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2015年5月 3日 (日)

九州王朝は存在したのか/やまとの謎(101)

日本(以外は良く分からないが)の古代史には謎が多すぎる。
それは『古事記』や『日本書紀』の記載内容に虚偽があるのではないか、ということは多くの人の指摘するところである。
⇒2007年9月 6日 (木):偽装の原点?

「日本古代史の謎」に関する書籍も汗牛充棟という感じで出版されている。
Amazonで「日本古代史の謎」と入力すると以下のようなものが出てくる。
・瀧音能之『日本古代史の謎)』 宝島SUGOI文庫(2015年5月)
・恵美嘉樹『最新 日本古代史の謎 』学習研究社 (2011年6月)
日本の歴史研究班編『日本古代史の謎とミステリー』(リイド社歴史PAPERBACK(2008年8月)
・澤田洋太郎『日本古代史の謎を解く―『記・紀』に秘められた真実 』新泉社 (2004年12月)
・・・・・・

類書は多数あるので止めるが、あるサイトに次のような「謎」が列挙されていた。

「神武天皇」、「邪馬台国と卑弥呼」、「邪馬台国とヤマト政権の関係」、「三角縁神獣鏡」、「七支刀の謎」、「高句麗好太王の碑文」、「応神の出自」、「倭の五王と百済武寧王」、「継体と筑紫君磐井」、「任那の滅亡と任那日本府」、「隋書俀国伝と聖徳太子」、「蘇我と物部」、「乙巳の変と大化の改新」、「藤原鎌足の出自」、「天智が長い間、天皇に即位しない謎」、「百済の滅亡と白村江」「若草伽藍と法隆寺の謎」、「筑紫君薩野馬とはだれか」、「壬申の乱の謎」、「天智と天武は実の兄弟か」、「持統と草壁」、「高市皇子と弓削皇子」、「新益京(藤原京)遷都の謎」、「文武天皇の出自」、「日本国号の謎」、「藤原不比等の出自」、「竹取物語(筑紫物語)の謎」、「元明と不改常典」、「平城京遷都と女帝」、「長屋王木簡と長屋王の変」、「藤原広嗣の乱と聖武の遷都」、「橘奈良麻呂の乱」、「光明皇后と藤原仲麻呂」、「称徳と道鏡」、「井上内親王と他戸親王の失脚」、「「桓武の平安京遷都と郊祀の謎」、「京都泉涌寺の位牌の謎」、「古事記と日本書紀の謎」「日本書紀と続日本紀の謎」「九州年号の謎」「4世紀、5世紀の謎」
九州王朝説は嘘っぱちといわれてますが、実際・・・

中国の史書『旧唐書』には、倭国伝と日本国伝との書き分けがなされている。
つまり2つは別国という扱いである。
「倭国」についての『旧唐書』の記載の趣旨は「唐の時代の倭国は昔の志賀島から出土したとされている「漢委奴国王」を授与された後漢時代の倭奴国王であり、倭国王帥升であり、魏の時代には卑弥呼・壱与が、又続いて南北朝時代は倭の五王の朝貢があり、隋に到って俀国王の多利思北孤がいて、ずっと中国と通じてきた」というものである。
倭国と日本国

一方、「日本国」についての記述は、先ず、「日本国は倭国の別種なり」とし、次のように説明している。

1、その国日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす。
2、或いは云う、倭国自らその名の雅ならざるを悪に、改めて日本となすと。
3、或いは云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。
~~
「その国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸な大海至り、東界北界は大山ありて限りをなし山外は即ち毛人の国なりと」
倭国と日本国 

これらを併せて、下記のような図が提示されている。
Photo_4
倭国と日本国 

どうやら九州王朝説の評価がカギのようである。
⇒2015年4月27日 (月):大宰府と太宰府/「同じ」と「違う」(85)
状況証拠は九州王朝説に理があるように見えるが・・・。

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コメント

九州王朝が無かったとするには、文献的には中国史書に登場する倭国王の名前・性別・在位年数・事績等の対応が記紀にあるのか?考古学的に近畿から対応するものがあるのか?地理的・地勢学的に合っているのかを考えた場合、私はハードルが高いなと思います。太宰府の例がありましたが、紫辰殿・大(内)裏・大(内)裏丘?朱雀門や条坊制の跡、周囲を囲む山城群等をヤマトが造ったとするとあまりにも記紀が説明しなさすぎじゃないでしょうか。挙げればきりはないですが。

投稿: 匿名 | 2015年5月 7日 (木) 11時52分

おっしゃる通りです。私も「無かった」というには、余りにも状況証拠があり過ぎると思います。しかし、史学界では認められていない、というよりも無視されているようです。いつかは変わるのかなとも思いますが。

投稿: 夢幻亭 | 2015年5月 9日 (土) 18時40分

話が変わりますが、気になる中国史書があります。梁書の記述には倭国の東には扶桑国があり、当時その国を治めていたのが乙祁(イツキ?オケ?)という王。戦争や税の徴収が無い等、記述をみる限りひょっとして仁賢天皇や顕宗天皇の事ではないか?と思うんですよ。梁書は正確性に欠けていて史料評価が低いと言われますが、この扶桑国こそ真のヤマトではと私は思います。寄り道になりました。

投稿: 匿名 | 2015年5月10日 (日) 09時24分

『梁書』については良く知りませんが、平安時代の私撰史書に『扶桑略記』があり、その辺りがカギになるかも知れないですね。

投稿: 夢幻亭 | 2015年5月10日 (日) 10時59分

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