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2016年9月

2016年9月30日 (金)

GPIFの株式運用拡大の結果/アベノポリシーの危うさ(97)

年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の運用実績が、今年4~6月期で約5兆2342億円の損失になった。
2期連続の巨額赤字である。
Ws000000_2
年金運用で赤字続き、大丈夫?


安倍政権は2014年10月末に年金資金運用の基本を大転換し、リスク資産への投資を拡大した。
その結果が巨額の損失である。
27日午後の衆院本会議で、民進党の野田佳彦幹事長の代表質問に対し、「年金財政上必要な収益を十分に確保している。市場動向などによる短期的な評価損による年金財政上の問題は生じず、年金額に影響することは全くない」と答えた。

安倍政権誕生の契機となった衆院解散をした野田氏が幹事長として質問に立つというのも違和感があるが、安倍首相の答弁は問題の本質から逸れているだろう。
そもそも長期的に保全すべき年金資金をリスク市場に投下して運用することが問題なのである。
2014年10月に安倍政権が年金資金運用の基本を大転換するまで、リスク資産への投資は抑制されていたのである。

経済・金融の予測には限界がある。
ならば公的資金の運用は保守的にならざるを得ないのだ。
GPIFが金融変動を読み抜く力を持っているとは到底思えない。
民間の事業者であれば、厳しく責任を問われるような運用実績であるにも拘わらず、GPIFについては責任を問われることもない。

GPIFが日本株のシェアを高めた結果、2037銘柄を保有し、時価総額の合計は、31兆4671億円強に達している。
GPIFは信託銀行などに委託して間接的に株を保有しているので、各企業が公表する「大株主」名簿には登場しない。
時価総額1000億円超の72社の株主構成は下表のようである。
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GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人) 筆頭株主にズラリ

株式シェアを高めた結果、短期的な株価形成には有効だっただろうが、筆頭株主となってしまった。
クジラどころか「シン・ゴジラ」のようであり、健全な市場とは言えなくなっている。

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2016年9月29日 (木)

象徴の行為としての「国見」/天皇の歴史(8)

天皇、皇后両陛下が、岩手国体総合開会式などに出席するため、岩手県を訪問し、東日本大震災の被災地で復興状況を視察された。
震災後、初めて訪れた大槌町の「三陸花ホテルはまぎく(旧浪板観光ホテル)」では、出迎えた千代川茂社長に、天皇陛下が「頑張りましたね」とねぎらいの言葉を掛けられた。
このニュースに接し、天皇陛下の生前退位(譲位)へのお気持ちの表明の中の次の一節を思った。

私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

「象徴」という言葉はWikipediaでは次のように説明されている。

象徴(しょうちょう)とは、抽象的な概念を、より具体的な事物や形によって、表現すること、また、その表現に用いられたもの。一般に、英語 symbol(フランス語 symbole)の訳語であるが、翻訳語に共通する混乱がみられ、使用者によって、表象とも解釈されることもある。

  • ハトは平和の象徴である - 鳩という具体的な動物が、平和という観念を表現する。
  • 象徴天皇制 - 日本国憲法第1条では「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」と規定される。

例示されたように、天皇陛下が日本国憲法第1条を踏まえて発言されていることに意味があるのではなかろうか。

「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」とは、端的に言えば日本という国のアイデンティティということであろう。
それを皇国史観では「国体」と呼んだ。
そして、小堀桂一郎日本会議副会長は「生前退位は国体の破壊に繋がる」としたのである。
⇒2016年9月 5日 (月):「国体」とはどういうものか/天皇の歴史(4)

今上天皇は、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅」を「象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」と言っておられるのだ。
これは古代において、「国見」と呼ばれた行為を連想させる。
デジタル大辞泉は「国見」を次のように解説している。

天皇や地方の長(おさ)が高い所に登って、国の地勢、景色や人民の生活状態を望み見ること。もと春の農耕儀礼で、1年の農事を始めるにあたって農耕に適した地を探し、秋の豊穣を予祝したもの。
「天の香具山登り立ち―をすれば」〈万・二〉

用例の歌は、『万葉集』冒頭の第二首の舒明天皇作と伝えられている歌である。

大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原はかまめ立ち立つうまし国そあきづ島大和の国は

小学館「日本古典文学全集萬葉集」は次のように訳している。

大和にはたくさんの山々があるが、特に頼もしい天の香具山に登り立って国見をすると、広い平野にはかまどの煙があちこちから立ち上がっている、広い水面にはかもめが盛んに飛び立っている。本当によい国だね(あきづ島)この大和の国は

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藤原京を歩く~藤原宮跡・香久山

香具山から見れば、いわゆる大和が一望できると思われる。
ただし藤原京は天武朝に計画され、持統朝に実現したと考えられている。
⇒2008年1月 2日 (水):藤原京の造営
したがって、舒明天皇が藤原京を眺めたということではない。

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2016年9月28日 (水)

国石・ヒスイの古代における流通/やまとの謎(115)

水晶か、翡翠か、それとも…
諸候補があった「日本の石(国石)」について、9月24日、日本鉱物科学会が翡翠を選定した。
翡翠は約5億年前に海洋プレートが沈み込む地中深くで生まれた宝石と言われる。
Wikipediaでは以下のように解説している。

日本では古代に糸魚川で産出する硬玉の翡翠が勾玉などの装飾品の材料とされ珍重されていたと推定されるが、奈良時代以降その存在は顧みられなくなっていた。日本での翡翠の産出が再発見されたのは1938年(昭和13年)のことである。2008年(平成20年)北京オリンピックのメダルにも使われている。現在では翡翠は乳鉢の材料としても馴染み深い。

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東京新聞9月27日

 国石は以前から俗説があったため、日本鉱物科学会は国鳥(キジ)や国蝶(オオムラサキ)のように学術団体として正式に選定することを決め、一般からの意見公募を行うなど選定作業を進めてきた。
 金沢市で開かれた学会総会では、最終5候補の推薦者が提案理由の発表を行った後、会員による投票でヒスイ71票、水晶52票となり、国石が決定した。ヒスイの応援演説に立ったフォッサマグナミュージアム(糸魚川市)の宮島宏館長は、「プレートが沈み込む場所でしか産出されないヒスイは日本ならではの美しい宝石。縄文時代から古代人が加工して利用した世界最古の歴史もある」などと訴え、多くの会員に認められた。
「国石」にヒスイ選定…産地・糸魚川は喜びの声

現在、古代史ファンならずとも、古代の遺跡で見つかるヒスイの産地が糸魚川市の姫川流域であることは知っているだろう。
しかし、明治になって遺跡からヒスイが発掘され出した当時は、日本にはヒスイの産地は無いというのが学会の定説だったという。
当時日本に一番近いヒスイの産地は、ミャンマー北部・雲南方面であり、ここらが日本のヒスイの産地であろうというのが一般的な見方だった。
糸魚川出身で、早稲田大学に学び「都の西北」の作詞者でもある相馬御風は、記紀に記される「玉」はヒスイではないかと考えた。

イハレビコの祖先、天孫の日向三代が、アマテラスに豊葦原の瑞穂の国を治めるように仰せになった前の葦原の瑞穂の国を治めていたのは、出雲の国のオホクニヌシ(ヤチホコ)であったが、高志の国のヌナカハヒメを妻にしている。このヒメは、糸魚川の姫川のヒメであり、ヒスイの産地のヒメである。また、オホクニヌシは天孫系からも妻にしている。それは、アマテラスとスサノヲがウケヒして、アマテラスがスサノヲの十拳の剣を噛み砕いて、噴出した三女神のひとり、タキリビメである。縄文時代の出雲の国の権力者が、糸魚川のヒスイの鉱山を手に入れるため、嫁にした事になる。
翡翠勾玉から見た古代史 

御風は、ヌノカワと読める勾玉の産地は糸魚川を流れる「姫川」の事ではないかと考え、これを地元の人々に説いて昭和14年、探索していた地元住民により初めて姫川支流の小滝川上流でヒスイが発見された。
糸魚川でヒスイが産出するという事が考古学会で認められて13年後(その間第二次世界大戦と戦後の混乱期をはさむ)の昭和29年、初めて糸魚川市の長者ケ原遺跡に本格的な学術調査が入った。
その結果、完成品のペンダント2個を含むヒスイの原石が250点も出土した。
さらにその多くが加工途中の半製品或いは破損品である事が判明し、長者ケ原はヒスイを中心とする石材の一大加工センターであった事が判明した。

三内丸山遺跡でもヒスイは出土している。
⇒2016年9月 9日 (金):三内丸山遺跡と縄文人のルーツ/技術論と文明論(66)
縄文時代の交易圏の広さを再認識させられる。

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2016年9月27日 (火)

日本社会の価値意識の転換/技術論と文明論(73)

東日本大震災によって、私たちの生活のあり方を根本的に問い直さざるを得なくなった。
特に、福島原発事故によって、エネルギー政策が厳しく問い直されるていると言えよう。
2010年6月、民主党政権下で閣議決定したエネルギー基本計画は、CO2を排出しない原子力に比重を置かざるを得ないという判断のもと、2030年までに原子力発電所を14基新増設し、電力の53%を賄うという目標を設定した。

しかしフクシマの事故以前に、この計画のロジックはすでに破綻していたのである。
地球温暖化防止というエコロジーのために、原子力利用を推進するという論理は成り立たない。
エネルギー制約、環境制約の中で、人類はどのような針路を目指すべきか?

LOHAS(Lifestyles Of Health And Sustainability :健康と持続可能性の、またこれを重視するライフスタイル)が言われるが、政策としてどう位置づけるか?
ブータンでは「国民総幸福度」という概念が使われているという。
「成長の限界」が真剣に問われた1960年代末から70年代初頭にかけての時代と似ているような気がする。
⇒2011年12月24日 (土):『成長の限界』とライフスタイル・モデル/花づな列島復興のためのメモ(15)

新しい幸福論』岩波新書(2016年5月)を上梓した橘木俊詔京都女子大客員教授が、東京新聞のインタビューに応えている(9月24日掲載)。
内閣府の世論調査では、「物質的な豊かさよりも、心の豊かさ」を重視する人が増えている。
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国民が人口減を選択したということは、経済減速の道を選んだのと同義である。
財界からも、「2%成長(実質)などもう無理」という声が出ている。
人口減で、労働力も家計の需要も減っていく。

経済が弱くなると、アジアの中で発言力が低下するという声があるが、脱覇権主義で行くべきだ。
ヨーロッパでは世界的な覇権などと無関係なデンマーク、スウェーデン、スイス、オーストリアは経済的に豊かで、幸福度が高い生活を送っている。
日本は成熟した経済だから、脱経済成長に舵を切るべきだ。

日本の格差や貧困は深刻である。
格差を是正した方が経済を強くできる。
米国流の公助に頼らない自立の道を選ぶか、ヨーロッパ流の福祉国家の道を選ぶのか。
Or1609242

「トリクルダウン」という言葉が、2014年の新語・流行語大賞にノミネートされた。
甘利経済再生担当相(当時)などアベノミクスを喧伝する人たちが盛んに使ったためである。
しかしそれが幻でしかないことは既にはっきりしたであろう。
⇒2016年6月11日 (土):トリクルダウンの幻/アベノポリシーの危うさ(79)
エネルギー開発に限っても、再生可能エネルギー技術、省エネルギー技術、廃炉技術など取り組むべきテーマは多い。
大艦巨砲主義に失敗を繰り返すべきではない。

