学問・資格

2009年8月 1日 (土)

富士山学の可能性

富士山に降った雨や雪が、山麓の水とどのような関係にあるかを追求するのが、いわば「富士山の水文学」ということになる。
それは、もちろん自然科学としての一分野である。
土隆一『富士山の地下水・湧水』では、富士山の地下水、湧水の特徴を以下のように総括している。
1)水量が豊富なこと
2)水温は12~15℃と平均気温よりやや低いほぼ一定な低温であること
3)よく濾過されあためか鉱物資源がほどよく溶け込んで美味しいこと

そして、長年月の間溶岩層間に蓄えられ、高さによる水圧で湧き出す被圧地下水であることから、何年間もの降水量の平均的な水圧で押し出されることになるので、少雨が2~3年続いても減少しないし、大雨の年が続いてもそれほど変化しない。
つまり、水害などは滅多に起こらない。

小浜池や柿田川の湧水量の減少は、黄瀬川・大場川流域水循環システム対策協議会の報告書を見ても、流域の地下水利量と湧水量を加えたものは毎年ほぼ一定であること、年末・年始に湧水量が一時的に上昇することなどから、地下水利用量の増加によることは明らかである、としている。
同じ溶岩流の中であれば、上流側と下流側は互いに水圧でつながっているので、どちらで取水しても圧力が減る点では同じである。
湧水・地下水の利用に際しては、こういう事情を勘案して、より一層上下流で協力し合うことが必要である、というのが土論文の〆の言葉である。

このように、富士山の地下水・湧水は、流域の人間にとっての大きな恵みである。
しかし、もちろん富士山と人間との係わりは、水に限られるものではない。
山梨県に都留市という地方都市がある。
人口が約3万5千人ほどの、標高約500mの山あいの小都市である。
この小都市にある都留文科大学は、1953(昭和28)年に設立された教員養成大学として知られる。
文学部だけの単科大学であるが、市の人口の約10%近くの約3200人の学生が在籍している。

この都留文科大学で、昨年から「富士山学」という講義が行われている。
講座開設を伝える新聞記事である。

富士山の自然、文化を講義だけでなく、ごみ拾い体験などを通じて総合的に学ぶ履修科目を山梨県都留市の市立都留文科大が4月から導入する。
世界文化遺産登録を目指す富士山の自然再生に貢献できる人材育成を目指すと同時に、「富士山学」として定着させるのが狙いだ。
同大は文学部のみの単科大学で、富士山学は4月9日に始まる社会学科新2年生向けの専門科目「環境教育・教育創造」として導入される。
専任教授には、富士山の環境保全活動に23年間携わってきたNPO法人「富士山エコネット」(山梨県富士河口湖町)の渡辺豊博事務局長(57)を迎える。動植物や地質などの自然や温暖化に伴う変化などの環境問題だけでなく、富士山信仰など歴史文化を学ぶ90分講義を15回行う。また、ごみ拾い体験のエコツアーのほか、森づくりなどの実践者から環境再生手法を聞き、富士山再生の手立てを考える。
渡辺事務局長は「日本の環境問題が集約されている富士山での実践活動を通して、『富士山学』という新しい学問を確立させたい」と意欲を見せている。 (2008年3月31日  読売新聞)

上記記事中の渡辺豊博氏は、地球環境大賞を受賞した三島市のNPO法人の事務局長も務めている。
09年4月24日:水の都・三島と地球環境大賞
また、エジプト学で知られる吉村作治さんが学長を務めるサイバー大学でも、「自然環境を守る」という講義を開講している。
サイバー大学での学生へのメッセージの一部を引用する。

多様な知識の習得は、社会や環境の複雑性と重層性、困難性を学ぶことができます。新たな情報の集積は、社会を広角的・包括的に考え、改革していくための基盤になるものです。今まで何気なく見ていた、いろいろな物事の根底に隠されている真実や不思議、因果関係などが、今までよりはすっきりと理解できるようになります。私からの情報提供の原資は、現場から発信されたものであり、現実的な課題です。富士山の環境問題、地域でのまちづくり、合意形成にしろ、現実的な社会問題を投影したものであり、臨場感の高いものだと考えています。

