日本古代史におけるパラダイム転換/やまとの謎(110)
10月14日に古代史家の古田武彦氏が亡くなった。
⇒2015年10月18日 (日):古代史のイノベータ―・古田武彦/追悼(76)
上記記事に対し、C13シロウズという方からコメントを頂き、同氏のブログ(孤独な散歩者の観・閑・想)に大いなる示唆を受けた。
私は社会人になった頃、実家の近くにあった小さな書店の片隅で、偶然に安本美典氏の『数理歴史学-新考邪馬台国』筑摩書房(1970年3月)という本を手にし、興味をそそられた。
いわゆる邪馬台国問題に、数理統計的アプローチでアプローチしたものである。
⇒2008年11月16日 (日):安本美典氏の『数理歴史学』
安本氏は文学部の出身で、数理統計的手法で文体分析などやマーケティングへの活用を研究していたが、議論百出だった邪馬台国問題に数理統計を応用した。
以来、私は安本氏の著書が出ると買って読むようになり、安本氏は「季刊邪馬台国」の編集長となって、邪馬台国問題権威者の1人となった。
安本氏と激しい論争をしたのが古田武彦氏で、2人は「中央公論 歴史と人物/昭和55年7月号」という雑誌で、『熱論「邪馬台国」をめぐって』という対談を行った。
7時間にわたり、いろいろな論点を語り合っているのだが、その頃は安本ファンだったので、安本氏に分があるように感じた。
古田氏は親鸞の研究者だったが、古代史の分野の単行本デビュー作は『「邪馬台国」はなかった-解読された倭人伝の謎』朝日新聞社(1971年11月)で、安本とほぼ同時期ということになる。
文体も、安本氏が数理的な解説を淡々と記述するのに比し、古田氏はエキセントリックなように感じた。
⇒2008年11月18日 (火):「古田史学」VS「安本史学」
古田武彦氏の印象は、安本氏との対比で分が悪かったのだが、私の関心が建国問題にシフトするに連れ、古田氏の言説に興味を持つようになった。
古田氏は現在ミネルヴァ書房から「古代史コレクション」を刊行中である。
古田氏の提示した仮説は数多いが、代表的なものはやはり「九州王朝論」ではなかろうか。
古代史の通説では、「倭の五王=讃、珍、済、興、武」の時代には、大和朝廷が日本列島の大部分(東北、北海道を除く)を統一していた。
五王の比定には諸説あるが、年代は413年 - 478年である。
この通説に対し、古田氏は7世紀末まで日本列島を代表して中国と交渉していたのは、筑紫の九州王朝だとする。
7世紀末までは太宰府に首都をおく九州の王朝が日本列島の代表者だった、という「一元通念無効の指摘」である。
「一元通念無効の指摘」という言い方は、中小路駿逸氏の言い方で、一般には、「九州王朝説」とか「多元的王朝論」などと言われてる。
日本は昔、「倭」と呼ばれていた。
そして、「倭」が大和の王権によって、5世紀中には統一的に支配されていたというのが、古代史の「定説=標準理論」になっている。
つまり、聖徳太子や推古天皇などが大和で活躍したことは、疑う余地のない事実とされてきた。
「一元通念」とうのは、日本列島の支配者は大和朝廷以来、天皇家であるという考え方を指す。
私(たち)は、小学校以来、「悠久の大和」というような概念を刷り込まれている。
甚だしいのは国会の予算委員会で、八紘一宇を「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と言ってのけた三原じゅん子議員のような人だろう。
⇒2015年3月18日 (水):確信的「無知」の「無恥」・三原じゅん子/人間の理解(10)
しかし、三原氏は別としても、「倭の五王=讃、珍、済、興、武」を近畿大和の天皇家に比定するのは古代史の通説である。
その枠組みの中で、ことに「武=ワカタケル=雄略天皇」であるというのを論拠として、武の時には、統一王朝が成立していたというのが多数説だ。
行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた銘文と、熊本県玉名郡和水町にある江田船山古墳出土の鉄刀の銘文が共に「ワカタケル」と読むことができるから、5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈されるというわけである。
高松塚の壁画に描かれている光景のような記述が『続日本紀巻二』の文武天皇五年目の冒頭にある。
「大宝元年春正月乙亥朔、天皇御大極殿受朝」とある条で、「大宝元年」という年号が明記されている。
これに対し、『続日本紀巻一』では、文武に関して「高天原広野姫天皇十一年、立為皇太子」とあり、次に「八月甲子朔、受禅即位」とあって天皇への即位が記されているが、即位の年の年号は記されていない。
即位という重要な年に年号が記されていないのは不自然であろう。
古代史の分野に「郡評論争」と言われる有名な論争があった。
井上光貞氏(東大教養学部助教授)が、『日本書紀』の大化2(646)年正月条に記されている大化改新詔の用語が、後世の大宝律令によって大幅に修飾されていることを主張した。
地方行政単位のコオリ(郡)が、大宝令で初めて使用された用語であるとし、その後藤原宮から出土した木簡などによって立証さた。
当時、『日本書紀』の推古紀位以降は基本的には史実と考えられており、東大文学部国史学科の重鎮だった坂本太郎教授が否定して、日本史学界を二分する論争になった。
⇒2007年9月12日 (水):藤原宮木簡と郡評論争
⇒2008年4月 1日 (火):大化改新…⑤否定論(ⅱ)
白村江の戦いで弱体化した倭が壬申の乱を経て、近畿天皇家に代表の座を奪われたとするものである。
私も古田説の仮説としての効力は大きいと考える者の1人である。C13シロウズ氏の説の中で、興味深かったのは、『中小路駿逸の論文 「『日本書紀』の書名の「書」の字について」 1988年 』と『続・中小路駿逸の論文 「古田言説が出現してからーー中小路言説とのかかわり」 』である。
中小路駿逸氏の名前は目にしていた。
古田氏の『関東に大王あり―稲荷山鉄剣の密室』創世記(1979年11月)の中に「補編 友アリ遠方ヨリ来ル」という文章があって、中小路氏からの手紙が紹介されている。
中小路氏の自己紹介が次のように書かれている。
私は現在愛媛大学教養部に勤めておりまして、専門は国文学です。(昭和二十八年京大国文卒。)現在調べていますことは、同封の抜刷でごらん下されば幸いです。
そして、古田氏は、百万の援軍を得た思いを綴っている。
四面楚歌的状況にあって、中小路氏からの便りに如何に力づけられたかは良く分かる。
アカデミズムでは無視されてきたが、アマチュアの間では九州王朝の支持者は多い。
「倭の五王」について、九州の王とする説の一端を紹介する。
宋書には倭王武の上表文が、長文引用されている。この中で、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とある。従来これを「近畿を中心とした倭国版の中華思想のあらわれ」と見なした。だが、これはふさわしくない。倭王武の上表文にあらわれるとおり、倭王は、中国(南朝)の臣下として、厳にその立場を主張している。当然、自らを「東夷」の一角におき、東夷の王として中国の天子の威徳が及ぶ範囲を、広げてきた、と倭王武は語っている。
王道融泰にして、土を廓き畿を遥かにす。累葉朝宗して歳に愆らず。
この文言がすべてを物語っている。ここで語っている、東西+海北の範囲は以下のようだ。
したがって、倭の五王の居城は九州にあったと見なすのが、最も自然である。
3.倭の五王
毛人のエリアについては、違和感があるが。
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