薬師寺論争と年輪年代法/やまとの謎(117)
飛鳥の法隆寺、天平の東大寺と対比され、白鳳を代表する寺が薬師寺であるとされている。
薬師寺は、天武8(680)年に、鸕(ウ)野皇后(のちの持統天皇)の病気治癒を祈願して、天武天皇によりその造営が企図された。
この薬師寺は、平城京ではなく、藤原京に建立された。
ところが、元明天皇によって平城遷都の詔が出され、和銅3年(710)藤原京から平城京への遷都が実施された。
それと共に、飛鳥や藤原の地に造営された諸寺も、平城京へ移転することになった。
これらの寺院の移転には大きな特色がある。"移転”と言うと、旧伽藍を解体し、平城京で新たに組み立てたとの印象を与えがちだが、実情はそうではない。単に寺号を受け継いだだけで、平城京で新しく堂宇を建立しているのだ。しかも、旧伽藍とは全く異なる伽藍配置を採用している。
唯一の例外が薬師寺である。薬師寺だけは寺号を変えなかった。そのため、藤原京にあった薬師寺は、奈良薬師寺と区別するために「本薬師寺」と呼ばれるようになる。それだけではない、他の大寺とは異なり、本薬師寺の伽藍配置をそのまま踏襲している。
本薬師寺から奈良薬師寺への移転の陰に隠された秘密
薬師寺が、本薬師寺の伽藍配置をそのまま踏襲していることから、本薬師寺と薬師寺に関して、建築物と仏像の関係が、「移建-非移建」「移座-非移座」についての論争がある。
「移建・移坐」ならば、東塔は、文武天皇の時に建てられたものの移建であり、金堂三尊は、持統天皇の時に造られたものの移坐である。
非移建ならば、両者とも平城京遷都後のものということになる。
文化史・美術史では、平城京遷都までを「白鳳」、遷都後を「天平」といっているので、「移建・移坐」か「非移建・非移坐」の問題は、「白鳳」か「天平」か、という問題であり、美術史の様式をどう捉えるかという問題になる。
⇒2008年2月22日 (金):薬師寺論争…①「白鳳」か「天平」か
奈良文化財研究所(奈文研)が、解体修理中の薬師寺東塔の天井板2点に対し年輪年代測定を実施した結果、新事実が判明した。
伐採年が729年と730年と推計され、塔中央の心柱についても、最も外側の年輪が719年を示し、720年代に伐採された可能性が高まった。
読売新聞12月20日
東塔の造営年代については、平安時代の歴史書「扶桑略記」に「天平2(730)年3月29日、薬師寺東塔を建て始める」とする記述がある。
東塔保存修理事業専門委員長の鈴木嘉吉・元奈良国立文化財研究所長(建築史)は「年輪年代測定の結果が史書の記述と一致する、国内初の発見。東塔を平城京で造ったことが確定した」と話している。
年輪年代法という理化学的方法の有用性は法隆寺論争でも明らかにされてきたが、様式論とは別の視点から、古代史の謎解明に貢献するのではなかろうか。
⇒2007年8月30日 (木):若草伽藍の瓦出土
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