観念論ではなく、フィールドに出て、行動しながら考えよ、ということだろう。
同感である。

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2009年2月11日 (水)

M資金と児玉誉士夫と全日空・ロッキード事件

立石勝規『闇に消えたダイヤモンド―自民党と財界の腐蝕をつくった「児玉資金の謎」』講談社+α文庫(0901)は、1945年8月14日、つまり敗戦の前日の午後、ある新聞社の小型飛行機が、上海から島根空港に飛び立った、というところから始まっている。
飛行機をチャーターしたのは児玉機関で、飛行機には、旧海軍航空本部から軍需物資の調達を頼まれた児玉誉士夫が、戦乱の中国大陸で集めたダイヤモンドなどが、大量に積まれていた。
ダイヤモンド類は、島根から東京の銀座に運ばれ、児玉機関が東京本部として使っていたビルの地下室に収蔵される。

児玉は、終戦直後、皇室に献上するためダイヤモンド類をトラックで皇居に運んだが、当時の宮内相・石渡荘太郎から、皇室が進駐軍に怒られて迷惑するだろうから、持ち帰るように言われる。
ダイヤ類は、当時海軍航空本部が置かれていた慶應義塾大学(日吉)の地下室に運ばれたが、GHQから海軍航空本部に所有物資の提出命令があり、ダイヤ類はGHQに押収された。

GHQは、旧軍部が各地に隠匿していた供出ダイヤなどの貴金属類を摘発し、日銀本店の地下の金庫に保管したが、児玉のダイヤ類も同じように日銀地下金庫に保管された。
これらが、「M資金」伝説の1つの根拠になっている。

児玉誉士夫は、ロッキード事件で有名である。
有名な「M資金」事件として、全日空事件がある。
ロッキード社の旅客機・トライスターの導入に反対していた大庭哲夫社長が、M資金融資詐欺にひっかかり、融資申込みの「念書」を書いたことによって失脚した。

WIKIPEDIAの「ロッキード事件」の項を見てみよう(09年1月23日最終更新)。

このような状況(注:ロッキード、ボーイング、マグドネル・ダグラスの激しい販売競争)下、全日空においても高度経済成長に伴う旅客数増加に対応すべく、札幌で冬季オリンピックが行われる1972年を目途に「次期大型旅客機」として大型ワイドボディ機の導入を考えており、1969年に日本航空から派遣され社長へ就任した大庭哲夫を中心に選定作業が進められていた。候補となった3機のうち、L-1011 トライスターは上記のように(注:エンジンの開発を担当していたロールスロイス社の破綻など)エンジンの開発が遅れたために納入が1974年頃になってしまうことから選択肢から外れた。また、ボーイング747SRは全日空の企業規模(当時)からすると大きすぎると判断され、最終的にマクドネル・ダグラスDC-10が候補に残り、1970年5月に三井物産(日本における販売代理店)を通じ、3機を仮発注した。 しかし同月、発注を推進していた大庭社長が「M資金関連の詐欺事件に巻き込まれた」という趣旨の怪文書を流された挙句、株主総会の直前に不可解な形で社長の座を追われることとなり、元運輸次官の若狭得治が大庭の後釜に就いた。

高野孟『M資金-知られざる地下金融の世界』日本経済新聞社(8003)は、全日空M資金詐欺事件について、次のように書いている。
大庭社長のところには、社長に就任して日も浅い1969年6月から、約4ヵ月の間に、4回にわたって融資話が持ちかけられた、とされる。

大庭の特命で窓口を担当していたのは、長谷村資だった。
長谷村は、国会で以下のように証言している。
当初は、昭和石油の社長室にいた堀井雅彦氏と成田空港公団総裁だった成田努氏から、アラブ産油国の資金がスイス等の銀行に預けてあり、その資金を貸し付けたいという話があった。
堀井、成田の紹介で、河野雄次郎という人物が現れ、大庭と長谷村は、500億円の融資申込書と念書を渡した。
全日空には、資金責任者などが次々に現れたが、大蔵省の青山銀行局長なる人物が、長谷村にニセ者であることを見破られる。

