書籍・雑誌

2019年3月14日 (木)

戊辰戦争の敗者(6)上田寅吉/幕末維新史(17)

戊辰戦争の敗者の中には、函館の敗戦後、明治政府に出仕した人も多い。
優れた造船技術者になった上田寅吉はその1人である。
明治維新直後、ほんの短期間ではあるが多くの人材を育成した沼津兵学校という学校があった。
西周頭取(校長)の下に、旧幕側の逸材を揃えた学校だった。
2014年9月19日 (金) もし「沼津兵学校」が現存していれば・・・/知的生産の方法(103)

近代日本の造船学を牽引した赤松則良は教授の1人であった。
2014年11月 4日 (火) 磐田市旧赤松家記念館/人物記念館(1)
2014年10月25日 (土) 沼津と造船学の奇しき縁/知的生産の方法(107)

赤松と上田は、西周や榎本武揚らと一緒に幕末にオランダに留学した。
明治元年に帰国した赤松は、沼津兵学校の教授に招聘された後、新政府によって創設された海軍で要職を歴任し、退役後は、長く日本造船協会の会長を務めた。
その赤松が「造船史上の一大恩人」と讃えているのが上田である。

ペリーの浦賀来航の翌年の1854年、ロシア遣日使節プチャーチンの乗艦ディアナ号が、下田で東海トラフ地震による大津波で大破した。
修復のため西海岸の戸田(現沼津市)に回航中に沈没し、プチャーチンは戸田で代船を建造することを幕府に請願した。
幕府は韮山代官江川英龍を建造取締に任命する。
江川は、造船世話掛に7人の船大工を選んだが、上田はその中の1人だった。
上田は戸田生まれで、長崎海軍伝習所、オランダ留学、横須賀造船所と赤松と同じ経歴を辿る。
上田らはロシア乗組員の指導を受けながら、日本初の洋式帆船「ヘダ号」を完成させた。250pxschooner_heda
君沢型

世界史的には18世紀半ばからの産業革命によって、黒船(鋼鉄製の蒸気船)や鉄道が実用化され、大量輸送革命が起きていた。
そのマクロな動きに乗り遅れることがなかったのは、旧幕側の力が与っているのである。

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2019年3月13日 (水)

内閣の番犬・横畠内閣法制局長官/人間の理解(24)

内閣法制局長官は「法の番人」と呼ばれている。
しかし現長官の横畠裕介氏は「法の番人」というよりも「権力の番犬」と言った方が相応しいようである。
古雑誌を整理していたら、たまたま「紙の爆弾」15年10月号に横畠氏を論評する記事が載っていた。
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集団的自衛権が行使できることを目的に、安倍内閣は法制局長官を、小松一郎から横畠の成立にに替え、彼は期待された役割を果たしたとことになる。
集団的自衛権を認める安保法案が衆議院で審議されたとき、横畠氏は次のように答えている。

 横畠裕介・内閣法制局長官は19日、安全保障関連法案を審議する衆院特別委員会で、国際法上の集団的自衛権と、安倍内閣が主張する「限定的」な集団的自衛権の違いを「フグ」に例え、「毒があるから全部食べたらそれはあたるが、肝を外せば食べられる」と答弁した。
 他国防衛を目的とする包括的な集団的自衛権は違憲となる一方、「限定的」な集団的自衛権なら合憲という趣旨だが、厳密な法解釈を行う立場の法制局長官が、こうした例え話を持ち出すのは異例。法案への理解が広がらない現状の裏返しと言えそうだが、長官経験者からは「好ましくない」との批判も出ている。
「集団的自衛権はフグ」 法制局長官が異例の答弁
2015年7月16日 (木) 法治国家であることを放棄した政府・与党/日本の針路(197)

その横畠氏は、小松長官の下の次長時代、病欠の小松氏に代わって集団的自衛権行使の憲法解釈について問われ、「憲法で許されるとする根拠が見いだしがたく、政府は行使は憲法上許されないと解してきた」と政府見解を説明していた。
2014年2月14日 (金) 安倍首相の暴走をコントロールするのは?/花づな列島復興のためのメモ(307) 