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2016年9月26日 (月)

回路から漏出する電子とセレンディピティ/技術論と文明論(72)

チップの微細化による電子の漏出が、「ムーアの法則」の限界をもたらしつつある。
⇒2016年9月21日 (水):「ムーアの法則」の限界とAIの可能性/技術論と文明論(69)
日本経済新聞の解説記事を読んでいて、今年度の小林秀雄賞を受賞した『数学する身体』新潮社(2015年10月)に、面白いことが書いてあったことを思い出した。
⇒2016年9月10日 (土):『数学する身体』の小林秀雄賞受賞/知的生産の方法(156)

森田さんは「進化電子工学」における「2つのブザーを聞き分けるチップ」を作る研究を紹介している。
人間がこういうチップを設計することはさほど難しいことではないが、人工進化によって作り出そうという実験である。
およそ4000世代の「進化」の後にタスクを達成するチップが得られた。
しかし、奇妙なことには、このチップは100ある論理ブロックのうち、37個しか使っていず、しかもその中の5個は他の論理ブロックと繋がっていないのだ。
そして、他の論理ブロックと繋がっていない孤立した論理ブロックの1つでも取り除くと、回路は働かない。

良く調べてみると、この回路は、電磁的な漏出や磁束を巧みに利用していた。
ノイズとして排除されるべき漏出が、回路基板を通して、チップからチップへ伝わり、タスクをこなすための機能的な役割を果たしていたのである。
チップは回路間のデジタルなやりとりだけでなく、アナログの情報伝達回路を進化的に獲得していたということになる。

このことはセレンディップと呼ばれる予期しない創造的な発見と関係があるように思われる。
あるいは日常的な業務においても、ブレーンストーミングと呼ばれるような、異質の視点が有効であることと共通するのではないだろうか。
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ブレインストーミングを成功させるためには何が必要?

森田さんは次のように書いている。

 人間が人工物を設計するときには、あらかじめどこまでがリソースでどこからがノイズかをはっきり決めるものである。この回路の例で言えば、一つ一つの論理ブロックは問題解決のためのリソースだが、電磁的な漏れや磁束はノイズとして、極力除くようにするだろう。だがそれはあくまで設計者の視点である。設計者のいない、ボトムアップの進化の過程では、使えるものはなんでも使われる。結果として、リソースは身体や環境に散らばり、ノイズとの区別が曖昧になる。どこまでが問題解決をしている主体で、どこからがその環境なのかということが、判然としないまま雑じりあう。

アルファ碁が考えた(発見した)新しい打ち回しが、新定石を生んでいるという。
「ムーアの法則」が限界を迎えるような微細な回路における電子の漏出が、偶然に、まったく新しい質を獲得することになるのかも知れない。

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2016年9月25日 (日)

金融緩和政策の「新しい判断」/アベノポリシーの危うさ(96)

日銀は9月21日の政策決定会合で金融政策の総括的な検証を行い、金融政策の枠組を変えた。
金融政策の目標を国債買い入れなどの「量」から「金利」に転換し、長期金利に目標を設定する世界的にも異例の手法を導入し、0%程度に誘導するという。
黒田東彦総裁は会合後の記者会見で消費者物価上昇率が2%を超えるまで金融緩和を続けると宣言した。

「戦力の逐次投入はしない」として、黒田東彦日本銀行総裁が、異次元の金融緩和に踏み切ったのは2013年4月であった。
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日銀超弩級緩和の衝撃【前編】

爾来3年半が経過した。
GDPも消費も増えず、2年で2%というインフレ目標も達成されていない。
アベノミクスの基軸というか唯一の政策の金融政策の限界は明らかである。
⇒2016年4月 5日 (火):金融政策だけではどうにもならない/アベノポリシーの危うさ(48)
⇒2016年4月28日 (木):金融緩和政策の末路/アベノポリシーの危うさ(58)

財務省出身で嘉悦大学教授の高橋洋一氏は次のように解説している。

  今のところ、失業率は3%と低い。ただし、まだ賃金は全面的に上がっていない。ということは、まだ完全雇用に遠いというわけだ。筆者の試算によれば、完全雇用は失業率2.7%程度であり、まだ失業率を下げる余地がある。しかも、まだインフレ率は目標の2%に達していない。この場合、さらに金融緩和が必要な状態だ。
   こうした立場からみれば、今回の日銀は、金融政策の枠組みを変えたが、その中身をみると、金融緩和はしていない。やり方を変えますと言いながら、何もやらなかったわけだ。
   マスコミはこの方法に騙される。新しい方式の解説で頭がパンパンになって、何もやっていないことを忘れるのだ。筆者は、こうした現象をかつて「マスコミの小鳥脳」といったことがある。
   どうしてこうなったのか。その伏線は、日銀、財務省、金融庁の3者会合が作られたことにある。この会合は、情報交換の場であるが、会合に出席しているのはトップではなく、事務方である。ただし、事務方によって、重要な政策が形成されるので、こうした会合は侮れない。
   その中で、今のマイナス金利はこれ以上やらない、国債買入増額の量的緩和もこれ以上やらないという意思形成が行われたのだろう。
日銀にだまされたマスコミ 「枠組み変更」、実は「何もやっていない」

私は高橋氏の見方が正しいのかどうか分からない。
しかし無軌道な金融緩和政策が拡大すれば、深刻な副作用が生じる恐れがあることは政策実務者の共通認識ではないのだろうか。
安倍首相は2014年11月に、消費税について以下のように断言した。

 再び延期することはない。ここで皆さんにはっきりとそう断言致します。平成29年4月の引き上げについては、景気判断条項を付すことなく確実に実施致します。
 3年間、3本の矢をさらに前に進めることにより、必ずや、その経済状況をつくり出すことができる、私はそう決意しています。

ところが、2016年6月1日、国会最終日に、消費税増税先送りを表明した。
今までの説明との違いを「新しい判断だ」と強弁した。
もちろん、状況に応じて柔軟に判断すべきであることは当然であるが、アベノミクスと称する経済政策の根幹に係る問題である。
エンジンをさらに吹かす前に、その政策の限界を認識することが重要であろう。

金融政策頼みのアベノミクスと称する経済政策の失敗は明らかである。
現実を見ないで楽観論に縋っていると、東亜・太平洋戦争や核燃料サイクルと同様の過ちを繰り返すことになる。
⇒2016年5月14日 (土):PDCAなき安倍政権の政策/アベノポリシーの危うさ(64)
GDP600兆円などという現実離れした目標から、貧困大国と言われる現実から目を逸らすべきではないだろう。
OECDが2014年に発表した報告書で、格差拡大は経済成長を阻害すると指摘している。
経済成長に代わる社会発展像が問われているのである。

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2016年9月24日 (土)

新薬探索とAIの可能性/技術論と文明論(71)

今年もノーベルウィークが近づいてきた。
トムソン・ロイターの「トムソン・ロイター引用栄誉賞」は、学術論文の引用データ分析から、ノーベル賞クラスと目される研究者を選出することで知られる。
15回目となる2016年は、日本人研究者3名を含む合計24名が受賞した。

日本からは、化学分野において2名、医学・生理学分野から1名が選出された。
崇城大学DDS研究所特任教授・熊本大学名誉教授の前田浩氏と国立がん研究センター先端医療開発センター新薬開発分野分野長の松村保広氏は「がん治療における高分子薬物の血管透過性・滞留性亢進(EPR)効果の発見」、京都大学客員教授の本庶佑氏は、「プログラム細胞死1 ( PD - 1 )およびその経路の解明により、がん免疫療法の発展に貢献」が受賞対象となった。
果たして、3人の中からノーベル賞受賞者が出るのであろうか、それとも他の人が受賞するのか。

新薬開発は現に病気になっている人や家族にとっては大きな期待である。
しかしその開発コストは大幅に高騰している。
一般に新薬が世の中に出るプロセスは以下のようである。
Photo
医薬品業界の分析・研究開発

厚生労働省は人工知能(AI)を使い、高い効果の見込める画期的新薬の開発を後押しするという。
抗がん剤といった新薬のもとになるシーズ(種)と呼ぶ新規物質を見つけ、数年内に研究者らに提案することを目指し、グローバルに新薬開発競争が激しさを増す中、巨額の費用が必要で成功率も低い新薬の開発に向けて国の支援を強化する。

Ai_2 まず民間企業がある程度開発したAIを購入するなどして、抗がん剤など目標とする新薬の分野に関する国内外の膨大な論文やデータベースを読み込ませる。学習して見つけたシーズを動物実験などで検証し、AIがさらにその結果を学んで能力を高めていく。
 開発したAIは国の医療研究の司令塔と位置づけられる日本医療研究開発機構(AMED)を中心に、理化学研究所や産業技術総合研究所などが参加する「創薬支援ネットワーク」内で活用する。厚労省はまず17年度に3億5000万円を投じ、18年度以降も予算要求額を拡大する。
 AIは金融や製造業など幅広い産業で実用化が進んでいる。医療でも東京大学とIBMは15年から、がん研究に関連する論文をAIに学習させ、診断に役立てる臨床研究を実施中だ。東大の東條有伸教授は「人間だと1カ月近くかかることをAIなら数分で結果にたどり着く」と評価する。
 抗がん剤やC型肝炎、生活習慣病などに用いる画期的新薬を開発するには、病気の発症に関係する遺伝子やたんぱく質に作用する新薬候補を見つける必要がある。ただ膨大な候補の中から有効な化合物を絞り込み1つの新薬ができるまでに10年超の期間と数百億円以上を要するとされる。
 グローバルな新薬開発競争の中で日本勢の創薬力はなお低いとの見方もあり、厚労省は国の有力な研究組織を束ねて官民連携を強化し、研究者らの取り組みを支える必要があると判断した。
新薬候補、AIが提案 論文学習し新物質探る

AIが実用域に入ってきたことは確かであろう。
ノーベル賞級の研究者を凌駕するような成果を出せるのか、楽しみである。

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2016年9月23日 (金)

破綻しているのは「もんじゅ」and/or「核燃料サイクル」/技術論と文明論(70)

政府は21日、高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)について関係閣僚会議を開き、「廃炉を含め抜本的な見直しをする」とした。
ようやく廃炉に向かうことになるのであろうか。
原子力規制委員会が運営者を代えるよう、文部科学省に勧告してから、11カ月余りである。
「見切り千両」のコトワザの説くように、意思決定が遅れる分だけ、損失は大きくなる。
⇒2015年11月 6日 (金):もんじゅは廃炉にして原発政策を見直すべき/原発事故の真相(135)

一方で核燃料サイクルは維持し、新設の「高速炉開発会議」で、年末までに今後の方針を出すという。
核燃料サイクルは、原発の使用済み燃料からプルトニウムを取り出し、再利用する。
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東京新聞9月22日

プルトニウムを燃やすもんじゅはサイクルの柱だ。
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池上彰『行き詰まった核燃料サイクル』週刊文春9月15日号

