文化・芸術

2010年12月19日 (日)

江戸の仕掛け人-蔦屋重三郎

昨日、東京ミッドタウンのサントリー美術館で開催されていた「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」を見てきた。
発症後美術館は遠い存在だったし、雑踏の中を歩くのも心配だったが、思い切って出かけた。
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蔦屋に関しては写楽との関連で、かねてから関心を持っていた。
こつ然と現れて消えた謎の絵師・写楽。

およそ10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版した後、浮世絵の分野から姿を消した。本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている
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Photo_3ドイツの美術研究家ユリウス・クルトがレンブラント、ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家と激賞した写楽。
活動期間は10か月。作品総数は役者絵が134枚のほか、全部で160点ほど。
その正体は謎に包まれている。
写楽とは何者か? 多くの人が論考を著わしている。

その写楽作品のすべてを出版した男・蔦屋重三郎。
人の才能を見抜き、面倒見がいい。写楽だけでなく、今回の展覧会のタイトルからも分かるように、歌麿の美人画や山東京伝の洒落本を手掛け、曲亭馬琴や十返舎一九などの世話をした。

展示は以下のような構成で、蔦重の世界をバランスよく理解させるものとなっていた。
第1章 蔦重とは何者か? ― 江戸文化の名プロデューサ―
第2章 蔦重を生んだ<吉原> ― 江戸文化の発信地
第3章 美人画の革命児・歌麿 ― 美人大首絵の誕生
第4章 写楽“発見” ― 江戸歌舞伎の世界

膨大な作品が出展されていた。
会期も終わり間近(12月20日まで)ということもあるのだろうが、大変な賑わいぶりだった。
たまたまタイミングよく出席できた「フレンドリートーク」というスライド解説が参考になった。
特に、写楽のデビューに際し、豪華な黒雲母摺の役者大首絵を28枚同時に出すという鮮烈な演出をしたこと、出版物にしばしば蔦重本人の姿が登場し、店の広告塔的な役割を担っていたという話は、プロデューサー魂が感じられ、面白かった。

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2010年11月29日 (月)

左手のピアニスト

昨日の産経新聞に、舘野泉さんの紹介記事が載っていた。
舘野さんのことは、入院中に新聞記事で名前を知った。
改めて略歴を記すと以下の通りである。

昭和11年、東京生まれ。35年東京芸大を主席で卒業しデビュー。39年からフィンランドに住み、国立音楽院シベリウス・アカデミー教授を務めた。フィンランド女性と結婚。平成14年、脳出血で倒れ、右半身不随となったが、2年余の闘病生活を経て「左手のピアニスト」として本格的な演奏活動を開始し、音楽の新境地を開く。
日本と北欧5カ国をはじめ、世界各国で行ったコンサートは3500回を超え、リリースされたCDは130枚に及ぶ。著書に『左手のコンチェルト』『ピアニストの時間』など。
演奏生活50周年のツァーが、来年2月まで続く。

産経新聞&ttp://www.jump.co.jp/bs-i/chojin/archive/038.html
下の写真は、http://www.izumi-tateno.com/
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私たちは、プロの演奏家は、両手でピアノを弾く、という固定観念を持っている。
しかし、舘野さんは、左手だけでその境地を開いた。
それはもちろん平坦な道ではなかった。

脳出血で倒れた後、猛然とリハビリに励む。
しかし、右手の麻痺は思うように回復しない。
絶望と希望の繰り返しが1年半ほど続く。

左手のためのピアノ曲があることは、舘野さんはプロだから以前から知っていた。
しかし、右手が動けなくなって、左手で弾こうという気になったわけではない。
それどころか、音楽家仲間がラヴェルの『左手のための協奏曲』があるじゃないかと励ましたとき、「嫌なことを言う奴」と腹を立てるようなこともあったという。

そんな舘野さんの考えが変わったのは、長男のヴァイオリニストのヤンネさんが持ってきた楽譜だった。
わずか1,2秒の間に考えが180度変わった。
結局リハビリで格闘している間に、音楽への渇望が蓄積されていたということか。

舘野さんは、左手だけでどのように演奏するのか?

