岡潔と紀見峠の環境/知的生産の方法(158)
岡潔は1901年(明治34年)4月19日に大阪府大阪市で生まれたが、生まれてほどなく父祖の地である和歌山県伊都郡紀見村(後に橋本市)に移り住んだ。
実質的な生まれ故郷は紀見村と言って良い。
1925年(大正14年)、京都帝国大学卒業と同時に同大学講師に就任し、1929年(昭和4年)、同大学助教授に昇進した。
1929年(昭和4年)より3年間、フランスに留学し、中谷治字二郎(宇吉郎の弟、日本考古学の草分け)と、家族ぐるみで親しく交流した。
1932年(昭和7年)、広島文理科大学助教授に就任したが、1940年(昭和15年)、病気のため辞職し、紀見村に戻って百姓をしながら、孤高の研究生活に入った。
紀見村の環境が、岡の思索に大きな影響を与えたことは想像に難くない。
紀見村はどんな場所か?
「和歌山の紀見峠…数学者「岡潔」は祖父から薫陶を受けた」というお誂えの文章が産経新聞に載っているので引用しよう。
新興の住宅が建ちならぶ和歌山側から、うねうねとまがりくねる山道を登った。「峠谷川」と書かれた鉄橋をわたると、山の鞍部のあたりで小さな集落に行きあたった。紀見峠である。
さらに行くと、峠のいただきあたりに、
「岡潔生誕の地」 という大きな碑が立っていた。
・・・・・・
紀見峠は標高385メートル、街道をややおりたところの標識には「大阪府」とあり、裏手にまわると「和歌山県」とあった。
峠沿いの道は、もちろん高野街道である。江戸期から明治にかけて、白装束に「同行二人」と書かれた高野詣での参詣者は、河内からこの峠を越えて紀州に入った。紀ノ川をわたり、九度山西側の慈尊院から、町石道(ちょういしみち)と呼ばれる、昼でも薄暗い峻険(しゅんけん)な山道を高野山に向かった。
峠には、旅籠(はたご)が何軒かあった。参詣者の多くは峠にたどりついたとき、一息をつくために泊まった。その中に、「岡屋」という屋号の旅籠があった。
岡潔の実家であり、曽祖父の代まで営業していた。明治33年、奈良方面から和歌山をつなぐ紀和鉄道(現・JR和歌山線)が開通すると、宿泊客は激減した。
・・・・・・
街道からは、ときたま紀州の平野から薄青く延びた深々とした山々ものぞめた。あのはるかかなたに、御大師さまのいる高野山があった。
「紀見」という地名には、ようやく、ここまでたどりついたという、参詣者の安堵の念がこめられているような気がする。
・・・・・・
高野街道は下図のように京・大坂と高野山を結ぶ街道である。
高野街道
グーグルアースで地勢を見てみよう。
かなりの山地である。
紀見峠は、大阪府と和歌山県の境にある。
高野街道の紀見峠
このような孤絶した環境の中で、種子から実を育てるように、数学の最先端のアポリアに取り組み、世界の研究者に先駆けて花を咲かせたのである。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 藤井太洋『東京の子』/私撰アンソロジー(56)(2019.04.07)
- 暫時お休みします(2019.03.24)
- ココログの障害とその説明(2019.03.21)
- スキャンダラスな東京五輪/安部政権の命運(94)(2019.03.17)
- 野党は小異を捨てて大同団結すべし/安部政権の命運(84)(2019.03.05)
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 藤井太洋『東京の子』/私撰アンソロジー(56)(2019.04.07)
- 内閣の番犬・横畠内閣法制局長官/人間の理解(24)(2019.03.13)
- 日本文学への深い愛・ドナルドキーン/追悼(138)(2019.02.24)
- 秀才かつクリエイティブ・堺屋太一/追悼(137)(2019.02.11)
- 自然と命の画家・堀文子/追悼(136)(2019.02.09)
「知的生産の方法」カテゴリの記事
- 『日日是好日と「分かる」ということ/知的生産の方法(182)(2019.01.02)
- 祝・本庶佑京大特別教授ノーベル賞受賞/知的生産の方法(180)(2018.10.02)
- この問題は、本当の問題です/知的生産の方法(179)(2018.09.13)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント