旅行・地域

2011年8月23日 (火)

白馬村の美術館と安曇野の自然

ジャンプ会場へは写真のような階段を上って行く。
2_7
まさに現場でのリハビリだ。

白馬村内にはいくつかの美術館が点在している。
先ずは白馬美術館に行ってみた。シャガールの版画を中心とした美術館である。
2_4
シャガールの解説映像を上映していて、作品の背景等を知ることができた。

次いで、白馬・安曇野の風景画を中心とする白馬三枝美術館を尋ねた。
2_5
分かりやすい風景画は、ホッとした気分になる。

もう一軒、アートカフェ「森と人と」というところへ寄ってみた。
「赤松純子テーブルウェア展」というのを開催中だった。
テーブルウェア自体にさしたる興味はないが、森の中の好立地だ。
2_6

白馬だけでなく、安曇野の方に行ってみようか、ということになった。
とはいえ、安曇野は広い。とりあえず、電車に乗って穂高まで行くことにした。
NHKの朝の連続ドラマ『おひさま』の舞台ということで脚光を浴びているらしいが、私は臼井吉見の『安曇野』を長い間読もうと思いながら読めずにいたままである。

白馬と穂高は目と鼻の先のような気がしていたが、大糸線で1時間以上かかる。
遠くの場所の2点間の距離の感覚というのはあてにならない。むかし、札幌と函館の間の距離について思い違いをしていて、道産子の友人に笑われたのを思い出す。
穂高の駅に着いてみると、これまた意外にこじんまりとしていて、駅周辺も閑散としている。
2

とりあえず、駅の近くの碌山美術館に行ってみた。
昔行ったことがあるが、記憶が薄れている。
ちょうど、『近代日本彫刻の究極-荻原守衛の絶作《女》の全貌』展という特別企画展をやっていた。

Photo_2腕を後ろ手に組み、身体を右に回しながら天空を仰ぎ見る《女》のポーズは、複雑に構成されたものでありながら、足下から額へと静謐に貫き流れる螺旋状の上昇感を漂わせています。西洋的な動感と東洋的な静感をあわせもつこの作品は、芸術と切実に向い合った荻原の到達した高みであるとともに、近代日本彫刻を象徴する傑作です。それと相まって、《女》のたたえる浪漫性、そして荻原が悩み苦しんでいた相馬良(黒光)への思慕という物語とが多くの人々の心を魅了し続けています。
昨年、当館では荻原没後100年を記念し、《女》の魅力について複眼的に考察する シンポジウムを開催いたしました。制作の動機や構想、造型、石膏原型調査報告な どのシンポジウムの成果をふまえた本企画で、《女》の造型をご鑑賞いただくのは もちろん、荻原個人の思いが込められたこの作品が普遍性を獲得するまで昇華されていることをご覧いただきながら、荻原が開いた地平の極限へと思いを馳せていただければ幸いです。

http://www.rokuzan.jp/

この作品が碌山の代表作だという認識はあったが、相馬黒光との関係が詳しく説明されていて、「なるほどなあ」と得心した。
新宿中村屋を夫・愛蔵と創業した黒光。
『女』の像は、黒光にそっくりだという。
亡命したインド独立運動の志士ボースやロシアの亡
命詩人エロシェンコらをかくまっていたことで知られる。
並みの起業家ではなかった。

夫の愛蔵も、何かの名言集で読んだ言葉が、一時期、私の座右の銘だった。

機会というものは、いつも初めは、一つの危機として来るか、あるいは一つの負担として現われた。

その頃、危機や負担は常態的にあった。それを機会にし得たのかどうか。

碌山美術館を出て、等々力家から道祖神、早春賦の歌碑の辺りを歩いた。
Photo_3

子供のころ、「春は名のみの……」という歌詞を、意味も分からず「春は菜の実の……」という感じで覚えていた。
2_2
碑のところにソーラーで作動するオルゴールがあり、鳴らしてみた。