2回目は、元代議士で内閣委員長を務めた鈴木明良が来て、3000億円の融資の話を持ち込んだ。
鈴木は、大石武一、原田憲両代議士の紹介状を持ってきた。
大庭は、紹介状と「大蔵省特殊資金運用委員会委員」という鈴木の名刺を見て信用してしまい、社判と署名入りの融資申込書と念書を渡してしまう。
長谷村は、疑問を感じ、指定銀行とされている興銀の正宗頭取に面会し、アドバイスを求める。
正宗頭取は、ある製鉄会社(注:合併前の富士製鉄)の話をし、融資の申し込みがあったが資金が興銀に積まれなかった経緯があったと説明し、書類の回収をするように助言した。

この書類のコピーの一部が児玉誉士夫に渡り、1970年5月の株主総会で、大庭哲夫社長は失脚する。
児玉は、傘下の総会屋を使って「大庭社長がM資金関連の詐欺事件に巻き込まれた」という内容の怪文書を流し、マクドネル・ダグラスDC-10の導入を進めていた大庭社長を追い落とし、若狭社長を後釜に据える工作を行った。
児玉は、日本におけるロッキード社の裏の代理人だった。

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2008年11月28日 (金)

御廟山古墳(陵墓参考地)を一般公開

042今朝の朝刊各紙によれば、仁徳天皇陵(大山古墳)などで知られる百舌鳥古墳群にあり、陵墓参考地に指定されている御廟山古墳を、宮内庁と堺市が発掘し、一般公開されることになった。
陵墓参考地とは、被葬者を確定できないものの皇族の墓所の可能性が考えられるものである。

陵墓に関する宮内庁の姿勢は、WIKIPEDIA(08年11月18日最終更新)によれば、以下の通りである。

「陵墓は皇室祭祀の場であり、静安と尊厳を保持しなければならない」という理由で考古学的調査の許可を拒み続けている。また、歴史学的・考古学的信頼度については「たとえ誤って指定されたとしても、祭祀を行っている場所が天皇陵である」としている。

012陵墓参考地も、陵墓に準じて考えられている。
自分の先祖の墓として考えれば、研究調査のためとはいえ、その墓を暴くような行為が気持ちのいいものでないことは当たり前の感情だろう。
だから、私人については、当人の意思が尊重されるべきだと思う。
しかし、私は、皇室は最大の公共財であると考えるものである。
また、古代史の謎を解明するうえで、陵墓の調査は不可欠と考える。
そういう観点から、一般への公開を拒んできた宮内庁の姿勢には疑問を持っていた。

そもそも、上記のWIKIPEDIAにあるように、「誤って指定されている」と考えられるケースも少なくないらしい。
やはり、なるべく正確な比定をして欲しいと思うのも、自然な感覚なのではないだろうか。
宮内庁の姿勢も、「調査の許可を求める考古学界の要望もあり、近年は地元自治体などとの合同調査を認めたり、修復のための調査に一部研究者の立ち入りを認めるケースも出てきている」ということであり、今回の御廟山古墳の一般公開も、そういう方向性に沿ったものであろう。
今後、宮内庁の姿勢がどうなっていくかは分からないが、基本的にはすべてオープン化することが望ましいのではないかと思う。

もちろん、天皇家といえどもプライバシーに係わるようなことまで、すべてを開示すべきだと主張しているわけではない。
しかし、一般人と対比すれば、プライバシーが制限されることも止むを得ないだろう。
皇室祭祀が、公共的なものなのか、私的なものなのか議論が分かれるところだろう。
天皇制には、多かれ少なかれ、宗教的要素が基盤となっているから、オープン化の方向は、宗教的権威を薄くさせる方向に働くことになるだろう。
その結果として、天皇制の基盤が揺らいでしまうかも知れない。
そういうことを考えると、日本人あるいは日本国のアイデンティティの視点からして、それがいいのか、という議論はあると思う。
しかし、自らの歴史がベールに包まれたままで、多くの不自然な謎が残る状態の方が、むしろアイデンティティを揺るがすことになるのではないか。
まして、現在のようなWEB時代において、宗教的神秘性に依存するような体制が永続するとも思えない。
情報公開した上で、その時代の国民がどう考えるかに委ねるしかないのではないだろうか。

