「壬申の乱」と十市皇女/天皇の歴史(6)
万葉集の中でも、額田王の「茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」は人気ベストテンは固いだろう。
万葉集には次のように書かれている。
天皇、蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る皇太子の答へましし御歌(明日香宮に天の下知らしめしし天皇、諡して天武天皇といふ)
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆえにわれ恋ひめやも紀に曰はく、天皇七年丁卯、夏五月五日、蒲生野の縦猟したまふ。時に大皇弟・諸王・内臣と群臣、悉皆従そといへり。
「袖振る」は、この時代、恋しい人の魂を自分のほうへ引き寄せる呪式のようなものだったという。
つまり、われわれが手を振るような軽い意味ではなく、明らかな求愛の仕草だったらしい。
額田王はこの時点では天智天皇の妻となっていたが、この歌で袖を振っている大海人皇子の妻でもあった。
もっともこの2首は、相聞(恋歌)の巻にではなく、雑歌(宮廷儀礼の歌)の巻に収められていることなどから、宴会の席でのざれ歌という解釈が有力である。
⇒2009年9月23日 (水):蒲生野の相聞歌の解釈-斎藤茂吉と大岡信
二人の間の子供が十市皇女で、大友皇子(天智天皇の子)と結婚した。
「壬申の乱」は皇女から見れば、父と夫が皇位を争ったことになる。
弘文天皇陵
新薬師寺(奈良市高畑町)の隣にある鏡神社の比売塚は、「高貴の姫君の墓」として語り伝えられており、ここに十市皇女が埋葬されているという説が有力である。
比売塚に、1981年に「比売神社」が建てらた。
十市皇女・Wikipedia
十市皇女が伊勢神宮参詣の時、お伴の吹黄刀自が作ったとされるのが、万葉集巻1-22の次の歌である。
川の上のゆつ岩村に草生さず常にもがもな常処女にて
十市皇女参赴於伊勢神宮時見波多横山巌吹芡刀自作歌
河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手
「ゆつ」は、「清浄な、神聖な」というような意味であり、「斎つ」と、斎王・斎宮の斎を使う。
いつまでも清らかな若い乙女のままであれ、と皇女の常若を願う歌だと解釈されている。
伊勢神宮の式年遷宮は、この「常若の願い」の具現化とも考えられる。
「壬申の乱」には分からないことが多いが、十市皇女が謎へのアプローチの1つのキーかも知れない。
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