自転車で周遊している人が多い。安曇野に自転車はよく似合うのだが、残念ながら自転車にもまだ乗れない。
しかし、徒歩だと、路傍の花の美しさをゆっくりと鑑賞できるというメリットもある。
安曇野も花の種類が豊かだ。
2_3

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月22日 (月)

白馬バスツアーで実践的リハビリ

某旅行社の企画する格安のバスツアーを見つけて、白馬までやってきた。
かつては自分でクルマを運転してきたのだが、免許失効中(リハビリの成果如何では更新の可能性もある)であるので、パッケージツアーが便利だ。

泊まりがけで出かけても大丈夫だろうという判断だ。
ツアーの発着地は東京。バスで途中昼食休憩等を挟んで5時間半ほどの行程である。
白馬の大自然の中を歩きまわり、実践的なリハビリにチャレンジしてみようという目論見だ。
妻と2人で出かけるのは何年ぶりのことだろう。

ホテルは「山のホテル」という名前だ。こじんまりとしたホテルだが、アットホームな雰囲気で好感できる。
Ws000000
http://www.hakuba-yamanohotel.com/index.html

オーナーは、明治大学相撲部OBとかで、私と同世代だ。貴ノ花と親交が篤いらしい。
白馬ロ-タリークラブの元会長というこの地方の名士の1人だ。
まだ現場に出ているが、徐々に息子に引き継がれつつあるようだ。
息子はスキーの選手だとか。JICAの活動で、ルーマニア(ハンガリーの血も混じっている)人の若奥さんと知り合ったというのが、日本語を流暢に話す若奥さんの話。
4歳になるお嬢ちゃんが、人懐こくて実に可愛い。私のケータイのストラップについている阿修羅像の写真をみつけて、「お地蔵さん?」などと訊いてくる。

目の前に長野オリンピックのジャンプ会場がある。
2
レストランから競技の様子が見える。

それにしても便利な世の中になったものだ。
身体障害者がリュックに入れて持ち運べるパソコンで、こうしてブログの更新ができるのだ。
昔の言葉でいえば、C&C(Computer & communication)、すなわちICTの発展恐るべしである。

ICTとは、情報通信関連する技術一般の総称である。従来ひんぱんに用いられてきた「IT」とほぼ同様の意味で用いられるもので、「IT」に替わる表現として日本でも定着しつつある。
ICT
Information and Communication Technology)は、多くの場合「情報通信技術」と和訳される。ITInformation Technology)の「
情報」に加えて「コミュニケーション」(共同)性が具体的に表現されている点に特徴がある。ICTとは、ネットワーク通信による情報・知識の共有が念頭に置かれた表現であるといえる。情報の共有化という点において、ICTITに比べても一層ユビキタス社会に合致した表現であるといえる。日本でも、2000年頃に盛んに提唱された「e-Japan構想」では「IT」が盛んに用いられたが、2005年を始点とする「u-Japan構想」ではもっぱら「ICT」が用いられている。総務省の「IT政策大綱」も、2005年までにはすでに「ICT政策大綱」に改称されている。
http://www.sophia-it.com/content/ICT

必要な資料はevernoteで用意しておけばいいので、その気になればパソコンだけで仕事だってできるだろう。
今は仕事というほどのことをしていないし、第一、白馬の自然環境の中ではその気にもならないが。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2011年8月 6日 (土)

『北帰行』ノスタルジー

昨日、BookOffに立ち寄ったら、小松健一『啄木・賢治-青春の北帰行』PHP研究所(8707)が、¥105均一のコーナーに並んでいた。
上質の装丁の写真・文集であるが、BookOffの値付けは、コンテンツには無関係に発行年等で行われているので、時折こうした掘り出し物に出会う。

北帰行!

