水原秋櫻子句碑@十里木高原/文学碑を訪ねる(4)
水原秋櫻子は、近代俳句の代表者の1人と言って良い。
東京帝国大学医学部を卒業し、昭和医専の教授になり、家業を継ぐと共に、宮内庁の典医になって多くの皇族の子供を取り上げるというエスタブリッシュメントであったが、東大在学中から俳句に取り組み、大正末期の1924年から「ホトトギス」に参加した。
昭和初期には、山口誓子、阿波野青畝、高野素十と共に、頭文字をとって「4S」と呼ばれ、高浜虚子からも大いに嘱望されていた。
「ホトトギス」でエース級の活躍をしていた秋櫻子は、客観写生と唱える虚子やそれを支持する素十と作句観を巡って対立し、1931(昭和6)年に「ホトトギス」を脱退して独立した。
1934(昭和9)年には、主宰誌の「馬酔木」を創刊し、「ホトトギス」に対抗する新興勢力の拠点となったが、秋櫻子が「ホトトギス」を脱退した理由は、以下のようだった。
ホトトギスには「客観写生」といふ標語があった。
……
まづ客観写生を修練させるといふ教育法はよいのであるが、ホトトギスに於てはいつまで経つても客観写生の標語だけが掲げられていて、そのさきの教育はなかつた。つまりどこまでも大衆教育であり、凡才教育であつて、その中から傑れた作者を出さうといふ教育ではなかつた。
つまり、秋櫻子は、高浜虚子が、みな一様に大衆教育、凡才教育の対象とみることに対し、大衆とは異なる存在として自覚している自身が満足しなかったということだろう。
さらに、虚子自身は、必ずしも客観写生の領域に留まっているわけではないのに、「ホトトギス」同人たちは、異を唱えることなく従っていることにも不満だったはずだ。
「ホトトギス≒俳壇」に対する反逆であり、新興俳句の烽火であった。
⇒2007年12月26日 (水):当麻寺…③秋櫻子
裾野市の十里木という別荘地に、秋櫻子の句碑が建っている。
十里木で開かれた句会で詠まれた句だという。
十里木高原は、源頼朝が巻狩(大勢での動物の狩り)をした舞台であり、頼朝の井戸と称する遺跡がある。
秋櫻子の句碑は、頼朝の井戸の敷地内にある。
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