音楽

2011年6月13日 (月)

『もしドラ』ブームとAKB48総選挙

ドラッカーがブームである。
岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』ダイヤモンド(0912)がロングセラーになり、映画化された。
紹介文は次のようである

公立高校野球部のマネージャーみなみは、ふとしたことでドラッカーの経営書『マネジメント』に出会います。はじめは難しさにとまどうのですが、野球部を強くするのにドラッカーが役立つことに気付きます。みなみと親友の夕紀、そして野球部の仲間たちが、ドラッカーの教えをもとに力を合わせて甲子園を目指す青春物語。家庭、学校、会社、NPO…ひとがあつまっているすべての組織で役立つ本。

ドラッカーといえば、ビジネスパーソンなら誰でも知っているだろう。
と思っていたら、意外と社会では認知度が低かった。数年前になるが、私の知人の某有名大学工学部教授は、「誰だ?」という状態だった。
ドラッカーファンの1人としては、『もしドラ』をきっかけとして、ドラッカーの著作が広く読まれるようになれば、と思う。

映画で高校野球部のマネージャーの川島みなみの役を演じたのがAKB48の“あっちゃん”こと前田敦子嬢である。
AKB48という女の子のグループがあることは知っていた。
前田敦子というコの顔も、『もしドラ』のプロモーションで分かるようになった。
つもりだった。
が、下記の写真のどれが彼女だか分からない。
Akb_2

要するに、個体識別ができないのである。
だから次のようなヘッドコピーを目にしても、何のことなのか分からなかった。

「AKB48総選挙、国内外で生中継 大波乱はあるか」

AKB総選挙というのは、プロモーション戦略の1つのようだ。
ただし、1人1票というわけではなく、CDに投票権が付いてくるというしくみらしい。

今やメディアに出ない日はないといわれるAKB48
歌を歌うことのできる
メンバを総選挙にて選出し、グループ内での競争を行なうことで、メンバ間の緊張感を高めファンは自分たちの好きなメンバを選出するためにお金を使い、さらにはその選抜過程がメディアの注目を集めている今や日本を代表するグループになっています。
つい先日行なわれた総選挙では
じゃんけんによりメンバを選出して、歌を歌うメンバを選出し、これまた注目を集めました。
そして結果はこれまで出ていた人気メンバは軒並みじゃんけんに敗退し、これまで
メディアにあまり出て来なかったメンバが当選し、次回のシングルを歌う権利が与えられました
http://ameblo.jp/nowhero/entry-10721109985.html

何とも上手いことを考えたものだ。
競争原理による活性化の典型であろう。
作詞や放送作家として知られる秋元康氏が総合プロデューサーだという。
しかし、次のようなニュースを見ると、何だかなあ、とオジサンは思わざるを得ない。

AKB前田の13万9892票は静岡市長、さいたま市長を超えた
今回、1位に輝いた前田敦子(19)は「1票1票がホント温かくて…。嬉しいです。ありがとうございました」と自分に投票してくれたファンに感謝を述べたが、その得票数は13万9892票。単純に比較はできないが、政令指定都市の市長選挙の当選者の得票数並だ。
 2011年の静岡市長選挙の当選者の得票数13万5224票を4千票以上超えたほか、2005年のさいたま市長の当選者の得票数13万5553票も超えた。
http://woman.infoseek.co.jp/news/entertainment/story.html?q=postseven_22954

AKB詐欺 埼玉の高2生立件へ「ツーショット券売ります」6万円詐取容疑
インターネットの会員制サイト「mixi(ミクシィ)」でアイドルグループ「AKB48」と記念撮影できると偽り現金をだまし取った疑いが強まったとして、警視庁少年事件課は15日、詐欺の疑いで、埼玉県内に住む県立高校2年の男子生徒(16)を16日にも立件する方針を固めた。捜査関係者への取材で分かった。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110216/crm11021607150004-n1.htm

先ごろ結果が判明した総選挙では、めでたく“あっちゃん”が1位に返り咲いたという。
『もしドラ』効果なのだろうか?

