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2018年7月20日 (金)

劇団四季という在野・浅利慶太/追悼(127)

劇団四季の元代表で、「キャッツ」「ライオンキング」のミュージカルを手掛けた演出家の浅利慶太さんが13日、悪性リンパ腫のため都内の病院で亡くなった。
85歳だった。
東京新聞のコラム「筆洗」(7月19日)は次のように書いている。

「モトシキ」という専門用語が演劇界にはある。ロシア語のようだが、日本語である。せりふが明瞭で鍛えられた俳優のことをそう呼ぶ▼「元四季」。劇団四季の出身者のことである。それほどその劇団の訓練は厳しい。「観客に聞き取れないセリフを話している俳優は舞台に上がってはならない」。そう語っていた、日本の演劇と興行を変革した演劇人が亡くなった。劇団四季の元代表で演出家の浅利慶太さん。

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東京新聞7月19日

 人脈の広さの原点は61年、開場を控えた日生劇場の役員に就任したことだった。28歳だった浅利さんは「ウエスト・サイド物語」の来日公演を企画したが、当時は外貨事情が悪く、政府の許可なくては外貨を使えなかった。そのため、浅利さんは大蔵大臣に直談判。じっくり話を聞いた大臣は「わがままはこれ限りにして」と言いながらも、関係部署に電話。「こういう質の高い作品を招くのは、意義のあること。希望に沿うようにしてあげてください」と指示した。故田中角栄元首相との出会いだった。
 58年に親友の石原慎太郎氏と安保反対の「若い日本の会」で活動。75年に石原氏が都知事選に出馬した時は選挙参謀を務め、さらに佐藤栄作元首相や中曽根元首相のブレーンになるなど、政財界に人脈を広げた。72年の佐藤元首相の退陣会見で「新聞記者は出て行け」と発言した時も、浅利さんが「1度だけテレビを通じて国民に語りかけられてはどうか」と進言したことが発端だった。83年にレーガン米大統領が来日した際、中曽根元首相との日の出山荘会談を演出した。

「石原慎太郎氏と安保反対の「若い日本の会」で活動」というのは時代の相として、若者は権力と対峙すべしという暗黙の了解があったのだろう。
石原慎太郎は老害とも言うべき存在になった。
2014年3月 9日 (日) 石原慎太郎の耄碌/人間の理解(3)

「今は昔」のこととしか言いようがないが、石原慎太郎も文学者だったのである。
2010年9月 9日 (木) 江藤淳の『石原慎太郎論』
そして、あえて言えば、私は文学者としての石原慎太郎は嫌いではなかった。
浅利慶太さんは、権力に近くはあっても在野であることの矜持は失わなかったと思う。
合掌。

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