書籍・雑誌

2009年12月21日 (月)

「天皇の政治利用反対」という錦の御旗(5)承久の乱

古来、天皇は、政治利用される対象であると共に、しばしば自ら政治権力者として行動してきた。
天智天皇は、中大兄皇子として大化改新の主導者として理解されているし、天武天皇は、壬申の乱に勝利して天皇位に就いた。
天皇号を初めて用いたのも天武天皇とされる。
天武朝は、天皇親政だったが、天皇の政治的権力を高めようとするときのスローガンが「天皇親政」という言葉だった。
明治維新は、長らく武家に握られていた政治権力を朝廷に大政奉還するものであった。

鎌倉幕府の成立後、鎌倉の武家政権と京都の公家政権が並存していた。
承久元(1219)年、3代将軍の実朝が、甥の公暁に暗殺された。
実朝の死後、鎌倉の政務は頼朝の正室の北条正子が代行し、弟の執権・義時が補佐する体制となった。
朝廷の最高権力者は後鳥羽上皇だった。

鎌倉サイドは、実朝の後継将軍として皇族を迎えたいと申し出るが、後鳥羽上皇の求めた条件が幕府の根幹を揺るがすものとして拒否した。
義時は、皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、執権を中心とした政務体制となったが、この将軍継嗣問題により、義時と後鳥羽上皇との間にしこりが残ることになった。

朝廷と幕府の緊張が次第に高まっていき、後鳥羽上皇は討幕の意思を固める。
土御門上皇は反対の立場であり、多くの公卿たちも反対もしくは消極的だったが、順徳天皇は積極的だった。
承久3(1221)年5月14日、後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して挙兵した。
「承久の乱」である。
京方は、院宣の効果を過大視し、「義時は朝敵となったので、義時に参ずる者は千人もいないだろう」と楽観視していた。

上皇の挙兵に鎌倉の武士は動揺したが、武士たちを鼓舞して団結を高めさせたのは、政子のアジテーションだったとされる。
政子は、追討令は、上皇側近の讒言によるもので、不条理なものであり、頼朝の恩顧を説いて、上皇との戦いに向かう決意を固めたという。

『増鏡』には、北条泰時が、「もし鳳輦を先立て、上皇みずから軍の先頭に立って攻めてこられた場合」にどうすればいいかと問うたのに対し、義時が、「君の御輿に弓を引くことはできぬ。鎧をぬぎ、弓の弦を切って降参するほかない。だが、上皇が洛中にとどまり、軍兵だけが派遣されてきた場合には、千人が一人になるまでも戦うべし」と答えたとされる。
この時点では、朝廷の権威はそれだけ大きかったわけである。

結果として京方は大敗した。
首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島に、順徳上皇は佐渡へ配流となった。
朝廷の権力奪還の試みは敢え無く失敗し、朝廷は幕府に完全に従属することになった。
律令制は実質的に崩壊し、古代から中世への転機となった乱であった。
大化改新と対をなす出来事だったと見ることができる。

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2009年12月20日 (日)

「天皇の政治利用反対」という錦の御旗(4)二・二六事件

「文藝春秋2010年1月号」に、『昭和の肉声-いま甦る時代の蠢動』という特集記事に、「今からでも遅くない」という言葉が取り上げられている。
「二・二六事件」の戒厳司令官の言葉である。
「二・二六事件」は、事件を起こした側も、鎮圧した側も、天皇を政治利用した代表的な例と言っていいだろう。
Photo_9Photo_10写真は、http://homepage3.nifty.com/yoshihito/niniroku.htm

昭和11(1936)年2月26日の未明、22名の青年将校に率いられた1400余名の下士官兵が、重臣たちの官私邸を襲撃した。
内大臣斎藤実、教育総監渡辺錠太郎が即死、蔵相高橋是清は、重傷のち死亡。侍従長鈴木貫太郎は重傷を負った。
決起に参加した人数からしても、死傷者の数からしても、昭和史における最大級の事件だった。
雪の光景と相まって、映画等においても印象的なシーンとして描かれることが多い。

