映画・テレビ

2010年8月12日 (木)

転換点としての1985年

JAL123便が御巣鷹山に墜落した事故から25年が経つ。
「25年=四半世紀」というのは、既に歴史的に振り返ることのできる年月である。
と同時に、未だ記憶が鮮明な同時代の出来事でもある。

ベストセラーになった横山秀夫さんの『クライマーズ・ハイ』という小説は、この事故を題材にしている。
概要は以下の通りである。(Wikipedia100801最終更新)

2003年1月、『別冊文藝春秋』に掲載され、8月に文藝春秋から単行本が刊行された。週刊文春ミステリーベストテン2003年第1位、2004年本屋大賞第2位受賞。著者が上毛新聞記者時代に遭遇した日本航空123便墜落事故を題材としており、群馬県の架空の地方新聞社を舞台に未曾有の大事故を取材する新聞記者の奮闘を描く。「クライマーズ・ハイ」とは、登山者の興奮状態が極限まで達し、恐怖感が麻痺してしまう状態のことである。

映画化され、2008年に公開された。
私も見たが、原田眞人監督のテンポのよい演出が、新聞社という舞台によくマッチしていた。
私は、JAL機の事故のことは、子供たちと信州へキャンプに行った帰り、家の近くで外食をしようかとクルマの中で話をしていたとき、ラジオで第一報を聞いた。

吉崎達彦『1985年』新潮新書(0508)は、この年に起きた7つの出来事を通じて、歴史を輪切りにしてみたものである。
7つの出来事として、以下が選ばれている。
1.政治-中曽根政治とプラザ合意
2.経済-いまだ眩しき「午後2時の太陽」
3.世界-レーガンとゴルバチョフの出会い
4.技術-つくば博とニューメディア
5.消費-「おいしい生活」が始まった
6.社会-『金妻』と『ひょうきん族』の時代
7.事件-3つのサプライズ

3つのサプライズの1つが、JAL機の墜落事故である。
1985年8月12日午後6時発のボーイング747SR機は、予定より12分遅れで離陸した。
乗員定数528名はほぼ満席状態だった。乗客509名、乗員15名、合わせて524名。
午後6時24分、機体に異常発生。6時56分墜落。
生存者は4名。乗客の中に、歌手の坂本九さんや阪神タイガース球団社長中埜肇さんなどの有名人がいた。
ちなみに、この年、阪神タイガースは20年ぶりに優勝した。
3つのサプライズのうちの1つで、もう1つは、現職の大臣だった河本敏夫氏が実質的なオーナーである三光汽船が、戦後最大(当時)の負債額で倒産したことである。

上記の7つの出来事は、もちろん独立の事象ということではない。
80年代後半は、バブル経済が日本中を席巻したが、プラザ合意はその引き金を引いたとされ、「おいしい生活」はその現象形態ということができよう。
「午後2時の太陽」は経済的に、レーガンとゴルバチョフの出会いは国際政治的に、つくば博とニューメディアは技術的に、『金妻』と『ひょうきん族』は気分的に、バブルを可能にした条件だったとみることができる。

言い添えれば、1985年は、マイクロソフトのOS:WINDOWSがデビューした年である。

Microsoft Windows(マイクロソフト ウィンドウズ)は、マイクロソフトのオペレーティング システムまたはオペレーティング環境で、1985年11月に初めてリリースされた。
Microsoft Windowsは、グラフィカルユーザインタフェース (GUI) を採用し、主にインテルのx86系のマイクロプロセッサ(CPU)を搭載したコンピュータで動作するオペレーティングシステムである。現在では一般向けのパーソナルコンピュータの大半で使用されている。また組み込みシステムやスマートフォンやサーバーの一部でも、Windows系のオペレーティングシステムが使用されている。

Wikipedia100809最終更新

JALは経営破綻するなど、1985年から時代は大きく変貌した。
1985年は、社会経済の大きな節目となる年であったのではなかろうか。

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2008年7月12日 (土)

風天の詩学…①「お遍路」という季語

国民栄誉賞という賞がある。
「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があった方に対して、その栄誉を讃えることを目的とする」として福田赳夫内閣の時代(1977年8月)に創設された。王貞治さんから高橋尚子さんまで、現時点で15人という、まことに希少性の高い賞である。

その15人の中の1人が、俳優の渥美清さんだ。俳優としては、長谷川一夫さんに次ぎ(その後はいない)、映画界では黒澤明さんに先行する。
もちろん、「寅さんシリーズ」の人気によるものだろう。
この国民栄誉賞という観点からいえば、誠に不本意なことではあるが、私は映画館で「寅さん」を観た記憶がない。非国民と言われかねないだろう。
しかし、実際に、「寅さん」が作られていた時代、映画館に足を運ぶような生活をしていなかった。

