で激闘の末、大海人皇子側が勝利し、大友皇子は山崎で自殺する。

    「壬申の乱」の概要は、下図に要領よくまとめられている。
    2

    また、争った大海人皇子と大友皇子の関係は下図のようである。
    Photo

    『日本書紀』の記述は精細であるが、「壬申の乱」についての不明点は多い。
    ⇒2008年1月21日 (月):壬申の乱…(ⅰ)研究史

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