« 坂本龍馬暗殺と近江屋/幕末維新史(14) | トップページ | 入管法強行採決と民主主義の死/安部政権の命運(14) »

2018年11月27日 (火)

坂本龍馬暗殺の犯人/幕末維新史(15)

坂本龍馬を殺した犯人肌fれか?
以下のように諸説がある。
京都見廻組説
新撰組説
薩摩藩説
紀州藩説
土佐藩説
グラバー説
中岡慎太郎説
坂本龍馬暗殺の謎は解けていた!「お~い竜馬」は当たりか?

Wikipediaでは次のように説説明している。

実行犯については諸説あるが、江戸幕府の組織である京都見廻組によるものという説が有力である。
事件発生当時、土佐藩家老の寺村左膳は新選組による犯行だと考え、新選組から離脱し、対立していた御陵衛士の証言もそれを補強した。海援隊士は当時「いろは丸事件」などでトラブルを抱えていた紀州藩の犯行と推定し、天満屋事件などが起こったが、実行犯は見つからなかった。しかし大正元年、見廻組隊士今井信郎の供述に基づく龍馬殺害の経緯が『維新土佐勤王史』に収録され、大正15年には今井の口上書が『坂本龍馬関係文書』に収録された。以降は文献的に京都見廻組の佐々木只三郎らを実行犯とする説が通説として扱われている。
見廻組隊士だった今井信郎は1889年(明治2年)に箱館戦争で降伏し、兵部省と刑部省によって取り調べを受けていた。この頃、坂本殺害について旧新選組隊士に取り調べが行われたが、いずれも新選組の関与を否定した。このうち大石鍬次郎が見廻組が実行犯であると自供したため、今井も取り調べを受け、自供することとなった。『勝海舟日記』明治2年4月15日条には松平勘太郎(松平信敏)に聞いた話として、今井が「佐々木唯三郎(只三郎)首トシテ」犯行に及んだことを自供したという記述がある。この中で勝海舟は指示したものは佐々木よりも上の人物、あるいは榎本対馬(榎本道章)か、わからないと記述している。
1870年(明治3年)9月2日、今井は禁固刑、静岡藩への引き渡しという判決を受けた。直接手を加えていないが龍馬殺害にかかわったこと、その後脱走して官軍に抵抗したことが罪状とされている。今井の証言をおさめた口上書は佐々木只三郎の指示により、佐々木、今井、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼(早)之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の七人が近江屋に向かい、佐々木・渡辺・高橋・桂の4人が実行犯となって龍馬らを殺害したというものである。殺害の命令があった理由については、寺田屋事件の際に龍馬が同心二名を射殺したことをあげている。今井は京都見廻役小笠原長遠に命じられたとしているが、小笠原は一切関知していないとしている。

「操觚の会」に集う7人の作家が、想像力と推理を駆使して挑む。書き下ろし短篇競作と銘打っているのは『幕末暗殺!』中央公論新社(2018年1月)である。
Photo

同書の中で、誉田龍一氏の「天が遣わせし男」が龍馬暗殺をテーマにしている。
誉田氏は、京都所司代の家に生まれ、見廻組に入隊していた桂早之助が直接手を下したとしている。

|

« 坂本龍馬暗殺と近江屋/幕末維新史(14) | トップページ | 入管法強行採決と民主主義の死/安部政権の命運(14) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

幕末維新史」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 坂本龍馬暗殺の犯人/幕末維新史(15):

« 坂本龍馬暗殺と近江屋/幕末維新史(14) | トップページ | 入管法強行採決と民主主義の死/安部政権の命運(14) »