記録によれば、「寅さん」の第1作の公開が1969年8月で、遺作の第48作が1995年12月である。
1969年は社会人になった年だし、1995年はある組織の再構築に代表して取り組むことになった年だ。
もちろん、仕事一筋というわけでは全くなく、映画を観たのも皆無ではない。映画館に行くという生活習慣が無かっただけである。
だから、特に「寅さん」に冷たかったという訳ではないし、TVやビデオでは何作か観たことがある。

それにしても、私に限らず多くの人が、国民栄誉賞受賞者・田所康雄と聞いてもすぐにピンとは来ないだろう。
1996(平成8)年に、転移性肺がんで亡くなった渥美清さんの本名である。
何となく、渥美清が本名のような気がしているのは、「フーテンの寅さん」こと車寅次郎の名前が芸名のように錯覚するからだろう。それだけ人口に膾炙していることの証明ではなかろうか。
渥美清という役者と車寅次郎は、表裏一体、不即不離の関係にある。

その渥美清さんが、数多くの秀句・名句を残していたことは、森英介『風天―渥美清のうた』大空出版(0807)を手にするまで、まったく知らなかった。

お遍路が一列に行く虹の中  (風天)

風天は、もちろん、フーテンの寅からとった渥美さんの俳号である。
この句は、朝日新聞社発行の週刊誌「アエラ」の編集者たちを中心とする「アエラ句会」での席上での作だという。
飯田龍太、稲畑汀子、金子兜太、沢木欣一監修『カラー版・新日本大歳時記(春)』講談社(0002)に、「遍路」の例句として収載されている。

彼岸は春と秋2回あるが、ただ彼岸といえば春の季語だという。秋の彼岸の場合は、秋彼岸という。同様に、遍路といえば春の季語で、秋の場合には秋遍路というらしい。
想像してみれば、菜の花畑の黄色とお遍路さんの白装束はマッチしているような気もする。
現在刊行中の小学館版『週刊日本の歳時記』の4月15日付「春の雨」の号にも、「遍路」が載っている。
解説は、TVなどでお馴染みの宇多喜代子さんで、以下のように記されている。

弘法大師ゆかりの四国八十八か所の霊場札所を巡拝すること。また巡礼している人をさす。白装束に納経箱を下げ、金剛杖、数珠、鈴を持ち、草鞋をはき、「同行二人」と書いた笠をかぶって歩く。徳島の霊山寺を第一霊場として始まり、中世以降さかんになったという。秋に歩く遍路を「秋遍路」という。現代では、季節を問わず観光バスで巡る人たちも増えている。

道のべに阿波の遍路の墓あはれ  (高浜虚子)
夕遍路いまさらさらと米出しあふ  (中村草田男)

もともと四国には、海の向こうの浄土を目指す修行が、海岸で行なわれていた。
室戸岬、足摺岬、志度浦などがそういった場所で、現在の札所に重なる所も多い。

平安期以降、密教の広がりと共に、弘法大師信仰が広まる。大師は讃岐(香川県)の出身で、青年期に四国の山中や海岸で修行をしたとされる。
大師にあやかろうと、多くの僧が各地より大師ゆかりの遺跡や霊場を訪れて修行・参拝するようになり、四国遍路が形成されていったらしい。 

遍路は一部観光化しつつ、現在でも多くの人を引き付けている。
宗教者でもない現代人が、なぜ遍路を目指すのか?

私の知人にも、遍路の体験者がいる。
1人は重篤な病に罹患していることが分かった時期に、もう1人は職業上の問題等で人生の重大な転換期を意識した時期に、遍路に出た。
もちろん、それぞれの胸の中のことは分からないが、二人とも「来し方行く末」について思いを巡らしながらだったことは間違いないような気がする。
言い換えれば、自分と向き合う時間を持ちたいというのが、共通項ではなかったか。

一般に、遍路の道はさほど広くないだろう。おのずから一列になって歩くことになる。
風天の句は、実景の記憶なのか想像の産物なのか分からないが、鮮やかなイメージを喚起する作品だと思う。
私は、句の良し悪しが本質的に分からないのだけど、この句などは歳時記に収録されるのは当然のように感じる。

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2008年5月29日 (木)

『言うなかれ、君よ別れを』

一昨年に亡くなった久世光彦さんがプロデュースしたTVドラマに、『言うなかれ、君よ別れを』という作品がある。
脚本を向田邦子さんが書き、岸惠子さんが主演したもので、DVD化されている(『言うなかれ、君よ別れを』)。
あらすじは以下の通りである。

