足利義政と銀閣寺/京都彼方此方(12)
京都では、西より東の方が馴染みがある。
銀閣寺にはかれこれ数え切れないくらい行っているが、それも昔のことだ。
直近では、2年前の紅葉シーズンが最後である。
銀閣寺(東山慈照寺)は、室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられた。
華やかな金閣寺とは対照的に、いかにも侘び・寂を感じさせる佇まいである。
京都に17か所ある世界文化遺産の一つである。
京都五山第二位の格式を誇る禅寺・相国寺の境外塔頭(相国寺の境内の外にある相国寺に所属する小院)である。
金閣寺(鹿苑寺)も同様に相国寺の境外塔頭である。
疎水沿いの「哲学の道」の起点(終点)が、銀閣寺道バス停付近の白川通今出川交差点である。
京都学派の哲学者・西田幾多郎や田辺元らが好んで散策したことから名付けられた。
思索しながら歩くには好適であるが、最近は観光客で賑わっているので、思索に向かないかも知れない。
エントランスは、「銀閣寺垣」で誘導される。
「銀閣寺垣」は、低い石垣、低い建仁寺垣、それに樫、椿などの常緑樹の高い生垣からなっているが、左右の造りが異なっている。
国宝の銀閣(観音殿)は、一層目の心空殿は書院風の建築様式で、二層目の潮音閣は花頭窓をしつらえた唐様仏殿の様式の建物である。
花頭窓は炎をかたどった禅寺で良く見かける窓なので、当初は「火頭窓」という字が使われていたが、戦国の動乱期などがあったことなどから火は災いを連想されるので「花」という漢字が使われるようになったらしい。
建物の閣上の鳳凰は日が昇る方角・東を向いていて、観音菩薩を祀る銀閣を守護している。
ます。
東求堂は初期書院造りの住宅建築遺構として、国宝に指定されている。
四畳半の空間は当時としては画期的なしつらえで、プライバシーか確保された小さな部屋に住むようになったのはこの頃からと言われ、これが後の書院造に発展していった。
東求堂の出現が生活様式を変えるきっかけとなったと考えられている。
本堂の前の庭園には二つの盛り砂がある。
波紋を表現した銀沙灘と白砂の円錐形の盛り砂・向月台である。
銀沙灘は、白砂を段形に盛り上げて造られたもので、月の光を反射させて銀閣を照らすために造られたと言わる。
向月台は、その上に座って正面にある月待山から昇る月を眺めるためのものと言われている。
義政は東山にあった浄土寺という寺の墓地を没収し無断でこの地に東山殿を造営したと言われている。
造営のために民衆に多額の臨時税を課して、それを財源として東山殿の造営に暴走した。
幕府の権力が衰退すると同時に地方の武士が台頭し、情勢が不安定な時期で、義政は気の休まる東山殿という別荘を創建するために突き進んでいった。
しかし、戦乱と大飢饉で資金は集まらなかったので、京都や奈良の寺社などから優れた石や樹木を略奪したともいう。
義政は、夢想疎石が建てた苔寺(西芳寺)に憧れていた。
夢想疎石は名作庭家として知られており、苔寺を模倣して、下段を池泉回遊式庭園、上段を枯山水庭園とした。
両脇が植栽の壁で覆われていて、途中で直角に曲がる参道などは同じ様式となっている。
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