事件の背景には、貧富の差が拡大し、貧しい農民の暮らしが更に苦しくなる政治の在り方があり、より直接的には陸軍内の皇道派と統制派の対立があった。
皇道派という名前の由来は、陸相を務めた荒木貞夫が日本軍を「皇軍」と呼び、政財界(皇道派の理屈では「君側の奸」)を排除して天皇親政による国家改造を説いたことによる。
一方、統制派は、、軍内の規律統制の尊重・堅持を主張したことによる。

統制派が陸軍大学出身のエリートを中心としていたのに対し、決起した青年将校らは、皇道派の立場に立っていた。
農村や漁村の窮状は、農漁村出身の兵隊と共に、日夜訓練している自分たちでなければ分からない、という自負である。
当時の社会情勢と青年将校らの心情については、松本清張『昭和史発掘 <8>』文春文庫(0510)に、次のようにある。

農村の疲弊は、慢性的に続いていた農業恐慌の上に、更に昭和 6 年と昭和 9 年に大凶作があって深刻化した。農家は蓄えの米を食い尽くし、欠食児童が増加し、娘の身売りがあいついだ。農村出身の兵と接触する青年将校が、兵の家庭の貧窮や村の飢饉を知るに及んで軍隊の危機を感じたというのはこれまでくどいくらい書いてきた。
そして青年将校らは考えた。結局独占資本的な財閥が私利私欲を追求するために、こうした社会的な欠陥を招いたとし、それは政党がこれらの財閥の援助をうけて庇護し、日本の国防を危うくする政策を行っているからだとの結論に達した。

青年将校らは、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていたのだった。
しかしながら、彼らの思惑とは全く異なり、昭和天皇は、青年将校らを叛乱軍とみなし、断乎鎮圧を指示したのだった。
統制派にとっては、皇道派を排斥する格好の機会でもあった。

天皇親政という形で、天皇の政治利用を図った青年将校らの思いは、天皇自らの政治判断によって、全く意図せざる結果となったわけである。
栗原安秀中尉の最後の言葉は、次のようであった。

天皇陛下万歳。霊魂永久に存す。栗原死すとも維新は死せず。

享年29歳だった。

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2009年12月19日 (土)

「天皇の政治利用反対」という錦の御旗(3)張作霖爆殺事件

「文藝春秋2010年1月号」に、『昭和の肉声-いま甦る時代の蠢動』という特集記事がある。
歴史探偵を自認する半藤一利氏の解説で、昭和史の60のシーンを象徴する言葉でレビューしようという企画である。
その2番目に、昭和天皇の「最初に言つたことと違ふぢやないか」という言葉が取り上げられている。

昭和3(1928)年6月4日に、満州軍閥の指導者だった張作霖を乗せた特別列車が爆破され、張作霖が暗殺されるという事件が起きた。
いわゆる「15年戦争」と呼ばれる中国との戦争の導火線に火を点けた事件である。
この張作霖爆殺事件については、現在では、日本陸軍の陰謀であったことが共通認識になっていると言っていいだろう。

しかし、世の中には敢然と通説に反論する人がいる。
例えば、田母神俊雄元航空幕僚長である。
田母神氏は、アパグループ主催の第1回『「真の近現代史観」懸賞論文』の最優秀賞を受賞した人である。
応募の時点では現職の航空幕僚長であったが、この論文の内容が問題視され、職を解かれたことで話題になった。
2009年1月10日 (土):田母神第29代航空幕僚長とM資金問題

私は、多くの場合、異端の説を好む傾向があるが、この田母神論文は、私の感覚とは全く相容れないものであた。
張作霖爆殺事件についての田母神氏の見解に対しては既に触れたことがある。
田母神氏は、張作霖爆殺事件は、「関東軍の仕業であると長い間言われてきたが」「最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている」と書いた。
2009年1月13日 (火):田母神氏のアパ論文における主張②…張作霖爆殺事件

「文藝春秋」誌で解説を担当している半藤一利氏は、『歴史探偵 昭和史をゆく』PHP研究所(9205)において、「いまでは日本陸軍の陰謀であることは明らかになっている」が、「当時、なぜあれほど早くバレてしまったのか」いつも気になっていた、として、その背景事情を調べた経緯を書いている。
半藤氏は、『小川平吉関係文書』から、白川義則大将の小川宛書簡と、小川が中国に派遣していた工藤鉄三郎らの小川宛電報を見つける。