何故だか分からないが、私たちは、北方に対するロマンチックな憧れの気持ちがあるようだ。特に青春期にはそうではないだろうか。
私の高校では、伝統的に国公立大学の中でも、東北大学や北海道大学への進学を希望する者が多かった。同級生にも結構いた。
異なる風土に対する想いかもしれない。

旧制旅順高校の寮歌(?)といわれる宇田博作詞作曲の『北帰行』は、私の高校時代からの愛唱歌の1つである。

窓は夜露にぬれて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人ひとり
涙流れてやまず
・・・・・・
いまは黙して行かん
何をまた語るべき
さらば祖国わがふるさとよ
あすは異郷の旅路

一般には小林旭の歌によって、人口に膾炙した。「渡り鳥シリーズ」の主題歌であるが、見た記憶がない。
Wikipedia101017最終更新によれば、次のような事情である。

昭和36年(1961年)、この歌は日本コロムビアのプロデューサや小林旭に見い出され、同社からレコード化されて大ヒットした。この際 作者捜しが行われ、当時TBS社員だった宇田の名乗り出、および旅順高校時代の友人が持っていた宇田直筆の歌詞から、作者が確定したという。
歌のヒットにより、小林が主演する映画 『渡り鳥シリーズ』(
日活)の昭和37年(1962年)正月封切り版『北帰行より 渡り鳥北へ帰る』の主題歌となった。小林のバージョンは現在まで最も流布したものであるが、原曲とは相当に変化した部分がある。もっとも作者の宇田自身は、小林の歌を晩年に至るまでいたく気に入っていたという。

日本コロムビアのプロデューサというのが、五木寛之の艶歌三部作・『艶歌・海峡物語』『旅の終りに (文春文庫―平成梁塵秘抄劇シリーズ)』」の主人公・艶歌の竜のモデルになった人物である。
⇒2011年3月22日 (火):津々浦々の復興に立ち向かう文明史的な構想力を

私は、加藤登紀子さんの『日本哀歌集(知床旅情)』がお気に入りの1つで、20代の頃LPを買い、レコードプレーヤーを使わなくなってCDを買いなおした。
昔、文藝賞という文学賞の受賞作品に『北帰行』というのがあった。
出版当時購入して読んで感心した記憶があるが、散逸してしまって書棚に見当たらない。
作者の名前は外岡秀俊。まだ東大在学中の学生だった。Amazonの商品説明には以下のようにある。

『一握の砂』をかかえて、青春は北へ旅立った。苦汁にみちた炭鉱での少年期、そして上京後の挫折を記憶に甦らせながら…。石川啄木の軌跡に現代の青春を重ね、透明な詩情と緊密な思索が交響する青春文学の不滅の名作。

されどわれらが日々― (文春文庫)』の柴田翔よりも文章力がある感じで、どんな作家になるのだろうと期待していたが、朝日新聞社に入社して記者になってしまった。
東京本社の編集局長になって役員も間近、そのうちに「天声人語」の執筆者にという声もあったらしいが、今年3月に早期退職したという。どんな事情があったのか詳らかではないが、朝日としてはエース級の逸材が流出したことは痛手だろう。
いまの朝日新聞社にはそれほど魅力がないということだろうか。

啄木・賢治-青春の北帰行』の冒頭の「旅立ち-若きいのちを求めて」に次のようにある。

若き日に「生きる」ということの意味を、その文学作品を通じて強烈に印象づけてくれた啄木と賢治。
短い生涯を終えるまで生き方のちがいはあっても、自然も生活もきびしい北の地に、生命のあらん限りを燃やし続けて、時代を駆けぬけていった二人。
その生きざま、その愛と苦しみと青春の原風景を、作品をはぐくみ、舞台となった北の風土を、自分の眼で確かめながら歩いてみたいという思いは、日、いちにちと私の心のなかで大きな位置を占めるようになっていった。
重いカメラバッグを肩に、啄木と賢治の文庫本をポケットにつめて、二人の足跡を追う旅へはじめて立ったのは、いまから八年前、北国に遅い春を告げる梅、桜、辛夷などが一斉に野山を彩りはじめる季節だった。
私は、啄木が亡くなった歳と同じ、二十六歳になっていた。

