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2016年11月24日 (木)

舒明天皇の「国見の歌」の謎/天皇の歴史(11)

舒明天皇の『万葉集』2番の「国見」の歌は有名であるが、謎の歌でもある。
⇒2016年9月29日 (木):象徴の行為としての「国見」/天皇の歴史(8)

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万葉の旅 大和三山

大和には 群山あれど 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

率直に言って、大和に「海原は 鴎立ち立つ」とは理解しがたい。
一般には次のように解説されている。

江戸初期の学者契沖も、「和州には海なきを、かくよませ給ふは、彼山より難波の方などの見ゆるにや」と訝しがっています。標高150メートル前後の香具山から、大阪湾が見えるなんてことがあるのでしょうか。
 契沖の疑問に対し、少し後の時代の国学者たちは、香具山の麓にある埴安(はにやす)の池を海といったのだ、と解答しました。この説は広く受け入れられ、以来、この「海」は埴安の池ということにほぼ落ち着いているようです。
 最も新しい個人万葉全注釈である伊藤博氏の『萬葉集釋注』でも、この句について次のように注記しています。

香具山の周辺には、埴安、磐余など、多くの池があった。「海原」はそれを海とみなしたものであろう。「かまめ」は「かもめ」の古形で、その池のあたりを飛ぶ白い水鳥をかもめと見なしたのか。

 そして、舒明天皇の国見歌は、「海と陸によって成る"日本国"全体の映像を」大和にになわせたもの、と見ています。奈良盆地の小風景に日本国全体を幻視している、というわけです。
天の香具山と「海原」

苦しい解釈である。
別解としては、吉本隆明が『ハイ・イメージ論』で紹介した樋口清之の説がある。

樋口氏は、地下の地質調査から判明した事実として「ほぼ長方形をしている現在の大和平野は、今から約一万年余り前、即ち洪積期の最終末の頃、山城平野に口を開いている海湾であった」ことを指摘しています。同書に載っていたランドサット映像からの想像図をたよりに、約1万年前の畿内地方の概念図を作ってみました。
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 上の図の水色の部分が、当時海湾であったと推定される領域です。樋口氏の説をさらに聞きましょう。

海の塩水は大阪湾を満し、山城平野を満し、現在の奈良市の北にある奈良山の丘陵はなくて、それを越えて大和湾に北から南へ湾入していた。後に紀伊半島の地盤隆起に従って、大和平野の地盤は次第に海面から離れて行くことになった。(中略)つまり、大和盆地はもと湖であったが、地盤の隆起につれて排水が進行すると湖面が次第に低下し、最後には干上がって浅い摺鉢状の盆地になったと理解されます。(樋口清之「日本古典の信憑性」『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)

 簡単にまとめると、洪積世末期から沖積世にかけて、大和(奈良)盆地は、

 海湾→海水湖→淡水湖→盆地

と移り変わったことになります。
 奈良盆地の標高45メートル線以下には、奈良時代以前の住居跡や遺物は発見されておらず、それ以下の低地は大和盆地湖の名残りで、湖水や湿潤地であった、と樋口氏はいいます。そして舒明天皇の国見歌に言及し、何十回も香具山に登ってみたが、埴安の池は見えなかった、とのべ、「むしろここから見える海原は、国原に対して海原と表現したもので、かつての盆地湖の名残りとして、丁度今の郡山の東の方が奈良朝まで湿潤の地であり、香具山からはこれが見え、また鴎の立つ姿も見えたと思う」と論じます。
天の香具山と「海原」

舒明天皇は、Wikipedia によれば推古天皇元年(593年) - 舒明天皇13年(641年)とされる。
この頃には大和には鴎が群れ飛んでいたのだろうか?

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