白川大将は、事件当時陸相の地位にあったが、この書簡の時点では、田中義一内閣が総辞職して後任の宇垣一成大将と交代していた。
書簡と電報から、現職の陸相だった白川大将から、主犯河本大佐の名前が明らかになったあとの、もみ消し工作の資金が拠出されていることが分かる。

半藤氏は、陸軍中央ぐるみの陰謀であったと解説している。
田母神氏の見解は、現時点におては、異端というよりも偏見というべきだろう。
張作霖爆殺事件については、当初から、陸軍に疑念がかけられていた。
元老西園寺公望に言われ、田中義一首相は、「張作霖爆殺事件については、どうも我が帝国の陸軍の中に多少その元凶たる嫌疑がありやうに思ひますので、目下陸軍大臣をして調査させてをります」と昭和天皇に報告した。
陸軍大臣は、上記の白川大将である。

陸軍部内の処罰に反対し、闇から闇に葬ってしまえ、という大勢に押されて、「断固処罰します」と明言していた田中義一首相は態度を変え、「本件を行政事務として内面的に処置し、然して一般には事実なしとして発表致したく」といいはじめた。
これに対し、『昭和天皇独白録』文藝春秋(9103)によれば、以下のような天皇の発言となる

田中は再び私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であつた。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云つた。
この言葉によって、田中義一は辞表を出さざるを得なくなり、総辞職するに至る。
そして、この事件の後、昭和天皇は内閣の上奏する所のものは、自分が反対の意見を持つていても裁可を与える事に決心した、と「NOを言わぬ天皇」となった。
現在とは政治体制も異なるが、昭和史の起点において、誰が天皇を政治利用(しようと)したことになるのだろうか?

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2009年12月16日 (水)

「卑弥呼=天照大神」説の否定論(3)母集団と標本-その2

坂田隆氏が、『卑弥呼をコンピュータで探る-安本美典説の崩壊』青弓社(8511)において展開している安本美典『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)における数理統計学の誤利用論をもう少しみてみよう。
安本氏の立論の基本は、以下のように示される。
Photo_8 ある天皇の即位年Tが既知とすると、その天皇よりn代まえの天皇の即位年τは次の式で推定できる。
Photo_12 
坂田氏は、ここで安本氏は、1つの母集団において適用すべき(3)式を、2つの母集団に対して適用するという誤用をしていると批判している。
2つの母集団とは以下の2つである。
母集団A:第31代用明天皇から第49代光仁天皇までの19代およそ200年間の天皇の在位年数。母集団の大きさは19である。
母集団U:歴史的に確実でさかのぼりうる最古の諸天皇と等質の母集団。

Photo_2安本氏は、用明天皇より前の諸天皇は、母集団「U」からの標本である、とする。
あるいは、天照大神~光仁天皇の54代の一人一人の在位年数「x」は、仮想母集団「U」からの標本である。
この(仮想)母集団「U」の大きさは、54もしくはそれ以上である。
坂田氏は、「A」と「U」は、「2つの母集団」であるにもかかわらず、「1つの母集団」に対して成立する(3)式を用いて推論するのは間違いである、と指摘している。

坂田氏は、このことを説明するために、岡田泰栄『統計』共立出版(1968)から、上掲コラムを引用している。
つまり、(5・6)式は、安本氏の式(3)と同一であるが、この式は、「1つの母集団」を前提とするもであり、安本氏の説明は、「1つの母集団」については成り立つが、安本氏は、実際には「2つの母集団」を対象としているのであって、それは重大な誤りである、ということになる。

坂田氏は、安本氏はさらに重大な誤りをしている、とする。
それは、安本氏が、“数値の知られていないものを「標本」としている”ということである。
そして、安本氏は“「母集団」の数値によって、「標本」の数値を推定している”が、数理統計学は“「標本」の数値によって、「母集団」の数値を推定する”方法であり、安本氏はまったく逆のことを行っている。