長官に昇進して安倍政権に忠勤を尽くすことを決意したのかどうかは本人に聞かなければ分からない。
しかし上記のサブタイトル「軽薄すぎる『法の番人』は言い得ていると思う。
なお、「非理法権天」はwikipediaによれば以下のようである。

江戸時代中期の故実家伊勢貞丈が遺した『貞丈家訓』には「無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する」と、非理法権天の意味が端的に述べられている。非とは道理の通らぬことを指し、理とは人々がおよそ是認する道義的規範を指し、法とは明文化された法令を指し、権とは権力者の威光を指し、天とは全てに超越する「抽象的な天」の意思を指す。非理法権天の概念は、儒教の影響を強く受けたものであるとともに、権力者が法令を定め、その定めた法令は道理に優越するというリアリズムを反映したものであった。

安倍首相は、「法の支配」と「人の支配」の区別がつかないようだが、権は天に勝てないのだ。

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2019年2月24日 (日)

日本文学への深い愛・ドナルドキーン/追悼(138)

米コロンビア大名誉教授のドナルド・キーンさんが2月24日、心不全のため東京都内の病院で亡くなった。
1922年、米ニューヨークで貿易商の家庭に生まれ、コロンビア大学に進学し、18歳の時、英訳された「源氏物語」を偶然手に取り、みやびな世界に魅了された。
太平洋戦争中には、米海軍語学将校として日本兵捕虜の尋問・通訳に従事した。

2011年3月の東日本大震災の津波被害と原発事故を憂えて、「大好きな日本に永住し、日本人になる」と表明年に日本国籍を取得し、2013年には、研究業績などを紹介する「ドナルド・キーン・センター柏崎」(同県柏崎市)がオープンした。

2012生涯独身で、後に養子に迎える新潟県出身の文楽三味線奏者、上原誠己さんと06年秋に知り合ったことが日本国籍取得(12年)の最大の契機になったという。
2012年から東京新聞等で『東京下町日記』を掲載し、日本文学への深い造詣と愛情を示した。
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東京新聞2013年10月6日

年譜は以下の通りである。
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東京新聞2月25日

 戦後、大学に戻り、本格的に日本文学研究に打ち込み、53年には京都大大学院へ留学。後の文相で教育社会学者の永井道雄と親交を結ぶ中、中央公論社の嶋中鵬二社長を紹介されたのを機に、谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫ら多くの文学者と交流。古典から近現代文学まで幅広い日本文学作品に精通し、太宰治や三島、安部公房らの作品を積極的に翻訳、紹介した。谷崎、川端、三島らの名前が候補に挙がったノーベル文学賞の事前選考にも、大学の同僚だった日本文学研究者エドワード・G・サイデンステッカー(2007年死去)とともに関わった。
・・・・・・
 日記文学を論じた「百代の過客」で読売文学賞と日本文学大賞(85年)、力作評伝「明治天皇」で毎日出版文化賞(02年)を受賞するなど多数の論考を著した。
 近年でも評伝「正岡子規」(12年)、同「石川啄木」(16年)を刊行するなど晩年まで創作意欲は旺盛だったが、18年3月の米ニューヨーク訪問後に体調を崩しがちになり、都内の病院で入退院を繰り返していた。公には、同年5月に埼玉県草加市で上演された「幻」の古浄瑠璃「越後国柏崎 弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)」の記念座談会で元気そうな姿を見せたのが最後となった。
ドナルド・キーンさん死去 96歳 日本文学研究者、翻訳で国際化に貢献

あの世というものがあれば、三島由紀夫や川端康成などと、心行くまで交歓されることを。
合掌。

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2019年2月11日 (月)

秀才かつクリエイティブ・堺屋太一/追悼(137)

堺屋太一さんが2月8日に多臓器不全のため東京都内の病院で亡くなった。
本名は池口小太郎。元通産(現経済産業)官僚。
昭和45年の大阪万博の開催に携わった後、石油危機を描いた小説「油断!」で作家としてデビューした。
第二作の『団塊の世代』文春文庫(2005年4月)がベストセラーになり世間に知られた。
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Wikipedia

「団塊」というのは本来は地質学の用語である。
それを人口構成上の用語に転用した。
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「団塊の世代」の研究(年表)