5月から6月にかけて実施された『AKB48 22ndシングル選抜総選挙「今年もガチです」』では得票数139,892票を集め、1位の座に返り咲く。

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2011年6月12日 (日)

黄瀬川クラシックコンサート・ファイナル

静岡県裾野市は、文字通り、富士山の裾野にある。
市のオフィシャルサイトには次のようにある。

裾野市は静岡県の東、富士山のふもとに広がり、東には箱根外輪山、西には愛鷹連山と豊かな自然に囲まれた工業のまちです。
人口は54,531人(平成23年1月1日現在)、面積138.17平方キロメートル。気候は温暖で、交通の便も良く、豊かな自然と産業が調和したまちです。
また、裾野市は『健康文化都市』を宣言し、誰もが健康で、人と自然のふれあいを大切にして、豊かな裾野の文化を作り続けることを目指しています。
そして、わたしたちの一番の自慢は雄大な富士山の眺望です。稜線が最も美しく、優雅で、気品に満ちた四季折々の富士山を、ぜひご覧ください。

Photo_2 その自然環境の中で、美しい音楽を聴き、観光振興にも貢献しようと、20年ほど前に「富士山麓国際音楽祭」が始まった。
指揮者兼フルート奏者に金昌国氏を音楽監督として、国内外の一流の演奏家を集め、グレードの高い音楽会だった。
しかし、企画実行の中心人物だったS氏が体調を崩したことなどにより、数年前に終了となった。

私見を言えば、金氏とS氏の目指した路線が、いささか大衆のレベルから遊離していたように思う。
もう少し馴染のあるいわゆる名曲を増やしても良かったのではないかと思う。
例えば、「ベートーベン交響曲第2番」と聞いてどんな曲であるかピンとくる人は相当マニアックではないだろうか?
大都市ならともかく、人口5万人程度の地方都市で集客するにはちょっと無理があったように感じる。

谷川雁は、かつて工作者の思想として、、「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」存在を唱えたことがあった。
政治家は保守とか革新という枠を超えて、本質的に工作者としての性格を持っている、あるいは持つべきではないか?
だから政治家にとっては未だ味読すべき言葉だとは思うが、大衆と知識人の境界が曖昧になった時代では、とうに忘れ去られてしまっているのだろうか。
ポピュリズムに陥ることなく、なおかつ大衆から遊離することなく、というのは至難の課題である。

Photo_3 「富士山麓国際音楽祭」に連動して、「黄瀬川クラシックコンサート」が開催された。富士山麓が一流のプロの演奏家によるものであるのに対し、こちらは基本的にはプロの卵(?)の演奏家による。
黄瀬川は、裾野市の中心部を縦断し、沼津市で狩野川に合流する。
コンサート会場の裾野市民文化センター(アザレアホール)は、黄瀬川沿いにあるので、相応しい名前だろう。

その「黄瀬川クラシックコンサート」が今年第20回という節目を迎えたのを機に、「ファイナル」となった。
中心となっていたF女史が後進に道を譲りたい、ということである。
草の根的な活動が、国際的な音楽祭を可能にすると思うので、F女史の志を継いでいって欲しいと思う。

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2011年6月 4日 (土)

秋川雅史コンサート

「秋川雅史コンサートツアー~ファンタジスタ~」を聴いてきた。
『千の風になって』で一世を風靡したことは知っていたが、今までそれ以上の知識はなかった。
Photo_2 P_3

ご覧のように、バラエティに富んだプログラム構成である。
『千の風になって』は最後に置かれていた。
意外だったのは、『ひばりの佐渡情話』だった。

「作詞/西沢爽、作曲/船村徹」という演歌のゴールデンコンビの作品である。
美空ひばりが、巧みな小節を利かせて唄っていたような気がする。
しかし、そもそも美空ひばりが「my favorite」ではなかったので、はっきりした記憶がない。

♪佐渡の荒磯(ありそ)の 岩かげに
  咲くは鹿(か)の子の 百合の花
  花を摘み摘み なじょして泣いた
  島の娘は なじょして泣いた
  恋はつらいと いうて泣いた
http://8.pro.tok2.com/~susa26/natumero/utagoe/18sadozyowa.html

クラシックのテノール歌手がどう歌うのだろう?
結果は、当たり前だが、見事なものだった。
豊かな声量を操り、ひばりとはまた味わいのちがう『ひばりの佐渡情話』に仕上がっていた。

コンサートツアーは9月~8月のサイクルで、構成を基本的には固定して行われるということだ。
つまり完熟の時期にあたるが、毎年ひばりの曲を入れるようにしているそうである。
意外と相性がいいのだろうか?
ひばりの曲は結構難しく、チャレンジ欲をそそられるのかも知れない。

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2011年6月 3日 (金)

金子詔一さんの『ランドセルの歌』

『今日の日はさようなら』という永く歌い継がれる名曲を作詞作曲した金子詔一さんが、新しく開設したオープンハウス「一人静か」で、東日本大震災義援のためのチャリティ・イベントを開催したことは既に紹介した。
⇒2011年4月13日 (水):左手のピアニスト・智内威雄さんの演奏を目の前で聴く
その時のビデオ映像が届いた。