安本氏は、次のように言っている。
1.用明から光仁まで19代の天皇の在位年数を「母集団」とする。
2.用明天皇より前の諸天皇は、母集団「U」からの「標本」と考える。
つまり、安本氏は、「母集団」によって「標本」を推定しているのである。

安本氏の誤用の原因は何か?
第一に、用明~光仁の19代の天皇の在位年数を、安本氏は「母集団」としているが、これは「標本」と考えるべきである。
なぜならば、標本とは数値が知られているものであって、その標本から母集団を推定するものであるから、用明~光仁の在位年数は「標本」だとすべきである。
また、用明以前の天皇の在位年数は、数値の分からないものとして扱っているのであるから、これは「標本」ではなく、母集団の一部として考えるべきものである。

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2009年12月15日 (火)

「卑弥呼=天照大神」説の否定論(3)母集団と標本

坂田隆氏は、『卑弥呼をコンピュータで探る-安本美典説の崩壊』青弓社(8511)において、安本美典『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)における数理統計学の手法を批判している。
坂田氏は、まず、安本氏の説を引用する。
2
その批判の論点は、以下の通りである。
1.安本氏がここで母集団平均値、母集団標準偏差としているのは、それぞれ標本平均値、標本標準偏差である。
つまり、安本氏は、母集団と標本を取り違えているのではないか?
「母集団と標本」に関しては、下記でみたばかりである。
2009年12月11日 (金):「同じ」と「違う」(12)母集団と標本

坂田氏は、「母集団と標本」の関係を示すために、鷲尾泰俊『推定と検定 #数学ワンポイント双書 18#』共立出版(7802)から、以下の部分を引用している。

上の三つの例に見られる共通的な性質は、推測をしたい“もの”の集団があり、この集団についての推測をするために、集団から何個かの“もの”をランダムに取り出してデータを得ている、ということである。統計学では、この関係を強調するために、推測をしたい“もの”の集まりを母集団(population)とよび、母集団の推測をするために母集団から取り出されるいくつかの“もの”を標本(sample)とよぶ。標本の中に含まれている“もの”の数を標本の大きさ(size)とよぶ。統計学(数理統計学)は、標本から母集団についての推測をするための方法を与える学問であり、この方法を統計的方法とよぶ。

2.安本氏は、「n」を「n代前の天皇」の意味で用いている。
しかし、引用箇所における「n」は、「標本の個数」の意味である。
つまり、安本氏は、用明天皇から光仁天皇までの19代の天皇の在位年数をもとに、天照大神の活躍時期を推定している。
すなわち、19は、標本の個数であって、通常、数理統計学ではこれを「n」と表わす。
また、天照大神~光仁天皇までの54代までが推計の対象であるから、これが母集団であって、54は母集団の大きさであり、ふつう「N」で表わす。
にもかかわらず、安本氏は、「n」を、本来の「在位年数の知られている天皇の数」の意味で用いたり、「N-n」つまり何代前の天皇かの意味で用いてたりしている。

3.上掲の引用における式(3)は、正規分布をした母集団から、n個の標本を取り出した際に適用できる式である。
天皇の在位年数は正規分布していない母集団であるから、このような母集団に適用することはできない。
Photo_6Photo_7坂田氏は、用明天皇から大正天皇までの天皇在位期間のヒストグラムを示している。
図で見るように、用明天皇から大正天皇までの天皇の在位期間の分布は正規分布をしていない。
このような分布の母集団に対して、(3)式のような推計を行うことはできない。

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2009年12月14日 (月)

「卑弥呼=天照大神」説の否定(2)n代違う天皇の時間差の推定

安本美典氏は、『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)において、歴代の天皇の在位年数のデータから平均値と標準偏差を算出している。
Photo_2つまり、第31代用明天皇から大正天皇までの98天皇の平均在位年数は14年であり、用明天皇から第49代光仁天皇(奈良時代の最後)までの平均在位年数は約10年である。

