一代年寄の相撲協会理事長・北の湖/追悼(77)
大相撲の第55代横綱で、日本相撲協会理事長の北の湖=本名・小畑敏満さんが、20日福岡市内の病院で亡くなった。
62歳、直腸がんによる多臓器不全が死因だった。
「北海道南部に怪童あり」との噂を聞きつけた多くの相撲部屋から熱心に勧誘され、中学へ入学した頃には引退したばかりの北葉山が自身の元を訪れたこともあったが、女将が手編みの靴下を送ってくれたことで三保ヶ関部屋に入門し、北海道から上京して墨田区立両国中学校へ転校した。
1967年1月場所に三保ヶ関の長男であり、後に大関となる増位山とともに初土俵を踏む。四股名の「北の湖」は、故郷にある洞爺湖に因んで三保ヶ関が命名した。湖を「うみ」と読ませたきっかけは水上勉の小説「湖の琴」(うみのこと)からの着想という。改名の多い角界においては、初土俵から引退まで一度も四股名を変えたことのない珍しい力士だった。
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現役時代は、体格と力が圧倒的で憎らしいような存在だった。
1975年9月 - 1978年1月までの15場所間の千秋楽結びの一番は全て「輪島 - 北の湖」という対戦で、、「輪湖時代」を築いた。
輪島との通算成績は21勝23敗でほぼ互角で、優勝は両者合わせて38回で、柏鵬の37回を上回る。
ちなみに、輪島 - 北の湖による千秋楽結び対戦回数は22回で、曙 - 貴乃花の27回に次いで、史上2位だった。
引退後は、現役時の実績から一代年寄「北の湖」を贈られ、これを受け入れて北の湖部屋を創設した。
北の湖部屋は同じく一代年寄である大鵬の「大鵬部屋」(現・大嶽部屋)と同じ江東区清澄に50mほどの距離で開かれた。
地元住民らはこの両部屋が面する通りを「横綱通り」と呼んだ。
引退相撲の直後に三保ヶ関と実父が1日違いで亡くなり、葬儀が同じ日に行われることになった。
この時は部屋関係者が帰郷を勧める中、「師匠は自分にとっては親以上の恩人」として、親戚中に手紙を出して父の葬儀を欠席し、師匠の葬儀へ出席した。
2008年9月、弟子の白露山の関与も明らかとなった大相撲力士大麻問題が発覚し、日本相撲協会の臨時理事会で、理事長を辞任して理事に降格した。
後任理事長の武蔵川が辞任した際の理事長選挙に再び立候補したものの、放駒に敗れた。
2012年1月、再び立候補し、理事長に当選選出された。
波瀾に富んだ人生だったと言えようが、62歳というのはいかにも若い。
大相撲力士の平均寿命は一般人に比べ短いようだが、体格作りのための食生活などが原因なのだろうか?
合掌。
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