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2015年9月19日 (土)

安保法制と満州事変/日本の針路(231)

今日未明、違憲等の多くの疑念を残しつつ安保法案が強行採決・可決された。
事実上の審議が終了した咋18日は満州事変の勃発した日であった。
中国側は、九一八事変と呼んでいる。
以下、Wikipediaの記述により経緯を追ってみる。

1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満州鉄道線路上で爆発が起きた。これがいわゆる柳条湖(溝)事件である。
現場は、3年前の張作霖爆殺事件の現場から、わずか数キロの地点である。爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過している。
本事件は、河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った陰謀であったことが戦後のGHQの調査などにより判明している。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、関東軍の虎石台独立守備隊の河本末守中尉指揮の一小隊が爆破を実行した。関東軍は、これを張学良の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。
・・・・・・
日本政府は、事件の翌19日に緊急閣議を開いた。南次郎陸軍大臣はこれを関東軍の自衛行為と強調したが、幣原喜重郎外務大臣(男爵)は関東軍の謀略との疑惑を表明、外交活動による解決を図ろうとした。しかし、21日に林中将の朝鮮軍が独断で越境し満洲に侵攻したため、現地における企業爆破事件であった柳条湖事件が国際的な事変に拡大した。

まったく歴史を学べば、安保法案が成立した事情と満州事変が重なって見えてくる。
Photo_2

「70年談話」から、この辺りの歴史認識を引用する。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
 そして七十年前。日本は、敗戦しました。
内閣総理大臣談話

「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」のであるが、それは「世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進め」たからであると、原因は世界恐慌や経済のブロック化が主であって、日本はそれへの「挑戦者」であるということのようにも読める。
ライターは相当の曲者である。
「満州事変、そして国際連盟からの脱退」という辺りの事情を、あっさりと流されては、再び同じとを繰り返しかねない。

「70年談話」のベースとなった「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」レポートではどうか?

 1929年にアメリカで勃発した大恐慌は世界と日本を大きく変えた。アメリカからの資金の流入に依存していたドイツ経済は崩壊し、ナチスや共産党が台頭した。
 アメリカが高関税政策をとったことは、日本の対米輸出に大打撃を与えた。英仏もブロック経済に進んでいった。日本の中の対英米協調派の影響力は低下していった。日本の中では力で膨張するしかないと考える勢力が力を増した。特に陸軍中堅層は、中国ナショナリズムの満州権益への挑戦と、ソ連の軍事強国としての復活を懸念していた。彼らが力によって満州権益を確保するべく、満州事変を起こしたとき、政党政治や国際協調主義者の中に、これを抑える力は残っていなかった。
・・・・・・
 そのころ、既にイタリアではムッソリーニの独裁が始まっており、ソ連ではスターリンの独裁も確立されていた。ドイツではナチスが議席を伸ばした。もはやリベラル・デモクラシーの時代ではないという観念が広まった。
 国内では全体主義的な強力な政治体制を構築し、世界では、英米のような「持てる国」に対して植民地再分配を要求するという路線が、次第に受け入れられるようになった。
 こうして日本は、満州事変以後、大陸への侵略を拡大し、第一次大戦後の民族自決、戦争違法化、民主化、経済的発展主義という流れから逸脱して、世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた。特に中国では広範な地域で多数の犠牲者を出すことになった。また、軍部は兵士を最小限度の補給も武器もなしに戦場に送り出したうえ、捕虜にとられることを許さず、死に至らしめたことも少なくなかった。広島・長崎・東京大空襲ばかりではなく、日本全国の多数の都市が焼夷弾による空襲で焼け野原と化した。特に、沖縄は、全住民の3分の1が死亡するという凄惨な戦場となった。植民地についても、民族自決の大勢に逆行し、特に1930年代後半から、植民地支配が過酷化した。

「侵略」という言葉については、複数の委員より異議がある旨表明があったと注がついている。
「70年談話」では、かなり曖昧に端折られていることが分かる。
開戦に至る事情を年表としてみると以下のようである。
1926 昭和元  改元
1927 昭和2  昭和金融恐慌。若槻礼次郎内閣→田中義一内閣
1928 昭和3  河本大作大佐による張作霖爆殺事件
1929 昭和4  田中義一内閣→浜口雄幸内閣。NY株式大暴落
1930 昭和5  ロンドン海軍軍縮会議。政友会による統帥権干犯
1931 昭和6  浜口内閣→若槻内閣。満州事変。若槻内閣→犬養毅内閣
1932 昭和7  中国国民政府樹立。満州国成立。5・15事件。犬養内閣→斎藤実内閣
1933 昭和8  国際連盟脱退。関東軍華北侵入
1934 昭和9  帝人事件。斎藤内閣→岡田啓介内閣
1935 昭和10 天皇機関説と国体明徴運動。相沢事件
1936 昭和11 2・26事件。岡田内閣→広田弘毅内閣。日独防共協定
1937 昭和12 広田内閣→(宇垣一成)→林銑十郎内閣→近衛文麿内閣
⇒2012年10月26日 (金):菊田均氏の戦争観と満州事変/満州「国」論(7)

「70年談話」では、世界恐慌下の困難を打開するため、「満州事変」を起こしたかのように読める。
しかし、「日経オンライン」9月17日の『石原莞爾「謀略により機会を作製し軍部主導となり国家を強引す」』によれば、石原は、世界恐慌が起こる以前に満蒙領有計画を立案していた」のである。

国家総力戦になると想定される次期大戦に対処するためは、国家総動員の準備と計画が必須である。それには国家総力戦を支える経済力の強化とともに、資源の自給自足が不可欠だ。だが日本には自給自足のための資源が不足しており、不足資源は近隣の中国に求めざるをえない。また必要な軍需資源は中国のそれをふくめればほぼ自給しうる。そして現に日本の勢力圏となっている満蒙を完全に掌握することは、中国資源確保への橋頭堡となる重要な意味をもつ、と。
 一夕会は、このような永田の構想に強い影響を受けていた。その中核メンバーは、満蒙を完全に掌握するため、満蒙領有を秘かに検討。来るべき国家総力戦にむけ、不足する資源を中国から確保するため、その足がかりとして満蒙の政治的支配権を獲得しようとするものだった。

つまり陸軍が勝手に構想し実行したのである。
このように、軍部が政府のコントロールを超えた力を持つようになったのは「統帥権」という魔語による。
上記年表によれば、統帥権問題が表面化したのは1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮会議がきっかけである。

菊田均『なぜ「戦争」だったのか―統帥権という思想』小沢書店(1998年8月)を参照しよう。
統帥権の独立が明確に強調されるようになったのが、1932(昭和7年)刊行の『統帥参考』においてである。
『統帥参考』は陸軍大学で作られ、秘密裏に刊行された。
統帥権干犯問題以降、政治に対しして軍部が優位に立ち、軍部内部においては統帥を担当する陸軍参謀本部、海軍軍令部の力が強まった。

特定秘密保護法を作り、解釈改憲を実行する安倍政権は、独走する軍部にそっくりである。
保阪正康氏は「軍服を着ている首相」と考えれば分かり易いと言っている。

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