安本氏は、用明天皇から光仁天皇までの値を、古代の天皇の一般的な在位年数と標準偏差とすれば、2人の天皇の時間的距離を、平均在位年数にその間の代数nを掛けることによって求められる、としている。
そして、平均値と実際の時間とは当然差異がある。
推定する時のこの差異は誤差であり、標準偏差から計算できる。

Photo_5安本氏は、用明天皇から光仁天皇までの平均在位年数と標準偏差を用いて、n代違いの天皇の時期の推計値と誤差の幅を、95%、99%の信頼度という形で、表のように算出している。

これをグラフ化すると、次図のようになる。
Photo_4  1代前の場合には、平均在位年数の10.35年に、±16.27年の幅をみておけば、95%くらいの確からしさ(つまり、100回のうちの95回くらい)でその範囲に収まる、ということである。
用明天皇の即位年を正しいものとして、その10代前の雄略天皇の即位年を推定する場合には、95%の信頼度だと、52.06~154.94年前、99%の信頼度だと、35.78~171.22年前ということになる。

安本氏は、雄略天皇の実際の即位年は不明であるが、雄略天皇が通説通り「倭王武」であるとすれば、478年に宋へ使いを出したことが『宋書』に記されている。
用明天皇の即位年を通説通り、西暦585年とすれば、雄略天皇の推計即位年は、95%の信頼度で、430.06年~532.94年であるが、上記の宋への使いからして、即位年がこの範囲において即位していることはほぼ確実である、としている。
即位年の推定値は、481±51.44年(95%信頼度)として表わされるが、481年は上記の478年ときわめて接近した値ということになる。 

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2009年12月13日 (日)

「卑弥呼=天照大神」説の否定論(1)天皇の在位年数

『魏志倭人伝』に描かれた「卑弥呼」像と、『記紀』の「天照(御)大神像」とには、類似した要素が多いことは事実だろう。
しかし、問題は、3世紀中ごろに死んだと想定される「卑弥呼」が、神武天皇より5代前とされる「天照大神」と、年代的に重ならないのではないか、ということである。
この問題に、数理統計学という斬新な手法で「解」を与えたのが、安本美典氏であった。
2009年11月26日 (木):卑弥呼の死(7)天照大御神の年代観

ところが、この安本氏の推論とその結論は、謬論であるとする人がいる。
坂田隆『卑弥呼をコンピュータで探る-安本美典説の崩壊』青弓社(8511)は、タイトルが示しているように、コンピュータによる推論によって、安本美典氏の説を全面的に否定したものである。
巻末に坂田氏が用いたコンピュータ・プログラムが掲載されている。
坂田氏は、京都大学の工学研究科の修士課程を修了後、仏教大学文学部史学科で学士号を取得した人で、履歴的にも数理的な推論は得意であると自負している。

坂田氏は、史学界においては正統的な研究者としては位置づけられていないのであろうが、日本古代史における有数の論客として多くの著書を出されている。
邪馬台国の位置論に関する坂田氏の推論についてレビューしたことがある。
2009年1月 6日 (火):珍説・奇説の邪馬台国・補遺…⑥「田川郡・京都郡」説(坂田隆)

坂田氏の安本説非定の論理をみてみよう。
坂田氏が問題にしているのは、安本氏の年代論である。
安本氏は、邪馬台国論に関して数多くの著書を出されているが、坂田氏が対象としているのは、先ずは『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)である。
安本氏は、天皇の平均在位年数を検証し、ある天皇の即位の年代を、天皇の「代」の数から推論するという方法を採用した。

もちろん、天皇の在位年数は、個々の天皇によってまちまりである。
下図は、用明天皇から大正天皇までの在位年数をグラフ化したものである。
Photo_2即位や退位の時期などが、歴史的な事実として信頼できるのは用明天皇の頃から以後であろうという前提である。
 
グラフではあまり明確な傾向は読み取れないが、安本氏は、時代別に天皇の在位年数を平均し、あるいは世紀別に平均して、時代を遡るに従い、天皇の平均在位年数は短くなるという傾向を発見した。
Photo_3 Photo_4

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2009年12月12日 (土)

