日本古代史

2009年12月16日 (水)

「卑弥呼=天照大神」説の否定論(3)母集団と標本-その2

坂田隆氏が、『卑弥呼をコンピュータで探る-安本美典説の崩壊』青弓社(8511)において展開している安本美典『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)における数理統計学の誤利用論をもう少しみてみよう。
安本氏の立論の基本は、以下のように示される。
Photo_8 ある天皇の即位年Tが既知とすると、その天皇よりn代まえの天皇の即位年τは次の式で推定できる。
Photo_12 
坂田氏は、ここで安本氏は、1つの母集団において適用すべき(3)式を、2つの母集団に対して適用するという誤用をしていると批判している。
2つの母集団とは以下の2つである。
母集団A:第31代用明天皇から第49代光仁天皇までの19代およそ200年間の天皇の在位年数。母集団の大きさは19である。
母集団U:歴史的に確実でさかのぼりうる最古の諸天皇と等質の母集団。

Photo_2安本氏は、用明天皇より前の諸天皇は、母集団「U」からの標本である、とする。
あるいは、天照大神~光仁天皇の54代の一人一人の在位年数「x」は、仮想母集団「U」からの標本である。
この(仮想)母集団「U」の大きさは、54もしくはそれ以上である。
坂田氏は、「A」と「U」は、「2つの母集団」であるにもかかわらず、「1つの母集団」に対して成立する(3)式を用いて推論するのは間違いである、と指摘している。

坂田氏は、このことを説明するために、岡田泰栄『統計』共立出版(1968)から、上掲コラムを引用している。
つまり、(5・6)式は、安本氏の式(3)と同一であるが、この式は、「1つの母集団」を前提とするもであり、安本氏の説明は、「1つの母集団」については成り立つが、安本氏は、実際には「2つの母集団」を対象としているのであって、それは重大な誤りである、ということになる。

坂田氏は、安本氏はさらに重大な誤りをしている、とする。
それは、安本氏が、“数値の知られていないものを「標本」としている”ということである。
そして、安本氏は“「母集団」の数値によって、「標本」の数値を推定している”が、数理統計学は“「標本」の数値によって、「母集団」の数値を推定する”方法であり、安本氏はまったく逆のことを行っている。

安本氏は、次のように言っている。
1.用明から光仁まで19代の天皇の在位年数を「母集団」とする。
2.用明天皇より前の諸天皇は、母集団「U」からの「標本」と考える。
つまり、安本氏は、「母集団」によって「標本」を推定しているのである。

安本氏の誤用の原因は何か?
第一に、用明~光仁の19代の天皇の在位年数を、安本氏は「母集団」としているが、これは「標本」と考えるべきである。
なぜならば、標本とは数値が知られているものであって、その標本から母集団を推定するものであるから、用明~光仁の在位年数は「標本」だとすべきである。
また、用明以前の天皇の在位年数は、数値の分からないものとして扱っているのであるから、これは「標本」ではなく、母集団の一部として考えるべきものである。

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2009年12月15日 (火)

「卑弥呼=天照大神」説の否定論(3)母集団と標本

坂田隆氏は、『卑弥呼をコンピュータで探る-安本美典説の崩壊』青弓社(8511)において、安本美典『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)における数理統計学の手法を批判している。
坂田氏は、まず、安本氏の説を引用する。
2
その批判の論点は、以下の通りである。
1.安本氏がここで母集団平均値、母集団標準偏差としているのは、それぞれ標本平均値、標本標準偏差である。
つまり、安本氏は、母集団と標本を取り違えているのではないか?
「母集団と標本」に関しては、下記でみたばかりである。
2009年12月11日 (金):「同じ」と「違う」(12)母集団と標本

坂田氏は、「母集団と標本」の関係を示すために、鷲尾泰俊『推定と検定 #数学ワンポイント双書 18#』共立出版(7802)から、以下の部分を引用している。

上の三つの例に見られる共通的な性質は、推測をしたい“もの”の集団があり、この集団についての推測をするために、集団から何個かの“もの”をランダムに取り出してデータを得ている、ということである。統計学では、この関係を強調するために、推測をしたい“もの”の集まりを母集団(population)とよび、母集団の推測をするために母集団から取り出されるいくつかの“もの”を標本(sample)とよぶ。標本の中に含まれている“もの”の数を標本の大きさ(size)とよぶ。統計学(数理統計学)は、標本から母集団についての推測をするための方法を与える学問であり、この方法を統計的方法とよぶ。