オープンハウス周辺には桜吹雪が美しく舞って、季節が確実に移り変わっていることを実感できた。
桜花を愛でることは、日本列島に生きる幸せの一つだろう。
しかし、被災地ではようやく復旧の歩みが始まろうかという現実があった。

子供たちがポニーと遊ぶ溌剌とした姿や、音楽家たちの奏でる美しいハーモニーに、萎えそうになりがちな傾向に、改めて「喝」を入れられた思いがする。
金子さんの活動等については、下記サイト等を参照されたい。
http://www.fia2400.com/fiaj/index_j.html

金子さんには『今日の日はさようなら』以外にも、心に響く歌を作られている。
例えば『ランドセルの歌』である。
カセットテープで聞いたことがあったが、ムリなお願いをしたところ、CD版を送って頂いた。
以下の詞は、聞き書きの上、金子さんのチェックを受けていない。だから著作権的な問題もあるかも知れない。

ランドセル 歌ってた 僕たちの 背中で
一年生の 背中には 大きすぎた ランドセル
ラララ ランドセル 覚えてる あの頃の 僕たちを
思い出 包んでる 包んでる
先生に 叱られた 学校の 帰り道
ランドセル 泣いていた 悲しそうに カタコトと
だけど 先生に ほめられた こともある
背中が 温かい 温かい

ランドセル 開けてみる 教室の 匂いです
友達の 笑い声 先生の 声がする
ラララ ランドセル 覚えてる 僕たちの 六年間
思い出 包んでる 包んでる
小さくなった ランドセル 僕たちの 背中で
今別れの 時がきた 有難う ランドセル
だけど ランドセル 歌ってる いつまでも いつまでも
僕らの 背中で 歌ってる

ラララ ランドセル 歌ってる いつまでも いつまでも
僕らの 背中で 歌ってる
ラララ ランドセル 歌ってる いつまでも いつまでも
僕らの 背中で 歌ってる
(繰り返し)

子育ての経験がある人ならば、良く理解できるのではないだろうか。
妻の話では、金子さんのご子息が小学校を卒業する時の作品だそうだ。
そして今や私たち夫婦は、孫のRクンがランドセルを背にする姿が待ち遠しい歳になった。

ランドセルというのは不思議なモノだ。
明らかに単なる小学生用のバッグという以上のモノである。
一種の記号として、象徴的な意味を担っている。

ランドセルだったからこそ、いわゆるタイガーマスク運動があのような共感の輪を喚起したのだろう。
⇒2011年1月12日 (水):出口の見えない菅政権と民主党解党という選択肢
タイガーマスク運動はいまさら説明するまでもない。Wikipedia(110414最終更新)の解説を見よう。

2010年12月25日、「伊達直人」を名乗る正体不明の人物から、群馬県中央児童相談所へランドセル10個が送られたことを皮切りに、2011年1月1日には神奈川県小田原児童相談所にも同人物名義で寄付が行われるなど、全国各地の児童養護施設へ複数存在すると思われる「伊達直人」からの寄付行為が相次いだ。これらの寄付行為は、寄付者の名義である「伊達直人」が、漫画「タイガーマスク」の主人公で、自らが育った孤児院へ素性を隠して寄付をする人物と同名であることから、「タイガーマスク運動」と呼ばれるようになった。またこの寄付行為を全国で相次いでいる現象と見て「タイガーマスク現象」と呼ぶこともある。

大震災の前から、日本社会は物質的な豊かさ(≒GDP)に替わる価値観を求め始めていたのだと思う。
それは『ランドセルの歌』が呼び起こす感情と通底するものであろう。

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2011年5月22日 (日)

早稲田大学グリークラブによる宮沢賢治『永訣の朝』

早稲田大学グリークラブ(ワセグリ)は、学生合唱団でももっとも評価の高い団体である。
ボニージャックス、岡村喬生などの有名OBがいる。
沼津稲門会主催の東日本大震災復興支援のコンサートに行ってきた。
Photo_2
 
「都の西北」に始まり、3部構成のプログラムだった。
期待に違わぬ素晴らしい迫力あるハーモニーだった。
私にとっては、第2ステージの『永訣の朝』が格別の思いを喚起させるものであった。
宮沢賢治の有名な詩を、鈴木憲夫が男声合唱曲として作曲したものである。
指揮とピアノ伴奏は、現役の学生である。