もんじゅは、危険なナトリウムを冷却材に用いる必要があり、構造も複雑で、1994年に本格稼働したものの1995年にはナトリウム漏れ事故を起こして停止した。
その後もトラブルが相次ぎ、稼働日数は20年以上の期間の累積で250日にとどまっている。
停止状態でも5000万円/日の維持費が必要だとされる。

「もんじゅ」を中心とした核燃料サイクルには、少なくとも12兆円以上が費やされてきた。
施設の維持・運営費で年間約1600億円が必要である。
廃炉も、もんじゅを運営する日本原子力研究開発機構の試算によると、30年の期間と3000億円の費用がかかる。
「もんじゅ」の実態を知ったら、文殊菩薩も怒るだろう。
一方、地元福井県の西川知事はこの方針に憤っている。

 原子力関係閣僚会議の終了後、松野文部科学大臣は福井県庁を訪れ、福井県の西川知事らに「もんじゅ」について廃炉を含め抜本的に見直す方針を伝えました。
 「今回の決定を地元として見ていると、目先にとらわれた場当たり的な方針と思われてならない」(福井県 西川知事)
 さらに、西川知事は「無責任極まりない対応であり、県民には理解できない」と強く抗議し、地元への説明責任を果たすよう求めました。
文科相が福井県知事に説明、西川知事「無責任極まりない対応」

ボタンを掛け違うと損失は計り知れない。
破綻しているのは「もんじゅ」なのか「核燃料サイクルなのか」。
自民党の河野太郎行政改革推進本部長(前行政改革担当相)は22日、東京新聞のインタビューで、「『もんじゅ』だけでなく核燃料サイクル全体をやめるべきだ」と述べた。

 河野氏は、使用済み核燃料を再処理し通常の原発で再利用する「プルサーマル」についても「コストが高いことは確実だ」と指摘した。政府は「プルサーマル」を、もんじゅとともに核燃サイクルの柱の一つと位置付けている。
 その上で、政府が二十一日の関係閣僚会議でもんじゅ以外の核燃サイクル維持の方針を打ち出したことを批判。「党行革本部で核燃サイクルなど原発予算を洗い出し、国民に合理的に説明できないものは認めない」と強調した。
自民・河野行革推進本部長「核燃料サイクル中止を」 不合理予算認めず

廃炉のコストを国民全体で負担することが検討されているという。
原発は低コストだというのならば、原発事業者が廃炉コストまで賄うのが当然だろう。

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2016年9月22日 (木)

キトラ古墳の極彩色壁画/やまとの謎(114)

キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)の展示施設「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」が古墳の北隣に完成した。
同古墳は、奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳で、亀虎古墳とも書く。
墳丘にある石室内に極彩色の壁画が発見され、高松塚と共に保存事業が進められている。
Photo
キトラ古墳

壁画は1983年に発見された。
劣化が進んでいたため2004〜2010年に順次剥ぎ取って、カビや汚れを除去するなどの修復を続けている。
四神像のうち、「青龍」「玄武」は年内に修復を終える予定だ。

 金箔(きんぱく)で表現された約350個の星、それを朱で結んだ少なくとも74の星座たち。この美しい天文図の存在は、最初の壁画の発見から15年後、1998年に確認された。他にも、北極星を中心に常に星が地平線下に沈まない範囲を示す円(内規)、天の赤道などが精密に描かれている。いつ、どこで見上げた夜空なのか。その謎解きに挑んだ2人の天文学者の研究成果が昨年7月、発表された。
 地球が自転する際の軸となる「地軸」の傾きは時代によって変わり、星の見え方も変化する。
 中村士・元帝京平成大教授(天文学史)は、古代中国で国家の運命を占う際に使われた28星座「二十八宿」の位置に着目し、天文図が描いたのは紀元前80年の前後40年の星空だと推定。一方、国立天文台の相馬充助教(位置天文学)は描く際の誤差が少ないと考えられる内規や赤道に近い星11個で計算し、紀元後300年の前後90年に、古代中国の都、洛陽や長安(現西安)を通る北緯約34度で観測したと結論付けた。
 二つの分析は一見矛盾するように思えるが、キトラ古墳の調査を担当する奈良文化財研究所飛鳥資料館の石橋茂登・学芸室長は「古い星図に修正を加えながら、中国や朝鮮半島との交流を通じて日本にもたらされたのでは」と想像する。紀元前4世紀に活躍した中国の天文学者、石申の観測記録と伝わる「石氏星経」が原典になったと考えられるという。
息をのむ極彩色壁画 世界最古天文画も

キトラ古墳の被葬者は誰か?
高松塚と同様に、ほぼ藤原京の中央、朱雀大路の南への延長上、いわゆる「聖なるライン」のやや西へずれたところに位置している。
この中央線上に、菖蒲池古墳、天武・持統天皇陵、文武天皇陵がある。
⇒2008年9月 4日 (木):高松塚古墳のポジショニング
その位置からすると、やはり天武・持統天皇の近親者ということになろうか。
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飛鳥プロジェクト

天武天皇の長男、高市皇子(696年死去)や、陰陽師の安倍晴明が子孫ともされる右大臣、阿倍御主人(703年死去)との説があるようだ。

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2016年9月21日 (水)

「ムーアの法則」の限界とAIの可能性/技術論と文明論(69)

日本の囲碁界では、井山裕太七冠がタイトルを独占中であり、「誰が、何時」タイトルを奪取するかが大きな関心事である。
高尾紳路九段が1,2局を先勝した名人戦が、9月20日、21日に行われ、高尾九段が3連勝した。

 残り2分になった井山名人が、169手目を見て投了を告げた。高尾挑戦者の開幕3連勝が決まった。10期ぶりの名人奪取まで、あと1勝とした。
 3連敗となった井山名人は早くもカド番に追い込まれた。名人防衛、七冠維持には残り4連勝しかない。
第41期囲碁名人戦七番勝負

常識的には高尾九段が絶対的優位と言えようが、井山七冠だけに予断を許さない展開だ。
囲碁界では、AI(人工知能)の話題も広く関心を集めている。
人間が優位性を保つ最後の砦と言われてきた囲碁において、世界最強棋士の1人と言われる韓国の李セドル9段に勝った。
グーグルのアルファ碁といわれる人工知能で、アルファ碁は、ディープラーニングという手法によって急速に腕を上げたと言われる。
⇒216年5月24日 (火):ディープラーニングの発展と脳のしくみ/知的生産の方法(150)

演繹的に有利な手を導出するのではなく、局面のパターン認識によって最善手を発見するのが、従来のソフトとの大きな違いである。
ディープラーニング(深層学習)によって、人工知能は急速に人脳らしくなり、クルマの自動運転等にも大きな貢献をしている。
自動運転の実現は、技術的にはそう遠くないであろうと言われている。

ディープラーニングを可能にした背景には、半導体技術の進歩による集積回路の発展がある。
良く知られているように、集積度に関する「ムーアの法則」がある。
インテルの創業者の一人のG・ムーアが1965年に発表した予測モデルである。
約半世紀の間、おおむねムーアの法則通りに推移してきたが、さしものムーアの法則にも陰りが見えてきたのではないかと指摘されている。
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日本経済新聞9月18日

集積度の向上は、チップの微細化を追求することで達成されてきた。
微細化、つまり半導体回路のトランジスターの寸法(プロセスルール)を狭めることは、ICの高性能化に直結する。
寸法を狭めれば狭めるほど、トランジスターの性能は高まり、1つのチップ内に収まるトランジスターの数も増やせる。
その結果、チップの高性能化や低消費電力化、低コスト化を図ることができる。

その微細化が限界を迎えているというのだ。
回路を高速で作動させると熱が発生するが、集積度を高めると、放熱の課題が重要になってくる。
回路の電圧を下げたり、基板の熱特性の改良などで切り抜けてきたが、限界に近づいている。
電圧を低下させると、トランジスタの誤作動に繋がるし、基板材料にも限界がある。
⇒2009年8月26日 (水):熱と温度 その3.熱伝導率と熱拡散率/「同じ」と「違う」(5)
⇒2009年8月27日 (木):熱と温度 その4.熱伝導率と熱拡散率(続)/「同じ」と「違う」(6)

また微細化が進むと、電子が配線から漏出するようになる。
これはノイズの発生に直結する。
漏出は微細化によって指数関数的に増えていき、S/N比は急速に低下していく。

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2016年9月20日 (火)

三内丸山遺跡の消失と列島合体/技術論と文明論(68)

米田良三『列島合体から倭国を論ず―地震論から吉野ケ里論へ』新泉社(1998年8月)では、遺跡の消失が巨大地震によるとしている。
約4000年前に、東北日本と西南日本が合体するような地殻変動があり、直径1mの柱が折れるような地震があった。

クリ柱は地下2mのところで、破断しており、底面はさらに45cm深い。
柱穴は柱より太い中子(なかご)を立て、その回りに土を叩き固める「版築」という技法が用いられた。
中子は最後に外される。
法隆寺の心柱と同じである。
三内丸山のクリ柱の破断面は、大きな力による剪断破壊であることを示している。

旧石器時代日本群島、朝鮮半島、樺太などは太平洋の中にあった。
群島は太平洋プレートにのって西進し、ユーラシア大陸にぶつかる。
西日本はほぼ現在の地図に近い姿であったが、東日本は島の集合であった。
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プレートの境界が、樺太と大陸の間を通り、フォッサマグナ部分から、南海トラフ、琉球海溝へと繋がっていた。
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西日本と東日本の間は、東のプレートが潜り込む形で海峡化し、海峡のところどころに熱水が沸き出す。
『書経』に「暘谷」と記される海峡である。
太平洋プレートを押す力が中部山岳を高め、関東平野を海の中から押し上げる。
そして4000年前に東と西が合体し、海峡が消滅する。
黒潮が日本海に入らなくなり、雪国が誕生する。
交通路も消滅し、三内丸山遺跡は放棄された。

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2016年9月19日 (月)

『日本書紀』と「壬申の乱」/天皇の歴史(7)

大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子(天智天皇の長子)が争った「壬申の乱」は、古代史最大の争乱と言われる。
『日本書紀』の天武天皇紀は例外的に二巻で構成されている。
上巻が「壬申の乱」、下巻がそれ以降である。
つまり「壬申の乱」は、『日本書紀』でも特別な扱いである。
瀧音能之『封印された古代史の謎大全』青春出版社(2015年12月)で、その概略を見てみよう。

ことの発端は、病が篤くなった天智天皇が大海人皇子に位を譲ると言ったことである。
大海人皇子は固辞して、仏道修行のため吉野に入る。
天智天皇は大津宮で亡くなると、大海人皇子は村国連男依らを美濃国へ派遣し、東国の兵の確保と不破道の閉鎖を命じ、自身も鸕野讃良皇女(後の持統天皇)らと東国へ出発する。
その後、高市皇子(大海人皇子の長男)が加わり、体制が次第に整って行った。

大海人皇子が不破に入ると、尾張国守の小子部連鉏鉤が帰順し、大伴吹負が大海人皇子側について挙兵した。
体制を整えた大海人皇子側は、大和と大津に向かって進撃する。
そして大友皇子軍と瀬田橋で激闘の末、大海人皇子側が勝利し、大友皇子は山崎で自殺する。

