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2008年11月 4日 (火)

岡本正太郎氏の小林説批判…郭務悰と壬申の乱

小林惠子氏の論説は、博識で多様な資料に言及しているが故に、というべきであろうが、論理の筋道(理路)を辿り難いと感じるのは私だけではないだろう。
当然のことながら、小林説を否定している論者もいる。
以下では、偶々目にした岡本正太郎氏の『「高松塚被葬者考」批判』(「古代文化を考える第20号」(8907)所収)と題する論文をみてみたい。

岡本氏は、小林氏が、『高松塚被葬者考―天武朝の謎 』現代思潮社(8812)において、以下のように書いている箇所に疑問を呈する。

(大海人皇子は)六七二年(壬申)六月、近江京に不穏な動きがあるという口実をもって、吉野を出て兵を募りながら、美濃国の不破(岐阜県不破郡関ヶ原)に入る。ここにいわゆる、壬申の乱が始まった。
大海人は吉野に入る前から、新羅と唐人に援軍を要請していたが、彼が吉野を出ると時を同じくして、西南の要衝である筑紫大宰府と吉備地方は、それぞれ郭務悰率いる唐人の軍勢と新羅軍によって押さえこみに成功する。

岡本氏は、以下のように批判する。
郭務悰は、天智10(671)年11月に合計2000人で比智嶋に到着しているが、大友元(672)年の3月30日に帰国している。
壬申の乱が始まったのは、大友元年6月だから、郭務悰等は、壬申の乱に参戦することはあり得ない。
注:岡本氏が郭務悰の帰国を3月30日としているのは、5月30日の間違いと思われる。
『日本書紀』の、天武即位前紀の記述は以下の通りである(宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀日本書紀〈下)』講談社学術文庫(8808))。

十二月、天智天皇はお崩(カク)れになった。  
元年春三月十八日、朝廷は内小七位安曇連稲敷を筑紫に遣わして、天皇のお崩れになったことを郭務悰らに告げさせた。郭務悰らはことごとく喪服を着て、二度挙哀(コアイ:声をあげて哀悼を表わす礼)をし、東に向かっておがんだ。
二十一日、郭務悰らは再拝して、唐の皇帝の国書と信物(その地の産物)とをたてまつった。
夏五月十二日、鎧・甲・弓矢を郭務悰らに賜わった。この日郭務悰らに賜わったものは、合わせて絁千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤であった。二十八日に、高麗は前部富加朴らを遣わして、調をたてまつった。三十日、郭務悰らは帰途についた。

小林氏は、『白村江の戦いと壬申の乱 補訂版―唐初期の朝鮮三国と日本』現代思潮社(8805)において、郭務悰が帰国したのは、大友元(672)年ではなくて、天武2(673)年であり、それが本当の天武元年であるとしている。
『日本書紀』は、郭務悰に関する3月、5月の記事は、故意に大友元(672)年と天武元(673)年を混同して記載しているのである、という。
3月条は、『日本書紀』の記載通りの即位前紀で壬申年のことであり、5月条は、翌年の当時の天武元(673)年の出来事であったのを同じく壬申年に記載したのである、とするのである。
つまり、郭務悰らは、672年の壬申の乱を通じて滞在していた、というのが小林説である。 

この小林氏の、郭務悰673年帰国説は、少なくともこの箇所からだけでは説明不足であることを否めない。
『日本書紀』の記述を素直に読めば、郭務悰らが5月に帰途についた後に、大海人が挙兵したと考える方が自然であろう。
小林氏も唐国と近江朝とが親和的であることを認めており、唐国と郭務悰らの唐人とを区別して考えなければならない、としている(p176)。
しかし、上記の『日本書紀』の記述にあるように、郭務悰は、唐の皇帝の国書をたてまつっているのであるから、唐国の意向と反対の政治的動きをしたとは考え難いのではなかろうか。

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2008年7月10日 (木)

異説・聖武天皇…小林惠子説

小林惠子氏は、日本古代史に斬新というか奇想天外というか、にわかには信じ難いような仮説を設定されることで多くのファンを持っている。
その一端については、大化改新の解釈で触れた(08年4月10日の項11日の項)。
この当時の状況についても、聖武天皇が入れ替えられたという大胆な説を提示している。
以下、『争乱と謀略の平城京―称徳女帝と怪僧・道鏡の時代』文藝春秋(0210)で概観してみよう。

基本的な視点は以下の2点である。
①奈良時代の日本は、中国を中心とした東アジアの政治的な動きと密接に連動していた。
②『続日本紀』は『日本書紀』におとらず、讖緯説的表現で重大な事実を暗示している場合が多い。

663年の“白村江の戦い”で、元百済王子の中大兄は高句麗の蓋蘇文こと大海人と連合して、百済復活を賭けて唐国と戦ったが敗北し、百済から撤退した。
668年、天智は近江で即位式を挙げた。
高句麗が滅んで大海人は雌伏せざるを得なかったが、天智が死んで大友皇子が即位すると、吉野を出て起兵した。
当時の新羅の文武王は、大海人が新羅の名将金庾信の妹に生ませた子どもだったので、新羅は大海人を救援した。