2.安本氏は、「n」を「n代前の天皇」の意味で用いている。
しかし、引用箇所における「n」は、「標本の個数」の意味である。
つまり、安本氏は、用明天皇から光仁天皇までの19代の天皇の在位年数をもとに、天照大神の活躍時期を推定している。
すなわち、19は、標本の個数であって、通常、数理統計学ではこれを「n」と表わす。
また、天照大神~光仁天皇までの54代までが推計の対象であるから、これが母集団であって、54は母集団の大きさであり、ふつう「N」で表わす。
にもかかわらず、安本氏は、「n」を、本来の「在位年数の知られている天皇の数」の意味で用いたり、「N-n」つまり何代前の天皇かの意味で用いてたりしている。

3.上掲の引用における式(3)は、正規分布をした母集団から、n個の標本を取り出した際に適用できる式である。
天皇の在位年数は正規分布していない母集団であるから、このような母集団に適用することはできない。
Photo_6Photo_7坂田氏は、用明天皇から大正天皇までの天皇在位期間のヒストグラムを示している。
図で見るように、用明天皇から大正天皇までの天皇の在位期間の分布は正規分布をしていない。
このような分布の母集団に対して、(3)式のような推計を行うことはできない。

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2009年12月14日 (月)

「卑弥呼=天照大神」説の否定(2)n代違う天皇の時間差の推定

安本美典氏は、『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)において、歴代の天皇の在位年数のデータから平均値と標準偏差を算出している。
Photo_2つまり、第31代用明天皇から大正天皇までの98天皇の平均在位年数は14年であり、用明天皇から第49代光仁天皇(奈良時代の最後)までの平均在位年数は約10年である。

安本氏は、用明天皇から光仁天皇までの値を、古代の天皇の一般的な在位年数と標準偏差とすれば、2人の天皇の時間的距離を、平均在位年数にその間の代数nを掛けることによって求められる、としている。
そして、平均値と実際の時間とは当然差異がある。
推定する時のこの差異は誤差であり、標準偏差から計算できる。

Photo_5安本氏は、用明天皇から光仁天皇までの平均在位年数と標準偏差を用いて、n代違いの天皇の時期の推計値と誤差の幅を、95%、99%の信頼度という形で、表のように算出している。

これをグラフ化すると、次図のようになる。
Photo_4  1代前の場合には、平均在位年数の10.35年に、±16.27年の幅をみておけば、95%くらいの確からしさ(つまり、100回のうちの95回くらい)でその範囲に収まる、ということである。
用明天皇の即位年を正しいものとして、その10代前の雄略天皇の即位年を推定する場合には、95%の信頼度だと、52.06~154.94年前、99%の信頼度だと、35.78~171.22年前ということになる。

安本氏は、雄略天皇の実際の即位年は不明であるが、雄略天皇が通説通り「倭王武」であるとすれば、478年に宋へ使いを出したことが『宋書』に記されている。
用明天皇の即位年を通説通り、西暦585年とすれば、雄略天皇の推計即位年は、95%の信頼度で、430.06年~532.94年であるが、上記の宋への使いからして、即位年がこの範囲において即位していることはほぼ確実である、としている。
即位年の推定値は、481±51.44年(95%信頼度)として表わされるが、481年は上記の478年ときわめて接近した値ということになる。 

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2009年12月13日 (日)

「卑弥呼=天照大神」説の否定論(1)天皇の在位年数

『魏志倭人伝』に描かれた「卑弥呼」像と、『記紀』の「天照(御)大神像」とには、類似した要素が多いことは事実だろう。
しかし、問題は、3世紀中ごろに死んだと想定される「卑弥呼」が、神武天皇より5代前とされる「天照大神」と、年代的に重ならないのではないか、ということである。
この問題に、数理統計学という斬新な手法で「解」を与えたのが、安本美典氏であった。
2009年11月26日 (木):卑弥呼の死(7)天照大御神の年代観

