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2017年12月14日 (木)

伊方原発に高裁が停止命令/技術論と文明論(82)

四国電力伊方原発3号機をめぐり、住民が求めた運転差し止め仮処分の抗告審で、広島高裁が、13日、広島地裁の決定を覆し、運転を禁じる決定をした。
巨大噴火のリスクを考えれば当然の決定が、やっと司法の場でなされた。
そもそも火山列島日本と原発は相性が悪いのである。
⇒2016年10月 9日 (日):巨大噴火リスクにどう備えるか/技術論と文明論(77)
⇒2016年4月15日 (金):熊本の地震と『死都日本』のメッセージ/技術論と文明論(48)

広島高裁の判断は合理的である。

 仮処分はただちに法的な拘束力を持ち、今後の司法手続きで覆らない限り運転はできない。伊方原発3号機は今年10月から定期検査のため停止中で、来年1月予定の再稼働ができない可能性が高まった。四電は広島高裁に保全異議申し立てと仮処分の執行停止の申し立てをする方針だ。
 高裁は決定で、大規模地震のリスクについて、「四電の想定は不十分」とする住民側の主張を退けた。一方、伊方原発から約130キロ離れた阿蘇山など火山の影響を重視。現在の科学的知見によれば「阿蘇山の活動可能性が十分小さいかどうかを判断できる証拠はない」とし、原子力規制委員会の審査内規に沿い、160キロ先に火砕流が到達した約9万年前の過去最大の噴火の規模を検討した。
 その場合、四電の想定では火砕流が伊方原発の敷地内に到達する可能性が小さいとはいえず、同原発の立地が不適切だったと認定。この点で、東京電力福島第一原発事故後にできた新規制基準に適合するとした規制委の判断は不合理だったとし、「(住民の)生命身体に対する具体的危険が推認される」と述べた。
 原発と火山の位置関係を重視した今回の決定は、九州電力川内原発(鹿児島県薩摩川内市)や同玄海原発(佐賀県玄海町)など火山近くにある他の原発のリスクにも言及したといえ、高裁の判断として今後の訴訟や仮処分に影響を与える可能性がある。
 原発に対する仮処分をめぐっては、福井地裁が2015年4月、大津地裁が16年3月、関西電力高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の運転差し止めを決定したが、異議審や抗告審で取り消された。今回の決定について広島高裁で異議審が開かれる場合、別の裁判官による構成で審理する。
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伊方原発、運転差し止め 阿蘇大噴火時、影響重視 来年9月末まで 高裁が初判断

ジェレミー・リフキン氏は『原子力から脱却しないと日本は二流国に陥る』と警鐘を鳴らしている。

 モノやサービスを生み出すコスト(限界費用)が限りなくゼロにつながり、民泊やライドシェアなどに代表されるシェア経済が台頭する。EUと中国が国家戦略として取り組むのに対し、日本はこのパラダイムシフトに対して計画を持っていません。この状況が続けば、長期的に壊滅的な影響をもたらし、日本は2050年までに二流国家になってしまうと思います。
 なぜそうなるのか、もうちょっと細かく全体像を示しましょう。いまのパラダイム、つまり石油と原子力をエネルギー源とし、内燃機関で動く輸送手段によって成り立っている第2次産業革命の成果はいま、衰退状態にあります。GDP(国内総生産)は世界中で落ち、生産性はもはや伸びようがないのです。

まさにその通りである。
第2次産業革命の成功体験も、最近の品質不正などで危うくなっている。
であるにもかかわらず、安倍政権の世耕経産相は、それでもなお原発最優先だと言っている。

アルゼンチンを訪問中の世耕弘成経済産業相は13日、四国電力伊方原発3号機の運転差し止めを命じた広島高裁の決定について「コメントは控える」とした上で、「原子力規制委員会が世界的に最も厳しいとされる新規制基準をクリアしたと判断した原発については、安全最優先で再稼働させるという政府方針に変わりはない」との立場を改めて表明した。
再稼働方針は変わらず=広島高裁決定で世耕経産相-伊方原発運転差し止め

三権分立をわきまえない傲慢な姿勢であるが、何よりも先見性のないところが政治家失格と言わざるを得ない。

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