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2016年9月17日 (土)

三内丸山遺跡の出現と鬼界カルデラ噴火/技術論と文明論(67)

三内丸山遺跡は、5500年前に出現し4000年前に消失した。
⇒2016年9月 9日 (金):三内丸山遺跡と縄文人のルーツ/技術論と文明論(66)
その出現と消失の要因はどう考えられるか?
米田良三『列島合体から倭国を論ず―地震論から吉野ケ里論へ』新泉社(1998年8月)に驚くべき仮説が書かれている。

米田氏は、奈良の法隆寺が太宰府の観世音寺を移築したという「法隆寺移築論」で有名である。
法隆寺には有名な「再建-非再建」論争があるが、もう一つ、「移築論争」というものがある。
私はかつて「法隆寺移築シンポジウム」なるものを傍聴したことがあるが、発表者は多かれ少なかれ、古田武彦氏の影響を受けた人々であった。
私には法隆寺が移築されたとは信じがたい気がするが、シンポジウムは熱気に包まれていて、大きな違和感があったことを覚えている。

米田氏は上掲書で、次のように論じている。

1.柱の間隔が4.2m
縄文尺という<1尺=35cm>というスケールが使われていたという説を、<420÷35=12>で、切れのいい数字は、施工手順上重要であると肯定する。
法隆寺では<1尺=28.1cm>の尺度が使われていたが、4.2mはこの尺で15尺になる。
三内丸山遺跡の技術と法隆寺の技術は連続している。
2.クリ柱の破断
直径1mのクリの柱が地下2mで破断していた。
柱穴は版築という技法が使われているが、法隆寺の心柱と同じである。
巨大地震が起きて、剪断破壊したのではないか。
3.内転びの手法
天井の高い部屋では、目の錯覚で、垂直の柱が外側に倒れて見える。
柱をわずかに内側に倒すことによって修正できるが、法隆寺の金堂の柱でも用いられている。
三内丸山遺跡の6本柱が、室内空間を意識するレベルであったとし、用途が神殿であった可能性は大きい。

「用途が神殿であった」というのは、梅棹忠夫氏も指摘していた。

1995年、岡田康博さんに案内されて、あの六本柱遺構の前に立ったとき、梅棹さんは「これは神殿やな。太い柱が天に向かってそそりたっていた、てっぺんには鳥籠のような、カミの座がちょこんとおいてあった」と鮮やかなイメージを語った。
なぜ神殿か?都市の起源は交易などの経済活動ではなく、神殿を中心とした情報交換の場であったという仮説をもっていたからだ。アンデスの古代文明、吉野ヶ里、出雲大社から大仏殿につながり、そこにさまざまな都市のあり様が結びついたのだろう。これで「日本文明史の筋道がはっきり見えた」と言ったのである。
じつは、梅棹さんを三内丸山遺跡に連れ出すまでにはずいぶん時間がかかった。考古学への不信感があったからだ。「考古学が信用できんのは、1つの発見で、すべてがひっくり返ってしまう。発見してないもの=0とするからだ」。「細部にこだわらず、大きな構造をとらえて論じるべきだ」と。
三内丸山遺跡は1994年の直径1mの六本柱発見の報道をきっかけに、縄文都市だという説がでて、たくさんの人がつめかけた。ところが、考古学者は否定的だった。それを打ち破り、この遺跡を正しく位置づけたのが梅棹さんだった。「既成概念にとらわれないで、もっと自由に大胆な仮説をたてて考えなさい。そうすればもっと豊かな世界が楽しめるはずです」と梅棹さんは言っていたのだといま振り返って思う。
第1回 ウメサオタダオと三内丸山遺跡

改めて梅棹氏の先見力に敬服する。
「既成概念にとらわれないで、もっと自由に大胆な仮説をたてる」1つの例が、法隆寺移築論かも知れない。

米田氏は、三内丸山遺跡の円筒土器文化は縄文前期の中頃から始まるが、それ以前は縄文尖底土器文化であったという。
円筒土器は鹿児島の6300年前の鬼界カルデラの火山灰の下から発掘されているが、火山灰の降下地域の人が三内丸山に移り住んだのではないか、というのが米田氏の仮説である。

姶良・鬼界カルデラの降灰地域は下図のように想定されている。
Photo
九州南部の縄文文化を崩壊させた鬼界カルデラ

鹿児島の上野原台地の縄文人が三内丸山のルーツであるというのは、アカデミズムの世界では認知されていないだとう。
しかし、それ位のスケールで考えるべき問題だと思う。
縄文中期に西南日本の縄文人口が激減するのも、鬼界カルデラ大噴火が原因であれば整合的である。
⇒2016年9月 6日 (火):縄文の西南日本を壊滅させた鬼界カルデラ大噴火/技術論と文明論(64)

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