私にとっては『油断』日本経済新聞社(1975年)が鮮烈だった、
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刊行された時は某リサーチファームに所属しており、ある意味で描かれた世界は親しいものだった。
作者については某中央官庁の官僚とあったように記憶している。

藤原肇さんの『石油危機と日本の運命―地球史的・人類史的展望』サイマル出版会(1973年)などの影響で、1973年の石油危機発生の直前に石油化学業界から転職したのだった。
2014年9月20日 (土) 藤原肇『石油危機と日本の運命』/私撰アンソロジー(34) 
2009年4月 4日 (土) 同級生の死/追悼

油断』の内容は驚きは無かったが、政策決定の描写のリアリティはさすがであった。
旺盛な好奇心と筆力のある人だったと思う。
秀才であるには違いないが、クリエイティブな側面も兼ね備えていたとな存在だった。

「巨人、大鵬、卵焼き」と言ったのもこの人で、造語感覚が優れていた。
東日本大震災の直後に「第1の敗戦は幕末、第2の敗戦は太平洋戦争、そして、下り坂20年の末にきた大震災が第3の敗戦である。ここで大改革ができなければ、なお日本は負け続ける。」という問題意識で、『第三の敗戦』講談社(2011年6月)を緊急出版した。
しかし「大改革」どことろか、政権に復帰した安倍晋三首相の下で、取り返しのつかない道へ迷い込んでしまった。

官庁データを駆使した油断』でデビューし、人口動態データから団塊の世代』を書いた人は、公文書を偽造し、データ不正が疑われている現状をどう思っていたのだろう。
合掌。

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2019年2月 9日 (土)

自然と命の画家・堀文子/追悼(136)

風景の絵や花鳥画で知られた日本画家の堀文子さんが、5日、心不全のため亡くなった。
私は「サライ」誌の連載『命といふもの』で存じ上げていた。
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「サライ」2019年3月号

 東京・平河町生まれ。女子美術専門学校(現女子美術大学)で学び、創画会などで活動した。うつろいゆく自然の姿を日本画特有の透き通った色合いと端正なタッチで描き続けた。
 自然、生命を生涯のテーマとしながら新境地を追い求め、イタリアの古都アレッツォ郊外にアトリエを構えたり、幻の花ブルーポピーをたずねてヒマラヤの高地に赴いたり。80歳を超えて動脈の病気で倒れた後は顕微鏡をのぞき、プランクトンなどのミクロな世界を優美に描いた作品で注目を集めた。「命といふもの」や「ホルトの木の下で」などの著作でも知られた。
 親しみやすい画風と同時に、自身を「わたくし」と呼ぶ丁寧な、かつ東京育ちらしい切れ味のいい語り口と若々しい姿でも人気に。「群れない、慣れない、頼らない」がモットーで、バブル景気以降の日本人のおごりを嫌い、晩年は「大きな公募団体展は好みません」と画壇からも距離をとっていた。
日本画家の堀文子さん死去 うつろいゆく自然の姿描く 

東京新聞のコラム「筆洗」がその画業の特質をうまく要約している。
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2月9日

「凛」という言葉が相応しい人だと思う。
日本人の美質のようなことを考えるとしたら、この人の人生と作品を参照すべきであろう。
堂々たる大往生である。
合掌。

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2019年1月30日 (水)

「わからない」という方法・橋本治/追悼(135)

橋本治さんが29日亡くなった。
1948年生まれだから、70歳である。
平均寿命からしたら若過ぎるが、書かれた作品の量・質は十分とも言えよう。

東京都出身で、東京大在学中、学園紛争の渦中で行われた駒場祭で「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」のコピー入りポスターを手掛けた。
コピーライター兼デザイナーであり、デビュー時からクリエイティブ・ディレクターだった。
作家というより文筆家ないしはアーティストという方が適切であろう。
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毎日新聞1月30日