『日本書紀』はなぜ、「卑弥呼=神功皇后」と見せかけたのか

『日本書紀』は、神功皇后紀に「魏志」の記事を引用していて、「卑弥呼=神功皇后」を匂わせている。
2009年11月26日 (木):卑弥呼の死(7)天照大御神の年代観
神功皇后は、Wikipedia(最終更新 2009年11月21日 (土))では次のように記されている。

神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) -神功69年4月17日(269年6月3日))は、仲哀天皇の皇后。『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。 父は開花天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。

つまり、『日本書紀』の年代設定において、卑弥呼と神功皇后が重なるわけである。
しかし、『日本書紀』の記す天皇の系譜が正しいとしても、実年代をその通りとするわけにはいかないから(神功皇后も享年100歳ということになるが、100歳を超える超長寿の天皇が大勢いて、これらを真だとはとても考えられない)、神功皇后の実年代も別途検討が必要になってくる。
ちなみに、100歳以上とされている天皇には、以下のような人々がいる。
初代神武(127歳)、5代孝昭(114歳)、6代孝安(137歳)、7代孝霊(128歳)、8代孝元(116歳)、9代開化(111歳)、10代崇神(119歳)、11代垂仁(139歳)、12代景行(143歳)、13代成務(107)、15代応神(111)、16代仁徳(143歳)

「卑弥呼=神功皇后」とした背景を、『邪馬台国の位置と日本国家の起源』新人物往来社(9609)の著者鷲﨑弘朋氏は、次のように解説している。

1.日本書紀の編纂にあたっては、初代神武天皇と皇祖天照大御神をどう位置づけるかが最大のポイントであった。ことは言うまでもない。

2.数多くの漢籍を見た日本書紀の編者達は、漢籍に頻出する著名な女帝卑弥呼が、皇祖天照大御神の人物像と一致し、同一人物であると認識せざるを得なかった。

3.ここで、日本書紀の編纂に重大な障害が生じた。
1)卑弥呼=皇祖天照大御神とすると、天照大御神が三世紀の人物となる。 しかし日本建国を太古の時代と設定したい大和朝廷にとって、これは是認しがたいことであった。
日本建国の時期を中国に劣らず古い時代に設定する必要から、初代神武天皇の即位を、推古天皇九年辛酉(紀元601年)から1260年(1蔀=21元)を溯った紀元前660年とした。
このように、神武天皇の即位を紀元前660年に設定すると、皇祖天照大御神すなわち卑弥呼は、それ以前の人としなければならない。
ところが中国側歴史書群では卑弥呼が三世紀の女帝であることが歴然としている。
このように、中国側であまりに有名な女帝卑弥呼を無視できず、日本書紀の作成にあたっては、中国側歴史書との整合性を意識せざるを得なくなった。
2)卑弥呼と中国魏王朝との地位関係も問題になる。
卑弥呼は日本神話・伝承では皇祖天照大御神として、神聖不可侵の存在であった。
ところが魏志倭人伝は卑弥呼と魏王朝を対等の関係に扱っていない。
魏の明帝から卑弥呼への詔書は、中国の天子が臣下に与える内容で、たとえば卑弥呼を「汝」と呼び捨てにするのが13ヶ所も出現する。また、「是れ汝の忠孝にして我甚だ汝を哀れむ」 「勉めて孝順を為せ」 「国家の汝を哀れむを知らしむべし」 「汝に好物を賜うなり」とある。このような表現は、対等な国家間の国書とは到底言いがたい。
卑弥呼が親魏倭王に制せられ魏の友好国としても、日本書紀の編者すなわち大和朝廷は、卑弥呼・邪馬台国を正面きって認めることができなかった。

4.そこで考案されたのが架空の人物 「神功皇后」である。
天照大御神の実体は卑弥呼・台与であるが、これを実像とすれば、日本書紀はこの実像を神武天皇以前----すなわち紀元前660年以前の神代に送った。さらに虚像・神功皇后を三世紀邪馬台国時代に設定するとともに、神功紀に魏志および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけて、中国側歴史書と年代の整合性をとったのである。