ところが、この安本氏の推論とその結論は、謬論であるとする人がいる。
坂田隆『卑弥呼をコンピュータで探る-安本美典説の崩壊』青弓社(8511)は、タイトルが示しているように、コンピュータによる推論によって、安本美典氏の説を全面的に否定したものである。
巻末に坂田氏が用いたコンピュータ・プログラムが掲載されている。
坂田氏は、京都大学の工学研究科の修士課程を修了後、仏教大学文学部史学科で学士号を取得した人で、履歴的にも数理的な推論は得意であると自負している。

坂田氏は、史学界においては正統的な研究者としては位置づけられていないのであろうが、日本古代史における有数の論客として多くの著書を出されている。
邪馬台国の位置論に関する坂田氏の推論についてレビューしたことがある。
2009年1月 6日 (火):珍説・奇説の邪馬台国・補遺…⑥「田川郡・京都郡」説(坂田隆)

坂田氏の安本説非定の論理をみてみよう。
坂田氏が問題にしているのは、安本氏の年代論である。
安本氏は、邪馬台国論に関して数多くの著書を出されているが、坂田氏が対象としているのは、先ずは『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)である。
安本氏は、天皇の平均在位年数を検証し、ある天皇の即位の年代を、天皇の「代」の数から推論するという方法を採用した。

もちろん、天皇の在位年数は、個々の天皇によってまちまりである。
下図は、用明天皇から大正天皇までの在位年数をグラフ化したものである。
Photo_2即位や退位の時期などが、歴史的な事実として信頼できるのは用明天皇の頃から以後であろうという前提である。
 
グラフではあまり明確な傾向は読み取れないが、安本氏は、時代別に天皇の在位年数を平均し、あるいは世紀別に平均して、時代を遡るに従い、天皇の平均在位年数は短くなるという傾向を発見した。
Photo_3 Photo_4

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2009年12月12日 (土)

『日本書紀』はなぜ、「卑弥呼=神功皇后」と見せかけたのか

『日本書紀』は、神功皇后紀に「魏志」の記事を引用していて、「卑弥呼=神功皇后」を匂わせている。
2009年11月26日 (木):卑弥呼の死(7)天照大御神の年代観
神功皇后は、Wikipedia(最終更新 2009年11月21日 (土))では次のように記されている。

神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) -神功69年4月17日(269年6月3日))は、仲哀天皇の皇后。『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。 父は開花天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。

つまり、『日本書紀』の年代設定において、卑弥呼と神功皇后が重なるわけである。
しかし、『日本書紀』の記す天皇の系譜が正しいとしても、実年代をその通りとするわけにはいかないから(神功皇后も享年100歳ということになるが、100歳を超える超長寿の天皇が大勢いて、これらを真だとはとても考えられない)、神功皇后の実年代も別途検討が必要になってくる。
ちなみに、100歳以上とされている天皇には、以下のような人々がいる。
初代神武(127歳)、5代孝昭(114歳)、6代孝安(137歳)、7代孝霊(128歳)、8代孝元(116歳)、9代開化(111歳)、10代崇神(119歳)、11代垂仁(139歳)、12代景行(143歳)、13代成務(107)、15代応神(111)、16代仁徳(143歳)

