日ロ領土問題の経緯と落としどころ/世界史の動向(73)
安倍首相とプーチン大統領が、22日、北方領土問題の解決に向けてモスクワで会談した。
最近は余り耳にしなくなったが、「戦後レジーム」の一例と言えよう。
過去稿を再掲する。
8月8日にクレムリンを訪れた佐藤大使に対して、モロトフ外相は、日本がポツダム宣言を拒否したこと、ソ連が連合国から対日参戦を提案されていることを理由に、ソ連がポツダム宣言に参加し、日ソ中立条約を破棄して対日参戦することを伝えた。ソ連の仲介に一縷の望みを託していた日本は、冷たく突き放されたのだった。佐藤-モロトフ会談の1時間後には、ソビエト極東軍は満州の日本軍への攻撃を開始した。さらに10時間後には、長崎に原爆が投下された。8月14日に、日本はポツダム宣言を受諾し、これを受けてアメリカは停戦命令を発したが、ソ連は攻撃を緩めることなく、南樺太、千島への侵攻を開始した。ソ連は、北海道の北半分を占領する分割案を提案していたが、アメリカはこれを拒否した。8月22日、ソ連は北海道分割案を撤回し、部隊を国後・択捉・歯舞・色丹に転戦させ、全千島を占領した。現時点で、どこで戦争を終結すべきだったかを言うのは後知恵というものかも知れないが、最後の何日間かの終戦の遅延が、今日に至る北方領土問題を生みだしたのだとは言えよう。⇒2007年8月10日 (金) ソ連の対日参戦
私などは、小学校以来、日本の終戦の日は8月15日と教わってきた。
しかし国際法上の終戦は、むしろ1945年9月2日にミズーリ号上で降伏文書に似サインした日という方が正確かも知れない。
調印の日本側代表は重光葵だった。
重光の終戦工作に日本がもっと重点を置いていれば、終戦は早まり犠牲も少なくて済んだはずである。
⇒2014年8月15日 (金) 重光葵による終戦工作と終戦遅延責任/日本の針路(27)
この8月15日と9月2日の時間差が「北方領土問題」の根底にある。
Wikipesia:北方領土問題に載っている図を示す。
つまり終戦を8月15日だという認識と、9月2日だという認識のギャップである。
それにしても、9月2日以降に占拠された歯舞・色丹はルール違反であろう。
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