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2015年12月 8日 (火)

開戦の大詔渙発と30年代戦争の捉え方/日本の針路(263)

昭和16(1941)年12月8日、アメリカ、イギリスに対する開戦の「大詔が渙発」された。
当時の雰囲気は新聞の紙面から伝わってくる。
Photo_2
ハワイ真珠湾攻撃の検証

東條首相はラジオで次のように決意を述べた。

ただいま、宣戦の御詔勅が煥発されました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦いを行いつつあります。東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも関わらず、ついに決裂のやむなきに至ったのであります。
過般來、政府はあらゆる手段を尽くし、対米国交調整の成立に努力して参りましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、かえって英蘭支と連合して、
・・・・・・
帝国の隆替、東亜の興廃、正にこの一戦にあり。一億国民が一切を挙げて国に報い、国に殉ずるの時は今であります。八紘を宇となす皇謨の下に、この尽忠報国の大精神ある限り、英米といえども何ら恐るるに足らないのであります。勝利は常に御稜威の下にありと確信致すものであります。
私はここに謹んで微衷を披瀝し、国民とともに大業翼賛の丹心を誓う次第であります。終わり。
日本ニュース 第79号

今読めば、ずいぶんな時代錯誤と思うが、当時の圧倒的な時代の空気であったと言えよう。
しかし東條首相の演説にもあるように、12月8日に突然戦争が始まったのではない。
「過般來、政府はあらゆる手段を尽くし、対米国交調整の成立に努力して参りましたが」というのはあながち誤りとは言えない。

その前史をどう捉えるか?
今年の天皇年頭所感の中に次のような言葉がある。

本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。

これに対し、池田信夫氏が「このように30年代以降の戦争を一まとめにするのは間違いのもとだ」と異を唱えている。

特に満州事変と日中戦争の違いを認識することは重要である。前者は明治維新(あるいは幕末)から一貫するロシア南下に対する防衛戦であり、戦略的な必然性があった。これは膨張主義といわれればその通りだが、全陸地の80%を領土にしたヨーロッパ諸国に比べれば、ごく控えめな膨張主義だった。
それが国際法にいう「侵略」だったことも間違いないが、丸山眞男もいうように、侵略という概念は1928年の不戦条約でできたもので、それ以前のヨーロッパ諸国の植民地支配は不問にして、その既得権に対する挑戦を違法化するご都合主義である。リットン調査団は日本の権益を認めたので、日本が国際連盟を脱退する必要はなかった。
川田稔氏も指摘するように、満州事変は関東軍の突出ではなく、陸軍中央の計画的な行動だった。永田鉄山も石原莞爾も、日本の戦力が不足していることを認識しており、対ソ戦だけで精一杯だと考えていた。日本の満州支配は、イギリスなどの植民地支配のように現地から掠奪するのではなく、満州に物資を供給して対ソ戦の橋頭堡にするもので、その収支は大幅な赤字だった。
最大の岐路は、満州事変より1932年以降の関東軍の南進にある。参謀本部に戻った石原はこれに強く反対したが、関東軍参謀の武藤章は「われわれは柳条湖で閣下がやったようにやっているだけです」と一笑に付した。その後も陸軍は上海から南京に戦線を拡大し、収拾がつかなくなった。
日中戦争(支那事変)は満州事変とは違ってまったく計画性のない、なりゆきまかせの戦線拡大だった。補給体制もなかったので「現地調達」になり、予備役まで動員されたため、軍紀が乱れた。「南京大虐殺」といわれるほど大規模な民間人の殺害があったとは考えられないが、そういう素地はあった。
だから戦争が泥沼化した最大の責任は、武藤に代表される陸軍の中間管理職にある。そしてこういう「空気」が醸成されたとき、政治家やマスコミが軍部より突出したタカ派になり、「爾後国民政府を対手とせず」という近衛声明で、日本は引き返せなくなった。
このように30年代の戦争は一貫した「15年戦争」ではなく、そのつど短期決戦で勝負がつくと考えて戦線を拡大し、失敗しては別の人物が同じことを試みる繰り返しだった。戦争中にも軍の指導者が3~4年のローテーションで転勤するサラリーマン型の人事システムで、戦略の一貫性が失われた。
あの戦争は「15年戦争」ではない

池田氏は何を言いたいのか?
満州事変は計画性があったからOKだが、関東軍の南進は計画性がないからNGだということか?
そういう面があることは確かだろうし、満州事変と日中戦争を分けて捉えることが有用なこともあろう。
しかし満州事変と日中戦争を一続きのものとして捉えることの有用性もあるのではなかろうか?

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