舘野は低音部の和音を弾くとすぐに左手を移動させ、高音部のメロディを弾きにかかる。楽譜の上下の段に書かれている音符を省略することなく弾いているのがわかる。
では、伴奏と旋律のそれぞれを舘野はどのように弾きこなしているのだろうか?
舘野は、五本の指を二つのグループに分けて右手と左手の役割を分担していたのである。親指と人さし指が主に右手が担当する旋律のパート。残りの指が主に左手が受け持つ和音のパート。
しかし、どうしても左手一本では出来ないことがある。それは、ひとつの音を長く伸ばしながら同時に次のメロディを弾く部分である。ピアノは音を伸ばす時、鍵盤を押え続けなければならない。両手なら左手で鍵盤をずっと押さえながら、右手でメロディを弾くことが出来る。片手でも手を開いて指が届く範囲なら不可能ではないだろうが・・・。片手では届かないパートをどうやって弾いているのか?
こんなとき舘野が手で押える代わりに活用しているのが、足で踏む『ペダル』である。このペダル捌きが、流れるような旋律を生み出している。

http://www.jump.co.jp/bs-i/chojin/archive/038.html

もともとの才能が類まれであることであったことは間違いない。
しかし、厳しいトレーニングにより達しえた境地であるともいえるだろう。
舘野さんが倒れた年齢は、私とほぼ同年齢である。
もちろん、舘野さんは仰ぎ見るような存在だけど、リハビリ中の人間にとってはまさに希望の星である。

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2010年9月28日 (火)

吉本隆明氏の読み(続)/江藤淳の『遺書』再読(8)

吉本隆明氏は、江藤淳の『遺書』に強い自己限定の意思を読み取る。
それは偶然とみられやすい契機を否定する意思である。
森鴎外が、友人に託した遺言書で、自分は石見の国の人、森林太郎として死にたいという自己限定と似ている。
軍医総監や博物館長等の職業、あるいは文学者としての評価は不要という自己限定である。

吉本氏は、森鴎外の遺言書を、生涯のうちの何らかの粉飾的なことを抹殺したいという自己限定による意志的な死後の自殺と理解する。
同じように、江藤淳の『遺書』も、「病苦」に自死の理由を集約する意志力を感じる。
死後に自殺するか(森鴎外)、自殺によって死をもたらすか(江藤淳)を別にすれば、二人は共通である。
江藤淳は、「病苦」に刀折れ矢尽きたが、なお自己限定の意志を捨てなかった。

吉本氏の江藤淳に対する追悼文(『文學界9909』号)の末尾を引用しよう。

江藤淳とわたしとは文芸批評のうえでも、時事的な評論のうえでも、よく似た問題意識をもってきたが、大抵はその論理の果ては対極的なところに行きついて、対立することが多かった。たぶん読者もまたそういう印象だったろう。

わたしもそのような読者の一人だった。
およそ対立的な立場にあると思われる二人が、共に相手を敬愛し、尊敬し合う風が感じられた。
最初は違和感を覚えたが、山田宗睦『危険な思想家―戦後民主主義を否定する人びと 』光文社(1965)に対して、吉本氏が厳しい批判を加えているのを読んで得心した記憶がある。
詳しいことは忘却の彼方であるが、当時の進歩的知識人の立場から、“保守派”の言論人を批判したものであった。

批判されていたのは、林房雄、三島由紀夫、石原慎太郎、竹山道雄氏らである。
江藤淳も批判された1人だった。
『週刊金曜日』の「風速計」という欄で、佐高信氏が次のように言っている。
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/data/fusokukei/data_fusokukei_kiji.php?no=630

“危険な思想家”佐藤優の面目躍如だろう。山田宗睦が『危険な思想家』(光文社)を書いた時、たしか、名指しされた江藤淳は、思想はもともと危険なものであり、“安全な思想家”とはどういう存在だと開き直った。この江藤の反論には、やはり、真実が含まれている。

もっとも、山田宗睦氏自身もその後転回している。

1965年『危険な思想家』で、石原慎太郎、三島由紀夫、福田恒存など「保守」と見られる知識人を批判し、ベストセラーとなった。しかしその後、自らその単純さを認め、「今から思えば「危険な思想家」など先が見えぬまま書いた恥ずかしい本でしてね」と述懐した(「朝日新聞」1989年10月27日夕刊)。その頃からは、『古事記』『日本書紀』の現代語訳や注釈に手を染めている。
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吉本氏の文章を続けよう。

