大塩平八郎の乱と幕藩体制の揺らぎ/幕末維新史(9)
幕末というのは何時からのことを言うか?
ごく一般的なイメージは、1853(嘉永6)年のペリー浦賀来航を契機として、幕藩体制が揺らいだとする見方であろう。
Wikipedia:幕末では次のように記述されている。
幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。
しかし、中村彰彦『幕末史かく流れゆく』中央公論新社(2018年3月)は、1841(天保12)の「三方領地替え」の幕命を撤回するという失態が幕府の権威を失墜させたとする。
まあ、幕末というのは、末期ということで明確に定義されるものではないといえよう。
1833(天保3)~1839(天保9)年は「天保大飢饉」で全国に餓死する人間が大勢出たのであって、社会情勢的な歪が蓄積したと考えられる。
Wikipedia:天保の大飢饉 は次のように記す。
主な原因は天保4年(1833年)の大雨による洪水や冷害による大凶作であった。東北地方(陸奥国と出羽国)の被害が最も大きく、特に仙台藩の場合は盛んに新田開発を行い、実高で100万石を超える石高を有していたが、米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大であった。50年前の天明の飢饉と比較して、凶作対策が行われたため死者の数は少なかった。商品作物の商業化で農村に貧富の差が拡大したため、貧困の百姓が多く餓死した。各地で餓死者を多数出し、徳川幕府は救済のため、江戸では市中21ヶ所に御救小屋(5800人収容)を設置したが、救済者は70万人を超えた。米価急騰も引き起こしたため、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、天保7年6月に幕府直轄領である甲斐国一国規模の百姓一揆となった天保騒動や、天保8年2月に大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなった。特に大阪では毎日約150人-200人を超える餓死者を出していたという。
このような状況の中で、旗本という幕府の役人であった大塩平八郎が反幕府的な行動に出たのである。
Wikipedia:大塩平八郎の乱
決起直前になって内通離反者が出てしまい、計画は奉行所に察知された。跡部を爆死させる計画は頓挫し、完全な準備の整わぬままに2月19日(3月25日)の朝、自らの屋敷に火をかけ決起した。
天満橋(現大阪市北区)の大塩邸を発った大塩一党は、難波橋を渡り、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となった。彼らは「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、いたずらに火災(大塩焼け)が大きくなるばかりで、奉行所の兵に半日で鎮圧された。
大塩焼けによる被害状況は、『浮世の有様』などの史料によれば、天満を中心とした大坂市中の5分の1が焼失し、当時の大坂の人口約36万人の5分の1に当たる7万人程度が焼け出され、焼死者は少なくとも270人以上であり、餓死者や病死者を含めるとそれ以上だといわれている。
下図のようなパロディのチラシがあった。
大塩平八郎の乱
既にマグマは溜まっていたのである。
そこに黒船来航等が続き、徳川長期政権も崩壊へ向かって行った。
盤石に見えた「安倍一強」体制が断末魔の様相を示している。
失政のツケを官僚に押し付けても、前川喜平前文科次官ように、反旗を翻す人間は出てくるはずである。
もう一息である。
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