「壬申の乱」の概要は、下図に要領よくまとめられている。
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また、争った大海人皇子と大友皇子の関係は下図のようである。
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『日本書紀』の記述は精細であるが、「壬申の乱」についての不明点は多い。
⇒2008年1月21日 (月):壬申の乱…(ⅰ)研究史

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2016年9月18日 (日)

「壬申の乱」と十市皇女/天皇の歴史(6)

万葉集の中でも、額田王の「茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」は人気ベストテンは固いだろう。
万葉集には次のように書かれている。

  天皇、蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

  皇太子の答へましし御歌(明日香宮に天の下知らしめしし天皇、諡して天武天皇といふ)
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆえにわれ恋ひめやも

  紀に曰はく、天皇七年丁卯、夏五月五日、蒲生野の縦猟したまふ。時に大皇弟・諸王・内臣と群臣、悉皆従そといへり。

「袖振る」は、この時代、恋しい人の魂を自分のほうへ引き寄せる呪式のようなものだったという。
つまり、われわれが手を振るような軽い意味ではなく、明らかな求愛の仕草だったらしい。
額田王はこの時点では天智天皇の妻となっていたが、この歌で袖を振っている大海人皇子の妻でもあった。

もっともこの2首は、相聞(恋歌)の巻にではなく、雑歌(宮廷儀礼の歌)の巻に収められていることなどから、宴会の席でのざれ歌という解釈が有力である。
⇒2009年9月23日 (水):蒲生野の相聞歌の解釈-斎藤茂吉と大岡信

二人の間の子供が十市皇女で、大友皇子(天智天皇の子)と結婚した。
「壬申の乱」は皇女から見れば、父と夫が皇位を争ったことになる。

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弘文天皇陵

新薬師寺(奈良市高畑町)の隣にある鏡神社の比売塚は、「高貴の姫君の墓」として語り伝えられており、ここに十市皇女が埋葬されているという説が有力である。
比売塚に、1981年に「比売神社」が建てらた。
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十市皇女・Wikipedia

十市皇女が伊勢神宮参詣の時、お伴の吹黄刀自が作ったとされるのが、万葉集巻1-22の次の歌である。

川の上のゆつ岩村に草生さず常にもがもな常処女にて

十市皇女参赴於伊勢神宮時見波多横山巌吹芡刀自作歌
河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手

「ゆつ」は、「清浄な、神聖な」というような意味であり、「斎つ」と、斎王・斎宮の斎を使う。
いつまでも清らかな若い乙女のままであれ、と皇女の常若を願う歌だと解釈されている。
伊勢神宮の式年遷宮は、この「常若の願い」の具現化とも考えられる。
「壬申の乱」には分からないことが多いが、十市皇女が謎へのアプローチの1つのキーかも知れない。

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2016年9月17日 (土)

三内丸山遺跡の出現と鬼界カルデラ噴火/技術論と文明論(67)

三内丸山遺跡は、5500年前に出現し4000年前に消失した。
⇒2016年9月 9日 (金):三内丸山遺跡と縄文人のルーツ/技術論と文明論(66)
その出現と消失の要因はどう考えられるか?
米田良三『列島合体から倭国を論ず―地震論から吉野ケ里論へ』新泉社(1998年8月)に驚くべき仮説が書かれている。

米田氏は、奈良の法隆寺が太宰府の観世音寺を移築したという「法隆寺移築論」で有名である。
法隆寺には有名な「再建-非再建」論争があるが、もう一つ、「移築論争」というものがある。
私はかつて「法隆寺移築シンポジウム」なるものを傍聴したことがあるが、発表者は多かれ少なかれ、古田武彦氏の影響を受けた人々であった。
私には法隆寺が移築されたとは信じがたい気がするが、シンポジウムは熱気に包まれていて、大きな違和感があったことを覚えている。

米田氏は上掲書で、次のように論じている。

1.柱の間隔が4.2m
縄文尺という<1尺=35cm>というスケールが使われていたという説を、<420÷35=12>で、切れのいい数字は、施工手順上重要であると肯定する。
法隆寺では<1尺=28.1cm>の尺度が使われていたが、4.2mはこの尺で15尺になる。
三内丸山遺跡の技術と法隆寺の技術は連続している。
2.クリ柱の破断
直径1mのクリの柱が地下2mで破断していた。
柱穴は版築という技法が使われているが、法隆寺の心柱と同じである。
巨大地震が起きて、剪断破壊したのではないか。
3.内転びの手法
天井の高い部屋では、目の錯覚で、垂直の柱が外側に倒れて見える。
柱をわずかに内側に倒すことによって修正できるが、法隆寺の金堂の柱でも用いられている。
三内丸山遺跡の6本柱が、室内空間を意識するレベルであったとし、用途が神殿であった可能性は大きい。

「用途が神殿であった」というのは、梅棹忠夫氏も指摘していた。

1995年、岡田康博さんに案内されて、あの六本柱遺構の前に立ったとき、梅棹さんは「これは神殿やな。太い柱が天に向かってそそりたっていた、てっぺんには鳥籠のような、カミの座がちょこんとおいてあった」と鮮やかなイメージを語った。
なぜ神殿か?都市の起源は交易などの経済活動ではなく、神殿を中心とした情報交換の場であったという仮説をもっていたからだ。アンデスの古代文明、吉野ヶ里、出雲大社から大仏殿につながり、そこにさまざまな都市のあり様が結びついたのだろう。これで「日本文明史の筋道がはっきり見えた」と言ったのである。
じつは、梅棹さんを三内丸山遺跡に連れ出すまでにはずいぶん時間がかかった。考古学への不信感があったからだ。「考古学が信用できんのは、1つの発見で、すべてがひっくり返ってしまう。発見してないもの=0とするからだ」。「細部にこだわらず、大きな構造をとらえて論じるべきだ」と。
三内丸山遺跡は1994年の直径1mの六本柱発見の報道をきっかけに、縄文都市だという説がでて、たくさんの人がつめかけた。ところが、考古学者は否定的だった。それを打ち破り、この遺跡を正しく位置づけたのが梅棹さんだった。「既成概念にとらわれないで、もっと自由に大胆な仮説をたてて考えなさい。そうすればもっと豊かな世界が楽しめるはずです」と梅棹さんは言っていたのだといま振り返って思う。
第1回 ウメサオタダオと三内丸山遺跡

改めて梅棹氏の先見力に敬服する。
「既成概念にとらわれないで、もっと自由に大胆な仮説をたてる」1つの例が、法隆寺移築論かも知れない。

米田氏は、三内丸山遺跡の円筒土器文化は縄文前期の中頃から始まるが、それ以前は縄文尖底土器文化であったという。
円筒土器は鹿児島の6300年前の鬼界カルデラの火山灰の下から発掘されているが、火山灰の降下地域の人が三内丸山に移り住んだのではないか、というのが米田氏の仮説である。

姶良・鬼界カルデラの降灰地域は下図のように想定されている。
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九州南部の縄文文化を崩壊させた鬼界カルデラ

鹿児島の上野原台地の縄文人が三内丸山のルーツであるというのは、アカデミズムの世界では認知されていないだとう。
しかし、それ位のスケールで考えるべき問題だと思う。
縄文中期に西南日本の縄文人口が激減するのも、鬼界カルデラ大噴火が原因であれば整合的である。
⇒2016年9月 6日 (火):縄文の西南日本を壊滅させた鬼界カルデラ大噴火/技術論と文明論(64)

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2016年9月16日 (金)

経営学における戦略概念/知的生産の方法(160)

軍事における戦略という概念が経営学に導入され、企業の経営戦略が論じられるようになったのは、1950-60年代に入ってからであったという。
黎明期の代表的な研究者に、アルフレッド・チャンドラーがいる。
「組織は戦略に従う」(“Strategy and Structure” 1962)という有名な言葉によって知られる。
,しかしこのテーゼは、以下のような含意であると解説されている。
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経営戦略概史(9)チャンドラーは本当に「組織は戦略に従う」と言ったのか?

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三谷宏治、飛高翔『マンガ経営戦略全史 確立篇 』PHP研究所(2016年5月)

これに対して、「戦略は組織に従う」(“Strategic Management” 1979)というアンチテーゼを提起したのが、アンゾフである。
Ansoffの主張は次のようである。

環境変化の乱気流水準が高まれば、組織的な対応に利用できる時間が短縮される。
「組織⇒戦略」というChandlerとは逆の順序の方が、環境変化対応に必要な時間が削減され、予測可能性の低下に対応できる。
「将来的には、環境変化に先駆けて柔軟性の高い戦略能力を構築するようになると予言しても間違いないだろう」
組織は戦略に従う。そして、戦略は組織に従う。

まあ、戦略を構築する「組織能力」と戦略を実践する「組織構造」と「組織能力」を区分して考えれば、「組織は戦略に従い、かつ戦略は組織に従う」とも言うことはできよう。
しかし、組織と戦略というのは分化できるものではないだろう。
そういう観点から、「Strategy as Practice」という考え方が出てきた。
大森信 編著『戦略は実践に従う-日本企業のStrategy as Practice-』 同文舘出版 (2015年10月)は、その解説書である。

同書の戦略と組織と実践の関係は下図のようである。
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企業組織の成長プロセスを一般化すれば以下のように表せる。
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しかしこれは成功企業の場合である。
上図の「革命のステージ」で何らかの蹉跌が起きるのが一般的ではなかろうか。
その失敗は果たして学習可能なものなのだろうか?

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2016年9月15日 (木)

ブロックチェーンの可能性/知的生産の方法(159)

未来の通貨として注目を集めながら、日本の取引所で大規模な消失事件が起きたことから、仮想通貨・ビットコインには、胡散臭いイメージが残っていた。
⇒2014年2月28日 (金):ビットコイン騒動/花づな列島復興のためのメモ(313)

しかし裏側で動いる「ブロックチェーン」という技術は本物のようだ。
例えば日本経済新聞の8月22日付「きょうのことば」欄では、「インターネット以来の発明」としてる。

巨大なサーバーで一括管理する従来の手法に比べてシステムを低コストで構築でき、さらに処理速度も速くできる。さらに「改ざんのないデータを共有する」基礎技術であるため、中央銀行など当局による取引の承認や記録が必要なくなるとの指摘がある。不動産の登記簿や戸籍など、社会インフラを支える新たな情報システムを実現できる可能性があり「インターネット以来の発明」とも呼ばれる。

さらに9月11日には、「IT、地殻変動の足音」という解説記事を載せている。
ブロックチェーンは、仮想通貨分野でまず実用化されたが、契約や資産管理、機械の保守などへの応用を目指し、世界中で実験が進んでおり、産業構造を塗り替える力を秘める新技術というのだ。
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読売新聞も、ブロックチェーンはその応用範囲の広さや低コスト性から、国内の潜在市場規模67兆円とされる注目の技術に躍り出たと解説する。

 円やドルなど各国の通貨は、政府や中央銀行など信用のある第三者が発行し、お札や硬貨などの形で流通する。クレジットカードやSuica(スイカ)などの電子マネーも、やはり運営企業の中央システムが、電子取り引きを厳格に管理しながら流通している。
 これに対し、ビットコインは中央のシステムを持たず、ネット上に公開された取り引き記録を複数のコンピューターが分散して共有し、相互に確認し合うことで「価値」の信頼性を保つ仕組みを持つため、改ざんが非常に困難なのが特徴だ。取引所で一般の通貨とも交換でき、海外送金の手数料も非常に安く、交換レートの変動が大きいため投機的な思惑も呼び込んで、一躍、注目を集めた。
仮想通貨ビットコインの意外なその後