唐は新羅に侵攻し、窮地に陥った文武王は、681年に新羅に死んだことにして、日本に亡命した。
天武も682年に唐軍に追われて、旧高句麗領に逃げる途中で殺された。
天武が没すると、天武の長子の大津皇子が即位し、683年朱雀という年号を立てた。
唐は大津を認知せず、高市皇子らによって謀反者として殺された。
高市は即位して持統天皇となり、唐と講和した。天武の長子とされている高市は、実際は天智の子だった。
696年、突厥や契丹などの周辺諸民族が一斉に唐国に反乱を起こした。
高市の没後、文武王が反高市派(鸕野皇女、刑部皇子、藤原不比等ら)に擁立されて、文武天皇として即位した。文武王は天武の長子だったから、日本国王としての有資格者だった。

705年に唐の中宗が即位すると、元新羅王の文武天皇が日本国王であることを許さず、文武は大和朝廷を不比等と天智の娘元明天皇に託さざるを得なかった。
715年に、中国東北部に渡って唐と戦っていた文武が唐に降伏し、元明は娘の元正に譲位した。
元正即位を推進したのが長屋王だった。
長屋王は、高市の子どもだから、文武がいなければ正統な天智系の天皇のはずだったが、文武によって臣下の地位に下がっていたので、妻の姉の元正を擁立した。
長屋王は天智系だから、新羅と協調的ではなく、720年に新羅は九州に侵攻した。

724年に元正が聖武に譲位して、長屋王と新羅とが講和した。
当時の新羅聖徳王は、文武が来日直後に生まれた子で、日本で役の行者と呼ばれている人物である。
この頃、勃興しつつあった渤海は二代目大武芸の時代だった。
727年、大武芸は、使者を出羽国に送り込んだ。その首領が高斉徳で、小林氏は文武の子とする。だから大武芸は、高斉徳を日本国王にして、渤海の傀儡政権の樹立を計画した。
出羽国に上陸した渤海使者は、大野東人らの抵抗を受けながら、辛うじて入京した。
大和朝廷側では、藤原氏が大武芸の計画に荷担した。
『続日本紀』には、渤海使者が来日した727年9月の閏9月に皇太子誕生とあり、翌728年9月に皇太子没とある(08年6月20日の項)。

小林氏は、この名前のない皇太子は聖武自身で、暗殺され生まれて1年の皇太子として元明陵に陪葬された。つまり、皇太子は『続日本紀』が捏造した架空の幼児である。
皇太子は、高斉徳の来日と同時に生まれたことになっているから、高斉徳が文武の子として生まれ変わったという暗示をした、ということである。
聖武にとって異母弟の高斉徳が、聖武天皇になりすました。
この大胆な計画を援護したのが、藤原宇合・武智麻呂と光明子だったが、宇合らの狙いは、聖武の暗殺ではなく、長屋王の失脚だった。
この事態に、長屋王はなすすべもなく、729年2月に宇合らに滅ぼされる。

何とも気宇壮大な仮説であって、私の知識のレベルでは評価すべくもないが、葛城王については、小林氏は次のように説明する。
葛城王は聖武天皇の即位した神亀元(724)年に従四位に上に叙せられたが、5年後に新聖武(高斉徳)朝が成立した天平元(729)年3月に正四位上に叙せられるまで動きがない。
この空白の5年間に、渤海に渡って、高斉徳の来日工作をしていたのかも知れない。

紫香楽宮跡から出土した木簡に書かれていた万葉歌が、1つの手がかりを与える(08年5月26日の項)。 

安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに  (16-3807)
  右の歌は、傳へ云へらく、葛城王の陸奥国に遣さえし時、國司の祇承(ツカ)ふること緩怠(オロソカ)にして異に甚し。時に、王の意悦(ココロヨロコ)びず、怒の色面に顕れ、飲饌(ミアヘ)を設けしかども、あへて宴楽せざりき。ここに前の采女あり、風流(ミヤ)びたる娘子なり。左の手に觴(サカヅキ)を捧げ右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠みき。すなはち王の意解け悦びて、楽飲すること終日(ヒネモス)なりきといへり。

つまり、葛城王が陸奥に遣わされた時、国司の態度が怠慢で悪くて、王は怒りの表情を表に出し、宴会を楽しもうとしなかった。
そこで、采女が左手に觴を持ち、右手に水を持って、葛城王の膝を撃って詠んだということである。
安積山の山影が見える山の井のような浅い心で、あなたを思っているのではない、という歌で、葛城王が何に感心したのかよく分からない。

小林氏は、葛城王が陸奥に遣わされたというのは、渤海使者が出羽国に到着したのを迎えに行ったのではないか、と推測する。
『万葉集』に葛城王とあるから、橘諸兄を名乗る前で、葛城王は陸奥の国司らの態度を警戒したのを、采女が葛城王に、葛城王側にあることを歌で教え、葛城王が安心したというのが、歌の背景ではないか。
いささか深読みかとも思うが、『万葉集』の史料的側面の一例ということができる。

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