東北では、「遅い春を告げる梅、桜、辛夷などが一斉に野山を彩りはじめる季節」から、廻って夏の祭りの季節になっている。
仙台七夕、青森ねぶた、秋田竿灯さらには山形花笠の祭りがこの時期に集中する。
TVで、七夕の飾り付けの様子を中継していた。

今年は格別であろう。日本、いや世界各地から、復興への願いを込めた七夕飾りが寄せられているとのこと。
復興の道のりは遠いが、祭りが行われることが求心力として働く。
私の知り合いは、現地に行って僅かでも消費することに意味があるのではないか、と言って賢治ゆかりの花巻等を尋ねているらしい。

上記を書き写していて、啄木が亡くなった年齢と賢治が最愛の妹を亡くした年齢が同じであることに気づいた。
⇒2011年5月22日 (日):早稲田大学グリークラブによる宮沢賢治『永訣の朝』

| | コメント (0) | トラックバック (17)

2011年7月17日 (日)

代通寺の蓮の花と大井川の蓬莱橋

友人が「蕎麦を食いに行こう」と誘ってくれた。
前に行った「藪蕎麦宮本が旨い」と仲間が言うので、行きそびれたU子が、「どうしても一度行きたい」と切望していた願いを叶えてやろうということである。
⇒2011年5月15日 (日):静岡の美術館
友人が自分で運転してくれるので、ただ便乗していればいい。

蕎麦屋に行く前に、富士で蓮の花祭りをやっているので、それを見て行こうということになった。
代通寺という寺で、「第2回蓮祭り」というのをやっている。
Photo
蓮の花と言えば、池に浮かんでいる姿をイメージするが、鉢植えだった。
花自体は見事なものだが、ちょっと期待外れである。
増やすのに13年掛かったということであるし、池では管理が大変なことは分かる。
連休の好天ということもあって、駐車場も結構混んでいた。

蕎麦は期待に違わず旨かった。
U子も満足である。
蕎麦を食すと、蕎麦屋で聞いたバラの公園に行ってみようということになった。
島田市ばらの丘公園である。

途中に蓬莱橋という有名な橋があったのでちょっと立ち寄ることにした。
全長897mの世界一長い(ギネスブック公認)木の橋である。
Photo_3
木の構造物

さすがに長い。私の歩行を気遣ってか(?)、他の2人は3分の1くらいまでで引き返したが、山歩き等をしているU子は完全往復した。
Photo_4
いわゆる「流れ橋」である。
洪水時には流れるような構造になっている。
ハードな橋は流下してくるモノを堰き止めるので被害を増大させる場合がある。
復興構想会議の「復興への提言~悲惨のなかの希望~」で提唱されていた減災の具体的な形と言えよう。
橋の袂にある売店で「世界一長い木の橋」に因んだ「ナガイキノハシ=長生きの箸」という菜箸を売っていた。

蓬莱橋からちょっと行くと、ばらの丘公園がある。
昼下がりの焦げ付くような暑さだったので、屋外よりも温室の中の方が涼しいかと思ったが、やはり風の通らない温室は暑苦しかった。

Photo_5
約360種類8,700株のばらが植えられている。
市営だが、なかなか管理とサービスの両立は難しそうである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月 6日 (水)

箱根美術館と強羅公園

3日の日曜日に、天気も良かったので箱根に出かけた。
箱根強羅公園で「あじさい祭り」をやっているのと、隣接する箱根美術館にかねてから行きたいと思っていたからである。
強羅公園は、箱根登山鉄道が経営している公園である。
四季折々に花が楽しめるが、今はバラとアジサイの季節だった。Rimg03782
園内には、斎藤茂吉の歌碑がある。