信用の本質に関わるから、技術だけの問題ではない。
経済学者の野口悠紀雄氏は「楽天やアマゾン・ドット・コムなど電子商取引業者は滅ぶ」だろうと予想する。
「マウント・ゴックス」事件では、ビットコインの信頼性に疑問符がつけられたが、後に取引所のデータ不正操作だったことが発覚した。
事件後も、ビットコインのシステムは、管理者がいないにもかかわらず順調に動き続け、一時は日本から消えた取引所も5か所に増えて、ビットコインが使える店やサービスは、今では1400店を数えるという。
サービスが拡大していれば、閾値を超えたら一気に拡大するのではないだろうか。

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2016年9月14日 (水)

本来的なリストラに成功・富士フィルム/ブランド・企業論(57)

今や銀塩写真フィルムなど、よほど特殊な場合以外は必要としないだろう。
デジカメ(スマホを含む)でほとんどのことは用が足りる。
劇的な銀塩写真フィルムの衰退である。

1995年に私が精密業界を取材し始めた当時、フィルム業界はまだ成長期だった。街中にはフィルムのパトローネを預かって、DPE(現像をして印画紙へ拡大プリント)を行うお店がたくさんあった。昔ながらの集配モデル(工場で集約して現像・プリントを行う)に対し、店内で現像処理するミニラボを設置した店舗では数十分でプリントを手にすることができたため、スピード重視のDPEチェーンがニュービジネスとして勃興していた。
市場はアナログからデジタルへ一気に変わる

高々20年位の間の変化である。
写真フィルムは典型的な寡占市場だった。
世界で4社(アメリカのコダック、ドイツのアグファ、日本の富士フイルム、コニカ)しか製造できなかった商品だった。
各企業はいずれも高収益企業であった。

それがデジタル化の波に翻弄され、2012年1月にコダックが日本の会社更生法に当たる法律の適用を申請した。
コニカは、写真機メーカーのミノルタと合併し、デジタルカメラや複写機など技術の幅を拡大し生き残りを図っている。
そんな中で、富士フィルムの好調は際立っているといえよう。

どんな事業にも栄枯盛衰はある。
だから、事業の組み換え、見直しは必至である。
事業の組み換えに成功した企業は新しい成長路線をつかむが、衰退事業にしがみついて安売りに走る企業は、体力を弱めて衰退、消滅することが多い。

事業の組み換えをマネジメントする手法として有名なのがPPM(プロダクツ・ポートフォリオ・マネジメント)である。
ボストン・コンサルティング・グループは、「経験効果曲線」から「相対的市場占有率(シェア)」を横軸に、「PLC」から「市場成長率」を縦軸に、2次元で描画することにより、有名な「BCGマトリクス」を考案した。
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マーケティングの基本まとめノート【入門】

⇒2016年5月 9日 (月):分ける思考(4)マトリクス/知的生産の方法(148)

経営戦略には「ポジショニング派」VS「ケイパビリティ派」という基本的な構図があるというのが三谷宏治『経営戦略全史』ディスカヴァー・トゥエンティワン(2013年4月)の整理である。
PPMはポジショニングの代表的な手法である。
PPMがうまく行った例が富士フィルムであろう。

富士フイルムは現在、ライフサイエンス、関連会社の富士ゼロックス、高機能材料、印刷、デジカメなどイメージング──など5領域を手掛けている。
富士フィルムHD会長でCEOの古森重隆氏は「うちは利益の3分の2を稼いでいた写真フィルム事業をデジタル化により失った。2000年代に入ってリストラを進めたが、リストラだけでは夢も会社の将来像も描けず、何とか生き延びることを考えざるを得ず新規事業や経営の多角化を目指した」と言っている。

リストラとは、英語の「Restructuring」の略語で、本来の意味は「再構築」であるが、再構築の前段階である固定費削減にの意味で使われることが多い。
古森氏もそういう意味で使っているが、同社は見事に本来の意味において成功しているといえよう。
同社の概況は以下のようである。
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なかでも医療分野への注力は目覚ましい。
富山化学工業、米セルラー・ダイナミックス・インターナショナルなどの企業を買収、アルツハイマー治療薬や心臓疾患、パーキンソン病などの治験も進める。
また化粧品ブランドのアスタリフトは、TVのCMの露出も多いので知名度は高い。
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2016年9月13日 (火)

シルクロードの夢・加藤九祚/追悼(96)

国立民族学博物館(大阪府吹田市)名誉教授で民族・考古学者の加藤九祚さんが亡くなった。
94歳だった。
調査のために訪れていたウズベキスタンで体調を崩し、7日から南部・テルメズの病院に入院していたが12日に死去した。

Photo加藤さんは大正11年に朝鮮半島で生まれ、上智大学の予科に在学中に徴兵されて、終戦後、ソ連軍の捕虜になり、昭和25年までシベリアに抑留されます。
帰国後に上智大学を卒業すると、シベリア抑留中に学んだロシア語を使ってシベリアの歴史や民族の研究を始めました。
昭和50年には国立民族学博物館の教授になり、翌年、アイヌ民族の研究者として知られるニコライ・ネフスキーの生涯を書いた「天の蛇」で大佛次郎賞を受賞しました。
また、中央アジアのシルクロードの研究も手がけ、地域の情勢が安定しないことから発掘調査が進んでいなかったウズベキスタンの仏教遺跡などの調査にあたったほか、一般向けの著作も数多く出版しました。
平成11年に南方熊楠賞に選ばれ、平成23年には瑞宝小綬章を受章しています。
文化人類学者の加藤九祚さん死去 ウズベキスタンで

シルクロードは日本人のロマンを誘う。
ジャーナリストの嶌信彦氏は、「時代を読む」というメールマガジンの9月9日号に次のように書いている。

 小さい頃から中国大陸、中央アジア、シルクロード──といった言葉に夢やロマンを感じていた。私は1942年に中国で生まれ、1年ほど上海で暮らしたことや、父も新聞記者で中国やアジア地域を駆け巡り、時々取材の話などを聞いていたためだろう。私と母は敗戦間近の1944年末に帰国しているが中国滞在中の記憶は全くない。時々、中国にいた頃の写真を見て記憶を辿(たど)るのだが何も覚えていない。
・・・・・・・
 ウズベクは数千年前から欧州と中国をつなぐ真ん中に位置し、東西の文物、文化、学問、人間の交流の結節点にあった。天文学や数学、織物文化などに優れ、欧州やインド、ペルシャ、トルコ、中国、モンゴル、ロシア人などの交易が行き交い、16世紀の大航海時代が来るまでは世界の文化の中心的存在だった。しかしその後、鉄道や飛行機、宇宙の時代が到来するにつれ中央アジアの存在感は薄れてゆく。

井上靖の西域ものは大ベストセラーだったし、北杜市の平山郁夫シルクロード美術館は人気の高い美術館だ。
同館で見た高句麗壁画古墳の再現模型が、高松塚古墳を思わせる壁画で印象深かった。
⇒2012年9月 8日 (土):平山郁夫シルクロード美術館と高句麗壁画

加藤さんは、井上靖、NHK取材班との共著『NHKシルクロード〈第10巻〉アジア最深部』等の啓蒙的著作で私たちに夢の一端を覗かせてくれた。
しかし加藤さんの亡くなったウズベキスタンをはじめ、シルクロードの現状は、ロマンとはほど遠いようだ。
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中央アジアの旅

思い遺したことは多いのかも知れないが、調査の現場で亡くなられたのであれば、本望だったのではないだろうか。
合掌。

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2016年9月12日 (月)

岡潔と紀見峠の環境/知的生産の方法(158)

岡潔は1901年(明治34年)4月19日に大阪府大阪市で生まれたが、生まれてほどなく父祖の地である和歌山県伊都郡紀見村(後に橋本市)に移り住んだ。
実質的な生まれ故郷は紀見村と言って良い。
1925年(大正14年)、京都帝国大学卒業と同時に同大学講師に就任し、1929年(昭和4年)、同大学助教授に昇進した。

1929年(昭和4年)より3年間、フランスに留学し、中谷治字二郎(宇吉郎の弟、日本考古学の草分け)と、家族ぐるみで親しく交流した。
1932年(昭和7年)、広島文理科大学助教授に就任したが、1940年(昭和15年)、病気のため辞職し、紀見村に戻って百姓をしながら、孤高の研究生活に入った。
紀見村の環境が、岡の思索に大きな影響を与えたことは想像に難くない。
紀見村はどんな場所か?

和歌山の紀見峠…数学者「岡潔」は祖父から薫陶を受けた」というお誂えの文章が産経新聞に載っているので引用しよう。

 新興の住宅が建ちならぶ和歌山側から、うねうねとまがりくねる山道を登った。「峠谷川」と書かれた鉄橋をわたると、山の鞍部のあたりで小さな集落に行きあたった。紀見峠である。
 さらに行くと、峠のいただきあたりに、
 「岡潔生誕の地」 という大きな碑が立っていた。
・・・・・・
 紀見峠は標高385メートル、街道をややおりたところの標識には「大阪府」とあり、裏手にまわると「和歌山県」とあった。
 峠沿いの道は、もちろん高野街道である。江戸期から明治にかけて、白装束に「同行二人」と書かれた高野詣での参詣者は、河内からこの峠を越えて紀州に入った。紀ノ川をわたり、九度山西側の慈尊院から、町石道(ちょういしみち)と呼ばれる、昼でも薄暗い峻険(しゅんけん)な山道を高野山に向かった。
 峠には、旅籠(はたご)が何軒かあった。参詣者の多くは峠にたどりついたとき、一息をつくために泊まった。その中に、「岡屋」という屋号の旅籠があった。
 岡潔の実家であり、曽祖父の代まで営業していた。明治33年、奈良方面から和歌山をつなぐ紀和鉄道(現・JR和歌山線)が開通すると、宿泊客は激減した。
・・・・・・
 街道からは、ときたま紀州の平野から薄青く延びた深々とした山々ものぞめた。あのはるかかなたに、御大師さまのいる高野山があった。
 「紀見」という地名には、ようやく、ここまでたどりついたという、参詣者の安堵の念がこめられているような気がする。
・・・・・・

高野街道は下図のように京・大坂と高野山を結ぶ街道である。
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高野街道

グーグルアースで地勢を見てみよう。
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かなりの山地である。
紀見峠は、大阪府と和歌山県の境にある。
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高野街道の紀見峠

このような孤絶した環境の中で、種子から実を育てるように、数学の最先端のアポリアに取り組み、世界の研究者に先駆けて花を咲かせたのである。

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2016年9月11日 (日)

岡潔の不定域イデアル理論/知的生産の方法(157)

森田真生『数学する身体』新潮社(2015年10月)は、岡潔の考え方にアプローチすることにより、数学という抽象的な営みと身体との関係を考察している。
⇒2016年9月10日 (土):『数学する身体』の小林秀雄賞受賞/知的生産の方法(156)