「卑弥呼=神功皇后」とした背景を、『邪馬台国の位置と日本国家の起源』新人物往来社(9609)の著者鷲﨑弘朋氏は、次のように解説している。

1.日本書紀の編纂にあたっては、初代神武天皇と皇祖天照大御神をどう位置づけるかが最大のポイントであった。ことは言うまでもない。

2.数多くの漢籍を見た日本書紀の編者達は、漢籍に頻出する著名な女帝卑弥呼が、皇祖天照大御神の人物像と一致し、同一人物であると認識せざるを得なかった。

3.ここで、日本書紀の編纂に重大な障害が生じた。
1)卑弥呼=皇祖天照大御神とすると、天照大御神が三世紀の人物となる。 しかし日本建国を太古の時代と設定したい大和朝廷にとって、これは是認しがたいことであった。
日本建国の時期を中国に劣らず古い時代に設定する必要から、初代神武天皇の即位を、推古天皇九年辛酉(紀元601年)から1260年(1蔀=21元)を溯った紀元前660年とした。
このように、神武天皇の即位を紀元前660年に設定すると、皇祖天照大御神すなわち卑弥呼は、それ以前の人としなければならない。
ところが中国側歴史書群では卑弥呼が三世紀の女帝であることが歴然としている。
このように、中国側であまりに有名な女帝卑弥呼を無視できず、日本書紀の作成にあたっては、中国側歴史書との整合性を意識せざるを得なくなった。
2)卑弥呼と中国魏王朝との地位関係も問題になる。
卑弥呼は日本神話・伝承では皇祖天照大御神として、神聖不可侵の存在であった。
ところが魏志倭人伝は卑弥呼と魏王朝を対等の関係に扱っていない。
魏の明帝から卑弥呼への詔書は、中国の天子が臣下に与える内容で、たとえば卑弥呼を「汝」と呼び捨てにするのが13ヶ所も出現する。また、「是れ汝の忠孝にして我甚だ汝を哀れむ」 「勉めて孝順を為せ」 「国家の汝を哀れむを知らしむべし」 「汝に好物を賜うなり」とある。このような表現は、対等な国家間の国書とは到底言いがたい。
卑弥呼が親魏倭王に制せられ魏の友好国としても、日本書紀の編者すなわち大和朝廷は、卑弥呼・邪馬台国を正面きって認めることができなかった。

4.そこで考案されたのが架空の人物 「神功皇后」である。
天照大御神の実体は卑弥呼・台与であるが、これを実像とすれば、日本書紀はこの実像を神武天皇以前----すなわち紀元前660年以前の神代に送った。さらに虚像・神功皇后を三世紀邪馬台国時代に設定するとともに、神功紀に魏志および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけて、中国側歴史書と年代の整合性をとったのである。

5.日本書紀は神功皇后をあくまで皇后とし、天皇(女帝)とは扱っていない。
日本書紀は神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけようとした。しかし、神功を第15代天皇の女帝と設定すると、後世の歴史家が神功と卑弥呼・台与を完全な同一人物と断定する危険性が生じる。
その場合は、第15代神功天皇が中国魏王朝に臣従していたことになる。このよう な事態を避けるため、日本書紀の編者は二つの細工をした。
1)
日本書紀は神功紀に魏志と晋起居注を引用しながら、卑弥呼・台与・邪馬台国との表現を一切避けて、単に年代を合わせるにとどめた。そして神功皇后の人物像と治績は卑弥呼・台与とまったく異なるものとした。このようにしておけば、神功が卑弥呼・台与であるような無いような微妙になって、あいまいにしておける。
2)神功を天皇とはせず、あえて皇后にとどめ、後世の歴史家がまんいち神功=卑弥呼・台与と断定しても、日本の最高指導者・天皇は中国に臣従していない、との伏線を張った。

6.仲哀天皇に皇后がいたことは当然であろう。そして、この皇后を仮に 「神功皇后」 と 呼ぶとすれば、その意味では実在の人物である。
しかし日本書紀が語る神功皇后像の本質は、①:69年間の天皇空位のままの摂政、②:時の最高権力者でありながら、また応神を出産する間際でありながら、さらには夫の仲哀天皇の喪中でありながら、みずから200キロの海を越えて朝鮮出兵したこと、③:神功紀に魏志および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけていること、----以上の三点であって、これらの観点からすれば、神功皇后は架空の人物ということである。
すなわち神功皇后の実体は、仲哀天皇の皇后という実像の上から、卑弥呼・台与の虚像の半透明膜を覆いかぶせたものである。

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2009年11月29日 (日)

「同じ」と「違う」(8)卑弥呼と天照大御神

『魏志倭人伝』が記載する卑弥呼は、果たして『記紀』に登場する人物の誰かと同一人物か?
卑弥呼の比定者についてはさまざまな論議があるが、その有力な説として、「卑弥呼=天照大神」説がある。
金田弘之『軍事からみた邪馬台の軌跡』国書刊行会(9903)の、両者の死の状況等に関する検証については既に触れた。
2009年11月27日 (金):卑弥呼の死(8)「天の岩戸隠れ」との関係

金田氏は、「死の状況」以外に、「弟」「部族」「習俗・地名」などの視点から、卑弥呼と天照大神の比較検討を行っている。
1.弟
『古事記』は、「天照大神が岩戸隠れをしたのは、弟の須佐男命の乱暴が原因である」と記載している。
この記述を、金田氏は、天照大神が弟との戦いに敗北して死亡したことを示している、と解釈する。
『魏志倭人伝』は、卑弥呼について、以下のように記述している。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/wazinnden.htm

鬼道につかえ、よく衆をまどわす。年はすでに長大であるが、夫壻(おっと・むこ)はない。
男弟があって、佐(たす)けて国を治めている。

卑弥呼には弟がいて、、国の政治を助けていたわけである。
金田氏は、卑弥呼は狗奴国との戦争失敗の責任を負わされて、この弟によって殺されたのかもしれない、と推測する。

倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(男王の音を、誤り写したか)とは、まえまえから不和であった。

この部分について、金田氏は、「不和」を「仲たがい」の意味ではないか、としている。
つまり、かつては良く知っていた者同士の争い、同族(兄弟)の争いではないか、ということである。
卑弥呼と卑弥弓呼は、共に当時の倭音を漢音に置き換えたものであるが、文字の構成が良く似ている。
須佐男命と同じように、卑弥弓呼は卑弥呼の弟であったのかもしれない。
弟に敗北した結果、殺害されたのではないか、というのが金田氏の推測である。
卑弥呼と天照大神には、共に「弟」が存在し、この「弟」が政治的あるいは軍事的な影響力を行使していた、という共通性がある。

2.部族
『古事記』の天の岩戸隠れの記述は、天照大神が死んで国中が乱れ、部族同士で争いを始め、死者が出た。
天照大神が再び擁立されると、争いがおさまって、世の中が明るくなった、と解釈可能である。
つまり、「太陽を崇拝する女王(巫女)としての力を再び取り戻した」ことを示すものだろう。

金田氏は、天照大神は死んだと考えるので、再び現れたのは別の神(女王)であったとする。
八百万の神(部族の首領)が集まって協議をした結果、あらたな神(女王)を擁立したのであろう。
一方、『魏志倭人伝』の記述は以下の通りである。

あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺し (あっ)た。
(倭人たちは)また卑弥呼の宗女(一族の娘、世つぎの娘)の壱与(台与。『梁書』『北史』には、台与[臺與]とある)なるもの、年十三をたてて王とした。国中はついに定まった。

『古事記』の「八百万の神(部族の首領」と、『魏志倭人伝』の邪馬台国連合の30か国(部族の首長)が同一の意味であったと考えれば、内容はほとんど一致している。

3.習俗・地名
『古事記』は、「困った八百万の神は天の安の河の河上の堅石をとり……天の香山の真男鹿の肩骨をぬきこれを焼いて占った」と記述している。
つまり、世の中が内乱状態に陥って、困った部族の首長たちが天の安の河原に集まって神だのみをした……天の香山の鹿の骨を焼いて占いを行ったわけである。

一方、『魏志倭人伝』には、以下のような記述がある。

その(風)俗に、挙事行来(事を行ない、行き来すること、することはなんでもあまさずすべて)云為(ものを言うこと・行うこと)するところがあれば、すなわち骨をやいてトする。そして吉凶をうらなう。

つまり、3世紀の倭では、困ったときやもめごとを解決する場合には、動物の骨を焼いて吉凶を占っていたのであり、この点でも、『古事記』の記述と『魏志倭人伝』の記述は一致している。

『古事記』の描く「安」や「香山」という地名は、どこを指しているのだろうか?
筑後川中流域の福岡県朝倉郡に「夜須町」という地名がある。
この夜須町から弥生時代の土器が出土し、線刻の鹿の絵が見られた。
夜須町の西方約8kmのところ(筑紫市)に、天拝山という山がある。
朝倉町の高山には、戦国時代に「香山城」があった。
また、『万葉集』では、香久山を「高山」と書き、「カグヤマ」と読む例がある。
つまり、「高山」を「カグヤマ」と読んだ可能性があり、『古事記』の「香山」は朝倉町の高山を指していたのではないか。

金田氏は、卑弥呼と天照大神を表のように対比させ、天照大神と卑弥呼が同一人物であるとする仮説は肯定できるものである、としている。
Photo

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2009年11月28日 (土)

卑弥呼の死(9)風邪・肺炎説

卑弥呼の死因については、前後の文脈等から、狗奴国との戦争で戦死もしくは敗戦の責任を追及されて死んだ(あるいは殺された)とするのが有力説のようである。
しかし、独自の分析によって、病死の可能性が強いと主張している人がいる。
岩下徳蔵氏は、『推理邪馬台国』楽游書房(8304)や『稲の路の果てに邪馬台国はあった』徳間書店(8406)において、卑弥呼は風邪あるいはそれがこじれた肺炎であった可能性が高いとしている。