 エッセーや評論も膨大に残した。95~07年の「ひらがな日本美術史」(全7巻)では仏像や絵巻を大胆に読み解いた。オウム真理教事件を機に執筆した「宗教なんかこわくない!」で96年に新潮学芸賞。02年に「『三島由紀夫』とはなにものだったのか」で第1回小林秀雄賞。04年、日本人の思考をたどる文化論「上司は思いつきでものを言う」はベストセラーに。短編集「蝶(ちょう)のゆくえ」で05年、柴田錬三郎賞。09年から10年にかけて刊行した「巡礼」「橋」「リア家の人々」は戦後史を市井の人々の人生に重ねた「戦後3部作」と呼ばれた。日本人の心性を探る試みは、18年に野間文芸賞を受けた長編小説「草薙の剣」に結実する。古典芸能にも造詣(ぞうけい)が深く、歌舞伎に関する著書もある。
 団塊の世代に属しながら、孤高を守り、独特のシニカルな視点で現代を見つめる作家だった。集団的自衛権や憲法改正などの時事的なニュースを受けて、本紙にたびたび寄稿やインタビューを掲載。政府や有権者にも苦言を呈した。
作家の橋本治さん死去 「とめてくれるな おっかさん」

評判になった「とめてくれるなおっかさん」のポスターは知っていた。
しかし「桃尻娘」で作家としてデビューした頃は違和感が先に立った。
それが先入観に過ぎないことは、『「わからない」という方法』集英社新書(2001年4月)を読んで知った。
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私が同感したのは、「なんでも簡単に“そうか、わかった”と言えるような便利な“正解”はもうない」ということであり、「重要なものは、身体と経験と友人で、それがなければ、脳味噌の出番なんかないのである。身体とは「思考の基盤」で、経験とは「たくわえられた思考のデータ」で、友人とは「思考の結果を検証するもの」である」という言葉だった。
私の経験とぴったり合っていた。
もう少し活躍して頂きたかったが病魔には勝てない。
合掌。

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2019年1月10日 (木)

元号と改元と日本建国/やまとの謎(125)

1979年に制定・公布された「元号法」によって、「元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める」とされた。
いわゆる「一世一元の制」の法制化であり、天皇が譲位される今年は改元の年でもある。
2017年12月 3日 (日) 改元のスケジュール/日本の針路(356)

 安倍晋三首相は4日、三重県伊勢市で年頭記者会見を開き、5月1日の新天皇即位に伴う改元について「国民生活への影響を最小限に抑える観点」から、4月1日に改元の政令を閣議決定した上で事前公表すると正式表明した。今の天皇陛下が政令に署名して公布する方針も示した。民間のシステム改修などを巡る混乱を避けるため、1カ月間の準備期間を設け、国民生活に配慮した。
・・・・・・
 改元発表時期を巡っては、自民党内外の保守派は当初「明治以来の一世一元(天皇1人に元号は一つ)に反する」と事前公表に反発。その後、事前公表容認に転じたが、「天皇と元号の一体不可分性」を維持するため、政令に新天皇が署名して公布することを求めていた。首相は会見で「公布は通常の政令制定の手続きに従って行う」と明言した。

明治以前は、天皇の在位中にも災害など様々な理由によりしばしば改元が行なわれていたし、寛永や慶長のように、新たな天皇が即位しても、元号が変わらない場合もあった
民間のシステム改修などを巡る混乱を避けるため、1カ月間の準備期間を設け、国民生活に配慮」するならば、もっと早く決めるべきであろうが、保守派に配慮したということであろう。

このように、日本の伝統と技術・文明の進歩はしばしば矛盾する。
それを弥縫的にやりくりしてきたのが、まあ「日本の智慧」ということだろう。
憲法9条と自衛隊の関係も、論理で割り切れない部分があるが、今まで何とか弥縫的にやってきたのである。
その矛盾が大きくなって現実とどうしてもフィットしなくなった時、どうするか?
それはケースバイケースというしかない。

ところで、元号はいつから使われたのか?
天皇制を神武にまで遡らせて考えたい三原じゅん子議員らの認識においても、大化以前の元号について言及はしていないと思われる(良くは知らない)。
2015年3月18日 (水) 確信的「無知」の「無恥」・三原じゅん子/人間の理解(10)
現在の歴史教科書では「乙巳の変」で孝徳天皇になって、「大化」の年号が使われたということになっている。

