皇紀2600年と幻の東京五輪/天皇の歴史(3)
日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に辛酉の年とあり、紀元前660年1月1日 (旧暦) と比定されている。
この即位年を明治に入り神武天皇即位紀元の元年と制定した。
ただし、100歳以上の天皇が頻出するなど、日本書紀の年代には作為があるので、紀年をどう考えるかは大きな論点になっている。
代表的なのは、古田武彦氏等の提唱されている「二年を現在の一年と数える二倍年歴」である。
紀元前660年を元年にして、1940年(昭和15年)に「紀元二千六百年記念行事」が行われた。
統計的なデータを見たことはないが。この年に生まれた人には、紀子とか紀男・紀郎といった名前が多いのではないか。
紀元二千六百年記念行事-Wikipediaは、概要を以下のように記している。
西暦1940年(昭和15年)が神武天皇の即位から2600年目に当たるとされたことから、日本政府は1935年(昭和10年)に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進した。1937年(昭和12年)7月7日には官民一体の恩賜財団紀元二千六百年奉祝会(総裁・秩父宮雍仁親王、副総裁・近衛文麿、会長・徳川家達)を創設。「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが時節により強められていたため、これらの行事は押し並べて神道色の強いものであった。神祇院が設置され、橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕し、外地の神社である北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などの海外神社もこの年に建立され、神道の海外進出が促進された。また、研究・教育機関では、神宮皇學館が旧制専門学校から旧制大学に昇格した。
日本政府は、日本が長い歴史を持つ偉大な国であることを内外に示し、また日中戦争(支那事変)の長期化とそれに伴う物資統制による銃後の国民生活の窮乏や疲弊感を、様々な祭りや行事への参加で晴らそうとしたこともあり、1940年(昭和15年)には、年初の橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、紀元節には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会、体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催された。
1940年(昭和15年)11月10日、宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達した。また、式典に合わせて「皇紀2600年奉祝曲」が作曲された。
引く戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会のポスター「祝ひ終つた さあ働かう!」の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はますます厳しさを増していくことになる。
1940年といえば、太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦の前年である。
既に1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を発端として、支那事変が泥沼化していた。
当初、宣戦布告をしていなかったので「事変」と呼称されたが、現在は、太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後も含めて日中戦争という言い方が一般的である。
戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるため、国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても、「戦争」とはしたくない思惑があった。
1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦とともに蒋介石政権は9日、日本に宣戦布告し、日中間は正式に戦争へ突入していった。
同12日、日本政府は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と決定した。
「大東亜戦争ト呼称ス」からの変更はされていないという人もいるが、大東亜戦争という呼称も太平洋戦争という呼称も不十分であり、東亜・太平洋戦争とでもすべきではないかと思う。
国威高揚の機会としての国際的イベントも計画されていた。
オリンピックや万国博覧会であるが、日中戦争(支那事変)の長期化に伴い、五輪は中止、万博は延期されることになった。
東京オリンピックが開催されたのは1964年であり、大阪万博は1970年であった。
オリンピック計画は、発明家でもあった日本学生競技連盟会長の山本忠興の発案に、当時の東京市長・永田秀次郎が賛同して始まった。
1932年に立候補を表明してローマ、ヘルシンキと争う形になったが、日本はこれを皇紀2600年記念事業としても位置づけ、国をあげて熱心な招致活動を展開して、1936年のIOC総会で柔道の嘉納治五郎が招致演説を行い、アジア初となる東京開催が決定した。
ところが、その翌年、盧溝橋事件が勃発し、日中戦争に発展して戦況は日を追うごとに拡大・悪化した。
国内、国外で開催反対の意見が続出し、1938年7月の閣議で開催権の返上を正式に決定した。
ちなみに下図のようなデザインのポスターが作られていたそうである。
1940年に開催予定だった東京オリンピックのポスターが素敵すぎた
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コメント
それが今の天皇のお気持ちや生前即位と何の関係があるの?そこちゃんと言わなきゃ!
投稿: | 2016年9月 3日 (土) 21時20分
その通り。あれだけのこと言ってるんだからね。ごまかすんじゃねーよ!
投稿: | 2016年9月 3日 (土) 21時21分
お前は以前、y染色体とかいう奴らのことバカにしてたけど、ちゃんと反論してみろよ。何の理論的な反論にもなってないぞ。天皇の歴史語るのに知識なさすぎ。
投稿: | 2016年9月 3日 (土) 21時25分