なぜかわたしには対極にあるもの特有の信頼感と、優れた才能に対する驚嘆と、時々思いもかけぬラヂカルナな批評をやってのける江藤淳に対する親和感があった。江藤淳との最後の対談の日、今日もまた対立かなと思って出掛けたが、対談がはじまるとすぐに、江藤淳がもうかんかんがくがくはいいでしょうと陰の声で言っているのがわかった。わたしの方もすぐに感応して軌道を変えたと思う。かれはその折、雑談のなかでふと、僕が死んだら線香の一本も」あげてくださいと口に出した。同時代の空気を吸っていたとはいえ、わたしの方が年齢をくっているのに、変なことを言うものだなとおもって生返事をしたように記憶している。眼と足腰がままならず、線香をあげにゆくこともできなかった。この文章が一本の線香ほどに、江藤淳の自死を悼むことになっていたら幸いこれに過ぎることはない。

達人は達人を知るということであろうか。
吉本氏は、ラジカルな批評家として知られる。
ラジカルという言葉は、さまざまな分野でさまざまに用いられているが、語源は、ラテン語のradicis、radixという言葉であり、植物などの根(根っこ)という意味である。
吉本氏に冠せられる場合は、60年安保の際の共産主義者同盟(ブント)に同調する立場から、政治的な急進主義を指していたが、むしろより語源的な意味と解するべきであろう。
そして、その意味で江藤淳も十分にラジカルであったといえると思う。

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2009年10月23日 (金)

蕪村の詩意識と現実意識

吉本隆明「蕪村詩のイデオロギイ」(『抒情の論理』未来社(1959)所収)によれば、蕪村の芸術活動の盛期である明和から天明に至る時代は、「飢饉にあえば、餓死者がるいるいと横たわり、一揆は全国におこる」という地獄絵のような社会状勢だった。
それは、チョウニンブルジョワジイの興隆と、封建ヒエラルキイを挽回しようとする武士階級のあがきと、農民階級の窮乏化が進んだことによる危機の時代であり、当時の芸術意識は、この現実を受感して分裂するに至った、と吉本氏はいう。
そういう中で、蕪村は、この危機を上昇的に受感すること作品を創造していった。
蕪村の、「俳諧は俗語を用いて俗を離るるを尚ぶ」という離俗論は、地獄絵のような現実社会を上昇的に受感することによって成立した。

「上昇的に受感する」というのはいささか分かりにくいが、芸術作品に昇華させるということだろうか。
吉本氏は、蕪村詩には次のようなふたつの性格がある、という。
ひとつは、興隆していく町人ブルジョワジイの新鮮な、秩序破壊的な、写実的な感性の一面であり、もうひとつは、徂徠学派のイデオロギイに滲とうされ、封建支配に頭うちされて屈曲した心理主義的な衰弱の一面である。
子規が、写実主義的に捉え、朔太郎が浪漫主義的に捉えたのは、蕪村にこのような二面性が存在しているからである。

吉本氏は、詩の持っている基本的な宿命的な性格は、その詩人の詩意識は、かならずその詩人の現実意識を象徴せずにはおさまらないことである、という。
どういうことか?
詩意識が変革されるためには、かならず現実意識が変革されなければならない、と説明している。
西行や芭蕉は、ほとんど全生命を社会から疎外するような生活意識を確立することが必要だった。
それが、西行や芭蕉の詩が、超越的であることを願いながら、生活的な匂いが濃く、思想詩の骨格をもつに至らせた。

それに対し、蕪村は、町人階級のなかにあって、ある程度の安定した生活意識をつくりあげた。
それにより、離俗論を方法化し、、蕉風にかえれというスローガンを掲げることができ、実生活を主題に選びながら、超越的な世界を構成しえた。
蕪村詩が成立した明和から天明にかけての時期は、日本のブルジョワジイにとって、封建階級と農民階級のそれぞれの危機を傍観しながら、安定した支配力をもった時期であったことが、蕪村の詩の秘密である、と吉本氏はいう。

また、吉本氏は、俳諧が中世の連歌式から、しだいに独立した詩型として完結する経過は、町人ブルジョワジイの発生から階級的成立までの社会的な構造のうつりゆきに照応している、とする。
つまり、俳諧の形式、音数律五七五は、封建的な感性と、町人ブルジョワジイの感性が均衡するところで保たれた。
蕪村詩は、成熟した町人ブルジョワジイの支配感性を背景とすることにより、純粋詩の機能をもつに至り、同時に、非俳諧的な発想と、音数律の破壊、詩型の拡張の試みなどによって、封建的な支配感性を破壊する徴候をみせた。

