銅鐸新発見-分布、使用シーン、消滅の謎/やまとの謎(102)
兵庫県の淡路島にある石材メーカーの工場の砂の中から、弥生時代の祭りに使われたとされる銅鐸7点が見つかった。
銅鐸が見つかったのは、南あわじ市の石材メーカーの工場にある資材置き場だ。
先月8日、社員が市内各地から集めた砂の中に銅鐸のようなものがあることに気付き、地元の教育委員会が調べたところ、今月初めまでに高さ30センチ前後の銅鐸が合わせて7点、見つかりました。
弥生時代に作られた銅鐸は農耕などの際の祭りに使われたとされ、全国でこれまで530点余りが見つかっていますが、1か所でまとまって見つかった数としては、島根県の「加茂岩倉遺跡」などに次いで4番目に多いということです。
見つかった銅鐸のうち1点は、紀元前3世紀から2世紀の弥生時代前期に作られた「菱環鈕式(りょうかんちゅうしき)」という最古の種類とみられ、全国でも11例しか出土していないということです。
また、3組は銅鐸の中に一回り小さい銅鐸を収めた「入れ子」という状態で見つかったほか、内部が確認できた3点からは音を鳴らすための青銅製の「舌(ぜつ)」と呼ばれる部品が残されていたということです。
県教育委員会は「極めて珍しい発見だ」としています。
また、最初に発見した石材メーカーの西田達さんは「まさか砂の中からこれほど貴重なものが見つかるとは夢にも思っていませんでした。大変驚きましたが、うれしいです」と話していました。
淡路島で銅鐸7点 集めた砂の中から発見
私が学校で教わった頃は、銅剣・銅戈・銅戈文化圏VS銅鐸文化圏という図式であった。
見直される銅剣・銅鐸二大文化圏説
とろが出雲を始めとした青銅器発掘の成果により、2大文化圏というのは訂正を迫られているということである。
見直される銅剣・銅鐸二大文化圏説
それでも基本的な傾向は生きているらしい。
しかし、そもそも銅鐸は何に用いられたのであろうか?
Wikipediaの解説を見よう。
現在のところ用途は未だ定かではないが、出土状況や表面に遺された痕跡などから使用方法はある程度明らかにされている。銅鐸はその形状ゆえ、初期の小型の物は鈕の内側に紐などを通して吊るし、舞上面に開けられた穴から木や石、鹿角製の「舌(ぜつ)」を垂らして胴体部分か、あるいは「舌」そのものを揺らし、内部で胴体部分の内面突帯と接触させる事で鳴らされたと考えられる(西洋の鐘と同じ)。
これは鈕の下部及び側面に紐で長期間吊るされたことによる「擦れ」と考えられる痕跡や、内部の突帯に舌が当たった為にできたと思われる凹みの形での損傷が確認される銅鐸があるためである。逆に梵鐘のような、胴体部の外面を叩くことでできたと考えられる痕跡のあるものは出土例がない。なお、銅鐸を「鳴らす」段階にあってはこの内面突帯の摩滅を軽減するため、この内面突帯を2本に増やしたものが銅鐸の発達と共に増えていく。
1世紀末頃には大型化が進み、鈕が薄手の装飾的なものへの変化が見られることから、銅鐸の利用法が、音を出して「聞く」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる」目的へと変化したとする説が支持を集めている。これは「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」への展開と呼ばれ(田中琢)、鈕・鰭外部に耳が付くことが多くなる。また、すでに鳴らすことを放棄した設計であるにも関わらず、長期間「鳴らす」銅鐸の「延命」の工夫であるはずの内面突帯が増加(三重化)されたものもある。これは通常目に触れることのない内面にまで装飾の手が伸びた例と言える。
用途もさることながら、3世紀になると突然造られなくなるという消滅の謎である。
激しい変動が想定されるが、実相はどうだったのか?
淡路島は「古事記」などの国生み神話で、日本列島の中で真っ先に生まれる、いわば「神話の古里」だ。出土場所と推定される松帆地区は島南部の西海岸近く。江戸時代に銅鐸8個が出土したとの伝承があり、1966年と69年にはその南2キロの地点で銅剣14本が見つかった。
まとまって銅鐸が出土した例は、多い順に▽加茂岩倉遺跡(島根県雲南市、96年)39個▽大岩山(滋賀県野洲市、1881年と1962年)24個▽桜ケ丘(神戸市灘区、64年)14個−−で今回はそれに次ぐ。国内で出土した銅鐸は530個以上。時代が進むにつれて、鐘のように鳴らされていた小型の「聞く銅鐸」から、飾られることを意図した大型の「見る銅鐸」へと変化したというのが定説だ。
今回の7個は「聞く銅鐸」の中でも最も古い型式で、少なくとも3個に舌が残っていた。奈良文化財研究所の難波洋三・埋蔵文化財センター長は「舌は下から3分の1あたりが擦り減っている。舌がどう当たっていたかを検証できる」。過去に見つかった銅鐸には、ほとんど舌が残っておらず「祭器としての機能を奪う意味があったのだろうか」と推測。「今回の発見は舌を外さずに埋めたところに地域色を感じさせる」と指摘する。
一方、国内で銅鐸が埋められた時期については、社会が大きく変革した弥生時代中期末に「聞く銅鐸」が、後期末に「見る銅鐸」が一斉に埋められたとする説が有力だ。
ところが今回の7個の「聞く銅鐸」には新しい型式が一つも無く、より早い時代に埋められた可能性もある。「銅鐸が埋められた時期は2段階ではなく、もっと細かく分けられるのではないか」。銅鐸をまとめて埋めることは、集落の再編を意味すると考える森岡秀人・奈良県立橿原考古学研究所共同研究員は「弥生のクニの形成や統合の動きは、今まで考えていたより小刻みに起こっていたのだろう」と話す。
銅鐸を埋めるのは何かの危機を感じたからと考える寺沢薫・桜井市纒向学研究センター(奈良県)所長は「埋められた時期が今まで考えていたより100年近く古い。九州の勢力に対して近畿を中心とする勢力が危機感を強めた時期はもっと早かったのかもしれない」。福永伸哉・大阪大教授は弥生中期末から後期初めに埋められたという従来の見解を崩さず、「古い型式の銅鐸を、何百年も使い込んでいたのではないか」と話す。
銅鐸:淡路島で「第一級品」発見…銅鐸って、なんなのか?
今回の発見が弥生時代像にどう影響するのか?
門外漢ながら、ワクワクする。
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