初期の年号については謎が多い。
たまたま書店で手にした日本の元号研究会編『日本の元号』
池田書店(2018年12月)に以下の図がある。
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うまり、最初の元号と次の元号はいずれも孝徳朝であって、次の改元は「朱鳥」である。
天武紀15年(686)7月のことで、その年の9月9日に天武は亡くなっている。
そして朱鳥には、「阿訶美苔利(アカミトリ)」と和訓されているが、年号に和訓は施されないのが通例である。
2008年1月11日 (金) 「朱鳥」改元について

そして、「白雉」と「朱鳥」の間に、「白鳳」「朱雀」という謎の年号がある。
天皇紀で言えば、斉明、天智、弘文、天武であって、白村江の敗戦と壬申の乱という外・内の2つの戦争があって、日本列島が大きく変動した時代である。
この時期こそ、日本建国の本質があるのではないだろうか。

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2019年1月 4日 (金)

探究と実践の往還/知的生産の方法(180)

昨年8月に掛谷誠氏の著作集全3巻が完結した。
第3巻は『探究と実践の往還』京都大学学術出版会(2018年8月)である。20190104_094120

主としてアフリカというフィールドで実証的な地域研究を行い、そこから理論を構築していった彼らしいタイトルである。
私には彼の専門領域における業績を紹介する能力はない。
しかし専門外の人間から見ても、彼の書く文章が論理と感性が見事に融合したものであることは理解できるだろう。
2015年4月20日 (月) 掛谷誠・「伊谷純一郎『アフリカ紀行』」の解説/私撰アンソロジー(35)

この第3巻には、「地域」というものについての彼の考え方が収録されている。
彼のフィールドは様々であったが、最終的には「アフリカ」である。
第1章の「アフリカ研究会のころ」は、1963年に京都大学の電気工学科に入学した彼が、ポスターを見て「アフリカ研究会」の存在を知り、飛び込み参加して気分が高揚したことから始まっている。
後に恩師となる伊谷純一郎氏から「これからは電子や電気の時代だから、工学部をやめるのはもったいない」とアドバイスを受けた。
当時は、高度成長期が本格化した頃であって、伊谷氏のアドバイスはもっともなものだった。

その時のことを、特修「掛谷誠追悼」で、田中二郎氏はつぎのように書いている。

彼が人文研をのぞきにきた日の夕方、ちょうど立ち上げたばかりのアフリカ研究会の初めての懇親会が行なわれることになっていた。それを聞いた掛谷は、「いきなりコンパに参加したら駄目でしょうか?」とおそるおそる尋ねたものである。「まだ 組織もなにもしっかり出来上がってない会やから 初めての人が飛び込みで入ってきてもかまいやしないよ。」わたしはそう言って、彼を誘ってコンパ会場に連れて行ったが、それがきっかけとなって掛谷がアフリカの世界にどっぷりとはまってしまうことになったのである。

結局理学部に転学部し、大学院で動物学専攻、自然人類学研究室に入った。
第2章は「座談会 霊長類学・生態人類学・人類進化論」である。
伊谷純一郎氏の白スリー記念賞受賞を祝って、伊谷純一郎・市川光雄・掛谷誠・河合雅雄・西田利貞・米山俊直の諸氏が語り合っている。
今西錦司氏によって始められた京都大学の自然人類学の研究の総括である。
伊谷氏は、今西氏の後を継いで、自然人類学を方向付け、確立された。

その業績を河合雅雄氏は3区分する。
第一の創生期は1948年に始まる霊長類グループの誕生と国内のフィールドで活躍し始めた時期である。
第二期は、モンキーセンターができた1956年以降で、世界に先駆けてプライトマトロジーを確立した時期である。
第三期は、1962年に京都大学に自然人類学講座ができ、1967年に霊長類研究所ができて、類人猿と生態人類学が進展を見た時期である。

掛谷氏は、第三期を実質的に担った1人である。
理学部にいた共通の友人の仲介で、アフリカに行く直前に彼とフィアンセと4人で歓談したような記憶がある。
それが彼と交わした会話が最後となったが、アフリカに赴くいたのは1971年のことだったようで、その頃私はビジネスの世界に入っていたので、もう少し前だったのかも知れない。
先日京都で旧左翼活動家の友人にあってその時がいつだったか確認しようと思ったが覚えていないようであった。
掛谷は新左翼だからなあ、と漏らしたが、活動家ではなく新左翼の方が心情的にフィットしたということだと思う。