昭和20年1月、日を追うごとに激しくなる空襲に、東京・目黒に住む朝比奈家も不安の日々を送っていた。軍医だった父は戦死し、長女の真琴をはじめとする三姉妹は母親の絹江と女ばかりの四人暮らし。ある日、父親と同じ部隊で世話になったと話す男・壇吉が現れて絹江は歓迎するが、戦地のこととなると話をごまかし、肝心なことは何も言わない壇吉を真琴は信用できずにいた。しかし、貴重な白米を持ってきたり、絹江たちを守るのが自分の使命だと話している…。そんな壇吉がある日空き巣まがいのことをした。現場を目撃した真琴は出て行けと怒鳴るが、絹江は壇吉をかばい続ける。一体壇吉は何者なのか…。

久世さんは、このドラマの最後に、『海ゆかば』という軍歌を用いた。
『万葉集』の巻18に収められている大伴家持の「陸奥國より金を出せる詔書を賀く歌一首/短歌を併せたり」という詞書のある歌(4094)の一部に、昭和12(1937)年に信時潔が曲を付けた。

海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍 大君の 邊にこそ死なめ 顧みは せじと言立て

WIKIPEDIAによれば、以下のような使われ方をした。

これは当時の日本政府によって国民精神強調週間が制定された際、そのテーマ曲としてNHKが信時に嘱託して完成されたもので、出征兵士を送る歌として愛好された(やがて若い学徒までが出征するに及び、信時は苦しむこととなる)。1937年11月22日に国民歌謡で初放送。本来は国民の戦闘意欲を昂揚せしむるべく制定された曲であるが、この曲を大いに印象づけたのは、「玉砕のテーマ」として、則ち大東亜戦争(太平洋戦争)末期にラジオ放送の戦果発表(大本営発表)の際に、その内容が玉砕である場合、番組導入部のテーマ音楽として用いられたことである。

久世さんは、この歌が詞・曲共に美しいものだという、いわば確信犯としてこの曲を使ったのだろうが、上記のような事情が記憶されていることからすれば、かなりリスクのある選択だったとも言える。
久世さんの『みんな夢の中』文藝春秋(9711)という書によれば、放送終了後の反応は以下のようであった。

--そして八月十五日、青空を見上げる岸惠子さんの目の裏に、軍医の夫が死んだ紺青の海が浮かび、壇吉の吹いた『海ゆかば』が耳に蘇る。茫然と空を見ている母と三人の娘たちの姿を撮りながら、私は阿川弘之の『雲の墓標』のエピグラムを思い出していた。--《雲こそわが墓標/落暉よ碑銘をかざれ》
放送が終わった後、私たちのところへ驚くほどの数の手紙が届いた。一言で言えば、『海ゆかば』に泣いたというのである。
私は『海ゆかば』の彼方に日本の山河を見る。紅に染まって昏れてゆく、日本の海を見る。そして、朝靄の中に明けてゆく、美しい私たちの山河を護るために、死んでいった従兄たちの面影を見る。

ちなみに、「言うなかれ、君よ別れを」は、大木惇夫さんの『戦友別盃の歌』という詩の一節である。

言うなかれ 君よ別れを 世の常を また生き死にを
海原の はるけき果てに 今やはた 何をか言はむ
熱き血を 捧ぐる者の 大いなる 胸を叩けよ
満月を 盃に砕きて 暫しただ 酔いて勢へよ
わが往くは バタビアの街 君はよくバンドンを突け
この夕べ 相離るとも 輝やかし 南十字星を いつの夜か また共に見ん
言うなかれ 君よ別れを
見よ空と 水うつところ 黙々と 雲は行き雲は行けるを

森繁久弥さんの愛唱詩だということを読んだ記憶がある。
なお、『雲の墓標』は、1957年に松竹で映画化されている。キャスティングは、田村高広(吉野次郎)。田浦正巳(藤倉晶)、渡辺文夫(坂井哲夫)等であり、『風の盆恋歌』新潮社(0306)の作者の高橋治が、監督の堀内真直と共同で脚本を書いている。

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2007年12月 2日 (日)

『ベアテの贈りもの』

知人に誘われて、三島市民生涯学習センターで上映された、『ベアテの贈りもの』という映画を観に行った。
主催はみしま女性史サークルとNPO法人静岡県男女共同参画センター交流会議で、三島市の共催である。
「ベアテ」は人名で、フルネームはベアテ・シロタ・ゴードン。戦後、GHQの一員として来日し、日本国憲法草案委員会のただ1人の女性として、憲法草案の作成に携わった。22歳のうら若き娘だった。