『永訣の朝』は「春と修羅」に収められた賢治の代表作である。
地震の発生した時から、東北の詩人・宮沢賢治のことが気になっていた。

けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじゃ)
うすあかるくいっさう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
・・・・・・

「とし子」は賢治の2歳年下の妹だ。
肺結核のため、『永訣の朝』が書かれた日の午後8時半頃死去したと言われる。
賢治の言葉通りに、その日のうちに、あの世に旅立ったのだ。
享年24歳。

最初目にしたとき、(あめゆじゆとてちてけんじゃ)という言葉が分からなかった。
何やら呪文のような……。
「けんじゃ」という語の解釈として、詩人の山本太郎が賢治の愛称とする説を唱え、それが一般的になっているようだ。
宮沢賢治「永訣の朝」の解釈について

「雨と雪(つまり、みぞれ)を取って来て、賢治兄ちゃん」
熱のあった「いもうと」が冷たいものを欲して発した言葉だ。
「」でなく、()が使われているのは、とし子の言葉そのものでなく、賢治の心に残るとし子の言葉と解されている。

「みぞれ」あるいは雨と雪(あめゆじゆ)はこの詩のキーワードである。
パンフレットの「解説」は次のように説明している。

・・・・・・
賢治はこの「みぞれ」に何かを託したのだ。
・・・・・・
しかし、愛する者が亡くなった場合、私たちが彼らに想い描いていた未来はどうなるのか。心の中に存在していた未来はたやすく消えはしない。しかし過去と未来の接点であった現存在がなくなってしまった以上、過去と未来は切り離されてしまう。
そして、本作品における「みぞれ」とはこの死んでしまった人間の過去(思い出)の時空間と、一度思い描いてしまった以上消し去ることのできない死者の未来の時空間を結ぶものとして「みぞれ」を描いたのではないか。賢治は、「みぞれ」の中に、過去と未来を結びそれらの中間にある現存在への思いを託したのだ。つまり現存在という「生」への希求を込めて「みぞれ」を作品に頻出させたのだ。

妹が亡くなった時、賢治は26歳だった。
もう40年にもなるが、私も26歳の時に3歳下の妹を亡くした。
兄らしいことを何一つとしてやれなかったことを悔やんだが、どうしようもない。
私にとっては、以後の自分の生き方・考え方を規定する出来事だった。
手作りの思い出の文集の冒頭に、賢治の「無声慟哭」を引用させてもらった。

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2011年4月13日 (水)

左手のピアニスト・智内威雄さんの演奏を目の前で聴く

静岡県裾野市に千福が丘という高級住宅地がある。
ゴルフファンならばファイブハンドレッド・クラブのあるところといえばお分かりだろうか。
そこへ、金子詔一さんが移り住んで何年になるのだろうか?
金子さんの名前を知らない人でも、「今日の日はさようなら」という歌ならご存知だろう。
1966年に森山良子さんが歌ったヒット曲である。

♪(1)いつまでも 絶えることなく
   友達でいよう
   明日の日を夢見て
   希望の道を
   (2)空を飛ぶ 鳥のように
   自由に生きる
   今日の日はさようなら
   またあう日まで
  (3)信じあう 喜びを
       大切にしよう
       今日の日はさようなら
       またあう日まで
       またあう日まで

この歌を作詞・作曲したのが金子さんである。
私はちょっとしたご縁があっておつきあいをさせて頂いている。

金子さんがミュージシャンであることは間違いない。しかし、本業が何であるかは本人も分からないのではないかと思われるほど、マルチな活躍ぶりなのは、知る人ぞ知るところ。
英語教育の分野で、ジャズのリズム感を取り入れたメソッドを開発し、普及に努めている。
石原慎太郎現知事が初めて立候補して美濃部亮吉氏に惜敗した1975年の東京都知事選に立候補したこともある。

金子さんは、地域の小学校の校歌をいくつか手がけている。
いわゆる校歌のイメージとは異なるアップテンポな曲で、ジャズの匂いがする。
当初、教職員やPTAにはとまどいがあったようだが、小学生は喜んでいた。

また、金子さんが作った曲に、「ランドセルの歌」というのがある。
カセットテープで頂いたことがあるが、手許に見当たらなくなってしまった。私の整理が悪いこともあるが、素人の音源として、テープはもはや役目を終えているといってよい。
1年生の時にはあんなに大きかったランドセルが、いつの間にか小さくなって……
うろ覚えではそんな詩だったように記憶している。
タイガーマスクの「ランドセル」のプレゼントが人々の心に響くのは、金子さんの「ランドセルの歌」のような想いを共有しているからではないかと思う。
⇒2011年1月12日 (水):出口の見えない菅政権と民主党解党という選択肢
⇒2011年4月 6日 (水):やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ
こういう時代だから、簡単に「ランドセルの歌」をダウンロードできるかと思ったが、そうでもないようだ。
できれば多くの人に聞いていただきたい曲だ。

金子さんが東日本大震災義捐のためのチャリティ・イベントを企画した。
4月1日~10日の期間、金子さんの新しく開設したライブラリー“一人静か”で、次のようなイベントが開催された。
✽ご近所の画家、王昭さんの作品:桜と縄文人。
✽作庭師 河西力さんの作品:縄文水と“坂のある風景”
✽建築家 二又川靖さんの作品:縄文人の隠れ家
考えてみれば、東北復興の視点に「縄文」の視点は欠かせないだろうと思う。
東北復興会議に縄文学とか東北学の人は入っているのだろうか。

9日の日に出かけた。
中国人画家王昭さんは、昔知人に紹介されたことがある。
以下のサイトに、今回のイベントを含め紹介されている。
http://www.facebook.com/wangzhaoart?v=app_4949752878
日中関係が微妙ではあるが、王昭さんは友好関係を体現している人だと思う。
王昭さんに再会できたのは嬉しいことだ。風貌が大人風になり、画風も穏やかになったように思う。

私が聞きたかったのは、左手のピアニスト・智内威雄さんの演奏である。
智内さんの略歴は以下の通り。

1976年生まれ。東京音楽大学ピアノ演奏科コースを卒業。
2000年ドイツ・ハノーファー音楽大学に入学。グリーグ国際コンクール入賞、マルサラ国際コンクール3位入賞。
2001年局所性ジストニアが右手に発症し、大学を休学しリハビリを開始。
2003年より左手のピアニストとしての技術を独学で研究を開始する。
2005年左手のみで行った室内楽の卒業試験で満場一致の最優秀成績を収める。
2006年3月に広島交響楽団とラヴェルの「左手のための協奏曲」を共演し、観衆をはじめ共演指揮者、楽団員から絶賛される。
2006年11月に盛岡で行ったソロコンサートをきっかけにソロ活動を本格的に開始する。
2010年春 左手のためのピアノ音楽の発掘と普及を目的とした任意団体「左手のアーカイブ」プロジェクトを発足させる。
http://tchinai.net/

智内さんが異国で発症したのは25歳のときだ。
どれほど衝撃が大きかったことだろうかと思う。
常人ならば挫けてしまうところだろう。智内さん自身、ピアノを止めようと思った、と語っていた。

局所性ジストニアは不随意で持続的な収縮を引き起こす疾患で、音楽家に多く見られるという。
指を繰り返し動かすことが原因だろうといわれる。
リハビリの成果で日常生活にはほとんど支障がないように見えたが、人に聴かせるというのはまったく別次元らしい。
それにしても、智内さんの演奏を至近距離で聴くことができたのはラッキーだった。
「左手のアーカイブ」プロジェクトへの賛同とささやかな東日本大震災への義捐のために、CDを購入しサインを頂いた。
Photo_2
左手のピアニストについては、館野泉さんを紹介したことがあるが、音楽家にとって指の運動能力は生命線だ。
⇒2010年11月29日 (月):左手のピアニスト
耳で聴いただけでは、とても左手だけで弾いているとは思えない。
智内さんの言によれば、片手の演奏場合、右手よりも左手の方がいいという。
不屈の精神力というとありきたりの表現になってしまうが、後遺症のリハビリ患者には希望の光である。

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2010年12月18日 (土)

小澤征爾さんの活動復帰を慶す

Photo_2小澤征爾さんが、ニューヨークのカーネギーホールで、ブラームスの交響曲第1番を指揮して健在なのを示した。
小澤さんは、食道がんのため今年1月から休養していたもので、活動休止からの本格復帰を果たした。
多くのファンがほっとしていることだろう。
小澤さんは、気心の知れたサイトウ・キネン・オーケストラを率いて気迫のこもった演奏を披露したそうだ。
http://www.sankei.jp.msn.com/world/america/101215/amr1012151826013-n1.htm

