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2017年1月16日 (月)

百人一首と後鳥羽・順徳父子/天皇の歴史(15)

かつては「百人一首」のかるた取りが正月の風物詩であった。
核家族化やデジタルゲームの普及により、すっかり廃れたかと思っていたが、小学校でやっているという。
短歌や俳句などの短詩系文芸は、音韻が決めてなので、大いに結構なことだと思う。

1951(昭和26)年、「百人一首」と酷似している「百人秀歌」が存在することが確認された。
「百人秀歌」と「百人一首」を比較すると、以下のような小異がある。
①配列がかなり異なる
②「百人秀歌」は、「百人一首」における99・後鳥羽院、100・順徳院の歌がない。
⇒2008年7月26日 (土):「百人一首」の成立事情

「百人一首」と「百人秀歌」の異同の謎を追及したのが草野隆『百人一首の謎を解く 』新潮新書(2016年1月)である。
著者は「百人一首の謎」として、次の12を挙げている。

1 いつ出来たのか
2 誰が作ったのか
3 何のために作られたのか
4 神様や神話時代の歌、また仏様、高僧の歌がないのはなぜか
5 賀の歌、釈教の歌がないのはなぜか
6 不幸な歌人が多いのはなぜか・幸福な歌人の歌が少ないのはなぜか
7 和歌史に残るような実績のない歌人の姿が見えるのはなぜか
8 「よみ人しらず」の歌がないのはなぜか
9 その歌人の代表作が選ばれていないのはなぜか
10 後鳥羽院、順徳院の歌は、なぜ入っているのか
11 『百人秀歌』と『百人一首』の関係はどのようなものなのか
12 近代の研究者は、なぜ『百人秀歌』・『百人一首』の理解を誤ったのか

この他にも、織田正吉『百人一首の謎』講談社現代新書(1989年11月)等の著書が先行して存在しているが、草野氏の著書では触れられていない。
「謎」の認識は、人それぞれであろうが、フェアでないという見方はある。

三嶋大社で行われている古典講座は2015年度から「百人一首」が題材であり、百人一首の中から菊池義裕東洋大学教授がテーマに即して選歌し、解説をする。
2016年5月は『人生への感慨-世を見つめて』ということで、次の3首が選ばれた。

93:世の中は常にもがもな渚漕ぐあまの小舟の綱手かなしも(鎌倉右大臣)
99:人もをし人もうらめしあじきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は(後鳥羽院)
100:ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり(順徳院)

カルタで遊んでいた頃には、歴史的背景とか作者の身上とかは殆ど関心の埒外であったが、上記の歌の作者はいずれも悲劇的な生涯であった。
鎌倉右大臣とは実朝であり、3代将軍でありながら鶴岡八幡宮で公暁に暗殺された。
後鳥羽院は、北条義時と対立して承久の乱を起こしたが、敗れて隠岐島に配流され、19年間を過ごし崩御した。
順徳院は後鳥羽院の子であり、承久の乱では父に従ったが、佐渡島に配流され、在島21年の後に崩御した。

2 2_2

「承久の乱」は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権である北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱である。

後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、幕府に鎮圧された事件。後鳥羽・土御門(つちみかど)・順徳の三上皇が配流され、朝廷方の公卿・武士の所領は没収された。乱ののち、朝廷監視のため六波羅探題を置くなど、幕府の絶対的優位が確立した。
デジタル大辞泉

武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになった。
山本七平氏は、貴族社会から武家社会への転換という意味で、「日本史上最大の事件」と見る。
後鳥羽天皇は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇である。
寿永2年(1183年)、太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚した。

壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだまま遂に回収されることが無かった。
伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた。その「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があって、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方がある(Wikipedia)。

順徳天皇は、鎌倉時代の第84代天皇である。
後鳥羽天皇と、寵妃藤原重子(修明門院)の皇子として生まれた。
父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた。
父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わり、7月、上皇は都を離れて佐渡へ配流となった。

「百人一首」は、冒頭に天智天皇、持統天皇を置き、最後を後鳥羽院と順徳院で締めた。
最初と最後に親子の作が並べられているわけである。
天智天皇は、中大兄皇子として大化改新を決行し、蘇我氏から権力を奪還して天皇家の権力を確立した。
後鳥羽・順徳の両院は、朝廷への権力の奪還を試みたが、逆に朝廷の権力を失う結果となった。
天智・持統の親子は、実質的な律令制の確立者であり後鳥羽・順徳の親子は、結果的に律令制を崩壊させることになったのである。
⇒2009年12月22日 (火):百人一首の構成

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