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2017年9月 7日 (木)

加計疑惑(47)ルーツとしての加計勉氏/アベノポリシーの危うさ(290)

加計学園の獣医学部新設に関する疑惑について、安倍首相が自ら丁寧な説明をする機会はいつになるだろうか?
獣医学部については白紙撤回によって失地回復を図るというウルトラCも検討されているらしい。
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「週刊朝日」9月1日号

まあ、国家戦略特区WGに怪しげな動きも炙り出されつつあるし、いい加減な図面も流出しているので、白紙撤回も一案ということだろう。
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同上

⇒2017年8月21日 (月):加計疑惑(47)獣医学部の設計図面/アベノポリシーの危うさ(279)
⇒2017年8月23日 (水):加計疑惑(49)設計図面の施設レベル/アベノポリシーの危うさ(281)
⇒2017年8月13日 (日):加計疑惑(45)特区WGのいかがわしさ(2)/アベノポリシーの危うさ(276)
⇒2017年8月 7日 (月):加計疑惑(42)特区WGのいかがわしさ/アベノポリシーの危うさ(272)

加計学園はしばらく眠らせておき、米朝の緊張の高まりに乗じて軍事体制を確立した方が得策だと判断してもおかしくはない。
⇒2017年8月15日 (火):再び戦争体制に向かう「母國」/永続敗戦の構造(10)

しかし、加計疑惑は国家運営の基幹に関わる問題である。
決して軽視すべき問題ではないし、水に流して済む問題もない。

ここで、「加計疑惑」について振り返ってみたい。
そもそも加計学園とは如何なる存在か?
「西日本有数の私学」と言われ、約2万人の学生が通う割りには、今まで余り目立った存在ではなかった。
加計学園創立者は、孝太郎氏の父である加計勉氏である。
勉氏は、どのような経緯で学園を創設したのか?

獣医学部の設置主体である岡山理科大は、岡山市「理大町1丁目1番地」にある。
日本三名園の一つとして名高い後楽園の近く、岡山市北区に位置する。
かつて鐘淵紡績の全盛時代には、全国にいくつかの鐘紡町や鐘紡通りがあったが、同様に「理大町1丁目1番地」が示すのは、岡山市における同大学の存在感である。

しかし、加計一族のルーツは岡山県ではなく広島県にある。
加計学園の創設者である加計勉氏は、広島県東広島市安芸津町に1923年(大正12年)3月に生まれた。
安芸津町の北部には加計という地名が残っている。
加計家は、大地主であり名家であることが分かる。

ところが戦後の農地改革で、所有していた土地のほとんどを手放し、現在は本家も分家も取り壊されてしまっている。
勉氏は広島県立忠海中学校(旧制中学。現在の広島県立忠海高校)を卒業後、教員を志し、1941年に広島文理科大学(戦後に広島大学に吸収)附置・広島高等師範学校へ進んだ。
旧制中学への進学者は、現在では有名大学進学者以上のエリートだった。

高等師範学校を修了した勉氏は、姫路工業学校の教を務めていたが、教育召集で福岡県小倉の航空機工場での勤務を命じられた。
目立たない青年が、終戦を機に一変した。
原爆投下により広島は無惨に破壊され、加計家は農地解放で土地を失ったのだから、衝撃は大きかっただろう。

終戦後まもない1946年、広島文理科大学へ入り直すことを決意し、母校に戻る。
大学を卒業後、中学校教諭を経て教育出版事業会社を起業した。
勉氏が通った忠海中学校は、池田勇人氏の母校であった。
勉氏は池田氏の自宅や事務所をたびたび訪れていたが、そうした中で、当時蔵相だった池田氏のもとで秘書官を務めていたエリート大蔵官僚の宮澤喜一氏と親しくなる。

教員を辞して教育出版事業を興した勉氏は、次に大学受験予備校を設立した。
現在も加計学園グループの1つになっている「広島英数学館」である。
さらに、「岡山予備校」を設立して岡山県へ進出した。
かくして岡山理科大創立の足がかりを作ったのである。

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