私自身はフェミニストのつもりではあるが、どうもフェミニズム関係の言説は苦手で、女性史というのも敬して遠ざかっていた分野だ。
この映画も、誘われなければ行かなかっただろう。しかし、今まで遠ざかっていた世界を垣間見る機会を持てたことは幸いだった。
ベアテさんは、1923年にウィーンに生まれた。
父のレオ・シロタは、リストの再来ともいわれた超絶的な技巧を持ったピアニストである。1929年に山田耕筰に招かれて来日した。
6ヶ月の予定で、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)で教鞭を取ることにしたが、結局17年間を日本で過ごすことになった。
日本滞在が延びた理由は、ナチの台頭と母国での暴虐である。実際に、レオ・シロタの弟(ベアテの叔父)は、アウシュビッツに消えたらしい。

ベアテさん一家も、日本における軍国主義の高まりの中で、ユダヤ系という理由で随分イヤな思いをしたらしい。
そういうことも要因であろうが、ベアテさんは、1939(昭和14)年単身渡米し、サンフランシスコのミルズカレッジに入学した。
卒業後は、タイム誌で調査を担当していたが、東亜・太平洋戦争が終わると、両親との再会を目的に、GHQ民政局の一員となることを志願し、来日した。
ベアテさんは、6ヶ国語に堪能だったこともあって、日本国憲法草案員会にただ1人の女性として加わり、女性の視点から人権委員会で種々の項目を列挙した。

旧民法における女性の法的地位は低かった。
例えば、第788条では「妻は婚姻に因りて夫の家に入る」と規定されており、夫婦同姓制度がとられたが、その背景として、妻は夫の所有物であるとする考え方があった。
「戦後強くなったものは……」と、戦後史における女性の地位向上は目覚しいが、その原点に、ベアテさんという若い女性が居たことは余り知られていないのではなかろうか。
ベアテさんが、日本国憲法草案者の中に居たことは、日本の女性にとって大変な僥倖だったといえよう。

日本国憲法を審議する過程では、男女同権が日本の文化・伝統にそぐわないとして、わが国の国会議員からは強い反対を受けたらしい。
結果として、ベアテさんが提案した多くの条文が削除されてしまったらしいが、以下の2条には、ベアテさんの提案が生きた。

第14条 すべて国民は、法の下に平等であって、人権、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
第24条 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の効力により維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

映画の製作は、2002年の12月のクリスマスの夜に、元労働省少年青年局長の赤松良子さんと、元ソニー社員の落合良さんが出会ったことにより始まる。
その時のパーティのビンゴの景品に、落合さんが、憲法24条の文言を染めたスカーフを持ってきた。
落合さんとその仲間は、ベアテの映画を作る資金集めに、スカーフを作っていたのだ。
そのパーティに、岩波ホールの総支配人の高野悦子さんがいた。
「ベアテさんの映画を作りたい。でも先立つものが……」という中で、高野さんは、「映画は作ろうと思えばつくれますよ」と言ってのける。
高野さんと赤松さんは、同じ昭和4年生まれで気の合う仲間だった。
「監督は誰にする?」という問いかけに、高野さんは、藤原智子さんの名前を挙げた。

映画は、ベアテさんが、岩手県柴波郡柴波町の野村胡堂記念館を訪ねるシーンから始まる。野村胡堂の生誕地である。
野村胡堂は、銭形平次の作者として知られるが、「あらえびす」のペンネームで、音楽評論の世界でも活躍していた。
「あらえびす」は、胡に相当する言葉だという。
レコード収集家でもあった胡堂のコレクションの中に、レオ・シロタの弾くシュトラビンスキーの「ペトリューシカ」があったのだ。

レオ・シロタは、膨大なレパートリーを誇った。
その演奏様式は、きらきらと輝く音色と、素朴な、ほとんど潔癖とさえ言い得るほどの解釈が特徴的であった、と評価されている。
それを支えていたのは驚異的な超絶技巧である。シロタの技巧を聞いて、かのルービンシュタインが愕然としたというほどだったという。
ベアテさんは、赤ん坊の時から父の弾くシュトラビンスキーを聴いて育った。
映画の中で、3歳のとき、「好きな作曲家は?」と聞かれて「シュトラビンスキー」と答えたという逸話を紹介しながら、「他の作曲家の名前を知らなかったから」とユーモラスな解説をしている。
作品も制作過程も、女性パワー満開の映画である。

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