吉本氏は、日本のコトバが漢語から離れて仮名を作り出していったとき、言葉は社会化され、風俗に同化し、日本的な社会秩序に照応する日本的な感性の秩序を反映しえたが、それによって日本のコトバは論理的な側面を中和され、うしなった、という。
蕪村が、長詩を試み、その中で唐詩の発想と語法を借りて、感覚の論理化を図った。
蕪村は、日本の長歌や今様や和歌の発想と根本的にちがっている。

この小論を書いた頃の吉本氏は、いささか詩の表現と、社会的な背景とを強引に結びつけようとし過ぎている感がある。
しかし、明治維新を推進した浪人や下層武士インテリゲンチャが、長歌や和歌などによって、復古的な政治イデオロギー詩を残したことと蕪村を対比させてみせたことは、さすがだいう気がする。

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2009年10月17日 (土)

天明3年、蕪村死す

浅間山が大噴火した天明3(1783)年も押し詰まった12月25日、与謝蕪村が往生を遂げた。
68歳だった。
蕪村の名前は、小学生でも知っている。

菜の花や月は東に日は西に

多くの人の口に膾炙してきた句だろう。
小西甚一『俳句の世界―発生から現代まで』講談社学術文庫(9501)の鑑賞をみてみよう。

題「三月二十三日即興」。即興とあるごとく、眼前の景をよんだもので、べつに難しい表現ではない。この発句に対する脇が、樗良の「山もと遠く鷺かすみゆく」なので、ひろびろとした大景であることは明らかだが、その平原にいちめん咲きわたる菜の花が、暮れてゆく微光に包まれたところは想像しても美しい限りではないか。いったい、黄色は、ぱっとした原色で、派手だけれど、深みに乏しい。女性がたがドレスにでもなさるのでしたら、自分の顔だちをよく考慮してからのほうが安全ですよ。しかし、暮光のなかに浮ぶ黄色は陰影もあり華やかさもあった、微妙な色彩感覚である。この句の焦点は、そこに在る。「月は東に日は西に」がちょっとした意外性をもち、しゃれた表現だ--など感心する人は、月竝派的な持ち主だと判断してよろしい。

小学生でも知っている有名句ではあるが、本当に理解しようとするとなかなか難しい。
高橋治『蕪村春秋』朝日新聞社(9809)の冒頭に、次のような文章がある。

のっけに乱暴なことをいうようだが、世の中には二種類の人間しかいない。蕪村に狂う人と、不幸にして蕪村を知らずに終わってしまう人とである。
明治三十年、正岡子規は蕪村を研究し論述する仕事を始め、かなり思いきったことをいった。それらの中に大意次のようなものがある。“蕪村は長い年月忘れられていたが、その句は芭蕉に肩を並べ時には芭蕉をしのいでいる”それが脚光を浴びずに終わったのは、句が低俗に堕していないのと、蕪村以後の俳人が無学だったせいである”子規も蕪村に出会って蕪村に狂った一人だったのだ。

蕪村に狂うという境地は残念ながらよくわからない。
つまり、私は、不幸にして蕪村を知らずに終わってしまう人の1人ということになるのだろう。
子規は、ほとんど最上級の蕪村評価であるが、小西・上掲書は、もう少し醒めた評価を下している。
小西氏は、江戸の俳壇が芭蕉によって最盛期を迎えたあと、享保期には俳壇が衰退ないし堕落した、としている。
この現象を、唐代の詩が、杜甫によって完成境を示した後、中唐期には杜甫を越えられなかったこととそっくりだとしている。
しかし、中唐期詩壇は、享保俳壇ほど堕落しなかったし、晩唐期には、繊細な美しさに充ちた詩が作られたという。
この晩唐期に似て、天明の頃、俳壇は中興したとする。
小西氏は、蕪村を次のように評価する。