5.日本書紀は神功皇后をあくまで皇后とし、天皇(女帝)とは扱っていない。
日本書紀は神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけようとした。しかし、神功を第15代天皇の女帝と設定すると、後世の歴史家が神功と卑弥呼・台与を完全な同一人物と断定する危険性が生じる。
その場合は、第15代神功天皇が中国魏王朝に臣従していたことになる。このよう な事態を避けるため、日本書紀の編者は二つの細工をした。
1)
日本書紀は神功紀に魏志と晋起居注を引用しながら、卑弥呼・台与・邪馬台国との表現を一切避けて、単に年代を合わせるにとどめた。そして神功皇后の人物像と治績は卑弥呼・台与とまったく異なるものとした。このようにしておけば、神功が卑弥呼・台与であるような無いような微妙になって、あいまいにしておける。
2)神功を天皇とはせず、あえて皇后にとどめ、後世の歴史家がまんいち神功=卑弥呼・台与と断定しても、日本の最高指導者・天皇は中国に臣従していない、との伏線を張った。

6.仲哀天皇に皇后がいたことは当然であろう。そして、この皇后を仮に 「神功皇后」 と 呼ぶとすれば、その意味では実在の人物である。
しかし日本書紀が語る神功皇后像の本質は、①:69年間の天皇空位のままの摂政、②:時の最高権力者でありながら、また応神を出産する間際でありながら、さらには夫の仲哀天皇の喪中でありながら、みずから200キロの海を越えて朝鮮出兵したこと、③:神功紀に魏志および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけていること、----以上の三点であって、これらの観点からすれば、神功皇后は架空の人物ということである。
すなわち神功皇后の実体は、仲哀天皇の皇后という実像の上から、卑弥呼・台与の虚像の半透明膜を覆いかぶせたものである。

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2009年12月11日 (金)

「同じ」と「違う」(12)母集団と標本

旧日債銀の粉飾決算事件について、判断が最高裁から高裁へ差し戻された。
粉飾決算事案は、あたかも「浜の真砂」のごとく絶えることがない。
当然のことながら、数が多くなってくると、統計的方法が有効になる。
須田一幸、山本達司、乙政正太編著『会計操作―その実態と識別法、株価への影響』ダイヤモンド社(0706)は、会計操作の調査に統計学を応用し、定量的な分析を試みている。
編著者らによれば、会計操作という事象に関して、多くのサンプルを用いて、普遍的な説明を試みた本邦初の著書である。

巻末に、Appendixとして統計の解説が載っている。
そこで先ず取り上げられているのが、「母集団と標本」である。
統計的な調査方法には、全数調査と標本調査がある。
全数調査は、悉皆調査ともいわれ、調査対象のすべてについてデータを入手する調査法である。
国勢調査などがこれに相当する。

標本調査は、調査対象から一部のサンプルを抜き出して、それについて統計分析を行う。
その結果に基づき、もとの調査対象の特徴を分析するわけである。
その調査対象が母集団であり、分析を行うサンプルが標本である。
全数調査は、母集団と標本が一致した調査方法ということもできる。
Photo マーケティングなどにおける調査は、標本調査が一般的である。
それは、以下のような理由による。
①母集団全体のデータを入手することが不可能である。
②母集団全体のデータを収集するための時間とコストが、調査目的に照らして合理的でない。

選挙結果の予測なども標本調査の事例といえよう。
直接民主主義においては、選挙結果は、棄権も含め、母集団(有権者の全体)の特性を表現したものである。
これに対し、マスメディア等によって流される選挙予測は、ある限られた標本をもとにしたものである。
私などは、この予測について、「標本が本当に母集団を代表しているのだろうか?」という疑問を抱くことがしばしばある。
つまり、標本の採取に偏りがないのかどうか、という疑問である

たとえば、母集団の平均値を知ろうとする調査の場合について考えてみよう。
全数調査では、「標本=母集団」であるから、標本平均と母集団の平均値は、かならず一致する。
一方、標本調査の場合には、標本の採り方によって平均値のデータが変動する。
その標本変動は、下図のように、一定の確率的な分布をしている。
Photo_2母集団から標本が無作為抽出されていれば、標本分布を使って母集団の性質を推論することの妥当性が、一定の確率で保証される。
つまり、標本調査は、確率概念によって説明されるものである。                      たとえば、「95%の確率で、母集団の平均値はある一定の範囲にある」などというような形での主張となる。