岡潔が大学を辞めて数学の研究に沈潜したのが、紀見峠にある生地であった。
岡の数学的業績を的確に紹介する能力はないが、生地の橋本市に次のような顕彰碑が建立されている。

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 岡の研究した分野「多変数複素函数論」についての問題は20世紀の初めに注目され始めていましたが、あまりに難しいため世界の数学者は手をつけられずにいました。岡のためにとっておかれたようなこの問題の解として、岡は10編の論文を書き上げます。生涯で10編の論文というと非常に少ない数ですが、補足的な1編を除き、9編すべてが珠玉の傑作と言われています。あまりに素晴らしい論文のため、一人の人間が書き上げたとは信じられない程です。日本の数学者が神様のように尊敬するドイツの数学者ジーゲルは『オカとはニコラ・ブルバキのように数学者の団体の名前だと思っていた』と語ったそうです。ジーゲル本人やブルバキの主要メンバーのヴェイユ、カルタンらは、はるばる奈良まで岡潔を訪ねました。
文化勲章受章者 世界的数学者「岡 潔」数学に対する熱意と偉業、情緒という日本人の心の大切さを未来に引き継ごう

上記のように、岡が生涯に発表したのは10編の論文に過ぎなかった。
わずか10編の論文によって、現代数学に聳え立つ業績を成したのである。
いかに精魂を傾けた論文であるかが感得されよう。
岡の業績を端的に表せば、次のようであると言われている。
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近現代日本人数学者列伝~イントロダクション~

多変数複素函数論はドメイン、上空移行の原理は方法論であって、「不定域イデアルの理論」が岡の業績である。
不定域イデアルは、現代数学のキー概念である「層」の理論の先駆と考えられる。
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不定域イデアルの理論と多変数代数関数論への道

不定域イデアルについて、世界大百科事典では次のように説明されている。

…もともとは,1940年代後半に岡潔が多変数関数論の研究の中で,現在の前層にあたるものを利用した。岡はそれを不定域イデアルと呼んだが,他方同じころ,これとは独立にルレーJ.Leray(1906‐ )が同様なものを考えた。その直後,H.カルタンらが層の一般論を展開し,多変数関数論に有効に利用した。…

しかし岡自身は、カルタンらの整理に不満だったという。
カルタンは、数学者の集団であるニコラ・ブルバキの一員であり、その構造主義が岡の数学観とは相容れなかったのであろう。

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2016年9月10日 (土)

『数学する身体』の小林秀雄賞受賞/知的生産の方法(156)

今年で15回目を迎える「小林秀雄賞」を、森田真生『数学する身体』新潮社(2015年10月)が受賞した。
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私はある読書会で若い人たちと一緒に読んでいたので、受賞を祝いたい。
同賞について、Wikipediaは以下のように説明している。

財団法人新潮文芸振興会が主催する学術賞である。元々は新潮学芸賞だったが、2002年(平成14年)にノンフィクションをメインとする新潮ドキュメント賞と分離して創設された。
日本を代表する文芸評論家・批評家の小林秀雄の生誕100年を記念として新たに創設された学術賞である。日本語表現豊かな著書(評論・エッセイ)に毎年贈られる。ただし、小説・詩・フィクションは対象外である。

著者の森田さんは、1985年生まれだから、この本に書かれている文章は20歳代に書いていたということになる。
実にこなれた文章であるが、桐朋高校卒業後、東京大学文科二類に入学、その後工学部システム創成学科知能社会システムコースに転科した。
卒業後、さらに東京大学理学部数学科に学士入学した。
私の友人に、最初理系の学科に入学し、その後文系に転向した、いわゆる「文転」は何人かいる。
彼らの中には、日本を代表する学者になった人間がいるが、森田さんのように「理転」というのは珍しい。

「理転」の経緯は次のようだという。
文科二類に入学後、当時流行していたITベンチャービジネスに興味を持ち、シリコンバレーで企業の経営者にアポイントをとっている過程で株式会社サルガッソーの鈴木健と知り合い、プログラマーとして働くことになる。物理学科出身の鈴木から多大な影響を受けて数学はじめ理系の学問に関心を持ち始めた。
現在は京都に拠点を構え、在野で研究活動を続け、「独立研究者」を名乗っている。

数学は抽象的思考の産物である。
しかし、数学の原点とも言える「数を数える」という行為は、例えば「指を折る」などの行為と不即不離である。
私たちは、日常生活では、ほとんどが四則演算の範囲でこと足りている。
データ分析と言っても、大多数の人が、パッケージ化された分析ソフトか、エクセルの関数を使う程度だろう。
数学を学ぶ意義は何か、あるいは数学と人生の係りをどう考えるか?

最近、AI(人工知能、ロボット)の話題が多い。
アルファ碁というGoogleが開発した囲碁ソフトがプロ棋士を破った。
ディープラーニングの手法の効果が大きい。
⇒2016年5月24日 (火):ディープラーニングの発展と脳のしくみ/知的生産の方法(150)

東大合格を目指すロボット(AI)の「東ロボ」君は、平均的な大学生を凌駕しつつある。
⇒2014年1月19日 (日):ロボットが東大に入る日/知的生産の方法(78)
AIの苦手とするのは読解力であって、これは中学生などに共通するという。
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東京新聞8月21日

デカルトは、図形のなかに図形を測るための軸を持ち込んで、図形を方程式で表すことに成功した。
幾何学と代数学の統合である。
「数式の計算」という直観やひらめきに頼らない方法で、解決できる。
筋道だった思考によって全数学を統合するのが、デカルトの狙い(夢)であった。

著者は、岡潔の「数学の中心にあるのは情緒だ」という言葉を導きの糸にして考察を進める。
岡潔の生誕の地である紀見峠まで出かけ、風景の意味を考える。
紀見峠近くには、岡潔生誕の記念碑がある。
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【紀見峠】数学者・岡潔生誕の地


岡潔は、大学を辞めて、紀見峠付近の生家で百姓をしながら数学の研究に没頭した。
若いころ、パリに留学して親しく学んだ中谷治宇二郎が早逝したショックが大きかったようだ。
中谷治宇二郎は、「雪博士」として有名な中谷宇吉郎の実弟で、日本の考古学者の草分けであった。
岡潔の業績が世界に知られるきっかけになったのは、戦後間もない時期にプリンストン高等研究所に招聘された湯川秀樹に、中谷宇吉郎が岡の手稿を託したからだと言われる。
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不定域イデアルの理論と多変数代数関数論への道

「評伝岡潔」のための高瀬正仁氏のノートにある秋月康夫氏の文章の一節であり、『数学する身体』にも一部が引用されている。
一流の学者たちが、戦火をくぐり抜けて、世界に出るために協力し合っているのである。
岡潔の数学は素人の理解できるものではないが、偉人たちの跡を辿ることは大きな励みになる。

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2016年9月 9日 (金)

三内丸山遺跡と縄文人のルーツ/技術論と文明論(66)

この夏、三内丸山遺跡を見学する機会を得た。
5500~4000年前に存在したと推計されている縄文遺跡で、「北のまほろば」などと言われる。
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三内丸山遺跡:Wikipedia

有名な6本柱は、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一されている。
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世界遺産劇場~縄文あおもり 三内丸山遺跡~

当時すでに測量の技術が存在していたことを示すものである。
他の遺跡でも確認されている35cmの倍数の4.2mが使われていることから、「縄文尺」ともいうべき長さの単位が、広範囲にわたって共通規格として共有されていた可能性が考えられる。
材質は栗であるが、DNA分析などから、栽培されていたことが分かっている。
まさに世界の最先端であった。

これほどの集落がなぜ終焉を迎えたのかは謎とされている。
気候の寒冷化などが考えられるが、果たしてどうか。

縄文人のルーツに関して、興味あるニュースが、総合研究大学院大学や国立科学博物館などのチームによって、人類学の専門誌ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネティクスに9月1日発表された。

 福島県北部の三貫地貝塚で出土した約3千年前の縄文人2人の歯から、細胞核のゲノム(全遺伝情報)解読を試みた。約30億個ある塩基のうち、約1億1500万個の解読に成功した。縄文人の核DNAの解読は初めて。
 世界各地の現代人のDNAと比較したところ、中国南部の先住民や中国・北京の中国人、ベトナム人などは互いに近い関係にあるのに対し、縄文人はこれらの集団から大きく離れていた。
 現生人類ホモ・サピエンスは、4万~5万年前にアジア地域に到来し、その後、各系統に分かれたとされる。今回のDNA解読で、少なくとも1万5千年前よりも古い時期に縄文人につながる系統ができ、東アジアや東南アジアの集団は、別の系統の中から生まれたと考えられるという。
 日本人では、遺伝的にはアイヌ人が最も縄文人と近い関係にあり、沖縄の琉球人、東京周辺の人と続いた。
 頭骨と歯の特徴から、現在の日本人は、縄文人と、弥生時代以降に大陸から渡ってきた渡来人が混血して形成されたと、されていた。チームの国立科学博物館の神沢秀明研究員は「日本人が、縄文人と弥生系渡来人の混血という説が、DNA解読でも裏付けられた」としている。
縄文人の核DNA初解読 東アジア人と大きく特徴異なる

日本人の先祖は、どうして日本列島にやってきたのだろうか。
以下に、縄文人のルーツ(本土・沖縄)を要約する。

人類のルーツは、アフリカにあるが、アフリカから出た人類は、南方ルートと北方ルートを経て、東アジアに達した。
北方ルートを通った古モンゴロイドは、かなり複雑である。長い過程で、何度も分岐した。
1.北方ルートを通った古モンゴロイドの一部は、かなり古い時期にベーリング海峡を渡って、北米・南米に達した。これらが、北米・南米の先住民となった。
2.北方ルートを通った古モンゴロイドの一部は、樺太経由で、アイヌとなった。さらに、本土にも達したようだ。これは縄文人となった。
3.北方ルートを通った古モンゴロイドの一部は、朝鮮半島経由で、日本本土にも達したようだ。これも縄文人となった。
4.北方ルートを通った古モンゴロイドの一部は、かなり古い時期に、台湾経由で、沖縄に達した。これが沖縄の縄文人となった。当然ながら、遺伝子的には、アイヌと似ている。
5.北方ルートを通った古モンゴロイドの一部は、かなり古い時期に新モゴロイドになり、中国南部に達してから、朝鮮半島経由と琉球半島経由の双方を経て、日本の本土に達した。
特に、琉球半島経由の方は、沖縄に留まることはなく、沖縄の先の本土にまで達した。
こうして、新モンゴロイドの遺伝子が本土に大量に流入した。

さらに、新モンゴロイドは原住民である縄文人を駆逐していって、人口比では多数派を形成するようになった。
現代の本土人では、新モンゴロイドの遺伝子が 88%で、古モンゴロイドの遺伝子が 12%という結果になった。
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2016年9月 8日 (木)

「壬申の乱」と国体の危機/天皇の歴史(5)

「月刊日本」(9月号)に、『壬申の乱に思う』という南丘喜八郎氏(発行人)の巻頭言が載っている。
言うまでもなく、「壬申の乱」は、天智天皇の長子の大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)が皇位を争った古代最大の争乱である。