天明諸家のうちで、いちばん偉いのは、もちろん輿謝蕪村である。もっとも、これは、われわれの時代からいってのことで、子規以前は、それほど偉い俳人だと認められたのはない。蕪村の生存当時では、むしろ大島蓼太などの方が、世間的にはずっと有名であった。しかし、子規がたいへん蕪村を持ちあげて、芭蕉以上だとまで相場が上昇させられ、近代俳句、とくに「ホトトギス」系統の人たちにとっては、その源流であるかのごとく尊敬されもした。これらの評価は、どれも絶対的に正しいわけではない。蕪村が蓼太とは比較になりにくいほと偉い作家であることは、動かせないけれど、芭蕉以上に偉いと格づけすることも行き過ぎである。結局、蕪村は、天明俳壇の最高作家だが、芭蕉にくらべてはいくらか見劣りがするといった程度に落ちつくのではないか。

まあ、俳句そのものの評価に客観的な基準があるわけではなく、私が素晴らしいと思う句も、ある人からすれば酷評の対象である。
だから、偉いとか格が上だとか、見劣りがする、などということも、全く主観の問題に過ぎないと思う。
もちろん、狂うという現象も、主観の産物であろう。

 

 

 

 

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2009年7月20日 (月)

カタリの諸相

刑法では、詐欺について次のように規定している。

第246条 人を欺いて財物を交付させた者は、10年以下の懲役に処する。
2 前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。

つまり、人を欺くことが要件である。
「欺く」という言葉を辞書で確認してみよう。

あざむく  【欺く】
(動カ五[四])
補足説明「浅向く」の転か
(1)相手を信頼させておいてだます。
  ・「人を―・く」
  ・「人目を―・く」
(2)(「…をあざむく」の形で)…とまちがえさせる。
  ・「花を―・く美人」
  ・「昼を―・くばかりの明るさ」
(3)あたりかまわず口にする。
  ・「月にあざけり、風に―・くことたえず/後拾遺(序)」
(4)相手を恐れず、接する。
  ・「大敵を見ては―・き、小敵を見ては侮らざる/太平記 16」
(5)ないがしろにする。いいかげんに扱う。
  ・「是を見ん人拙き語を―・かずして法義を悟り/沙石(序)」
  ・
可能動詞 あざむける
  ・
[慣用] 昼を―・雪を―

いずれも相手のある行為のようである。
似たような言葉として、「騙る」がある。

かたる 【騙る】
(動ラ五[四])
  ・補足説明「語る」と同源
(1)だまして人の金品を取る。
  ・「金を―・る」
(2)身分・地位・名前などを偽る。詐称する。 

三島市にある三嶋大社で、「古典講座」が開催されている。
月に1度の開講で、2回のお休みがあるので、年間10回の講座である。
国学院大学教授の菊地義裕さんが講師で、「万葉集」の解説が行われている。
私も、三嶋大社に立ち寄った時に、このような講座があることを知り、3年前から受講している。
千葉県や愛知県からも受講している人がいるらしい。
菊地先生の解説はまさに名調子という感じで、飽きさせない。

7月12日の講座で、「カタリの諸相」という言葉が出てきた。
テキストとして櫻井満監修『万葉集を知る事典 』東京堂出版(4版:0407)が使われている。

カタリとは、カタ(型)やコト(事)とかかわる語で、主に神話や伝説など、共同体が忘れてはならない事柄やひとまとまりの発話行為をいう。他人をだましたり、詐欺をする行為をあらわす「騙り」ともかかわって、聞き手の魂にカタリ技法によってはたらきかけ、同一の感情を抱かせる機能をもっている。
カタリという行為の起源は、神々や精霊・死霊などの語り手への憑依(神がかり)にあったとみられている。語り手は、そうした特別な能力や資格を持つ者であり、音楽や舞をともなって由緒ある語りを行った。

上記の辞書で、「騙る」と「語る」が同源、という説明の意味は、以上の通りである。
菊地先生の講義では、ウタ((人の感情を)ウツと同源)は韻文に、カタリは散文に発展していった。
詐欺行為において、「カタリによって、聞き手に同一の感情を抱かせる機能」や「音楽や舞」などの演出が重要なことが納得できる気がする。

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2009年7月 7日 (火)

水俣病と水上勉『海の牙』

水俣病をテーマにした小説に、水上勉『海の牙』双葉文庫(9511)がある。
昭和34(1959)年12月の「別冊文藝春秋」に発表した「不知火海沿岸」をベースに大幅に加筆し、昭和35(1960)年に、河出書房新社から刊行された。
松本清張によって開拓された社会派ミステリーに分類される作品である。

