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2015年11月10日 (火)

安倍政権のイヤな感じ(6)辺野古に警視庁機動隊/日本の針路(254)

TV画像を見ていて、慄然とした。
誰が、何のために、誰を護ろうとしているのか?

安倍政権は、「地方創生」を重要政策としていたのではなかったのか?
沖縄こそ地方の代表格ではないのか?
結局「地方創生」というのは、強権と札びらで、中央の言うことに従うようにしろということか?

Photo_2
 移設に反対する市民ら約80人が旧ゲート前に座り込んだが、県警と警視庁の機動隊総勢120人以上が数人1組で市民らを抱え、機動隊車両と鉄柵で囲った場所に排除した。
 シュワブ内の辺野古崎周辺では重機が稼働している様子が確認された。海上では目立った作業はない。市民らは抗議船4隻とカヌー十数艇で大浦湾に繰り出し、作業の停止を求めて抗議している。
 ゲート前には学生グループ「シールズ琉球」のメンバーが訪れ、14日午後1時からシュワブ前で辺野古緊急アピール行動を実施すると報告した
辺野古、機動隊の排除続く シールズ琉球、14日に緊急アピール

なぜ、「鬼」「疾風」などの異名を各隊が持つ屈強な部隊として知られる警視庁の機動隊を投入するのか?
都内でデモ対応などの経験があることで、即応力を備える「精鋭」と評価されたのだろう。
しかし、市民の中には過酷な沖縄戦やその後の米軍支配下を生き抜いてきたお年寄りもいる。
まさに現代の「琉球処分」と言えよう。

琉球処分について、Wikipediaの解説を引こう。

琉球処分とは、1872年から1879年にかけて、旧来琉球諸島の施政を委任してきた中山王府を廃し、県を置いた施策の事である。
鹿児島県は、中山王府の施政は時世に合っておらず不都合が多いとして、指導のため、明治5年1月5日、奈良原幸五郎、伊地知貞香を送った。在島中、宮古島島民遭難事件の生き残りが帰着し、伊知地らが事情聴取して報告書を書いた。
明治5年5月30日、大蔵大臣であった井上馨が、琉球国の版籍を収めしむる事を建議した。6月2日、正院はこれを是認し、「如此曖昧の事匡正せざるべからず。之を処分する如何して可ならん」と下問した。これが「処分」なる用語の始めである。これに応じて外務省から次の3ヶ条の申し立てがあった。外国との私交停止、尚泰を華族に列し、琉球藩王の宣下を賜う。
明治5年6月21日、鹿児島県から琉球在勤の官員が到着した。官員は次の命令を伊地知らに伝えた。概略「維新以来国王より慶賀の礼を修めし事無し。速やかに登京せしむべし」伊地知らは国王にこれを伝えた。結果、伊江王子尚健、宜野湾親方、喜屋武親雲上が慶賀の使節に任命された。7月27日、琉球使臣、鹿児島着。8月14日、東京着。
明治5年9月14日、天皇より、尚泰を藩王に封じ、華族に列せらるる詔勅が下される。尚健は「聖恩重渥恐感の至に勝へず」と答え、代理として詔勅を受ける。
明治5年9月20日、新貨幣並びに紙幣3万円が王に下賜される。
明治5年9月28日、琉球藩の外交権を、外務省に移す。
明治5年10月10日、琉球藩の負債20万両を政府が肩代わりする。
1873年(明治6年)7月29日、琉球藩より、貧しいので年貢をまけてくれ、具体的には賦米等の名目並びに砂糖納を廃止し、年に8200石の常額としてくれ、という請願があった。明治7年6月23日、この通り8200石に定まる。なお、藩内の百姓に藩政府が課す年貢が軽減された事実は一切ない。既述の通り、藩政府は負債が全てなくなり、3万円の小遣までもらったが、人民に還元する事は一切無かった。

安倍政権の本質が露呈した映像であった。

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