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2016年9月12日 (月)

岡潔と紀見峠の環境/知的生産の方法(158)

岡潔は1901年(明治34年)4月19日に大阪府大阪市で生まれたが、生まれてほどなく父祖の地である和歌山県伊都郡紀見村(後に橋本市)に移り住んだ。
実質的な生まれ故郷は紀見村と言って良い。
1925年(大正14年)、京都帝国大学卒業と同時に同大学講師に就任し、1929年(昭和4年)、同大学助教授に昇進した。

1929年(昭和4年)より3年間、フランスに留学し、中谷治字二郎(宇吉郎の弟、日本考古学の草分け)と、家族ぐるみで親しく交流した。
1932年(昭和7年)、広島文理科大学助教授に就任したが、1940年(昭和15年)、病気のため辞職し、紀見村に戻って百姓をしながら、孤高の研究生活に入った。
紀見村の環境が、岡の思索に大きな影響を与えたことは想像に難くない。
紀見村はどんな場所か?

和歌山の紀見峠…数学者「岡潔」は祖父から薫陶を受けた」というお誂えの文章が産経新聞に載っているので引用しよう。

 新興の住宅が建ちならぶ和歌山側から、うねうねとまがりくねる山道を登った。「峠谷川」と書かれた鉄橋をわたると、山の鞍部のあたりで小さな集落に行きあたった。紀見峠である。
 さらに行くと、峠のいただきあたりに、
 「岡潔生誕の地」 という大きな碑が立っていた。
・・・・・・
 紀見峠は標高385メートル、街道をややおりたところの標識には「大阪府」とあり、裏手にまわると「和歌山県」とあった。
 峠沿いの道は、もちろん高野街道である。江戸期から明治にかけて、白装束に「同行二人」と書かれた高野詣での参詣者は、河内からこの峠を越えて紀州に入った。紀ノ川をわたり、九度山西側の慈尊院から、町石道(ちょういしみち)と呼ばれる、昼でも薄暗い峻険(しゅんけん)な山道を高野山に向かった。
 峠には、旅籠(はたご)が何軒かあった。参詣者の多くは峠にたどりついたとき、一息をつくために泊まった。その中に、「岡屋」という屋号の旅籠があった。
 岡潔の実家であり、曽祖父の代まで営業していた。明治33年、奈良方面から和歌山をつなぐ紀和鉄道(現・JR和歌山線)が開通すると、宿泊客は激減した。
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 街道からは、ときたま紀州の平野から薄青く延びた深々とした山々ものぞめた。あのはるかかなたに、御大師さまのいる高野山があった。
 「紀見」という地名には、ようやく、ここまでたどりついたという、参詣者の安堵の念がこめられているような気がする。
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高野街道は下図のように京・大坂と高野山を結ぶ街道である。
2_2
高野街道

グーグルアースで地勢を見てみよう。
5_2

かなりの山地である。
紀見峠は、大阪府と和歌山県の境にある。
4
高野街道の紀見峠

このような孤絶した環境の中で、種子から実を育てるように、数学の最先端のアポリアに取り組み、世界の研究者に先駆けて花を咲かせたのである。

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