岩下氏は、人の死は、外部から加えられる物理的な力によるもの(戦争など)と、肉体の内部でおこるいわゆる病気などの2つの原因に分けられるが、疾病などによるものは、季節性を伴う場合が多い、としている。
そして、この疾病の季節性に着目し、弥生期の死因が何であった可能性が高いかを統計学的に推定しようと試みた。
その具体的な方法は、『記紀』による歴代天皇の死亡月の分布型と、現在の死亡統計による疾病別の月別の分布型との相関関係を計算し、当時の死亡原因を推定しようとするものである。

岩下氏の計算により相関係数は表のようであった。
Photo_3 ★印が統計的に有意な相関関係を持つものである。
上代天皇の死亡月分布型と、現代死因別月分布との相関係数は、インフルエンザ・肺炎・気管支炎を因とする死亡分布と高い相関係数(0.72)を示す。

岩下氏は、疾病別月別死亡率のグラフも示している。

現在の死亡分布は冬・夏型であり、それは冬カゼ・夏カゼによるものが多いことを示している。
悪性新生物による死亡は明らかに異なる分布型を示している。
死因としての悪性新生物は、近代になって急に増加した病気である。

なお、岩下氏は、上代と近代の天皇の死亡月別分布が高い率で相関を示すことは、81代~129代天皇の死亡月が史的文献に比較的正確に記録されていることから、上代天皇(大王)などの実在も示唆しているのではないか、としている。Photo_4

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2009年11月27日 (金)

卑弥呼の死(8)「天の岩戸隠れ」との関係

金田弘之『軍事からみた邪馬台の軌跡』国書刊行会(9903)は、安本美典氏らの「卑弥呼=天照大御神」説の妥当性について検証している。
『古事記』の「天照大神は天の岩屋戸を開いてお隠れになった」という記述については、以下のように解説している。

『古事記』では、天照大神とが須佐男命が「誓約(ウケイ)」をしたとしている。
須佐男命が天に上がりたまうときに、山川が成り騒ぎ国土が振動した……天照大神は驚いて『弟は国を奪おうと思っているのかも知れない』と……天照大御神は髪を解き、左右の手に勾玉を持ち、背には靱を負い……弟は天照大神に誓いを立てて男の子を生み自分が正しいことを証明した、というものである。
これを、金田氏は、次のように解釈する。

「天照大御神の支配する国と須佐男命の支配する国が戦争をおこなった。戦争はいったん平和裏に終結するかにみえた。しかし、須佐男命の支配する国が因縁をつけて再び天照大神の支配する国を侵略した」のであろう。天照大神は、「髪を解き、左右の手に勾玉を持ち、背には矢が千本も入る靱を負った」と記述する。この意味は、天照大神自ら戦闘の最前線で戦ったことを示している。
須佐男命の乱暴とは戦争(侵略)を意味するものであり、最終的に天照大神は戦争に敗れたのである。その結果「天照大神は殺害された」と私は考える。「天の岩屋戸」とは、お墓(古墳)のことである。中つ国が闇くなったとする意味は、太陽に使える天照大神が巫女としての力を失った、つまり「死」を意味するものと考える。

これを、「天照大神の死」と表現しないことについては、坂口光司氏(郷土史家)の説を援用し、次のように説明している。
天照大神は世襲された官職名であって、何人も存在した。
卑弥呼に相当するのは三代目であり、台与は四代目である。
つまり、「死」は同時に世代交代であった。

あるいは、桜井光堂氏の次のような説を紹介している。
新しい女王は、亡くなった老女王とおなじ人物として、老女王が生き返ったという扱いかたをする。
生まれかわったのではなく、息をふきかえしたという扱いだから、そのまま生存年齢が延長される。

古代においては、日の神に仕える巫女(日巫女)は、永遠に生きつづけなければならなかった。
天の岩屋戸に隠れるのは、あくまで一時的なもので、再び地上に現れなければならなかった。
『古事記』は、「死」という表現を使っていないが、岩屋戸隠れは、明らかに「天照大神の死」を意味している。