巨大な仁徳天皇陵については、小・中学校の社会科の時間のときから、お馴染みである。
ピラミッドなどと同様に、まさに権力の大きさのシンボルのような陵墓である。
022その工事規模と工事費について、試算した事例を紹介したことがある(08年5月2日の項)。
古代工法での仁徳天皇陵の構築には、現代の巨大ダムと同程度の費用が必要だった、というのが私見を交えたラフな結論だった。

御廟山古墳は、その仁徳天皇陵と同じ百舌鳥古墳群の中にあり、4番目の規模である。
今回の調査で、江戸時代前期に新田開発が行われたとき、溜池としても機能していた古墳の壕が拡張され、墳丘が削られたことが判明した。
その結果、全長は、従来考えられていた186mが、約200mだったということである。
032もちろん、高松塚古墳の例を持ち出すまでもなく、発掘調査には慎重な配慮が必要だと思うが、その時代の最善の努力が行われたならば、発掘による状態の変化は止むを得ないことだと思う。
(図および写真は、朝日新聞081128)

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2008年10月10日 (金)

志貴皇子の死と挽歌

志貴皇子と倶に宴した長皇子の歌は、以下の通りである。

  長皇子、志貴皇子と佐紀宮にして倶に宴せる歌
秋さらば今も見るごと妻ごひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上  (1-84)  

この歌は、どう理解すべきか?
岩波書店版『日本古典文学大系4/萬葉集一』(5705)の頭注は、次のようである。

この歌、意味のとり方に色々ある。「今は秋ではないが鹿が鳴いている。秋になれば一層鳴くだろう」「今秋でなく、絵で鹿の鳴いているのを見ているが、秋になれば現実に…」「今見ているようなよい景色の高野原に、秋になったら…(今は秋でない)」「秋になったら今のようにまたいっしょに飲みましょうよ。秋になると…面白いところですよ。是非いらっしゃい」など。

小松崎文夫氏は、『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)において、上記の注を踏まえ、この歌を「秋ではない今、ひたすら『鹿の鳴く“秋”にこだわった』歌ということになる」としている。
そして、“「秋」へのこだわり”をキーワードではないか、とする。
さらに、その「秋」にもかかわる「鹿」に象徴される寓意が、返歌の志貴皇子の歌中に表現されていて、「それが万葉集の宿命的なネガティブな表現を越えるものがあったが故に、最終的に抹消されたのかもしれない」と書いている。

「万葉集の宿命的なネガティブな表現」というのは、正史と対立する事象をカモフラージュした表現ということだろう。
つまり、そのまま載せてしまうと、カモフラージュを逸脱してしまうということだろうか?

志貴皇子への挽歌をどう理解するか?

梓弓 手に取り持ちて ますらをの 得物矢手ばさみ 立ち向ふ 高圓山に 春野焼く…… 

「梓弓~立ち向ふ」は、高圓山を導く「序」とされる。
小松崎氏は、この部分は、通常の「序」を越えた、ことさらに重い意味が込められているのではないか、という。
つまり、「猟師に捕らわれ、木末に逃れた“むささび”の末路」との関連である。

「ますらお」は、猟師なのか、皇子なのか?
「猟師」ならば、“的”である“ムササビ”の誅殺ということになり、「皇子自身」と考えるならば、「得物(さつ)=幸(さち・さつ)に、最後の望みを託しつつも、自らは飛行能力を持たず、逃れるすべを断たれた“むささび”の、最後の矜持(悟りきったすがすがしさ)と捉えられなくもない、というのが小松崎氏の解釈である。

「高野原」は、皇子の宮のあった辺りの高野(高原)とされるが、高圓山を示すとも解釈できる。
志貴皇子には永久に訪れることのなかった秋。そして出会えることのなかった鹿と秋萩。

高圓の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに  (2-231)

小松崎氏は、欠落している“倶に宴する”長皇子への志貴皇子の返歌は、編者が笠金村の名を借りて、挽歌(反歌)として巻2の巻末に記しているのだ、とする。

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