南氏は、有名な大海人皇子と額田王の相聞歌の紹介から入る。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(額田王)
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(大海人皇子)

大海人は実質的な皇太子と見られていたが、大海人の娘の十市皇女は天智の長子大友皇子に嫁いだ。
大友皇子と十市皇女の間に、葛野王が生まれる。
天智にとっての皇孫である。

天智は大友を後継者にすることを決意し、太政大臣に任命した。
大海人は剃髪して吉野に入った。
天智が崩御した翌年、大海人は蹶起を決意し、吉野を出る。
伊勢に着いた大海人の下に、東国の軍勢が馳せ参じた。

大海人は不破に軍を構え、近江攻略のため瀬田川で近江軍と激突する。
大津宮は陥落し、大友は命を断った。
十数年後、柿本人麻呂は大津宮を訪れるが、既に草が繁茂していて、都の跡は定かではなかった。

大津宮は6年足らずで滅び、都は大和へ戻った。
大海人は即位して天武天皇になり、新たな古代国家建設に向かう。

以上のように「壬申の乱」の概要を整理し、南氏は次のように結ぶ。

皇位継承と皇統継続は、判断を誤れば我が国の存亡に関る重大な事態を招来する。
政府は叡智の限りを尽し、天皇陛下のお言葉に応えねばならぬ、と強く思う。

私は「天皇陛下のお言葉に応えねばならぬ」という南氏の結論に賛成であるが、「生前退位は国体の破壊に繋がる」という小堀桂一郎氏(ら)の批判は分からない。
「壬申の乱」こそ「国体の危機」だったと言えるだろう。
里見岸雄『國體に對する疑惑』里見研究所出版部(1928年4月)でも、「壬申の乱の如き忌はしき歴史あり、何を以て國體を讃美するや。」と設問している。
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里見岸雄は、「八紘一宇」の造語者・田中智学の子供であり、当時、国体論の第一人者であった。
里見は、「國初以来君臣其別を守り、民は君を犯す無く、君は民を虐ぐる事なし、などゝいふ主張がいたる處に裏切られてゐるではないか」と言う。

そして、先ず「國體ありき」という自覚から出発しなければならない、という循環論法に陥っている。
⇒2008年1月24日 (木):壬申の乱…(ⅳ)国体論
私は、「生前退位は国体の破壊に繋がる」とは思わないし、「天皇陛下のお言葉に応え」ることは可能だと考える。

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2016年9月 7日 (水)

高レベル放射性廃棄物をどうするのか?/技術論と文明論(65)

原子力発電所は、事故のない正常運転でも「核のごみ(高レベル放射性廃棄物)」を生成する。
放射性廃棄物は次の3つのレベルに区分される。
L1:制御棒など
L2:原子炉圧力容器など
L3:建屋内部のコンクリートなど

L1について、原子力規制委は、電力会社に300~400年間保管させ、その後10万年間政府が管理する方針だという。
民間事業者が300~400年間責任をもって管理することが可能であろうか?
300年前の1716年は、紀州藩主であった徳川吉宗が、第8代将軍となり、享保の改革を始めた年だ。
かつて「企業の寿命は30年」と言われたことがあった。
30年で終わると言うことではなく、盛期はせいぜい30年程度、ということであるが、私企業にとっては無限とも言うべき時間である。

さらに10万年という時間は、人類史という観点で考える尺度である。

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生き続けた? ネアンデルタールのDNA―――人類の進化

新人(現生人類)以前である。
縄文時代は新石器時代であり、三内丸山遺跡でさえ、‘わずか’5500~4000年前だと言われる。
日本列島にも旧石器時代はあったが、遺跡捏造事件で大問題になって、実態はまだ良く分かっていない。

豊富な電力は現代文明の前提であるが、負の遺産を後世に残さないように適切・的確な処分ができるだろうか?
地層処分について、経済産業省は年内に科学的に有望だとする場所を示す方針だ。

 高レベル放射性廃棄物とは、使用済み燃料を再処理してプルトニウムを取り出す際に生じる高レベル放射性廃液をガラスで混ぜて固めたものだ。これを金属筒と粘土で覆って、300メートル以上の深さの地下に10万年間は安定的に埋めて地層処分する。日本では2000年に法律ができ、国内の各自治体を対象に候補地の公募を始めた。
 しかし、この間、正式に応募があったのは高知県の東洋町だけ。その動きも、その後、町を二分する問題になり、応募が取り下げられてしまった。
 放射性廃棄物が何らかの理由で、周辺の環境を汚染する懸念はなかなか払拭(ふっしょく)することはできなかった。水面下で検討する自治体の動きもあったが、東日本大震災もあり、そうした動きは止まった。欧州では、適地を政府が示す試みもあり、政府も、国は積極的に科学的有望地を提示して、理解活動を進めていくことを柱にする方針に転換した。
 経産省作業部会の報告書案では、各地に分布する火山や活断層を避けることや、地下の酸とアルカリの度合いを表すpH(ぺーハー)や温度の上がり具合など、考慮すべき条件を挙げた。
 処分場の操業が始まれば、青森県六ケ所村の再処理工場から年間に約1千本もの高レベル放射性廃棄物の輸送が必要になる。このため海上輸送をメインに地上輸送も港湾からの距離が20キロ程度の範囲内が望ましいことなどが挙げられた。
10万年埋める核のごみ、候補地どこへ

地震と大規模噴火は日本列島の宿命である。
10万年間の日本列島の地学には、まだまだ不明なことがある。
日本学術会議は、経済産業省が12月にも最終処分地に適した地域を色分けして示す日本地図を公表するとしたことについて、「拙速で、国民の理解を得るのは難しいだろう」と批判している。
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核のごみを地中に10万年「理解得られぬ」 今田名誉教授、拙速な計画を批判

Wikipediaによれば、日本には既に19,000トンの使用済み核燃料がストックされている。
電力を使って利便性を享受し、「後は野となれ山となれ」では済まされない。
これ以上「核のごみ」を増やすべきではないことは明らかだろう。

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2016年9月 6日 (火)

縄文の西南日本を壊滅させた鬼界カルデラ大噴火/技術論と文明論(64)

縄文時代になって定住生活が始まったとされる。
土器の使用は世界で最も早いと言われているが、年代観のイメージは以下のようである。
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http://www.mitaka-iseki.jp/kikaku4/doki03.htm

つまり、日本列島上のヒトの歴史の大部分が縄文時代なのである。
人口密度の分布は以下のように推計されている。
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第1章 縄文時代―採集、狩猟と漁労

明らかに西南日本が人口密度が小さく、邪馬台国(所在地は諸説あるが、畿内や九州が有力)や記紀神話の舞台等からすると意外な感じがする。
それに関係しているのではないかと言われているのが「鬼界カルデラ」の大噴火である。
薩摩半島から約50km南の大隅海峡にあるカルデラである。
Kikai_caldera_relief_map_srtm_japan
鬼界カルデラ:Wwikipedia

約7300年前(暦年補正) の大噴火で、西日本、特に九州の先史時代から縄文初期の文明は、この噴火で絶滅したと考えられている。
そのため、西南日本の縄文中期以降の人口密度は薄いということである。
まさに石黒耀『死都日本』の世界である。
⇒2016年4月15日 (金):熊本の地震と『死都日本』のメッセージ/技術論と文明論(48)

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2016年9月 5日 (月)

「国体」とはどういうものか/天皇の歴史(4)

天皇陛下の生前退位(譲位)のお気持ちに対して、日本会議副会長の小堀桂一郎氏は、産経新聞(7月16日)で「生前退位は国体の破壊に繋がる」と批判した。

何よりも、天皇の生前御退位を可とする如き前例を今敢えて作る事は、事実上の国体の破壊に繋がるのではないかとの危惧は深刻である。全てを考慮した結果、この事態は摂政の冊立(さくりつ)を以て切り抜けるのが最善だ、との結論になる。
⇒2016年8月14日 (日):日本をダメにする日本会議という存在(2)/日本の針路(288)

「摂政の冊立」を以て切り抜けることとは、「従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合」の一方法であろうが、それ以外の選択肢は否定されるべきか?
小堀氏の言う「国体の破壊」とはどういうことか。
昭和12(1937)年5月に文部省が発行した『國體の本義』を見てみよう。

第一 大日本國體
一、肇國
 大日本帝國は、萬世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の國体である。

『國體の本義』は、国体明徴声明の理論的裏付けとするために出版されたものだ。
軍部の擡頭と共に美濃部達吉の天皇機関説が国体に反する学説として排撃を受けたが、政治的主導権を握ろうとした立憲政友会・軍部・右翼諸団体が時の岡田内閣に迫って出させた。
国体明徴について、Wikipedia では、以下のような説明がある。

そもそも大正期半ばから昭和初期にかけて、天皇機関説は国家公認の憲法学説であり、昭和天皇が天皇機関説を当然のものとして受け入れていたことはよく知られている。

半藤一利監修『日本史再検証 終戦と戦後(別冊宝島2488)』宝島社(2016年7月)に、「「国体」とは何か」というコラムが載っている。

日本はポツダム宣言を受諾すべきか否か、政府と陸海軍首脳も激しい応酬が繰りひろげられる過程で、しばしば「国体」あるいは「国体護持」ということばがでてくる。

政府と陸海軍首脳の応酬のクライマックスが、『日本のいちばん長い日』と称される昭和20年8月14日午後から15日午前にかけての1日である。
半藤一利の原作が、昨年、原田眞人監督でリメイクされた。
天皇の終戦の玉音放送を阻止しようとする純粋というか偏った思考の一部軍人の姿が、批判的に描かれていた。

『國體の本義』の言う「皇祖の神勅」とは、、『日本書紀』の天孫降臨の段で天照大神が孫の瓊瓊杵尊らに下した以下の3つの神勅(三大神勅)のことを指す(Wikipedia)。

  • 天壌無窮の神勅 - 葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。
  • 宝鏡奉斎の神勅 - 吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡をすべし。
  • 斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅 - 吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし。

天壌無窮の神勅の読み下し文は以下のようである。

豊(とよ)葦原(あしはら)の千五百(ちいほ)秋(あき)の瑞穂(みずほ)の國(くに)は、 是(こ)れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)也。 宜(よろ)しく爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。 行矣(さきくませ)、寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、 当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし
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天壌無窮の神勅 [古典探検隊]

私の知人に「ちいほ」という名の女性がいるが、神勅からとったのであろう。
天皇の生前退位(譲位)は日本史上数多い。
それが今上天皇については、「国体の破壊」に繋がるという小堀氏の主張は分からない。

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2016年9月 4日 (日)

優しき視点の映画人・松山善三/追悼(95)

映画監督で脚本家の松山善三さんが、8月27日死去したと報じられている。
91歳だった。
既に近親者で葬儀を営んだ。
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松山善三さん死去

松山善三:Wikipediaから、主な略歴を引いてみよう。

1944年、横浜第三中学校卒業。
1948年、助監督公募に合格して松竹大船撮影所助監督部に入社。中村登、吉村公三郎につくかたわら、同期入社の斎藤武市、中平康、鈴木清順らと「赤八会」というグループを作り、同人雑誌にシナリオを発表。
1950年の『婚約指輪』で木下監督につき、次の『カルメン故郷に帰る』からは、シナリオの口述筆記に携わった。
1954年、川口松太郎の原作を映画化した『荒城の月』で脚本家デビュー。
1961年、若くして結婚した聴覚障害者の夫婦の第二次世界大戦末期から戦後にかけての生活を描いた『名もなく貧しく美しく』で監督デビュー。