おのづから寂しくもあるかゆふぐれて雲は大きく谿に沈みぬ

母方の祖父がアララギに所属していたと聞いたことがあるが、私が生まれた時には既に他界していて、直接の記憶はない。
結構勾配がきつく、リハビリには格好の公園である。

箱根美術館は、熱海のMOA美術館の姉妹館である。
共に、世界救世教の創始者・岡田茂吉のコレクションを母体としている。

岡田茂吉は、元来無神論者だったが、不幸が続き、人間の力の儚さを感じ、色々な宗教の講話を聴いた。
1920年大本教に入信。大本教のお筆先にある「世直し思想」(キリスト教でいう「最後の審判」、仏教でいう「末法の世」)に心を打たれたことと、歯痛に悩んでいたが詰めていた消毒薬を取ったら歯痛がよくなったなどの経験に基づく「薬が病気の本ではないか」という自分の考えと、大本の薬毒の教えが一致していたことが入信の理由であった。
Wikipedia110522最終更新

1944年箱根強羅に疎開。1952年箱根美術館を開館した。
縄文時代から現代までの幅広い美術品の収蔵と美しい庭園が有名である。
特に、大きな壺類の収集が豊富だった。
丹波や越前など、窯を尋ねたことのある地を懐かしく思い出した。
Photo_2
Rimg03822
苔が敷き詰められた庭は見事だった。
緑色の多様性を感じたが、秋の紅葉の季節もきっと素晴らしいだろう。
その季節に再訪したいと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月21日 (土)

花の都公園のクマガイソウ

気持ちのいい季節なので、リハビリを兼ねて山中湖に近接する花の都公園に出かけた。
富士五湖周遊道路が社会実験の対象になっているので、静岡県側から無料で行けるのが気楽であるが、もうすぐ終わりだろう。
Photo

上図の上側にはみ出たあたりの林の中に、クマガイソウの群生地がある。
シーズンのいま、ボランティアのガイドが「ネイチャーツアー」を案内してくれる。
Photo_2
ガイドがいない時は進入できない、一種のサンクチュアリーとなっている。
珍しい植物をこっそり失敬する不心得者がいるらしい。
身障者でも歩ける行路ということなので参加した。

見事に咲き誇る群落であった。
Photo_3
クマガイソウという名前は、平家物語で平敦盛を討ったことで知られる熊谷直実に由来するという。
膨らんだ形の唇弁を昔の武士が背中に背負った母衣に見立て、がっしりした方が直実、優しげな姿の方が敦盛(アツモリソウ)に見立てられた。
花色がそれぞれ白、赤っぽいため源氏の白旗、平氏の赤旗に見立てたための命名という説もある。
クマガイソウは環境省のレッドデータブックで絶滅危惧II類とされている。
乱獲によって自生を見ることはまれだという。

花の都公園は、文字通り季節ごとにさまざまな花を楽しませてくれる。
現在はチューリップが終わろうとしていた。
公園の一隅にひっそりと咲いていた山芍薬が清楚だった。
Photo_4

その他、レプリカではあるが実際に動いている大きな三連水車などもあり、小さな子供が楽しめる水空間もある。
堰で水路の形を変えられる遊びを夢中でやっている子供の姿が微笑ましかった。
Photo_5

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月15日 (日)

静岡の美術館

友人が静岡の美術館にドライブに誘ってくれた。
まだ運転は自分ではできないので、今日のように気持ち良く晴れた日にちょっとドライブできるのは有難い。
行先は美術館、とだけ聞いていて、どこへ、誰と、どういうルートで行くかは事前には聞いていない。プチ・ミステリーツアーといった感じだが、メンバーはだいたい予想通りである。

早めの昼食に、蕎麦はどうか、という。
もちろん、私をはじめ、だれも異論はない。
静岡を通り越して、東名の吉田インター近くの蕎麦屋だった。
Photo藪蕎麦宮本という店である。
格別変哲のある店構えではないが、出てきた蕎麦は絶品だった。
私は、「狂」がつくほどの蕎麦好きではないし、通でもない。
しかし、これはまさに名人芸の域に達していると言えよう。
発症以来基本的には酒断ちをしているが、同行者の1人が独りで飲むのはどうも……、というので盃に半分ほど冷酒を味わった。
それでも陶然とした気分になる。
やはり蕎麦と日本酒は相性がいいようである。