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2009年12月10日 (木)

「同じ」と「違う」(11)旧長銀と旧日債銀

旧日債銀(現あおぞら銀行)の窪田弘元会長、東郷重興元頭取ら3人が、粉飾決算の疑いで証券取引法違反の罪に問われた事件で、最高裁判所は12月7日、3人を有罪とした高裁の判決を破棄し、審理を差し戻した。
同様の構図で争われた旧長銀の場合には、最高裁は無罪判決を下している。
2008年7月19日 (土):旧長銀粉飾決算事件

しかし、旧長銀粉飾事件は、意外な内容を包蔵した事件だった。
第一に、破綻時の債務超過額約2兆6535億円という巨額の損失の責任が、結果として曖昧になってしまった。
先日、朝のTVで、鳩山内閣は2009年度2次補正予算に盛り込む総額をめぐって、国民新党が規模の拡大を求めていた案件が、1000億円の上積みで決着したことの解説で、「1000億円」の物理的な大きさを模型を作って示していた。
重さでいえば、1万円札で約10トンということである。
旧長銀の債務超過額は、その26倍以上だから、まあ普通の人の感覚を超えている。
10年間かけた司法的判断の結果が、無罪ということであった。

しかも、この無罪は、「粉飾はあったが、不法性はなかった」という、いささか分かりにくい判断の結果であった。
2009年1月26日 (月):長銀粉飾決算事件再考
2009年1月27日 (火):長銀粉飾決算事件再考②
この年の決算(平成10年3月期)においては、一般の上場企業に適用されていた「企業会計原則」と、旧大蔵省銀行局による「統一経理基準」が併存していたのであった。

そのような事情のもとに、旧長銀の経営陣には無罪判決が下された。
ところが、旧日債銀については、審理の差し戻しであって、高裁の有罪判決は棄却されたものの、無罪の結論が得られたわけではなかった。
日債銀も、旧基準ともいうべき「統一経理基準」によって決算を行った。
このことについては、最高裁は旧長銀の場合と同じように、違法性があるとはいえない、という判断である。

それでは、旧長銀の場合と、旧日債銀の場合とでは、何が異なるのであろうか?
旧長銀の場合、融資先は、第一ファイナンス、NED関係、日本リース関係等の関連ノンバンクが中心であった。
これらの貸出先は、一般貸出先と区分されていて、この身内の貸出先については、引当・償却処理を行わないことによって、損失を軽減する措置をとった。

この措置について、母体行は関連ノンバンクを積極的に支援するように求められており、追加支援策が予定されていれば、事業好転の見通しがないとはせず、回収不能とは評価できない、ということである。
これに対して、旧日債銀の融資先は、第一コーポレーションやどの独立系のノンバンクなどであり、「一般取引先」が主体であった。
つまり、母体行による支援が求められる貸出先ということではなく、回収可能性の判断は、合理的な再建計画や銀行による追加支援などを、旧基準に従って判断するとどうか、という問題である。
差し戻し審では、これらの観点から貸し出し経緯などを再検討することになる。

差し戻し審がどのような判断になるかを現時点で予測することは難しいが、高裁でも、既に貸し出しの経緯等について検討した結果でもあるので、旧経営陣にとって厳しい局面もあり得るのではなかろうか。
しかし、旧長銀の場合も、関連ノンバンクの先は、結局は「一般貸出先」であるので、間にクッションがあるかないかで判断が異なるというのも奇妙な感じがする。
長銀の方が、不良債権を巧妙に偽装したとも考えられるのではなかろうか。
しかし、今さら当時の事情を掘り返してみても、虚しい思いがするのは私だけではないだろう。

私は、以前の会社において、旧長銀の人とも、旧日債銀の人ともお付き合いをさせて頂いたことがある。
もちろん、ごく限られた人であるから、それを一般化できないとは思うが、敢えて言えば、長銀は優等的で、日債銀は野人的であった、という印象を持っている。
いずれにしろ、ある種の国策を担った銀行であり、時の流れを感じざるを得ない。

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