昭和34年はまだ水俣病という病名が確立していたわけではない。
「水俣奇病」と呼ばれていたし、チッソ(当時の社名は新日本窒素肥料)は、工場廃液が原因ではないと頑なに主張していた。
原因については、学者の間でも、風土病説、火薬爆発説などを唱える人もいた。
そういう状況の中で、水上勉は、病気の原因を工場廃液であると断定する形で小説を構成している。

水上勉自身の「「海の牙」について」という文章によれば、水上勉が小説化しようと思い立ったのは、NHKのTV番組がきっかけだった。
プロの作家になりかけていた水上は、当時はまだ原稿注文もない境遇だった。
TVでアナウンサーが、水俣市で発生している奇病を紹介しながら、その原因はいまだにわからず、工場廃液の水銀の影響だという説も、確定的とはいえないと説明している。
その時点で、既に49人の死者が出ていたというのに、原因は不明とされ、患者たちは工場廃液説に基づいて日夜陳情を続けているが、工場は関知しないことだとつっぱねて見舞金すら出していない。
政府も、手をこまねいて眺めているという状態だった。

水上勉は、これは白昼堂々と、大衆の面前で演ぜられている殺人事件ではないのか、と考えた。
そして、1ヵ月くらいの宿泊賃をもって現地に出かけた。
もちろん、取材費を提供してくれる出版社があるような作家になる前のことである。
そして、現地で約15日間、関係者にあって取材を続けた。
その結果、工場廃液説を確信したのだった。

帰京後直ちに執筆に着手し、工場都市の財政を支える唯一の大工場の排水に混じっている水銀が、魚介類を経て人間に摂取され、脳障害を起こすという南九州大学の説を冒頭に紹介している。
そして、それを否定する工場側と、補償を求める漁民との抗争を、軸にして小説を構成した。
その筆力によって、「水俣奇病」の恐ろしさが、リアリティをもって迫ってくる。

水上勉は、この『海の牙』で、昭和36(1961)年、第14回日本探偵作家クラブ賞を受賞した。
また、同年上半期第45回直木賞を『雁の寺』で受賞し、いちやく流行作家の仲間入りを果たした。
1日平均30枚、月産1200枚を書いたと伝えられている。

水上勉と無言館館主窪島誠一郎氏との血脈関係の不思議さについて書いたことがある。
07年12月8日:血脈…②水上勉-窪島誠一郎
そして、太宰治と太田治子の間にも、同じような関係があった。
09年6月26日:太宰治と三島・沼津(4)

そういえば、太宰治と水上勉には、少なからぬ類似点があるのではないだろうか。
第一に、いま風にいえば、美系男子であった。
第二に、無頼の徒であった、もしくは無頼の徒を気取っていた。
第三に、第一と第二の結果として、大変女性にもてた(らしい)。
ちなみに、水上勉は、大正8(1919)年3月8日の生まれである。
太宰とちょうど10歳違ったことになる。

太宰の没した昭和23(1948)年の時点では、水上勉は、処女作『フライパンの歌』を上梓したばかりで、無名というに近い存在だった。
『海の牙』(双葉文庫版)の山村正夫氏の「解説」に、水上勉自身が、『フライパンの歌』は「僕は愛着のある作品ではないんです。……それまで僕は文学青年でしたけど、そういう生活が嫌になったんです。」と語っていることが引用されている。
つまり、太宰が入水した頃、水上勉は小説を捨てる生活を始めていたわけで、実人生において、太宰治と水上勉が交差したという可能性はほとんどないだろう。

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2009年6月28日 (日)

重層する感動と影の立役者

バン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行さんから受けた感動については既に記した。
09年6月11日の項:自動車会社の社会的貢献
辻井さんの快挙を伝えるTVで、辻井さんを指導している横山幸雄さんという人がいることを知った。
しかし、横山さんが、どういう人なのか、多くの人にとっては未知の人なのではないだろうか。

産経新聞(090628)に、横山さんのプロフィールが、やや詳しく紹介されていた。
横山さんは、もちろん「単なるピアノの先生」なのではない。
1990年にショパン国際ピアノコンクールで3位に入賞し、世界を舞台に活躍するピアニストである。
辻井さんが中学生のときに、東京都内の喫茶店で、辻井さんにレッスンをつけたのが初めての出会いだった。
そのときの辻井さんは、「高い能力はあったが、音楽家としての才能が突出しているという感じではなかった」という。