腹ごしらえが済んだのでUターンして静岡ICへ。
昨年5月に開館した静岡市美術館で、「ハンス・コパー展」を観た。
静岡駅の駅前の葵タワーという高層ビルの3Fが市立美術館で、ユニークな街中美術館である。
地方都市でも、静岡市クラスになると結構な賑わいである。
日頃の生活圏である三島や沼津とは明らかに違う。
県庁所在地、政令市等が大きな要因であろうが、静岡県東部にはない都市的な魅力があって、人通りもまったく違う。
「中央対地方」の構図が、フラクタルのように現れている。

静岡市美術館でのコパー展は2009年に兵庫県陶芸美術館でスタートを切った巡回の掉尾ということになる。
これほど本格的なコパーの展覧会は海外も含めてもう当分見ることができないだろうと言われる。
ハンス・コパーの名前は、ルーシー・リーとセットで語られることが多い。
ルーシー・リーとハンス・コパーの二人展が、ニューヨークのメトロポリタンミュージアムで初めての個人作家を取り上げた展覧会である。
「運命が二人の出会いをもたらした」と言われるほど、お互いに影響を与え合っている。
最後のコーナーにルーシー・リーの作品が展示されている。
Photo_2
時間に余裕があったので、同じ静岡市立の「芹沢銈介美術館」へ行こうかということになった。
弥生遺跡として有名な登呂遺跡の中にある。
登呂遺跡は、私が小学生の頃は大スターの遺跡だった。現在でも遺跡の学術的価値は変わらないのだろうと思うが、三内丸山遺跡、吉野ケ里遺跡、纏向遺跡などのスターが次々と登場して影が薄くなったようだ。

芹沢銈介は静岡市出身の染色家。柳宗悦、沖縄の紅型(びんがた)との出会いを契機に、型染めを中心にした染色の道を歩む。
まさにデザインの神髄ともいうべき「色と模様」の天才だ。
幸いにして、今日が最終日の「屏風」展を観ることができた。珍しく文化にどっぷり浸かった日だった。Photo_3

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2011年4月 5日 (火)

「北国の春」はいつ来るのだろうか?

子供たちがまだ小さい頃である。
大声を張り上げて、無心に歌っていたのを思い出す。

♪白樺 青空 南風
  こぶし咲くあの丘 北国の
  ああ 北国の春
  季節が都会ではわからないだろうと
  届いたおふくろの小さな包み
  あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな

1977年4月5日に発売された千昌夫のヒット曲「北国の春」である。
おそらく歌詞の意味など理解していなかったであろう。歌い易いメロディが子供たちを惹きつけたのに違いない。
作詞: いではく、作曲: 遠藤実、編曲: 京建輔。

「北国」がどこであるかは特定されていない。作詞のいではくは、故郷の信州南牧村をイメージしていたという。
しかし、歌手の千昌夫の印象が強いためか、多くの人が東北地方を連想するのではないか。
千昌夫は陸前高田市の出身。菅首相が視察に赴いた大変な被害を受けたところである。

歌詞の中にある「こぶし」。
早春に他の木々に先駆けて白い花を咲かせる。漢字では、辛夷と書き、別名を、田打桜という。
この花の開花時期から農作業のタイミングを判断したり、花の向きから豊作になるか否かを占ったりしたという。

産経抄を長いこと担当していた石井英夫氏は、大変なコブシ好きで、ほぼ毎年コラムで取り上げたことで知られる。
こぶしの花は清冽である上に、桜などに先駆けて咲くからよく目立つ。
私も「こぶし」の花が好きだ。
三好達治の有名な詩がある。