サリドマイド薬害で肢体が不自由に生まれた女性が自ら主演し、明るく生きる姿を描いた劇映画「典子は、今」(1981年)は大きな反響を呼んだ。
社会的弱者をヒューマニズムの視点から描いた作品が中心だった。
 「二十四の瞳」に主演した俳優の高峰秀子さんと1955年に結婚し、おしどり夫婦として有名だった。
結婚時には、大女優とほとんど無名の助監督で、先行きを危ぶむ声が多かったという。

意外な側面として、ゴルフ場開発に携わったことがあった。
昭和61年頃、映画プロダクション等経営の小川安三氏と共に、(株)飯能くすの樹カントリー倶楽部の前身の(株)西武飯能カントリー倶楽部の開発許認可を取得し、着工した。
同社は、平成15年9月、東京地裁から破産宣告を受けた。
ゴルフ場用地・施設には、元の埼玉銀行の抵当権が付いていて、債権譲渡された㈱整理回収機構(RCC)が破産を申し立てた。
なお、ゴルフ場の現経営会社は、(株)マス・コーポレーションという別会社であり、関係はない。
地元には反対もあり、完成が遅れたことも破綻の要因だと言われるが、バブル期にはこの人にもそんなエピソードがあったのだ。
合掌。

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2016年9月 3日 (土)

泉田知事の出馬撤退と柏崎刈羽原発再稼働/技術論と文明論(63)

新潟県の泉田裕彦知事が、30日、知事選への出馬を取りやめると文書で発表した。
地元紙の「新潟日報」が、県政をめぐり「憶測記事や事実に反する報道」を続けたことから「十分に訴えを届けることは難しい」と判断したという。

 もともと新潟日報は、3期12年に及ぶ泉田県政に「市町村長との意思疎通が不十分」「多選の弊害がある」と批判的だった。発行部数46万部で新潟県内シェア67%。出資企業のトラブル報道で、泉田知事が「事実と異なる部分が含まれる」と逐一抗議し、それを県公式サイトにアップする対応に追われたのも、同紙の新潟における影響力の裏返しだった。
 「このような環境では訴えを届けるのは難しい」。泉田知事は8月30日に突如発表したコメントで、批判報道が続くことを不出馬の理由に挙げた。だが、県議会には「4選に不安が出てきたことも一因ではないか」と冷ややかな見方もある。
 泉田知事は今年2月にいち早く出馬を表明していた。前回の2012年は共産党を除く各党推薦のオール与党で圧勝したが、今回は自民党内にも「知事は独善的」と4選反対論が一部にあり、同党は推薦するか態度を保留した。
・・・・・・
 泉田知事は同県にある東京電力柏崎刈羽原発の再稼働について「福島第1原発事故の検証・総括なしに議論できない」と慎重姿勢を貫いていることで知られ、不出馬のコメントでも同紙の原発報道にまで触れて「東電の広告は今年5回載ったが、住民避難等生命・健康を守るうえで重要な論点の報道はない」と批判するほどだ。
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出馬撤回知事と地元紙・新潟日報の対立 その訳は

泉田知事の東京電力柏崎刈羽原発の再稼働についての慎重姿勢は、県民の生活に責任を持つものとして評価してきた。
今回の立候補取りやめに、どんなウラがあるのだろうか。

規制委は避難計画は評価の対象とせず、知事を含め自治体には、再稼働自体に関する権限はない。
佐田岬の付け根にあって、半島の住民は事故時の避難が困難であることが予想される伊方原発も再稼働した。
原発なしでも今年の猛暑は電力は足りていた。
原発稼働に拘る理路が分からない。

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2016年9月 2日 (金)

皇紀2600年と幻の東京五輪/天皇の歴史(3)

日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に辛酉の年とあり、紀元前660年1月1日 (旧暦) と比定されている。
この即位年を明治に入り神武天皇即位紀元の元年と制定した。
ただし、100歳以上の天皇が頻出するなど、日本書紀の年代には作為があるので、紀年をどう考えるかは大きな論点になっている。
代表的なのは、古田武彦氏等の提唱されている「二年を現在の一年と数える二倍年歴」である。

紀元前660年を元年にして、1940年(昭和15年)に「紀元二千六百年記念行事」が行われた。
統計的なデータを見たことはないが。この年に生まれた人には、紀子とか紀男・紀郎といった名前が多いのではないか。
紀元二千六百年記念行事-Wikipediaは、概要を以下のように記している。

西暦1940年(昭和15年)が神武天皇の即位から2600年目に当たるとされたことから、日本政府は1935年(昭和10年)に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進した。1937年(昭和12年)7月7日には官民一体の恩賜財団紀元二千六百年奉祝会(総裁・秩父宮雍仁親王、副総裁・近衛文麿、会長・徳川家達)を創設。「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが時節により強められていたため、これらの行事は押し並べて神道色の強いものであった。神祇院が設置され、橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕し、外地の神社である北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などの海外神社もこの年に建立され、神道の海外進出が促進された。また、研究・教育機関では、神宮皇學館が旧制専門学校から旧制大学に昇格した。
日本政府は、日本が長い歴史を持つ偉大な国であることを内外に示し、また日中戦争(支那事変)の長期化とそれに伴う物資統制による銃後の国民生活の窮乏や疲弊感を、様々な祭りや行事への参加で晴らそうとしたこともあり、1940年(昭和15年)には、年初の橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、紀元節には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会、体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催された。
1940年(昭和15年)11月10日、宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達した。また、式典に合わせて「皇紀2600年奉祝曲」が作曲された。
引く戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会のポスター「祝ひ終つた さあ働かう!」の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はますます厳しさを増していくことになる。

1940年といえば、太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦の前年である。
既に1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を発端として、支那事変が泥沼化していた。
当初、宣戦布告をしていなかったので「事変」と呼称されたが、現在は、太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後も含めて日中戦争という言い方が一般的である。
戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるため、国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても、「戦争」とはしたくない思惑があった。

1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦とともに蒋介石政権は9日、日本に宣戦布告し、日中間は正式に戦争へ突入していった。
同12日、日本政府は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と決定した。
「大東亜戦争ト呼称ス」からの変更はされていないという人もいるが、大東亜戦争という呼称も太平洋戦争という呼称も不十分であり、東亜・太平洋戦争とでもすべきではないかと思う。

国威高揚の機会としての国際的イベントも計画されていた。
オリンピックや万国博覧会であるが、日中戦争(支那事変)の長期化に伴い、五輪は中止、万博は延期されることになった。
東京オリンピックが開催されたのは1964年であり、大阪万博は1970年であった。

オリンピック計画は、発明家でもあった日本学生競技連盟会長の山本忠興の発案に、当時の東京市長・永田秀次郎が賛同して始まった。
1932年に立候補を表明してローマ、ヘルシンキと争う形になったが、日本はこれを皇紀2600年記念事業としても位置づけ、国をあげて熱心な招致活動を展開して、1936年のIOC総会で柔道の嘉納治五郎が招致演説を行い、アジア初となる東京開催が決定した。
ところが、その翌年、盧溝橋事件が勃発し、日中戦争に発展して戦況は日を追うごとに拡大・悪化した。
国内、国外で開催反対の意見が続出し、1938年7月の閣議で開催権の返上を正式に決定した。
ちなみに下図のようなデザインのポスターが作られていたそうである。
Photo
1940年に開催予定だった東京オリンピックのポスターが素敵すぎた

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2016年9月 1日 (木)

ブラックスワンの存在の仕方/知的生産の方法(155)

昔は2学期の始まりであったが、週休2日制のためだろうか、既に授業は始まっているようだ。
そして、防災の日である。
異例のコースを辿った台風10号は、東北・北海道に大きな被害をもたらした。

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大型の台風10号は、岩手県大船渡市付近から上陸し、北海道や岩手県を中心に記録的な大雨を伴い、日本海へ抜けた。
岩手県岩泉町では31日、浸水した高齢者グループホーム「楽(ら)ん楽(ら)ん」付近で9人の遺体が発見されたほか、同町と久慈市で2人が遺体で見つかった。北海道大樹町では、男性が車ごと流されて行方不明になるなど、人的被害も拡大している。
北海道付近では31日、台風10号から変わった温帯低気圧の影響で南から暖かく湿った空気が流れ込み、大気が不安定な状態が続いている。気象庁は土砂災害や河川の氾濫に警戒するよう呼びかけている。
台風10号で浸水被害、高齢者施設で9人死亡

計画降水量以上の、おそらくは1回/100年以上の超過確率の雨が降ったに違いない。
「あり得ない、起こり得ない」とほとんどの人が思っていることも、いつかは起こる。
それは、急激に、過激に進行し、大きな悲劇につながることが多い。

従来全ての白鳥が白色と信じられていたが、オーストラリアで黒い白鳥が発見されたことで、鳥類学者に大きな驚きを与えた。従来からの知見では、黒い白鳥はいないとされていたためだ。黒い白鳥の発見により、鳥類学者の常識が大きく崩れることになった。
タレブ氏は、この出来事を元に、確率論や従来からの知識・経験からでは予測できない極端な現象が発生し、その現象が人々に多大な影響を与えることを総称して「ブラックスワン理論」と呼んだ。
ブラックスワン理論

ナシーム・ニコラス・タレブの望月衛訳『ブラック・スワン』ダイヤモンド社(2009年6月)の紹介は以下のように書いている。

Photoむかし西洋では、白鳥と言えば白いものと決まっていた。そのことを疑う者など一人もいなかった。ところがオーストラリア大陸の発見によって、かの地には黒い白鳥がいることがわかった。白鳥は白いという常識は、この新しい発見によって覆ってしまった。
「ブラック・スワン」とは、この逸話に由来する。つまり、ほとんどありえない事象、誰も予想しなかった事象の意味である。タレブによれば、「ブラック・スワン」には三つの特徴がある。一つは予測できないこと。二つ目は非常に強いインパクトをもたらすこと。そして三つ目は、いったん起きてしまうと、いかにもそれらしい説明がなされ、実際よりも偶然には見えなくなったり、最初からわかっていたような気にさせられたりすることだ。
ブラック・スワン

ブラック・スワン現象は、自然災害等において多い。
それはべき乗分布だからである。
たとえば、ある広がりをもった地域で一定以上の期間内に起こった地震においては、「マグニチュード」と「その発生個数の対数」との間に直線的な関係が成り立つ。
この関係をグーテンベルグ-リヒター(Gutenberg-Richter)の関係という。
  log n(M)=a-bM
Mはマグニチュード、n(M)はマグニチュードMの地震の発生個数、aとbは定数。
bは地域性などにより、bが大きいほど相対的に大きな地震が多くなる。
Photo_2
マグニチュードと発生頻度の関係(グーテンベルグ-リヒターの関係)

ブラック・スワンのようにインパクトが大きいことは予測(prediction)はできないが、何とか予想(forecast)を立てて、減災を図りたいものだ。

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