一方、卑弥呼の死についてはどうか。
松本清張は、「戦争責任をとり『よって』殺害された」とする。
天文学の斎藤国治氏は、西暦247年と248年に、九州上空で皆既日食が発生した、とする。
皆既日食により天界が闇くなったことは、日の神に仕える巫女(日巫女)である卑弥呼が力を失ったことを暗示させるものであろう。
皆既日食という自然現象を、古代人は不吉な予兆ととらえたと思われる。

金田氏は、狗奴国との戦争の敗北による人心の離反の中で、卑弥呼が殺害される運命にあったのではないか、とする。
『古事記』が、「中つ国が闇くなった」とするのは、皆既日食による暗黒の世界の出現と同じことである。
また、『古事記』が「天の岩屋戸に入る」とするのは、『魏志倭人伝』の、「卑弥呼以死」と同じ意味である。
つまり、天照大神と日に使える巫女としての卑弥呼は、その立場や死亡した背景、場の類似性等から、同一人物であるとする「仮説」は肯定される、というのが金田氏の検証の結論である。

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2009年11月26日 (木)

卑弥呼の死(7)天照大御神の年代観

卑弥呼が『記紀』に描かれている女性の誰に相当するか、ということは古くから考えられてきた問題である。
『日本書紀』において、神功皇后紀に魏志の文章が引用されている。
http://www.j-texts.com/jodai/shoki9.html

四十年。魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等、奉詔書・印綬。詣倭国也。
四十三年。魏志云。正始四年倭王復遣使大夫伊声者・掖耶約等八人上献。

つまり、『日本書紀』の編纂者たちは、神功皇后を『魏志倭人伝』に見える倭王とみなしたのではないか、ということになり、「卑弥呼=神功皇后」と考えられていた。
一方で、『魏志倭人伝』に描かれた卑弥呼と、『記紀』に描かれた天照大御神の姿がきわめて類似していることが、白鳥庫吉や和辻哲郎などによって指摘されていた。
問題は、辛酉(紀元前660)年に即位したとされる神武天皇との系譜関係からして、年代観が合わないことであった。
Photo 系図は、Wikipedia(最終更新 2009年11月18日 (水))。

この問題に、推測統計学の手法によって、鮮やかな解を与えたのが安本美典氏であった。
安本氏は、ある人物の活躍した時期やある事件のおきた年代を知ることができれば、他の文献や考古学上の成果などと比較検討することができるので、「年代」についての枠組みを設定することが、古代史を考える場合の根本である、とする。
安本氏は、『倭王卑弥呼と天照大御神伝承』勉誠出版(0306)において、明治年間の那珂通世の行った年代論を評価しつつ、那珂とは異なる自身の年代論を展開している。
そのポイントは、以下のようである。
1.古代の年代を考える場合は、「王」の平均在位年数が重要な手がかりとなる。
2.「王」の平均在位年数は、中国、西欧、わが国のいずれも、古代にさかのぼるにつれて短くなる傾向がある。
3.「王」の在位年数の統計的な取り扱いとして、推測統計学を用いる(那珂の時代は、記述統計学の段階)。

安本氏は、世界の王の在位年数を調べ、以下のような結論を導いた。
1.時代をさかのぼるにつれて、平均在位年数が短くなる傾向がかなりはっきりみられる。
2.1~4世紀の平均在位年数は、全世界的にみておよそ10年である。
3.17~20世紀の平均在位年数は、全世界的にみておよそ20年である。
4.つまり、2000年近くのあいだに平均在位年数は2倍に伸びている。

日本の場合、1~4世紀の王の平均在位年数は不明であるが、天皇が存在したとした場合、平均在位年数はほぼ10年と考えるのが妥当であるとしている。
それは、同時代の中国や西洋の王の平均在位年数(断面データ的、共時的)な検討からも、時系列データ的(通時的)な検討からも帰結できる。

『記紀』は、神武天皇の5代前が天照大御神であるとしている。
安本氏は、上記の視点から、神武天皇の時代を270~300年と推定し、その5代前として、天照大御神の時代を、220~250年ごろになるとして、卑弥呼の時代とまさに重なり合うことを示した。
Photo

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2009年11月25日 (水)

卑弥呼の死(6)敗戦責任と皆既日食

井沢元彦氏は、『逆転の日本史』などのシリーズで、歴史の見方に新しい視点を提供している作家である。
猿丸幻視行』講談社文庫(新装版・0712)や『隠された帝―天智天皇暗殺事件』祥伝社文庫(9702)については、既に触れたことがある。
2008年7月22日 (火):偶然か? それとも…④幻視する人々
2008年5月16日 (金):「日本国」誕生