なんと、コンクールで通用すると感じたのは昨年になってから、らしい。
コンクール出場を決めた今年の4月からは、それまで週1回だったレッスンを、週2回に増やした。
それからの辻井さんは、どんどん上達した。
渡米の1週間前には、レッスンはほぼ毎日になった。

ファイナルを控えた6月上旬には、自分のリサイタルを間近に控えながら、24時間足らずの滞在時間の渡米を決行し、深夜と朝に十数時間のレッスンを行った。
TVで辻井さんが「炎のレッスン」と表現していたレッスンである。
電話では細かいことが言えないので、現地でレッスンする必要があったということである。
辻井さんの才能はもちろん素晴らしいものであるが、この師があってこその辻井さんだったのだろう。

辻井さんは点字楽譜を使わずに、右手だけの音、左手だけの音などを録音した“耳で聞く楽譜”を使っており、その楽譜は、横山さんと生徒2、3人のチームワークで制作する。
辻井さんの能力を信じ、惚れ込んだチームなのだろう。
辻井さんの快挙の陰に、こういう人たちのサポートがあったということは、また新たな感動をもたらす。

横山さんのオフィシャル・サイトを覗いてみた。
http://yokoyamayukio.net/index2.htm
1990年のショパン国際ピアノコンクールでは、1位は該当者なしだったらしい。

今までにウィーン室内管弦楽団、ベルリン交響楽団、サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団、ブダペスト祝祭管弦楽団、エーテボリ交響楽団を含む国内外のオーケストラと共演し、絶賛を博す。プラハの春音楽祭、ヤナーチェックの5月の音楽祭、クフモ室内楽音楽祭、トゥレーヌ音楽祭等の海外の音楽祭への出演、またニューヨーク/カーネギーのリサイタルホール・デビューをも果たしている。01年にはサンクトペテルブルグにて同フィルハーモニー交響楽団との共演、またリサイタルデビューを果たし、絶大な喝采を浴びる。 最近では作曲も手がけている。

また、執筆活動も続けており、「ワインの練習(エチュード)」他エッセイや自ら監修した楽譜なども発売されている。ワイン好きが高じて、日本ソムリエ協会認定のワイン・エキスパートのライセンス保持者でもある。

決して影の人ではない。
実に多彩な才能を持った人であることが伝わってくる。
こういう人が、辻井さんの才能を導き出した。
辻井さんの今後の活躍を期待すると共に、横山さんのさらなる活躍を祈念したい。

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2009年6月27日 (土)

津軽と南部

太宰の代表作として何を挙げるか?
もちろん、人によりそれぞれであろう。
『斜陽』とする人もいるだろうし、『人間失格』だという人もいるだろう。
亀井勝一郎は、『津軽 (新潮文庫)』(5108)の「解説」で、彼が生前書いた8つの長編小説の中で、『斜陽』『人間失格』が最も有名だが、彼の本質を一番よくあらわしているのは『津軽』である、と書いている。
そして、私(亀井)は全作品の中から何か一篇だけ選べと云われるなら、この作品を挙げたい、としている。

太宰の本質とはどういうことか?
亀井は、旧家に生まれたものの宿命、という言葉を使っている。
旧家には、格式の高い潔癖な倫理性と、同時にそれに反撥するような淫蕩の血と、矛盾した2つのものが摩擦しあいながら流れている、というのである。
旧家に縁のない私は、そういうものか、と思うしかないが、その矛盾が、異形のものを形成する根源なのだ、と亀井は説く。
まあ、矛盾したものの存在が新しいものを生み出すというのは、そういうものだろうと思う。

『津軽』は、昭和19年の作品で、このとき太宰は36歳だった。
2亀井によれば、この作品を書くための旅行は、彼の生涯の中でも最も思い出多い旅であった。
太宰は、健康にめぐまれ、心のバランスがうまくとれていた。
それが、この作品の筆致を平明なものしている。
(図は、上掲書口絵から)

ところで、津軽とは、どこからどこまでを言うのだろうか?
私はほとんど青森県に縁がなかったが、たまたま十和田市に住む人と縁ができ、その人のお宅を訪れたときのことである。
十和田の人に、「ここは津軽に入るでしょうか?」と聞いた。
すると、とんでもない、という口調で、「ここは南部だ」と否定されてしまった。
私は、「南部」といえば、「南部鉄器」や「南部牛追歌」などが頭に浮かび、岩手県を中心としたイメージがある。

