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2015年5月 2日 (土)

「倭」から「日本」へ/やまとの謎(100)

自民党の三原じゅん子という参議院議員が、「八紘一宇」という言葉を、日本の建国以来の国是だと言った。
⇒2015年3月18日 (水):確信的「無知」の「無恥」・三原じゅん子/人間の理解(10)

森喜朗元首相が小渕元首相の急死により、首相に就任した直後の2000年5月15日に神道政治連盟国会議員懇談会で言った「日本の国、まさに天皇を中心とする神の国であるぞ」をも上回るアナクロ発言であるが、首相の発言ではない故か、あまり問題にされていないようである。
あるいは、この間に日本社会の空気が変わったのであろうか。
実際、4月23日付の「産経ニュース」として、『【葛城奈海の直球&曲球】「八紘為宇」なる建国の理念 三原じゅん子議員発言を批判する者はまず勉強せよ』という記事が載っている。
⇒2015年4月24日 (金):皇国史観の先走り批判/日本の針路(141)

さて、三原じゅん子氏は、何を以て「日本の建国」と考えたのか?
真意は不明であるが、文脈からして、初代天皇の神武天皇の即位の時としていいだろう。
敗戦までの「紀元節」の根拠である。

以下、Wikipedia-紀元節により、制定の経緯を見てみよう。

明治5年11月15日(1872年12月15日)、明治政府は神武天皇の即位をもって「紀元」と定め(明治5年太政官布告第342号)、同日には「第一月廿九日」(1月29日)を神武天皇即位の相当日として祝日にすることを定めた(明治5年太政官布告第344号)。
1873年(明治6年)10月14日、政府は、新たに神武天皇即位日を定め直し、2月11日を紀元節とした(明治6年太政官布告第344号)。
2月11日という日付は、文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して決定した。

その具体的な計算方法は明らかにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。
相当に根拠の薄い算定ということであろう。

それは措くにしても、神武天皇は、「記紀」に記載されてはいるが、実在したか否かが論争になっている天皇である。
まあ、実在してもしなくても、そういうココロだと言われれば、それまでのことであるが。

しかし私は、母国のルーツについてはもう少し真面目に考えたいと思う。
いにしえの「倭国」がいつ「日本国」になったのか?
つまり「日本」という国号をいつから使い始めたのか?

これについても諸説あるようである。
Wikipedia-日本では、次のように説明されている。

『旧唐書』・『新唐書』が記すように、「日本」国号は、日本列島を東方に見る国、つまり中国大陸からの視点に立った呼称である。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた『日本書紀』の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている。
日本では、大和政権が統一以降に自国を「ヤマト」と称していたようであるが、古くから中国や朝鮮は日本を「倭」と呼んできた。石上神宮の七支刀の銘や、中国の歴史書(『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』など)や、高句麗の広開土王の碑文も、すべて倭、倭国、倭人、倭王、倭賊などと記している。そこで大和の代表者も、外交時には(5世紀の「倭の五王」のように)国書に「倭国王」と記すようになった。
しかし中国との国交が約120年に渡って中絶した後、7世紀初期に再開された時には、『日本書紀』に「東天皇」、『隋書』に「日出処天子」とあり、倭を自称することを避けるようになっていたらしい。中国側では『旧唐書』の「東夷伝」に初めて倭国と日本国とを併記し、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」のように、倭から日本に変わった理由を紹介している。
この7世紀には、遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号と変えたのかは明らかでない。使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後の書物であり、原資料にあった可能性のある「倭」の字を、国号に関する限りすべて「日本」と改めている。それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。結局確かなのは『続日本紀』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。『旧唐書』の「東夷伝」の記事も、この日本側の説明に基づいているようである。

つまり、702年(大宝2年)には、「日本国」という認識があったようである。
しかし、「いつから「倭」に変えて「日本」を国号と変えたのかは明らかでない」というのが一般的なところと言えよう。
三原じゅん子氏や葛城奈美氏の意見は、根拠がない空論というものであろう。

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