« 下町工場の再生可能エネルギー開発技術力/技術論と文明論(40) | トップページ | 北朝鮮は核実験で何を目指すのか?/世界史の動向(40) »

2016年1月 6日 (水)

情報士官としての杉原千畝/知的生産の方法(142)

去年の年末に、家に居ても邪魔になるだけなので、映画『杉原千畝』を観てきた。
唐沢寿明、小雪というキャスティングである。
2

小雪が演じる千畝の妻・幸子は、沼津市に生まれた、
母が裾野市の出身で、沼津商業学校で教鞭を執っていた菊池文雄と結婚したのである。
幸子の兄・静男が外務省に出入りする保険会社員で、千畝と気が合う友人だった。
念願だったモスクワ赴任を、ソ連が、ペルソナ・ノン・グラータ(「好ましからざる人物」という外交用語)を発動して千畝の赴任を拒絶したのだ。
満洲から失意の内に帰国した千畝が静男と一緒に酒を飲み、そのまま菊池家に泊まってしまったことが縁で交際が始まった。

杉原千畝の名前は、ユダヤ難民に対する大量のビザ発給で知られる。
それは人道的見地から行われたのは疑いないだろう。
岐阜県八百津町の記念館は、人道の丘公園に建っている。

しかし、千畝はヒューマニストとして「だけ」で捉えきれない存在だった。
千畝の本来業務は、情報士官(インテリジェントオフィサー)だった。
情報という言葉は森鴎外がクラウゼビッツの『戦争論』を翻訳する時に作った造語と言われるが、異説もあるらしい。
今のように情報という言葉が広く使われる前、1950年代位までは諜報とほぼ同義語であった。

英語では、加工度によって、データ、インフォメーション、インテリジェンスに分ける。
英語圏の情報機関には、CIA(Central Intelligence Agency:米中央情報局)、SIS(Secret Intelligence Service:英秘密情報部)のように「インテリジェンス」が付けられている。
「国のリーダーが判断する時の助けとなる知見を与える」という組織であることを表している。
データは生に近く、インテリジェンスは最終目的に近く、インフォメーションは中間である。
一応、そう区分されるが、この区分は相対的である。
Photo_2

よく料理に譬えられるが、データは食材、インテリジェンスができ上がった料理ということになろう。
Photo_3

インテリジェンスが価値を持つのは、情勢が複雑な時であるのは当然である。
1932年(昭和7年)3月に、満洲国の建国が宣言された。
ハルビンの日本総領事館にいた千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で、満洲国政府の外交部に出向となった。
満洲国外交部では政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当し、緻密な調査に基づいて大きな成果を上げた。
まさにインテリジェントオフィサーの面目躍如である。
しかし、これが千畝の念願だった在モスクワ大使館への赴任を阻害したのだった。

ソ連は、反革命的な白系ロシア人との親交を理由に、ペルソナ・ノン・グラータを発動したのだった。
モスクワへ赴任できなくなった千畝は、1937年(昭和12年)フィンランドの在ヘルシンキ日本公使館への赴任となった。

1939年8月23日、独ソ不可侵条約が締結される。
平沼騏一郎内閣は、「欧州の天地に複雑怪奇なる新情勢が生じた」という声明を出し、総辞職した。
時を同じくして、千畝はリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となり、8月28日にカウナスに着任した。
リトアニアは、「複雑怪奇なる欧州」の焦点である。
その直後の9月1日にナチスドイツがポーランド西部に侵攻し第二次世界大戦が始まった。

ポーランドとリトアニアには、ユダヤ教の神学校があり、ヨーロッパ中から留学生が集まっていた。
1940年(昭和15年)7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。
当時リトアニアはソ連軍に占領されており、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めた。
ユダヤ難民は、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。
ユダヤ人迫害の惨状を熟知する千畝は、情状酌量を求める請訓電報を打つが、本省からは発給条件厳守の指示が繰り返し回電されてきた。
千畝は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。

スターリンはドイツとの密約にもとずいて、ポーランドを分割し、バルト三国などを併合した。
1940年(昭和15年)9月27日には、日本、ドイツ、イタリアの間で、日独伊三国間条約が締結された。

ドイツとの対決を想定したスターリンは急遽、日ソ中立条約を締結し、極東での日本との戦争を回避した。
1941年6月、独ソ不可侵条約を破棄したドイツが突如、ソ連に侵攻し、第二次世界大戦の戦局が転換した。
ドイツ軍はモスクワやレニングラード、スターリングラードに迫ったが、広大な戦線でソ連軍の反撃を受け、敗退した。

独ソ戦の開始によって、ドイツを共通の敵とすることになったイギリスとソ連は、早くも7月22日、英ソ軍事同盟を締結した。
ボリシェヴィキ=スターリン政権を敵視していたイギリスにとって、大きな転換であった。
ソ連は、1941年8月に発表された米英首脳による大西洋憲章に対しただちに支持を表明、それを受けてアメリカもソ連への武器援助を開始した。
1942年1月にはソ連も参加して連合国共同宣言が作成され、連合国の態勢が成立した。
またソ連はそれまで資本主義国のソ連敵視の原因となっていたコミンテルンの解散を1943年6月に実行した。
資本主義国と共産主義国が、枢軸国に対して一致して戦う連合国を形成するという図式となったのである。

この半年後の1943年12月、日本は対米戦争(太平洋戦争)にふみきり、アメリカの参戦をもたらした。
かくして文字通り「世界大戦」になったのである。

このように複雑な世界情勢の中で、的確に状況判断をしたのが杉原千畝というインテリジェントオフィサーであった。

|

« 下町工場の再生可能エネルギー開発技術力/技術論と文明論(40) | トップページ | 北朝鮮は核実験で何を目指すのか?/世界史の動向(40) »

ニュース」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

知的生産の方法」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 情報士官としての杉原千畝/知的生産の方法(142):

« 下町工場の再生可能エネルギー開発技術力/技術論と文明論(40) | トップページ | 北朝鮮は核実験で何を目指すのか?/世界史の動向(40) »