サイトウ・キネン・オーケストラは、桐朋学園創立者の一人である斎藤秀雄の没後10年記念として斎藤の弟子である小澤征爾と秋山和慶を中心に、国内外で活躍する斎藤の教え子たちが結集し1984年9月に東京と大阪で開かれた「斎藤秀雄メモリアル・コンサート」で臨時編成された桐朋学園斎藤秀雄メモリアル・オーケストラが母体のオーケストラである。Wikipedia100923

私は、受験生の頃、人に勧められて、斎藤秀雄の父親の齋藤秀三郎の『熟語本位英和中辞典』を使ってみたことがある。
その人は絶賛していたのだが、私の英語力ではその有難味を実感し得なかった。

毎年、長野県松本市で「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」が開催されている。
私も行ったことがあるが、一般にはなかなかチケットが入手できないほどの人気である。
ある年の小中学校時代の同窓会で、出席していた同級生が松本に嫁いでいて、同フェスティバルにも協力していることが分かって大いに盛り上がった。
何回か、彼女のツテでチケットを確保してもらったが、地元の人でも大変らしい。

小澤さんには、「世界の」という形容詞がつくことが多い。
国際的な場で活躍している日本人は少なくないが、小澤さんはその先駆者であろう。
征爾の名前は、板垣征四郎の征と石原莞爾の爾をとって命名されたという。
満州青年連盟などの運動に携わった征爾の父・小澤開作が2人に傾倒していたことを物語っているが、現在の征爾さんの活動と、われわれが持っている「板垣-石原」のイメージは結び付けがたい。

「智謀の石原、実行の板垣」などと称せられていたようであるが、この2人は一時期の満州を牛耳っていた実力コンビであった。
小澤征爾の父親は、「満州国」に託された理想、五族(漢・満・蒙・朝・日)が協和してつくる王道楽土という一種の理想郷の建設への共鳴者であった。
東アジアにどういうビジョンを持って向き合うかは、現在に持ち越された課題といえよう。

石原莞爾は、満州事変の中心人物として悪名高い。
一方で、その先見力を高く評価する人も多く、カリスマとして神格化されていることすら少なくない。
あの市川房枝ですら、『石原莞爾全集』のパンフレットに「石原讃辞」を書いているほどである。

市川房枝は、私たちのイメージでは、組織に頼らない個人的な支援者が手弁当で選挙運動を行う選挙スタイルを生涯変えず、「理想選挙」とまで言われた人の印象が強い。
元祖勝手連である。
現首相の菅氏も、市川の選挙スタッフを務めたことが政治活動の原点である。
石原莞爾とは異質のような気がする。

しかし、戦争中は、市川は国策(戦争遂行)への協力姿勢をみせていた。
そのことで、婦人の政治的権利獲得を目指すべく評論活動を行うことを確保しようとしたのだという。
しかし、最終的には、翼賛体制に組み込まれて、大日本言論報国会理事に就任している。

同じ職業軍人として活動した人でも、石原莞爾は、例えば東条英機などとは対照的な評価をされている。
石原は、戦争を研究して、そこに内在する法則性を抽出し、いずれ東亜とアメリカが太平洋を挟んで争う最終戦争になると予測した。
そして、その後にはじめて地球上から戦争は無くなる、とする「最終戦争論」(昭和15年)の提唱者として知られている。
最終戦争の時期は30年後内外であり、50年後くらいには世界が1つになるだろうというのがその予測である。

一時期、オウム真理教が、ハルマゲドンだとか世界最終戦争を呼号したことがあった。
もちろん、石原の戦争論と似て非なるものである。
石原は、時期を設定しており、かつ過去の歴史から抽出した法則性を根拠にしているから、予言や予想の類ではない。
石原の考えは現在でも文庫版で入手可能である。
⇒『最終戦争論 (中公文庫BIBLIO20世紀)』中央公論新社(0109)
オウム真理教の思考については、下記が参考になる。
⇒大澤真幸『虚構の時代の果て―オウムと世界最終戦争 (ちくま新書)』筑摩書房(9606)

注目したいのは、東亜とアメリカの決勝戦の前に東亜の内部で不要な戦線拡大をすべきではない、としていることである。
満州事変は石原の自作自演とも言えるが、その後は対支戦線不拡大論者であった。その辺りが、いたずらに戦線を拡大して泥沼にはまり込んだ東条英機などとの評価との分かれ目にもなっている。
当時の帝国日本は、閉塞状況を打破するために、満州に活路を見出そうとした。
今から振り返ると無理であり無茶でもあるが、当時は理想郷を実現しようというロマンを抱いた人も多かったのである。
小澤征爾の父親の小澤開作もその1人だった。

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