知的財産権の事実判断と価値判断/知的生産の方法(127)
誰にとっても物理的に存在する世界(状況)は同一のものであるが、それをどのように感じるかは人によって異なる。
例えば、同じある日の「雨が降っている」という現象に対しても、農作物にちょうどいいお湿りだと感じる人もいるだろうし、雑草が生えて嫌だなあと感じる人もいるだろう。
あるいはヴェルレーヌのように、自分の心に降る涙と同じようだと感じる人もいるかも知れない。
巷に雨の降るごとく
わが心にも涙ふる。
かくも心ににじみ入る
このかなしみは何やらん?
(無言の恋歌:堀口大学訳)
つまり、状況の意味は人によって異なるということである。
ある人にとっては、解決を必要と感じられる状況も、別の人にとってはそのまま放置しておいて構わないということなどはいくらでもある。
つまり問題意識の違いである。
問題認識は、事実をどう捉えるかという事実認識の問題と、その事実をどう解釈するかという価値認識との問題を複合して考えることが必要である。
例えば、将棋の戦法に、イビアナ(居飛車穴熊)と呼ばれるものがある。
居飛車が対振り飛車戦で穴熊囲いを目指す戦術の総称である。
居飛車対振り飛車の将棋に於いて、古くからある持久戦策としては玉頭位取り、左美濃などが指されていた。居飛車穴熊はこれらに比べバランスが悪く指しづらいとされていたが、田中寅彦が体系化を進め高勝率をあげたことで昭和50年代頃から流行した。
初期の居飛車穴熊では振り飛車側が居飛車に4枚穴熊を許しているケースが多かったが、居飛車側が圧倒的な勝率をあげていたため向かい飛車や立石流四間飛車のような振り飛車から動く順が模索された。しかしいずれも対策がたてられ居飛車穴熊の隆盛を止めるには至らなかった。振り飛車側からの策としては藤井システムが一時期猛威を振るったが、これも居飛車側の対策が編み出され、確実な戦法とはなっていない。2013年現在では角道を止める振り飛車はこの居飛車穴熊により第一線から退けられている状態である。
Wikipedia
このイビアナに関して「元祖争い」が起きた。
アマチュア全国大会優勝歴のある将棋愛好家大木和博氏が、プロ棋士田中寅彦氏を相手に提訴したもので、田中プロに元祖と公言され、自分の元祖としての呼称と名誉を傷つけられたので、300万円の慰謝料と『元祖』との呼称を使わないことを求める、というものである。
三島のウナギ屋でも、同じ商号を使っていて、どちらが元祖か、本家か、揉めたことがある。
また、温泉まんじゅうなどでも本家争いの話を聞いたことがある。
競争のあるところ、不当競争か否かは常に争いも対象になる可能性がある。
イビアナについての東京地裁の判決は、次のようなものであった。
a 古い歴史を持つ将棋で、戦法がだれによって考え出されたか特定するのは困難
b 元祖の概念は絶対的なものではなく、尊敬の対象になる人物に与えられる尊称
c 戦法の実践時期や戦績、戦法の普及、将棋界に対する貢献を総合すると、両者と も尊敬の念をもって元祖、創始者と称されるのにふさわしい人物と認められる。
つまり、二人とも元祖と認められる
d 田中氏が元祖と公言しても大木氏の名誉を害する違法な権利侵害には当たらない
e よって大木氏の請求を棄却する
一見大岡裁きのような判決に想われるが、この問題は、実際にこの戦法を最初に使ったのは誰か、あるいは定跡としての確立者は誰か、という事実判断の問題と、その権利の帰属をどう考えるかという価値判断の問題に区分して考えるべきであるところが、いささか曖昧なままのように思われる。
故米長邦雄永世棋聖のコメントは以下のようであった。
事実認識に関しては、「居飛車穴熊」戦法は、既に昭和43年の名人戦(大山康晴VS升田幸三)の第2戦で升田が用いている。
従って、「元祖」とするべきは、升田幸三であるということである。
つまり、「二人とも元祖と認められる」という判決は間違いであるということだ。
事実関係に関しては検証可能であろうから、ここでは米長さんの指摘を紹介するにとどめたい。
価値認識に関しては、定跡も新手も、個人のものではなく、全ては将棋ファンの財産ではないのか、というのが米長さんの意見であった。
米長さんの意見は、「戦法は一種の公共財」との論旨であろうが、「戦法は知的創作物であって、考案者に関して何らかの権利を認めるべきだ」という主張も当然成り立つものと思う。
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