井沢氏は、『逆転の日本史(1)古代黎明編』小学館文庫(9712)において、「卑弥呼の死」について、松本清張の敗戦責任による他殺説と皆既日食とを結びつけた解説をしている。
井沢氏は、日本の歴史学の三大欠陥として、次の3つを挙げる。
1.史料至上主義だが、当たり前のことは史料に残りにくい
2.歴史における言霊の影響の過小評価
3.呪術的側面の無視ないし軽視

井沢氏は、「卑弥呼の死」は、呪術的側面を評価すべき代表例であるとする。
呪術的側面とは、言い換えれば怨霊信仰の側面である。
例えば、『記紀』の神話に登場するオオクニヌシである。
井沢氏は、オオクニヌシあるいはその有力なモデルは実在したはずだ、という。
それは大和朝廷に抵抗した先住民族の王でる。
大和朝廷は、これを滅ぼしたために、この人物の怨霊を恐れた。
あるいは、祭祀を絶やすことによって怨霊化することを恐れた。
それが、天皇の宮殿の御所や国教の神殿である東大寺よりも、オオクニヌシを祀る出雲大社が「大きな」建物である理由である。

井沢氏は、「卑弥呼の死」が、狗奴国との戦いに敗れたことによる敗戦責任であるとする松本清張説を是とする。
古代人の考え方によれば、天災も基金も疫病も、すべて王者の責任である。
天災が王者の責任であるから、まして戦争などの人災については当然責任を問われる。
現人神である卑弥呼は、戦争の敗北責任を取らされて「処刑」された。
つまり、王者の不徳であり、「祭祀者としての王の霊力の衰えが敗戦を招いた」という考え方である。

卑弥呼が敗戦責任を問われたのは、おそらくは致命的と思われるほどの大敗北を喫したためであろう。
それは単なる小戦闘における敗北ということではないはずである。
邪馬台国の屋台骨をゆるがしかねない大敗北であったと考えられる。
井沢氏は、元東京大学理学部教授の斎藤国治氏の古天文学の成果を引用する。

斎藤氏は、『記紀』神話における天照大御神の岩戸隠れが、皆既日食のことではないか、と考えた。
天照大御神は、その名前が示すように「太陽神」である。
つまり、彼女が姿を隠すと世の中は急に真っ暗になってしまう。
斎藤氏は、天照大御神の岩戸隠れの神話が、皆既日食のことではないかという仮説を立て、日本の古代における皆既日食の事例を探索した。
その結果、248年9月5日に皆既日食があったことを見出した。

井沢氏は、卑弥呼は、人の名前ではなく、王者の称号なのだろうとする。
王者については、その本名をみだりに口にしないはずだからである。
卑弥呼については、その字は意味がない。「ヒミコ」(に近い)音に意味がある。
おそらくは「日御子」か「日巫女」の音を中国人が聞いて、卑弥呼と表現したのだろう。
「日御子」であれば、太陽神そのものの化身、「日巫女」であれば太陽神に仕える巫女だった。
両方の意味に解釈できるということは、両方の意味を兼ね備えていたと考えるのが妥当なのではないか。

つまり、天照大御神の岩戸隠れが、皆既日食がモデルだとすると、それは邪馬台国の女王が死んだ年と一致する。
しかも、『魏志倭人伝』は、卑弥呼の死後、壱与(台与)という女性が跡を継いだとしている。
「岩戸隠れ」が、天照大御神の死と若い女王がその跡を継いだことを、天照大御神の復活という形え神話にしたのではないか。

大和朝廷の成立における最も重要な神話は、3世紀の邪馬台国において実際に起こった事件を投影していることになる。
つまり邪馬台国は大和朝廷の源流であり、天照大御神のモデルは卑弥呼である、ということになる。
それでは、卑弥呼はなぜ殺されたのか?
井沢氏は、松本清張の敗戦責任説と斎藤国治氏の日食現象を結びつけて、それが共に卑弥呼の責任とされたのではないか、とする。
つまり、皆既日食のようなことが起きるのは、卑弥呼の心がけが悪いからで、だから狗奴国との戦争にも負けたのではないか。
空前の大敗北を喫した邪馬台国の人々によって、役に立たなくなった女王は殺された。

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