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2018年12月18日 (火)

敗者の戊辰戦争(5)土方歳三/幕末維新史(16)

幕末維新期において、新選組は武闘派のイメージが強い。
学校で教えられてきた「勝てば官軍」史観では、時代の動向を見通せないアナクロ集団と言えよう。
チャンバラ映画の主役ではあり得ても、時代を前進させるヒーローという感じはしない。
しかし、新選組の中でも、土方歳三や沖田総司の人気は根強い。

土方歳三の略歴を見てみよう。

幕末維新期の新選組副長,のちに箱館五稜郭政権の陸軍奉行並。名は義豊,俳号豊玉,別称を内藤隼人といった。武蔵国多摩郡石田村(東京都日野市石田)土方義諄の4男。生前に父を失い,6歳で母も失って兄喜六夫婦に育てられる。文久3(1863)年の上洛浪士組に参じ,近藤勇,沖田総司らと共に京都に残留し新選組副長となる。新選組の名を一夜にしてなさしめた池田屋騒動では,古高俊太郎の拷問で足の甲に五寸釘を打ちつけ,百目ろうそくを傷口に流し込んだといわれる。土方は法の番人的存在で局中法度を徹底的に貫き,山南敬助,河合耆三郎らを切腹に追い込むなど内部粛清に猛威を振るった。明治1年1月3日(1868年1月27日)の鳥羽・伏見の戦以後,新選組の戦闘指揮をとる。宇都宮,会津若松と転戦したのち榎本武揚らと五稜郭に渡り,翌年3月回天艦に搭乗して宮古湾の海戦に参じる。その後,箱館戦争の雌雄を決する激戦において壮烈な戦死を遂げた。<参考文献>釣洋一『新選組再掘記』
朝日日本歴史人物事典の解説

まさにクールな武の人と言えよう。
戊辰戦争の最終段階の箱館戦争において、五稜郭で壮烈な死を遂げたのである。
その意味で「時代の子」であり、明治期に生きたらどうであったかと思わざるを得ない。
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日野市に土方歳三記念館がある。
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朝日新聞3月14日

明治150年も終わろうとしている。
戊辰戦争の敗者を悼みたい。

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2018年12月 8日 (土)

改正入管法を可決した「醜い日本」/安部政権の命運(23)

本日未明、改正入管法が、自民党公明党、日本維新の会などの賛成多数で可決成立した。
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毎日新聞12月8日

経済界の「人手が足りない。経済成長の足かせになる。」という言葉を鵜呑みにし(たふりをして)、具体的な制度設計は省庁に丸投げである。
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毎日新聞12月8日

下村博文氏が、憲法審査会に消極的な野党議員を「職場放棄」と非難して、結果的に陳謝することになったが、これこそ賛成議員は「職務放棄」と言うべきだろう。
特に、技能実習生として来日した外国人が多数死亡しているという事実が明らかになったばかりである。
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東京新聞12月6日

劣悪な環境で、実習生の名目で職業選択の自由もないまま過酷な労働を強いられる。
『蟹工船』そのものではないか。
2018年12月 4日 (火) 外国人労働者は現代の「蟹工船」か?/安部政権の命運(17)

しかも法務省は聴取票の原票を改ざんして取りまとめを行っていた。
野党議員は原票をスキャンもコピーも許されず、手書きで書き写さざるを得なかった。
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妨害としか思えないが、法務省は裏付けも取っていなかった。
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毎日新聞12月5日

経済界でも入管法改正に対し、経団連の中西宏明会長は「歓迎する」だが、経済同友会の小林喜光代表幹事は批判的である。Ws000000
改正入管法に財界から「議論不足」の声も 労働側も懸念

経団連の方々は「日本資本主義の父」渋沢栄一の『論語と算盤』に立ち戻るべきではないか。

安部首相は自分の国家ビジョンを『美しい国へ』文書新書(2006年7月)に纏めたことがある。
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誰がゴーストライターなのか知らないが、「労働力が足りないから、日本で働いてくださ。ただし人間的な生活は保障しません」という国が「美しい」といえるはずがないだろう。

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