Photoしかし、南部地方とは、江戸時代に南部氏の所領だった地域で、陸奥国に位置し、現在の青森県東部と岩手県中部・北部、秋田県の一部にまたがる地域だということである。
つまり、青森県の東部は、「南部」に属するということだった。
(地図は、yahoo地図から)

とかく隣接している地域はもめ事が起きやすいが、津軽と南部も仲が良くないらしい。
津軽と南部の関係について、次のような解説があった。

もともと津軽は南部家の領地でしたが南部家の家臣である大浦為信が謀反を起こし、津軽領を奪って独立したという歴史があります(その後、大浦為信は、津軽為信と名前を変えています)。
津軽為信は、その後小田原攻めの最中の豊臣秀吉と通じ、先手を打ってその領土を安堵してもらうことに成功します。よって、南部家から見れば謀反人の津軽為信ですが、これを討つことは豊臣秀吉に弓を引くことと見なされ、結局、南部家は為信による津軽支配を認めるしかなくなりました。その後為信は関ヶ原では東軍(徳川方)に鞍替えするなど巧みな処世術で生き残り、幕末まで津軽藩を残す礎となります。
この時の怨恨を、現在も引きずっているのではないでしょうか。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1476172.html

上記の解説が的確なものかどうか判断材料を持たないが、現在も津軽と南部は余り仲がよくないのだということは、十和田の人の反応からも首肯できそうである。
400年以上の歴史を持つ怨恨だとすれば、一朝一夕には解消しないだろうという気がする。

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2009年6月26日 (金)

太宰治と三島・沼津(4)

「作家太宰治は沼津で生まれた」というと、そんなことはないと思うだろう。
太宰といえば津軽の生まれだ、というのが条件反射である。
しかし、今年第4回を迎える沼津文学祭は、「生誕百年 作家『太宰治』は沼津で生まれた~処女作「思ひ出」と『斜陽』執筆の地~」と題されている。
つまり、現在の沼津市志下で、作家としての出発点となった処女作「思ひ出」を執筆したのだ。
http://www.city.numazu.shizuoka.jp/sisei/kouhou/interview/200905/200905-2.htm

Photo_2太宰と沼津の係わりはこれだけではなく、三津の安田屋旅館に滞在し、ここで代表作「斜陽」の1、2章を執筆した。
平成元年から安田屋旅館では太宰を偲んで『沼津桜桃忌』が行われており、平成13年には「斜陽」文学碑が建立された。
写真の2Fの部屋が太宰ゆかりの部屋で、入口脇の白い石が、「斜陽」文学碑である。

太宰が『斜陽』を執筆した部屋の様子である。
Photo_3   
http://www.geocities.jp/seppa06/meisaku07/0829_mitohama_.htm

太宰は、戦後の昭和22年2月、下曽我に疎開していた太田静子を訪ねる。
そしてこのとき、静子の日記を預かるが、その日記を携えて、沼津市三津の安田屋旅館に向かった。
田中英光(太宰に師事。『オリンポスの果実』などの作品で知られる)の疎開宅が、安田屋の前だったためである。

静子は、太宰と下曽我で再会したとき太宰の子供を身籠る。
後の作家・太田治子である。
太宰は、静子の日記をもとに、『斜陽』の執筆を開始する。
当時太宰には妻子がいたが、生まれてきた娘に、「治」の一字を与えて認知したのだった。

しかし、翌年、太宰は玉川上水に入水する。
静子の日記は、太宰の死後、井伏鱒二と伊馬春部によって静子の許に返される。
Photo_3井伏と伊馬は、「これはすぐに公表せずに、十年もしたら公表すればいい」と助言したが、静子は幼子をかかえて生活に困り、昭和23年10月に、『斜陽日記』を出版する。
http://www.tokyo-kurenaidan.com/dazai-oota-shizuko1.htm

それにしても、太田治子には太宰治の記憶はまったくないだろうが、治のDNAは治子に受け継がれているわけで、ここにも「血脈」ということの実例をみる思いがする。
07年12月7日の項:血脈…①江国滋-香織

07年12月8日の項:血脈…②水上勉-窪島誠一郎

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