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2015年6月17日 (水)

高尾山古墳の主は卑弥弓呼か?/やまとの謎(103)

沼津市東熊堂というところに「高尾山古墳」という遺跡がある。
現在の国道1号線のすぐ脇である。
Photo
沼津の高尾山古墳 壊さないで

道路計画があって、間もなく取り壊される予定になっている。
以前には辻畑古墳と呼ばれており、私も発症前に発掘現場を見に行ったことがある。
⇒2009年9月20日 (日):沼津市で最古級の古墳を発掘
⇒2009年9月21日 (月):沼津市で最古級の古墳を発掘(続)
⇒2009年10月25日 (日):朱の効能

市議会で取り壊しの予算化が審議されるのを前に、ようやく古墳の保存を求める市民グループ三団体が相次いで発足し、16日古墳の現状保存を求める陳情書を市議会議長宛てに提出した。
1506162
東京新聞6月16日

 高尾山古墳は前方後方墳で、本体の大きさ(墳長)は62メートルと古墳出現期としては屈指の規模を持つ。前方部、後方部ともに31メートルで、他の前方後方墳と比べ前方部がよく発達しているのが特徴という。
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 棺の底と考えられる場所には首から胸の辺りにかけてと、足元辺りに大量の水銀朱がまかれていた。朱は当時極めて貴重で被葬者が社会的、経済的に圧倒的な地位にいたことを示している。
Ws000001 敷いた朱の上に乗るようにして副葬品の青銅鏡1面、鉄槍(やり)2点、鉄鏃(ぞく)32点、やりがんな1点、石製勾(まが)玉1点、などが見つかった。
 鏡は大きさ13.5センチ、後漢時代の中国製で「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいうきぼりしきじゅうたいきょう)」と呼ばれ、破片がバラバラに散らばった状態で見つかった。意図的に壊された「破砕鏡」と考えられている。
 高尾山古墳を巡る最大の問題は古墳がいつ作られたのか、という築造時期だった。研究者の見解が「230年ごろ説」と「250年ごろ説」に分かれたからだ。この20年の違いが意味するところは、日本の古代史を考える上でとても大きいのだ。
 230年ごろの場合、卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳(奈良県桜井市)に代表される本格的な前方後円墳が築造されるより以前に、東海地方で独自に古墳が造られたことになる。250年ごろの場合だと、初期のヤマト政権が作成した設計規格に沿って墳墓が造営されたとの見方が強まる。
 年代は一般的に土器などの副葬品を手掛かりに、これまでに他の古墳で見つかった膨大な量の類似品との前後関係の比較や、発掘した土壌の層、古墳の形など様々な要因を勘案して決定される。
 230年ごろ説は、周溝や墳丘から出土した東海地方西部から持ち込まれたと見られる高坏(つき)や器台といった土器の年代を主な根拠にあげる。
 東海地方の土器などに詳しい愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎・前副センター長は「2世紀にあった大規模な自然災害から立ち直るため、スルガは治水技術などが進んだ東海系の文物を取り入れた。前方後方墳という形から東海系文化を採用。被葬者は2世紀後半から3世紀前半にかけて地域をまとめあげた英雄」との考えだ。
 250年ごろ説は棺の上にあったと推定される土器が250年ごろのもので、副葬品の鉄鏃もその頃より新しいことや、古墳の形(墳長と各部分の長さの比など)が奈良県桜井市にある纒向(まきむく)遺跡の古墳と設計規格に共通性があることなどを挙げる。
 規格がほぼ同じことについて寺沢薫・桜井市纒向学研究センター所長は「古墳にはしっかりとした規格が存在する。ヤマト王権との政治関係を知りうる資料で、前方後円墳と前方後方墳の関係は徳川幕府における譜代大名と外様大名のようなもの。その意味で東日本に前方後方墳が多いのは当然」と解釈する。
 両見解を踏まえ、沼津市教育委員会は昨年、墳丘での大がかりな再調査を実施。主体部を中心に幅1メートル、深さ2メートルの溝を計7本掘った。墳丘内に230年ごろ造られた別の埋葬施設がないかなどを確かめるためだった。
 その結果、約2000点もの土器が見つかったが、(1)大半が230年ごろ製作と見られるため、墳丘が造られたのは230年ごろ(2)主体部から出土した遺物から埋葬は250年ごろ。主体部で230年ごろの土器も出たが、埋葬時に紛れ込んだとみられる(3)墳丘内に別の埋葬施設が存在する可能性は少なくなった――。との見解が発表された。
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 高尾山古墳が造られたころ、現在の富士市田子の浦の辺りは古浮島湾と呼ばれる汽水湖で、現在の沼津市街まで奥深く入り込み、高尾山古墳近くまで舟が進入できたと考えられている。このため陸路とともに河川、海上とあわせ交通の要衝だった。高尾山古墳から北陸、近江、東海西部からの土器が出土するのもこれらが深く関係しているというのが研究者らの一致した見解だ。
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 日本考古学協会(高倉洋彰会長)は今月25日、高尾山古墳について「日本列島における古墳文化形成を解明する上できわめて重要。駿河の古墳時代最初頭の重要遺跡で、歴史・文化的重要性を知る起点」と述べ、道路建設事業の見直しを強く求める会長声明を発表した。同協会は3年前にも同内容の要望書を文化庁、静岡県、沼津市などに提出している。
「古代スルガの王」が出現か 最初期屈指の前方後方墳

沼津市教育委員会の見解のように、墳丘が造られたのは230年ごろで埋葬されたのが250年ごろとすると、魏志倭人伝の卑弥呼の記述と重なってくる。
魏志倭人伝には次のような卑弥呼の死に関する記述がある。

倭女王卑彌呼與狗邪國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
『魏志』倭人伝 全文


卑彌呼以死」は解釈の分かれるところであるが、上記の部分は、一応次のように訓読されている。

倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載・斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説かしむ。塞曹掾史張政等を遣わし、因りて詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為して之を告喩せしむ。卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人。
魏志倭人伝

常識的に解釈すれば、卑弥呼が死んだのは狗奴國の男王卑弥弓呼と、相攻撃する状況と関連して、と考えられる。
それでは、狗奴國はどこに比定され、卑弥弓呼の墓はどこか、ということになる。
それに関して、次のようなコメントがあった。

 静岡文化芸術大の磯田道史教授(歴史学)の話 中国の歴史書「魏志倭人伝」に「女王卑弥呼(ひみこ)、狗奴国(くなこく)の男王卑弥弓呼(ひみここ)ともとより和せず」とあり、狗奴国は東国にあるというのが考古学研究者の説だ。高尾山古墳は二三〇~二五〇年の間に築造と埋葬が行われ、まさに卑弥呼の墓とされる箸墓古墳(奈良県桜井市)と同時代でもある。箸墓古墳と同様に、高尾山古墳は周囲に堀があり、大きさも六十メートル超と東国最大級。卑弥呼のライバルと言うべき東国の王の墓だ。卑弥弓呼の墓の可能性も十分にある。
沼津の高尾山古墳 壊さないで

卑弥弓呼の墓の可能性があるとすれば、まさに歴史的に重要である。
そうすると、邪馬台国畿内説ということになり、九州説を支持してきた私としては具合が悪いが、今後の調査の深化のためにも、取り壊さずにおくべきであろう。

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