山なみ遠に春はきて
こぶしの花は天上に
雲はかなたにかへれども
かへるべしらに越ゆる路

抜けるような青空に、コブシの花の純白がコントラストをなしている情景が浮かぶ。
日本の原風景ともいうべき里山の春だろう。
しかし、なぜか孤独感が切実である。

この詩を効果的に使っているのが、立原正秋の『辻が花』だろう。
『立原正秋全集第七巻』の武田勝彦の「解題」には、次のようにある。

この短篇小説は大人向きのメルヘンである。三十三歳の夕子を一途に憧れる二十五歳の純粋な青年四郎の設定が浮世離れした世界を展開する。この雰囲気にふさわしく幻の花辻が花を夕子の帯に描き込んで、詩的イメージを盛り上げた工夫が、この作品の心象風景を一際あざやかにしている。

夕子と四郎は4日間の旅に出る。
辻が花が日本染織史から消えてしまったように、夕子は四郎の前から消えて再婚する覚悟だった。

四郎が夕子といっしょに長野県の飯田市を訪れたのは、春も深くなりかけた三月の末であった。
豊橋で飯田線に乗りかえ、佐久間ダムをすぎて天竜川沿いに遡り、飯田についたのは暮方だった。
鎌倉ではすでに辛夷の花が散り、紫木蓮や木瓜が開きかけていたが、木曽山脈と赤石山脈に細長く囲まれたここ伊那盆地では、いま辛夷の花が盛りだった。

そして四郎は終わった旅を思いかえす。

雲はかなたにかへれども
かへるべしらに越ゆる路

とうたった詩人がいたが、いまの彼にはその詩が痛いほど理解できた。

読んだのは大学の時だから、四郎よりもさらに若かった。夕子のような女性に惹かれる気持ちはよく理解できた。

年年歳歳花相似。
東北の被災地にも白い辛夷の花が咲き、春を告げるだろう。
春は再生の季節。辛夷の花はそのシンボルのように感じられる。
しかし、震災で失われた人が再び戻ってくることはもうない。
せめて、辛夷の花が農作業を促す合図になる時が来れば、と思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月22日 (火)

津々浦々の復興に立ち向かう文明史的な構想力を

東日本大震災による胸が塞がるような被害の様子が映し出されている。
特に被害の大きいのは、東北地方の太平洋岸の諸地域である。
昔聞いた演歌が頭を過ぎる。
「港町ブルース」。森進一が唄った1969年のヒット曲。
その2番の歌詞である。

♪流す涙で割る酒は
 だました男の味がする
 あなたの影をひきずりながら
 港 宮古 釜石 気仙沼

「宮古 釜石 気仙沼」は、いずれも今回の震災で壊滅的な被害を受けた場所である。
これらの市には、 「港町」と名の付く番地が実在するというから、典型的な港町といっていいだろう。

詞は深津武志。雑誌『平凡』による募集歌詞をなかにし礼さんが補作したものだという。
作曲:猪俣公章/編曲:森岡賢一郎。
演歌というよりも艶歌の字が相応しいかも知れない。

『艶歌』といえば、五木寛之さんの小説を思い出す。
五木さんの小説を最初に読んだ時の印象は鮮やかだった。
大学時代のあり余るほど時間があった頃である。下宿近くの古書店で二束三文で仕入れてきた中間雑誌に掲載されていた『GIブルース』だ。

その時点では、『さらばモスクワ愚連隊』で、小説現代新人賞を受賞していたことなど知らず、私にとっては無名の新人に過ぎなかった。一読して、快いテンポと巧みな構成によってただ者ではないことを感じさせられ、興奮したことを覚えている。
その直後に直木賞を受賞して、瞬く間に流行作家として名をなしていった。「時代と寝る」ことを標榜し、現在は寺院や仏教などについての著書が多いことは周知の通りである。

氏の膨大な作品群の中に、「艶歌三部作」と呼ばれるものがある。
『艶歌』『海峡物語』『帝国陸軍喇叭集』の連作で、後に前進座の創立70周年のために、『旅の終わりに』として再編して戯曲化された。
主人公は「艶歌の竜」こと高円寺竜三。
実在の辣腕の歌謡曲プロデューサー馬淵玄三がモデルといわれる。小林旭の歌を探していた馬淵は、新宿の歌声喫茶で『北帰行』を聴いて商品化したという。
小説の中の高円寺は、かつてはレコード会社の屋台骨を支えた存在であるが、敢えて時流に逆らい、居場所を失って会社を去る。

いかにもステレオタイプともいえるが、やがてグローバリズムに席巻される予感の中で、全共闘運動が吹き荒れる嵐の前の時、「艶歌=土着」に肩入れしたいという時代感情もあった。

「津々浦々」という言葉がある。

津:海岸・河岸の船舶が来着する所。船着き場。渡し場。港。
浦:水辺の平地。浜。岸。海や湖が陸地に入り込んだ所。入り江。

上記から「津々浦々」は、至るところの港や海岸、あちこちの港や海岸を指す。
転じて、国中遍く、とか全国の至るところ、という意味になる。
私が「津々浦々」という言葉で思い浮かべるのは、艶歌の舞台となるような鄙びた「港町」であり、漁村である。

いま、このような地域が、根こそぎの被害を受けている。
一刻も早い復興を念ずるが、おそらく元通りに回復するのを期するのは難しいだろう(脳卒中のリハビリと同じ-それにしてもAC・公共広告機構の脳卒中と子宮頸がん・乳がんキャンペーンは、罹患者の心情に無頓着でしつこ過ぎないかなぁ)。
つまり復旧とは別の視点が必要になると思われる。

この期に及んでも、菅首相は「大連立」等の政局的な視点で、谷垣自民党総裁に入閣を打診したという。
断られても、自民党の失点になるだろう、という読みがあったようだ。
浅慮も極まれり、というしかない。
どういう構想の下に事を進めるか、熟慮がない、というよりもその場の思いつきのようなものだから、いつも唐突感がある。

復興には、わが国の総力を挙げて取り組もう。
自然現象としての地震は避けることのできない国土の宿命である。
新しい文明を構想するようなプロジェクトになるだろう。
「グローバリズムVS土着」の対立を止揚して、全国の「津々浦々」 に防災プランを組み込んだ文明のモデルが求められる。

防災の「コンクリートから人へ」をどう具現化していくか?
格差是正の機会となし得るか?
GDPに替わるwelfareの尺度は作れるか?
まさに地域政策の正念場ではなかろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年2月20日 (日)

修善寺梅園と修禅寺

先週県立美術館を訪れたグループが誘ってくれ、修善寺の梅園を尋ねた。
まさにシーズンということもあって、結構な人出だ。
去年は当然のことながらまったくこういう機会はなかったので、去年の分までリカバーしている感じである。
修善寺は1200年という歴史をほこる温泉として知られるが、温泉街の西北方に梅林ともみじ林があって、それぞれ早春と秋の観光スポットになっている。
Photo

梅林は、総面積3haの園内に20種、1000本の紅梅、白梅が植えられている。
梅林内は茶室を中心に東と西に分かれ、樹齢100年を超える古木や若木のほか、この地をこよなく愛した高浜虚子や尾崎紅葉など文人墨客の文学碑や修善寺・新井旅館主人、安田靫彦画伯、中村吉右衛門の交友碑などが点在している。
Rimg03212_5 Rimg03162_5

花は今が見ごろで、団体客には千葉県匝瑳郡などの名前があった。
けっこう遠方からの観光ルートに織り込まれているようだ。

修善寺という地名は、修禅寺という寺名に由来する。
修禅寺は、弘法大師が開創したとされ、鎌倉幕府2代将軍源頼家が幽閉され悲況の死を遂げたことでも知られているという説明を、寺近くのコーヒーショップで聞いた。
寺の書院で、旅館の女将たちが所有している明治時代~平成までのお雛様を持ち寄り展示している。
数多くの雛壇に勢揃いして、なかなかの壮観だ。
Rimg03282

書院からは普段一般公開されていない庭園が特別公開され眺めることができる。
落差のある滝や錦鯉が泳ぐ池を設えた立派な庭だ。
Rimg03262

| | コメント (0) | トラックバック (0)